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【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第43回 哲学の祖 『ソクラテス』 後編

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この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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前回はこちら
kimniy8.hatenablog.com

アニュトス vs ソクラテス

話が抽象的になりすぎているので、具体的な例を一つ出してみますと…
アニュトスという政治家に対して、この様な質問を行います。『善い民主政治とは何なのでしょうか?』
政治家に対して政治の基本を聴いているわけですから、政治家としては、当然、知っているべき答えですし、答えられなければ恥をかくような質問です。

この質問に対し、アニュトスは、『自由と平等。 この2つ無くして、善い民主政治はありえない』と自信満々に良います。
しかし、この主張にソクラテスは納得できず、質問を重ねていきます。『では、自由というのは政治家だけに認められた一部の特権のようなものなのですか?』と。
それを聴いたアニュトスは、気分を害して怒った様子で、『自由は国家に属する全ての民に、平等に行き渡っていなければならない。』と力説するんです。

ここまでのアニュトスの主張を聴いて、すんなり納得した人も多いと思います。 しかし残念ですが、これで納得した人達というのは、ソクラテスに言わせれば、知らない事を知った気になっている人達ということになってしまいます。
ソクラテスの質問はここで終わらず、更にツッコんだ質問を行っていきます。
『善い民主政治は、自由なくしてはありえず、その自由は平等に全国民が持っていて、その自由の権利を行使できるのであれば、そもそも、国なんてものが無くなってしまうのではないですか?』

国民の完全な自由は無秩序を生む

それぞれの人間が、自分の主義主張をもとに行き過ぎた自由を謳歌するのであれば、それは、無政府状態を生んでしまうということです。
例えば、生まれついての人殺しが、自分の主義主張のもとに大量虐殺を自由に行う権利を主張したとしても、その自由は尊重されなければならないということです。
そんな状態は、国が治まっている状態とは到底いえない為、政府そのものが機能していない状態に陥ってしまう。政府そのものが機能していない状態というのは、当然、民主政も機能していない状態になるわけですが… 
そんな状態でもいいと、政治家が主張するんですか?と詰め寄ります。

この質問に対して、アニュトスは反論が出来ないんですね。
というのも、この主張に対して反論をする場合、『国の方向性と合わない価値観や、それに伴う自由な思想というのは、制限されなければならない。』と言わなければならないわけですが…
それを言ってしまうと、一番最初に、自分自身が自信満々で出してきた答えである『自由と平等。 自由を全国民に平等に分け与える』という主張を撤回しなければなりません。

前言撤回は、『善い民主政治とは何か?』という、政治家にとって最も基本的な質問を、政治家自身が自信満々で出した答えが間違っていたという結果になってしまう為、絶対に出来ません。
アニュトスは、反論できずに、ソクラテスに対して敵意を抱く事しか出来ない状態で『ぐぬぬ・・・』って感じで口をつぐむぐらいしか出来なかったんです。

最も単純な問に答えられない賢者

ではこの時、アニュトスが自分の主張が間違っていたことを認めて、前言撤回して、『民主制を維持するために、国家の意向に沿わないような思想や行動は制限されるべき』と主張していたらどうでしょうか。
仮に、こう答えたとしても、ソクラテスの質問は続いていくでしょう。おそらくですが…
『国の権限によって、一部の人間の自由を制限する場合、何を基準にして、制限をするのですか?』
『仮に、国が2つの価値観によって割れてしまった場合に、2つの内、どちらを価値観を国の価値観として採用するのですか?』といった具合にです。

この様に質問されてしまうと、政治家としては、何らかの基準を答えざるをえません。
この時代のギリシャは民主制で、国民が国を治めている状態なので、この質問に対しては、現在の民主主義国家の様に、『多数決で決める』と答えることが出来るかもしれません。
ですが、その様な答えではソクラテスは納得しないでしょう。

『多数の人間が支持しているからと言って、その価値観が正しいという保証は何処にあるのでしょうか?』
『仮に、多数の人間の価値観が間違っていた場合は、国は間違った方向に行ってしまうのではないでしょうか?』
『2つの意見を支持する人間の数が同数だった場合、つまり、丁度半分に意見が別れた場合は、どちらを採用するのですか?』といった具合にです。

この様な質問を矢継ぎ早に投げかけられ続けると、最終的には、『善い意見』で有ったり『正義に則って』といった答えに行き着いてしまいます。
そうするとソクラテスは、満を持して、『では、善いとはどういう状態のことなのですか? 正義とは、何のですか?』と聴いてくることでしょう。

生涯に渡って根本的な疑問を探求したソクラテス

この質問を投げかけられてしまうと、ゲームセットです。
というのもソクラテスは、正義だとか善・良いといった事や、美とは何なのかといった事に対して、生涯に渡って研究し続けた結果、分からないという所まで到達した唯一の人物だからです。

これを聴いて、意外に思った方も多いと思います。 というのも、善悪の区別や正義なんて、誰でも当然のように知っている価値観だと思われがちだからです。
でも、冷静になって改めて考えていると、何が良くて何が悪いなんていうのは、本当にみんなが分かっているんでしょうか?
仮に、みんなが正義や善という価値観を共有していて、正義や善に対する確固たるイメージをしっかりと持っていたとしたら、世界で争いなんて起こりませんし、戦争なんてものも起こりませんよね。

戦争というのは、言い出しっぺの国の代表や軍の上層部が自分たちで行うわけではなく、下っ端の兵士に命令を下す事で、殺し合いをさせるものです。
下っ端の兵士は、何の恨みもない敵の兵士を殺さなければならないわけですが、何故、殺せるのかというと、自分が正義側にいると思っていて、自分たちが正しい行動をしていると思っているから、常軌を逸した行動を取れるわけですよね。
でも、その正義は、相手側の兵士も抱いているわけですよね。

『正義』や『善』の絶対的な意味を知るものはいない

正義であったり善といった価値観が、たった一つの意味しか持たない概念であるならば、それを共有している両軍の兵士は、争わないはずです。
でも、実際に争いが起こるのは、相手が信じている正義は悪だと思っているからです。
つまり、相手自身は正義だと思っている価値観が、客観的に見れば悪になっているという事で、正義という概念が共有できていないから、争いが起こるわけです。

自分が正義だと思っている事が、客観的に観ると悪になっている、悪だと思っていたものも、立場が変わると正義に変わるというのは、よくよく考えてみると、おかしな話ですよね。
立場によって善悪の基準が変わるというのは、言い換えれば、人それぞれに善悪という価値観が存在することになるということで、地球に70億人いれば70億通りの善と悪がある事になります。
人の数だけ善悪の価値観が存在するという事は、絶対的な善を人が認識できてない事を意味するわけで、結局は、善というのを本当の意味で知っている人類はいないことになります。

自称『賢者』に逆恨みされるソクラテス

政治運営をしていく上で、最終的な拠り所となる『善』や『正義』といった価値観がブレているのなら、当然、善い政治運営なんて出来るはずがないという事になってしまいます。
この様な感じで、ソクラテスは知識を求めて、自称賢者の元を訪れては、自分が知らない事を聞き出そうと思うわけですが、その討論の結果として、相手も何も知らないということが暴かれていきます。
多くの場合、賢者は弟子を引き連れていて、その弟子の前で格好をつけながら討論しているわけですが、その結果として自分が無知であることが証明されてしまうと、自称賢者は面目丸つぶれ状態になってしまいます。

結果としてソクラテスは多くの敵を作ってしまい、最終的には罪をでっち上げられて、死に追いやられてしまうわけですが、次回からは、そんなソクラテスがどんな主張をしていったのかについて勉強していこうと思います。