【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第122回【饗宴】太古の人類 後編
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- 地球は丸かった
- 神に反抗する人類
- 現在の人類の誕生
- 人間同士が惹かれ合う理由
- 参考文献
注意
この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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kimniy8.hatenablog.com地球は丸かった
この、3つの性別を持つ太古の人間ですが、彼らは何故、足で歩くことをせずに回転しながら移動するのかというと、彼らの起源が星だからです。星は丸く、回転しながら移動していますが、その星を起源として生まれてきているため、太古の人間は回転によって動くということです。
この表現から分かることは、紀元前4世紀とか5世紀の時点で、地球や月や太陽が丸く、回転しながら移動しているということが、一つの説として出ていたことです。
古代ギリシャでは、地球が丸いとするのなら、その大きさはどれぐらいだろうという研究もされていて、同じ時刻に離れた場所で棒を立てて、その影の傾きと長さを図って地球の大きさを図り、円周で約4万キロ程度と出たという話もあります。
とはいっても、その考えが全体に浸透して主流になっていたわけでは無かったようです。というのも当時は当然、重力の存在もわかってないですから、球体の上に立つというのをイメージしにくかったでしょうからね。
このことは、映画の『アレクサンドリア』という作品でも紹介されています。
映画アレクサンドリアの舞台は、この対話編の時代から800年後ぐらいのローマの統治下にあったエジプトの都市です。 アレクサンダー大王がエジプトのファラオになった際に、自らの名前をつけて首都を置いた場所が舞台となります。
この土地にはアレクサンドリア図書館という科学の象徴のような場所があるのですが、そこに保管されていた古い書物の記述に、『太陽や地球は丸いというのがあるが、主流ではない。』といった感じで、地球が球体であるという説が紹介されます。
アレクサンドリア図書館については、第42回で紹介していますので、まだ聞かれていない方で興味のある方は、聞いてみてください。
神に反抗する人類
この太古の人間ですが、その力は神々の力に匹敵するのではないかと言われていたほどで、現代の人間と比べると、遥かに強大な力を持っていたそうです。この強大な力に慢心した人間たちは、神々に戦いを挑むようになります。しかし実際には、人間たちが神と同等の力を持っていると思い込んでいただけで、実際には、神との力の差はかなりあったようです。
神は、人間の挑戦に対して殲滅することで応えることも出来ましたが、そうはせず、制裁を加えるにとどめました。
何故、無知であるがゆえに無謀にも神に挑んだ人間を殲滅しなかったのかというと、神々には人間が必要だったからです。
神々という存在が何故、存在しているのか。これは、卵か鶏かどちらが先かという話になるのですが、このアリストファネスの主張の中では、人間がいるから神々が存在できているといった事が語られます。。
もう少し具体的に説明すると、神々が存在していると思い込み、その神々に信仰を捧げる人間がいるから、神々が本当に存在しているように振る舞えているということです。
例えば、ソクラテスは神々を信じていないとして不敬罪で訴えられて死刑になっていますが、実際に神々がソクラテスの命を奪ったわけではありません。
ソクラテスを死に追いやったのは、神々を信仰している人間です。人間が、『神様に無礼を働いたから』と彼に死刑判決を下して、死ぬように促したのです。
もし仮に、ギリシャ内で市民が誰も神話を信じておらず、神々も信仰していなければ、少なくともソクラテスは、不敬罪で死ぬことはなかったでしょう。
つまり、神々が人間に対して直接手を下せるのは、信仰心のある人間がいるから出来ることで、誰も神を信じていなければ、神の存在自体がが無くなってしまうため、神自身も困ってしまうということです。
この様に、人間を懲らしめたいが殲滅は出来ない神の代表であるゼウスは、人間の体を2つに裂き、人間の姿かたちを現在の人間と同じ様にして、力を奪いました。
これにより、人間の力が弱まる一方で人間の数は倍に増え、信仰心もそれに伴って上昇させることが出来ました。
現在の人類の誕生
こういった話は、キリスト教の聖書にも登場し、バベルの塔の話がそれに当たります。バベルの塔は、人間が自身の力に慢心し、神々の領域である天にまで塔を伸ばそうとした行動に対し、神が雷を落とすことで、その塔を破壊するという話です。
神はこの時に塔を破壊するだけでなく、人間が団結することで力を持ったと考え、人間同士の意思疎通がし辛いように、それぞれの人が話す言葉を変えてしまいます。
これにより、日本人の私達が外国語である英語を勉強しなければならないという、面倒くさいことになってしまいました。
話をギリシャ神話の方に戻すと、太古の人間は2つに裂かれて2人の人間になってしまったため、元の1つの生物に戻ろうとして、互いが互いを求め合う様になります。
しかし、片割れが先に死んでしまうと、残された方は、相手の性別に構うこと無く手当たりしだいに相手を求めるようになり、人類は滅亡へと向かっていったようです。
それを哀れに思ったゼウスは、人間の性器の用途を変えます。
今までの性器の使い方としては、人間は大地に種を落とすことで、母なる大地から芽吹くように生まれてくるとされていたのですが、それを人間同士で性交することで誕生できるようにと仕組みを変えます。
この時以来、人間には『互いに求め合う』という感情であるエロスが宿ることになります。 このエロスという感情について更に言えば、2つのものを1つにして人間本来の姿を取り戻そうというする感情です。
魚でいえばヒラメやカレイのように、本来1つだったものが2つに別れた割符のような存在なので、現代の人間は、符合するもう一つの存在を探し続ける。そういった感情のことを総称してエロスと呼びます。
ここで当然のように、ヒラメとカレイはもともと1匹の魚だったものが2つに割れたという説明が出てきますが、当時はその様に思われていたようです。
ちなみにキリスト教でも、ヒラメやカレイは元々1つだったものが、モーゼがエジプトから奴隷を連れて逃げる際に海を割った時に、一緒に割れた魚と言われていたりします。
人間同士が惹かれ合う理由
少し話がそれましたが、アリストファネスの主張をまとめると、人間は太古の昔は3つの性別に分かれていて今と違った形をしていたが、それが引き裂かれて2つになることで、今の人間と同じ様な姿形となった。もともと1人だったものが2人に別れてしまったので、もし半身となる者を見つけることができれば、互いにそれを手放そうとはせず、完全体である1つになろうとする。
また人間は、自分たちを2つに引き裂いた神々を恐れ、それと同時に、強大な力を持つ神を敬わなければならない。
もし、神々を尊敬することをやめてしまい、再び神に挑戦しようなどと思えば、神は再び人間の体を分断し、一本足、一本腕にされてしまうだろう。
人間の幸福が太古の人間性の回復であり、そのために必要になるのが己の半身である者との愛情を通じた結合であるのなら、その行為こそが人々を幸福に導く行動であり、その行動の象徴として存在する神であるエロスは、称賛しなければならない
なぜなら、人々を幸福に導いてくれるのはエロスだから。 となります。
昔話調でエロスを語るという喜劇作家らしい主張ですが、ここで語られていることは、そもそも何故、人間はパートナーを求めるのかという根源的な理由です。
人間が相手を求める理由として誰でも思いつくのは、子供を産んで子孫を反映させるためというものだと思います。
しかしその場合、女同士や男同士のカップリングが成立する理由にはなりません。
ですが実際問題として、その様なカップリングは存在しています。 その理由付けとして、子供を作る以外の根本的な理由が必要になり、この様な説が生まれたのでしょう。
以上でアリストファネスの主張は終わり、次はアガトンの主張へと続きますが、その話はまた次回にしていきます。