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ホワイトカラーではないブルーカラーからの視点

プラトン著『饗宴』(4) エロスの奥義

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備忘録のつもりで簡単にメモするはずだったのに、かなり長くなってしまった為、今回で無理やり最後にします。
この投稿は前回の続きですので、まだの方はそちらからお読みください。
kimniy8.hatenablog.com

エロスの師匠 ディオティマ

ソクラテスは、以前にディオティマという女性からエロスについて教えてもらい、その主張に納得をしたことが有るので、ディオティマの主張を借りて演説を行う。
ソクラテスは先程、アガトンが主張する『エロスは美を備えているだけではなく、美しいものを求める』という主張に対し、『既に有しているものが同じものを欲するということは行わない。エロスが美を既に持っているのであれば、美を求めるといった事は行わないはず。なら、エロスは醜い存在なのではないか?』と反論し、アガトンを黙らせてしまいました。
しかしソクラテスは、自身もアガトンと同じ疑問をかつて持っていた事を告白し、その疑問をディオティマにぶつけた際に得られた回答だったと告げる。 そしてここから、ディオティマの主張が始まる。

ディオティマの主張

エロスは人の特定の感情(愛情にまつわる全ての欲望)を神格化させたものなので、その言動は人の感情が基準になる。 その為、人が抱かない感情はエロスの性質とは言えない。
では、その基準となる人間が物を欲するときというのは、どの様なときなのかというと、欲する対象を自身が保有していないときに限定されていて、既に保有している際には欲するという欲望を抱かない。
例えば、既にテレビを持っている人間が、同じスペックのテレビを更に欲するのかという事。 新たにテレビが欲しいと思う人間は、『更に大きい』だとか『画質がキレイ』とか『まだ持ってない』というように、今の状態に欠損の様な感情を抱いている為、それを埋め合わせる為に欲望が生まれる。
その為、自分が満足するテレビを既に保有している場合、同じものを欲しいという欲望は抱かない。

これをエロスの性質に当てはめると、エロスが美を求めているという事は、エロスには美が欠けている証拠ということになリ、結果、エロスは美しい存在ではない。つまり、醜い存在ということになってしまう。
ソクラテスがこの疑問をディオティマにぶつけたところ、『美しくないから醜いと考えるのは、短絡的過ぎではないか? 美しくないものは全て、醜い存在なのか?』と反論される。
美しいものを求めるから醜いという考えの場合、この世の価値判断は美しいと醜いの2種類しかないことになってしまう。この理屈を知恵に当てはめると、この世には賢いものと愚か者の二種類しか存在しないことになる。
しかしそんなことはない。ディオティマは、『エロスは、美しさと醜さの中間に位置するものだ。』と主張する。

では、中間の存在とはどの様な存在なのか。 これは、賢いものと愚か者の中間の存在を思い描くと分かりやすいかもしれない。
知恵についての中間の存在とは、どの様な物が正しい事なのかを知ってはいるが、それを言葉を使って正確に言い表すことが出来ないもののことを言う。
正しいことと悪い事の判断をすることは出来るが、それを言葉を使って正確に言い表すことが出来ない人間は、中間の存在といえる。というのも、賢い人間であれば、誰もが納得できる形で正確に正義について語ることが出来るが、賢い存在ではない為に、そのようなことは行えない。
では、その事をもって愚者となるのかといえば、そんなこともない。 何故なら、具体的なケースを目の当たりにした際に、それが正しいことなのか悪いことなのかの判断はつくから。その様な人間を愚か者とは呼べない。

このようなものは中間の存在で、賢者でも愚者でもない。

この主張を聴いて、ソクラテスは反論する。『ですが、ディオティマ。 エロスは、全ての人から称賛されている神なのですよ? 中間の存在なんてことが有るのでしょうか?』
しかしディオティマは、この意見に対して疑問で返す。『お前の言う「すべての人から」というのは、全ての愚かな者たちのことか?それとも、全ての賢い者のことか?』ソクラテスは、『それは、両方を含む全ての者のことです。』
それを聴いたディオティマは、『全ての人というが、エロスを神と認めていない人間がいるではないか。 その者達についてはどうなのだ?』と切り返すが、ソクラテスは、エロスを神として信じていない人間などいるはずがないと思っていたので、『その様な人はいるのですか?』と詰め寄ると、ディオティマはこう答える。

『ここに2人いるではないか。この私と、ソクラテス、お前だ。』

ソクラテスは、自分はエロスが神だと信じている確信が有ったのに、実は信じていないと言われてしまった為に、困惑してしまい、その理由を尋ねる。
するとディオティマは、ソクラテスに問いかける『神という存在は、どういったものなのだろうか。 お前は、全ての神々は幸福で美しい存在だとは思わないのか。 それとも神々の中には、美しくもなく幸福でもなく、欠陥を抱えた存在がいるのだろうか。』
この問いに対してソクラテスは、『全ての神々は美しく、幸福を手にしている存在だ。』と主張しますが、ディオティマは、ソクラテスが一番最初に持ちかけてきた疑問を、再度確認する。
その疑問とは、『エロスが真に美しい存在であるならば、エロスは美を求めない。美を求めるということは、自身が美を持っていないから、つまりは醜いからだ。』という疑問。美が欠損しているが故に美を求める行動を取る。欠けた部分を補う為に行動している状態は、幸福とは言えない状態ともいえる為、まとめると『エロスは美しくなく、幸せでもない状態となってしまう。』

先程、ソクラテスは『全ての神々は美しく、幸福を手にしている存在。』という定義に同意しているが、一番最初の質問によって、『エロスは美しくなく、幸福ではない状態。』という意味をもつ疑問をいだいている為、ソクラテスは『エロスは神に含まない』といってしまっている状態となる。
ディオティマは、ソクラテスの主張に反対していたわけではない為、少なくとも、その場で討論している2人は、エロスを神だと認定していないことになる。
自分自身がエロスを神だと思っていなかったことを思い知らされたソクラテスは、エロスの正体を尋ねる事にする。

エロスの正体

それに対しディオティマは、『エロスは、神と人間の間にある存在。偉大なる精霊(ダイモン)だ』と答える。
人間と神は直接の対話が出来ないが、その橋渡しをする存在が精霊(ダイモン)で、精霊とは、人と神の両者の間に立って溝を埋め、全宇宙を一体化させるもの。

神の声を聴く占い師や司祭、預言者といった類は、精霊の声に耳を傾けることで、その力を発揮するのであって、神々が直接、人間と関わる事はない。
この様な分野における賢者とは、精霊のような声質を持った人間のことだが、その他の技術に関わる賢者というのは、全て、卑しい職人に過ぎない。(古代ギリシャでは、労働を行うのは奴隷として見下されていた。)
エロスは精霊の1人であり、エロスに限らず、多くの精霊が存在する。

その後、ディオティマは、エロスの出生について、神話になぞらえて話聞かせる。

エロス誕生のきっかけとなったのは、アフロディーテの誕生祭。 叡智の女神メーティスとその息子である充足の神ポロスも、この宴に出席して誕生を祝った。
しかし、祭りの終わり際になって、呼ばれてもいないペニアという貧乏神がこの宴会に現れる。 これは日本でいうと、他人の葬式に勝手に出席して、飲み食いして帰る様な輩と同じ様な存在と言えるかもしれない。
ペニアが宴会に忍び込むと、酔いつぶれたポロスが寝込んでいたので、ペニアは一発逆転を狙ってポロスを襲い、二人との間に子を作る事に成功する。 こうして誕生したのが、エロスという神。

エロスはアフロディーテの誕生祭が縁で生まれたという事で、アフロディーテの従者にして下僕となる。 アフロディーテは美の化身である為、この従者にして下僕になるということは、エロスは常に美を追い求める性質であるということになる。
しかし、エロスが持つ性質はそれだけではなく、母親から受け継いだ貧乏神の性質も併せ持つ。 エロスが手に入れたものは全て、指の間からすり抜けて最終的には無くなってしまう。それ故に、常に何かを求めて彷徨い続けている。
では、エロスは何も持たない存在なのかというと、そんなこともない。 エロスの父親は充足の神であるポロスであり、その母親は知略の神メーティスである為、エロスは美しいものや良いものに狙いを定めて、それらを知恵を使って手に入れる能力を持っている。
ただ手に入れたとしても、母親から受け継いた性質の為に、手に入れたものは失ってしまう。

エロスは、父が持つ充足の力によって貧乏ではない存在ではあるが、母親の持つ性質によって満ち足りてもいない。 中間の存在といえる。

神々は誰一人として、知恵を追い求めたりはしない。 何故なら、神々は完璧な知恵を既に持っている為、既に持っているものを更に欲するということはしない。
では、その正反対に位置する愚か者はどうなのかというと、愚か者も知恵を欲したりはしない。 何故なら、知恵がどういうものなのか、存在しているのかどうかすら知らないから。
愚か者は、自分自身は賢くもなく美しくもなく、何も満たされていないのに、欠けているものが何かを知らないために、このままで良いという現状維持を選んでしまう

では、賢者も愚者も追い求めることをしない知恵を、一体誰が追い求めるのかというと、知恵という存在を知っていて、自分には知恵が欠けているという自覚を持っている人間が、知恵を追い求める。
この者は、知恵を持っていないために賢者とは言えないが、知恵が足りないことを知っている為に、無知でもない。 中間の存在といえる。
この、『知恵』を『美』に変えれば、エロスの性質は理解しやすい。 エロスは美を求める『愛するもの』であり、既に美を持っている『愛されるもの』では無い。

エロスとは何の化身?

ここまでの説明に納得をしたソクラテスは、ディオティマに『エロスがその様な存在だとして、その存在は、人間にどのようなことをしてくれるのでしょうか?』と尋ねる。
この様な感情の化身が人間に宿った時に、人間は、どの様な行動を取ろうとするのか、とってしまうのかという質問に対し、ディオティマは、エロスの追い求めているものを別のものに変えることで、理解を促す。
別のものとは、『良い』という価値観。 エロスが、『美しい』ものを追い求めているというのを、『何故、エロスは良いものを求めるのだろう。』と言いかえ、逆にソクラテスに質問する。

これに対してソクラテスは、『良いものを追い求めて手に入れようとするのは、「幸福」になる為でしょう。』と答える。 つまり、人の心にエロスが宿った場合、人は『幸福になろう』として行動を起こす。
その為に、『美しいもの』で有ったり『良い』ものを追い求めるが、その最終目的は、様々なものを手に入れることではなく、幸福な状態になることであり、それを維持する事にある。
この感情は、全ての者が持つ感情となる。 全ての行動は幸せを求める過程で行われる事で、行動の原因はエロス。つまりは愛によって行われる。
人は、幸福になる為に愛を手に入れようとし、その為に、蓄財をしたり体を鍛えたりする。 愛を手に入れる為の方法は1つではなく、多く存在するため、それぞれの人の考えによって様々な方法で試されるが、根本原因となるのはエロスによる『幸福になりたいという感情』となる。

しかし、私達は普段、何をする場合においても『愛しているから』などと言って行動を起こすことはしない。 何かしらの別の言葉を使ったりする。
これは、愛というのは行動の起点となるもの全ての原因ではあるが、それぞれの細かい行動に別々の名前がついている為に、別の言い回しによって言われている事が原因。
例えばクリエイターは、ものを作る人全般を指す言葉だが、彫刻を専門としている人間はクリエイターとは呼ばれずに彫刻家と呼ばれる。 絵画を中心としている人は画家と呼ばれ、こと恋愛に関してだけ、『愛している』という言葉が使われる。

まとめると、人間の行動の起点となるのは、愛の化身である(エロス)の性質である『幸せになりたい』という願望であり、その感情を抱いた人間は、『美しいもの』や『良いもの』を永遠に自分のものにしたいと追い求めて行動を起こす。
噂では、人間は古代の人間の力を取り戻すために、神によって分割された自分の半身を探しているという説もあるが、その半身が『美しいもの』や『良いもの』でなければ、その半身を愛し求めるなんてことは行わない。
仮に、糖尿病や凍傷にかかって、体の一部が壊死し始めた場合、『元々は自分の体だったから』と切り離さずに放置するような人間がいるだろうか。 例え、自分自身の体であったとしても、悪い部分は切り離したいと思うのが人間なので、一つのものが分割されたという理由だけで追い求める理由にはならない。

では、エロスの最終目的である『幸せになりたい』『美しいものや良いものを永遠に自分のものにしたい』という欲求は、どのようにして叶えられるのだろうか。
結論から書くと、『子をなすこと』によって達成される。 これは、形のあるもの無いもの、両方に当てはまる。

簡単に解説すると、エロスというのは良いものや美しいものを『永遠』に自分のものにするという欲求を持っているが、人間には『死』という終わりが存在する為に、『永遠』に手に入れることは出来ない。
しかし、それを可能にするのが、『子をなすこと』となる。
愛する人と惹かれ合い、愛し合って子を作れば、自分の血を引くものを後の時代に残すことが出来る。 自分という個人は死ぬが、その意志は受け継がれ、この連鎖が途切れなければ、『永遠』にこの流れは続くこととなる。

これは、物質的なものだけでなく、人間の精神が生み出したものも同じで、自身の思想や知恵は、語り継ぐことで不死性を宿すことが出来る。この様なマクロな視点だけではなく、ミクロの視点で観ても同じ。
人間というのは、分かりやすい部位でいえば、髪や爪が伸びて生え変わるように、全ての体の部分は新陳代謝によって常に入れ替わっている。
古くなった体の部分は捨てられて、食事によって補給された材料で体は再度作られる。

これは、人の体という物質的な物に限らず、人の記憶でも同じことがいえる。 人間は、一度、目にしたものを完全に記憶することが出来ず、記憶したとしても忘れてしまうことがある。
記憶に定着させるためには、繰り返し復習が必要となるが、この、一度得たものを失ってしまい、再度求めるという行為は、求めて獲得しても指からする抜けてしまうエロスの性質と同じといえる。
では、復習の先には何が待っているのかというと、記憶の不死性。 この様に人間は、知恵の場合も肉体の場合も、不死性を求めて行動をしていることになる。

例えば人間は、名誉を求める。 名誉は、自分の分身である子ではなく、自分自身の名前が未来永劫、語り継がれることなので、不死性を帯びている。
仮に、自分の成した偉業が語り継がれずに断絶してしまうのであれば、誰が名誉を求めるだろう。

社会を構築する人間にとっていちばん重要な知恵は、その社会(国・家)を収める為の知恵である『節度』と『正義』で、これを心に宿した人間が成人して適齢期になると、その者は子をつくろうとする。
美しい者(良い者・優れた者)を探し、話をする。 自分が思う正義とはどのようなものなのか、節制とは… 自分の持つ価値観をさらけ出し、相手を良い方向へと導こうとする。
やがて、二人は愛し合って子をつくるが、彼らが作った子は自分たちよりも美しく不死に近い為、彼らは子を優先して守ろうとする。 (これは、実際の子供であっても、2人の人間の意見によって生まれた新たな思想や知恵でも同じこと。)

このようにして多くの知恵・徳を生み出した者は尊敬され、未来永劫、祀られる。

エロスの階段

まず最初は、若い時に美しい体に興味をもつところからスタートする。 若く経験も少ない人間は、外見の美しさにとらわれがちだが、若者を正しく導く者がそばにいれば、その若者は浮気をせずに、一つの体を真剣に愛するようになる。
しかし、いずれ若者は、身体的な美しさに共通の部分を見出す事となる。 美しい脚は、誰のものであろうと美しい脚であり、特定の個人だから美しいというわけではない。
外見の美しさには共通の部分がある為、いずれ若者は、特定の誰かだけに執着する事をやめて、共通の部分を持つ肉体全てを愛す事となる。

しかしその後、若者が正しく成長するのであれば、若者は外見の美しさよりも内面の美しさのほうが重要だと考えるようにな、心が美しく優れた知恵を持つ方が尊いと考えるようになる。
そして若者の目は、『自分たち』だけでなく外側にも向くようになり、人間が生み出す社会の中の美しさに目が向くようになる。

こうなると、この人間は人一人の外見的な美しさといった、くだらないものには興味を示さず、一人の人間から愛されることを望んで奴隷のようになることもない。視野が広がり、あらゆる美しさに目が向くようになる。
あらゆる美を観察し、多くの知恵や思想を生み出し、最終的には『美』そのものに到達することになる。

『美そのもの』というのは、プラトンイデア論の原型のようなものと考えるほうが良いのだろう。
この『美』そのものは、何かに宿るといったものでも、いずれ消滅してしまうような性質のものでもない。 地域が変わればとか、人によって… ある一面は美しいが、別の面から観ると醜いといった相対的なものでもない、絶対的な『美』

この様に、階段を登るようにして、最初は一人の外見的な美しさから出発し、その外見に共通する部分を持つすべてのものを愛するようになり、やがて社会に目が向き、最終的には美のイデアに到達する。


アルキビアデスの乱入

ソクラテスの話が一段落した後で、泥酔状態のアルキビアデスが乱入。
アルキビアデスは、ソクラテスが賢者だと思い込み、自分の体と引き換えにソクラテスの持つ知恵を授けてもらおうと、ソクラテスの眠るベッドに忍び込んで誘惑するも、相手にしてもらえずにすねている美少年。
拗ねている為にソクラテスを罵倒するも、本心ではソクラテスが好きな為、言い過ぎると褒めるというツンデレキャラとして登場する。

そして、アルキビアデスもゲームに加わると言い出し、エロスではなくソクラテスを賛美するとか言い出す。
ソクラテスは、戦争でみんなが縮み上がっていた時に、一人だけ堂々としていたとか、シンガリを務めて敵の行方を阻んだ後に悠然と帰ってきたと言った感じのことを話すが… 長くなりすぎたので、この部分は割愛する事にする。