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ホワイトカラーではないブルーカラーからの視点

プラトン著『饗宴』(3) エロスの正体

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今回の投稿は前回の続きで、饗宴の内容をメモ代わりに書いていきます。
饗宴とは、プラトン著の対話篇のことです。



前回の投稿はこちら
kimniy8.hatenablog.com

『アガトンの主張』

これまでに話をしてきた者たちは、『神そのもの』を褒め称えたのではなく、神が与える祝福を受けた人間について話してきたのであって、神その物を賛美した者は居なかったので、アガトンは神を直接、賛美しようとする。
どのようなものをどの様に褒める場合でも、『何故、称える対象であるのか』の根本原因を知らなければならない。 神、そのものの素晴らしさを知った上で、神がもたらす力の素晴らしさを考えるべき。

前までの主張で、エロスは最も古い神といわれ、それ故に偉い、尊いといった主張が行われてきた、それは間違いで、エロスは神々の中で最もわかく、故に美しい。
エロスは老年を嫌い、意図的に距離を取っているため、年を取ることもなく、永遠に若い。
 
神々が争ったのは、エロスがいなかったからで、争いが起こった原因はエロスにはなく、アナンケ(必然の神)の仕業。
もし仮に、争いが起こっている中にエロスがいれば、エロスが象徴する愛情と平和によって、争いは解決していたはず。その平和が実現したのは、エロスが神々の王になってからの話。

またエロスは、若いだけではなく、繊細な女神でも有る。 ホメロスは、アーテという女神を称賛する際に、その女神の足が繊細で美しいと詩によって表現しているが、その表現方法は、その女神が硬いものの上を歩かずに、軟かい物の上だけを歩くことで表現している。
しかし、この表現はそのままエロスの繊細さを表現するのにも応用できる。 というのも、エロスはそもそも『何処か』を歩くといったことはしない上、その神が宿るのは、柔軟な柔らかい心を持った人間の心の中だけだから。
エロスは、足だけではなく全身が柔らかく繊細なので、好む住処も、柔らかい心の持ち主の中だけと決めている。
以上を持って、エロスは最も若く、繊細で美しいことが理解できると思う。

次に、エロスの性質ですが、エロスは神に対しても人に対しても不正を行うことがなく、また、される事もない。
また様々な同意は、暴力を伴って行われるものでもない。何故ならエロスとは、愛するものに対する慈しみの心を象徴。 愛する人からの願いに対して聞く耳を持たない人間はおらず、愛する人に対して無理難題を押し付けようとする人間もいない。
エロスが介在する同意は、両者が納得をした上での同意にしかならない。 この同意を拡大し、全ての国民が同意したルールが法律となると、その法律は正義となる。

またエロスは、節制も備えている。 節制とは、欲望などを抑え込むものだが、この世で最大の欲望はエロスである為、全ての欲望はエロスよりも下ということになリ、支配下に有るともいえる。
あらゆる欲望を支配するということは、言い換えれば最高の節制を持っているという事にもなる。
さらにエロスは、欲望だけではなく、勇気すらも支配下に置いている。 勇気の象徴とされるアレスは、アフロディーテに恋をして虜になるが、この恋という感情こそがエロスである為、勇気の象徴であるアレスはエロスの虜になったともいえる。
これにより、エロスは勇気も支配下に収めている事が分かる。

この様に、エロスは徳性の中の『正義』『節度』『勇気』を支配下においているが、残る知恵はどうなのかというと、知恵もエロスの支配下にある。

知恵の象徴ともいえる職業が詩人だが、これまで詩に興味がなかった者がいたとしても、エロスに触れて恋心を抱けば、意中の人に気持ちを伝えるために詩に興味を持ち、詩人となる。
自分にないものを他人に伝えることも教えることも出来ない為、何も持たない人間が詩人になれるということは、エロスに知恵があるともいえる。
エロスの知恵によって、何者でもなかったものが知恵を授かって詩人になることが出来る。

これは詩人に限らず、他の物事や職業についてもいえる。 彫刻家の様な芸術家であれ、医者であれ、全ての知恵や技術は、まず、最初に欲望というエロスが存在し、それに導かれる形で技術や知恵を発見したり発展させる。
エロスは全ての物事の先導者であり、教師である為、エロスに出会うことが出来た人間は傑出した著名な人間になることが出来るが、エロスに出会うことが出来なかったもの。 つまり、欲望を抱くことが出来ない人間が生み出したものは、夜に知れ渡る前に終わってしまう。
つまり、アポロンの様な弓矢や医術や占いに秀でたものも、ヘパイストスの様な鍛冶職人も、ゼウスのような統治者ですら、その技術を磨くという点においてはエロスの弟子のような存在であるため、全ての神(感情や技術を象徴する存在)はエロスの配下にあるといえる。

その『全ての上に立つエロス』は、当然のように美しいものを好む。
その為に、エロスが関わった知恵や技術は美しく、エロスが美しいものを求めるために、この世の中は美しくなろうとする。

(この様な内容を、韻を踏んで音楽のように演説をした。ラップ?)

ソクラテスの主張

ソクラテスはまず、このゲームの前提をもう一度考え直す。
このゲームのルールは、『エロスを賛美すること』なので、まず、やるべきことは、エロスについての真実を語った後に、出来るだけ美しいものを並べていけば良いと思っていた。
しかし、先程からの主張を聴いたところ、その考えは間違いだっただ。

このゲームでやるべき事は、知識を持っていない聞き手(知識のある人間には通用しない)に対して、内容が真実であれ、嘘であれ、より、もっともらしく聞こえるような話を出来た方が勝ちというルールだった。
話し手は、聞き手の印象に残るように、出来るだけ話を大きくし、飾り付け、聞き手の関心を引ければ、それで勝ちとなる。 話されている内容が真実か嘘かなどは、どうでも良かったと分析する。
その例として、アガトンの主張の問題点を指摘する。

ソクラテスは、まず最初に、アガトンの主張の良い点について触れて、称賛する。 その部分とは、他の参加者が行わなかった、称賛する対象となる『エロスそのものの本質』を見極めようとした点について。
この議論の始め方は、ソクラテスの考えと同じだった為、素晴らしい行為だと触れた上で、エロスの本質が正しく見抜けていない点について、苦言を呈する。

エロスというのは、その概念が抽象化されすぎていて、性欲であったり欲望であったり慈しみであったりと、カバーする範囲が広すぎるので、ソクラテスは、その広すぎる概念を限定させるところ方始める。
いきなりエロスに触れるのではなく、親や父親、兄といった概念から定義をする。 親というのは、そもそも何なのだろうか。
ソクラテスの一応の回答としては、親とは『子を持つもの』であり、親は全て、『何者かの親』で有るべき存在。兄も同じで、弟という存在なくして兄は存在しない。

では、エロスとは何なのだろうか。 エロスというものが独立して存在するのだろうか。 それとも、『何者かのエロス』なのだろうか。
エロスという神は人間の精神の一部分を神格化したものなので、その出生から考えると、人間なくしてエロスは存在しない事となる。 その為、エロスは『何者かのエロス』という事になる。

エロスの大本を辿ると、人間の感情に行き当たるわけだが、では、人間は、何かを所有している状態で、小揖しているものその物を追い求めることは有るのだろうか。
例えば、テレビを既に所有している人間が、それでも尚、テレビが欲しいという欲望によって突き動かされることは有るのだろうか。
こう考えてみると、人は何かを所有している時には、それを更に追い求めようとはしない。 もしする場合は、未来にわたって所有している状態を維持し続けたいという欲望であって、所有することで満たされている状態になれば、更に所有したいとは思わない。

この考え方を、エロスにも適用してみることにする。 アガトンの主張では、エロスは『美しいものを求めている』という事だったが、エロスが真に美しい存在であるのであれば、エロスは美を更に追い求めるようなことはしないだろう。
エロスが美を追求し、常に追い求めているというのであれば、エロスは醜い存在であるといえるのではないか。
アガトンは、この理論に納得して受け入れてしまうが、個人的にはどうかと思う。というのも、現在の社会を見れば、この理論はおかしいことに気がついてしまう。

(現状の社会では、金をより求めるのは金持ちで、金持ちは大量の金を受け取っても使用することなく、更に多くの金を求めて溜め込んでいる。 その一方で、それほど裕福ではない人間は、お金を手にすれば、それをすぐに使用してしまう。
ソクラテスの理屈では、金持ちは『既に金を持っているのだから、金を欲することはない』はずなのに、現状の社会では逆の減少が起こっている。)

この様な感じで、アガトンが主張するエロスの前提に対して批判した後に、ソクラテスは自身の主張を行っていくことになる。
ソクラテスの主張は、これまで繰り広げられていたゲームの様に、自分の主張をみんなに向けて語りかけるのではなく、一人ひとりの主張を吟味していくという方法で行われる。
また、ソクラテス自身は自分のことを無知者と主張している為、他人の意見に対して反論を言う場合は、自分の知恵を見せつけるというよりも、巫女であるディオティマの言葉を代弁する形で行う。

(つづく)
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