だぶるばいせっぷす 新館

ホワイトカラーではないブルーカラーからの視点

日本に馴染まない資本主義 3

この投稿は前回・前々回からの続きとなっています。
まだお読みでない方は、まず、そちらからお読みください。
kimniy8.hatenablog.com
kimniy8.hatenablog.com

前回までの話を簡単に振り返ると、日本が世界に誇る『もったいない精神』と『おもてなし文化』が、資本主義の観点から見ると成長を引っ張っていますよという話でした。
これらの文化がどの様に発生したかは分かりませんが、日本人は良くも悪くも、行動に関しては無料だと考えている人が多いからでしょう。
行動というのは自分で行えば無料ですからね。それを他人が行ったとしても、無料で当然と考えてしまうのでしょう。
しかし、この考え方自体が経済学の考え方からズレています。

経済学の世界では、自分で行った場合でもコストがかかると考えます。
例えば、ある用事を3時間かけて自分で行ったとします。この場合、必要となる道具などが必要なく経費が無い場合でも、人件費が発生すると考えるのが普通なんです。
『自分で行っているのに、何故、人件費がかかるの?』と不思議に思う方もいらっしゃるかもしれませんが、経済学の考え方では、その3時間の間、自分がバイトや仕事に充てた場合、どれほど稼げるかを考えるわけです。
その人が本業で稼ぎ出す金が時給換算で2000円の場合、3時間で6千円かかってしまう。それをプロに委託した場合の値段が3000円なら、プロに委託して空いた時間で本業を行った方が良いという考え方ですね。
それぞれの人間が本業での技術や知識を高め、能力を特化させて仕事を行うことで、より効率的に共同体を運営することが出来るというわけです。

経済学は、人々の行動を金銭という数値に置き換えて、その数字をみて判断する。
数字に歪みが出れば、その歪みを修正するような理論を作り、それを政治などで実践していく。
サービスに対してお金を払うという海外の思考は、経済学のこの考え方に近い考え方と考えられるのかもしれません。

しかし日本の場合は、人が行う行動を金銭に変換するということを余り行わない。
というか、日本人の場合は行動は行動で返すものであって、金銭に変換するようなものではない。
金銭に換算しない為、行動の価格は0円となり、人に頼むなら自分がやればタダで出来るという考えになりがちです。

このことがよく分かるような例え話を株式関連の番組で聴いたので、紹介します。

ディーラーを生業としている高給取りのアメリカ人と日本人の男が、話をしながら歩いていました。
その男達の進行方向に目をやると、靴磨きの少年が客待ちの為に道端に座っていました。
少年を発見したアメリカ人は、早速、少年に靴磨きを頼み、その仕上がりに満足をしたのか、たっぷりとチップを渡しました。
そして日本人の男に向かって『お前も磨いてもらったら?』と声をかけてきました。
しかし日本人の男は『靴磨きぐらい自分でやるよ。勿体無いし。』と返答。

それを聴いたアメリカ人は『俺達のような高給取りは、人に仕事を頼んで報酬を渡す義務が有るんだ。金持ちがお金を溜め込んだら、一体誰が使うんだ?』

この例え話は、資本主義の構造を上手く表していますよね。
日本人からしてみれば、靴磨きなんて自分でやればタダなんだから、そんなことにお金を使うのは勿体無い。または、自分でできるような事を金を払って他人に任すのは、世間の目が気になると思ったのでしょう。
日本の場合は行動に対して金を渡すのも要求するのも、余り良しとされない。
なんなら、お金のことを口にだすのも毛嫌いされる。極端な表現でいえば、お金に汚れのようなイメージすら持っていたりする。
そんな共通認識が有ると、お金を渡すのも要求するのも後ろめたい感じになってしまう。
金持ちは、お金を持っていると変な目で観られる為、極力資産を隠して保管し、表面上は慎ましい生活を送っているように見せかける。

しかし西洋の考え方は、基本的にはお金は行動に対する評価なので、多くのお金を稼ぎ出す事は尊敬される。
一部のキリスト教の考え方では、天国に行けるものは生前から神に愛されているはずだから、この世でも恩恵を受けられるはず。
その物差しとなるのが、数値として分かりやすい金銭なので、お金持ちは徳が高く良い人で天国に行けるという信仰すら有るようです。
金持ちが良い人という認識が広がると、金持ちは良い人として振る舞おうとするので、慈善事業や寄付なども積極的に行う。
結果として金持ちの持つお金は再分配されることになる。

まとめると、日本人の行動は金銭へ換算されない。人から受けた恩や借りは行動で返そうとするので、経済の数字としては出てこない。
また、お金を持っていると色眼鏡で見られるため、資産は極力隠すために、再分配もされずに一箇所に集中しがち。

その一方でアメリカなどは、お金を持っていることは悪いことでも恥ずべき事でも無く誇らしいことなので、隠すことはない。
しかし、自分だけ大量に溜め込むことは良しとされない社会なので、圧力から寄付や慈善事業にお金が使われることになり、一定の再分配が行われる。

ここ最近の経済を見ていると、日本はバブル期以降、一貫して不況なのに対し、アメリカを始めとした欧州では景気が良くなる場面も有るのは、この文化の違いが有るのではないでしょうか。

勘違いしないで欲しいのは、私はこの投稿を通して『日本もアメリカのような文化に変わるべき!』と主張しているわけではありません。
日本は日本で良いところも有るし、そもそも、このような考えや行動が日本文化といっても良いので、これをすべて捨て去ってアメリカ文化になる必要もないと思います。
しかし、欧米の文化にカスタマイズされたような資本主義をそのまま受け入れようとすると、これはこれで無理が出てくると思うんですよね。

そもそも、お金に対する考え方が根本的に違うんだから、そのままの経済理論を輸入するのではなく、日本文化に合うようにローカライズしていく必要があると思います。
しかし日本の場合、何かというと、アメリカの経済学者の理論を持ち出したりするんですよね。
そろそろ日本は周りの目を気にせずに、自分なりの理論を考えて実践していくべきだと思うんですけどね。

日本に馴染まない資本主義 2

このブログは前回の投稿の続きとなっています。
まだ読まれていない方は、先ずはこちらからお読みください。
kimniy8.hatenablog.com

前回は、『もったいない精神』と資本主義は合わないということについて書きました。
続く今回は、『おもてなし』と資本主義の関係について考えていきます。

お・も・て・な・し。 おもてなし』は、オリンピック誘致の際にもスピーチで使われましたし、単純に日本の誇るべき文化の一つとして捉えている方も少なくないと思います。
消費者をお客様と崇め奉り、丁寧に接客してくれる様子は、消費者としてサービスを使う場合には非常に気持ちのよいものでしょう。
私の場合などは、基本的に気が弱くて気を使いがちな性格の為、店員が余りにも低姿勢過ぎると逆に気を使ってしまうなんて事も有りますが、高圧的な態度よりかは随分マシで、大抵の場合は気を悪くする事もなくサービスを受けれる場合が多い。
こういった意味では、『おもてなし』文化の良い点を享受しているともいえます。

この『おもてなし』文化ですが、店側がサービスの一環として主体的に行っているのであれば、これはこれで非常に良いことだと思います。
しかし実際には、客側の意向。クレーム対応の一環として行われています。
というのも日本には、三波春夫が発言した『お客様は神様です』という言葉を自分の都合よく解釈し、『神様が店に足を運んでやってるんだから、しっかりとサービスせい!』と言わんばかりに、横柄な態度を取る人間が結構な割合で存在します。
そんな人間に対応する為に発達したのが、現在のサービス業の形態でしょう。
www.minamiharuo.jp

クレームというのは、対応するだけで人が取られる為、長期化するとそれだけで経費がかさんでしまいます。
このクレームも、サービス側に問題が有り、それをやんわりと指摘する形で行われる程度であれば、店側も意見を取り入れる事で集客力を上げることが出来るかもしれませんし、有益なことでしょう。
しかし、言いがかりや逆恨み、自分の勘違いで大きな声を出し、途中で自分が悪いと気がついたけど引っ込みがつかなくなってゴネるのは、店にとって害悪でしかありません。
このような人たちは客ではないので、早々にお引き取り頂き、二度とサービスを利用していただくことがないように出禁にした方が良いわけです。
外資Amazonなどは、問題行為を頻発する人間のアカウントを凍結し、取引できないようにすることで業務を円滑に進むようにしているようです。
しかし日本は、この人達に頭を下げて丁重にもてなすんですよね。
その結果、生み出されたのが日本の『おもてなし』と考えられます。

ここまでの話を読んで、『クレーマーの対処として経費がかかるんなら、さっきのゴミを散らかしたまま帰る人達と同じで、雇用を創造してるから良いんじゃないの?』
と思われる方もいらっしゃるでしょう。
しかし、実はそうではないんです。

クレーマー対応で、全てのサービス業の接客対応が向上して均一化したとしましょう。
そうなると、サービスによる差別化が難しくなるため、価格は商品の品質とボリューム・価格のみで比べられることになります。
商品の品質を見極めるのは知識や審美眼などが必要となる為、結構ハードルが高い。
となると、多くの人は量と価格のみで判断していくことになります。
つまり、より多くて安いものが良いものとなるわけです。これは正に、デフレ的な考え方ですよね。

例えば、飲食店で客単価2000円の店でも5000円の店でも、全く同じサービスが受けられるのであれば、客単価が高い方の店側は、提供する料理の質を上げるか量を増やすことで差別化するしかありません。
しかし、倍の量を提供しても食べきれない事が多い為、無駄になる。そうなると、質の方を上げてバランスを取る必要があるのですが、高品質なものを理解する為には、客側に質の違いを理解する力量がないと駄目です。
この力量がない場合、価格と量で判断せざるを得ない為、2000円の店の方がコスパが良いと判断されてしまいます。
そして、客単価2000円の店は1000円の店と比べられ、1000円の店は500円の店と比べてコスパが悪いといわれる。

その一方で、これらの飲食店で働く人の待遇はどうなるでしょうか。
飲食店で使用する食材の価格は、とてつもない差があるわけではありません。当然、客単価が下がれば下がる程、原価率は上昇してしまいます。
単価が低いという事は大人数を相手に仕事をしないと売上が上がりませんが、原価率が高いと、そもそも利益が出にくいわけですから、支払える賃金の上限も自ずと決まってきます。
そうすると、忙しいけど給料は低いという状態に追い込まれてしまいます。
こんな状態なのにもかかわらず、接客態度は完璧なものを求められます。なんといっても、相手をするお客様は神様なんですから。
結果として、業界はブラック化していきます。

では、日本以外ではどうなのか。
アメリカなどに目を向けると、チップ文化なんてものがあります。
チップとは、レストランで食事を運んできてくれたり、タクシーで居心地の良い空間を提供してくれた事に対して『ありがとう』という意味を込めて、お金を渡す習慣です。
何故、商品代金と別で、サービス料金までは渡す必要が有るのでしょうか。
これは簡単な話で、商品価格とは商品を手に入れる為の価格だからです。レストランで言うなら、料理の食材料と調理料が代金であって、それを自分のテーブルまで運ぶ料金は含まれてないんです。
タクシーの場合は、客を目的地まで運ぶ料金と、目的地まで話し相手になってくれるサービスの料金が分けられているということです。

人に何かを頼む際には、サービス料金としてチップを払う。本来自分が行うことを他人に頼むわけですから、その手間賃を払うというのは納得できますよね。
この考え方の場合は、客がサービスが悪いと感じればチップを減らせばよいし、満足できるサービスを受けたと思えばチップをはずめば良いわけで、収入を増やしたい人は自発的にサービスを強化するし、やる気のない人は収入が低くなって辞める確率が高くなるので、自然淘汰される。
チップを払ったり受け取る度に、サービスには金がかかることが実感できるし、チップの支払いのない売店で店員の態度が悪かったとしても当前ということになります。
チップのレートが安い店で接客を受けて気に入らなければ、よりサービスの良い店に行こうという動機付けになりますし、資本主義的とは相性の良い考え方ともいえます。

逆に日本では、神様であるお客様に出来る限りのサービスを無料で提供するのは当然だという考えが浸透しているせいか、客ですらない人間が横柄な態度を取り始めています。
私自身は製造業で、知り合いにも製造業の人間が多いので話を聞く機会も多いのですが、見積もり無料は当然で、試作品の制作費まで無料で済ませようとする輩が多いこと…
金を払った客ならまだしも、『客になる可能性』をチラつかせて一銭も支払ってない人間は客ですら無いわけですが、それでも神様気取りだったりします。

この空気感が普通となっている日本のような構造では、お金が支払われる機会そのものが少なくなる為、資本主義との相性は悪いと言わざるをえないでしょう。
【続く】
kimniy8.hatenablog.com

日本に馴染まない資本主義 1

最近、『日本的な考えは、資本主義と相性が悪いんじゃないか。』と思うことが結構有ります。
今回は、なぜそう思うのかについて、掘り下げて考えていきます。

日本が世界に誇る考え方って、どのようなものが有るのかなと考えてみると
・もったいない精神
・おもてなし
この2つが思い当たります。

『もったいない精神』は物を大切にしようという考え方で、大量消費社会に対するアンチテーゼ。
地球に有る資源が有限である以上、考え無くてはならない素晴らしい考えです。
『おもてなし』も、私達消費者からすると、低コストでハイレベルな待遇が受けられる為、客としては有り難い考え方でしょう。

しかしこの2つの考え方は、『資本主義』とは根本的に相容れなかったりします。
(誤解のない様に最初に書いておきますが、今回の投稿はこの2つの考えを否定するものではなく、資本主義とは合わないという話です)

一つ一つ、順番に観ていきましょう。

『もったいない精神』は、一つのものを大切にし、使えるものは長く使おうという精神です。
一つのものを買い換えずに長く使う為、消費者の財布にも優しいですし、丹精込めたものを大切に使ってもらえる為、生産者にとっても良いことのように思えます。
生産者にとっても消費者にとっても良い。一見すると素晴らしいものの様に思えますが、本当にそうなのでしょうか。

先日、関西地区で放送されている『ちちんぷいぷい』で、トランプ大統領が登場するせいか、アメリカの生活事情についての特集が行われていました。
そこで、モミの木を生産している農家の方が、木を出荷する為に10年の時間をかけて丹精込めて育てているというVTRが流れました。
この話を受けてパネラーの女性の方が、こんなことを仰っていました。

『私は前にニューヨークに住んでいたことが有りますが、クリスマス時期になると皆、モミの木を購入するんです。
そして、クリスマスが終わると同時に、全ての人が廃棄するんです。
私も現地に住んでいた時には、この行為は当然だと思って真似してましたが、木の生産にこんなに手間ひまかけてたんですね!
当時の自分が恥ずかしい…』
一度聴いただけなので、一言一句間違わずに引用という訳にはいきませんが、このような発言を目を潤ませて行われました。

この考え方は、『もったいない精神』に照らし合わせれば当然の事でしょうし、これを読まれている方の中にも、受け入れられる方が多いのではないでしょうか。
しかし、冷静になってこのケースを考えてみましょう。
このVTRを観て、生産している人の労力を知った結果、物を大切に使おうとモミの木を捨てずに置いておいておき、次のクリスマスシーズンまで水をやって大切に育てて再利用したとします。
結果、この行動によって翌年移行はモミの木を買わなくても良くなりますし、ゴミとして廃棄されるはずのものが捨てられないので、ゴミも減る。
生産者も、自分が育てたモミの木が大切に使われることで、心が温まる。

まさに、win winの関係で、素晴らしい!

しかし実際に起こることは、モミの木の生産者の売上が1本減るという現象です。
もし仮に、全てのモミの木の購入者が廃棄せずに、よく年以降は自分たちで育てるという決断をした場合、モミの木生産者は廃業に追い込まれます。
そうなんです。モミの木の生産者にとっては、翌年も同じ売上を維持するためには、モミの木はクリスマスシーズンが過ぎたら捨てて貰わなければ困るんです。
更にいえば、クリスマス後に大量廃棄されるモミの木を収集するゴミ処理も必要がなくなる為、ゴミ処理業者がクリスマスシーズンだけ臨時バイトを雇ってた場合は、この職もなくなります。

ちなみにですが、私自身が本業が製造業で捨てられることが前提となる製品を生産しているため、業者の気持は良くわかります。
私の場合は小さな工場での製造業で、売上が直接収入と関わってきます。そんな立場の私から言わせてもらえれば、使い終わったものは捨てて貰わないと困ります。

この様な観点から観ると、『もったいない精神』は資本主義と非常に相性が悪いんです。
発展形としては、別のケースも考えられます。
どの大会だったかは忘れましたが、世界的なスポーツ大会が開催された際、日本の観覧席は日本人が自分で出したゴミを持ち帰り、他の国の観覧席はゴミが散乱していたというとこが有りました。
このニュースを受け、多くの人達が『さすが!日本人!』と、胸を張ったと思います。
その一方で、空港などで製品の外装を破ってその辺りに捨てる中国人に対して見下し『民度が知れるw』なんて事を発言したりします。

しかし、資本主義経済の観点から見てみるとどうでしょうか。
スタジアムというのは、汚れることが前提で清掃員を雇っています。
もし、スタジアムに訪れる客全員が、極力、施設を汚さず『立つ鳥跡を濁さず』の精神で掃除して帰ったとしたらどうでしょう。
清掃員は仕事がなくなり、全てではないにしろ、結構な割合の人間が解雇されることになります。
逆に、空港を汚す中国人の行動は、清掃員の数を増やすことに繋がり、仕事を創造しているともいえます。
資本主義的ににいえば、どちらが良いかといえば後者ということになります。

自分で出来る範囲の事は自分でやるというのが日本の美徳なんでしょうが、結果として起こっている現象を見ると、人の職を奪う事につながっていたりします。

【続く】
kimniy8.hatenablog.com

日本はなぜ衰退しているのか

先日、『国家はなぜ衰退するのか』という本を読み、このブログでも紹介させて頂きました。
kimniy8.hatenablog.com
今回は、この本にかかれていた内容を踏まえて、何故、現在の日本が成長しないのかについて、私なりに考えて書いていきます。



この本によると、国家が衰退する理由は『収奪的システム』だそうです。
簡単に説明すると、昔のように王様が国を治めていた時には、国のものは王の物。
その下にぶら下がる貴族は、領地で生産されたものを搾取し、搾取側は裕福な暮らしをする一方で、庶民は苦しい生活を強いられていました。
つまり、王を頂点としたピラミッド構造が作られ、下から上に搾取される形になっていたわけです。

貧民層からしてみると、自分たちがどれだけ労働したとしても成果物は全て領主に取り上げられる為、頑張っても頑張らなくても結果は同じことになります。
結果が同じであれば、労働時間を増やしたり投資をして生産性を上げるなんて事をしても、自身の生活には何の影響もないので行う意味がない。
このような制度ではモチベーションも上がらず、全体としての生産性は上昇しないし、技術も発展しない。

つまり国家は衰退していく。

その一方で、労働者階級には不満が溜まっていくため、それが爆発すると一揆や革命などが起こってしまう。
衰退した国家にはそれらの暴動を止める力もないので、古いシステムは倒され、新たなシステムが生まれていく。
歴史を見てみると基本的にはこの流れの繰り返しで、一極集中していた権力を、より分散するシステムを作れた地域が発展してきました。

日本の場合を観てみると、この流れが起こったのは敗戦でしょう。
長く続いた、将軍が天下統一して政治を行うという封建制度は、明治になって中央集権に変わったのでしょうが、そもそも市民革命では無い為に貧富の差等も継続して続いていました。
しかし敗戦後、財閥解体や農地改革によって富の再分配が一気に進みました。
資本主義において富とは権力と類似した効果を持つため、これが再分配されるということは、権力の再分配と似たような効果を発揮したと考えて良いでしょう。

その結果として起こったのが、戦後復興からの高度経済成長時代。

財閥などが解体されて権力や富の集中がなくなった事に加え、敗戦によって多くの土地が被害を受けて復興需要が盛り上がった事もあり、やらなければならない仕事が山のようにあった。
仕事をやる気さえ有れば職につけて、お金を得ることが出来た時代。
このような環境では、人々のモチベーションは常に高く、また需要不足である為、生産性を上げる為の投資なども積極的に行われました。
正に、資本主義の黄金期と言っても良い状態だったのではないかと思います。

では、現状はどうなっているのか。
バブル絶頂期のGDPは400兆程度で、今現在の日本のGDPは500兆と100兆円も増加。
上場企業の業績も、過去最高益を出す企業が少なくなく、企業が保有する資産もドンドン増加。
一方で、年収200万円程度のワーキングプアー層や正社員になれない派遣が増え、格差が広がっている状態。

この状態は、簡単に言えば富の一極集中が起こっているわけで、システムとしては『収奪的システム』に逆戻りしてしまっているという事でしょう。

実際にテレビで経済番組などを観ると、トヨタ式の改善策が偉業のように褒め称えられているのをよく観ます。
しかし、実際に行われていることは経費の節約。
『経費』とは、別の味方をすれば誰かの『利益』。従業員給与は従業員の利益ですが、会社から見れば経費。仕入れ価格は経費ですが、納入業者からすれば利益につながる。
それを削減して自分の儲けにしているわけですから、二極化して当然ともいえます。

この流れを具体的に説明すると、『改善』を行って仕入れ業者から部品を安く買い叩くとします。
今まで購入していた価格よりも安く購入できるわけですから、当然、『改善』を行った企業は経費削減効果によって利益が得られます。
一方で、安く買い叩かれた側は、本来なら得られるはずだった利益が得られなくなるわけですから、業績は悪化します。

『無理な値下げ要求には応えなければ良い。』という反論も有るでしょう。
しかし、現状は供給過多の世の中ですので、要求を断ることで得意先が無くなってしまえば、事業自体が廃業してしまう可能性も大いに有ります。
人間は、余裕のある時は冷静な判断が出来ますが、後がない状態で圧力がかけられれば、無理な条件でも受け入れてしまうものです。
『じゃぁ、廃業すれば良いじゃないか。』と思われる方もいらっしゃるとは思いますが、日本のように労働市場流動性がない状態だと、転職するのも難しい。
そもそも供給過多が原因なので、同業他社で雇って貰える確率が低い上、全く新しい分野だと一定年齢以上は募集すらされていない状態。
正に崖っぷちの状態で圧力をかけられるわけで、崖から飛び降りる決断を出来る人間は少ないでしょう。
これに加え、事業で借金があると更に余裕はなくなります。日本の銀行は事業にお金を貸すのではなく、個人にお金を貸します。
中小企業の借金の大半は、社長に連帯保証人の判子を押させる為、事業が破綻すると自分の人生の破綻に繋がります。
結果として、選択肢は有るが一択の状態で値下げを受け入れることになり、利益は大企業に搾取されることになります。

では、大企業に務める従業員は安泰なのかといえば、そうでもない。従業員給与も会社から見れば経費なので、削減対象になります。
業務を細分化・マニュアル化して、少数の社員に多数のバイトや派遣を管理させて回転させるなんて事は、今も進んでいますし、これからも進んでいくことでしょう。
純化してマニュアルが用意された仕事は簡単に替えを用意できる為、企業は個人の能力に固執しません。重要なのは、低賃金で雇えるのかというだけ。
その結果として増えているのが、ワープア層。

そして貯め込まれた利益はどうなるのかというと、会社の資産として積み上がり、その一部が配当金として資本家に支払われる。
つまり現在の日本は、資本家が搾取する『収奪的システム』が完成している状態ともいえます。
当然ですが、生きるのに最低限のものだけ残され、利益は全て搾取される状態では、労働者のモチベーションも上昇しません。
この結果起こっているのが、今の『衰退』の状態なのかもしれません。

こう考えると、今の日本に必要なのは一極に集中している資本を、再分配させることになるわけですが…
そもそも市民革命を起こしたこともなく、デモ行進自体がダサいと笑われる日本で、こんな事が可能なのかというと…難しいのかもしれませんね。

【本の紹介】 国家はなぜ衰退するのか 権力・反映・貧困の起源 上

今回紹介する本はこちら『国家はなぜ衰退するのか 上』
上下巻の上巻の紹介です。(下巻はまだ読んでないため)




世界の歴史を紐解いてみると、国家という共同体はそこかしこで生まれ、そして衰退して滅亡しています。
この書では、なぜこの様な現象が起こっているのかについて解説されています。

まず最初に、先進国と発展途上国がなぜ生まれているのかについて焦点が当てられます。
この問題についてよく考えたことがない私の様な人間は、『後進国の人たちはやる気がなかっただけでしょ。』なんて短絡的なことを考えてしまったりします。
私の他にもこの様に短絡的に考える人は多いようで、本書では後進国が何故、発展できなかったのかについての世間一般で囁かれている説が紹介されます。

一つは国民性。
国民自体にやる気がなく、現状で満足しているため、文明の進化が起こらなかったという説。
他に有名な説は、地理的な問題。
発展している国の多くは、交易の中心となったり交易しやすい、農作物が取れやすい等の地理的に恵まれていて、発展していない地域は恵まれていなかったという説。
その他の説としては、無知説。
様々な問題を解決する手段や商品が既にあるのに、後進国の指導者が無知な為、それらを導入しないからという説。

どれも、パッと思いつく上にそれなりの説得力がありそうな説ですが、実際のところはどうなのか。この本では一つ一つ焦点を当てて考えてきます。
その結果、これらの説は全て間違いである事が分かってきます。

では最大の問題は何なのか。結論を書くと、国が採用している『システム』という事になります。
地域に住む住人が、やる気を起こさないような収奪的システムが構築されると、国民性・地理・知識に関わらず、国民はやる気を無くして生産性は著しく落ち込みます。
国としては、生産性を上昇させて経済力を高めれば、国民の生活も楽になりますし国としての発言力も増えます。
にも関わらず、収奪的システムによって財産やモチベーションを搾取するのは何故なのかというと、『破壊的イノベーションに対する恐怖』
大きな変革が起こることによって権力者が力を奪われることに恐怖し、その結果、文明の進化そのものを阻止する為に全力を尽くしてしまう。
結果として新たな技術が導入されず、国としては後進国のままになってしまうということ。

もう少し具体的に書くと、アフリカで鋤(すき)等の農具を使わずに農作業を行っている国が現在も有ります。
その国に住む人達は、無知である為に農業の生産性を上昇させる鋤などの農具の存在を知らないから導入していないわけではありません。
また、遺伝子レベルで怠け者であるため、頑張らないというわけでもありません。
国が採用しているシステムが収奪的で、農家の人は生きていくために最低限の食物だけを残し、残りの全ての収穫物は国によって没収されてしまうからです。
このようなシステムの下では、農機具に投資して生産性を上昇させたとしても、その収穫物は最終的に搾取されてしまいます。
一生懸命働いても働かなくても、最終的に手にできるのは生きていくために必要な最低限の食料だけなので、新たな技術の導入などの投資を行うインセンティブが働かないからです。

では地域差はどうなのかというと、これも過去の歴史を振り返ってみると分かるのですが、関係ありません。
先進国と呼ばれるまで成長できた場所が地理的に良かったのであれば、その地域は昔から発展しているはずですし、後進国と呼ばれるところは昔から遅れているはずです。
しかし実際に文明が起こった場所を観てみると、エジプトやインド。北米に比べて劣っているとされる南米も、マチュピチュなどの古代遺跡などからも分かる通り、昔は技術レベルもすごく繁栄していました。
昔は進んでいたのに、何故、追い抜かれて差がつけられてしまったのかというと、これも理由はシステムだったりします。

では、なぜ指導者は、より発展するようなシステムを採用することができなかったのでしょうか。
それは、自分の権力を維持し続けたいからです。
国がより発展するためには収奪的制度を止め、働いたら働いた分、国民に還元される世の中にならなくてはなりません。
この行為は、絶対的な権力者から一般人への一部権力の移譲を意味します。
というのも、このような社会にしてしまうと、富を蓄えて力を持つ人達が出現し、その人達が権力を持つことになるからです。

このような新たな権力者は、既存の支配層の敵に成る可能性も大いにあります。
新たな権力者に討たれる可能性の芽を摘むためにも、権力は極力、自身に集中させておきたいというのが、絶対主義者である王のコンセンサスです。
また、貧しさに耐えかねて市民が一揆を起こす可能性も有ります。
そんな市民から、一揆を起こす元気も気力も根こそぎ奪う、仮に反乱を起こしたとしても、軍によって簡単に制圧できるような状態を保つためにも、生きていくために最低限の食事以外は全て搾取するという収奪的制度を継続するわけです。

ただ、こんな制度を続けたとしても、国家を維持し続けることは出来ません。
収奪的制度では、国民のやる気も搾取してしまうため、全く発展する事が出来ず、最終的には衰退の道を辿ります。
国家はいずれ自滅するか、他の体力のある国に制圧されて滅亡していくというわけです。

今回は、私が理解できた範囲での作者の主張の部分をメインに、各項目をザッと書いてみましたが、実際の本では、世界史で実際に起こった出来事を引用する形で、300ページ近くにわたって丁寧に解説されています。
また、最初の部分の『先進国と後進国が生まれたのか』についても、今回は3つ程の説を取り上げて簡単に説明しましたが、この本ではもっと多くの説を取り上げ、一つ一つ丁寧にデータを元に反論を行っています。
世界史の知識が必須なため、正直、私は読むのに結構苦労し、本に書かれている事を本当の意味で理解できているかも疑問ですので、この投稿を読んで興味を持たれた方は、是非、本を手にとって読まれてみては如何でしょうか。

【映画紹介】 26世紀青年 ばかたち

先日のことですが、私が愛聴しているネットラジオBS@もてもてラジ袋』にて、とある映画が紹介されました。
http://moteradi.com/20161013b
そのタイトルは、『26世紀青年 ばかたち』
プライム対象ビデオの為、Amazonプライム会員であれば無料で見れるということで早速、観てみると・・・
完全に舐めてみた作品なのにもかかわらず、エンディングでは謎の感動で泣いてしまうという事態になってしまいました。




この作品。タイトルだけを聞くと『20世紀少年のパクリ?』なんて思ってしまいますが、邦題を寄せているだけで、内容的には全く違った作品となっています。
簡単なストーリーとしては、軍が冷凍睡眠技術を開発し、比較的平和なときに優秀な兵士を冷凍睡眠状態で保管、つまりストックしておき、有事の際には兵士を起こす事で何時でも優秀な軍隊を組織できるようにしようという計画が持ち上がります。
その計画が最終段階まで進み、後は人体実験のみとなったときに、主人公である平凡な男に白羽の矢が立ちます。
何故、平凡な男が選別されたかというと、いきなり優秀な人間を実験で使ってしまうのは勿体無い、初の人体実験ということで失敗も考慮した上で、天涯孤独で人間関係もなく、平凡な能力の主人公が選ばれたというわけです。
実験には男性だけでなく女性も必要ということでしたが、軍は都合の良い人間を見つけられなかったようで、仕方なく風俗店から売春婦を一人借りてきて、実験を行うことになりました。

しかし、この実験直後に、軍と風俗店の癒着が発覚。
計画は途中で破棄され、実験も中止。
平凡な男性と売春婦の女性も忘れられ、冷凍睡眠状態で放置されたまま、放置され続けることになってしまいました。
そんな主人公達、ある衝撃によって偶然にも冷却解除ボタンが押され、目が覚めました。
冷却ポッドの中で意識がなかった主人公にとっては一瞬しか経過していない感覚だったのでしょうが、周りの環境を見渡すと、今まで自分が見てきた風景が全く違っていました。

そして、そこにいる人達は今まで周りにいたような人間ではなく、まるで猿の様な知能しか無い人間たち…

状況が把握できないままに情報を探し続けた結果、主人公は自分が元いた時代から500年が経過していることを知ります。
それと同時に、500年後の人類が『ばか』になっている事も思い知らされることになるんです。

何故こんな事になってしまったのか。
簡単に説明すると、知能が高いエリート層は、子供が出来ることで受ける制限などを考慮し、将来のことや若くて子供がいないときにしか出来ないことを優先して効率的に生きようとし、晩婚化。仮に結婚しても、なかなか子供を作りません。
その一方で、何も考えていない『ばかたち』は、高校時代から『やらせてくれそうな女』に積極的に声をかけ、とりあえずヤる。
後先も考えずに『ヤる』。当然、避妊なんかもおろそかで、バンバン子供が出来ます。
その子供達は、生殖可能年齢になると直ぐに性行為に興味を持ち、子供が子供を産んで…と言った感じで、ものすごいスピードで増えていくという感じ。

こんな感じで500年が経過した頃には、優秀な頭脳を持つ遺伝子は駆逐され、『ばかたち』によって支配されてしまいました。
そんな未来に送られた500年前の平凡な男は、どの様にして過ごしていくのか?って話なのです。

先程も書きましたが、基本的にはコメディーで、何も考えずに観て笑うことが出来るように制作されています。
しかし、この作品の凄いところは、深く考えようと思えばいくらでも深く考えられるところです。

例えば、世界が『ばかたち』によって支配されているという話。これも、単純に笑い飛ばせる話ではありません。
ここ最近、話題になっていたり流行っていたりする動画などを観ると、何も考え特に教養が無くとも楽しめるリズムネタ等が多い。




別に、これらの動画が好きな方を批判するわけでは有りませんが、この様な流れが継続し、教養が必要なく何も考えなくても楽しめる方向にドンドン進む。
映画の中では、誰のものともわからない尻を90分写し続けるという映画が大好評になっていましたが、このまま突き進むと、こんな未来を迎えてしまうかもしれません。

政治の方に目を移すと、野党が与党の悪口を言っているところしか映像としては流れません。
最近のアメリカの大統領選なんかも、史上最悪の大統領選といわれる程ヒドく、誹謗中傷合戦になっています。
もしこんな状態で徐々に悪化していき、500年以上が経過したとしたら?

他の例を挙げると、コストコが異常なほど大きくなっていて一つの都市のようになっていたり、スターバックスがコーヒーではなく性的サービスを提供する店に変貌していたりします。
これも、資本主義の行き着く先を予言しているようで、真剣に考えると本当に実現していそうな未来。
資本主義は、お金を持っている者が正義です。企業は、自身の成長率を引き上げる為にライバルを蹴落とし、金になりそうな企業は買収して規模を追求していきます。
また、客の要望に答える形で、生き残るために業態事態を変化させることも珍しいことではありません。
その究極の形は、顧客のニーズを汲み取って生き残ることが出来た、少数の企業によって支配される世の中。

この様に、一見すると馬鹿馬鹿しい設定なのですが、一つ一つを真剣に考えていくと『こうなってしまう可能性はあるな』と思わせるところが、非常に興味深い。

また、主人公から見ると完全にディストピアな未来で、その状況に苦悩したりするのですが、そこに住む人達は『ばかたち』なので、特に真剣に考えること無く楽観的で、毎日を楽しんでいるところなどは『世界はただソコにあって、捉え方次第でどうにでもなる』という世界系にもつながる感じで、コメディーと言いながら詰め込める要素を全て詰め込んだ盛りだくさんな感じが楽しめました。
Amazonプライム会員なら無料で観ることが出来るので、興味の有る方は、一度観てみては如何でしょうか。

【ゲーム紹介】 マフィア3(MAFIAⅢ)

先日(2016年10月27日)に発売したマフィア3(MAFIAⅢ)。
直前まで買うかどうかを迷っていたのですが、時代設定的に非常に興味があったので、発売日に今日にゅうしてみました。





という事で今回は、『マフィア3(MAFIAⅢ)』を紹介していきます。
このゲーム、発売の1ヶ月程前から興味は持っていたのですが、関係者やゲーム系記事を取り扱う雑誌やサイトに載っているレビューでは結構評判が悪かったんですよ。
レビューの多くが『ストーリーは面白いが、ゲームとしては同じことの繰り返しなので、GTA5などに比べると劣る。』といった感じのものが多く、評価としては結構微妙。
というか、ゲームなのに『ゲーム部分が単調で飽きが早い』って、結構致命的だと思うんですよね。
こんな感じの評価が多かった為、買うかどうかを直前まで迷っていたのですが、このゲームの舞台となっている時代、1968年…というか1960年代に以前から興味があったので、購入してみました。

1960年代といえば、アメリカの黒歴史とでもいうのでしょうか…
この時代に起こった事といえば、ベトナム戦争やその反戦運動
1963年には大統領のケネディーが暗殺されてますし、ゲームの舞台となる1968年は、黒人解放運動のシンボル的存在のキング牧師が暗殺された年でも有ります。
人種差別が今よりも格段に酷かった時期ですし、共産主義と資本主義の戦いで国内の意見も割れていたりと、かなり混乱していた時期です。
混乱はしていたのですが、反戦運動はヒッピー文化と結びついて新たな文化や考え方を生み出しました。
そこから派生してニューエイジなんて思想も生まれ、この考え方がカジュアルになってアロマテラピーやヨーガといった今では普通の生活に取り込まれているものも生まれたので、社会文化面から観ると、結構重要な年だったりするんです。

この歴史的に重要な年代を舞台にしているというだけで、購買意欲が刺激されますよね。

舞台となる土地はニューオリンズをモデルにした架空都市。
ニューオリンズといえば、アメリカ大陸発見後にヨーロッパ各国が植民地として攻め込んでいった際、フランスが領地とした場所。
その後アメリカの手に渡った後も、土地が低くて水害が起こりやすい土地とされ、所得の高い人は寄り付かず、貧民層の黒人が多く住んでいました。
そこを大型ハリケーンカトリーナが襲い、多くに人が被害にあい、今でも廃墟になっているところが多く存在する場所という所で有名。

私は大型ハリケーンの存在で初めて知った都市ですが、元フランス領で現在は黒人の方が多いという土地が、どの様な文化なのかというのも非常に興味深かい。
土地と時代背景の2つに興味をそそられてしまったら、買わずには居れない。
こんな感じで、購入に踏み切りました。

購入し、最初の方のミッションを数個やっ手の感想としては、思っていたゲームとは違ったという感じでしょうかね。
私はこの作品のイメージを、マフィアというタイトルからGTAの様なクライムアクションを想像していました。
確かに、オープンワールドで作られた世界を、盗んだ車で自由に走り出せる、また、クルマに乗ると同時にラジオが流れてくるところなどはGTAぽい。
しかし、戦闘システムや重いストーリーを考えると、どちらかといえば『アサシンクリード』シリーズの方に近いと感じました。
誤解のない様に書いておきますが、建物を自由に登ったりは出来ませんからね。
アサクリっぽいというのはあくまで、雰囲気と戦闘方法での話です。

GTAといえば、派手な演出と撃ち合いが醍醐味っって感じのゲームです。
物凄い数の敵を、ライフルやらミニガンやらでぶっ飛ばす。時にはロケットランチャーで敵やヘリをぶっ飛ばすなんて事もやらなければなりません。
しかしマフィアは、それに比べると結構地味。
私はまだ序盤なので開放されている武器も少ないですが、ガンガン銃をぶっ放して敵を制圧していくというよりは、敵を一人一人暗殺していくといったステルス要素が強いゲームです。

戦闘も、出来るだけ物音を立てず、身をかがめてステルスモードで侵入し、ゆっくりと敵の背後に近寄って無音で暗殺。
敵がこちらに寄ってこない場合は、カバーで身を隠した状態で口笛を吹いて呼び寄せる。
そして、見つからず、且つ、最短でターゲットに近づけるルートを探し、追い詰める。
多対一の戦闘なので、こちらの方がリアルと言えばリアルなんですが、爽快感よりは『見つからないかな?』とハラハラしながら手に汗握る緊張感を楽しむ感じ。

背景となる舞台が歴史的に重要な年代で、テーマの象徴になる様な都市が舞台。
敵を一人一人暗殺していき、ターゲットに忍び寄る戦闘スタイルとストーリー。
このようなことを考慮すると、アサシンクリードの方が近いと感じましたね。

実際プレイして面白かったのか。買ってよかったのかというと、個人的には購入してよかったですね。
アサシンクリードにもいえますが、この手のゲームは、時代も場所も違うところを自由に散策できるのが面白かったりします。
特に過去の時代の再現ともなると、タイムマシンが出来ていない現在、現実の世の中でどれだけお金を積んだとしても当時の雰囲気に浸ることは結構難しい。
それを、7千円程度で味わうことが出来るわけですから、それだけでも『買い!』といえます。

またストーリーも、映画か?と思わせるほどの凝った演出で、先の展開が気になります。
ゲーム部分は単調といえば単調ですが、自分で『ナイフ縛り』『口笛禁止』なんて制限をかける事で楽み方が変わったりもするので、現状ではつまらないとは思いませんでしたね。
ただこれも、この先どれぐらいミッションがあるのかで変わってきそうではありますがね。
時代やモデルとなっている場所に興味のない人にはお勧めは出来ませんが、この部分に興味を惹かれる人は、購入しても損はないゲームって感じでしょうかね。
『時代と場所を体験してみたい』って感じで購入するのであれば、結構楽しめる作品だと思います。

【おすすめPodcast紹介】 福祉探偵団

私の独断と偏見のPodcast紹介コーナー。
第118回。

過去に書いた投稿
タイトル紹介はこちら
エピソード紹介はこちら

今回は、【福祉探偵団】

福祉探偵団

福祉探偵団

  • 福祉探偵団
  • 社会/文化
  • ¥0
です。


今回紹介するwebラジオは、【福祉探偵団】
『福祉』と『探偵団』を合わせたタイトルなのですが、どちらがメインかというと『福祉』
ラジオを通して雑談形式で『福祉』について語られている、教育型のPodcast番組です。
公式の説明が分かりやすいのでを引用すると
『福祉探偵団は現場の第一線で活動するパーソナリティーが、福祉や介護などに関する物事を分かりやすく、沢山の人に福祉について理解を深めてもらう事を目的に配信するPodcast番組です。』
実際に社会福祉士として働いておられる方がパーソナリティーを務め、放送されています。

メインのパーソナリティーは、永遠の17才(16歳だったかも?)の設定のKELLYさんと、齢200歳を超えているという大魔女さんの2人。
私は、この番組を聴いてオモシロイと思ってから既に30回分ぐらい聴きましたが、この設定が役に立っている様子はなく、むしろ邪魔なんじゃないかとすら感じてたりしますが、とにかく大きく年が離れているという設定の2人がメインです。

放送時間は、大体1時間以内に収まる長さで、聞きやすい時間。
更新間隔は基本的に月1の月末更新。
一つのテーマが長引いて1時間を超えた場合は、前後編や4回に分けるといった感じで分割され、エピソード数も刻んでいきますが、その場合はその月にまとめて配信されるようです。
例えば、記憶に新しい『相模原障害者施設殺傷事件』もこの番組で取り扱われているのですが、この件は語ることが多くて長くなったせいか、1回の収録を3分割し、その翌月にも話し足りなかった分を話されています。
最初の3回は、エピソード128~130と刻まれていますが、配信は8月31日にまとめて3回分が配信されるという感じ。
月1更新なので、普通通りに1ヶ月で1エピソード鹿更新されないと、話が途中で終わると気になったまま1ヶ月待たなければならないわけですが、この配信方法だと区切りの良い所で放送が終わるため、ストレス無く聴けるのが良いですね。


実際に聞いてみた感想ですが、正直に言うと不思議な感じです。
パッと思いつく感想を一言で言えば『面白い!』って事になるのですが、その言葉だけでは言い表せない不思議な雰囲気を持った番組です。

もう少し具体的に書いてみましょう。
この番組は、先程も書きましたが大魔女さんとKELLYさんの男女で放送されている番組。
ハキハキしたお姉さんって感じの話し方をする大魔女さんと、どこか気の抜けた感じのフワッとした話し方をされるKELLYさん、2人の違いすぎるキャラクターが共通の話題で雑談形式で話されているので、その時点で楽しんで聴けます。
タイトルから推測すると暗くなりがちな印象を受けるかもしれませんが、業界あるあるネタなんかも交えて、気軽に聞ける雰囲気を持った番組です。

しかし、実際に取り扱われているテーマとしては、結構重いんですよ。
当然といえば当然ですが、介護とは人の生死に関わる職業ですし、綺麗事だけでは済まない仕事でも有ります。
『人として』とか『愛情を持って』なんて言う言葉は、私の様な畑違いの仕事をしている人間は、つい、口に出して言ってしまいがちですが、実際に現場で働かれている方は、どこかで気持ちを割り切らないと務まらない仕事だったりもします。
そんな割り切り部分などを、普通のメディアなどでは覆い隠したり、歯に布着せて…って感じでオブラートに包んで話されるんですが、この番組ではあっけらかんと思っていることを明るい口調で話されるんですね。
そういう口調で話されると、聴いているこちら側も軽い気持ちで聞き流しがちなんですが、よくよく聴いてみると結構重いんですよね。

また、内容だけでなく言葉としても重い。
介護や高齢者問題・虐待等の問題については、私達の身近にある問題なので、ついつい意見しがちです。
マスコミなどでもよく取り上げられますし、介護施設などで事件があるとワイドショーなどが取り上げますから、私達が耳にする機会も多い。
しかし多くの意見が、介護問題と直接関係がない人の意見だったりします。関係がある場合でも『自分の親を介護している』レベルで止まっている立場の人の意見を聞く機会のほうが多い。
実際に介護で働いていて、他人の介護を低賃金で行っている人の意見は、意外に聞く機会が少なかったりするんですよね。
それだけに、言葉一つ一つが非常に重い。

全ての問題にいえることですが、実際に働いている人以上の話以上の説得力ってありませんからね。
いくら専門家といっても、大学で授業を教えているだけで実際に体を使って体験していないけど『教授』呼べれて偉そうにしている人の意見は、どことなく薄っぺらいですし軽く感じられますしね。

この様な感じで、『ハキハキした頼れる年上女性キャラ』って感じの大魔女さんと、『男性だけどゆるキャラっぽい』KELLYさんという対象的なキャラクター。
そして、『パッと聴いただけだと明るく軽く話されているように聴こえる』のに、『実際のテーマは重く、発言としても重い』というギャップという絶妙なバランスによって、印象としては面白い番組なのに結構深くて重いという不思議な不思議な番組になっています。

介護分野は、これからも結構な問題が出てくるでしょうし、自分自身が年をとると直面してしまう問題でも有ります。
話されている内容自体が勉強にもなりますし、少しでも興味が湧けば、聴いてみては如何でしょうか。

デフレ容認は経済右翼なのか

私が聴いているラジオ(Podcast)の一つに、『ザ・ボイス そこまで言うか!』という番組があり、ちょっとモヤッと思ったことがあったので、今日はそのことについて書いていきます。
この番組の全体的な考えは、私の考えと合わないところが多いのですが、特に経済関連のことについては合わなかったりします。
何故、そんな番組を今でも聞いているのかというと、一つは自分と違った意見も聞いておかないと、視点が固定化されてしまうという恐れからでしょうかね。
自分とは違った目線でしか考えられないこともありますし、その意見によって自分の考えが刺激されるなんてこともありますから。
もう一つの理由としては、このブログを継続して読まれている方は薄々気づかれているかもしれませんが、ブログの基本的なスタンスとして、個人的に『これ、おかしいだろ?』って事を書いています。
特に『政治・経済』カテゴリーの分野はその傾向が強く、ブログを書く原動力が『怒り』『モヤモヤ感』といった負の感情を原動力に記事を書いていたりします。
私とは全く違った意見を堂々と、反対意見の人を馬鹿にする感じで放送しているこの番組は、そのエネルギーを貯めるのに丁度良かったりするんです。

そんな番組ですが、今回引っかかったのは、宮崎哲弥氏の主張。
ラジオを一回聞いただけなので、一言一句間違わずに書くわけでは有りませんが、ニュアンスとしてはこんな感じ。
『最近の経済人の中には、デフレ容認・招来するような主張をするような人がいる。
インフレというのは良い面も悪い面も有るが、デフレというのは害悪しかもたらさない。
こんなデフレを容認する経済右翼共が・・・』
といった感じのデフレ容認派バッシングの主張。

私自身はデフレ容認派なわけで、宮崎氏からするとバッシング対象になるわけですが…

私もね、緩やかなインフレが持続可能であれば、文句はないんですよ。
日本で言えば高度成長期の様な感じが永遠につづくのであれば、それはそれは良い事でしょう。
しかしそんな理想的な現象は、経済的には起こり得ないんですよ。

分かり易くするために、経済を人間の成長に例えてみましょう。
戦後、焼け野原から復興するところから、近代の日本経済は始まりました。この時を誕生としましょう。

人間の子供もそうですが、普通にご飯を食べて世話をして、病気になったら看病して…なんてことを続けていれば、子供はドンドン成長していきます。
経済も同じで、起こり始めはやることが沢山あります。
瓦礫の撤去や住居の建築はもちろん、道路・気・水道などのインフラ整備。仕事は掃いて捨てるほどあり、会社としては人材確保が最重要課題だったりします。
企業は手に入れた人材を手放さない為に労働環境を良くしていきますし、衣食住が安定してくれば、生活を豊かにするために様々なものが欲しくなる。
経済は順調に育っていきます。

しかしその成長も、未来永劫、続くことはありません。人の成長も25歳をピークに峠を超えますよね。
経済も、バブル景気でピークを迎えて失速し、その後、失われた20年だか30年を経て、今現在に至るわけです。
そして現状はどうなっているかというと、国民の時間と収入は大企業によって搾取され、多くの一部上場企業が最高益や多くの可処分所得保有する傍らで、ワープア層が年々増加しているわけです。
『これでは生活が出来ない』と、生活保護を受給する人数も右肩上がりで増えている状態。
これは人間の体でいうと、現役を過ぎて歳を取り、体調に不調をきたしている状態とも考えられます。

若い頃は多少の無茶も出来るし、食事も沢山食べれば超回復してより強くなれます。
しかし年齢を重ねると、無茶をすると怪我や病気の心配が出てきますし、食事も油っぽいスタミナが付くようなものは食べられなくなってきます。
こんな状態の人に対して、『25歳ぐらいの時は、体力もあって未来も輝いていて良かったでしょ! あの頃に戻りましょうよ!25才時と同じ生活を送って!』なんていっても無茶です。
本人としても、もし可能であるのなら若返りたいでしょう。しかし現実は、一刻一刻と老いていくわけです。
年齢を重ねた人がすべきことは、無茶ではなく、現状を正しく知ることです。

しかし、経済学というのは『現状を正しく理解する』という事から目を逸らすんです。
これが科学であれば、ありえないことですよね。
科学において最も重要視されるのは、観測された事実だけです。
その事実を元に仮説を立てたとしても、実験によって別の事実が観測されれば、その仮説は間違っていたと認めます。
しかし、メディアや政治などで利用されている経済学は、現実で起こっていることを直視しようとせず、現実を観る部分は社会学として切り離し、仮説に現実を合わそうとするんです。

『経済の教科書にデフレなんて載ってない。デフレの今は異常だから修正しないと!』
『緩やかなインフレが続いている間は経済が順調なので、インフレは緩やかに続くべきだ!GDP上げればなんとかなる!』
『人口増と経済成長に関係がありそうだから、人口を増やすために少子化対策をしよう。無理なら移民で水増ししよう!』
金利は理論的には期間が伸びるほど上昇してるから、市場介入してグラフの形を正しく矯正しよう!』

これって、おかしいですよね。
数々の経済指標が示しているのは、現状の経済活動の結果です。
その結果が、資本主義が長く続いた事により、格差は拡大して定着し、多くの庶民が搾取されるだけの存在になり、見かけ上の成長率が上昇したとしても恩恵を受ける層は搾取している層で、多くの庶民の生活環境は悪化した。
生産機械の発達によって生産性は劇的に上昇し、需要が供給を上回ってデフレになった。
これは、紛れもない事実であって、科学で言うところの実験結果なんですよね。
この事実を無視し、『本来ではこんなはずはないから、元ある筋道に直さないと! 実験結果でデフレになったんだから、認めるべき? 何言ってんだ、この経済右翼が!』って、暴論以外の何物でもないと思うんですけどね。

現状のまま、老体に鞭打つような金融政策を続けた所で、それが未来永劫続けられるわけではありません。
それならばいっそ、体力がある内に別の道を模索し、別の方向にシフトして生まれ変わる道を見出す方が建設的だと思うんですけどね。

…と、ここまで長文を書いた所で基本的な質問ですが、今までのシステムから脱却して新しい方向を探すことって…右翼なんでしたっけ?
だれか、経済右翼の定義を教えてくれないかな。

男女格差と日本社会

いつものようにTwitterを開いてみると、トレンドのところに『日本の男女格差』なんてものが浮上していた。
何かニュースでもあったのかと思って調べてみると、世界経済フォーラム(WEF)が出した報告書で、日本の順位が世界144カ国中111位になったと発表したからだそうです。
G7では最下位で、世界全体で見ても下の方という事で、ニナが思うところをツイートした結果が、トレンド入りしたというところでしょうか。

この順位の基準ですが、報道によると「経済活動への参加と機会」「治的エンパワーメント」「教育」「健康と生存率」の4分野を軸に14項目で男女の格差を指数化して計算しているようです。
Wikipediaから抜粋

【経済活動の参加と機会】
・労働力の男女比
・類似の労働における賃金の男女格差
・推定勤労所得の男女比
・管理的職業従事者の男女比
・専門・技術職の男女比

【教育】
識字率の男女比
初等教育就学率の男女比
中等教育就学率の男女比
・高等教育就学率の男女比

【政治的エンパワーメント】
・国会議員の男女比
・閣僚の男女比
国家元首の在任年数の男女比(直近50年)

【健康と生存】
・出生時の男女比
・平均寿命の男女比
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E7%95%8C%E7%94%B7%E5%A5%B3%E6%A0%BC%E5%B7%AE%E6%8C%87%E6%95%B0

この報道を受けて、Twitter利用者の中には、レディースデイや女性専用車両などを挙げて、『女性の方が偉い、女尊男卑になってるのに、まだ権利を?』なんて書き込みもあったりしますが…
この4分野14項目を観ると、そういう話ではないことがよくわかりますね。
そして日本が何故、ランキングでしたの方かということも分かってきます。
細かい採点がどのようになっていたかは分かりませんが、『健康と生存』『教育』の分野では、日本では男女の差は殆ど見られないと思います。
問題は、『経済活動の参加と機会』と『政治的エンパワーメント』が他国と比べて著しく低いことでしょう。

日本は、何でこんな事になっているのか。

これは、少し考えれば分かることですよね。
少し前のことですが、電通の女子社員が残業100時間を苦に自殺したというニュースが有りました。
この話を受けて、どこかの大学の教授がこんなことを言いました。

「残業100時間超で自殺は情けない」

多くの人が問題視した発現ですが、少なくない方が、この教授の発言を擁護し始めました。
『この教授の言うとおり! 俺なんて残業150時間超えているのが慢性化してるけど、何とかやってるし。』
『確かに100時間で死ぬのは根性がない。繁忙期は200時間ぐらい残業して普通。』

本人たちは、自分の経験談を元に不幸自慢をしているわけですが、常識的に考えて、これらの発言は異常です。
典型的な奴隷の鎖自慢といえるでしょう。
奴隷の鎖自慢を簡単に説明すると、奴隷という過酷な環境下に長い間置かれると、それが日常化してしまい、その奴隷的立場の中でも優劣を決めようと競い合ってしまう。
しかし奴隷なので、財産が有るわけでもなく比べるべき対象もまりません。そんな状態で人は、自分の鎖や足枷の重さを自慢するようになる。

『俺の鎖は、お前らと比べてこんなにも重いのに、普通に生活できてるんだぜ!』

しかし、奴隷の立場にとらわれていない第三者の目から見れば、滑稽でしかありませんよね。
今、日本で起こっているのは、これと同じ状態というわけです。

こんな労働環境の場合、どんなことが予測されるでしょうか。
慢性的に人が足りずに長時間労働を強いられる職場では、当然、子供を生むなんて選択肢を選ぶのは難しいでしょう。
仮に決断したとしても、『貴方の空けた穴は、どうやって埋めるの?』なんてプレッシャーをかけられて終わりです。
また女性の場合、身体的な問題から、月に一度は体調不良になったりします。
その一方で男性の場合は、安定的に時間を供給できるわけですから、経営者や人事担当者からしてみると、男性を採用する率は高くなるでしょう。
また、女性が採用されたとしても、身体的な問題から、男性よりも働く時間が少なくなってしまったり、出産によって予期せぬ長期休暇を取らなければならないケースも出てきます。
こうなると、長期的なプロジェクトの責任者を任せるなんてこともし辛くなってしまう。
結果として、男性の方が実績を積める機会が多くなってしまう為、女性の進出が遅れてしまう。

この一連の動きの中での問題点は、女性に仕事を休まなくてはならない身体的特徴があるということではありません。
解決しなければならない問題は、休めない・長時間拘束という異常な労働環境です。

仮に、『一日の労働時間が5時間で残業すると罰金。自分の休みは月に8日間好きなときに取れる。子供が生まれた場合は、男性側も育休を取らなければならない。大きなプロジェクトの場合は責任を分担し、誰が休んでも、外れても問題ないような体制を取る』という会社があったとしましょう。
この様な会社の労働環境では、個人としての能力差はあったとしても、男女の差というものはほぼ無くなるでしょう。

しかし実際の社会では、これと逆の事が行われています。
資本家は、作業軽減の為の投資や改善を行わず、全ての問題を社員の仕事を増やす事でなんとかしようとする。
そこで浮いた投資すべき金は、内部留保役員報酬に回されるという搾取の構造。
政治の方では、特別の技能や資格者だけに認められていた派遣業を単純労働にまで広げ、社員から派遣労働者へと、労働者をより不安定な立場に追いやり、派遣法を実行した担当大臣の竹中平蔵は、政治家を辞めてから派遣管理会社パソナの会長になって、派遣労働者から搾取しまくるというありさま。
今では、夫婦共働きでも生活が苦しいワープア層が溢れかえっている社会になっています。
そんな派遣のワープア層を見て、正社員は優位に立っているように錯覚してはいるが、実際には正社員も残業100時間を行わないと仕事がこなせない状況に追いやられている。
しかしその異常性に気が付かず、残業時間を自慢し合うという奴隷の鎖自慢で慰め合う。

日本の労働環境はドンドンと悪くなっているわけですが、そんな状態で今の政権がどんなことをしようとしているのかというと…
『一億総活躍社会! 年金などの社会保障は当てにせず、老人になっても身を粉にして働きましょう!
女性も専業主婦なんて甘いことを言ってないで、フルタイムで働きなさい!その為の助け舟として、配偶者控除を廃止してあげるからね!
医療費や介護費用も、国で負担するのは額が大きすぎるから、これからは自力でなんとかしてね!』

これを聞いて、意識高い系の人達が『そうだそうだ!』と応援しているのが今の日本というわけです。
この問題は、単純に男女の格差という問題ではなく、社会保障や労働環境、そしてもっと根本的な、人として幸せに生きるとはどういうことなのかを考え直さないと駄目だと思うんですが…
マスコミの報道や世の中の意見を聞く限り、順位的に最下位になったとしても、目は覚めないんでしょうね。

ジャンル間のシェア争いと構造は年金構造に似ている?

前回の投稿では、ITの進化によって意思疎通が簡単にできるようになった結果、ジャンルが多様化しはじめた。
ジャンルは増えたが一日の可処分時間は増えない為、それぞれのジャンルによる顧客囲い込み合戦が始まったというようなことを書きました。
kimniy8.hatenablog.com
kimniy8.hatenablog.com
顧客囲い込みの手段として用いられているのが、低価格や無料でのサービス展開です。
しかし、『無料(低価格)でサービス展開をして、商売として成り立つのか?』と疑問に思う方も少なくないかもしれませんね。
当然の疑問でしょう。昔は有料で行っていたサービスを無料で行うわけですからね。
では、どういうカラクリになっているのかというと、『取れるところから取る』んです。

身近な例でいうと、スマホゲームが有りますね。
スマートフォン上でのゲームということで、出来ることには限界は有りますが、無料でダウンロードしてプレイする事が出来るようになっています。
一昔前であれば、ゲームソフトを購入しなければ遊ぶことは出来ませんでしたし、ソフトを買わずにプレイできるゲームセンターは、1回毎にお金を入れなければ遊べませんでした。
しかし今現在は無料でゲームを手に入れて、無料で遊ぶことが可能になっています。
何故このようなことが可能になっているのでしょうか。ゲームを作るにも管理するにも、一定のコストはかかっているはずです。
答えは簡単で、一部の人間からお金を徴収しているからです。

スマートフォンで遊べる基本プレイ無料のゲームは、多くの場合がアイテム課金制をとっています。
これは、ゲームを有利にすすめる為のアイテムを有料で販売することによって、利益を得るシステム。
ゲーム内アイテムはゲームのデータなので、運営からすればコピーすれば無限に増殖できるものです。それを販売することで、利益を得ているわけです。
では一体どれほどの人間が課金しているのか。私の遊んだ限り、余程、夢中になって打ち込まない限り課金をしなくても十分楽しめる作品ばかりだったので、大半の人間は課金していないでしょう。
調べてみると、スマホゲームの収益の半分は、0.2%程度の廃課金者が支払っているという記事を発見できました。

正に、『取れる所から取っている』典型的な商売ですね。

では他の商品(ジャンル)はどうなのかというと、広い目で見ると、実は、似たような構造だったりします。
例えばアニメ作品。アニメはテレビで無料放送しているので、普通に見ている分には無料で楽しむことが可能です。
しかしアニメという分野も、お金を使おうと思いば際限なく使える分野だったりします。
アニメ商品で真っ先に思い浮かぶのが『DVD・Blu-ray』といった円盤と呼ばれる商品です。アニメの第1話放送時に数カ月先の円盤の発売日を知らせる広告が流れることから、力の入れようがわかります。
この他にも、Amazonなどで調べてみるとわかりますがフィギュアなどを始めとしたグッズが非常に多い。
そして、これらの販売が伸びて収益的にもプラスになると『映画化』によって更なる課金チャンスが訪れます。
マニアックな作品であれば、劇場公開とDVD・Blu-ray販売、そしてストリーミング再生が同じ日。
『どうせマニアは、ストリーミング解禁日に我先にと課金して家で見て、映画館の会場と同時に劇場に足を運び、帰りにDVD・Blu-rayを購入して買えるんでしょ?』といわんばかりに、同時に全部出しちゃいます。
普通なら、時期をズラしますよね?だって、ストリーミングやDVD・Blu-ray販売を最初に行うと、劇場に足を運ぶ人が減る可能性もあるわけですから。。
でも、同時。何故かというと、マニアックな作品なので、そもそも詳しくない人はストリーミング再生もDVD・Blu-ray購入も行わない。逆にマニアは家で観れる体制が整っていたとしても、劇場で何回も観る。
極端な場合だとBlu-ray販売を劇場でしか行わず、『ディスクが欲しければ、映画館に来い!』なんて商売をしているところもあるようです。
こんな挑戦的なことを行われていても、むしろ燃えて課金する。このことを見越しての戦略なんでしょう。

映画の話が出たので、との続きということで映画について観てみても、タイプは違うけが似たような構造だったりします。
最近の洋画といえば、ビックタイトルは映画にも関わらず連作だったりします。
映画の利点として真っ先に思い浮かぶのは『2時間で終わる』ことなんですが、最近は前後編と続いて当然。マーベル作品など極端な例では、10作以上続くなんてものまで出てきています。
10作を超えるとなると20時間以上の消費となる為、もはや映画の利点はなく、連続ドラマをお金を払って見ているのと同じような状態になります。
普通に考えて明らかに観に行くためのハードルは上がっているのですが…
それでも連作がここ最近増えている現状を考えると、映画館で作品を観ることが習慣化している層に向けて作っている事が考えられます。
過去の作品を映画館で観続けてきた人は、続編が出来れば黙って観る。そして、シリーズが長期化すればする程、キャラクターの認知度も増えるので、グッツ展開などもしやすい。
映画の公開以外のライセンス収入が大きく得られるのであれば、極端な話、映画の売上は赤字でも良い。
キャラクターそのものの人気が独り歩きしてくれれば、キャラクターつながりで元のコンテンツの売上にもつながる。
そして一度足を踏み入れて沼にハマってしまえば、そこに待っているのは無限に広がる課金の世界というわけです。

他には、音楽・アイドル業界なんかも同じ様なものでしょう。
IT革命以降、音楽は無料化してコスト無しに楽しめる機会が増えてきました。
こんな状態で売上を上げる為に、一人の人間からどれだけ吸い上げるかが重要になってきました。
握手券を付けて一人の人間に何枚もCDを買わせるなんてのは良い方で、投票券を付けて応援しているアイドルに順位をつけるなんて方法で、1枚のCDリリースで大量に売り捌くという方法が確立し始めました。
もっと良心的で音楽に真剣に向き合っている人達の場合でも、CD売上よりもライブや付随するグッツ販売の方に軸足を移し始めています。
『およげたいやきくん』がヒットした際には日本国民の大半が曲の存在を知っている状態でしたが、今では100万枚販売されたとしても大半の人間が曲の存在を知らない状態になっています。
これで成り立つのも、『取れる所から取っている』からです。

つまり今のコンテンツは、幅広い層から少額の金を集めるのではなく、極一部のマニアから多額の金を集金するシステムになっているわけです。
多額の金を払ってくれる優良顧客は数少ないわけですから、その少ない廃課金者の数を増やす為、『少額かつ定額』『無料』といった感じで分母を拡大しているのが、現状行われている戦略だったりします。
狙っているのは、『コンテンツにド嵌まりする数少ないマニア』となってくると、シェア争いの方法なども変わってきます。
従来の様に顧客をガッチリ囲い込む必要はなく、金を落とさないフリーライダーは『縁がなかった』と、お互いに他のジャンルと融通し合えば良い。
そうすることで優良顧客の数を増やせれば、互いにハッピーというわけです。そもそも一部の趣味に多額の金を使うということは、多くのジャンルに関わる余裕が無いことを意味しますからね。

こんな感じで増えているのが、『コラボ』。
アニメやマンガがパチンコやアプリと提携したりと、ジャンルを超えたコラボ合戦が展開しています。
これは、アニメ好きをパチンコの道に引き込んだり、逆にパチンコ発でアニメの存在を知ったりと、ジャンル感を飛び越えた営業が可能になります。
パチンコは趣味程度でしか金を使っていなかった人が、アニメにドップリ浸かって多額の金を出すようになるかもしれませんし、その逆も考えられますよね。

ただこの様な状態は、どのジャンルにもハマらない人間にとっては、横断的にフリーライド出来てしまう世の中でもあるんですよね。
多くの人が無料に近い状態でサービスを楽しめているのが、一部の人の廃課金利用者のお陰。
どことなく、構造が日本の年金と似ているような気もしますが、何故か今のところ上手くいっている。。。
この辺りのことも深く考えると面白そうですが、今回はこの辺りということで。

ITによって意思疎通が出来る様になったことで増えたジャンルとシェア争い

少し前に、世の中にあふれる低価格・定額サービスと可処分時間との関係について書きました。
kimniy8.hatenablog.com

前回の投稿は、現在展開されているサービスを中心に書きましたが、何故こんなサービスが展開されているのかについては書いていなかったので、今回はこの部分について考えていきます。

一番大きな理由としては、IT革命が挙げられるでしょう。
コンテンツが手軽に個人レベルで作って配信できるようになった為、質はともかくコンテンツ量が爆発的に増えました。
例えばこのブログなどもその一つですよね。
文章というものは、以前は本や雑誌、新聞を通してしか目にすることが出来ないものでしたが、ネット登場後のブログ文化によって、誰でも簡単に思っていることを書いて更新することが可能になりました。

このネットによる文章の発信ですが、一部のメールマガジンや会員制サイト以外は通信料さえ払えば基本的に無料で読むことが出来るわけですが、無料だからと言って一概に質が悪いともいえないんですよ。
従来の文章メディアは、販売するまでにコストがかかるわけで、そのコストが回収できるような内容の文章しか載せて発行することは出来ませんでした。
当然、取り扱う話題も万人受けするようなものにする必要が有ります。
お金お貰っているライターが書くということで、文章の質は確保されるという長所はありますが、話題の幅が限定されるという欠点も有りました。

しかし、ネットの場合はそのコストが殆ど掛かりません。
訴えたいことがある人が文章を書き、読みたい人がサイトを訪れて勝手に読むスタイル。
多くのブロガーは仕事ではなく趣味で書いている為、どんなにマイナーな話題やジャンルであっても、自分が興味の有ることであれば労力をかけて書いて発表します。
その結果として、毎日の様に膨大な情報が無料で提供されるという状態になってしまいました。
また、それらのコンテンツに対するリアクションも容易に出来る様になりました。
この動きは文章だけに留まらず、動画や音声コンテンツ等、新湯部分屋において起こりました。

この結果、何が起こったのかというと、価値観の多様化です。

従来のように、大手メディアが何らかのコンテンツを出して情報を届けていた時代であれば、情報源が限られていたわけですから、国民の誘導も割りと簡単に出来ていたのでしょう。
『皆が何を考えているのか。』なんて事を普通の人が調べるのは難しいことですからね。
この様な状態では、各メディアが発信している『皆はこんなことを考えている』『今の流行りはこれ!』なんて情報を信じるしか無い。
しかし、皆がそれぞれ発信してリアクションが取れる状態であれば、普通の人でも簡単に他人の意見を検索して知ることが出来ます。
今までは、大手メディアによって一方的に『常識』『流行』といったものを押し付けられ、それ以外のものは異端と思われてきたわけですが、皆の本音が共有できるようになると、自分の趣味趣向が特別で異端でないことを知ることが出来るようになります。
こうなってくると、事情は大きく変わってきます。

自分が本当に好きだと思っていることが変な趣味ではなく、同じように好きな人が一定数いることが分かると、無理して興味のない押し付けに耳を貸す必要はなくなってきます。
自身が好きなジャンルについて思ったことをTwitter等で書き続けていれば、同じような趣味を持つ人がフォローしてくれるでしょうし、人間関係も広がっていきます。
そして、特定のものを好きな人たちが集まることで、マイナーだったものが一つのジャンルとして確立してきます。
ジャンルが確立すると、次に起こるのが掘り下げ。この様な感じで、ジャンルはより狭く深く細分化されていきます。

例えばアニメですが、昔はアニオタなんて一括りにされていましたが、今現在は年間300本近いタイトルが放映されている為、全てを網羅することは時間的に難しい状態になっています。
このような状態になると、アニメという大きなジャンルで括ることは難しくなる為、日常系・ロボットもの・シリアスな人間ドラマ・恋愛・萌系など、どれかのジャンルに絞って観るという状態になってきます。
そして、特定の物しか観ない人達がSNSなどを通して交流し、現在進行形で放送されているタイトルの考察は勿論、二次創作であったり、過去に遡ってルーツを探したりといったことが行われて、一つのジャンルとして確立していきます。
アニメを全く見ない人が傍から見れば、皆同じアニオタなわけですが、実際に見ている人間からすると、『あのジャンルのことは知らない』『あいつらと一緒にするな』なんて事になっていたりします。

この様な動きは、アニメやゲームといったオタク的な分野だけにとどまらず、あらゆる文化で起こってきています。
音楽好きでも、特定のジャンルしか聴かないので他のジャンルは知らないという人は沢山いますし、映画・本などでも同様です。
人が持つ時間は1日24時間と限定されているわけですし、あらゆるジャンルで考察やら掘り下げが行われれば、全てを追えなくなるのは当然でしょう。

こんな状態で起こっているのが、ジャンル戦争。各サービス間での生き残り合戦です。

昔のように、皆が広く浅く知識を持っていた頃は、自分の所属する分野でトップレベルになれば、自然と皆が知ってくれて売上にもつながりました。
しかしジャンルが分岐して増えすぎると、特定ジャンルでトップを取った所で、そのジャンルを知らないなんて事も充分ありえます。
ジャンルそのものが『忘れ去れれる』と、消費者の拡大なんて望めませんし、最悪の場合はコンテンツ制作者の新規参入すら望めなくなるなんて事にもなってしまいます。
利用者もいなくなり提供者もいなくなってしまうと、それこそジャンルの『死』を意味し、そのジャンルに関わる人達の仕事も無くなってしまいます。

業界人にとっては、単純に食い扶持が無くなる事もそうですが、好きで業界に入って自分達で作り上げてきたジャンルそのものが無くなるというのは、耐え難いことでしょう。
何とかして一定の知名度を保ち、利用者を囲い込む為には『無料(低料金)でも良いから一度使って、良さを理解して!』と、ばら撒くしか無い状況。
『無料(低料金)でバラ撒いて、商売になるの?』と思われる方も多いでしょうが、これらのサービスを利用して良さを理解した一部の人間が課金をすれば、商売としては成り立つ仕組みになっていたりします。

この部分についてもう少し詳しく書きたいところですが、文章量的に丁度よい感じになってきたので、続きはまた次の機会にでも書こうと思います。

『告白』という儀式によって縮小する人間関係

私は前々から、『告白』という儀式を経て『付き合う』という行為が、理解できませんでした。
しかし世間では、何の疑問もなく当然の様に行われているため、私が世の中についていけていないだけだと思い、世間の流れを理解するためにも必死に考えたのですが…

結果として、全くわからない。
むしろ、色んなデメリットが有るようにしか思えないので、今回は『告白』という儀式を経て『付き合う』事のデメリットについて書いていきます。

私が見聞きした範囲での『告白』から『付き合う』までの流れですが、大抵の場合は顔見知りや知り合い程度の人間に一方的に恋をして、思いを告げる『告白』という儀式を通過し、恋愛関係に発展しているケースが多い。
ネットで検索してみると、『何回目の食事で告白すべきか』なんて記事も出てくる程です。
世間一般では普通に行われていることですが、私の場合は、まず、この部分で引っかかってしまうわけです。

相手のことを殆ど知らない状態での告白は、何を根拠に好きだといっているのか。
これは簡単に想像できますが、大半の場合が相手の『外見』に惹かれている場合がほとんどです。
しかし、人間関係において外見なんてものは取っ掛かりにしか過ぎないわけで、長く付き合っていく為に重要なのは中身の方です。
本来であれば、中身を知った上で好意を持つべきだというのが私の主張なのですが、日本で広く浸透している告白の儀式の場合は、相手を深く知らない状態で行われ、恋愛関係中に相手の中身のことを知っていくという状態になっています。
この結果、告白して恋愛関係に発展したものの、3回ぐらい食事に行って性格が合わない事で別れるという現象が普通に起こってしまう。
『別れる』という儀式を経てしまうと、その後の人間関係がギクシャクしてしまうことも想定できますし、最悪、人間関係は終了してしまいます。

この状態、普通に考えて、酷く効率が悪いですよね。
3回ぐらいの食事であれば、わざわざ告白なんてことをしなくても、友達・知り合いとして行っておけば良い。
食事に行った相手は、恋人としては不適格だったかもしれませんが、知り合いとしては良い人かもしれない。

人間、普通に生きていれば何かしらの特技や趣味を身に着けているものですし、知り合った人間は自分にはない何かを持っていることも考えられます。
ネットが発達し、人と人がつながり易くなったとはいっても、人との接点はそんなに簡単には無い現代。
せっかく知り合った人と別れてしまうというのは、結構な損失です。
『告白』という儀式さえなければ、何らかの形で続いていた関係が、告白したせいで壊れてしまうリスクは無視できません。

次にネックとなるのが、告白制度によって相対比較が出来ない事です。

人というのは、何か一つだけでは比較が出来ません。
Aという対象を比べるためには、最低でももう一つ、Bという存在が必要不可欠です。
しかし、『告白』という儀式を経て『恋愛関係』を締結してしまうと、途端に相対比較が難しくなってしまいます。
何故かと言うと、制約が生まれるからです。

『異性と二人っきりで合わない』『週に◯日は会う』『毎日メールする』
恋愛関係に発展すると同時に、様々なルールが作られます。
何故この様なルールが作られるのかというと、相手のことを知らない状態で『告白』する事が日常化している日本では、異性を食事(遊び)に誘うという行為そのものがアピールと取られるからです。
(食事の様な軽い接触がアピールと取られる為、この時点で妙にハードルが高いのも、人間関係が拡大しない要因とも考えられる。
また、この考えの強化版で、恋愛関係に発展しない人間と食事(遊び)に行っても仕方が無い、3回食事に行って告白がないなら合わないという思想もあるようです。)
この様な空気のため、一度恋愛関係になった場合は、パートナー探しは関係が破綻した後にしなければなりません。関係が重複すると『浮気』になってしまうからです。

一度、恋愛関係が結ばれたら、破綻するまで他の人とは親密になれない。
こんな状態で相対比較をしようとすると、付き合っては別れて…というのを繰り返すしかありません。
その結果として、『一番最初の人が良かったね』なんて事になっても、もう後の祭りです。

こんな状態になるのであれば、告白なんて儀式はせずに、同時並行的に数多くの人と友達関係として付き合えば良い。
人間は、気の合う人間とは頻繁に会いたいと思いますが、そうでもない人間とは会う頻度も徐々に減っていきます。
最終的に『いつも、この人と一緒にいるな。気が合うんだろうな。』と思える人と結婚すれば良い。
この選び方の場合、少なくとも相対評価を生き残った人が側にいることになる為、よりベストの人と一緒になれる可能性も高まりますし、選べなかった人達とも友達のままでいることが可能です。
人間関係を広げるという観点から見た場合、この方が効率が良いのではないでしょうか。

その他の問題としては、外側に対しては制限がかかる恋愛関係が、関係が成立した途端にパートナーに対しては許容範囲が広くなること。
『付き合っている』『恋人関係』という言葉によって関係性が明確になっている為か、言葉自体に縛られているのかは分かりませんが、彼女(彼氏)だからと、普通の関係なら許せないことも有耶無耶になったりします。
告白という儀式を経て付き合うという行為は、最初のハードルが酷く高いが、それを乗り越えると後は楽という事を意味しています。
この構造、何かに似ているとは思いませんか?
そうです、日本の入試と同じなんです。
学校に入る為の入学試験は非常に難しくハードルは高いが、入ってしまえば、就活とバイトに大量の時間を費やしたとしても卒業は出来てしまう。
これと同じで、告白という儀式さえ乗り越えてしまえば、その後はそれ以上の努力を強いられること無く、ミスしなければ関係を続けることが出来てしまいます。

そして、何事もなく数年間が過ぎ去った所で、『そろそろ責任とってくれるよね?』となるわけです。

この様なシステムだと、最初の告白の段階で結婚を見据えて行動する必要が出てきます。
しかしその告白は、数回有った程度の何も知らない状態で行われるわけです。しかも一度告白が成功してしまうと、人間関係が制限されて相対評価できなくなるというオマケ付き。
自分と合う良い相手を見つけるためには、ニュータイプ並みの超感覚がなければ無理なんじゃないかとすら思ってしまいます。

更にいえば、この構造、悪用しようと思えばいくらでも出来てしまうのも大問題です。
というのも、最初の告白が一番ハードルが高いわけですが、この『告白』はお互いのことを特に知らない状態で行われるため、清潔感の有る格好をして広く浅くでも教養を持っていれば、高い確率で面接に通ることになります。
これを利用して、『そこそこ外見に気を使いながら』『好印象を植え付ける為に演技』をして告白しまくれば、簡単に自分に対して許容範囲が広がった人間を大量ゲットできてしまいます。
この手の人達は、自分の都合の良いように利用するために告白して近づいてくるわけですが、騙されている側は『告白』という儀式を経て『恋愛関係』に発展したという事実にしがみつくことで、自分が置かれている状況を客観視することが難しくなります。
その結果、利用されているだけの存在ということに気がつくのが遅れ、多くの損失(金や時間)を負ってしまう可能性も有ります。

この様に考えていくと、『告白』という儀式を経て『恋愛関係』を結ぶというシステム自体が、恋愛・結婚・人間関係の拡大の観点から見て、酷く非効率的に見えてきます。
ネットで調べると『告白するのは日本だけ』なんて記事も多数ヒットします。なんでも外国が進んでいるなんてことは申しませんが、意外と短い人生、人間関係はもっと効率的に広げる方向に向かったほうが、何かとプラスになるようなきがするのは私だけでしょうか。

PSVRは転売ヤーから高値で買う価値があるのか考える

昨日(2016年10月13日)、ついにPlayStation VRが発売されましたね。

私はというと、VR発売祭りから弾き飛ばされた為、既に『今すぐ欲しい!』というモチベーションが低下しまくっている状態であります。
『VR発売祭り』はどんなゲームかというと、事前予約を完了し(最悪、当日発売分を購入)、SNSなどで『没入感凄い!』って感じでアピールしまくり、そして誰よりも早く『もう飽きたw』と投稿するゲーム。

私の住む地域では販売店は3軒しか無く、それも結構遠い。しかも私は土曜日仕事ということで、Amazonでの予約で頑張ってみたのですが…
3回の内2回はカスリもせず、後の1回はカートに入れるボタンを押した時点で『この商品は買えません』と表示されて終了。
当日販売分については、9時前後に運良く仕事でPC前で作業していたので、Amazonページを出しながら作業していたのですが、売り出した事が分かって直ぐに『カートに入れる』ボタンを押すところまでは行きましたが、住所指定などの操作をしている内に完売したようで、『この商品は買えません』と出て終了。

予約も出来ず、当日発売分を購入する事もできなかった為、僕の祭りはこの時点で終了です。
正直な話、PSVRの購入目的の大部分が、この自分で勝手に決めた祭りに参加する事でしたので、この時点で僕の『買いたい!』欲は、ほぼ無くなってしまったという感じでね。
今は売れ過ぎて販売店を絞っている状態ですが、この状況で無理をして買おうと思う気持ちは一切ない。
買うのであれば、近くにあるゲームショップやAmazonで常に在庫がある状態で、落ち着いて買いたいと思っているのが今の心境です。

そう思う一番の理由は、ソフトでしょうね。
今現在のVR用ソフトは、ゲームと呼べるようなものが殆どありません。
売れ筋ソフトとしては、お金を払って家庭教師をする体験ソフト『サマーレッスン』や、ボーカロイドやゲームキャラ(アニメキャラ?)のライヴ観戦だそうですけども…
家庭教師にもキャラクターのライヴにも、興味はない。また、これらのソフトですが、プレイ時間が一瞬で終了してしまうソフトのようなんですよね。
昨日が発売日で昨日の時点でのTwitter掲示板の書き込みを見ていると、『サマーレッスン10周クリアーして流石に飽きた』というような意見を見かけました。
発売当日で10周出来るって、これはゲームというよりデモって感じ。これに3千円も出すっていう気にはなれないんですよね。

個人的な趣味の話を言わせてもらうと、『GTA』や『アサシンクリード』『フォールアウト』『スカイリム』等のシリーズ。そして、全米を車で走れるザ・クルーの様なゲームがやりたいんです。
『外国の雰囲気や過去の世界、ファンタジーや文明崩壊後等、実際に行くのにとてつもなく労力がいる場所や絶対に行けないような場所に訪れたい!』っというのが、私の希望だったりするのですが…
発売日の時点では、そんな感じの私の欲しいゲームは出てないんですよね。
既に発売が発表されているものでいえば、UBIソフトの『Eagle Flight』なんてのはやってみたいですが、それも発売は来月ですし、それ一本だけでは買う動機としては薄い感じ。
毎年のように発売しているアサシンクリードが、今年VRに対応した形で発売!なんてことになれば、何としてでも今年中に買いたいと思うのでしょうが…
アサクリの新作は、今年は出ないようなんですよね。
既に発売しているGTA5やFall OUT4が追加アップデートでVRに対応してくれれば、強く背中を押された感じで購入するかもしれませんが、その発表もまだない。
つまり現時点では、購入した所でプレイしたいゲームがない為、買う気が起こらないって感じですかね。

購入を見送っている理由として次にあげられるのが、画像でしょう。
PSVRはフルHDの解析度があるようですが、この解析度は、視野の一部分しか占拠しない40インチ前後のディスプレイで観ていると問題なく見れますが、これが視野全体がディスプレイになってくると話は変わってきます。
視野全体を1920×1080で表現するため、結構、画像が荒いっぽい。
一部の話では、現実と同じようなグラフィックを再現しようと思えば、フルHDといったレベルではなく、4kでもなく、16kぐらい必要なんじゃないかとすら言われています。
そのためでしょうか…発売後にAmazonレビューを観てみても、画像が荒いことを指摘しているユーザーが結構な割合でいらっしゃいます。

ここで少し気になったので、PSVRの解析度についてもう一度調べてみることに。
その結果わかったことは、フルHD画質はPSVRの性能を完全に引き出した状態での解析度のようで、能力をすべて引き出すには『PS4 Pro』という、今後出るハイスペックなPlayStationが必要とのこと。
つまり現行機では、フルHDすら出ていないということで、画質はかなり悪いっぽいです。 
SNSや掲示板で体験した人の書き込みを観ると、画質的にはPS2並。
今後、ソフトを作り慣れていくことでグラフィックが改善する可能性は有りますが、PS4に慣れてしまっている現在、PS2並のグラフィックというだけで、ちょっとね…

とはいっても、proの登場でグラフィックは改善の余地がある。
そして、どうせVR体験をするのであれば少しでも良い状態でやりたいというのが人情。
やるならPlayStation 4 Proでプレイしたい。
となると…
転売ヤーに2~3万円の手数料を払ってPSVRを購入するよりも、今ある現行機のPS4を売り払い、その金と転売ヤーに払う予定だった手数料分とを合わせた金でPlayStation 4 Proを購入する方が賢いのかも?
Proが発売した後には、PS4との画質の差等もレビューされるでしょうし、それを観てからでも遅くは無いと思います。

proの発売にはまだ1ヶ月ありますし、1ヶ月有れば今の状態も少しは落ち着いているかもしれないし、キラーコンテンツになりうるビックタイトルの発表もあるかもしれない。
そう考えると、ゆっくり待っているのが一番賢いような気がするんですよね。

というか、いっその事、第二世代VRが発売されるのを待つというのも、一つの手かもしれない。
その頃には大量にソフトが出ているでしょうし、デモではないちゃんとしたゲームが低価格で販売されているでしょう。
今はコードだらけのPSVRも殆どが無線化されて快適になっているでしょうし、今現在挙げられている大半の問題も解決している可能性すらあるでしょうしね。

どちらにしても、現状では焦っても損しかしない状態だと思うので、買えなかった人は、転売ヤーから高値で買わずに落ち着いて待つほうが良いと思いますよ。

【おすすめPodcast紹介】 ひいきびいき

私の独断と偏見のPodcast紹介コーナー。
第117回。

過去に書いた投稿
タイトル紹介はこちら
エピソード紹介はこちら

今回は、【ひいきびいき】
https://itunes.apple.com/jp/podcast/hiikibiiki/id532841119?mt=2&at=10l8JW&ct=hatenablog
です。


今回紹介するwebラジオは、【ひいきびいき】
公式サイトの説明文を引用すると『迫田大地(UXデザイナー)と木村はるか(声優)のふたりが「ひいきにしているもの」について楽しく語らうポッドキャストです。毎週土曜日更新。』
という事で、タイトルからも分かる通り、出演者の方が贔屓にしている事やモノについて紹介されている番組です。
男女二人で、聞き役と話し手は回ごとに交互に入れ替わるスタイルでの放送です。

放送時間は1時間前後で、毎週土曜日の週一更新です。

この番組。『おすすめPodcast』などで紹介すると結構な頻度でHITしますし、かなり今更感のある紹介なのですが、私が聴き始めたのは最近だったりします。
何故、こんな有名な番組を聴いていなかったのかというと、『おぎやはぎ』さんが放送している『メガネびいき』と勘違いしていたからです。
別に芸人の方が嫌いというわけではないのですが、最近の私は地上波ラジオでは無くPodcastにより興味を抱いているので、プロの方の放送は積極的には聴いていなかったんですよね。
しかし、勘違いということが分かり、ここに来て聴き始めた次第であります。

聴いた印象としては、非常に聴きやすい番組です。
絶えず、マイクの向こう側にリスナーがいることを意識している喋りというのでしょうか。伝わりづらそうな表現が出てくると、聴き手の側が質問をして解説を聞き出したり、フォローを入れたりしてくれている為、音声だけでストレス無く聴く事が出来ます。
これは、出演者のお二人がデザイナーだったり声優・役者をされているからかもしれませんね。
表現の仕事というのは、相手に伝わらなくては意味がない仕事が多いわけですし、普段からそういうことを心がけておられる方々だから作ることだできた番組のような気がします。
これらの事は、ラジオは音声コンテンツなので出来ていて当然と思われる方も多いと思いますが、しっかり意識して出来ている放送って結構少なかったりするので、やるべき事をやっている貴重なラジオの一つといえますね。

話されるテーマについては、結構幅広いジャンルについて話されます。
最初に『ひいきびいき』というタイトルと簡単な説明を聞いたときには、『そんなに好きなもの(贔屓しているもの)って沢山有るかな? ネタ切れにならないのかな?』なんて思ってましたが、実際に聞いてみると、自分がドハマリしている事を淡々と、または熱量を持って話すオタク的な内容ではなく、生活している上で『これ好きかも』と感じる程度の軽く贔屓しているものも紹介感じでした。
具体的には、マクドナルドの様な外食の話から映画や手帳といった小物まで、とにかく、お二人が少しでも興味を持って好きと感じたものについて話されています。

『ちょっと好きなもので、1時間も語れるの?』と疑問に思う方もいらっしゃるかもしれませんね。
しかしこの番組は、単純に好きなものを挙げて好きな部分を羅列する番組ではありません。
例えば『手帳の回』などは、どんな場面で手帳を使うか、その際には、手帳はこんなレイアウトの方が良い。逆に、こんなレイアウトは使いづらいといった感じで、ディスカッションが行われます。
そんな中で、『私はこの手帳のこんな部分が気に入っている』といった流れで番組が進行していきます。
自分の好きなものをゴリ押しする感じの放送ではなく、一つのジャンルやアイテム・コンテンツについての考えや周辺の知識も知れて為になりますね。

幅広い物事を取り上げられる番組ですが、その中でも、最近聞き始めた私が一番面白いと思うジャンルが、映像コンテンツについて語られている回です。
この番組は、最初にも書きましたが、デザイナーと声優・役者を仕事としてされている2人が放送されています。
2人とも、お客さんに表現を通して感情を伝える仕事をされている為、例えば映画の話をする際でも、普通の人が作品を観た感想を語るという視点ではなく、クリエイターサイドでどう観えたのかを解説してくれるんですよね。

それが、非常に面白い。

どのコンテンツも、消費しかしていない側と作りて側では、観た際に受ける印象は変わると思います。
私達が日々見ている町並みも、建築関係者から見れば違った景色に見えるでしょうし、普段食べているものも、飲食店で働いている人から見れば味わい方は変わるでしょう。
この世にあるモノ・サービスは全て、観る側の立場によって変わると思います。
消費者側にいる人は、多少見る視点が違ったとしても、同じ消費者側で観ている人の意見とは共感しやすいですし、人によっては自分自身で思考を拡張して考える事も出来るかもしれません。
しかし、製作者サイドに立って観ることは、ほぼ無理です。その視点での解釈を聴けるというのが良いですね。

こういうことを書くと『製作者サイドの意見なんて、業界人のインタビューやレビュー番組を見れば良いじゃないか』というツッコミもあるかもしれません。
しかし、個人的にはその様なものはすんなり信じれなかったりするんですよね。
例えば、地上波ラジオでは宇多丸さんという方が映画のレビューを週一で行われています。この方もクリエイターサイドの方なんですが、地上波ラジオで仕事としてレビューされる場合、いろんなシガラミを感じさせて、全てを信じることは出来なかったりします。
その点この番組は、その様なシガラミを感じさせない丁度よいポジションで話を聞かせてくれるんですよね。


1回ワンテーマで時間的にも1時間と聞きやすく、聴いているうちに色んな見方や雑学が身につくので、興味が有る方は一度聴かれてみては如何でしょうか。
お薦めです!