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【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第116回【ソクラテスの弁明】まとめ回 後編

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目次

注意

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。

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人を悪人に変えるメリット

しかし、よくよく考えてみると、この罪状には納得できない点があります。
まず、『青年を堕落させる』という点ですが、関わり合いになるだけで他人を悪い方向に導けるということは、逆に良い方向へと導けるものはいるのでしょうか。
これに対してメレトスは、ソクラテス以外の人間なら誰でも人を良い方向へと導けると主張しますが、常識的に考えてそんな事があるはずがありません。

動物を調教する調教師にしても、人にものを教える教師にしても、優れているのはごく少数の者だけなのに、人を良い方向に導くという偉業をソクラテスを除く全国民ができるわけがありません。
これが本当なら、ソクラテスに接したことがある自称賢者は、ソクラテスを良い方向へ導いてやれば良かったのに、実際にはそれすら出来ていません。
また、この理論で言えば、ソクラテスは接する人間を悪人に変えていることになりますが、人を悪人に変えることでソクラテスに得はあるのでしょうか。

人は、善人と悪人がいれば、善人と親しくなりたいと思うし、悪人に囲まれて過ごす人生よりも善人に囲まれて暮らす人生を望むはずです。
ソクラテスは常に仲間と一緒に行動をともにするという生活をしていますが、その仲間を悪人に変えることで何の利益があるのでしょうか。
何らかの偶然や無意識の行動によって、自分が接しているものが悪くなったということはあるかも知れませんが、積極的に身近な人を悪の道に引きずり込む人間はそうそういません。

崩れるメレトスの主張

次に納得できない点として、『国家で定めた神々を信仰せずに、独自のダイモニア(半神)を信仰している。』という部分について考えていきます。
そもそもダイモニアとは何なのかというと、人間と神とを繋ぐ架け橋になる存在で、神と人との中間に当たる半神や神霊と呼ばれる存在のことです。
人と神とは直接コンタクトが取れないため、その中間に通訳的に存在しているのがダイモニアですが、ダイモニアを信じているのに、その先にいるであろう神を信じていないというのは理屈が通りません。

それともメレトスは、ソクラテスは神々の存在を信じないで、自然科学を信じている。 太陽は燃える巨大な岩だし、月は大きな岩の塊に過ぎないとでも言いたいのでしょうか。
メレトスは渡りに船とばかりに、『その通りだ、ソクラテスは神話そのものを信じていない』と主張しますが、太陽や月の正体が神の化身ではないと主張したのはソクラテスの師匠に当たるアナクサゴラスの主張です。
このアナクサゴラスは、かなり前にアテナイから追放されていますが、彼の説は有名で、その説をまとめた本はどこにでも安価な値段で売っています。

つまり、ソクラテスの説ではないということです。 また、彼の主張を代弁しただけで罪になるのであれば、アナクサゴラスが書いた本を販売している店は全部違法ということにもなります。しかし、そうはなっていません。
これにより、メレトスの『ソクラテスは青年に良からぬことを吹き込んで堕落させ、国家で定めた神々を信仰せずに、独自のダイモニアを信仰している。』という主張が全て崩れてしまいました。

無知の知

しかしソクラテスは、自分が行ってきたことが賢者たちの顔に泥を塗ることになったという事実は受け止めます。ですが、それは恥ずべき行為では無いと主張します。
なぜなら彼は、人を侮辱するために論戦をふっかけたのではなく、単純に知らない事を知りたかったから尋ねに行っただけ、賢者が恥をかくことになったのは、彼らが知ったかぶりをしていたからです。
知ったかぶりをしている人を論破した結果、その人物から恨まれるとして、それを恐れて行動を起こさない事こそが世の中のためにならないと考えていたので、その行為自体は恥ずべき行動ではないということです。

自称賢者が話したことで納得できない部分があれば、世の中のためにも、それを深く追求する必要があります。
なぜなら、相手の顔色をうかがって追求をしなければ、その自称賢者は曖昧な知識で不確実なことを真実のように他人に教え続け、一般市民がそれを鵜呑みにすることで、間違った情報が際限なく広がっていくからです。
また、本当に知的好奇心が旺盛な賢者であれば、それを指摘されたからといって相手を恨むことはしません。

なぜなら、今まで真実だと思い込んでいた事柄が真実ではなかったという新たな知識を手に入れたわけですから、真理を求めて更に研究をすすめるでしょう。
ソクラテスに指摘されて怒ってしまうような者は、知的好奇心がなく、相手にモノを教えることで優越感を感じていた者達だけです。
この者たちにとっては真実なんてどうでもよく、自分が賢者だとして他人から崇められてさえいれば満足なんでしょうが、その状態は自分の都合の良い幻想にしがみついているだけで、何の意味もありません。

なら、その様な幻想からは一刻も早く目覚めさせてあげた方が、その人のためになります。

人が生きる意味

人によっては、この様な行動をとると、いずれ恨みを買って命を落とすことになるかもしれないと警告したくもなるかも知れません。しかし、人はそもそも、長生きするために生きているのでしょうか。
人の人生における最大の目標は、死なない事ではありません。 それは良く生きることであり、よく生きるとは秩序を重んじることです。

秩序の維持によってなされる共同体に属する人々の幸福に比べれば、金や名声や権力を手に入れることによって優越感に浸れるなんてことや、秩序を無視して生きながらえることに大した意味はありません。
人は幸福になるために生まれてきたのだし、そのために必要なことは不正を行わないことだけなので、不正を正すことは恥ずべき行為ではないし、それによって殺されたとしても不幸ではないということです。
そのためソクラテスは、裁判官に対して反省している素振りを見せて減刑を求めたりしないし、泣き叫んで同情を求めたりもしないと断言します。 なぜなら、その行動こそが不正であるため、その行動の先には不幸しか待っていないからです。

そして裁判官たちに対しても、感情に流されることなく、事実だけを観て秩序に則って判決を下して欲しいと要望します。なぜなら、そうすることが裁判官たちにとっての幸福につながるからです。
裁判官という職業は、他人の人生を左右することができる重要なものですが、それは巨大な権力ではなく、法律の下にあるシステムでしかありません。
そのシステムを自分の権力だと勘違いし、感情に任せて暴走させてしまうことこそが不正だし、その不正行為は、いずれ、自分の身に跳ね返ってくることでしょう。

なぜなら、その行動によって法律は形骸化し、社会を円滑に進めるはずのシステムも機能を果たさなくなるからです。
その様な社会で暮らすことは、市民にとっては不幸でしかありません。
なぜか、それはルールに守られるはずの市民はルールから見放され、ルールを利用できる支配者層の感情によって支配される世の中になるからです。

支配者層はごく少数しかいないため、大多数の市民たちはルールが形骸化することによってデメリットを受けてしまいます。
そうならないためにもソクラテスは、裁判官たちに感情に流されることなく秩序に則ってさばきを下すべきだと主張しますが、感情に支配された裁判官達は、ソクラテスに死刑判決を下してしまいます。
この後、死刑が執行されるまでの間、ソクラテスと弟子のクリトンたちとの間で議論が行われるのですが、そのまとめは次回に行っていきます。

参考文献