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ホワイトカラーではないブルーカラーからの視点

プラトン著『饗宴』(2) 古代の人類

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今回の投稿は前回の続きで、饗宴の内容をメモ代わりに書いていきます。
饗宴とは、プラトン著の対話篇のことです。



前回の投稿はこちら
kimniy8.hatenablog.com

エリュクシマコスの主張

パウサニアスが主張した二種類のエロスを認めた上で、医者であるエリュクシマコスは、医学を絡めた形で二種類のエロスの解説を行う。
人間の体を2種類に分類すると、健康な部分と病気の部分に分けることが出来る。 この二種類は当然のように違った性質を持つが、それぞれが同じ様に『欲求(エロス)』をしてくる。
ここでいうエロスは、性的欲求というよりも、『水が欲しい』とか『食事を取りたくない』といった、体が体調を通して求めてくるものだという認識で良いと思う。

体の健康な部分と病気の部分は、それぞれが、体調を通して欲求を突きつけてくるが、耳を傾けるべきなのは健康な部分が欲求している部分だけで、それこそが『治療』と呼ばれるもの。
決して、病気の部分から生まれる欲求(エロス)に耳を傾けてはいけないし、言いなりになってもいけない。
つまり、医者にとって最も重要なことは、体が体調を通して訴えかけてくる欲求が、健康な部分から発せられているのか、それとも、病気の部分から発せられているのかを見極める事となる。それを、どれだけ間違いなく出来るかで、医者が優秀かどうかが決まる。

さらに優れた医師は、患者の体に働きかけて、欲求を別の方向に変えたり、取り除いたり。また、無いところに欲求を発生させたりする事が出来る。(食欲が無い状態を変化させて、食欲を出させるなど?)
体の中に存在する敵対する部分。例えば、温かいところと冷たいところ、硬い部分と柔らかい部分、乾いた部分と湿った部分など、正反対の性質を持つ部分にはたらきかけて、互いが互いを求め合うようにエロスを操作し、体内に調和をもたらす事が出来る。

これらの事は、医術に限定されず、運動や農業、音楽といった他分野のことについても当てはまるとし、ヘラクレイトス(万物流転の)の言葉を引用する。
『一なるものは、自分自身と合致していないのに、自分自身と調和している。ソレはまるで、弓や竪琴が生み出す調和のようなものだ。』

エリュクシマコスの解釈としては、竪琴が放つ高音や低音は正反対の性質を持っていて、一つに合致しているとは言えないが、その正反対の性質を持つ音を、技術によって調和させて和音を作ることは出来る。
技術が伴っていない状態で2つの音を合わせたとしても、それは不協和音にしかならないが、技術によって2つの音を一致させることができれば、そこに調和が生まれる。
これは、テンポの早い遅いも同じで、正反対のものを一致させることによって調和が生まれる。 これいよって生み出された調和にはエロスが宿っている為、当然、美しいものとなる。

しかし、この音楽に宿るエロスには、俗とか天といった二種類のエロスは存在していない。それが姿を表すのは、音楽が使われる現場においてである。
パウサニアスの主張では、例えば恋愛という現象そのものにはエロスは宿らず、その行為がどの様に行われたのかによって、二種類のエロスのどちらかが宿る。
この識別は難しく、専門家による知恵が必要となるが、先程の医術の例が応用できる。

医術の例では、健康な部分と病気の部分のそれぞれから発せられる欲求を見極めて、どちらの欲求を聴くかを判断する技術が必要だったが、音楽の場合は、音楽を使用するイベントの参加者そのものが、調和が取れているものと取れていないものの二つに分かれる。
例えば宴会が開かれて音楽を流した際に、耳を傾けるべきは調和の取れている人間の意見で、その人達の欲求を聞き入れることにより、調和が取れていなかった人たちも、徐々に調和が取れてくる。
ここで、調和が取れていない人間の欲求に耳を傾けて馬鹿騒ぎしてしまうと、音楽を流している場の調和は崩れてしまう。

医術や音楽に限らず、これは料理などでも同じで、料理の技術が生み出す食欲を適切に誘導せずに、食べる人間に任せっきりであれば、その人間が調和の取れていない人間であれば、料理を食べすぎて病気になってしまうということも有る。
しかし、調和の取れた人間がエロスの適切な誘導を行い、食べる量や物を調整すれば、体は健康になるし、食そのものがもたらす快楽も楽しむことが出来る。

二種類のエロスと調和の話は、人間が生み出した文化だけに限らない。
例えば、自然には四季の移り変わりというものが有るが、これも調和が取れていなければならない。 寒い時期と暖かい時期。そして、それらが混じり合う季節が調和の取れた形で巡っているから自然というものは成り立っている。
これが、ずっと寒い状態や、反対に熱い状態が続くと、調和は崩れて、生態系に大きな被害が出てしまう。 天体の動きや四季に関するエロスを研究する学問が、『天文学』と呼ばれている。

またこれは、神と人間との関係や、占いに関することに置いても同様。
あらゆる宗教的儀式は、神と人間がお互いの意思を伝え合う為の行為だが、その行為そのものが、エロスを誘導させて調和を取ろうとする行為にほかならない。
神の意にそぐわない行為を平然と行う事は、調和を欠く行為で、調和が取れていない人間が行うことなので、俗のエロスの行為と言える。

自分自身の欲求だけを満たす為に起こす行為は、調和が取れていない為に醜く、長続きするものではない。
占いとは、第三者的な視点に置いて、その人間が俗のエロスに取り憑かれてないかどうかを判断するもので、傲慢な人間に節制を正義を与え、正しく美しい行為に導いてくれるもの。
この、調和の取れた正しいエロスこそ、私達を幸福へと導いてくれるエロスで、これが有ってこそ、私達人間は互いにゆう愛の絆を結ぶことが出来る。

アリストファネスの主張

太古の昔、人間は今のような形をしておらず、手と足はそれぞれ4本あり、頭も2つ。 2人の人間が背中合わせ(実際には腹合わせ)に繋がっているような感じの容姿をしていて、早く走る場合には、それぞれ4本有る両手足を真っ直ぐに伸ばし、ウニが転がるような感じで移動していた。
この様な太鼓の人間には、3つの性別が有った。『男女』の性質を併せ持つ(アンドロギュヌス)ものと、『男と男』の性質を持つものと『女と女』の性質を持つもの。
3つの性別には起源があり、男性同士が繋がった者は太陽。女性同士が繋がったものは地球。そして、男女で繋がったものは月を起源として生まれてきた。
太鼓の人間が球体のような容姿で動き回るのは、彼らの生みの親である天体の姿を模倣していてのこと。

ここから分かるのは、古代ギリシャのこの時点で、地球が丸く回転していることが分かっていたということ。

太鼓の人間は力が強く、その力で持って神に挑戦しようとした。 この挑戦に対し、神は人間を滅ぼすことで対応することも出来たが、神々はそうはしなかった。
何故なら、神々は人間たちから信仰心という供物を受け取っていた為、人間を滅ぼしてしまうと、この供物ごと消えてしまう。
かましい人間を懲らしめたい気持ちと、彼らからの供物を失いたくない思いとに板挟みになったゼウスは、人間の力を弱めることで対処しようとする。

どの様にして力を弱めたのかというと、人間を真っ二つにした。 今現在の人間が背中同士で繋がっているような容姿をしていた人間は、ゼウスによって真っ二つにされ、今と同じ様な日本の手足の姿となった。
これによって力わ弱まったが、その一方で人工が倍になったので、神への供物である信仰心も倍になる。
この様な感じで、ゼウスはゆで卵を髪の毛を使って真っ二つに分断するように、人間の体を分断していった。(2500年前からゆで卵を切るのに糸を使っていた事が分かる。)

真っ二つに分断されたそれぞれの人間は、元の力を取り戻すために、互いに互いの半身を求め始めた。 これにより、男同士、女同士、男女のカップリングが誕生する。
しかし、一方の片割れが死んでしまうと、残された一人は、別の半身を探しにく。 この際、相手の性別を気にすることなく、手当たり次第に求めたために、人類は滅亡に向かっていった。

不憫に思ったゼウスは、人間の性器を反対方向に付け替えて、子孫を残す方法を変えた。 古代の人類の生殖方法は、地面に種を植え付けて育てるというものだったのを、性行為を通して子供を作るという、今の人間と同じ様な形に作り変えた。
このとき以来、人間には『互いに求め合う』という感情がエロスが生まれる事になる。 これは、人の本来の姿を回復させて、2つのものを一つにして人間の本来の姿を取り戻そうという感情。
ヒラメやカレイの様に、人間は1つのものが2つに分割した割符の様な存在なので、符合するもう一つの存在を探し続けている。(ちなみに、旧約聖書が信仰対象になっている地域では、ヒラメやカレイには十戒のモーゼが由来の名前がついている)

この様な期限で生まれた現在の人類だが、男と女が繋がっていたアンドロギュヌスは、浮気症で節操がない。
男同士、女同士で繋がっていたものは共に同性愛者だが、その中でも一番優れているのが、男同士で繋がっていた人たちとなる。何故なら、彼らはいつも、自分と同じ性質のものに喜びを感じるから。

元々は3つの性別で、そこから別れた人間たちは、常に片割れを探し彷徨い、もし半身を見つけることができれば、驚くほどの愛情と親密さを含んだ感情を感じ取ることになる。その感情がエロス。
出会った二人は決っして離れようとせず、生涯をともにするわけだが、この理由は、単純に性行為をしたいからというだけで求め合うわけではない。
では、何を求めて互いに求め合うのかというと、それを現代の人間が具体的に言うことは出来ない。 曖昧ではあるが、確かに存在する感情によって惹かれ合う。(イデア論の原型?)

その感情の大本は、人間の本来の姿である、半身と合体して2人が1人になること。 2つに分けられて力を失った人間は、本来の姿を取り戻そうとして半身を探し、半身を見つけた際にはそれを手放そうとはせず、1つになろうとする。
また人間は、自分たちを2つに分断した神々を恐れ、それと同時に、それを可能にした力を持つ存在を敬わなければならない。
神々を常に尊敬するという態度を絶やし、再び神に挑戦を使用などと思えば、神は再び人間の体を分断し、一本足、一本腕にされてしまうだろう。

もし、人間の幸福が、太古の人間性の回復であり、その為に必要になるのが己の半身である者との愛情を通じた結合であるなら、その行為こそが人々を幸福に導く行動であり、その行動の象徴として存在する神であるエロスは、称賛しなければならない。
エロスが、人々を幸福に導いてくれるのだから。

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