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【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第117回【クリトン】まとめ回 前編

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注意

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。

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前回のリンク

kimniy8.hatenablog.com

前回は、対話篇『ソクラテスの弁明』のまとめを行っていきました。
今回は、その続きとなる対話篇『クリトン』のまとめを行っていきます。

脱獄の提案

対話篇『クリトン』ですが、対話相手はソクラテスの仲の良い友だちであり共にアレテーの研究を行ってきたクリトンです。
ソクラテスの弁明の最後で、ソクラテスは死刑判決を下されることになりましたが、判決直後に処刑されたわけではなく、少し勾留された後に処刑されることになります。
この対話編は、その最後の1日の話です。

ソクラテスとの最後の面会ということで、クリトンは思い出話や真理やアレテーについての話をするのかと思いきや、ソクラテスに対して脱獄の提案を行います。
何故、その様な提案を行ったのかというと、脱獄が簡単にできる環境にあったからです。
当時のギリシャは看守に賄賂を渡すだけで牢屋の鍵を開けてくれて死刑囚に面会させてくれる程にセキュリティが甘いですし、更に多くの金を渡すことで脱獄することすら可能な状態でした。

またソクラテスは、殺人などの重大な犯罪を犯したわけではなく、人を不愉快にさせたというだけで訴えられて有罪になっています。
この判決は、罪に対して刑が重すぎるため、市民の大半がソクラテスに対して同情的で、仮に逃げたとしても大目に見てくれる様な状態でした。
クリトンは、アテナイの外側にも親友が多いらしく、その中にはソクラテスのファンも多いため、その人脈を使えば国外で普通の生活もできる確信もあったので、脱獄を提案しました。

ですが普通に脱獄を提案したところで、秩序を重んじるソクラテスはこの提案には乗ってきません。

懇願するクリトン

そこでクリトンは、『ソクラテスを脱獄させなければ、私達が君の支持者から責められてしまうから、一緒に逃げて欲しい。』と懇願します。
僅かな金を支払うだけで脱獄ができるという状況でソクラテスを見殺しにすれば、自分たちが彼の支持者から責め立てられるので、自分たちを助けるためにも信念を曲げて逃げて欲しいと伝えたわけです。

しかしソクラテスは、民衆の意見には耳を傾けるほどの価値があるのか?と取り合いません。
というのも、ソクラテスの態度が気に入らないと言うだけで、彼に対して『死ね』と言ったのは市民です。
それが、いざ処刑が行われると『何故見殺しにしたのか!』と意見を180度変えて、一番悩んでいるであろう関係者に罵声を浴びせる様な者達の意見に、価値があるとは思えないからです。

次にクリトンは、ソクラテスの子供の話題を出し『親には、子供がおとなになるまで成長を見守る義務がある。その義務を放棄して、先に死んでしまうのか?』といって逃げるように勧めます。
クリトンが、子供を持ち出したり仲間が非難されるというのを理由に脱獄を勧めるのは、ソクラテスに対して命を大切にしろといったところで、聞く耳を持たないからです。
なぜならソクラテスは、死というものを恐ろしいものだとは捉えていないからです。

『死』とは

これまでにも語ってきたように、ソクラテスは自分の知らないものに対しては知らないことを自覚し、知ったかぶりはしない性格をしています。
それは当然、『死』という事柄にも当てはまります。『死』というのは、みんなが恐れていて、怖いものだと決めつけていますが、本当に怖いものなのか、絶望的なものなのかを知るものはいません。
なぜなら、一度死んでから蘇った人はいないからです。

生きている人間は全員、『死』というのを体験していないわけですから、『死』というものについて語るとき、人は体験やそれに伴う知識ではなく、想像をふくらませることでしか語られません。
もしかすると、あの世は本当に神話で語られているような神々が支配する場所で、死んだ人間はそこの住人になっているかも知れないし、あの世なんて世界はなく、死ねば無になるだけかも知れないし、想像すらできないことになるかもしれない。
仮にハデスが統治するあの世がある場合、すでに亡くなっている賢者たちとも討論をすることができる素晴らしい場所かもしれないし、無になるというのは、夢すら観ない熟睡している状態と同じ状態かも知れない。

この様に、死ぬという事が良いのもである可能性すらある状態で、保守的な考えから変化は悪いものだと決めつけて恐怖するというのは、哲学者の姿勢ではありません。

その事をよく理解しているクリトンは、『ソクラテスが意見を変えて脱獄してくれないと、関係者みんなが困るんだぞ。』とソクラテス自身ではなく周りに迷惑がかかると主張し、脱獄をさせようと考えたわけです。
ですが当然、ソクラテスはこの様な意見には耳を貸しません。 子供に関しては裁判が行われた際に、市民たちに対して子供が道を踏み外さないように見守って欲しいと頼んであります。
クリトンたちが責められるという話は、繰り返しになりますが、市民たちの意見は耳を傾けなければならないほど重要な意見ではないと反論します。

民衆の意見に価値はあるのか

しかし、これではクリトンは納得しそうにないため、彼を納得させるためにも、脱獄すべきか、それとも処刑されるべきかというテーマで討論を行うことにします。
まず、先程から主張されている『民衆の意見は、耳を貸すほどの価値があるのか』というところから掘り下げます。

民衆は、ソクラテスに対してムカついたから死ねと言い、実際に処刑が行われれば、その同じ口で『何故、助けなかったんだ?』と恥ずかしげもなく言ってしまうような人たちです。
この様な彼らの行動は、様々なところで見ることが出来ます。
例えばスポーツ観戦を例に出せば、観客である市民は選手のこともスポーツのことに関しても、選手以上に知識があるわけではないのに、観客席から好き勝手なことを言ます。

観客たちは、選手が結果を残せなければ『練習が足りないからだ!』と指摘し、練習をし過ぎて体調を壊せば、『練習のしすぎだ!適度に休め』と後から文句を言ってきます。
また、観客たちはそれぞれが違うことを言ったりもします。 この練習方法が良いだとか、それでは効率が悪いとか、それぞれの人が無責任に好き勝手な事を言い放ちます。
市民の意見には耳を傾けるほうが良いと仮定した場合、選手は、すべての観客の意見を掬い上げて聞くべきなんでしょうか。

それとも、自分よりも体作りに詳しい人や、その競技を長年やっている先輩や人材育成を行ってきたコーチといった、知識や技術、ノウハウを持つ人に意見を求めるべきなんでしょうか。
これは、考えるまでもなく後者の意見を聞くべきであるはずです。 体作り、競技、競技に使う道具などの何らかの専門家の意見であれば、自分の成長に役立てることは出来ます。
しかし、深く考えることもなく、その時々の感情で好き勝手なことを言っている民衆の意見に耳を貸したところで、それを役立てることは出来ないはずです。

これは、運動競技の話だけに限らず、正義や秩序、アレテーについても同じことが言えます。
普段から正義や秩序について真剣に向き合っていない人間のいうことを聞いても、大した役には立たないでしょう。このソクラテスの主張に対し、クリトンは反論せずに納得します。
ここで、大衆の意見は信用できないとう結論が出たわけですが、信用できないからといって、大衆の意見が確実に間違っているとは断言できません。偶然にも正解している可能性があるからです。

参考文献