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【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第132回【饗宴】まとめ回(3) 前編

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目次

注意

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。

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美しい者は美しさを求めない?

今回も、饗宴のまとめ回の第3回を行っていきます。 まとめ回の第1・2回を聞かれていないかたは、そちらを先にお聞きください。
前回までで5人の登場人物が、『エロスが何故、素晴らしいのか。』について考察し、主張をしてきました。
この中でソクラテスは、アガトンの『評価者に対する評価をするために、神について再評価しなければならない。』という主張に同意しつつも、一部の主張に対しては同意できないとして噛みつき、エロスを極めたディオティマの言葉を借りて指摘します。

その同意できない部分とは、アガトンが主張した『正義・勇気・知性・節制を支配下に置くエロスは、基本的な性格として美しさを求めているため、この世界は美しくなろうとする。』部分です。
もし、エロスが概念としての究極の美を体現できているのであれば、つまり、究極の美しさを本当の意味で手に入れているのであれば、エロスは新たな美しさを求めようとはしないはずです。
何故なら、既に所有していて満たされている状態で、更に同じものを所有したいと思う者は神であれ人間であれいないからです。

エロスは単独で存在できるのか

この部分を考えるために、まず、エロスの定義をはっきりとさせます。エロスとは、大地の化身であるガイアや空の化身であるウラヌスのように、単独で存在できる概念なのでしょうか。
それとも、人間に依存している存在なのでしょうか。エロスというのは、表面的なイメージで言うのであれば、美しいと感じる心です。この心というのは、それを感じる何者かの心です。
美しいという具体的なものがあるわけではなく、何者かが何かに接した際に『美しい』と感じるイメージを神格化したものがエロスとなる為、エロスは意思を持った者の精神に宿る概念ということになります。

つまり、エロスという概念は、意識を持つ人間に依存した存在で、この世に意識というものがなければ生まれなかった概念ということになります。
ではその人間は、欲しいと思うものを手に入れて満たされた際に、更に同じものを欲するのでしょうか。もし欲しないというのであれば、人間の精神に依存しているエロスも、同じ様に、既に所有しているものは欲しないということになります。
何故なら、エロスの行動は人間の精神の振る舞いを神格化したものなので、人間の精神が行わないことはエロスも行いません。

ということでまず、人間が所有しているものを欲するのかを考えていきます。

人は手に入れたものは欲しない

水分が不足している人間は、水が飲みたいという欲望に支配されますが、お腹いっぱいになるまで水を飲んだ人間が、更に水を飲みたいなんて思いません。
目当てのものを欲しいと思い、それを行動を起こすことによって目当てのものを手に入れた人間からは、先程手に入れたものと同じものが欲しいという欲望はなくなります。
欲しいと思うものを手に入れたのに、更に継続して欲望を抱き続けるものは、目当ての量が手に入らなかった人間か、手に入れたものを手放したくないという別の欲望に変えた人間だけです。

前者の場合は、本来目標としている量が手に入っていないわけですから、その差額分の欲望は無くなっていないことになりますし、後者の場合は目的が変わっているため、『手に入れたい』という当初に抱いた欲望は無くなっています。
つまり、手に入れたいと思ったものを完全な形で手に入れたのにも関わらず、継続して同じものを欲しいと思っている状況というのは無いということです。エロスのベースになっている人間がこの様に感じるということは、エロスも同じ様に感じるはずです。
同じようにとは、真なる美しさを既に手に入れているのであれば、エロスはそれ以上は美を求めないということです。にも関わらずエロスが美を求めるということは、エロスは完全な美を手に入れていない、美しくない存在ということになります。

エロスは神なのか

では、美しくない存在=醜い存在となるのかと言うと、そんな事はありません。この世には、美しい状態と醜い状態の2つしか無いわけではなく、その中間の価値観があります。
もし中間の価値観がないのであれば、美しさを求める者は全員が醜い存在となってしまいますが、実際にはそんな事はありません。美に関心がなく無頓着な人よりも、美を求めて頑張っている人の方が美しいこともあります。
美しさと醜さは単独の価値観として独立して存在しているわけではなく、2つの概念はつながっていて、醜い状態からでも行動することによって美しい状態へと駆け上がることが出来ます。

しかしエロスは、美しさを神格化したものです。その美しさの代名詞であるエロスが、中途半端な美しさしか持っていないということがあるのでしょうか。
神とは、究極的な概念の代名詞として存在しているものです。正義や勇気や美しさといったあやふやな概念に、その理想形としてのイメージを重ね、それに名前をつけたものが神というものです。
エロスは美そのものを体現している女神ですが、そんな神が中途半端な美しさということがあるのでしょうか。

神という概念が究極的なイメージに名前をつけたものだとするのであれば、美の女神であるエロスが中途半端な美しさしか持っていないなんてことはないでしょう。神であれば、究極の美しさを手に入れているはずです。
しかし、エロスが究極の美を既に得ているとするのならば、それ以上の美を求めるという行動は起こさないはずです。しかしそうすると、今度は『エロスが美を求めているので、この世は美しくなろうとする』という理屈が否定されてしまいます。
神は究極的な概念であるという主張と、エロスが美しさを求めているから、この世は美しくなろうとするという主張。この両者の主張を通そうとするのならば、エロスはそもそも神ではないとしない限り、話が通りません。

エロスの起源

では、今まで散々話してきて、偉大だとして取り上げてきたエロスは、神でなければ何なんでしょうか。エロスを極め、ソクラテスに教えを授けたディオティマという巫女は、エロスは神ではなくダイモニアだと主張します。
ダイモニアとは精霊のことで、ソクラテスが後に死刑判決をくだされた時の裁判で、ソクラテスが訴えられた罪状にも出てきた存在です。
ソクラテスに死刑判決がくだされた時の罪状は、『ソクラテスは国が定めた神々を信仰せずに、独自のダイモニアを信じ、その価値観を青少年に伝えて神に対する信仰心を失わせた』というものでした。

話を饗宴に戻すと、精霊とは、神と人間をつなぐ存在で、次元が違いすぎてコンタクトが取れない神の声を人間に届け、人間の言葉を神に届けるメッセンジャー的な役割を持つものです。
このエロスという精霊は、アフロディーテの誕生祭をきっかけにして、知識の象徴である女神メーティスの息子である『満ち足りる』という概念の象徴であるポロスと、貧乏神であるペニアとの間に生まれた子供です。
エロスはアフロディーテという存在がいなければ存在していなかったため、美の化身であるアフロディーテに従い、父親側の血筋によって知識を獲得しているため、それを利用して欲しいものを手に入れて満たされるという性質を持っています。

しかし同時に、母親側の性質である貧乏神の性質も引き継いでいるため、手に入れたものは細かい砂を手で掬った時のように指と指の間からすり抜けて、手元には残りません。
つまりエロスは、美の化身であるアフロディーテの影響で美しいものを追い求め、知識と才能によって手にすることは出来るものの、それらは身につかず、すぐに失ってしまうため、再び美しいものを追い求めるというわけです。

中途半端な存在

次に、中途半端なモノについて、もう少し考えていきます。先程も言いましたが、この世は両極端な価値観が独立して存在しているわけではなく、大抵は両極端の価値観同士はお互いにつながっています。
美しい状態と醜い状態は独立しているわけではなく連続していて、醜いものでも努力することで美しさに近づくことは出来ます。愚かさと賢さは独立しているわけではなく、愚かなものでも勉強をすることで賢くなっていきます。
この様に両極端な価値観はつながっていて、両者にはその中間が存在するわけですが、当然、両端も存在するため、両極端という概念が消えるわけではありません。

理解を深めるために、これらの前提を踏まえて、エロスを知識に置き換えて考えていくと、この世のすべての知識を持っている存在がいたとすれば、その存在は新たに知識を求めようとはしません。何故なら、全ての事柄を既に知っているからです。
逆に愚かなものはどうでしょうか、こちらは別の理由で知識を追い求めません。その理由とは、愚かさ故に自分に知識が欠けていることが理解できないからです。
愚かなものは、その愚かさ故に、自分に知識が欠けているという事柄すら理解せず、それを埋めるための知識が存在していることすら知らないので、何も行動を起こさずに現状維持を選びます。

では、中間に存在する人はどの様な行動を取るのでしょうか。この中間の者は、この世の全ての事を知っているわけではないですが、知識が全く無いというわけではないので、自分に欠けている知識がどこかに存在していることを知っています。
先程の神話によると、中間の存在であるエロスは、充足と知識という性質を持つため、自分が持っている知識を使って望みのものを手に入れる力を持っているので、それを駆使して欠けている知識を補充しようとします。
しかし、その手に入れた知識によって、今の自分に欠けているものが理解できてしまうため、着実に前には進んでいますが、ゴールに近づくことは無いということです。

参考文献