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ホワイトカラーではないブルーカラーからの視点

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第81回【ゴルギアス】幸福という絶対的な価値観 後編

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この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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前回はこちら
kimniy8.hatenablog.com

目次

武器職人の仕事

他の職業に焦点を当てると、武器職人なんて職業もあります。
この時代では、隣国のペルシャが攻め込んできたり、アテナイとスパルタとの間で内戦が起こったりと、争いが絶えない時代でした。
この様な戦争の時代では、質の良い優れた武器や防具というのは、それを装備する者の命を守る上で欠かせないものです。

鋭い武器によって早い段階で相手を再起不能にできれば、それだけ、自分が命を落とすリスクを抑えられるでしょうし、相手が怖気づいて向かってこなくなる可能性も高くなります。
優れた防具を身に着けておけば、相手の攻撃を防いだり、致命傷を受ける可能性も抑えられますから、優れた防具を揃えることは重要なことになります。

ソクラテス達が生きていた昔の時代でもそうですが、現代でも武器や防衛のための技術というのは、私達の生活に大きく関わっています。
その存在自体が良いか悪いかは置いておいて、核兵器の登場によって大国同士の武力衝突は減りましたし、兵器をただ持っているというだけで、外交に大きな影響を与えています。
強い軍事力を持つ国は、そもそも攻め込まれる危険性を減らせるので、私達の命にも関わって来る問題です。

この様な観点から見た場合、武具職人や兵器産業は、それを使用する人たちだけでなく、それを保有する国に属する人の命を守っているとも言い換えることが出きて、その恩恵に預かっている人数は計り知れないものとなります。
ただ、武器や兵器は相手に攻め込む事も可能にするので、命を守っている人数と奪っている人数はどちらが多いのかという話もありますが…
少なくとも侵略戦争をしたがる指導者がこの世にい続ける限りは、防衛のための兵器というのは必要な存在で、それによって守られている人達は相当な数が存在します。

食糧生産という仕事

兵器開発は人の命も奪うため、命を救う職業という主張に納得できない人もいらっしゃるかもしれませんので、他の例も挙げてみると、もっと根本的な、多くの人の命を救う職業として、農業を始めとした食糧生産というものがあります。
人は食料を定期時に取らないと活動できませんし、長期間 食料をとななければ死んでしまいますので、安定的な食糧生産を行う事が多くの人を救うのに役立っているというのは理解しやすいと思います。
これらの職業に携わる人達も、船渡しをしている人達と同じで、自分たちの仕事を必要以上に持ち上げたり、他人に対して恩着せがましい態度をとったりはしません。 決して多くはない金額を、対価として受け取るだけです。

その一方で弁論家は、どうでしょう。いくら優秀だと言われている人であったとしても、生涯のうちに救える人の命は限られています。
弁論家が人の命を救う場面というのは、死刑判決を受ける可能性がある人を弁護して、その罪を軽減させたときだけです。
それも、無能な権力者によって無実の罪をでっち上げられて、死刑判決が下されそうなときだけに限定されます。 死に値するような罪を犯した者の救済は含まれません。

何故、死に値するような罪を犯したものは救済に含まれないのかというと、ソクラテスに言わせるなら、それは罪を償う機会を奪う行為になるからです。
前にも言いましたが、ソクラテスの主張としては、不正を行うことは最も悪いことで、不正に手を染めたものは最大の不幸におちいってしまいます。
その最大の不幸に向かおうとしている、または不幸になっている人間を助ける為に必要なのは、不正を暴いて裁きにかけて、必要であれば刑罰を課す事で、それによって人は、自分自身の中にある悪い要素を浄化できると考えています。

つまり、自分の命を持ってしか償えないような大きな不正や犯罪行為を行ってしまったものは、その裁きを受け入れることが正しいことで、その人自身のために成るという考え方です。
その人間を、嘘をついてまで弁護して、刑を不当なまでに軽くしてしまう行為は、それこそが不正行為に当たるため、その様な行為を行ってしまった弁護士・弁論家は不幸になってしまいます。
このようにして考えていくと、弁論家である弁護士が助けることが出来る命というのは、不正を行うような悪い独裁者が、ワガママによって無実の罪をでっち上げて人を死刑にする場合に限られます。

人を救えない弁論家

では弁論家は、その様な無実の罪で訴えられた可哀相な人達を助け出すことが出来るのかというと、カリクレス達が思い描く弁論家には不可能です。
何故なら、カリクレス達が目指す弁論家とは、権力に屈して、独裁者の意見に話を合わせて機嫌をとることで、彼らのお気に入りになって出世したりだとか、独裁者の名前をチラつかせて自分もワガママを押し通す力を身に付けている者のことです。
そんな彼らが、権力者に逆らって被害者を救うなんてことを行うはずがありませんよね。

となると、カリクレス達が立派で凄いものだという弁論術を身に着けた弁論家には、人を助ける能力がないことになります。 つまり、人にとって何の役にも立っていないとも考えられます。
にも関わらず、実際の弁論家達はどの様な振る舞いをしているのかというと、食糧生産者や武具職人達のことを、農民だとか兵器屋といって、まるで汚いものでも見るかの様に軽蔑して見下していたりします。
誤解のないように言っておきますと、これは、今現在の弁護士の人達がみんな、その様な人だと言っているわけではありません。 古代ギリシャでは、労働は奴隷が行うもので、働く人たちが尊敬されていなかった時代だということも関係しています。

とはいっても、今現在でも、現場で働く人ブルーカラーの人達を見下すホワイトカラーの人達は結構いたりしますので、意識が大きく変わっているとは言えないかもしれませんけれどもね。
話を戻すと、ソクラテスと対話しているカリクレス自身も、生まれた家柄が良かったのと、口先の弁論術によって政治家としてしてそれなりの地位につくことが出来た人物なので、現場で働く職人たちを軽視しています。
ソクラテスは、仮にカリクレスに娘がいたとして、その娘が先ほどの職人たちと恋に落ちて結婚したいと言い出したら、カリクレスは猛烈な勢いで反対するだろう指摘します。

人間の価値

何故、農民や武具職人たちとの結婚に反対するのかというと、カリクレスは自分が着いている政治家という職業が崇高なものだと思い込んでいますし、崇高な職業についている自分や、その家族が立派な人間だと思いこんでいます。
だから、現場で汗水たらして働く彼らとは身分が違うと考えていますし、彼らと自分の娘は立場的に釣り合わないと信じ込んでいるからです。

確かにカリクレスは、世間一般の多くの人が、彼は良い家柄の生まれだと認めるような人物ですが、では、良い家柄って何なんでしょうか。何をもって良いとしているのでしょうか。
家柄というのは人を分類してラベリングしているだけに過ぎないのですが、家柄の様なその人物に貼られているレッテルを1枚ずつ全て剥がしていくと、最期に残るのは、人間本来としての価値となります。
人間そのものが持つ価値を判断するのは難しいですが、客観的に見た際に、その人間の価値をはかるのは、その人間が社会にどれほど貢献しているのかというところに行き着きます。

そして、よくよく考えてみれば、技術を使って仕事を行っている実業家の全てが、何らかの形で人々の命を延命させる事で、社会に貢献しています。

食糧生産者や医者は分かりやすいですが、先ほど上げた武具職人もそうですし、建築家なども含みます。 雨や風を防げる安全な建物は、病気を遠ざけて人の健康を維持させる事ができるので、彼等がいなければ安全な暮らしはできません。
エンターテイメントの分野やスポーツ選手といった、技術ではない迎合に属するものはこれには含みませんが、技術を使うあらゆる職業が人の命を延命させるという点で人の役に立っていますし、人が社会を作るので、社会に貢献しているといえます。
しかし、どれだけ命を延命させたとしても、いずれは限界が来てしまいます。 人はどれだけ努力をしても技術を注ぎ込んでも、永遠には生きられません。

いずれ、絶対に命が尽きてしまうのであれば、人の価値というのは、単純な寿命の長さで判断されるべきではなく、その人生の中で何をしてきたのかという『中身』で判断されるべきです。

人の善し悪しの判断

ソクラテスは、身分が高い家に生まれたとか、他人の安全を保つとか、生きていく上で絶対に必要なものを生産しているといった事は、良い人生かどうかを判断する材料からは切り離して考えないといけないと主張します。
特に、身分が高い良い家柄に生まれるというのは、本人の努力ではどうにも出来ないことで、運でしかありませんし、仮に、その程度のことで人の善悪が決まってしまうのであれば、人は生まれた瞬間から善人か悪人に分けられてしまいます。
生まれた瞬間に悪人に成るといった考え方が暴走してしまうと、その子供が生まれる前に、親や血筋ごと絶やしてしまえば良いという考えになり、いずれは民族浄化といった行動に発展してしまいます。

人の善し悪しに生まれが関係ないのなら、社会に対してどれほどの貢献をしているのかで測るべきというのも間違いです。
人が何かしらの技術でもって社会に貢献しているのであれば、それは回り回って人々の命を守っているのと同じなので、仕事内容に上下関係はありません。
では、人の善悪はどの様に判断されるべきなのでしょうか。 人は、どの様に生きていくべきなのでしょうか。 この話はまた、次回にしていこうと思います。