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【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第113回【クリトン】無責任な大衆 前編

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目次

注意

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。

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前回のリンク

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前回のふりかえり

今回も、プラトンが書いた対話篇、クリトンの読み解きを行っていきます。
本を朗読するわけではなく、要約したものに解説を加えた形でコンテンツを作っていますので、興味のある方は、原作を読まれることをお勧めします。

前回の話を振り返ると、ソクラテスが死刑判決を受けた後、彼は直ぐには処刑されずに、1ヶ月ほど牢屋で過ごす事となりました。
その投獄されている間、ソクラテスと共に真理を追い求めて研究していた仲間達は、最後の時を過ごそうと牢屋に通い続けることになります。
死刑囚に簡単に面会が出来るのかと思われる方もいらっしゃるかもしれませんが…

現代でも、一部の国では同じような状態なのかもしれませんが、当時のギリシャでは、役人に賄賂を渡せば自由に面会が出来ましたし、金額によっては、獄卒を買収して脱獄することまで可能だったようです。
そのシステムを利用して、ソクラテスの親友のクリトンは連日のようにソクラテスの元を訪れていたようです。

このクリトンですが、毎日のようにソクラテスに会いに行っていたのは、死刑が執行されるまでの時間、できるだけソクラテスと過ごしたいといった、考えだけで会いに行っていたわけではありません。
彼を説得して牢獄から連れ出し、他の国に亡命させることで、彼の命を救いたいと思ったからです。

ですが、『ソクラテスの弁明』でのソクラテスの態度を見るに、彼は死ぬ気で演説をしています。
その態度からソクラテスは、自分自身が死ぬことで、アテナイ市民たちを良い方向へと導こうとしていたことが分かります。
そんな彼が、死の恐怖から逃れる為に… といった自分勝手な理由だけで、牢獄から逃亡するとは思えません。

そこでクリトンは、『ソクラテスを見殺しにしてしまったら、弟子の私達が、君の信者から責められる。』と言って、逃亡を決断させようとします。
クリトンの思惑としては、ソクラテスは自分の命には無頓着なので、死の恐怖で持って説得することは出来ないけれども、仲間が他の市民から責められて、不幸な目に合うかもしれないといえば、仲間の為に逃亡してくれるだろうと思ったのでしょう。
それに対してソクラテスは、『市民たちは、正しい意見を言うのだろうか? 大半のケースに置いて、聴く価値がないような意見しか言わないのではないか?』と切り替えしたのが、前回までの話でした。

大衆の意見は価値がない

何故、ソクラテスがこのような切り返しをしたのかというと、以前にクリトンと意見交換をした際に、そのような会話をして、『市民の意見の大部分は聴く価値がない』という結論を出したからでした。
ソクラテスに死刑判決がくだされていない、平穏な日常の中で議論をした際には、クリトンはそのような結論に同意したのに、ソクラテスを見殺しにしなくてはならない状況に追い込まれた時だけ、世間の評判を気にするのはおかしいじゃないか!と思ったのでしょう。
そこで、クリトンの主張に変化があったのかどうかを確かめる為に、昔にした議論の結果を持ち出して、考えが変わっていないかどうかを確かめました。

ではこの、『大衆の意見の大半は聴く価値がない』という部分を、もう少し掘り下げて考えてみましょう

先程からも言っている通り、大衆はそれぞれが個々に考えて好き勝手なことを言いますし、特定の環境にはまり込んでしまえば、同調圧力によって皆で同じようなことを言い出すものなので、彼らの意見の大半は、聞くに値しないという事になります。
何故なら、彼らは自分自身で真剣に考えて出した答えを主張しているわけではなく、また、出た答えが本当に正しいかどうかを吟味したわけでもないからです。
ですが、市民が出す全ての意見が無意味なのかというと、そうではなく、一部には耳を傾ける価値がある意見も存在します。

例えば、現代でもそうなんですが古代ギリシャでも、オリンピックなどの祭典に出場する選手には、大勢の観客から様々な意見が寄せられます。
しかし観客の大半は、オリンピックの時だけ、その競技を見るような『にわかファン』ですし、常に競技を観戦しているマニアであったとしても、選手以上に競技について詳しいなんてことはありません。
つまり、ほぼ全ての観客の意見が、技術をさらに上達させるという点に置いては、選手にとっては無意味なアドバイスばかりなので、無視しても良いと言えます。

聞く価値がある意見

しかし、選手以外の全員の意見を無視すればよいかといえば、そんな事はないでしょう。 例えば、その競技に常日頃から接している指導的立場にいるコーチは、選手そのものよりも知識が豊富でしょうし、昔選手で活躍していれば、経験も備えています。
また、選手ではなく指導者という立場が、客観的なモノの見方を可能にする為、選手以上に、選手の事をわかっている可能性も大いにあります。
スポーツそのものに取り組むのも、実践するのも、結果のために日々努力をするのも選手本人ですが、その選手を客観的な視点で見て、適切なアドバイスをする立場であるコーチの意見には、耳を傾けるべきといえます。

コーチは、練習をしない代わりに、その時間を使って、競技についてや他の選手についての情報収集や、最新のトレーニング技術の研究をするわけですから、選手よりも知識が豊富と言えるます。
また、選手一人でトレーニングをしていると、甘えが出て追い込めない場合もあるでしょうし、逆に、追い込みすぎて体を壊してしまう可能性あるでしょう。
『競技をしない』という客観的な立場の人間がそばに着いてアドバイスすることは、選手一人でトレーニングするよりも、コーチのアドバイスを聞き入れながらのトレーニングのほうが効率は良くなると思われます。

これは、スポーツに限ったことではなく、多くの分野には、それぞれの専門家がいるので、そういう人達の意見は積極的に耳を傾ける必要があります。
例えば、家を建てる場合で考えると、家の設計を行えるような人は、設計士以外の誰からの意見にも耳を貸す必要はなく、自分の判断だけでやっていけばよいのかといえば、そんな事はないでしょう。
新しい素材を使った建材の研究は日々行われているわけですから、そういうモノが出た際には、素材の専門家の意見に耳を傾けるべきでしょう。

家を建てる土地そのものを知るためには、地質の研究をしている人の意見や、その土地に大昔から住んでいる人達の意見に耳を貸すべきですし、実際に手を動かして現場で家を建てる大工さんの意見にも耳を貸す必要があるかもしれません。
この人達に共通しているのは、日々の研究などによって、特定の分野に限っては、相当な知恵を持っているという点です。
つまり、普段から、特定の物事に対して真剣に向き合って、研究を重ねて、知恵を蓄えている人達だということです。

ここまで物事に真剣に向き合っている人の意見であれば、採用するかどうかは置いておいて、意見に耳を傾ける価値はあるでしょう。

参考文献