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【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第83回【ゴルギアス】人は迎合家を目指すべきか 前編

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この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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前回はこちら
kimniy8.hatenablog.com

目次

今回の内容も、プラトンが書いた対話篇の『ゴルギアス』を、私自身が読み解いた上で、解説する内容となっています。
本を朗読しているわけではなく、重要だと思うテーマの部分に絞って解説していく内容となっているので、対話篇のすべての内容を知りたい方は、本を購入して読まれることをおすすめします。

前回までの簡単な振り返り

前回の内容を簡単に振り返ると、ソクラテスは、不正の被害にあうものよりも、不正を行う者のほうが不幸で哀れだと主張をしますが、それがカリクレスは理解が出来ません。
その理屈では、『いじめられっ子』よりも『いじめっ子』の方が不幸で可愛そうだという事になってしまいますが、普通に考えれば、どう考えても、理不尽なイジメの被害にあっている人間の方が不幸に思えてしまいます。
このカリクレスの考え方は、世間一般と近い感覚だと思われますが、ソクラテスは、順序立てて考えれば理解ができるとして、『善悪とは何なのか』『優れているとはどの様なことなのか』を、もう一度、一から考えていきます。

その為に、カリクレスが優秀な人物だと主張したペリクレスについて考えていきました。
カリクレスは、ペリクレスは国や国民を良い方向へと導き、アテナイを優れた良い国にした素晴らしい指導者だと主張しますが、彼は本当に優れた人物だったのでしょうか。
そして彼は本当に、国や国民を良い方向へと導いたのでしょうか。

ソクラテスが順序立てて考えていった結果、ペリクレスは優れた指導者などではなかったことが分かってしまいました。
では何故、カリクレスはペリクレスのことを優れた指導者だと勘違いしてしまったのでしょうか。 それは、ペリクレスが国の忠実な召使いだったからです。
国や国民が求めているというだけの理由で、先のことも考えずに、求めているものを与える姿は、指導者というよりも、国という主人の命令に忠実に従う召使いと同じということです。

国の忠実な召使いは良い指導者ではない

では、国や国民が求めているものを与える指導者は優秀ではないのかというと… 優秀ではないんです。
ゴルギアスという対話篇の中でソクラテスがずっと言い続けていることは、人が判断を下す際に必要なのは、確固たる技術であって、迎合ではないということです。
人は感情に任せて決断していくと、判断を誤ることが多々あります。 では、間違った判断を下さずに正しい決断を行うためには何が必要なのかというと、基準です。

その基準に照らし合わせた判断は、国民が望むものばかりではないでしょうが、その国民を納得させた上で国を良い方向へ導くのが、指導者の仕事です。
例えば、国を長期間安定的に運営していくためには、飢饉などの何らかのアクシデントが起こったときの為に、食料やエネルギーの備蓄が必要になってくるでしょう。
そして実際に飢饉が起こった場合は、その備蓄を徐々に放出していくわけですが、国民が望む量をそのまま放出してしまえば、備蓄分だけでは乗り切ることが出来ずに、国民が全滅してしまう可能性もあります。

国民のことを考えるのであれば、国民から不満が出たとしても、先のことも考えて徐々に放出すべきです。

行動を決断する感情以外の基準

この他にも、経済を発展させるためには、公共事業を行って仕事を作ってしまうのが、一番手っ取り早いことです。
ですが、公共事業の原資は国民の税金であるため、何も考えずに工事を大量発注してしまえば、不要な建物の建設費や、それを維持するメンテナンス費用が、国民の負担としてのしかかってきます。
メンテナンス費用や国の借金返済の為に、新規の投資ができなくなれば、公共事業による仕事の供給は止まってしまい、経済は悪化しますが、借金やメンテナンス費用が消えるわけではないので、税金は増える可能性があります。

仕事がなくなって景気が悪くなっているのに、増税をしなければならない可能性を生んでしまう様な、公共事業の乱発による散財は出来る限り止めるべきで、絶対に必要なものや、採算がとれるものだけに絞って行うべきですが…
将来の破滅よりも、今現在の国民の支持が欲しい政治家は、先のことを考えることなく、国民が求めるがままに金を散財します。

これは、ドラッグ中毒の主人を持つ召使いが、主人の言われるがままにドラッグの買い付けに行って、主人が破滅すると分かっていながら麻薬を差し出すのと同じ行為です。
指導者は国民を扇動すべき立場なので、国民が後先考えずに快楽のみを求めたとしても、それを拒否して、正しい道へと導くのが、優れた指導者のはずです。
その役割を放棄して、国民が求めているというだけで、国民に迎合した政治を行う政治家は、国が悪い方向へと進んだ際にはその責任を取らされることになります。

指導者とソフィストの共通点

もし仮に、政治家が国民を良い方向へと導くために尽力し、その結果として、本当に国民が善く優れた国民に変わったとしたら、優れた国民は自分たちをその様に導いてくれた指導者に感謝するはずで、吊るし上げるんなんてことはしません。
しかし、カリクレスが優れた人物だとして挙げたペリクレスは、最終的には国民から吊るし上げられている為、この人物が優れた人物というのには、無理があると考えられます。

そしてこの問題は、同じ様に人を立派な良い人間にすると謳って生徒を集めている、ソフィストにも共通する問題です。
ソフィストは、人を優れた人間にすると言って生徒を集めて、生徒からの授業料で生活している職業の人達ですが、このソフィスト達の悩みのタネの一つが、授業料の踏み倒しらしいんです。
生徒として学びに来た当初は、『ちゃんと授業料を支払うから』と言っていたのにも関わらず、いざ、授業を終えると、授業料を踏み倒して逃げてしまう。

ソフィストにとって、自分が行う授業というのは商品と同じなので、授業料の踏み倒しというのは、商品を盗まれたのと同じと言えます。
しかし、ソクラテスに言わせれば、授業料の踏み倒しでソフィストが文句をいうのは、筋違いじゃないのかと主張します。
つまり、このケースで悪いのは、ソフィストたちであって、授業料を踏み倒した生徒ではないという事です。 何故なら、ソフィスト達の方が、生徒を優秀にするという約束を破っているからです。

『善』を教える教師

もし仮に、ピアノをうまく引けるように導いてあげますよと謳って、生徒を集めて授業を行って、その授業料を支払うことなく逃げるものがいたとすれば、それは、授業料を踏み倒した人間が悪い事になります。
同じ様に、定食屋に入って料理を注文して、料理を平らげた後に、料金を支払わずに逃げたとすれば、それは食い逃げですし犯罪です。

この様に、ピアノ教室や定食屋では、カネを払わない方が悪いですし、その様な行為を行う者は客ではなく犯罪者です。
ここで、先ほどのソフィストの授業ではソフィストの方が悪いと言っていたのに、何故、ピアノ教室や定食屋の場合は客の方が悪いのか?と不思議に思われる方もいらっしゃるかもしれませんが…
結論からいってしまうと、扱っている商品が違うからです。

ピアノ教室が教えているのは、ピアノの演奏方法だけですし、定食屋が提供しているのは、食べ物だけです。
ピアノの演奏方法や食べ物の提供している側は、それらを通して、人を良い方向へ導くだとか、人の精神を鍛え直して、人を優れた存在に生まれ変わらせるなんてことは、一言も言ってないわけです。
しかし、ソフィストは違います。 ソフィストは、自分が行う授業を通して、生徒を良い優れた方向へと導いてあげるといって生徒を集めて、生徒から金をとっている職業です。

その生徒が、ソフィストの授業を受けた結果、授業料を踏み倒して逃げるという、犯罪行為を犯してしまうような人間になったのであれば、授業を行ったソフィストの授業に問題がある事になりますよね。
ソフィストに、本当に人を正しい方向へと導く能力があるのであれば、授業料を踏み倒す目的で授業を受けた人間を改心させて、授業料をきっちりと支払うような人間に変えなければ、ソフィストの宣伝は嘘ということになります。
人を良い方向へと導くと公言して、何の意味もない授業を散々行った結果、授業料を踏み倒されたとしても、それは無意味な授業を行ったソフィストが悪いのであって、授業料を踏み倒した側が悪いのではないという事です。

つまり、国や国民を良い方向へと導くと公言して、実際に国を運営した指導者が、その国民の手によって吊るし上げられたとしたならば、それは指導者が悪いのであって、国民が悪いわけではないということです。