だぶるばいせっぷす 新館

ホワイトカラーではないブルーカラーからの視点

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第37回 ヒッピーからの遺産 (前編)

広告

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
goo.gl

youtubeでも音声を公開しています。興味の有る方は、チャンネル登録お願い致します。
www.youtube.com

前回はこちら
kimniy8.hatenablog.com
前回から、ヒッピー回のまとめを行っていますが、今回はその続きとなります。

ヒッピーとイッピーの違い

前回のエピソードでは、カウンターカルチャーの中での考え方の違いを中心に語っていきました。

一つは、このムーブメントの火付け役になったティモシー・リアリーを中心とする人々で、自分達の考え方を変える事で、世界の捉え方を変えようとした人達です。
もう一つは、盛り上がるヒッピームーブメントに便乗する形で参加してきた人達で、この人達の主張は、みんなが持つ価値観その物を、運動によって変えていこうという人達です。

両者の決定的な違いとしては、リアリー達が自分の価値観を変えることで世の中の受け止め方を変えたのに対し、イッピーやそれを生み出した新左翼と呼ばれる人達は、他人の価値観を塗り替える事で、世の中を変えようとしたという違いがあります。

リアリー達は、幻覚剤による神秘体験によって、世界と自分との境界線を曖昧にすることで、他人の事を自分のように考えることを目指しました。
そして、皆がその様な行動を取ることで、国や法といった境界線を明確にするシステムを無いことにしようとしました。
その為に、リアリーは望むもの全てにLSDを与え、神秘体験を行うのに必要な手順を探るために研究に没頭しましたし、この意見に共感したティム・スカリーは、世界中の人間に配布しようと、大量のLSDを製造しました。

その一方で、ヒューマン・ビーイン後に生まれたイッピー達は、世の中にある問題を取り上げて、それに対してデモなどで騒ぐ事で問題を大きくして社会問題化して、それを解決させていくという手法を取ります。
社会問題化する為には、注目を集めないといけません。そして注目を集めるためには、大胆で過激な事が不可欠です。
イッピー達はテレビで取り上げられるように、派手で極端なパフォーマンスを行い、とにかく目立つ事を心がけます。そして、その活動をTVを通して観た人達が感化されて運動に参加することで、運動は更に大きくなって目立つようになり、社会問題化しやすくなります。

世間一般ではイッピー達の取る行動こそがヒッピー的な行動と思われる方も多いとは思いますが、それは、マスコミやデモなどの目立つ行動を積極的に利用した結果なんでしょうね。

境界線をなくすヒッピーの主張

リアリー達とイッピー達。 この2つのアプローチ方法ですが、これはどちらが正しいのかはわかりません。
というのも、リアリー達が目指した理想的な社会を実現する為には、世界と自分とが一体となる経験をした人間が大量に必要となります。
自分と世界とが一体となる経験をした人間は、世界にとって害をなす行動を取りませんし、他人にとって不愉快な事も行いません。

リアリー達の理想が現実化すれば、国といった枠組みも必要なくなり、人間を縛る法律もいらなくなります。
何故なら、法とは、他人に対して害を与えようとする人間がいるから必要なわけで、そんな人間がいないのであれば、法律も必要なくなります。
法律が必要なくなって国という概念がなくなれば、国籍という線引もなくなりますし、いずれは人種という線引も無くなっていくことでしょう。

この様な世界が実現すれば、不愉快に思う人間がこの世から居なくなるという事になり、それが実現すれば本当の意味での平和が実現しますが…
実際問題として、それが可能なのかというと、難しいとかハードルが高いといったレベルの話ではなく、限りなく無理に近い夢物語ともいえますよね。

価値観を押し付けるイッピーの主張

では、イッピー達のように、これまでの価値観を別の価値観で塗り替える。つまり、自分が良いと思っている価値観で他の人間の価値観を塗り替える方が良いのかというと、それも疑問が残ります。
解りやすく、食べ物の例で考えてみましょうか。
ある国では、豚肉は食べてはダメだという決まりがある為、豚肉が食べれません。また他の国では、豚肉は食べれるけれども牛肉を禁止しているという国もあるでしょう。
豚肉も牛肉も食べるけれども、他の国がクジラを食べる行為に対して怒りを覚える国もあります。

特に食べ物に規制はないけれども、動物を殺して食べるのは野蛮だという思いから、ベジタリアンに転向する人もいますし、動物を殺すのはもちろん、労働させてもダメだと考える人は、ビーガンになったりもします。
イッピー達の考えは、自分たちの価値観を相手にも押し付けるという行為なので、世界をより良くしようと考える場合は、押し付ける価値観は良い価値観でなければなりませんが、この場合、客観的に観てどの価値観が良い価値観なのかが分かりませんよね。
どの様な価値観が良い価値観なのかが分からない状態で、自分の価値観を他人に押し付け合うと、当然ですが、意見の衝突が起こります。

意見の衝突が単なる言い争い程度で終わるのなら良いのですが、そこで終わらなければ、争いに発展します。
過去に起こった戦争も、元を辿れば、価値観の違う者同士が自分の価値観を相手に押し付け合うことで起こっていますよね。それは、宗教的な価値観なのかも知れないですし、共産主義や資本主義といった思想の違い。
いろんな価値観のズレが徐々に発展して、大きな戦争に拡大していっています。

格好良く真似したくなる価値観の創造

当時、運動に参加していた人達も、当然、この様な流れを分かっていたのでしょう、イッピー達は当初、様々な問題を社会問題として取り上げつつ、一方で、ラブ&ピースや非暴力を常に訴え続けてきました。
そして、アートやライフスタイルの提案などを行い、既存の価値観に比べて新しい価値観の方が格好が良いという風潮を創り出し、争いではなく、自らが価値観の塗替えを行うように持っていきました。
今までの文化に対して新しい文化をぶつける、カウンターカルチャーと呼ばれる手法ですね。

運動参加者増による質の低下

ただ、この動きも長くは続きません。
イッピー達は、社会から問題を見つけ出して、その問題を運動を通して社会問題化する為に、大量の人間を必要としました。
マスコミに取り上げられる為に、そして大規模なデモなどの運動に参加する人達を集めるために、なりふり構わずに、とにかく目立つという方法を実行した結果、運動の意味を理解していない人達が大量に集まり始めます。

単純に、働かずにドラッグだけやってたい人達や、反体制運動という名のもとに爆破テロなどの過激な行動を取る人間が出現し、ヒッピー達の印象はドンドンと悪くなっていきます。
この様な人達が、ヒッピーの聖地であるヘイト・アシュベリー地区に雪崩込み、元々いたヒッピー達は追い出されるように、他の場所にあるヒッピーコミューンへと退避していく事になります。
そして、当初の理念を知らない『ならず者』達に占拠されたヘイト・アシュベリー地区は、資本主義の波に呑み込まれて行くことになります。

資本主義に呑み込まれる聖地 ヒッピーの死

街には、『ヒッピー』と称される人達を見物する為の観光客で溢れ、ヒッピーっぽい商品がお土産物として販売され始めます。
また、街に住むジャンキー達を顧客としたドラッグ販売を手がけるマフィアも入り込み、ヘイト・アシュベリー地区は金を稼ぎ出す為の道具になり果ててしまいます。
目指すべき理想も、貫く信念もなくなり、ヘイト・アシュベリー地区は、欲望を満たすだけの街へと変貌していく事になります。
ヒッピーという名称は価値のない無意味なものとなってしまい、その現状に耐えられなくなったディガーズは、ヒッピーの死を決定的にする為に、葬儀を行います。

自分の主観を相手に伝えることは出来ない

ここまでの流れを見て分かる事は、自分が伝えていることを本当の意味で理解してくれる人間というのは、殆ど居ないということです。
多くの人間が、物事を自分たちにとって都合の良いように捉えます。 そこにある事実の一部分だけを観たいように観て、聴きたいように聴き、自分の意見を、より強化していきます。
これは皆さんも、ネット検索などをする際に、簡単に実感することが出来ると思います。

なにか自分の価値観と違った意見を聴いて、世間一般の考えを知ろうと検索した際に、出てきた検索結果が自分の意見や考えと違った場合
他の言葉で検索をかけて、自分の考えと似た意見が検索結果に出るまで検索し続けるというのは、結構な割合の人間がやったことがあると思います。
それと同じで、多くの人が、その場の物事や情報を、ありのままに受け入れようとせずに、自分自身の目というフィルターを通して物事を受け止めるので、『反体制運動』や『前提を覆す』『ドロップアウトさえすれば良い』というヒッピー達の言葉は、それぞれの立場の人間に都合の良いように解釈されます。

思想も宗教も正しく伝わらない

そして、これは当然の事ですが、人を介せば介すほどに思想の根本的な部分は曲解されて、ズレた状態で理解されて伝わっていくことになります。
ヒッピーの運動というのは、1960年~70年にかけての約10年程の間に生まれて収束していったムーブメントで、ムーブメントの起点となったティモシー・リアリーは1996年まで存命だったわけですが…これは、宗教で言うなら教祖が存命の間に教義が変わっていっているようなものですよね。
何故こうなってしまったのかは、経緯を見ていただくと分かると思いますが、意見が曲解される度に、その運動に携わる人達が増えていっている状態なので、本質を理解している人間は少数派になってしまい、その人間が何をいったところで、聞く耳を持たれないからです。

そして、この構造自体は、他の思想であったり宗教の教義、政治や国の運営などでも同じだったりします。
前の回で取り扱った仏教も、開祖と言われているブッダが主張したインド哲学からは大きくズレてしまって、ブッダが主張した『無』という概念は徐々に薄れていき、日本に渡った大乗仏教においては、その人物の生き方によって、死んだ後に地獄や極楽に振り分けられるという話に変わっています。
ブッダの主張というのは、死んだ後に意識が続くというのは否定していますし、輪廻転生といった生まれ変わりも否定しています。 死ぬと無になるわけで、更にいえば、私達が生きている世界そのものも『無』で有ることを主張していましたが…
その主張は語り継がれる度に変化していき、最終的には全く違ったものへと変化していってしまっています。

キリスト教なども同じで、元々のキリスト教の主張は隣人愛であったり博愛ですよね。それが、語り継がれる度に変化していき、キリスト教の世界観に余計な肉付けがされていき、最終的には、異教徒を殺すという名目で戦争の道具にまでなってしまいました。
これらと同じ様に、ヒッピーも、元々の主張の根本部分というのは、共感性を高めることによって、他人などの自分を取り囲む環境を自分の事の様に捉えて、自分がされて嫌な事は周りに対して行わないというものでした。
それが最終的には、自分たちの主張を通すために、反対勢力にたいして爆破テロを仕掛けるというところまで変化してしまいました。