だぶるばいせっぷす 新館

ホワイトカラーではないブルーカラーからの視点

第36回【ヒッピー】ティモシー・リアリー(12) ~ヒッピー回まとめ (後編)

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この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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前回はこちら
kimniy8.hatenablog.com

ヒューマン・ビーインにより質が変化するヒッピー

ですが、オラクルという雑誌が企画した、ヒューマン・ビーインによって、その状況は更に変化していきます。
このイベントには、特に主張などが無い人間が大量に流れ込み、意識拡張からの意識改革の意味を取り違えた新左翼も参加しだし、それらが出会って化学反応を起こす事で、イッピーという新たな層が誕生しだします。
イッピー達は、ムーブメントをより大きくする為に、また、自分たちに注目の目が集まるように、派手なパフォーマンスや悪ふざけを積極的に行って行くことになります。

イッピー達は、管理社会や資本主義、現状の政治によって生み出された問題をピックアップし、その問題を掲げて、街のいたるところで反体制デモを行っていきます。
マスコミ達は視聴率の為に、イッピー達が行うデモの様子や派手なパフォーマンス、時には悪ふざけを取り上げます。 そして、この様子をテレビを通して観た若者が感化されて合流し、より大きな動きになっていく。
この繰り返しによって、社会に対して漠然とした怒りや納得できない事柄を持つものがドンドン集まってきて、社会現象になっていくのですが・・・

この動きは、当初、ティモシー・リアリーやビート・ジェネレーションが訴えかけて目指してきたものとは全く違ったもので、180度 方向を変えたもになってしまったといっても良いのかもしれません。

この部分で、ティモシー・リアリー達が訴えた意識拡張からの意識改革と、イッピー達が行う反政府運動との違いがわからないという方もいらっしゃるかも知れませんね。
というのも、リアリーもイッピー達も、民衆に向かって主張している事というのは、今までの社会の前提を疑えという事だからです。
今までの前提を疑って、自分達を縛り付けていた常識を打ち破り、本当の意味で自由になる。 その為に行動を起こそうと言っているので、少し聴いただけでは、両者の言い分は同じものに聞こえてしまいます。

しかし実際には、この両者の主張は全く違ったものです。 ビーイン後に開かれたサイケデリック会議でも、周りの人達が反体制で盛り上がる中、リアリーだけがその行動に同調せず、『ドロップアウトさえ行えば、改革は成された』と主張しています。
では、両者の主張は、どのように違うのでしょうか。

ヒッピーとイッピーの違い

簡単に言ってしまうと、両者の意見の違いというのは、世界と自分の捉え方が違います。
ティモシー・リアリーの主張の前提となっているのは、唯我論的な世界観です。 これは、自分という人間が考えるから、世界が存在するという考え方なので、自分自身が世界の捉え方を変えることができれば、世界も変わるという考え方です。
高度管理社会によって生み出された、人間を縛り付ける鎖というのは、本来は存在しないはずのものなのに、自分がその鎖の存在を認めてしまっているから存在してしまっていて、それによって自分が縛られているという考え方です。

ですが、実際には自分を縛る鎖は無いので、それを再認識しようというのがメインの主張です。その再認識のために必要なのが、幻覚剤による意識拡張で、自分自身と世界の認識を全く違ったものに変換した世界を体験することで、それを促そうとしました。

それに対して、ビーイン後に集まってきたイッピーやフラワーチルドレンと呼ばれている人達は、根本的に考え方が違います。
この人達の考え方は、まず、私達が暮らしている世界というものが存在し、その世界に環境が存在し、その環境の中に人間が暮らしていて、社会を構築しているという世界観です。
この考えでは、まず世界が存在するわけですから、私達が暮らす世界を良くしようと考えるなら、行動を起こすことによって、世界の方を良くしないといけないという事になります。

世界や環境の中に存在する様々な問題を見つけ出して、それを掲げて大第的に宣伝して、社会問題化していく。そして問題意識を皆で持つことで、その社会問題を解決していく。
これは、ティモシー・リアリーの考え方とは真逆の考え方なんです。

どの様に逆なのかというと、イッピーやフラワーチルドレンと呼ばれた人達が行っていることは、価値観の押しつけなんです。
社会の中から問題を見つけ出してきて、今までの価値観を持つ人達に『今までの価値観は間違っているんだから、新たな価値観に変えるべきだ』と迫って、新たな価値観を押し付けていくわけです。

その一方でティモシー・リアリーの考えは、自分の価値観を変えることを推奨しています。
ジョン・レノンがイマジンという曲で訴えた事も同じで、この曲内では、この世にある様々な境界線を無くした世界を想像しようというものですよね。
では、境界線とは何なのかというと社会問題で、境界線のない世界というのは社会問題が存在しない世界を意味します。

真逆ですよね。
イッピー達は、世界の中から問題を見つけ出して、それを大々的に宣伝することで、他人の価値観を塗り替えようとします。問題を見つけ出すというのは、新たに境界線を引く行為です。
つまり、イッピー達が社会を良くしようとして行うデモ行進などは、行えば行うほどに境界線がハッキリしていき、個別の問題として社会問題化すると、それが元で更に問題、つまり境界線が生まれるということです。

境界線のない世界

例えば、企業が人員を募集した際に、採用比率が9:1で男性の方が多くなった場合、『男女差別だ!』という声が上がってしまうというケースがあります。
会社側としては、男女で区別して取ったのではなく、採用試験をして上から順番に採用した結果に過ぎなかったとしても、偏りが有って『差別だ!』と言われてしまう。
それを解消するために、男女比を半分半分位なるように採用するように変更すると、本来は入社できていたはずの成績を収めた男性が落とされて、従来のテスト結果では落ちていたはずの女性が合格するというケースも出てきます。

今回は一例として出しただけなので、当然、会社の事業内容によっては、男女比が逆のケースもあるでしょうが、ともかく、この様に採用が偏るケースで無理やり男女比合わせた場合にこの様な事は起こってしまいますが、これは本当に、差別のない社会なのかということです。 
『男女差別だ!』と声を上げる人達は、男女平等な社会を実現させる為に運動をして声を上げているわけですが、この運動によって、男女の境界線というのもはより深くなりますし、男女というものはこの運動によって、明確に別れてしまいます。
先程のケースでいうと、成績が高かったのに男だから落とされた人と、成績は低かったけれども女だから受かったという人が出てきてしまいます。 これは、逆のケースでも同じです。

この様に、明確に境界線が引かれた場合は、それによって更に、問題が生まれてしまいます。これに対してリアリー達の言っていることというのは、境界線の無視です。
男とか女とか人種の違いとか国籍とか、そういったものに意味なんて無いよねという事です。
1人の人間を目の前にした際に、『この人は、男性で白人でアメリカ人で、ハーバードの出身で、年収はこれぐらいで…』といったあらゆる境界線を無視して、更にいえば、
その人間と自分という人間の境界線すらもなくして、相手と自分とを同一視しようと言うことを主張しているわけです。

全ての境界線を亡くした状態で、相手と自分を同一視すれば、当然ですが、自分が嫌だと思うことは相手に行わないですし、自分が発する言葉が相手にはどう聞こえているのかを考えながら話します。
この様な価値観を世界中の皆が共有すれば、戦争や貧困も起こりようがないですし、世界はより平和で暮らしやすい方向に進んでいきますよね。
この価値観の中で、仮に一部の企業が採用試験をした結果、9:1で女性が採用される事になったとしても、リアリーが主張する世界には、そもそも前提として男性や女性という境界線が無い世界なんですから、これを問題視しようとしう運動も起こりません。

そもそも性別という境界線が無いわけですから、当然、BTLGのような問題も起こりようがないという事なんです。
そして当然ですけれども、この様な価値観は押し付けるのではなく、自分自身で理解する事を重要としていました。
そのために必要なのが、LSDによる神秘体験で、世界と個人との一体感を体験する事で、悟りを開く事を推奨していました。

理想だけでは駄目な事もある

この、イッピーとリアリーの主張の違いですが、どちらが良いのかというのは、一概には言えません。
世の中に埋もれている問題を取り上げて、それを共通認識として持たなければ解決しない事も多いでしょう。 
弱者が団結して声を上げなければ、大抵の場合は権力者の都合の良いように世の中は作り変えられていきますし、搾取の構造も、それによる二極化も進むばかりです。

リアリーの主張では、それらの事を全て無いものとして無視すれば良いという事ですが、実際問題として社会環境によって被害をうける場合は、どうしようもないですよね。
例えば、アメリカでは黒人差別が根強く残っているようですが、黒人の人が前提を無視して自由に振る舞ったとしても、黒人差別をする白人警官に不当逮捕されてしまう可能性もありますよね。
偏見・レッテル、色んな言い方はありますが、自分自身がそれらを捨て去ったとしても、相手が自分に貼り付けているレッテルが消えるわけではありません。

リアリーの主張している事は、理想的ではあるんでしょうけれども、関わる全ての人が悟りを開いて、その様な考え方をしなくては成り立ちませんが、それは、かなりハードルが高いですよね。
また、幻覚剤による神秘体験や、シャーマニズムの復活というのは、かなり誤解を受けやすい主張です。
現に、ヒッピーと呼ばれる人達が目立った行動を取り、世間一般にとっても有名になり始めた1970年前後には、様々なカルト集団が誕生しています。

ここで誕生したカルト集団の多くは、主に神智学と呼ばれる、キリスト教と東洋思想や科学などを混ぜて作られた概念が主流だったのですが、幻覚剤による神秘体験と相性が良かったのか、乱立するようになります。
このカルト集団も、リアリーの主張を誤解して、もしくは意図的に曲解して生まれた組織です。
というのも、リアリーの主張は、人間を縛り付けている鎖を断ち切るというものですが、宗教というものは、宗教が持つ物語や信仰対象の神によって行動を縛られてしまいます。

管理者が人の作ったシステムなのか神なのかという違いでしか無く、結局は、管理された社会で暮らしていく事になってしまいますよね。
リアリーが主張する境地というのは、結局は主観的なものなので、他人には本当の意味で理解されることもなく、リアリーの主張に反し、ヒッピーというものの方向性は大きく変わっていくことになります。
結構長くなってきましたので、まとめと、それ以降の動きについては、また次回にしていきます。