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【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第125回【饗宴】『美しさ』を求める者は醜いのか 後編

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目次

注意

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。

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今回も、対話篇『饗宴』の読み解きを行っていきます。

定義を確かにする

前回までの放送では、アガトンが開催した饗宴で行われた『誰が一番エロスを称えることが出来るのか』というゲームで、ソクラテスより前に行われた5人の主張を簡単に紹介しました。
その主張を聞いたソクラテスは、最後に行われたアガトンの主張の1部分には同意しつつも、納得できない点を挙げました。

ソクラテスが同意した部分としては、エロスそのものの定義をしっかりとしようという点です。
過去の対話編でもそうですが、ソクラテスはテーマとなっているものについての定義をしっかりと定めようとします。
その理由としては、テーマの定義がしっかりと出来ていないと、途中で論点をずらされたりするからです。

ソクラテスのこれまでの討論の相手というのはソフィスト達でしたが、彼らは論理学を使って相手を言いくるめる詭弁家と言われていました。
詭弁家は、真理に到達するために討論を行うのではなく、目先の討論に勝ち『ハイ!論破』と言いたいだけで討論をしているため、揚げ足取りやゴールずらしなどをスキあらば行おうとします。
その為ソクラテスは、彼らと話す際にはルールを決め、テーマや用語についての定義を明確にしていました。

手に入れたものを欲する人はいるのか

今回のゲームではアガトンも、メインで取り扱っているエロスに対する定義をしっかりとしなければならないと主張していたため、その部分には賛成をしました。しかしソクラテスは、アガトンが行ったエロスの定義には納得ができませんでした。
アガトンが行ったエロスの定義をもう一度簡単に振り返ると、エロスは正義であり節制と勇気を従えて、エロスを抱くものは知性を宿すということで、最高善であるアレテーと同じ様な概念であるとしました。
そして、そのエロスは美しいものを求めているため、この世界は美しくなろうとしている。 故に、エロスは偉大だとしました。

これに対してソクラテスは、エロスは単独で存在できる概念では無く、人間の感情に依存する概念だとした上で、『人は、既に所有しているものを所有したいと思うのだろうか。』と疑問を投げかけます。
エロスは人間の欲望を神格化したものなので、人の欲望にスポットライトを当てて考えてみると、人が欲しているものを手に入れて欲望が満たされとして、それを更に欲するのかということです。
大抵の人は、欲しいと思っていたものを手に入れた場合、更にそれを欲することはないでしょう。 ワンルームに住む人が、憧れの60インチのテレビを手に入れたとして、その直後にもう一台欲しいとは思わないはずです。

エロスが人の感情に起因する概念である以上、この法則は、エロスにも当てはまるはずです。
つまり、エロスは既に手に入れているものを、更に欲することはないということです。
しかしアガトンは、エロスは美しいものを欲するため、この世界は美しくなろうとすると主張しました。

この主張を先程の法則に当てはめると、エロスが美しいものを欲するのは、エロスが美しさを手に入れていないからということになります。
エロスは美しさを手に入れていない、言い変えるのなら、エロスは醜いということになってしまうのですが、これに対してアガトンは反論できず、納得することになったというのが、前回の話でした。

ディオティマ

次にソクラテスは、自分の主張をしていこうと思うのですが、ソクラテス自身は無知な者を自称しているため、エロスについてはわかりません。
対話篇のプロタゴラスでも取り扱いましたが、最高峰のソフィストであるプロタゴラスと対話をしても、最高善や徳と呼ばれるアレテーと、その構成要素とされている徳性の関係性すらわかりません。
しかしソクラテスは過去に、ディオティマという女性からエロスについて教えてもらったことがあるので、その時に教えてもらったことを披露します。

実はソクラテスは、自分自身も先程アガトンが行った主張と同じ様な考えを持っていました。しかし、それをディオティマに先程の理論で否定されてしました。
この時ソクラテスは、自分の意見がどの様に間違っているのか、また正解は何なのかが分からなかったため、ディオティマに教えを請いました。
その時に教えてもらったディオティマの主張を、自身の主張の代わりに語っていきます。

欠損が欲望を生む

まずエロスの定義ですが、エロスは人間が抱く愛情にまつわる全ての欲望や感情を神格化させた存在なので、その言動は人の感情が基準となります。 その為、人が抱かない感情はエロスの性質とは言えなくなります。
つまり、神話に登場するエロスやアフロディーテのとる行動は全て、人の抱く感情に由来している行動であるため、エロスは人が想像もできないような行動を取ることはないということです。
彼女たちの行動は、人間が抱く欲望やそれに起因する感情の揺らぎに関連する言動しか行わない。

では、私達人間はどの様な時に欲望を抱くのかというと、何らかの欠損を抱いたときとなります。
例えば、人が新たにテレビが欲しいと思う時は、現状に満足していないときです。例えば、もっと大きなテレビが欲しい。 黒の表現が凄いなど、色の再現度が高いものが良い。8Kに対応している方が良いといった感じで、現状に満足できていないときです。
現状のテレビの能力が、今、自分がほしいと思っているテレビに比べて欠けていると思った時に、欲望が生まれます。

つまり、大きさ・色・解像度などのスペックに全く不満がない状態で、テレビを買い替えたいとは思わないということです。
繰り返しになりますが、自分の理想と現状を比べた際に、現在の状態が何かしらが足りない時にだけ、それを補うために欲望が生まれます。
理想と現実が完全に一致している場合は、そもそも欲望は生まれません。



極端なものの見方

これをエロスに当てはめると、エロスが美しいものを欲するということは、エロスは美しいものを宿していない、持っていない状態であると言い替えることが出来ます。
この理屈は、先程、アガトンに対してソクラテスが言ったことと同じです。
ソクラテスは自分がアガトンにしたように、ディオティマによって論破されてしまい、その答えに納得してしまったので、アガトンに対しても同じ理屈で指摘をしたのでしょう。

では、エロスが美しさを宿していないとして。エロスは醜い存在なのでしょうか。
この饗宴という対話編に限らず、ソクラテスは『AでなければBだ。』といった感じで、極端な物言いをすることが結構ありました。
今回も当然のようにディオティマに対して、『エロスが美しさを宿していないのなら、彼女は醜い存在なのですか?』と訪ねます。

これに対してディオティマは、『そんな両極端な考え方をしなくても良いのでは無いですか? この世で美しくないものは全て、醜いものとでもいうのですか?』と問われます。
もし、美しさを求めるから醜いと考える場合、この世の価値判断は美しいと醜いの2種類しかないことになってしまいます。

『美しさ』を求める者は醜いのか

例えば、現代でもそうですが化粧をする者達や綺羅びやかな服や装飾品を身に着けてお洒落をする者達はたくさんいます。

その者達は、美しくなりたいから、格好良くなりたいからとその様な行動をしているわけですが、先程の理屈に当てはめるのであれば、そのもの達は美しさを求めて着飾っているわけですから、全員が醜い者となってしまいます。
美容研究家や美容業界に携わる人達は、人一倍、美に関する情報に興味を持ち、それを日々、集めているわけですが、その人達は美しさに対する欲求が人一倍強いため、人一倍醜いことになります。
しかし実際問題として、そんな事はありませんよね。 人一倍努力をして知識や経験を積み重ねているわけですから、美に関して無頓着な人よりも美しい場合が多いです。

別の例えでいうのなら、賢くなるために勉強をしている人は全員が愚か者ということになりますし、常に正しいことをしようと心掛けている人は、悪人ということになります。
礼儀正しく振る舞おうとマナーを学び、礼儀を身に着けようと勉強している人は全員が無礼者になりますし、優れた者になろうと日々努力しているものは、劣った者になってしまいます。
しかし現実に当てはめてみると、社会人になっても進んで勉強をしている人は優秀な人が多いですし、礼儀正しい行動を心がけて注意している人は、そうしていない人よりも礼儀正しく、人に好印象を与えます。

これまでの対話篇のソクラテスの主張は、『美しくなければ醜い』といった極端な物言いが多かったため、このコンテンツを聞かれた方の中には、彼の主張に違和感を持たれた方も多いと思います。
何故、ソクラテスがこの様な極端な意見になったのかは、おそらく、彼のスタンスが絶対主義だからだと思いますが…
今回登場したディオティマは、このソクラテスの考え方に対して、『世の中、そんな両極端には出来ていないよ。』と、中間の存在を主張します。

中間の存在

中間の存在とは、例えば美しさでいうと、これまでのソクラテス認識としては、美しいか醜いかの2択で、この2つはデジタル的な非連続なものという認識でした。
しかしディオティマは、その2つの価値観はアナログ的に連続していて、美しさと醜さは段階的に変わっていく。 つまり両者には中間部分があると主張します。

この中間部分に位置するものは、作品内では賢さと愚かさで説明されていて、中間に位置する者はどのようなものが正しいのかを理解はしているが、それを言葉を使って正確に言い現す事ができない者のことと説明します。
例えば、良い行動と悪い行動があるとして、その両者の見分けはつくけれども、どこが良くて悪いのかというのを説明できないケースというのは結構あると思います。
過去に紹介した対話篇で、ソクラテスと対峙した賢者たちがそれに当たります。

ゴルギアスプロタゴラスも、アレテーの概念や、その一部の徳性である勇気や知性や美しさなどがどの様なものかというのは、おそらく感覚的には理解もしていたし、判別も出来ていたのでしょう。
しかし、それを言葉を使って正確に相手に伝えることが出来ず、ソクラテスとの討論では彼を説得できずに、結果としてアレテーについては理解できていなかったとして無知な者とされてしまいました。
たしかに彼らは、ソクラテスがぶつける根本的な問には答えられませんでした。 その点だけを取り上げて強調すれば、彼らは基本的な問にも答えら得ない無知な者になってしまうのでしょう。

ですが、実際に彼らが良い行動や悪い行動を目の当たりにした場合は、彼らはその行動の善悪を判断できるでしょう。
また彼らは彼らなりにアレテーについて考えて、一応の結論を出した者達です。そういった者達を、アレテーについて考えたこともない大衆と一緒くたにして『無知な者』としてしまうのは、分け方が大雑把過ぎます。
ゴルギアスプロタゴラスも、大衆と同じ様に無知だとするよりも、賢者でも愚者でもない、両者の中間にいる者と考える方が、しっくりときます。

『究極の存在としての神』は中途半端なのか

確かに対象が人間であれば、この様に考えるほうが自然です。 AでなければBという両極端な考え方をするよりも、物事はグラデーションの様になっていると考えるべきでしょう。
しかし、ソクラテスは納得ができません。というのも、これを神に当てはめた場合についても同じ様な結果になるとは思えないからです。 というのも、そもそも神とは、概念を神格化したものです。
今回のエロスでいえば、人を愛したり慈しんだりする感情であって美、美しいという概念を神格化したものが、エロスやアフロディーテと呼ばれる神でありこれらの神は文字通り、美の化身となるものです。

神は、その概念の究極的なものを表す象徴であるため、全ての人々から称賛されて崇められています。
この、『概念の究極的な状態』エロスでいうのなら、究極的に美しいという概念を神格化し、美しさの象徴としたものが、中間の存在であるなんてことがあるのでしょうか。
このような疑問は当然のように沸き起こってきますし、当然、ソクラテスも疑問に思い、ディオティマに尋ねます。『神は究極の存在であるために、全ての人間から称賛されているはずなのに、それが中途半端な存在ということが有るのですか?』と

この疑問に対しディオティマは、逆に質問を投げかけます。
『全ての人間に称賛されているというが、その全てというのは全ての愚か者のことを指すのか、それとも、全ての賢い者達の事を指すのか?』と。これに対しソクラテスは、両社を含む全ての人だと答えます。
これを聞いたディオティマは、『全ての人というが、この場にいる私と君は、エロスを神とは認めていないじゃないか。』と切り替えします。

これを聞いて困惑するソクラテスに対し、ディオティマ続けます。
『そもそも神という存在はどの様な存在でしょうか。 全ての神々はアレテーを宿し、美しい存在だとは思いませんか?
それとも神々の中には、美しくもなく幸福でもなく、完全でなく欠陥がある存在がいるでしょうか。』

この問いに対してソクラテスは肯定しますが、ディオティマは、それだとソクラテスが最初に抱いてディオティマに尋ねに来た疑問と矛盾すると主張し説明を始めるのですが、この話はまた次回にしていきます。

参考文献