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ホワイトカラーではないブルーカラーからの視点

プラトン著『饗宴』(1) ショタ愛の談義

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今回は、備忘録といいますか…
読んだ本の内容と簡単な感想などを、メモ代わりに書き残していこうと思います。
読んだ本は、プラトン(著)・中澤 務(訳)の『饗宴 (光文社古典新訳文庫)』です。

こういった哲学書では、光文社古典新訳文庫岩波書店が有名でたくさん出てたりするのですが、個人的に読みやすいと思っているのは、こちらの『光文社古典新訳文庫』から出ているものです。
岩波書店がら出ているものは、時代がかった書き方や、哲学書以外で何処で使うのか意味不明の言い回しなどが頻繁に出てきて、2~3P読むだけで眠くなるのに対し、こちらの訳は現代の言葉に近く、比較的理解しやすい上に、後半部分では解説がついていたりするので、私のような哲学初心者にはこちらの本の方が読みやすかったりします。

簡単な内容

この対話篇は、アポロドロスがアリストデモスから聴いたエピソードを、別の人に伝えるという感じで始まる。
アリストデモスは、映画300のテーマになったテルモピュライの戦いにも参加していたが、病気になって戦場を離れたことで生き残り、その後、ソクラテスの弟子となった人物。

エピソードの内容としては、悲劇詩人のアガトンが作品を認められてコンテストで優勝したので、饗宴を開く事にして、参加者を募る。その中の一人がソクラテス
ソクラテスが饗宴に行く準備をしていると、アリストデモスが偶然にもソクラテスの元を訪れたので、『アリストデモスも一緒に行こう!』と、招待状をもらっても居ないアリストデモスを強引に誘う形で、饗宴に参加するところから始まります。

この当時の宴会は、お酒を呑んで『ウェーィ!』って言ってるだけでは駄目で、知的な遊びが行われていたようで、今回の舞台となる饗宴では、エロスを賛美する演説を順番に行っていって、一番関心を得られた人が優勝という感じの催しが行われ、その演説が対話篇の主な内容になっている。
エロスを称え合う話から始まり、エロスとは何かという話になっていく。ここで言うエロスは性的なものを含む感情のことですが、基本的には、成人男性がショタに対して注ぐ愛情を指している。

パイドロスの主張

この世界は、まずカオスが生まれ、その次に母なる大地であるガイアが生まれ、エロスはその次に生まれた。つまり、神として最初に生まれたのがエロスであり、最も尊い存在であるという出だしで始まる。
何故、『一番最初に生まれた』という順序が重要なのかというと、古代人は、人間にとって重要な役割を持つものだと思うものから順番に、神として具現化していったのではないかという考えからかもしれない。
まず、何かを生み出す混沌がなければ、この宇宙は生まれず、大地がなければ人間どころか動物が生まれることもなかった。 しかし、その次に来るのがエロス(愛)というのは、生物にとって一番重要なものがエロスだと考えたからだという主張でしょう。

では何故、エロスが一番重要なのかというと、人生に対して目的を与えてくれるものは、常にエロスだから。
人間は目的がなければ進むべき方向がわからず、進むべき方向がわからなければ、一歩を踏み出す方向も分からない。 しかし、エロスはその方向を指し示してくれる為、人間が人生を歩む事において一番重要な存在。

例えば、自分の臆病が原因でミスをして恥をかくという経験をする場合、その現場を見られた際に一番恥ずかしいのは、父親でも上司でもなく、恋人に目撃された時。
(…これは、DQNが女性の前で恥をかかされた際に、烈火のごとく怒り出すのを考えてみると分かりやすいかもしれない。)
逆にいえば、男同士の同性愛者の恋人同士を集めて軍隊を作れば、互いに『恥をかきたくない』『格好良いところを見せたい』という意識が働き、最強の軍隊が作れる可能性も有る。
どれほどの臆病者であったとしても、そこにエロスが宿れば、恋人を見捨てて自分だけ逃げるなんてことはしないのだから。

また、自分の命を捨ててでも救いたいと思えるのは、愛する人の為だけで、命をかけて愛する人の為に行動を起こすのは、神々ですら感動する。
古代ギリシャでは知らない人はいないとされる程に有名なギリシャ悲劇の主人公、アルケスティスは、死期が迫った夫に対してアポロンが『身代わりを差し出せば命を助ける』というアポロンの条件をのみ、自らの命を捧げるが、その行為に心を打たれたヘラクレスが彼女を救い出すという話が有る。

一方で、同じ神話の話であっても、エロスに対して対価を払わないものは神々から軽蔑されてしまう。 例えば、オルフェウスの物語。 美しい容姿をもった吟遊詩人のオルフェウスは最愛の妻を失ってしまうが、その現実を受け入れることが出来ずに、ハデスに頼み込んで行きたまま冥府に入り、妻を現世に連れ返そうとする。
その際に、ハデスから『決して後ろを振り返るな』という条件を出されたが、オルフェウスはそれを守り通すことが出来ず、出口直前で振り返ってしまい、妻は再び冥府に連れ戻される。
妻を再び失ったオルフェウスは打ちのめされて放心状態になっていると、そこへ、オルフェウスの美貌に惹かれた女たちがよってきて誘惑する。しかし、その誘いに乗らなかったオルフェウスは、彼女たちによって八つ裂きにされてしまうという話。

同じ様な愛する人を救おうとする話だが、オルフェイスは、自身の身を危険に晒すことなく救おうと考えた。この行為に神々は気分を害し、オルフェイスに対して罪を与える。
神々が称賛するのは、単純に愛の為に起こす行動ではなく、自身の命を顧みず、『勇気を出して』行動をする者。
また神々は、愛する者がその対象に起こす行動よりも、愛される者が愛する者に対して行う行動を、より重視する。

例えば、トロイア戦争の出来事でいうと、アキレウスパトロクロスの関係では、アキレウスの方が、まだ髭も生えていないほどに若く、誰よりも美しい少年で、そのアキレウスパトロクロスが愛していた。
しかし、パトロクロスはトロイのヘクトルによって殺されてしまう。 この事を、予め知っていたアキレウスの母親は、『ヘクトルを殺しに行けば、お前(アキレウス)も死ぬことになってしまう』と忠告していたが、アキレウスはこの忠告を無視し、敵討ちを実行する。
結果としてアキレウスは死ぬことになるが、神々は『愛される者が愛する者の為に、命をかけて行動する』という事実に驚嘆し、敵討ちに行くアキレウスに対して神がかり的な力を授けている。
実際、愛する者の為に戦う者は、神の如き力を発揮し、神に近い存在となる。 そして、亡くなったその者を特別視し、祝福された地へと送り出している。

まとめると、エロスは神々の中で最も古く、それ故に尊い存在。
人間が、幸福を手に入れようと勇気を振り絞って行動するとき、その者が生きている間であれ、死んだ後であれ、エロスはその者を祝福する。

『パウサニアスの主張』

エロスに対して議論するのであれば、まずは、前提をしっかりと定義しなければならない。というのも、エロスは一人ではなく、二人いるからだ。
ギリシャ神話の美の化身であるアフロディーテとエロスは同じものだが、そのアフロディーテが二人存在する為、エロスも二人存在することになる。
二人のエロスは性質が同じではなく違うものなので、賛美すべきなのはどちらのエロスであるのかを、最初にハッキリと定義しなければならない。

第一のエロスは、パイドロスが称賛した、天の神ウラノスから生まれた天のアフロディーテ
そして第二のエロスは、ゼウスとディオネの間に生まれた娘で、俗のアフロディーテで、称賛されるべきは天のアフロディーテ(エロス)である。

エロス・愛に限らず、行いそのものが美しいとか醜いといった事は無い。 ここで行われている酒宴も、飲む事や行う事や議論する事そのものに美しいとか醜いといったことはなく、重要なのは行い方。
行為が正しく行われるのであれば美しいものとなリ、不正に行われれば醜いものとなる。エロスについても同様で、エロスに関する行為そものもが美しいわけではなく、行い方が重要となってくる。

では、称賛するに値しない俗のアフロディーテとはどういうものなのか。
俗のアフロディーテと共にあるエロスに魅入られた人が起こす行動は、第一に、ショタだけでなく女性まで愛してしまう。
第二に、彼らが愛するのはその人に精神や人間性といった『心』よりも、体を愛す。 そして最後に、彼らは出来るだけ愚かな人間を愛してしまう。

つまりは、『肉欲』に支配された人間ともいえる。 何故、俗のエロスがこの様な性質を持つのかというと、ゼウスという男性神とディオネという女性神の間に生まれた子なので、男性と女性の両方の性質を持って生まれてしまった。
その一方で天のエロスは、ウラノスという男性神一人から産み落とされた為、男性の性質しか持っていない。 また、最古の神で年長である為に性格も丸い為、自分より劣るものをそばに置いてプライドを満足させるということもしない。
この様な神に魅入られた人間は、優れた男性に興味を惹かれる。

もう少し具体的に書くと、人を愛し、その愛を宣言して相手を射止めようという行為そのものは、周りからも祝福される行為となる。この点に置いて、エロスが誘発させた行為は正当なものだと、周りの人間も思っている。
その為、愛する人の前に跪いたり媚びを売るような、奴隷のような振る舞いをしたとしても、周りの人間は応援してくれる。
しかし、それと同じ様な態度で、富や権力を手に入れる目的で、権力者や資産家に媚びへつらう人間を観た際に、周りの人間はどの様に思うのだろうか。 その人物を、軽蔑するのではないだろうか。

この様に、一見すると同じ様な行動を取っていたとしても、求める対象が変わるだけで、人々の反応は180度変わったものとなってしまう。

これは、エロスに触発された行動も同じで、単に相手の体や容姿のみを求めたり、相手に分別がないことを利用して手篭めにしようとする人間は、軽蔑されてしまう。
この様な人間のターゲットにされたショタの親も、追い求めてくる人間を軽蔑し、相手に賞賛を送ったりなどしない。
しかし、相手に求めるものが知性であったり徳性であれば、その行為は美しいものとなリ正当化される。 

両者の違いは、容姿や体が変化する一時的なものに対し、知性や徳性は永続的なものであるから。
一時的なものを愛する人間が抱く愛情は、俗のエロスに支配された愛情である為、その者が少年を手に入れて欲望を果たした場合、その者は少年を捨てて次のターゲットを探す。
一方で、知性や徳を備えた人間が少年を求め、その少年が知性や徳といった永続的なものを求めて体を許した場合、その関係は永続的に続くことになリ、行為は美しいものとされて正当化される。

しかし、少年が年長者の持つ金や権力に目がくらんで体を許した場合、この行為は美しくないとされ、軽蔑の対象となる。 仮に年長者が、『実は金も権力も持っておらず』少年の体で欲望を満たす為に少年を騙していたとしても、その少年は同情されることはない。
逆に、少年が年長者に知恵や徳を見出し、それを手に入れる為に体を許したが、それが見込み違いで、年長者は知恵を持っていなかったとしても、その少年は軽蔑されることはない。 少年は永続的なものを求めて取った行動なので、その行為は正当化される。

(つづく)
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