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【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第121回【饗宴】エロスは手段と目的のどちらに宿るのか 前編

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目次

注意

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。

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エリュクシマコスの主張

今回も前回までと同じ様に、プラトンが書いた対話篇『饗宴』を読み解いていきます
これまでに、パイドロスとパウサニアスの主張を聞いてきましたが、今回は、エリュクシマコスの主張です。
彼の職業は医者なので、その観点からエロスについて考えていきます。

最初に注意としていっておくと、私自身は医者ではないため、医学の知識はありません。この対話篇のエリュクシマコスの主張は、医者といった専門知識を持つ人達が考えるエロスの一般論を、彼の口を通して話させるという手法をとっています。
その為、当時の医学の考え方が登場しますが、その考え方が古代ギリシャ独特の考え方なのか、今現在でも通用するような考え方なのかというのは、私には判断ができません。
ですので、できるだけ内容を変えず、対話篇の内容に沿った形で紹介していますので、予めご了承ください

2種類の欲求

早速本題に入ると、まず人間の体について考えると、大きく分けて2種類に分類することが出来ます。 それは、健康な部分と病気の部分です。
この二種類は当然のように違った性質を持ちますが、それぞれが同じ様に『欲求』をしてきます。エリュクシマコスは、この欲求をエロスと仮定します。
ここでいう欲求であるエロスは、性的欲求というよりも『水が欲しい』とか『食事を取りたくない』といった、体が体調を通して求めてくるものだと認識してください。

健康な部分と病気の部分のそれぞれが、意識に対して別々の欲求をぶつけてくるわけですが、エリュクシマコスによれば、耳を傾けるべきなのは健康な部分から発せられる欲求だけで、病気の部分からの欲求には耳を貸してはいけないと主張します。
例えば飲食で考えてみましょう。 カロリーを使いすぎて備蓄していたエネルギーが減ったので飯が食べたいという欲求は、健康的な欲求だと考えられるので、それには応えるべきです。
しかし、アルコール依存症の人間が、酔いが覚めてきたから追加で酒をくれと要求してきた場合、その欲求には応えるべきではないでしょう。

医者という職業は、患者の体の反応を見ながら対応していくのが仕事で、体が今現在、何を欲しているのかを適切に判断する能力が必要になります。
患者の体が健康体になろうと欲しているものを与え、病気の部分の欲求は無視する。この判断ができるか出来ないかで、医者が優秀かどうかが決まります。
更に優秀な医者は、患者の体に働きかけて、体の欲求を消し去ったり別の方向へと変えたり、また、欲求がないところに欲求を発生させることが出来たりします。

例えば、風を引いて食欲が無い場合。 そのまま体の欲求に応えて食事を取らなければ、体は衰弱して病気は更に悪化する可能性もあります。
しかし優秀な医者は、適切な薬を処方して食欲を回復させて、患者が自ら食事を取りたいと思う状況を作り出して、病気の状態を健康体へと改善させることが出来ます。
体中に存在する相対する部分、例えば、温かい部分と冷たい部分。硬い所と柔らかい所、乾いた部分と湿った部分など、正反対の性質を持つ部分に働きかけて、互いが互いを求め合うようにエロスを操作して、体内に調和をもたらすことができるといいます。

万物流転

また、これらのことは医術に限定されず、運動や農業、音楽といった他の分野についても当てはまると主張し、ヘラクレイトスが唱えた万物流転という説の一文を引用します。
万物流転というのは、随分前に一度取り扱った事があるのですが、最近聞き始めた方や時間が空きすぎていて忘れている方のためにもう一度説明しておくと、世の中のもの全ては移り変わっていて、同じものはないと言った感じの理論です。
少し詳しく説明すると、論文などで説得力をもたせる形で論理的に説明しようと思うと、AはBであるといった感じで理論を順番に説明していくことが多いですが…

そもそもAとBは同じものと言えるのかという話です。 Aという事柄とBという事柄は別のものだから別の名称がついているわけで…
ある特定の枠組みで切り取ると同じものと言えるかもしれないが、もっと大きな枠組みで考えた場合、それらは同じものなのかということです。
例えば、自然の一部としてある川や山は、地球の歴史というものすごく長い年月で見れば、その姿形は絶えず変化しているため、それらを通して一つの名詞として名前をつけて、同じものとすることは出来ません。

これは人間という一個人についても同じです。私、『木村』という個人は、今現在と30年前の時点とで比べれば、外見や備えた知識、能力、考え方、全てにおいて違います。
これを『同じ個体なんだから、全く同じものだ』とすると、違和感が出てきます。では、期間を短くすれば同一のものになるのかと言えば、そんなことはないでしょう。
人間は日々、食事を食べて新陳代謝をすることで体の構成要素を入れ替えていっていますし、僅かな時間であっても成長や老化はあるでしょう。

また、常に新たなこと知ったり学んだりし、それを元に考察したりして、毎日、僅ずつかではありながら考え方も変えるわけですから、同一のものにはなりません。
これらの事を踏まえて、万物流転はよく、『同じ川に二度と足を漬けることは出来ない。』という例え話で説明されます。
これは、一度川に足をつけてから川から出てきて、もう一度、同じ川に入ったとしても、その川の構成要素は変わっているので厳密に言えば同じ川ではないということです。

調和

今回取り扱う対話篇では、先ほど紹介した部分とは別の部分が引用されていて、その内容というのが
『一なるものは、自分自身と合致していないのに、自分自身と調和している。ソレはまるで、弓や竪琴が生み出す調和のようなものだ。』
というものです。

この部分の解釈ですが… 私はヘラクレイトスの万物流転を専門に取り扱った本を読んでいないため、詳しい解釈についてはわかりません。
本を読んでいない理由としては、単純に値段が高いことと、ネットなどでそれほど取り上げられていないからです。その為、この引用部分については書かれている事をそのまま解釈するしか無いのですが…
おそらく、万物流転によって全てのものは変化してしまうけれども、本来同一だった者同士というのは、別のものになったとしても調和が取れているということなんでしょう。

対話篇に書かれている例を挙げて説明すると、竪琴が奏でる高音と低音は、音の高さという点で言えば正反対の性質を持つため、同じ竪琴から奏でられた音だとしても違う音だと考えられます。
しかし、その正反対の別々の音を、竪琴を奏でる技術に秀でたものが合わせることによって、調和した和音にすることが出来ます。
これは、テンポの早い遅いも同じで、正反対のものを高い技術で持って一致させることによって、調和が生まれたりします。

全く正反対のものを混ぜ合わせて、それが心地よいものへと変化する場合、その調和にはエロスが宿っているため、美しいものになります。
これは、本来なら正反対であるはずのものが、優れた技術によって互いに求め合うような状況にすることが出来ているので、エロスを宿らせることが出来たということでしょう。。
先程の例で言えば、高い音、低い音が演奏者の優れた技術によって、それぞれ正反対の音を欲求、つまりエロスを発揮させることで互いに引き合わせて調和させ、結果、美しい和音になったということです。


参考文献