だぶるばいせっぷす 新館

ホワイトカラーではないブルーカラーからの視点

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第130回【饗宴】まとめ回(1) 後編

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注意

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。

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パウサニアスの主張

次に、パウサニアスの主張ですが、彼は、エロスは1柱ではなく2柱いると主張します。この両者の違いは出生の違いです。
何故、同じ神で出生の違いがあるのかというと、神話を語り継ぐ者によって、その内容が少しずつ変わっていくからです。
神話は今のキリスト教の聖書のように、本に書かれていて、それが信者のもとに配られて広まっているわけではありません。吟遊自身が音楽に乗せて詩として広めたものです。

吟遊詩人の仕事は布教活動ではなく、音楽を奏でて歌を歌うことを生業にしていた人気商売だと思われますので、神話をより魅力的にして、自分の作品を聞いてもらいたいという思いから、今で言う二次創作が活発だったのでしょう。
その為、同じ神でも出生の違うものがギリシャ神話やローマ神話などでは多く登場します。
エロスや、それと同一視されているアフロディーテもこれに当てはまり、生まれ方が2種類存在します。1つ目は、パイドロスが先程主張した、ウラヌスから分離した説です。こちらの方を、天のアフロディーテと呼びます。

もう1つは、ゼウスとディオネの間に生まれた娘であるアフロディーテです。ゼウスは、有名な神様なのでご存じの方も多いと思いますがディオネは初めて聞かれた方も多いと思うので説明すると…
まずこの神様も、出生のエピソードが1つではなかったりします。一説ではウラヌスとガイアとの間に生まれた巨人族の娘と言われていたり、オケアヌスという海の神様の娘と言われている存在です。
このディオネは、ゼウスと結婚しない場合は奈落の神であるタルタロスと結婚するという説もあります。ゼウス自身も、浮気グセが酷い神様ですし、その神との間に生まれたアフロディーテということで、俗のアフロディーテとします。

天と俗のアフロディーテ

この、天と俗のアフロディーテですが、両者が等しく素晴らしいわけではなく、素晴らしいのは天のアフロディーテのみとします。
この理由としては、天のアフロディーテは男性神のウラヌスの1部分が変化したものですが、俗のアフロディーテにはゼウスとディオネという男女の神の子供として誕生しているため、男女の性質が含まれていることになります。
パウサニアスは、これが問題だと主張します。 何故、男性神の一部が変化したものは尊いが、男女の性質を併せ持つものはそうでもないのかというと、愛情を概念として考える場合に、不純物が混じり込んでしまうからでしょう。

不純物とは、尊敬に値しない欲望のことです。 例えば、相手を尊敬してもいないのに、相手と手っ取り早く性行為をしたいからとか、子供が欲しいからという理由だけで結婚する人たちは一定数、存在します。
こういう人たちは、例えば、単に性処理をしたいと思うのであれば、できるだけ騙しやすい頭の悪い人を捕まえようと思うでしょうし、子供だけが欲しい人は、将来を考えるなら、相手の持つ家柄や資産の有無について考えるでしょう。
そういう人生や欲望を否定するつもりはないですが、その行為と、今回議題に上がっている、称えるべき愛情であるエロスとを分けるために、称えるべきではないエロスの象徴として、俗のアフロディーテという概念を生み出したのでしょう。

この対話編では、男女間の恋愛では俗のアフロディーテの要素が強く、同性愛では天のアフロディーテの要素が強いと説明していますが、これは当時の文化も影響しているでしょうし、わかり易さのために極端な表現をしている可能性もあります。
その為、この話は男女間の恋愛だから否定されて、男性同士の恋愛だから尊いというわけでは無いという点に注意してください。
欲望には、称えるべき欲望と軽蔑される欲望があり、称えられるべき欲望とは、アレテーを宿したものだけで、低俗なものを目的とした恋愛は称えるにに値しないということです。

相手のどこが好きなのか

では、どの様なエロスが称えられて、どの様なエロスが軽蔑されるのか。例え話で説明すると…
例えば、好きになった相手の両親に挨拶に行く場合で考えてみると、親に『何故、この子を選んだんだ?』と聞かれた際に、実家が裕福で金を持ってそうだったからとか、顔が好みのタイプだったからとか…
頭が悪そうで、すぐに騙せそうだったからとか、抱き心地が良かったからなんて答えたら、相手の親に張り倒されますよね。

一方で、知的で物の考え方が素敵だとか、欲望を抑える節制を備えているとか、曲がったことが嫌いで、不正があれば相手が誰であろうと、勇気を持ってそれを正すために立ち向かっていけるところを尊敬していると言ったら、どうでしょうか。
この様な、アレテーに属する知性や節制、勇気や正義といった部分を持っていて、尊敬できるから一緒にいたいといった場合は、相手の親も悪い気はしないでしょうし、むしろ応援しようと思うでしょう。
この両者は、欲しい物を手に入れたいという点でいえば、その気持ちは共通していますが、手に入れたいと思っている目的の属性の違いによって、相手に与える印象が変わっています。

この様に、エロスには称えるべきものと軽蔑すべきものの2種類あるというのが、パウサニアスの主張です。

エリュクシマコスの主張

次に、エリュクシマコスの主張ですが、彼は職業が医者なので、その立場や考え方をエロスを考える際のベースにしています。
彼はまず、人間の体の状態を二種類に分けるところから始めます。一つは健康な状態で、もう一つは病気の状態です。
この二種類の状態は相反する状態と考えることも出来ますが、この相反するそれぞれが、エロスである欲求を発して意識に訴えかけてきます。

例えば、水が飲みたいとか食べ物を食べたい。睡眠を取りたいであったり体を動かしたいといった感じで、欲求を出し、人の意識がその欲求を聞き入れる形で人は行動を取ります。
しかしその欲求は、もとを辿れば、健康的な部分が出している欲求と、病気の部分が出している欲求に分かれているということです。
そして当然ですが、耳を傾けなければならない欲求は、健康的な部分から発せられている欲求だけで、病気の部分から発せられている欲求は無視すべきです。

例えば、風を引いて食事を取りたくないという場合、その体の欲求を素直に聞いてご飯を食べずにいれば、体力はどんどん削られていくことでしょう。
アルコール依存症の人が、体の欲求に応える形でアルコールを飲み続ければ、症状はどんどん悪化していくでしょう。

エリュクシマコスに言わせれば、医者という職業の本質は、患者の欲求が健康な部分から出ているのか、病気の部分から出ているのかを見極めることだと主張します。
また優秀な医者は、体のそれぞれの部分が発する欲求をぶつけて消し去ったり、別の方向へと変えたり、欲求がないところに欲求を発生させることが出来ると言います。
これは簡単に言えば、風邪を引いた時に解熱剤を処方して、食欲が増進されるように対処するといった感じでしょうか。

エロスは調和をもたらすもの

またエリュクシマコスは、これらの本質的な部分は、医者だけが備えた能力ではないとし、ヘラクレイトスの主張を引用します。
ヘラクレイトスの主張とは、『一なるものは、自分自身と合致していないのに、自分自身と調和している。それはまるで、竪琴が生み出す調和のようなもの。』という主張です。
この言葉の解釈ですが、おそらくは、本質的に同じものが別々の表現をすることで、別物と認識されている場合、本質的には同じものなのだから、組み合わせることで調和をもたらすことが出来るということでしょう。

対話篇に登場するたとえ話で説明をすると、竪琴を奏でた時に生まれる音は、音それぞれを分割して捉えると、高い音や低い音といった具合に、正反対の音色が存在します。
しかし、大本を辿ると、1つの竪琴から奏でられている音なので、演奏技術が高いものが奏でれば、相反する音も和音となって、エロスが宿る美しい音色を奏でるということでしょう。
ここで発生したエロスは、パウサニアスが主張したように、天と俗のアフロディーテというように、2つに分かれることはありません。

何故かといえば、エロスはパウサニアスの主張するように、最終到着地点としての目標が明確にあり、その目標に向かうエネルギーとして欲望という名のエロスが生まれるわけではないからです。
優秀な医者が患者を治すように、優れた演奏者が音楽を奏でるように、手段を実行しているその瞬間にエロスは表れるのであって、目標に依存するものではないということです。
目標に依存しないため、目標の善悪によって、エロスが天と俗の2つの属性に別れることもありません。

エロスは学問

ですがエリュクシマコスは、パウサニアスの主張を完全には否定せず、エロス自体は手段に宿るものだけれども、技術を伴っていないものが手段を実行した場合、結果は2通りに別れると言います。
例えば、医者が診察して手術をしたが、医者の腕が未熟であったために、病気を治せなかったり、誤診でそもそも必要がないのに手術をしてしまったとか、それによって患者の様態を悪化させてしまうという具合にです。
こうして考えると、エロスを宿すためには勉強をしたり技術を磨いたりと、その分野に対する研究が欠かせないことになります。

つまり、エロスを体現する為には、この世界のことを探求して解き明かしていく必要がある。 言い換えるのなら、この世を科学的に解明し、物事の善し悪しを判断できる技術を身に着けなければならないということになります。
その様に考えると、エロスはこの世に科学技術を生み出し、現状の人間社会をも生み出した概念であると言えることになり、エロスは尊いと主張します。

次は、アリストファネスの主張なのですが、それはまた次回に話していこうと思います。

参考文献