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【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第113回【クリトン】無責任な大衆 後編

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目次

注意

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。

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無責任な大衆

ですが、大半の民衆は、そんな事は行っていません。 日々、同じような日常を何となく生きているだけで、何らかの物事に対して真剣に向き合って研究しているわけではないでしょう。
このような人達の意見には、耳を傾ける必要はなく、無視すべきです。

何故なら、彼らは、何も考えずに発言しているが故に、自身の発言に対して何の責任も持たないからです。
先程の、オリンピック選手の例に戻って、再度、考えてみますと、観客の多くは、オリンピックの間近になって初めて、その選手や競技のことを知った感じなのに、自分の国や地域の代表というだけで、過大な期待を選手にかけます。
『期待してる!』だの何だの言って、選手を過剰に持ち上げるわけですが、では、その選手が敗退したらどうなるのかといえば、態度は豹変し、一気に責め立てます。

観客自身は何の努力もしていないのに、何故か上から目線で、努力をしている選手に対して、罵声を浴びせる。
これは、今現在の日本人がそうだと言っているわけではなく、2500年前の古代ギリシャのオリンピックでも、観客はこのような傾向だったようなので、おそらく、数千年先の未来でも、観客はこのような態度なんでしょう。
このように観客は、自分自身が汗水たらしてトレーニングするわけでもなく、かといって、それぞれの分野の専門家のように、何らかの知識に長けているわけでもないのに、努力している人間を無責任にもて遊びます。

こういう人たちの意見に耳を傾けてしまうと、選手は体が持ちません。
大部分の無知な観客は、選手の体調も考えず、どれほどのトレーニングを積み重ねているのかも知らない状態で『勝ちたいのなら練習しろ!』と言いますし、試合前に過剰な期待でもってプレッシャーを掛けてきます。
そして試合で負けてしまえば『練習が足りなかったからだ!』とか、『もっと頑張れよ!』なんて言ったりします。 何度も言いますが、市民たちは選手の努力も競技の専門知識も知らない状態で主張します。

一方で、選手の努力を絶えず見続けてきたコーチはというと、多くの人は、そういった態度は取らないでしょう。  選手を気遣った態度を取るはずです。
この両者を比べた場合、どちらの意見に耳を傾けるべきなのか。 どちらの意見を無視すべきなのかは一目瞭然です。

専門知識を持っていて、選手のことを真剣に考えているコーチや医療関係者、栄養士などの意見を無視して、無知な観客の言葉だけに耳を貸すような選手がいたとしたら、その人物は破滅してしまうことでしょう。
このソクラテスの説明に、クリトンは反論せずに同意します。

哲学の専門家

では、この理屈を、別の分野に移して考えてみることにします。  別の分野とは何かというと、『美しさ』であり、『正義』『節制』といったアレテーに属する分野についてです。
『美しさ』や『正義』などについては、誰もが自分の意見を持っていて、多くの人が自分の価値観で好き勝手なことを話していますが…
これについても、普段から、この分野について何も考えた事もないし、研究しようとすらしていないのにも関わらず、主張だけする人達というのは大勢います。

特に現代では、哲学なんて意味がないという意見が主流のようですので、ほぼ全ての人がこれに当たると思われます。
では、真剣に考えている人はゼロなのかというと、そうではなく、少ないながらも、この分野について研究している人達もいるでしょう。
この2種類の人達が、それぞれ、『美しさ』であるとか『正義』といったアレテーに属する分野についての意見を持っているわけですが、どちらの意見に耳を貸すべきなんでしょうか。

現代では、哲学なんてものは、何の役にも立たないと主張する人達が、それなりの割合で存在します。 例えば…
大学で哲学を勉強したとしても、就職先すら無い。そんなものに金をかけて研究しても無駄でしかないので、哲学は学問という分野から外して、好きな人が自分の金と時間を使って、趣味の分野としてやれば良いといった感じの主張をする人達です。
現実問題として、大学で哲学科を出たとしても、それを生かした就職先なんてものは少ないでしょうから、大部分の学生は、全く違った分野に就職することになるでしょう。

このような現実を突きつけられると、哲学について日々考えていくことが馬鹿らしくなってしまう気持ちは、理解できなくもありません。
ですが、いざ、善悪を見極めなければならない状態に追い詰められたとしたら、どうでしょうか。

哲学なんて意味がない!として、人生の中で一度も善悪について考えず、自分の頭の中に大まかなイメージとしてある善悪のイメージを『確かなものだ』と信じ込んでいる人の意見に耳を貸すべきなんでしょうか。
それとも、世間の評判など気にせずに、自分の人生をかけて善悪について研究している人の意見に耳を貸すべきなんでしょうか。

魂についての生きがい

もし仮に、『哲学なんて意味がない! 善悪の区別なんて、誰でも見分けがつく』と言って、人生の中で善悪について一度も考えたことがない人の意見に耳を貸してしまったとしたら…
先程の例に出した運動選手のように、良くない方向へと導かれてしまうのではないでしょうか。
運動競技についての知識がまったくない観客の意見に耳を傾ける運動選手は、結果が残せないか、オーバーワークで体を潰してしまうことでしょう。

その選手がオーバーワークになり、ドクターストップがかかって、選手生命が断たれてしまったとすれば、彼は、生きがいを失ってしまうことになります。
これは、アレテーの分野においても同じです。 よく生きようと思い、その目標のために一生懸命生きてきた人間が、無知なもののアドバイスに従って悪の道を突き進んでしまったとしたら。
良かれと思って行ってきた事が悪いことだと気づいてしまえば、その人物は、理想と現実のギャップに打ちのめされてしまい、生きる気力を失ってしまうのではないでしょうか。

また、体についての生きがいと魂についての生きがいを比べた場合、どちらの方が大切かといえば、魂の生きがいです。
運動選手は体を壊したことによって、自分が行ってきた競技に二度と選手として携われなかったとしても、別の形で競技に関わることが可能でしょう。
自分の失敗の経験を生かして、指導者として後輩を育てるというのも一つの道です。 また、スポーツはその性質上、生涯に渡って選手で居続けるのが難しいものです。

選手は、いずれは引退することを念頭に置いて競技を行っていますから、リタイアについても考えながら生きています。
しかし、魂についての生きがいにおいて失敗をしてしまったとすれば、その人間は立ち直れるでしょうか。

困っている人々の為に行動したいと思いたち、他人のアドバイスを聞いて行動した結果、自分の行動が一部の人達の利益に協力していただけで、大勢の不幸な人々を生み出すことになっていた場合。
この人物は、この先、生きる気力を失ってしまい、最悪の場合は、命を絶ってしまう可能性すらあります。

脱獄すべきなのか

ソクラテスは、この事を踏まえた上で、もう一度、クリトンに対して訪ねます。
『君は、私を見殺しにすることで、君たちが無知なものから責められるというが、本当に市民たちの顔色をうかがって、私を逃がすのが正しい行動なんだろうか?』と。
深く、よく吟味した上で、本当に脱獄することが正しい道であるのならば、私は君の意見に従って、出ていくほうが良いのかもしれない。

しかし、大部分の大衆というものは流されやすく、その時々の雰囲気によって、人を殺してしまおうと考えたり、逆に、死刑判決を下したのにも関わらず、『死ぬほどの罪でもないかもしれない』というような人達です。
そんな人達が、『死刑囚を見殺しにした』と責め立ててくるからという理由だけでは、脱獄する理由にはなりません。
今回の場合は、脱獄するか留まるかの2択の為、無知な市民の意見だからといって、確実に間違っているとはいえません。 偶然にも答えが合っている可能性はあります。

その為、無条件で留まるべきとすべきではありませんが、このことについては簡単に結論を出さず、納得の行くまで考え抜いて、出た答えを吟味する必要があります。
アテナイ人によって死刑判決を受けたソクラテスが、法律を破って牢獄から出ていくべきなのか、それとも、死を受け入れてとどまり続けるべきなのか。
これについての考察ですが、次回に行っていこうと思います。

参考文献