だぶるばいせっぷす 新館

ホワイトカラーではないブルーカラーからの視点

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第120回【饗宴】天と俗のアフロディーテ 後編

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目次

注意

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。

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神話の捉え方

捉え方としては、概念同士のやり取りや足し算引き算と考えたほうが良いと思います。
例えば、ウラヌスにしてもクロノスにしてもゼウスにしても、自分の子供が新たな王となるという予言を受けて、権力を奪われないために自分の子供を丸呑みにしてしまうという話があります。
これは、単純に権力欲の話だけを描いていると捉えるのではなく、一旦分離した概念が再び1つになったといった感じで捉えた方が、理解しやすいと思います。

例えばゼウスについての話をすると、ゼウスも、先の王であるウラヌスやクロノスと同じ様に、子供によって王座を奪われるという予言を授かり、自分たちの子供を全て丸呑みにします。
しかしその後、ゼウスの頭が割れ、その中から完全に武装した形で女神アテナが誕生します。 格好が武装しているのは、アテナが軍事力を司る女神を表しているのですが、ゼウスの頭から生まれる理由は、概念的な考えをした方が理解しやすいです。
同じ軍事力を司る神としては軍神アレスなども存在しますが、アテナと彼で違う点は性別だけなのかというと、そうではありません。 アテナはゼウスの頭から生まれているというのが、決定的な違いになります。

具体的にどの様に違うのかというと、知性の有無です。 頭というのは、知性を司る部位です。アテナが、全知全能であるゼウスの頭から生まれたということは、ゼウスが持つ知性を受け継いでいると考えられます。
つまりアレスは知性を持たない武力で、アテナは知性が宿っている武力という見方ができるわけです。
同じ様にゼウスを親に持つ武力の化身であるアレスとアテナが争って、優劣がハッキリとする場合、その差は知性の差ということになります。

この様な感じで、神話に登場する神々の物語は単純なストーリーとして受け止めるのではなく、それぞれの概念がどの様に関係しあっているのかを考えながら読み解いていくと、わかりやすくなると思います。

2人のエロス

話を戻すと、美の化身としては天のアフロディーテと俗のアフロディーテが存在するわけですが、パウサニアスがいうには、両者が等しく素晴らしいわけではなく、称賛すべきなのは天のアフロディーテだけだと主張します。
理由を話す前に、まず前提条件として、行動そのものに善悪というのは存在しません。 この事は以前、【ゴルギアス】という別の対話編を取り扱った際にも紹介しました。
人が起こす行動は全て、目的を達成するための手段でしか無いのですが、手段の善悪は、目的の善悪によって決まります。

つまり同じ行動をとったとしても、最終目的が悪であれば行動も悪になるし、良い目的のために行われる行動であれば善なる行動になるということです。
例えば、人に親切にするという行動そのものに善悪はなく、人助けがしたいという目的で行われる行動は良い行動になり、親切な行動をとることで信用を得て、最終的にお金をだまし取ろうと考えて行う『親切な行動』は悪になるということです。
これはエロス・愛にも当てはまることで、行為が正しく行われるのであれば美しいものとなり、不正に行われるのであれば、たとえ同じ行動だったとしても、それは醜いものとなります。

では、どのようなものが俗のアフロディーテで、醜いものとされるのでしょうか。
パウサニアスがいうには、俗のアフロディーテに属する愛情というのは、少年に向けられる愛情ではなく女性に向けられる愛情であり、精神ではなく肉体を愛する。
そして、優れた知性を持たない愚かなものを好むことと定義します。

俗のアフロディーテ

何故、これらを動機とした愛情が悪なのでしょうか。
パウサニアスによると、俗のアフロディーテはゼウスとディオネという男女の間に生まれた子であるため、男女の性質を持って生まれてしまいました。一方で、天のアフロディーテは男性神のウラヌスのみを親としていて、ここに違いがあると言います。
この部分のどこが重要なのか、それは、前にも説明したと思いますが、男性同士では子供が産めない一方で、男女間では子供が生まれるという点です。

子供が生まれるということは、そこに愛情以外の感情も入り込む余地があるということです。例えば、子供が欲しいから手段として相手を愛するといった具合にです。
この場合、子供を作ることが目標になり、パートナーに愛情を向けることは手段になってしまいます。
更に突っ込んでいえば、子供を育てるなら裕福な相手の方が良いとか、家柄が良いほうが良いなどと条件を追加していくと、愛情以外の部分の比重が重くなっていってしまいます。

また、生物として人間を見る場合、種として存続するためには子供を生んで世代をつなげていくことが重要になります。そのため、男女間の性交では、本能的な快楽や満足度も付加されると考えられます。
理性よりも本能からくる満足感や快楽といった肉欲を優先させる様な人は、人の理性面に引かれることはないため、簡単に行為に至る事を優先して、できるだけ知性の低い人を選ぶ傾向にあります。
プロメテウスの神話によれば、人間が他の動物と比べて優れている点は知性のみとされていますから、その知性に惹かれずに動物的な快楽に引かれて行動を起こすというのは、良い行動とは言えないということでしょう。

目的の差

もう少し具体的な例で説明すると、人柄や知性に引かれてその人を愛し、その人物に愛を宣言して相手を射止めようと努力する行為は、美しい行為と言えます。
人柄に惚れた。人間性が好き。あの人を尊敬している。だからあの人のことが好きで、あの人と両思いになりたい!と周りに宣言し、その人を射止めるために必死に努力する人がいた場合、周りの人は応援するのではないでしょうか。
では何故、その恋する人を応援するのかといえば、その行為そのものが美しいからです。

その一方で、あの人の持ってる財産が欲しい! あの人と結婚して、家柄や人脈を得たい! 今ムラムラしてるので、適当なことを言えばついてくる様な相手で良いから抱きたい!と宣言し、それをせっせと実行している人を見た場合はどうでしょう。
金持ちや良い家柄の人の前で媚びへつらって、なんとかして金や地位を手に入れようとしている人物をみたり、直ぐに抱けそうだからという理由だけで、だらしのない人を手当り次第ナンパしている人を見たとすると、大抵の人は軽蔑するのではないでしょうか。
何故、軽蔑するのかといえば、財産や地位や快楽を前に跪くという行為そのものが、醜い行為だからです。

大抵の場合は、人が誰かに愛情をもち、恋仲になるために努力する時、その理由を周りの人間に宣言して伝えた上で行動に移すなんて人はいません。
その為、人柄や尊敬できると言った理由で行動を起こす人も、地位や財産や肉欲に支配されて行動する人も、周りから見れば同じ様な行動をとっているようにしか見えません。
しかし実際には、その人物が何を求めているのかで、人々がその人に抱く印象は180度変わってしまいます。

仮に結婚しようという話になって、相手の親に会いに行く場合、親から『何故、この子を選んだんだ?』と聞かれた時に、金を持っているからとか、顔がいいから、抱き心地が良かったからと答えたとして、親は結婚に賛成するでしょうか。
一方で、人間性に惚れた。物事の考え方などが素晴らしく尊敬できるので、ずっと一緒にいたいと説明された場合はどうでしょう。反対するでしょうか。
両者の違いは、一方が金や容姿といった一時的なものを欲しているのに対し、もう一方は知性や徳性といった永続的なものを欲していることです。

アレテーを求める行動は尊い

徳性とは、アレテーを構成しているもののことで、知性であったり勇気・堂々たる器量・節制といったものが含まれますが、これらのを宿す者に惹かれた場合、その恋は軽蔑されず、美しいものとして応援されます。
これは恋愛に限らないことで、人と人のつながりを築いていく際、金や地位を目的として近づいていく人よりも、徳性を備えた人間性に惹かれたと言って近づく方が、好感を持たれるでしょうし信用もされるでしょう。

この様に、エロスには2つの種類があり、一方は尊いものであるが、もう一方は醜いものであるというのが、パウサニアスの主張となります。

次は、エリュクシマコスが別の視点でエロスを解釈するのですが、その話はまた次回にしていきます。

参考文献