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【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第121回【饗宴】エロスは手段と目的のどちらに宿るのか 後編

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目次

注意

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。

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エロスは手段と目的のどちらに宿るのか

この、優れた技術を持つものによって発生するエロスですが、前にパウサニアスが主張した様に、天のアフロディーテと俗のアフロディーテの2種類に分かれるといったことはありません。
パウサニアスの主張では、アレテーを求める感情がエロスとなり、互いが惹かれ合う現象自体にはエロスが宿ることはなく、その行為の目的によって二種類のエロスのどちらかが宿ることになります。
しかしエリュクシマコスの主張では、目的ではなく手段が行われている現場においてエロスが宿ると主張します。 つまり、調和のとれた和音が奏でられたときや、恋愛が行われている状態そのものにエロスが宿るということです。

では、パウサニアスが主張した2種類のエロス説というのは全くの出鱈目なのかというと、そうではなく、エリュクシマコスは、エロスの結果として2種類の結末に分かれるといいます。
彼は、技術を持つものが、良い欲求同士を組み合わせることで調和を図ると言いましたが、技術のないものが調和をもたらそうとした場合は悪い結末となってしまい、結果としてはパウサニアスの主張通り、善悪に分かれることになります。
これは、目的が良いから手段が良くなるのか、手段が良いから目的が良くなるのかという話なのですが、卵か鶏かどちらが先かという話になる上、主観的な話も絡んでくるため、相当見極めづらいです。

これに関しては、エリュクシマコスも、専門知識を持つものでなければ識別は難しいといっています。
何故、この様な観点が出てきたのかというと、世の中には、目的の善悪がわからない事柄というのがたくさんあるからでしょう。

人類が存在する目的は不明

ソクラテスの孫弟子に当たるアリストテレスは、全ての存在は、まず目的があって生まれると主張していますが、現に存在はしているけれども、目的がわからないものもたくさん有ります。

例えば、人間がそれに当たります。私自身も人間ですし、このコンテンツを聞かれているリスナーの方々も人間だと思います。人間というのは当然のように存在していますが、では、その人間が生まれた目的は何でしょう。
アリストテレスの言う通り、全てのものは目的を持って生み出されたとするのなら、人間にも誕生した目的があるはずです。その目的を達成することが幸福であるとするのなら、目的を達成するために必要なものがアレテーであるはずです。
しかし、ソクラテスを含む人類は、アレテーがどのようなものかを解明できていないですし、どこに向かえば絶対的な幸福が手に入るのかもわかっていません。

パウサニアスの主張するように、目標の善悪が手段の善悪につながると仮定した場合は、まず最初に、ゴールである目標を明確にして、その善悪を判断しなければなりません。
しかし、目標そのものがわからない場合は、当然、目標の善悪の判断ができないわけですから、人間が起こす行動が良いものなのか悪いものなのかも判断できなくなります。
こうなってしまうと人が取る行動に善悪の基準がなくなるため、手段である行動の方に着目して、良いと思われる手段を積み重ねることで、最終的に正解であろう地点へ辿り着くことを目的にするといった考え方もできます。

では、行動そのものの善悪をどの様に見極めるのかというと、それは誰でも見極められるわけではなく、それが出来るようになには見極めるための技術が必要になります。
この技術は、それぞれのシチュエーションに合わせた専門的な技術となります。

欲求の善悪の見極め

先程は、医者の専門技術の例え話を出しましたが、違った例で説明してみましょう。
音楽が奏でられている宴会の場があったとします。 宴会に参加している人は、その場を楽しもうとそれぞれの欲求をだします。
この際、それぞれの参加者が出す欲求であるエロスは、全てが善なるものではなく、悪いものも含まれているので、良い行動を取るためには良い欲求に従わなければならないということです。

この事を、状況を具体的に想像しながら考えてみましょう。 音楽のコンサートではなく宴会の場ということで、そこに集まった人たちは音楽を聞くことだけが目的ではなく、参加者たちと談笑する目的で参加している者も多いでしょう。
ここで、その場の全体的な雰囲気を尊重しながら会話をする人は、流れている音楽を聞けるような大きさの声で話しますし、流れてきた音楽をネタにして知的な会話をしたりするでしょう。
この様に、場をわきまえるという技術を持つものは、『音楽を聞きたい』とか『話をしたい』といったそれぞれの欲求を上手く引き合わせ、宴会自体を調和の取れた楽しめるものへと変えていきます。

また、この流れは、その人と会話をしている人達だけに収まらず、会場全体へと波及していき、そのイベント全体が良いものへと変わっていきます。
逆に、場をわきまえる技術がない人が幅を利かせた場合、話す話題も選べず、自分の欲求に素直に従い、例えば大声で下ネタを話し、一部の人達だけで盛り上がってしまう可能性もあるでしょう。
この様なイベントに参加した他の参加者は、聞きたくもない下ネタを聞かされ、音楽も聞けず、楽しめないまま帰ることになります。

これは、宴会で出される料理などにも当てはまります。
例えば、料理人が宴会場の料理を用意する際に、調和を考えずに『客に受けそうだ』という理由だけで偏ったメニュー構成にして、客が栄養の偏った料理を度を越して食べ過ぎれば、客は病気になってしまうこともあるでしょう。
一方で、料理人がバランスの取れたメニュー構成にし、料理を出すタイミングを調整することで客の欲求を適切にコントロールすることができれば、客は料理に満足するだけでなく、健康まで手に入れることができます。

エロスは欲求の調和を行うもの

この様に、エロスを目的と捉えるのではなく手段と捉え、手段であるエロスを専門技術を使うことで良い方向へと導いてやれば、結果として人は良い方向へと向かって行きます。
またこの二種類のエロスと調和の話は、人間が生み出した文化だけに限らず、自然にも適用することが出来ます。

例えば、自然には四季の移り変わりというものがありますが、これも調和が取れていなければなりません。寒い時期と暖かい時期、そしてそれらが混じり合う季節が調和の取れた形で巡っているから、自然というものは成り立っています。
これが、ずっと寒い状態が続いたり、反対に熱い状態が続いてしまうと、調和は崩れて生態系に大きな被害が出てしまうでしょう。
一時期、この地球の支配者とされていた恐竜は、隕石衝突による気候変動によって絶滅してしまったと言われていますが、外的要因によって気候の調和が崩れてしまうことで、今の生態系は致命的な打撃を受けてしまうことでしょう。

この気候の移り変わりを研究するために必要なのが天文学となります。
現代では、天文学は別の意味を指すのかもしれませんが、倍率の高い天体望遠鏡もない古代ギリシャでは、天文学は暦を知るために活用されていたので、季節の移り変わりの研究=天文学になるのでしょう。
この天文学を、季節同士のエロスの調和を研究する学問と捉えれば、天文学は四季に関するエロスを研究する学問と解釈することも出来ます。

この様に、エロスを欲求同士の調和をとるものだと解釈すれば、あらゆるものにエロスが関係してきます。
例えば、あらゆる宗教的儀式は、神と人間とがお互いの意思を伝え合うための行為となりますが、その行為そのものが、エロスを誘導させて調和を取ろうとする行為にほかなりません。
仮に、神の存在を無視して、自分の欲求だけを優先して神の意にそぐわない行為を平然と行えば、その行動は調和を乱す行為となり、俗のエロスの行為となります。

まとめると、エロスとはあらゆるものが持つ欲求を、専門技術や知識で調整し、欲求同士を適切に誘導することとなります。
調和の取れた正しいエロスは、人間を正しい方向に導いてくれる一方で、自分勝手な欲望を優先させて調和を乱すエロスは俗のエロスとなります。
調和の取れたエロスが私達を幸福へと導いてくれるエロスで、これがあってこそ、私達人間は互いに友愛の絆を結ぶことができます。

これでエリュクシマコスの主張が終わり、次はアリストファネスの主張が始まるのですが、それはまた次回に話していきます。

参考文献