だぶるばいせっぷす 新館

ホワイトカラーではないブルーカラーからの視点

【本の紹介】 <こども>のための哲学

今回紹介する本は、【<こども>のための哲学】です。


      

タイトルには、<こども>と書かれていますし、タイトルも平仮名が多い本。
一見すると、子供向けの哲学入門書かな?と思ってしまいがちな本ですが、実際に子供が読んだとしても、ほぼ理解できない内容となっています。
つまり、入門書というものではなく、著者の方が考え続けている問について書かれている本です。

その問とは、見方によっては<こども>っぽいと思える疑問で、『私は何故、私なのか?』『何故、悪いことをしてはいけないのか』というもの。

哲学に興味があって、普段から自分でも哲学的な問題を抱えていたり、考えているような人間には理解できる問ですが、そういった習慣がない人にとっては、問そのものの意味の理解が出来ない内容なのではないでしょうか。
誤解の無いように書いておきますと、この問が分かったから偉いとか、頭が良いということが言いたいのではありません。
こんな疑問が頭に浮かばなければ、こんな事は一生考えなくても良いですし、考えなかったからと言って、何の不利益もありません。
逆に、考えたからといって何か得があるわけでもない。

この本の中にも書かれていますが、今現在の哲学的な思考をしてしまう人というのは、基本的には、他の人よりも一段低いところにいる。
そして、普通になる為に、他の人達と同じレベルまで土を盛って土台を引き上げる為に努力している。

例えば、『人生に意味はあるのか』だとか、『何のために生まれてきたのか。』なんて事は、基本的には考えなくて良いものです。
こんな事を考えずに、人生を面白おかしく過ごして、何の疑問もなく死んでいくのであれば、それは幸せな人生だし、誰に否定されるものでもありません。

でも、哲学に興味をもってしまう人というのは、こういった問題に対して考えてしまう性分なんです。
考えなくても良いことを考えるわけですから、当然、位置としてはマイナスということになります。
何故なら、こんなことさえ考えなければ、もっと有益なことに時間を使えますし、生活に役立つことを勉強できるかもしれません。
勉強しなくても、その時間を遊びや休息に使えるわけですから、疑問を持つ人間よりも遥かに効率的だし、人生を楽しめることでしょう。

しかし、何度も言いますが、興味をもって考えてしまう人というのは、考えてしまうんです。
何故なら、そういう性質なんですから。
この様な疑問は、多くの人は<こども>の頃に疑問に思ったことはあっても、どこかの段階で無理やり納得したり、疑問その物をなかったコトにしてしまう。
でも、そんな<こども>の頃に感じた疑問を、徹底的に考えてみるとどうなるのかというのが、今回のこの本です。

考えるテーマは先程も書きましたが、基本的には2つです

『私は何故、私なのか』
『何故、悪いことをしてはいけないのか』

この問いに対する思考方法は、本を読んでいただきたいのですが・・・
今回、『私は何故、私なのか』という問の意味だけを簡単に紹介すると、ここで先ず考えなければならないのは、『わたし』の定義です。

ここで、哲学に興味のない方や、問題の本質を深く考えない方などは、自分のことを指差して、『これが私』といいますが、そういうことではないんです。
では何なのかというと、簡単にいうなら、エゴとか、自身を自身として認識している存在という事になり、物凄く大雑把にいうと、巨大ロボットが自分の体や性格として、そこに乗り込んでいる操縦者が、自分と考えるというイメージ。
精神だとか、魂だとか、呼び方はなんでもいいんですが、とにかく、個人としての人間から、『わたし』という純粋な存在を取り出して、それを『わたし』と定義します。

問題は、その『わたし』が何故、自分でなければならないのかということです。

例えば、巨大ロボットとパイロットの例でいうなら、巨大ロボットという、体や性格といった他人から見たキャラクターはそのままに、エゴだけが自分以外と入れ替わっていたとしても、世界にはなんの影響もありません。
でも、何故、私のエゴは『わたし』であるのか? 他の誰でもない、『わたし』なのか?

他の例でいうなら、人生というものが一人称視点で撮られた映画のようなもので、それを、たった一人で観ている観客が、エゴだとか『わたし』といったものだとしましょう。
その観客は、何故、今意識として感じている『わたし』でなくてはならなかったのかということ、他の誰でもよく、『わたし』が別の『わたし』に変わったとしても、世界は相変わらず普通に回るのに、何故、いま感じている『わたし』なのかというのが、この問題の疑問です。

この問題は主観的なものなので、答えを出したとしても、観測することも証明することも出来ません。
また、自分なりに納得する答えが出たとしても、その答えは、生きることに何の役にも立たないでしょう。
変わることがあるとすれば、そんなことに何の疑問も持たない、普通の人と同じラインに立てるだけです。
そういた意味でも、こんな事を考えてしまう人というのは、普通の人よりも一段低いところに立っていて、ハンデを持っている状態ともいえます。

そして、そのハンデを埋めるためにも、さっさと自分なりの答えを見つけて納得したいと思い、思考を巡らせる。
一刻も早く自分の足元に盛り土をして、他の人達と肩を並べられるように、一生懸命、考えを巡らせるけれども、一向に納得の行く答えが見つけ出せない。

こんな感じの心理と、それと向かい合うための思考方法が書かれている本です。
この分野に興味の有る人が読むと、共感も得られ、結構楽しんで読める本だとは思いますが、疑問の意味や本質がわからない人が読んでも、そもそも理解が出来ない本だと思います。

哲学的な問題を、どうしても考えてしまう・・・
そんな方は、読むと楽しめるし、気持ちが軽くなる事もあると思います。
興味のある方は、是非、読んでみてください。

初めての『角打ち』

少し前のことですが、初めて、角打ちというものに行ってきました。
『角打ち』という単語を聞いたことが無い方(私も最近までそうでした)の為に、簡単にどんなものかを紹介すると、その場で飲めるタイプの酒屋さんです。

まだ分かりにくいと思うので、もう少し説明してみましょう。
昔は色んな所にあった、町の酒屋ってありますよね。
今ではコンビニなどの台頭によって、徐々に専門店としての酒屋って少なくなってきているイメージの、あの酒屋です。

酒やツマミが売られていて、スーパーでは買えない様なちょっとマニアックな酒なんかが売られていたりする酒屋なのですが、その場で呑んで良い店というのを『角打ち』と呼ぶそうです。
という事で今回は、初めて『角打ち』をした体験を書いていきます。

私が行った場所は、京都の錦市場から歩いてすぐの、『松川商店』
少し前から存在は知っていたのですが、何となく、一人で入る勇気がなかったので、見送っていた店なのですが、この店で待ち合わせをする機会というのがありまして、それを機に暖簾をくぐってみました。
誘っていただいたのは、『BS@もてもてラジ袋』というネットラジオをされている、ぶたお さん。
ネットラジオ BS@もてもてラジ袋

私自身も、今年になって音声ブログを始めたので、その制作の際に使用するマイクの相談をした所、使ってない物を譲っていただけるという事で、ついでにアドバイスやらを頂きに現地に向かいました。
goo.gl

入口だけを観ると、こじんまりとした昔ながらの家屋といった雰囲気だったのですが・・・
中に入ってからの熱気が凄い。

それほど大きいと思えないスペースに、観た限り40人程度がぎっしりと入っている。
私も、それなりに木屋町通などに呑みに行くことがあるのですが、これ程までに満席の店は、イベントでもない限り観たことがありません。
週末でもなく、平日でこの混み具合は、本当にすごい感じですね。

店の内側の壁は、全面、酒の店が並んでいて、商品がズラッと並べられていて、中央付近にカウンターっぽく空間を仕切る感じで長テーブルが2つ並べられていて、その両側に人が群がっている感じ。
誰が客なのか店員なのかが全く分からず、また、仲間同士で盛り上がっているのか、見ず知らずの客通しで盛り上がっているのかもわからないが、とにかく、店の全員が誰かと話している。

角打ちという空間に入ったのは初めてですが、ここまで熱気に溢れた店内に足を踏み入れた経験は無いというぐらいに、何故か盛り上がっていました。

第一印象でショックを受けたわけですが、その後、少し落ち着いたところで店内を見渡すと、一つの疑問が沸き起こりました。
それは、店員がいないということ。

客が40人もぎっしり詰まっている店なんですから、それを回す為には結構なスタッフが必要そうなんですが、この店にはスタッフらしき人が全く見当たりません。
しかし、客はそれぞれにお酒を呑んでいますし、ツマミも食べている…

ですが、そんな疑問は直ぐに無くなりました。
というのも、先に入っていた ぶたお氏が、呑んでいる酒が無くなると、店の外壁に並んでいる冷蔵庫から、無言でビールを取り出して栓を開けたからです。
私と同じように、『角打ち』というシステムを全く知らない読者の方は、この行為に違和感を覚えるかもしれませんが、これが、角打ちのシステムなんです。

つまり、客は飲みたい酒があったら勝手に冷蔵庫を開けて、自分で開けて呑むというスタイル。
私が到着してからは食べ物は食べなかったのですが、つまみも同じようで、棚に並んでいるものを勝手に開けて食べるというスタイルのようです。

ここでまた、角打ち未経験者は、疑問に思うかもしれません。
『そんな方式で、料金がちゃんと分かるの?』と・・・
それが、分かるんです。

というのも、この店のルールでは、飲食した際のゴミを勝手に捨てては駄目というルールがあるからです。
この店では、入店と同時に各自でアルミトレイを取り、そこを自分の飲食スペースとして使うのですが、飲食した際は、お酒の缶やビンなどのゴミは捨てずに自分のトレイに置いておくことによって、その残骸で飲食の計算出来るようになっているんです。
お会計の際には、会計係のお婆さんを呼んで、トレイを見せる。
そうすると、飲食した残骸を観てお婆さんが会計をしてくれるので、そこでお金を払えばよいというシステム…

凄すぎですね!

何が凄いって、このシステムの場合、メニューを用意したりオーダーを聞いたり、といった作業が全く要らない。
という事は、ホール要因が一切必要ないという事。
酒屋が行う作業としては、瓶や缶の廃棄と、ビール瓶を呑む際に使用できるコップを洗う作業程度。
今回お邪魔したお店の場合は、そこそこ広めの店で、客が40人程入っていたのにもかかわらず、お爺さんとお婆さんの2人だけで、余裕を持って作業できるという感じでした。

そして会計ですが、2人でビールをビンで5~6本と、ツマミを食べて、合計で1900円…
正直、安すぎでしょう。 家で飲んでいるのと然程変わらない金額ですよ。

その後は、もう1軒別の店に行くということで、徒歩で河原町丸太町まで歩き、別の角打ちへ。
ここは、先程の店とは違って、注文することで、生ビールや店で用意したウィスキーを使用したハイボールが呑める角打ち。
その値段も、やはり角打ちという事で、激安。

ビールが1リットルで700円。 ハイボールがジョッキに入って300円。
ちなみに、ハイボールに入れているウィスキーですが、木の樽に適当に色んな銘柄のウィスキーを入れている為、銘柄などは不明。
言い方を変えれば、この店独自のオリジナルのウィスキーともいえる商品。

前の店で飲みすぎたせいか、ここではハイボールをちびちびと呑んでいたのですが、丁度、ボジョレーヌーボーの解禁日ということで、他のお客さんがワインを2本ほど抜いて振る舞っておられたので、私達もそのおこぼれに与って、家にかえる頃には結構よってしまいました。
普通のショットバーで呑んだら5千円以上は取られる量のお酒を呑んだのにも関わらず、角打ちなら、おつまみ込みで1000円程度で住んでしまう…

この不景気に、平日にも関わらず混んでいる理由がよく理解できた一日でした。

理想的な結婚の条件

このブログを書いている私は、結構いい年になってまして…
前々からそうだったのですが、周りから『結婚しないの?』的なマウンティングを受けることが多くなってきました。

したい気持ちはあるという事を告げると、大抵の次の言葉は『どんな人が良いの?』と聞かれるので、価値観が合う人とか話が噛み合う人という返答をするのですが、相手の思っている返答とは違うらしく、変な顔をされる。
質問者の期待としては、『胸が大きい』だとか『芸能人だと○○に似てる』だとか『小柄』といった感じの返答を求めていたのかもしれません。
また、『優しい人』といった感じの理想を散々引っ張り出した挙句、『そんな人いないから!』から始まるマウンティングを行いたかったのかもしれない。

そして最終的には、『考えすぎだよ。』とか、『とりあえず、数を当たれば良い』。極端な場合だと、『好きになる前に取り敢えず告白しとかないと』という、よく分からないアドバイスまで頂く始末。
でもね。そんな行動ができる人間であれば、20台前半で出来ちゃった婚とかしてますし、なんなら既に離婚も経験していると思うんです。

では、そんなアドバイスをしている既婚者の人達が幸せなのかというと、必ずしもそうではな。
最近では、シングルマザーも頻繁に見かけるようになりましたし、離婚していない人からも、愚痴を頻繁に聴きます。
『結婚してよかった!!』なんて感想は、新婚ホヤホヤの人ぐらいからしか聞かず、大抵の過程は不満を持っている。

だから、フリーの人を捕まえてはマウンティングをしたいのかもしれませんけど、マウンティングをされているこちら側からすれば、マウンティングをされる度にイチイチ考えてしまうわけですよ。
『結婚できない自分は異常なんじゃないだろうか。』『考えすぎなんじゃないか。』『勢いに任せるのが正解なんじゃないか。』と…

そんな日々を送っていたわけですが、先日から読み始めた本『銃・病原菌・鉄』に、私の納得ができることが書かれていました。
という事で今回は、その内容を紹介したいと思います。


実際には、『銃・病原菌・鉄』に書かれていた内容ではなく、その作中で引用されていたトルストイアンナ・カレーニナで書かれた言葉です。

気になるその言葉はというと
『幸福な家庭はどれも似たようなものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである。』という言葉。

トルストイがいうには、幸福な結婚には条件が有るらしく、その条件が一つでも欠けると不幸になってしまう。
その為、幸福な家庭は条件をすべて満たしていることになり、『どれも似たようなもの』に落ち着くのですが、不幸な家庭はそれぞれの理由で不幸というもの。

では、その幸福な家庭の条件とは何なのでしょうか。

まず大前提として、互いが互いの事に好意を持っていなくてはなりません。
何十年も連れ添うんだから当然ですよね。

次に、金銭感覚が一致していなくてはならない。
どちらかが倹約家で、もう一方が浪費家の場合は、消費が行われる度にどちらかがストレスを抱えることになってしまいます。
消費の度に喧嘩のタネが生まれるわけで、この様な家庭は幸せとは程遠いといえるでしょう。

3つ目は、子供の躾に関して同じ価値観を持つこと。
一方が、子供の好みに合わせた自由な育て方を求める一方で、もう一方が学歴優先で詰め込み教育を行いたい場合、子供の進路の度に喧嘩が起こってしまいます。
また、この手の喧嘩は、子供が上手く育たなかった場合は繰り返し蒸し返されて喧嘩の種になる為、この価値観が一致していない人間同士が結婚した場合、子供が生まれてから20年は争いの種が耐えないことになります。

その他には、宗教観・親戚づきあいに関する価値観など、男女が一緒に過ごす上で必要な価値観が統一されていることが、幸せになる為に絶対に必要な条件ということです。

いわれてみれば、その通りですよね。
これらの価値観が同じ場合は、二人が共同生活を送る上で余計なストレスを感じる場面というのが劇的に下がります。
また、子供に関する躾の価値観が同じ場合などは、正に『子は鎹(かすがい)』といった感じで、パートナーは同じ目標に向かって困難を乗り越える仲間になるわけですから、家族の一体感はより増す事となるでしょう。

つまり、互いに互いを必要として、お互いの存在が幸福に繋がる為のパートナーというのは、最低限の価値観というのは完全一致している必要があるということです。
こういう事をいうと、『でも、価値観が違う人と一緒にいるほうが、新たな価値観が知れて面白いでしょ。』と言い出す人が一定確率で沸きますが、ここでいう価値観というのは、そういう事ではないんです。。

例えば、クラシック音楽を聞くのが好きな人と、ロック音楽が好きな人が結婚した場合、互いに別の価値観を知ることが出来て、面白いということは有るでしょう。
しかし、これらの人は、『音楽を聞くのが好き』という根本的な部分が一致しているから、相手の別ジャンルの音楽を聴く余裕があるだけです。
仮にパートナーが、『音楽を聴く時間が勿体無い!家では無音が基本でしょ。 暇な時間が有るなら、ためになる学術書などを読むべき!』って主張だったらどうでしょう。
音楽を聴くという生活を捨てて、無音で学術書を読むという新たな価値観に鞍替えするのでしょうか。

人が考える『常識』や『普通』という価値観がありますが、実際の世界にはそんなものはありません。
有るのは、『貴方が考える常識』であり、『貴方の価値観での普通』だけです。なら、普通の生活をストレス無く行う為には、『普通』や『常識』といった概念を、同じ価値観で共有することが必要となります。
これらの価値観を常に一緒にいる人と共有できていない場合、事ある毎にパートナーと些細な争いが起こり、その度に不平不満が溜まっていくことになります。

では、生活する上で最低ラインの価値観を共有する為には、何が必要なのかというと、対話と長時間同じ時間を過ごすことによる観察しか無いと思います。
ですが実際の社会では、特に日本などでは、その機会は結構少ないようなきがするんですよね。
kimniy8.hatenablog.com

上のリンクは昔に書いた記事ですが、日本の場合は出会って最初の段階で付き合うかどうか決め無くてはならない空気感がありますし、何も進展のない状態で誘ったとしても、3回目以降は告白という儀式が無いと会いたくないという雰囲気があります。
既婚者からのアドバイスでも、先ず既成事実を作れとか付き合ってから考えろと言われたりするんですよね。
しかし、これらの行動は、どう考えても『幸福な家庭』を築くためのものではなく、博打要素のほうが強くなってしまいます。

しかし、私も含めて多くの人は、博打がしたいんじゃないと思うんです。
『幸福な家庭』を築きたいと思っているんです。

そして、その前提条件となる価値観を合わせるために必要になってくるのが、対話なわけですが、先程、紹介した過去に書いた記事でも取り上げた告白でもそうですが、日本では、この対話が軽視されているように思うんですよね。
容姿や年収と言った表面的なものだけに焦点が当てられ、本当に大切な価値観の摺り合わせが行われていない様な気がします。
 (共に、厚生労働省調べ)
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ここ最近は、少子化やら晩婚化やらいわれていて、結婚件数自体が右肩下がりなのに、離婚件数が右肩上がりなのは、これが原因のような気がするんですよね。

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿 】第18回 ゴータマ・シッダールタ(4)

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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前回は、般若心経の解釈について、途中まで行っていきました。今回は、その続きを行っていこうと思います。
前回までで読み解いた部分を簡単に振り返ると、この世の全ての現象は実態が無いもので、縁起の法則に則って、循環を繰り返しているだけに過ぎない。
人間が有ると思いこんでいるものは、その循環の中にある現象の一部分だけを取り出して名前を付けて、それに対して『有る』と思い込んでいるだけで、その物自体には実態はないもので、時間とともに変化してしまうもの。

この世の全てのものに実態が無いのであれば、それを感じ取っていると思いこんでいる人間の五感にも実態はないし、その五感を統合して感じ取っている意識といったものも存在しない。
だから、この世に醜い、美しいといった価値観もないし、綺麗・汚いといった価値観もない。当然のように、不幸や幸福といったものも無い。実態のないものが、生じて滅するわけもなく、我、つまりはアートマンも存在しないという所までやりました。
そして、この無我について、全く新しい境地に到達したのか、それとも梵我一如の考えの範囲内なのかというのに解釈が二分しているというところで、前回は終わりました。

今回は、その続きから始めていきます。
復習のために、梵我一如の考え方を簡単に説明すると、宇宙のと個人の根本原理は同じものなので、この世の全ての法則、つまり宇宙の法則を知りたければ、自分自身である個人の根本原理を見つめ直すべきというのが、梵我一如の考え方です。
この個人の根本原理の事をアートマンと呼ぶのですが、では、アートマンとは何なのかというと、『非ず、非ず』つまり『そうじゃない、そうじゃない』としか表現できないものだとされています。

つまり、私自身の体が私なのかというと、『そうじゃない』としか言いようがないですし、感情がアートマンなのかというと、『そうじゃない』としか言いようがない。
あらゆる物を例に出されたとしても、『そうじゃない』としか言いようがなく、だからこそ、壊れることもなければ死ぬことも無い存在。
アートマンとは、ただ、認識するだけのもので、認識するものを認識することは出来ない。その様な存在こそが、アートマンだといっているわけです。

その一方で、ブッダは無我を主張して、アートマンなんてものは存在しないと主張しています。
この主張に対し、『一歩進んだ考え方』という意見と、『基本的な考え方としては、梵我一如と同じ考え方ですよね。』という2つの解釈に二分しているわけなんですが…
個人的な解釈で言わせてもらうと、梵我一如のアートマンと無我の考え方は、同じものだという意見を推したいですね。

というのも、アートマンの説明を思い出してほしいのですが、あらゆるものについて『そうじゃない』としか言えないものというのは、果たして存在しているのかという疑問が沸き起こらないでしょうか。
言葉とは、便利なようで不便なもので、本来は存在していないものであったとしても、定義付けをして名前をつけると、存在している事になってしまいます。
アートマンも同じことで、そもそも存在していないものに名前をつけてしまったことによって、有ると誤解されてしまった概念なんでしょう。

数字で言うところのゼロの様な存在で、アートマン=0と主張するために、あらゆる物を引き合いに出したとしても『そうじゃない』としかいえないものと表現した結果
『あらゆる事について「そうじゃない」といえるものが、アートマンなんですね。』と誤解された…ってことなんでしょう。
ゼロの概念がわからない人間に、1から1を引くと、ゼロになるんだよ。といった場合、ゼロというものになるんですね。と誤解されるわけですけれども、ゼロというのは無いというのを記号で表したものなので
ゼロというものに成るわけでは無く、無いという概念にゼロという記号を当てただけなんですが、ゼロという概念がわからない人は、ゼロという物になると思ってしまう。つまり、無という存在が有ると思ってしまうんですね。

何故この様な誤解が生まれるのかというと、無という存在を理解するのが、非常に難しいからなんでしょう。
例えば、数字で1-1=0と書き表すと、ゼロという概念は何となく分かった気になれます。でも、本当の意味で無という概念が理解が出いているのかというと、それは難しかったりするんです。
何故なら大半の人は、無という概念を有るという概念の対比でしか考えられないからです。

例えば、科学的な観点から、宇宙というものの外側は無いとされています。この概念を、本当の意味で理解できる人がどれだけいるでしょうか。
今主流なのは、ビックバン理論が主流ということになっていますが、そのビックバンによって、時間と空間が生まれ、今も膨張しているとされています。
では、空間の外側はどうなっているの言えば、そんなものは無いんです。何故なら、時間と空間はビックバンによって生まれているので、その外側には何もないんです。

でも多くの人は、宇宙という限定された空間が有るのであれば、それを包み込んでいるような、それよりも外側の世界も、発見がされていないだけで有ると考えますし、宇宙の外側にも時間という概念はあると思ってしまいますよね。
でも、そんなものは無いんです。何故なら、時間と空間は、宇宙の誕生と共に生まれたものだからです。
空間がないのであれば、宇宙の果には壁があるのかというと、そんなものも無いんです。
つまり、宇宙の外側は無という概念が適応される世界なんですが、それを想像できる人がどれだけいるでしょうか。
大半の人は、無と言うものが有る。もしくは、有るという概念の対比として無という存在を考えますが、無というものを単体で考えることは、かなり難しいですよね。

梵我一如を唱えたヤージュニャヴァルキヤは、その無というものを説明しようとして、あらゆる対象とアートマンは違うとして表現しようとしたんでしょう。
しかし、多くの人が『無』という概念を理解できなかった結果、あらゆる対象と比べて違うものがアートマンなんだね!として、アートマンというものが『何にも当てはまらない存在』として有るものだと誤解してしまったんでしょう。
それをもう一度、軌道修正したのが、ブッダの唱えた無我なので、基本的な主張は変わらないんじゃないかという意見の方の方で、私は納得しました。

ここまでの話をまとめると、イメージとして、自分を取り囲むように世界が存在するわけですけれども、その世界に存在する全てのモニには、そもそも実態というものが存在しません
そして、自分というものに焦点を当ててみると、自分を構成する全てのもの、つまり、肉体や、時分が行動を起こそうとすること、何かを見て感じること、そして、それらの元になっている五感、見たり聴いたり味わったり触れたりする事の全てが、
無いものだという事です。

とは言っても、私たちは普段の生活で、見て触れて味わって感じることによって、何かを感じ取りますし、何かをしようと思います。
この感覚が無いといわれても、いまいちピン!と来ないですよね。
ただ、この考え方は、西洋哲学の世界にも存在しますし、現代哲学のテーマになっていたりもする事なんです。

西洋哲学では、デカルトという人物が、方法的懐疑と言う方法によって、似たような境地に達しています。その際にデカルトが残した言葉が、『我思う故に我あり』という名言ですね。
この方法的懐疑を簡単に説明すると、自分というものを本当の意味で知る為に、一つ一つ信用できないものを取り除いていきます。

先ず、人間が一番情報を得ている目から考えていきましょうか。
人間の目は、可視光線と呼ばれる範囲内の電磁波を目から取り入れて、それを脳の中でイメージとして映し出すことで、物を見るという行為を行います。
しかしこのシステムは、頻繁にエラーを引き起こします。 いわゆる、錯覚ですね。

人間は、目から入ってきた光を直接投影しているわけではなく、一度、電気信号に変えて視神経から脳に情報を送り、その情報を元に、脳が中で像を作り出すわけですが、電気信号に変換する際に、
ノイズなどが入った場合は、見えていないはずのものが見えたりもします。
人の体は機械ではなく、生きているものなので、疲労によって本来の機能を行えなくなるといったことも頻繁に起こります。例えば、荒行や長期間労働によって、体を限界近くまで追い込むことによって、
このエラーは多くなっていき、幻覚が見えるようにもなります。
その他にも、ある種の薬物、幻覚剤を投与することによって、本来は見えていないものを観るといったことも体験できるようです。
この様な観点から観ると、人間の目というのは非常に不確かなもので、とても信頼できるようなものではないことになるので、本当の自分を構成するものからは取り除いて考えます。

これは、耳も同じですよね。自分が誰かに呼ばれた気がしたと言った勘違いは日常的にありますし、空耳なんて事もありますよね。
また、ある種の病気になってしまうことで、絶えず幻聴が聴こえるなんてケースも、よく耳にします。

では、もっと確かものだと思える、触ったり、痛みを感じるといったような感覚はどうでしょうか。
これも、到底信用できるようなものではありませんよね。例えば、事故などで手足を失った人が、無いはずの腕や足が痛いと訴える話はよく聞きます。
もっと身近な例でいえば、スマートフォンをマナーモードにして、バイヴ設定にしている状態で、ポケットに入れている人は結構いると思います。
この人達の中に、携帯が震えてメールが来たような感覚を感じたのに、実際に確認してみるとメールが来てないという経験をした方はいないでしょうか。

この様に人の感覚というのは、携帯が震えてもいないのに『震えた』と感じるし、手足が無いはずなのに、無いはずの手足が痛いと感じてしまう程度のものだったりします。
そんな感覚を、到底、信じることなんて出いません。
この様な感じで、どんどん信用出来ないものを切り捨てていった結果、全てのものが切り捨てられ、何も残らない状態になってしまいました。
しかしデカルトは、『何も信用出来ないとしても、それでも信用出来ないと疑っている自分という存在は確実に存在する』として、『我思う故に我あり』という言葉を残しました。

この様な感じで、人が有ると思いこんでいる全てのものは曖昧なものだという考え方は、後に西洋でも出てくるのですが、この西洋哲学でも、最終的に疑っている自分という存在だけは残しました。
ですが、東洋哲学ではその自分・我といった物も、無いものだと主張している分、考えとしては過激ですよね。

では、自分やそれを取り囲むものには、実態がないと思えた場合、どうなるのでしょうか。
この世界にあるものすべてには実態がなく、それを受け取る私達にも実態が無いのであれば、そもそも、苦しむといった概念が存在しませんし、死ぬといった概念も存在しないことになります。
無いものを壊すことは出来ませんし、無いものがこれ以上無くなることもありません。この境地に辿り着ければ、あらゆる苦痛と死の恐怖から脱することが出来るようになります。

では、この境地に達するために必要なことは何なのかというと、執着を捨てる事。言い換えると、煩悩を捨てる事です。
このあたりの理解というのは、非常に感覚的なもので難しいと思うので、言い方を変えて何度も説明しますが、煩悩というのは、単純な欲望のことではなく、私達が縛られている常識や概念の事でもあると私は解釈しています。
例えば、この地球上に住んでいる私たちには、上とか下といった、方向という概念が存在します。しかし、地球という環境から離れた環境に身をおいたとして考えてみてください。

下という概念は、固定された方向があるわけではなく、地球の中心部分の方向を指して下と呼んでいます。
しかし、地球の重力から開放されて無重力状態の環境になった瞬間から、下という概念は無くなりますし、当然、その反対の上という概念も無くなります。
上や下を基準に作られた右や左といった概念も無くなるため、方向という考え方が無くなります。

これと同じように、私たちは普段生きているだけで、様々な概念によって縛られていますし、それを基準にして物事を決め、その役割を果たす物に名前を付けていきます。
名前を付けることによって、役割を持った物という概念が存在し、役に立つものという概念が生まれると、役に立たないものといった概念が生まれて、優劣が生まれます。
ですが、その基準は誰が作ったのかというのを、縁起の法則に則って元を辿って考えてみると、概念や価値判断は人間によって勝手に決められたものであることに気付かされます。

今の社会でいうと、人々はただ、生活をしているだけなんですが、その生活のスタイルに対して『勝ち組』『負け組』という言葉を生み出して、特定の人達をジャンル分けすることによって、優劣が生まれます。
この優劣という概念に囚われて執着してしまうと、そこに優越感や苦しみといった概念が生まれます。ですが、その『勝ち組』『負け組』といった言葉は、絶対的な価値基準によって作られた言葉ではなく、誰かが自由気ままに勝手に作り出した概念です。
その言葉は、どこかの新聞社が自分達の新聞を売りたいが為に勝手に創り出した言葉であって、世界にその様な概念はそもそも無いんです。
そもそも無いという事に本当の意味で理解できれば、この言葉によって生み出された優劣に執着することもありませんし、よって、苦しむ必要もない事になります。

般若心経には、宗教的な事も書いてはあるのですが、敢えてそれは飛ばして、哲学的な部分にだけ焦点を当ててみたのですが、どうでしょうか。
ブッダは真理を得た後に、むかし一緒に修行をしていた5人の仲間に真理を伝え、その教えを聴いた5人が仏教を作ったとされていて、自身で宗教を起こしたわけではないとされていますが、この解釈を聞くと、何となくそれが分かるのではないでしょうか。
というのも、真理を得ようと一心不乱に修行を行うことは、その時点でブッダという存在が話した言葉に囚われて、執着している事になります。
ブッダは、真理を得るのに必要なのは執着を捨てる事だと主張しているので、宗教化した時点で、矛盾が生じてしまいます。

宗教とは、何らかの対象を崇拝して信仰し、その教えを守ろうとするわけですが、それこそが概念ですし、執着の元ですよね。
ブッダは、積極的に文章などを残していなかったようですが、それは、ブッダ自身がこの構造を理解していたからなのかもしれませんね。
この様な感じで、仏教の大本であるブッダは、宗教というよりも、かなり哲学的な考え方をしていたんですね。

では、これが真理ということで、一件落着なのかというと、個人的にはかなり疑問が残ります。
というのも、矛盾や説明不足の部分が存在するからなんですね。 これは、私が単純に悟っていないからとも言えるんですが、その立場からいうと、納得できない部分も有ります。

一番大きな疑問を挙げると、自由意志の有無ですね。
今回、話した事をまとめると、どの様に解釈したところで、人間に自由意志は存在しないことになります。何故なら、人間の五感も、それによって形成される心ですらも無いわけで、存在するのは縁起の法則だけということになります。
これは、普通に解釈すると、自由意志がなく、全ての物事は縁起の法則によって、運命として決定しているとも読み取れます。
ですがブッダは、この解釈を否定しているようなんですね。
つまり、人間に自由意志は存在しているとしていますし、運命論というのは無常という概念と対立する為、これも受け入れていないようなんですね。

そして、全ての煩悩、執着を捨てた果に涅槃にたどり着いたものは、果たして生きていると呼べるのかという問題です。
あらゆる煩悩が喪失した人間というのは、何も求めない者であり、そこには喜びも悲しみも楽しみも苦しみも存在しません。感情というものも失せてしまう事になる可能性が高いですが、それは人間なんでしょうか。
この疑問に対しては、後にニーチェという哲学者が、そんな状態においてでも人生を楽しめるものが『超人』だと主張していたりするんですけれどもね。

長く続いてきたブッダの話ですが、一応、今回で終了予定です。
次回についてですが、せっかくなので、仏教について少しだけ話していきたいと思います。

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿 】第17回 ゴータマ・シッダールタ(3)

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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youtubeでも音声を公開しています。興味の有る方は、チャンネル登録お願い致します。
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前々回で、仏教が誕生するまでの簡単な流れを説明し、前回では、その全体的な流れの中から、苦しみと荒行について、ピックアップして説明していきました。
苦しみについては、前々回で語った大きな流れとしての苦しみの概念。これは、苦しみというのは相対的なもので、絶対的に無くすことは出来ないという事と、前回で語った、カースト制を肯定して仕組みを強化する為に作り出された、概念です。
前回の放送では、カースト制を現在の価値観に照らし合わせて、批判的な立場で語りましたが、この当時の考え方としては、ある意味、仕方のない仕組みだったのかもしれません。

というのも、今も一部の地域では当てはまるのでしょうが、紀元前の世界では、全ての人がしっかりとした教育を受けているわけではありません。
当然、識字率も低いですし、物事を論理建てて考えるというのが貧民層にまで定着しているはずもありません。
この様な世界で、治安を維持出来るような社会システムを作ろうと思うと、分かりやすい考え方が必要となります。
その考え方がカースト制だったのでしょう、現世で悪いことをしたら、低い身分に落ちて苦労するよという考え方によって、人が悪い行いをしないようにするという考え方ですね。

また、紀元前の世界は機械なども存在しないですから、誰かが肉体労働を行わなければならない時代です。
この時代の肉体労働は、生活に直結しているものが大半ですし、大量に人数も必要だった為、肉体労働に携わる人間を効率的に集める為にも、必要なことだったんでしょう。
それに加えて人間社会は、『敵』や『いじめ対象』を作ると、それ以外が団結するという特徴も有ります。
一度システムを作ってしまえば、『イジメ対象』となる人々を生かさず殺さず管理するだけで、その他大勢を用意に管理することが出来る為、カースト制は効率的な方法だったんでしょう。
また、この方式は、地獄や天国といった、有るか無いかが分からないような世界ではなく、実際に苦しんでいる人を目で見ているわけですから、『あの様になりたくない』という思いを抱かせ易かったのかもしれませんよね。

それに、イジメ対象を作るといっても、高い身分の人が、それに胡座をかいて下の身分の者に対して辛くあたるという行為その物が悪行でしょうし、それを行うことで、来世で自分が奴隷の立場になる可能性も有ります。
逆に、弱者に施しをするといった行為を行うことで、来世で高い身分を維持できるというシステムなので、上手く回れば、効率的なシステムだったんでしょうね。
ただ、完全に人権は無視なので、現在の価値観で照らし合わせると、ダメでしょうけどね。

この様なカースト制なのですが、上手く回れば、それなりに効率的なシステムでもあるんでしょうけれども、身分制度や組織というのは、長期間続けていれば腐敗していきます。
腐敗によって、強者はより強くなり、弱者はより弱くなり、その差はドンドン開いていき、決定的なものへとなっていきます。

このカースト制に異論を唱えたのが、ブッダとされています。
ブッダの考え方としては、悟りを得ることで輪廻転生の輪から解脱する。つまりは、抜け出す事を主張しているわけで、これは言い換えれば、カースト制からの脱却ともいえます。

では、どうすれば真理に到達できるのかというと、『悟りを得た』と自身で明言しているブッダの教えを、体験として理解するしかありません。
それではブッダは、どの様な教えを説いているのでしょうか。
ブッダ自身は、他のものには理解することが出来ないとして、後世に伝える為に、自身で考えを体系立てて書物に記したりするといった行為は、積極的に行っていなかったようなので、その様な作業は全て、弟子が行っています。
これは、第8回の西洋哲学と東洋哲学の違いでも話した事なんですが、東洋哲学の考え方というのは、基本的には、悟りを開いた本人ではなく、弟子が自分の解釈を元にして書いていきます。
そして、それよりも後の時代に生まれた人は、その解釈本を読んだ上で自分なりの解釈をし、その解釈を更に本に書いたりします。

では何故、悟った人間が自身の手でしっかりと説明しないのかというと、これは、第13回14回の言葉の限界でも話しているんですが、言葉は、考えやイメージをそのまま相手に伝えられるほど優れているツールではないからでしょう。
言葉で悟りの本質を書いたとしても、悟りを得ていない人間は、それを読んで、確実に誤解してしまいます。
例えば、大乗仏教の教えの中に、悪人正機(あくにんしょうき)というものがあり、意味は、「“悪人”こそが阿弥陀仏の本願(他力本願)による救済の主正の根機である」
と言うもので『善人でさえ救われるのだから、悪人はなおさら救われる。』という考え方です。
この考えは、普通に読み取れば、善人よりも悪人のほうが良いっているわけですが、これを知識のない人が読んだ場合は、確実に誤解しますよね。

人間というのは、基本的には自分に都合の良い解釈しかしません。 観たいものを観たいように観て、聴きたいものを聴きたいようにしか聴けません。
その為、言葉で体系立てて説明したところで、誤解されるだけで、余計な混乱を生むだけだと考えたのかもしれないですね。

余談が長くなりましたが、では、どの解釈を読むのが良いのかというと、これも、人によって解釈の仕方も読んでいる量も違うので、一概にはいえないのですが、このコンテンツでは、般若心経を取り上げていこうと思います。
取り上げる理由としては、最大の理由としては短いという事ですね。
般若心経というのは、内容が同じ大般若経をコンパクトにまとめたものなのですが、大般若経というのが600巻あるらしいんですね。その一方で般若心経は同じ内容で262文字でまとめられている様なので、概要を理解するには便利なものですよね。
ちなみに、仏教の経典は般若経だけではなくて大量にあって、正確には数えられていないようなんですが、形容詞的にいわれているのが8万4千の経典が有るといわれているようなので、とても読んでられないですよね。
それなら、262文字で大まかに理解できた方が効率的ですよね。 般若心経は日本でも大人気なんですが、人気の理由として、短いというのが結構なウェイトを占めていると思いますね。

余談になりますが、この般若経をインドから持ち帰ったのが、玄奘三蔵という中国のお坊さんで、この人物は、西遊記の登場人物としても活躍しますよね。
斉天大聖という猿の悟空と、沙悟浄猪八戒の3匹の妖怪をつれて、天竺を目指すアレですね。
三蔵法師は、経典をインドから中国に持ち帰るだけでなく、中国に伝わる経典の多くを翻訳したことでも有名なようです。

前置きがかなり長くなってきましたので、内容の方に入っていきましょう。
この般若心経ですが、大乗仏教の経典という事になっています。 仏教は大きく分けると、大乗仏教上座部仏教の2種類に分けることが出来るのですが、両者の違いを簡単にいうと、
ブッダの主張をより忠実に守っているのが上座部仏教で、より宗教色を強くしたのが大乗仏教です。
もう少し説明を加えると、自身で涅槃の境地に至って真理を得ようと頑張ることを推奨しているのが、上座部仏教で、大乗仏教は、仏の教えを持って多くの人を救おうという事を目的とした宗教ですね。
上座部仏教の場合は、自身で真理に到達する為に知識や体験を得ようと頑張るのですが、大乗仏教は、大衆に広げる為にドンドンと簡略化されていきます。

その結果、お経はブッダの教えを理解するためのものではなく、呪術的な呪文となりますし、意味を理解するよりも、紙に書き写す写経が重要視されますし、写経した紙はお守りとして扱われます。
知識を得ることや瞑想や禁欲生活といったものも必要なく、お坊さんにお金を渡す御布施が修行の一部とされ、徳が高まるとされるようになります。
その為、仏教に詳しい方は、ここで般若心経を取り上げることに違和感を感じられる方もいらっしゃるかもしれませんが、単純に短い事と、人気が高い為に現代語訳が簡単に手に入るということから、
般若心経を読み解くことで、ブッダの主張を追って行くことにします。

では、早速みていきましょう。
先ず冒頭部分で、世界は5つの要素、五蘊(ごうん)によって構成されていると主張しています。その5つ。色受想行識の5つです。
一つ一つ説明していくと、色とは、元々は人間の肉体の事だったようですが、その後、すべての物質、物そのモノの事になったようです。受とは、感受作用。花を見て美しいと思う事。
想とは、表象(ひょうしょう)作用。頭のなかで、花を思い浮かべること。行とは、意志作用。頭のなかで、綺麗な花を摘み取ろうと思い、それを体を動かして実行しようとする事。
そして最後の識とは、花というモノ・概念を認識する事です。

考え方のベースになっているのがウパニシャッド哲学で、その中では、真理を得る為には、自分そのものであるアートマンを理解することが重要という話でしたよね。詳しいことは、第9回~12回の中で話しているのですが
自分自身を知ることが真理に繋がるというのがベースになっている為、この世の構成要素の5つは、自分自身を5つに分解したものになっています。
この5つの構成要素ですが、よくよく考えてみると、全てのものに実態がない事に気が付きます。自分を構成している全要素に実態がないということは、人間が抱えている全てのものに実態がないということで、人が抱えている苦しみといった概念も、
実態がないことを意味します。

では何故、実態がないのか。それは、自身と同一の存在である、宇宙、つまり、自分の外側の世界を見て見れば分かります。自分自身と自分の外の世界である世界が同じというのは、梵我一如というのを解説した回でも話しましたよね。
では、外の世界で起こっている物質的現象、つまり、外の世界での色について考えてみると、自分の外の世界の物質的現象の色にも実態がないことが分かります。
例えば植物の例でいうと、種子の段階では、タネという名前がついています。では、タネという絶対的で不変の物がこの世にあるのかというと、そうではありません。
タネは、養分が有る土に植えて適切な水を与えることで、発芽して成長し、植物になります。 新芽が出て、葉や茎が成長し、最終的に花を咲かせて、実をつけ、またタネを生み出します。

この世にあるものは全て同じで、この一連の動きの中の一時的な部分を取り出して、それぞれに名前をつけているに過ぎません。
世界は絶えず変わり続けているわけですが、その変化の一部分だけを人間が切り抜いて、その特性に名前を付けて、カテゴリー分けしていっているだけということですね。
この考え方は西洋哲学にもあって、ヘラクレイトスによって万物流転と名付けられます。ヘラクレイトスといっても、God of warの主人公でも、ギリシャ神話の神と人間の間の子の英雄でもないですからね。

これらの考え方は、ブッダヘラクレイトスのどちらが先に唱えたのかは分かりませんが、当時、この様な考えに至る地盤があったということなんでしょうね。
ヘラクレイトスが出した例で有名なものは、『同じ川に二度と足をつけることは出来ない』というのが有名なようです。
川というのは、絶えず、川上から川下に向けて水が流れています。また、その流れによって動植物も流されているでしょうし、生息場所を変えたりしています。
流れてくる土砂や石も、川の流れによって常に配置を変えているので、川というのは、常に形状を変え続けていることになります。 つまり、同じ川と言うものは存在しないということで、存在しない物に足をつけることは出来ないということですね。

この理屈は、人間にも当てはまります。 人間は、タンパク質部分は3ヶ月で、代謝の遅い骨でも2年で完全に入れ替わるそうです。
また、生活を送っていく上で知識や経験は常に上書きされますし、考え方も微妙ながら、常に変化し続けています。 そしてその形状も、成長や老いによって変化します。
つまり、自身を含めた、この世にある全てのものは、常に変化し続けているわけで、同じ状態を維持し続ける不変の状態ではないということです。

では、こんな世界で、変わらず存在し続けるのは何なのかというと、縁起だけは変わらず存在し続けます。
縁起とは、事が起こる前には、それが起こる原因となるものが存在し、その原因によって結果が起こり、結果が次の原因になって、更なる結果を生むという考え方です。因果関係とも言いますよね。

タネは、土に植えられて水を与えられたという原因で発芽し、発芽して土の中から顔を出したという結果によって、光合成が出来るようになり…といった事が繰り返されることで、成長をしていきます。
そして、寿命を終えた植物は微生物に分解されて土へ返っていきます。では、植物のサイクルは植物内だけで完結しているのかといえばそうではなく、実をつけることで他の動物に食べられる物や、種子その物が人間の食べ物になる米のような作物も有ります。
全ては縁起の法則によって、溶け合いながら存在している現象に過ぎず、全てのものは空。 つまりは実態のないものということです。

つまり、この世には『実態がない』という現象だけが存在していると言えるわけです。
この世の全てのものは空であるため、生じたものでも滅したものでも無いことになります。 ある側面から見た現象が生まれるという現象であっても、それは、別の側面から見れば死という現象になります。
米は人に食べられると死にますが、人は米を食べることで生きるためのエネルギーを得ます。 植物が枯れることは植物にとっては死ですが、微生物にとっては解釈が変わりますし、微生物によって性質が変えられる土壌にとっても解釈は変わります。

あらゆる出来事は、汚れたものでもなければ清浄なものでもなく、醜いものでもなければ美しいものでもなく、増えることもなければ減るものでもないということです。
人が、何かの数が減ると認識するのは、その対象に名前をつけて特別視しているからで、その対象が減った一方で、別の何かは増えているという事です。
世の中は、縁起の法則に則って、ただ変化をし続けているだけに過ぎず、故に、実態はないということです。

この自然現象に照らし合わせれば、人間の五感なんてものは存在しないですし、心なんてものも存在しないことになります。
というのも、人間の意識というのは、感覚器官を統合するために存在しているようなものです。 実際に見えるから・聴こえるから・触ることが出来るから・臭いを感じるから・味がするからといった、感覚器官が有るからこそ、人はそれによって、
何かを想うわけです。
しかしブッダは、その感覚器官その物が無いものだと否定します。

先程から言っている通り、この世にあるあらゆるものには実態がないわけですから、対象物を観て・聴いて・感じて・臭いで・味わうといった五感も実体のない物という事になります。
実態のない対象を感じる五感も実態がないわけですから、それによって感じる心も実態がないことになります。
これが、無我。つまり、我というものが存在しないという境地になります。

今までの梵我一如は、宇宙の根本原理と個人の根本原理は同一のものだから、個人の根本原理であるアートマンを理解することで、全ての物事を理解できるようになるという考え方だったのですが、ブッダの説では、
そのアートマンは無いですよという主張をしたことになります。
この考え方についてですが、ブッダアートマン皆が追い求めていたアートマンという存在を無いというところにまで到達した!から偉大だと主張する人と、梵我一如の考え方から進んだわけではないと主張する人に、解釈が二分していていたりもします。

話の途中にはなるんですが、これについての詳しい説明と、般若心経のこれから先の解釈については、また次回ということにさせて頂きます。

【ゲーム紹介】 ドラゴンクエスト Ⅺ

今更ながら、ドラゴンクエスト11を購入しました。
発売が夏なのに、何故、いまさら購入したのかというと、FF15をプレイした事で、スクエニとは距離を取りたかったからです。
FF15は、最初は楽しめていたのですが、後半部分が結構、苦痛でしたし、プレイ後もモヤモヤしたものしか残らなかったので、スクエニのRPGに軽いトラウマになっていたんですよね。

ですが、気がついたらAmazonで検索していることが多く、『何ヶ月も気になってるんなら、購入してみよう』と思い、今更購入してみたというわけです。



        

やってみた感想としては、普通に面白いですね。
音楽もシステムも、子供自体にプレイしていた『ドラクエ』と殆ど変わらず、懐かしさがこみ上げてくる感じですね。
一部では『おっさんホイホイ』なんて言われていて、ノスタルジックな雰囲気に浸りたい人向けのゲームなんて言われていましたが、正にそんな感じの作りとなっています。

では、昔にドラクエをプレイしていた層しか楽しめないのかというと、そうでも無い。
この作品は、今までのシリーズと関わりが深いと言われていたりもしますが、昔の作品を知らなかったとしても普通に楽しめるように作られています。
ストーリーも、大きな流れがあって、その中に小さなストーリーが敷き詰められているという感じの作りなのですが、そのストーリーも、どストレートでわかり易い内容で面白い。

年齢を重ねた人は、その直球過ぎる表現に心を打たれるでしょうし、直球なので、子供にも分かりやすい。
脚本家の価値観を押し付けるのではなく、ストーリーを進めることでプレイヤーが何を感じるのかというの大切にして作られている感じが、印象が良かったですね。

ゲームプレイに関しては、レベル上げなどに関しては特に面倒くさいと思うこと無く、サクサクと進む感じ。
道中に登場する敵を適当に倒すだけで適正レベルになり、エリアボスを倒すと大量の経験値が入って、レベルアップ。
そのまま次の目的地に行っても困らないという感じで、ストレスを感じること無く、クリアーまでは進めることが出来ました。

一方で、鬱陶しいなと思う点は、街の徘徊ですね。
昔ながらのドラクエの使用で、街の至る所に配置されているタルやツボを壊してアイテム回収をしたり、本棚を調べて、各アイテムを制作するためのレシピを見つけなければなりません。
その為、ストーリーと直接関係の無い民家に入り込んで、シラミ潰しみ探す必要があるのが、結構ダルい。

また、この作業は一回だけで終わらず、ストーリーが進む事で散策できるようになるスペースや、新たに解読できる本が増える為、それらを見つける為に再度、散策をしなければならない。
この時間がかなり面倒くさい。
私は、プレイ中にラジオなどを聞くことで、何とか気を紛らわせながらやってますが、もう少しシンプルでも良かったような気もします。
ただ、これらのアイテムは無くてもストーリー進行には問題はない為、やりこみ要素と考えると、これぐらいでも良いのかもしれませんけれども。

また、やりこみ要素としては、最強の武器や防具は、ダンジョンで拾うのではなく素材を拾って作ることになります。
この素材集めで、全国を飛び回ったり敵と戦ったりする必要でてくるのですが・・・ こちら場合は、私は比較的楽しんで行うことが出来ました。
これも、人によっては面倒くさいと思う人も出てくる要素だとは思いますけれどもね。

ただ、どちらの場合も、あくまでもやりこみ要素であって、やらなければクリアーは無理と言うものではなく、選択肢が用意されているので、その面では親切設計だと思いますね。
武器なども、最強装備が面倒くさければ、道具屋に売っているものでも何とかなったりしますし。

ちなみに、このタイトルですが、PS4版とDS版が出ています。
単に出るハードが違うだけかと思いきや、DS版だけに収録されている要素などがあったりするので、どちらか一方だけを買う場合は、注意が必要となってきます。
一番大きな違いとしては、『ヨッチ族』の存在でしょう。

ヨッチ族は、PS4版でも存在はしているのですが、こちらでは話しかけることも出来ずに、本当に『ただ存在しているだけ』の存在だったりします。
しかしDS版の方では、ヨッチ族が物語に関わってきているようなので、追加要素のストーリーを楽しみたい人は、DSの購入を検討したほうが良いのかもしれませんね。

一方、PS4版の方ですが、こちらの方は、当然のことですがグラフィックが非常に良くなっています。
フィールドに歩いているモンスターも、それぞれの行動を取りますし、観ているだけでも楽しくなってきます。
例えば図書館では、龍族の賢者が他のモンスターに対して講義をしていたり、フィールドでは、太鼓を叩いているモンスターの後ろを、スライムが楽しそうについていったり等。
(大部分は、勇者である自分が殺すんですが・・・)
モンスターの生態系が演出されいて、本当に自分がその世界に入ったかのような体験ができるところが良いですね。

私は現在、やりこみ要素を潰しつつ、プレイ時間としては100時間ぐらいプレイをしているのですが、それほどダレること無く、時間を忘れてプレイできています。
本当に、FF15のトラウマで買うのを躊躇していたのが悔やまれるほどです。

世界観自体が楽しいですし、ストーリーも、ホロッと来るものが多い。
現実逃避にはもってこいのゲームだと思うので、もし気になっている方がいらっしゃれば、試しにプレイしてみてはいかがでしょうか。

【本の紹介】 誰がアパレルを殺すのか

いつものようにTwitterのタイムラインを眺めていると、結構おもしろそうな本のタイトルが目に入り、興味が出たので読んでみました。
という事で今回あh,その本『誰がアパレルを殺すのか』の紹介です。


      

この本は、日経ビジネスの記者が記事を書く際にアパレル業界を取材したのを、まとめた本となっています。
タイトルには『誰が 殺すのか』といったショッキングなワードが含まれていますが、本の内容的には、アパレル業界や、それを取り巻く小売業の問題点を挙げ、その後、その問題点に対して真っ向から挑む企業を紹介するという構成の、業界本。
私は、アパレル業界の人間ではないので、その立場から読むと、書かれている内容で知らない点も多く、単純に勉強になった面が大きい、良い本でした。

また、専門用語なども極力使わずに書かれていますし、業界のことを全く知らない人間が読んでも理解できます。
文章自体も、難しい言い回しなどはされておらず、サラサラと読める様に書かれています。
また、記者らしく? 要所要所でグラフや具体的な数字を出してくれるため、興味をなくさずに最後まで一気に読める点も良いですね。

ですが、Amazonレビューなどで他の方が書かれている内容を見ると、アパレル業界に勤めている人にとっては常識的な事が羅列されているだけで、得られるものも少ない本のようですね。
ただ、本に限らず、特定分野のことを知らない人に業界内のことを知らせる本というのは、業界人にとっては常識的なことばかりなのは当然です。
これらの本は、その業界を知らない人に業界の常識を教えるという目的で書かれているので、アパレル業界に携わってはいないけど、その業界の事を知りたいと思う人にとっては、面白く読める本だと思います。

また、この本の面白いところは、アパレル業界に興味がない人が読んだとしても、それなりに楽しめるということでしょう。
というのも、この本の構成としては、前半部分でアパレル業界の衰退の理由を挙げ、後半部分で、その原因を打破すべく立ち上がった経営者たちの新たな試みを取り上げるという作りになっているのですが、前半部分の衰退の理由は、どの業界にも当てはまるものだからです。

では簡単に、その内容を紹介していこうと思います。
あくまで『簡単に』なので、興味をもった方は購入して読んでみてくださいね。

ここ最近では、アベノミクスの影響で、株価も右肩上がり。 不景気なんてどこ吹く風で、日本経済はバブル期を超えて絶好調!
・・・なんて言われたりもしますが、実際に平均所得やそれ以下の給料しか貰っていない私達にとっては、そんな実感は全く感じなかったりします。

その実感とシンクロするように、アパレル業かも衰退していってるらしく、このままジリ貧になるのが目に見えている。
では、誰がそんな状態を生み出したのか。『誰がアパレルを殺すのか』を探るというところから、この本は始まります。

タイトル内では『誰が』と書かれているので、誰が特定の人物や企業、業種が存在するのか?といった感じで犯人探しが始めるわけですが、記者が取材を進めていく過程でわかってきた事は、業界全体が高度経済成長のぬるま湯に浸かり、改革を怠ってきたということ。
高度経済成長時代からバブルにかけては、百貨店は新規店舗を作るだけで簡単に売上が稼げたし、利益も伸ばせた。その百貨店が取り扱う商品の中でも、婦人服はかなりのウェイトを占めていたので、アパレル業界も恩恵に預かれた。
この『ぬるま湯時代』に、業界が推し進めてきたことが、商品の大量生産化です。

百貨店やショッピングセンターは、売上や利益を伸ばすために新規店舗を立て続けるのですが、取り扱うブランドが同じものだと、客も飽きてしまうし売上も伸びづらい。
そこで、アパレル業者と共に行ったのが、ブランドの大量生産です。
元は同じ会社なのに、名前が違うブランドって結構有りますよね。有名な会社でいうと、オンワード樫山には、同じ傘下のブランドとして『組曲』『自由区』『23区』なんてのが有ります。
この様な感じで、同じ会社がブランド名を変えて活動する事で、種類を水増ししたんです。

また、伸び続ける需要に応えるために、アパレル業者は生産体制も整えることになります。
ですが、ただ整えるだけでは利益が薄いので、更に利益が出るように、日本の工場との契約を切って中国企業と契約を行い、素材の大量買い付けと大量発注で、服の一枚あたりの単価を引き下げようとします。
この戦略も大当たりで、アパレル企業は大幅な利益を手に入れることになります。
その一方で、日本の服飾科工業は衰退するわけですが…

そして、販売点数もブランド数も増え続けるという状態が長く続くことになると、アパレル企業は服の企画その物を外注しだします。
いわゆるOEM(相手方ブランドでの製造)というもので、デザインも下請け工場に丸投げし、服の大量生産大量販売を行っていくことになり、アパレル業者の企画力も徐々に衰退していくことになります。

その結果として生まれたのが、どこのメーカーの服も見た目が同じという現象。
OEMによってブランドの個性が失われ、差別化がなくなったことで、客はどのメーカーの服を購入しても同じという状態になってしまった。
しかし、そんな状態でも服は売れ続けたのですが、それがバブル崩壊や、その後の失われた20年とやらで変わってしまった。

というのが、大まかな流れです。 
気になる方は、本を購入して読んで下さいね。

この他にも、アパレル業界で働く人たちの使い捨てという問題も、結構響いているようです。
これを書いている私の知り合いにも服の販売員がいますが、自分で働くブランドの服を定期的に買わなければならなかったり、休日休みがほとんど採れなかったりと、結構キツイよう。
その上、未来への展望も描けない職場も多い。

例えば、20代をメイン顧客にしているブランドに販売員として就職した場合、30代になると販売員としての需要は徐々に減っていき、40代になると現場に立つのが厳しくなるのは、素人目に見ても想像できます。
その販売員が、経験を活かして店長になったりバイヤーになったり本社の販売戦略部に入れるのかといえば、多くのメーカーではその様な配置換えは行っていないらしく、従業員の使い捨てになっていたりするようです。
折角、顧客と直に接している人が身近にいるのに、それを活かさず、OEMで下請けにデザインと生産を丸投げし、販売も使い捨ての販売員にノルマだけ課して丸投げしてたら、業界として衰退するのも理解できますよね。

この流れをみると、確かに納得できる部分が結構有ります。
ブランド毎の特色がなくなって、どのメーカーを購入しても同じなのであれば、ユニクロでも十分ということになりますし、『ユニクロでも高い! GUか しまむら のセールで十分』と考える人が増えても仕方がない。
ここ最近では、『ノームコア』なんて流行も有りましたが、ノームコアは、特徴がないのが特徴という、なんとも不思議な特徴で、ブランドの完全敗北を意味します。

服に何の特徴も必要ないのであれば、高い服を買うことに意味がなくなる。
その結果として服の市場は、1991年には15兆あったものが2013年には10兆円と3分の2に減少。
その一方で、供給されるアパレルの数は20億だったものが40億と2倍に増加するという、取扱商品数が倍に増えているのに市場規模が縮小しているというよく分からない状態になってしまいました。

では、もう一度、基本に立ち返ってやり直せばよいのかといえば、そんなことは出来ません。
何故なら、長年続いたOEMによる生産によって、アパレル企業には提案力と技術力がないので、自分達で新たなものが作れません。
また、日本の工場で作ってもらおうにも、日本の生産工場を切り捨てて生産拠点を中国に移してしまった為、廃業が進み、日本には引き受けてくれる工場がありません。
まだ生き残っている数少ない生産工場は、技術力が高いから生き残っているわけですが、そういう企業はヨーロッパ有名ブランドからの受注を受けていたりするので、日本のアパレルに入る隙間は無い。

で、この構造ですが、他の業者にも当てはまりますよね。
例えば、アパレルとは離れてそうな東京電力などの電気会社。この電気会社も、本社の人間は下請けに仕事を振るだけで、本社に職人は抱えていなかったりします。
私の知り合いは、東京電力に就職したのですが、知識的には学校で習った程度しか無く、その後、実践で知識を身につけようにも、業務は下請けに丸投げしているらしく、そんな機会もないようです。

NTTなども、そうですよね。
家や職場には、NTTを名乗る業者から、『フレッツ光回線に変えませんか?』という営業電話が結構かかってきますが、よくよく聴いてみると、NTTと代理店契約しているだけの業者が多い。
つまり、営業は代理店に丸投げで、営業のノウハウなどはNTT本社にはないということです。
テレビなども同じで、流されている番組の多くは、制作会社が作っていたりします。

百貨店も、多くのフロアがテナント貸しになってきてますし、服飾も委託販売という形で、働く販売員も服飾メーカーからの派遣なので、百貨店その物に販売力はなく、単なる不動産業と課している。
メーカーからすると、百貨店は商品を売る為の単なるプラットフォームにすぎないので、ネット販売などが台頭してプラットフォームの乗り換えが起きてしまうと、百貨店側は為す術がない。

全ての企業に言えることですが、社会の構造的に上層部に存在していたからという理由で利益が出ていて、そこに何の疑問も持たずに胡座をかいた結果、顧客から見放されて自滅している感じですね。
百貨店は、ネット通販の台頭でメーカーに見捨てられ、そのメーカーは、ブランドイメージに胡座をかいて行動を起こさなかた結果、消費者から見捨てられた・・・

そもそも生活に必要なかったものが切り捨てられているだけなので、当然といえば当然なのですが、この流れは、全産業で今後も加速していくことになるのかも。
時分が生き残るために、これらの現象を反面教師として利用するという意味でも、読んで損はない本だったと思います。

独身や子供のいない家庭に増税をしてまで少子化は克服すべきなのだろうか

かなり前からなのですが、ここ最近、更に『少子化』について語られるようになりましたね。
プラス方向で増やそうと思う人達は、一人産むと2000万円以上の費用がかかると言われている子供の育成費を引き下げる為に、学費の無料化などを訴えていますし、子供を抱えながらでも経済的にマイナスにならないように、保育所等の預けられる施設を増やすべきだと主張していたりもします。
その一方で、国民にとってマイナス方向で少子化に歯止めをかけようとする人は、独身税や、子供がいない家庭に対して増税しろといった方面から、出生率を上げようとしている感じですね。

プラス方向の政策で誘導させるというのは良いとして、子供のいない家庭に課税するという事までして、子供の数は増やすべきなんでしょうか。
今回は、このことについて考えていきます。

この少子化ですが、何故、ここまで一生懸命になって上げようと思っているのかといえば、最大の理由は年金なんですよね。
様々なところで言われていますが、今の年金システムは、積立方式ではなくて、今のお年寄りの年金を現役世代が払うという支払い方式です。
年金積立資金が150兆円あると言われていますが、一年間の年金支払が50兆程度とされているので、国の持つ積立金は3年分しか持っていないことになります。

ここ最近では、年金資金を株式投資で運用するという話を聴いたりもします。
私は、この運用方法には賛成はしないのですが、仮に、ここで数百億円程度の損益が出たところで、そんなものは1年分にも満たない金額だったりします。
では、何故、こんなに積立金が少ないのかというと、そもそも年金の設定が、人口ピラミッドが三角形の状態を維持しながら人口が増えていくという事を前提として作られているからです。

現役世代から集めた金を、そのままリタイアした人達に渡すだけなので、そもそも運用なんて必要ないですし、国の予想よりも国民は早く死ねば、国が儲かるぐらいしか考えてなかったからだと思われます。
『政府が、そんな甘い計算するわけがないだろう!』と思われるかもしれませんが、それがするんですよ。

何故なら、今のような雰囲気での少子化にならなかったとしても、日本の人口減少はいずれ起こっていた現象だからです。
人口ピラミッドというのは、三角形の状態を維持し続けようと思えば、人口は増加し続けなければなりません。当然ですよね。今の老人よりも若者の人数のほうが多くなければならないのですが、その人口の多い若者はいずれ老人になるわけで、ピラミッドを三角形に保つためには、それ以上の子供を産む必要があります。
しかし日本という国は、島国で国土面積も広いとはいえない国です。その国で、人口増を続けていれば、いずれ、土地という物理的な条件で人口は制限されてしまいます。

それでも増やそうとする場合、土地という制限をぶち破る為には、当然のように、新たな土地が必要となります。
埋め立てても拡張できる土地は限られるという事から、大幅に新たな土地を獲得するためには、他国に侵略戦争を仕掛ける他ありません。
日本が国民健康保険料を徴収し始めたのが昭和36年らしいですが、日本が第二次世界大戦に参戦したのが昭和39年。
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http://www.nenkin.go.jp/service/kokunen/hokenryo-hensen/20150331.html

日本年金機構より

この2つに直接的な繋がりがあるのかどうかは分かりませんが、他国を占領して国土を広げることを前提にして作られたシステムと思われても、仕方のないタイミングですね。
まぁ、敗戦によってその野望は潰えたわけですが、そうなってくると、人口増を維持し続けるというのが難しくなってくる。
敗戦直後の早めの段階で、年金システムを積立方式などに方向転換していれば良かったのでしょうが、その後も人口増を前提としたシステムを継続し続けた為、現在の少子化によってシステムが狂ってきたわけです。

では、この年金問題を除外して考えた場合、少子化というのは本当に日本にとってはマイナスなのでしょうか。

個人的には、それほどマイナスが無いようにしか思えないんですよね。
例えば、日本は食料自給率が低いと言われ続けています。

日本の食料自給率は、カロリーベースというよく分からない指標を使っていますし、日本で生まれた子牛を日本で育てたとしても、与えている餌がアメリカ産コーンだと牛の方も輸入牛肉にカウントされてしまうという不思議な計算方法ですが、とにかく食料自給率は低いと言われています。
ですが、人口が半分になればどうでしょう。
同じ食料を生産していたとしても、人口が半分になれば、それだけで食料自給率は倍になります。

震災以降、原発が止まって『電気代が…』みたいな事になってますが、人口が半分になれば、使用電力も減るでしょう。
実際には、世界に輸出している製品用の工場などもあるでしょうから、単純計算で半分になるわけではないでしょうが、減ることには違いありません。
また、人口が半分になれば、単純に住居の量が半分で済みます。

日本は、狭い国土に大量の人がひしめき合っているので、平地が足りません。
その少ない平地に家や道路を敷き詰めているので、下がったとはいえ不動産価格は高く、下手をすると家の購入で一生奴隷になりかねません。
また、そもそも土地が狭いので、そこに敷かれている道路も狭く、運送業者などが配達でトラックを停車させると、他の人が通れないなんて事が多い。
これも、人口が半分ぐらいになると、少しはマシになるかもしれない。

また、少子化の日本は人口減少リスクを過剰に訴えるが、地球規模で見ると人口増加の方が問題で、地球の資源料などを勘案すると、世界人口は30億人ぐらいが丁度よいなんて意見も有る。
こうして考えると、人口減のリスクは、然程、無いような気もします。

にも関わらず、声高に少子化対策を叫び、必死になって子供を産ませようとするのは、やはり、最初に主張した通り、年金が破綻しそうだからなんでしょうね。
後は、経済力の低下によって、他国への発言力まで下がってしまう事でしょうか。

まぁ確かに、資本主義社会では経済は大切ですし、お金も大切。
ですが、独身税や子供がいない家庭への増税してまで、増やすべきなんでしょうか。

結構前に、『ヤバイ経済学』という本が出版されました。


      

この本は、様々な社会現象を統計によって読み解いていくコンセプトで書かれているのですが、この中に、犯罪率について取り扱った項目が有ります。

その中で、ニューヨークの犯罪率低下について、結構、興味深いことが書かれていました。
ニューヨークの犯罪防止政策といえば、ジュリアーニ市長が掲げた『割れ窓理論』が有名ですよね。
道端に多数のゴミが落ちていると、ゴミを捨てるのに抵抗が無くなるのと同じように、割れた窓を放置しておくと、他の窓も割られるし、心も荒むので他の犯罪も増えていく…
その為、街を清潔に綺麗に保つことが、犯罪率の低下につながるという理論です。

そして実際に犯罪率が低下して、この政策は脚光を浴びたわけですが、実際には、犯罪率の低下に『割れ窓理論』は殆ど影響を与えていなかった事を、この本では主張します。
では何故、犯罪率は低下したのか。 答えは、『割れ窓理論』が行われる20年前に実施された、中絶の合法化です。
当時のアメリカでは、キリスト教の考え方により、中絶は禁止されていました。

その為、本来は子供を望んでいなかった人でも、子供が出来てしまったら産むしか無かったわけです。
望んでいなかった子供に対する親からの風当たりはキツイもので、そういう家庭の子供の多くは、辛い幼少期を過ごすことになります。
親からの愛情も、まともな教育も受けられなかった子供は、普通の家庭で育てられた子供よりも高い確率で犯罪を犯すというサイクルが続いてきたわけですが、中絶の合法化により、子供を望まない家庭は中絶することが可能になった。
これにより、不幸な幼少期を過ごす子供の割合が減ったわけです。
その結果として、20年後に10代の犯罪率が激減し、トータルでの犯罪率も低下するという減少が起こったわけです。

これを、日本の少子化に当てはめてみましょう。
独身税や、子供がいない家庭への増税によって、仮に子供の数が増えたとして、そこ子供は、親から望まれて生まれてきたのでしょうか。
それとも、節税対策として『取り敢えず作られた』だけなのでしょうか?
もし、節税対策として作られただけで、親から『欲しい』と思われずに生まれた子供である場合、その子は辛い幼少期を過ごす事になるでしょう。

そして20年後、アメリカの現象とは逆に、日本では犯罪が増える可能性も有るでしょう。

テレビや、それに映し出される政治家は、『少子化が問題!』と言い続けているので、何となく、『少子化が問題なんだ・・・』と思っておられる方も多いかもしれませんが、何故、問題なのかを、自分の頭で考える必要があるのではないでしょうか。
無理やり産ませたり、移民を大量に受け入れたりする事で、結果として国民が幸福になるのであれば、良いでしょう。
しかし、単に経済面のことしか考えず、計算上の辻褄だけ合わせるような対応なのであれば問題でしょう。

何故なら、そのツケを支払うのは国民なんですから。

【本の紹介】 図解 恋愛心理学

今回は久しぶりに、読んだ本の紹介と感想です。
今回取り上げる本は、『図解 恋愛心理学』です。


      

この本ですが、読み終わって一番最初の感想は、『夢も希望もない…』みたいな印象を受けてしまいました。
まぁ、私が感じた主観なので、読む人によって印象が変わるのは当然だと思うので、この印象は話半分ぐらいに聴いてみてください。

いきなり、Disった感じで始まってしまいましたが、別にこの本に書かれている事が悪いことが書かれているわけではありません。
単純に、統計などから分かった事実が書かれているのですが、事実が淡々と書かれている為に、恋愛に対して一方的に抱いていた印象が崩れ去ったと言いましょうか…
個人的には、もっと神秘的な(?)ロマンティックな(?)感じで、理論で言い表せないような要素が絡み合っていると思いこんでいたのですが、その考えが否定された感じでしたね。

では何故、私がこのように感じたのでしょうか。
簡単に説明すると、男女が互いに求めているのが、現実的なものばかりだからです。

まず女性の好みからいいますと、子供を生みたいと思う男性は、外見や肉体的な強さが優れているものということになります。
まぁ、動物としては当然の選択といえますよね。
自分の子供が、より有利になるように環境を整えようと思えば、この様な選択肢になるのは仕方のないことなのでしょう。

ですが、これは『子供を生みたい』と思う対象であって、結婚したい対象ではありません。
では、結婚したい対象はどんな人物になるのかというと、簡単にいえば、経済力の有る人間や社会的地位の高い人間ということになります。

つまり極論をいえば、結婚相手に求めるのは、安定的な生活を行うのに必要な地位と金を持つ人間で、子を生みたいと思う対象は、外見や能力が優れている人間ということになります。
これを素直に実行すると、金持ちで地位の高い人間と結婚して安定的な生活を作った上で、外見や能力的に優れた人間と浮気をして子供を作るのがベストということになります。
ネット掲示板などでは、旦那=ATM(自動現金引出し機)なんて言われ方をしていますが、心理学的にもこれは正しいといえるわけですよ。

では、男の方はどうなのかというと、男性の場合はもっと単純で、外見のみに注目をしています。
この、男性の女性に対する外見の重要度は物凄いもので、男性の中でも冴えない男と思われている男性でも、その彼女が凄く美人だと、仲間内からの見方が一変する程だったりします。
つまり、男性本人よりも、連れている彼女の美しさによって社会的な信用度が増すという事なんですよ。

男の本質的価値って、一体何なんでしょうね…

こんな感じで、元も子もないことを知らせてくれるわけですが、この様な論調で書かれている為、『モテる方法』なんかも現実的に書かれていたりします。
多くの人が一番気になる『モテる方法』なのですが、これは先程からも書いている通り、単純に外見や能力を磨き続けることしかありません。

女性などは、こんな本を読まずとも、この事を本能的にわかっている為か、男性よりも外見にかけるお金が段違いに多いですよね。
男性から見れば、何故、化粧品や服装にそこまで金をかけるのかが不思議ですが、要は、外見に金をかける事は自己投資となりますし、それで社会的地位の高い男を釣れれば問題はないということなんでしょう。
男性が、本当の意味で女性の内面に焦点を当てて、人を見極めるという事をしているのであれば、彼女たちの考えも変わるのかもしれません。
しかし、実際には男性は女性の外見しか観ていない為、そこだけ磨き上げるというのは、正解ということなんでしょう。

ちなみに、外見を磨くための投資ですが、モテるためには当然、自己満足や流行に走らず『男ウケ』のみを狙う必要があります。
『男ウケ』に極振りする外見は、女子同士の間では嫌われるようですが、これも心理的には当然と言えるでしょう。
というのも、男から受けの良い女性というのは、生物的にライバルですし、ターゲットの男を奪われる可能性が高くなります。
そういうライバルは少なければ少ない程よいので、蹴落とすためにも嫌味を言って軌道修正させるのは、正解ということになります。

逆に、男ウケを狙わずに、自分の趣味に走った独特な路線を貫くと、女性からは人気が出ることになります。
これも心理的には当然で、そんな独特な趣味全開の女性を好きになる男性は少ないので、その路線を守って独走してもらったほうが、ライバルが減って良いからということになります。

男性も基本的に同じで、先ずは外見を良くすることが必要になります。
女性ウケの良い服装をして、腹が出ているのであればダイエットをして見栄えの良いプロポーションになる。
その上で、能力を高める事が必要になってきます。

その上で、出会いのきっかけとなる積極的なアプローチが必要になるということです。

ここで、『相手を思いやる気遣いなどは、必要がないの?』と思われる方もいらっしゃるかもしれませんね。
確かに、女性が求める条件の一つに『やさしさ』が入っているので、そう思う人がいても不思議ではありません。

ですが心理学的には、積極的な気遣いはむしろマイナスに働いてしまうようです。
それは、人間は何かをしてもらった際には、嬉しさも感じる一方で、その行為に対する負担も感じてしまう生き物だからだそうです。
そして逆に、人に尽くした際には、自分の行動に対する言い訳を無意識に内に考えてしまいます。その言い訳とは、『私は、この人の事が好きだから、尽くすんだ。』というもの。
自分のことしか考えないDV男がモテる理由が、これで少しはわかりますよね。『暴力を振るわれても尽くす私は、この人の事が好きなんだ』と言い聞かせることで、耐えているからなんです。

これは結局のところ、モテる為には人に尽くしてもらえる程度にモテている必要があるということになってしまうんですよね。
では、その為には何が必要なのかというと、男性の場合は自分自身が社会的にみて貴重な価値がある存在にならなければ習いということなんですね。
つまり、能力を高めるしか方法はないということ…

とまぁ、この本は、夢も希望も与えてくれないわけですが、現実的な道筋は示してくれたりもする本だったりします。
また、私が今回書いた内容は、後半部分の内容だけなのですが、前半部分には恋愛初期に役立つテクニックも簡潔に書かれていたりもします。
Kindle版だと若干安いので、興味が有る方は、読んでみてはいかがでしょうか。

【映画紹介・感想】 ボーリング フォー コロンバイン

先日、マイケル・ムーア監督のキャピタリズムという作品を紹介する投稿をしました。
その投稿を読んでいただいた方から、Twitterで感想を頂いた際に、『ボーリング フォー コロンバイン』という作品名が出たので、調べてみるとNetflixで見れるということで、早速観てみました。
という事で今回は、この『ボーリング フォー コロンバイン』の紹介・感想を書いていきます。



(画像はアマゾンリンクです)

この映画はドキュメンタリー作品で、起こった事や事実を監督の目線を通して表現していく作品です。
ストーリー性というものはなく、一つのテーマを情報を集めて掘り下げて、問題意識を高めるという作品の為、この作品の感想や紹介を書くということは、そのままネタバレを書くことにつながってしまいます。
その為、ネタバレ無しの状態で作品を視聴したい方は、この投稿は読まずに、先ず作品を観ることをオススメします。


という事で、作品紹介・感想を書いていきますね。
作品の『ボーリング フォー コロンバイン』というタイトルだけを聴いて、テーマや内容が分かる方は、おそらく日本には少ないと思います。
という事で、先ずはタイトルの説明をしていきましょう。

まず、『コロンバイン』というのは、一部のアメリカ人は単語を聞いただけで理解ができてしまう程の『事件』の事です。
学生2人が、学校で銃を乱射して同じ学生と教師を殺したという凄惨な事件で、その周辺地域に住む人達にとっては忘れがたい出来事のようです。
では、ボーリングは何なのかというと、その事件を引き起こした2人の学生が、事件の前にボーリングを楽しんでいたというところから来ているようです。
(その他にも、ボーリングのピンは銃の訓練の際の的に、形的に丁度良いというところからも来ているのかも?)

このタイトル説明で理解された方も多いとは思いますが、今回紹介する作品のメインテーマは、『銃』です。
アメリカといえば『銃社会』ですし、政治関連でも全米ライフル協会の名前が頻繁に出てきますよね。

では、この作品は、銃規制の話なのかというと、それは微妙に違ったりもします。
確かにメインテーマは銃ですし、映画の内容も銃による事件や死傷者の話が大半なのですが、銃『規制』の話は、メインテーマではありません。
ではテーマは何かというと、『何故、アメリカだけ銃による死者数が高いのか?!』というものです。

ここで注意が必要なのは、何度も言いますが、メインテーマは銃規制の話ではないということ。
というのも、銃を規制していない国は沢山有るのに、銃による殺人が多いのは『アメリカだけ』だからです。
例えば、日本の様に銃の取扱が禁止されている国の場合は、銃による殺人数が低いのも納得がしやすいと思います。だって、銃を手に入れる事ができないんですから。

この日本とアメリカを単純に比べてしまうと『アメリカにも銃規制が必要』という単純な結論になってしまいます。
ですが、この問題の面白いところは、銃規制がなく、アメリカと同じように誰でも簡単に銃を買えてしまう国でも、銃による殺人は比較的少ないという事なんです。

例えば、アメリカの北に隣接しているカナダは、アメリカと同じように簡単に銃を入手することが可能で、弾も簡単に手に入ります。
しかし、カナダの銃による死者数は、年間で165人。その一方でアメリカは、11,127人。桁が2つ程違います。
とは言っても、カナダとアメリカでは人口が違います。絶対値の人数で比べるのは不公平ですからね。

という事で、カナダの人口を調べてみると3000万人。その一方でアメリカは3億人なので、アメリカは10倍の人口がいることになります。
ですが、それを考慮に入れたとしても、アメリカの銃による死者数は、カナダの10倍程度と、非常に高いことが分かります。

では、何故、この様な差が生まれてしまったのでしょうか。

映画内に登場するアメリカ人達は、様々な要因を挙げて説明しようとします。
アメリカは、侵略の歴史が有るから、暴力的な人間が多いんじゃないだろうか?』
『様々な人種がいて、考え方が違う人が多いからではないだろうか。』

色んな理由を挙げますが、少し調べてみると、それらは原因になりえないことが分かります。
最初の、アメリカは侵略の歴史があって、虐殺なども行う暴力的な人間という意見は、一見すると、自分達を客観的に観た冷静な意見のようにも思えます。
では、イギリスやドイツは侵略戦争を行わなかったのでしょうか。 日本は?

これらの国々は、いずれも侵略戦争を行い、その際に虐殺を行っています。
まぁ、戦争ですからね。自分達に危害が加わる可能性があるとなれば、民間人だろうと殺すでしょう。ナチスなどは、人種や障害者を持っているというのを口実に、積極的に虐殺を行っていましたよね。

でも、銃による死傷者はアメリカには遠く及ばない。

人種についても同じで、カナダでも多くの黒人が住んでいて、多様な人種が入り混じっています。
当然ですよね。カナダはアメリカの北側に隣接した国ですし、開拓の歴史なども基本的には同じです。にも関わらず、銃による死傷者は、アメリカの割合に比べると10分の1となっています。

この差は何なのかをマイケル・ムーア監督が考えた結果、一つの仮説が生み出されます。
それは、『恐怖』です。

恐怖を撒き散らすもの、皆が好んで見るものです。当然ですよね。自分達の生活に直結する出来事ですから、恐怖を掻き立てるものは観たいという欲求が高まります。
それは、大雨の日に川を見に行ったり、お化け屋敷や絶叫マシーンに自ら進んで乗りに行く状況を見れば分かりやすいですよね。
そして、身近にある恐怖は消費行動を促します。
例えばアメリカでは、黒人が犯罪を犯して、白人警官に捕まえられて身ぐるみ剥がされて拘束されるという番組が毎週のように報道されているようです。

この恐怖映像を観た白人たちは、自衛の為に銃を買うという消費行動に走ります。
また黒人たちは、黒人というだけで迫害されて警戒され、人として扱われない状態にストレスと貯めますし、白人至上主義者から脅迫を受けることも有るでしょうから、自衛の為に銃を買います。
結果として、アメリカの兵器工場は大儲け。 資本主義バンザイ!という状態になるわけですが、結果として、アメリカ国内を二分化させ、相互にて期待させるという状況を作ってしまいました。
この様な環境で銃による殺人事件が起こり、実際に死傷者数が増えると、『周りは敵だらけ! コワイ!』という思いから、更に銃は売れ、それによって人が殺される。

その一方でカナダはというと、アメリカに比べて恐怖を煽るニュースは少なく、国民が二分化されることも無いようです。
カナダの人達は、自身の家にカギをかける事も嫌がり、アメリカ人のマイケル・ムーア監督が『鍵をかけないで、怖くないの?』という質問に対し、『鍵をかけることは自身を家に換金することと同じだ。そんな事はしたくないし、危ない目にあったこともない。』という。
ハロウィンの日に、家に近づいたという理由で子供を撃ち殺し、無罪になったアメリカとは違い過ぎますね。
カナダに住む黒人たちも、アメリカに比べて差別も偏見もなくて住みやすいと言い、カナダの政治家たちも、敵を作って恐怖を煽るということよりも、福祉政策の方を重要視しているようでした。

よくよく考えてみると、アメリカの外交って、基本的に恐怖戦略ですよね。
今、日本で話題になっている北朝鮮ミサイル問題も、元はといえばアメリカが『悪の枢軸国』発言して、威嚇しまくったってのも原因の一つですよね。
その威嚇に対して、同じ様に核兵器を持つことで対抗しようとする北朝鮮に対し、共同訓練で更に威嚇をして挑発しつつ、『いつミサイルを打つか分かりませんよ!』と恐怖をばらまく。
これによって、アメリカ製の武器は売れるわけで、アメリカにとっては万々歳って事なんでしょうね。

ただ、その恐怖先着が、結果として自国内での殺人事件につながっているのだとしたら…
色々考えさせられますよね。

【映画紹介・感想】 キャピタリズム ~マネーは踊る~

先日のことですが、ドキュメンタリー映画で有名なマイケル・ムーア監督作品の、『キャピタリズム マネーは踊る』を観ました。


      

という事で今回は、このを紹介しつつ、感想を書いていこうと思います。
最初に書いておきますと、この作品はストーリーものではなく、ドキュメンタリー映画で、今のアメリカの状態をムーア監督の目線で切り取った作品となります。
基本的には、現実世界で起きている出来事を、そのまま映像化したような作品の為、番組の感想を書くということは、そのままネタバレを書くということに繋がります。
その為、何の知識も得ない状態で観たいという方は、この投稿を読まずに、そのまま映像を見るよう、お願い致します。
ちなみにこの作品は、今現在、Netflixで見ることが可能です。


前置きが終わったところで、早速、作品の感想を書いていこうと思います。
私がこの作品を見た際に、一番最初に思った事は、日本の現状と非常によく似ているという事。

この作品内でアメリカの資本主義は、マイケル・ムーア監督によって皮肉たっぷりに貶され続けます。
アメリカといえば、アメリカンドリームなんて言葉を聴いたりもしますが、それは既に過去の話で、今は夢も希望も抱けない。
富裕層が搾取しまくった結果、国民の大半は貧民層に追いやられ、住む場所も奪われ、地獄のような場所として描かれているのですが…
『今の日本は、そのアメリカの背中を全力で追いかけているように見える。』それが、この作品を見た私の感想です。

では何故、私はそう思ってしまったのでしょか。順を追って観ていきましょう。

この作品では、先ず、資本主義の成り立ちから説明されています。
アメリカは第二次世界大戦後、空前の好景気を迎えます。
というのも、現代でいうとライバルだったドイツと日本が第二次世界大戦によって焼け野原になった為、ライバル不在によって受注が殺到したからだそうです。
また、焼け野原となったドイツや日本は、生活基盤をもとに戻すためにも、大量の生活用品が必要になるわけですが、その製品も、アメリカから購入していました。
様々な要因が重なって供給不足に陥ったアメリカは、物を作れば売れるという状態。働けば働くほど裕福になり、大量の中産階級が誕生しました。

この当時のアメリカは、絶好調。
需要は有り余るほど有るので、仕事も豊富だし給料も働いた分得られる。この時代に貧乏だという人は、単純に怠け者で自業自得。
資本主義が、一番効率よく仕事をしていた時代ともいえます。

しかし、そんな絶好調も長くは続きません。
資本主義は利潤を動機にして進むシステム。供給不足なのであれば、設備投資を行って効率化を行い、生産性を伸ばしていくことが善とされ、供給は需要にいずれ追いつきます。
その上、時間が立つことによって、焼け野原となって没落したライバルである、日本やドイツが復活してしまいました。
一旦焼け野原になった事で、日本やドイツは工場を作る際には最新の設備を揃えることが可能となり、高品質・高性能のものを安価で生産することが可能となってしまいました。
ただでさえ、アメリカ国内で生産性が上昇して供給力が増えている状態で、ライバルが登場した場合、どのような状態になってしまうのでしょうか。

考えなくてもわかりますね。 不景気です。

この不景気、アメリカは、どの様に向かい合ったのかというと、当時、俳優として顔が売れていたロナルド・ウィルソン・レーガンを大統領に仕立て上げ、その補佐役としてウォール街の重鎮を据えて金融政策で乗り越えようとしました。
その結果として生み出されたのが、『レーガノミックス』と呼ばれる経済対策。
今の日本の『アベノミクス』の語源となった言葉ですね。

ウォール街の傀儡政権が打ち出したレーガノミックスは、資本主義をより推し進めるものでした。
大企業を優遇し、富裕層に対する税率を引き下げる。金が無いので、福祉のレベルは引き下げる。そして、富裕層がより投資を行いやすいように、規制緩和を行う。
こうする事で、企業や富裕層はより利益を得られる為、国際的な競争力が増し、雇用も増え、結果的に税収も多くなる!
金持ちがより豊かになれば、経済を刺激して貧困層も恩恵に預かれる!トリクルダウン!!

あれれ? どっかで聴いたような政策ですね。
これによって何が起こったのかというと、目先の利益に走った企業は、分業化によって現場職員を細切れにし、発言力を奪った上で賃金をカットしました。
それらの影響により、会社上層部と現場職員との給料格差は絶対的なものとなり、貧困層の数は膨大な料に増えました。
その為、自己破産申請件数は急激に上昇して政策実施前の数倍に膨れ上がり、病院の抗うつ剤処方数も劇的に増えることになりました。

当然といえば、当然ですよね。今までは、富裕層に対する税率が高かった為、従業員から搾り取ったとしても、その金の大半は国によって搾り取られることになっていました。
しかし、企業や富裕層への減税によって、国がピンはねしなくなれば、企業や富裕層は搾取すればする程、自分の資産が積み上がっていくわけですから、搾取の手を強めたわけです。

ですが、この搾取によって企業の業績は過去最高となり、また、証券投資への規制緩和によって、株価は急激に値を上げることになります。
そう、資本主義の主な指標である、企業業績と株価だけは上昇したんです。 労働者が手にするはずだった報酬と引き換えに。

その政策が長年続き、経済が再び安定した時、国はまた、市民を不幸のドン底に突き落とすことにします。
それが、政府が創り出した不動産神話。不動産とは、単なる土地ではなく資産だと主張し、その土地を担保に金を借りれば、自由にお金を使えると主張。
仮に2000万円の家を保有していれば、それを担保に2000万円を銀行から借りれて、利息だけ払って自由に使えば良い。仮に返せなくなったとしても、家を明け渡せばチャラになる。
不動産価格は下がることはないので、土地上昇分を毎年借り入れることが出来るし、それを利息返済に回せば、家を取られることもない。

甘い言葉を中央銀行総裁が囁き、それに銀行が乗る形で、住宅向けローン市場が熱を帯び、その流れはサブプライムローン問題につながっていく。
そして起こったリーマンショック。 銀行は、国の税金から7000億ドル受け取り、倒産を回避したが、それに巻き込まれた多くの住民は家を失い、ホームレスになった。

これにより、アメリカの現場職員と富裕層の立場は決定的となります。
日本では憧れのパイロットも、アメリカでは合理化が勧められまくり、年収は日本円で200万円を下回ります。
パイロットは大学に出ているため、学資ローンなどで社会人になるまでに10万ドル(約1000万円)の借金を背負っていることが多く、その借金を年収1万7千ドルの中から支払わなくてはなりません。
航空会社の面接では、試験官に『うちの制服を来たまま、生活保護を受け取りに行くなよ。』と真面目な顔で注意され、パイロットの仕事をバイトを行いながら行わなければ食べていけないそうです。

また、オバマ大統領誕生前は、貧困層医療保険も入れない為、まともに医療設けられない。
しかしその一方で、会社は社員に対して多額の生命保険をかけていて、社員が死ぬ度に数億円を会社側が得られるという仕組みになっている。
つまり、会社がブラックになって過労死すればする程、会社は儲けが出るという仕組み。

まぁ、控えめにいって、完全に地獄ですわ。

更に資本主義の凄いところは、資本主義は成熟すればする程、この流れが加速するってところです。
というのも、資本主義社会では、一番カネが儲かるのは投資関連で、当然のことながら、就職人気の上位に金融関連企業が入ることになる。
つまり、教育機関が育てた最高の知能が、金融市場に就職していくということ。
ですが、金融市場というのは基本的には何も生み出しません。資産を右から左に流すだけで、商品や食料を生み出すわけではない。
では、国内最高頭脳の金融関係の方の給料はどこから出てくるのかというと、何処かから搾取してきた金ということになります。

これが続くと、実際に商品や食物を生み出している現場はドンドン疲弊していき、国力は下がっていくことになります。

この後を全速力で追いかけているのが、私達が住む日本というわけです。
歴史は繰り返すといいますが、他国で数十年前に始まって現在進行形で進んでいる出来事も、場所が変われば繰り返されるという事がよく分かる作品でした。
そういえば、今週末(2017年10月22日)は選挙ですね。 幸い、私達が住む日本は民主主義なので、投票先によって制作は変えることが可能です。
テレビや権力者が話す言葉ではなく、自身の置かれている環境を見直した上で、投票することが大切なのかもしれませんね。

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿 】第16回 ゴータマ・シッダールタ(2)

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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youtubeでも音声を公開しています。興味の有る方は、チャンネル登録お願い致します。
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前回は、輪廻転生やこの世が苦しみであると言ったことや、仏教の開祖となったゴータマ・シッダールタが悟りを得るまでの話を、簡単に説明していきました。
今回は、前回簡単に紹介した内容を、もう少し詳しく説明していこうと思います。

苦しみについての大まかな考え方は、前回で語っているので、詳しく知りたい方は前回の放送を聞いてもらいたいのですが、簡単に言うと、苦しみとは相対的な概念なので、この世から無くすことは出来ないという事です。
苦しみをこの世から完全になくしてしまった場合は、それと対になっている幸せという概念も消滅してしまいますし、この世が楽しければ楽しいほど、死は恐ろしいものとなっていきます。
光が強ければ、それだけ影は濃くなるということでしょうか。

苦しみについての大まかな考え方は、この通りなのですが、今回は、輪廻転生と組み合わせた形で、別の側面から観ていきます。
まず、この世が苦しみで満たされているという発想と輪廻転生という発想は、当時、インドを支配していたバラモン教の世界観が強く現れた発想です。
インドでは、現在もカースト制が採用されています。カースト制とは、日本でも有った士農工商といった身分制度のことで、生まれながらにして身分を決定し、労働の役割分担や差別などを行っていたんです。
この様な身分制度ですが、これを運用していくというのは、結構難しかったりします。

というのも、身分制度で中間層に位置する人間は、自分よりも下のものを虐げる事で鬱憤を晴らせますが、最下層の人間は、ただ、辛い現実を突きつけられることになります。
最下層の身分の者を虐(しいた)げ過ぎて、全てのものを奪ってしまうと、失うものが何もなくなった最下層の人達は、開き直って暴動を起こすなんてことも考えられます。
日本の場合は、実質は最下位である農民を、建前として武士の次という上位に持っていくことで、気持ちのやり場を調整しようとしていたんですが、それでも、失うものが何もなくなった状態に追い込まれると、一揆などを起こしてましたよね。

古代インドでは、その調整として、輪廻転生やカルマといった概念を持ち込んで、そんな気を起こさせない様にしようとします。
カルマというのは、簡単にいえば、自分の取った行動を数値化するような考え方です。
悪いことをした際にはマイナス何ポイント。 善い行いをした場合には、プラス何ポイントと言った具合で、人の行動を人生を通してポイント化していって、最終的に死んだ時に判定が行われて、善い行いをした場合は
上位の身分として生まれ変わるといった感じでしょうか。

つまり、自分が最下層の身分として生まれたのは、前世や、それよりも前の人生で悪行を積み重ねてきたからで、自業自得。
その身分から抜け出したいのであれば、現世で善行を積む事で、少しでもマイナスポイントを減らし、プラスに持っていくことで、次に生まれ変わる時には高い身分として生まれ変わることを願うといった考え方ですね。
最下層の身分に落ちたのは、過去の過ちのせいなので、それを差し置いて暴動を起こすなんてとんでもない行動。
もし、国の制度に対して反発し、暴動を起こすなんて事を行動に起こしてしまえば、それは悪行とされる為、次に生まれ変わった世界で更に苦しむ事となる。
この様な考え方によって身分制度を肯定し、暴動を抑えていたんですね。

この時代というのは、今のようにネットがあるわけでもなく、義務教育があるわけでもありません。
知的階層以外の人達の識字率も少ないでしょうから、知識を有する人達から、カルマや輪廻転生といったものを利用した一種の脅しを受けると、それを真に受けて、奴隷の生活を受け入れる人も結構な数がいたんでしょうね。
このカースト制の浸透は凄く、ブッダと共に荒行をし、その後、ブッダの理論を聴いて感動を覚えた人間ですら、『ブッダが35の若さで悟りを開けたのは、何度も生まれ変わり、その度に善行を積んでいたからだろう。』と思われる程に
信じられていたようです。

これに対し、ゴータマ・シッダールタが主張したのは、悟りを得る事による『解脱』です。
解脱とは、輪廻転生の鎖を断ち切って自由になろうという考え方で、言い換えれば、カースト制の否定にも繋がる主張です。
何故、カースト制の否定につながるのかというと、カースト制を維持し続ける為には、先程も言いましたが、輪廻転生が不可欠です。
低い身分に生まれるのは、前世で悪いことをしたから。だから、酷い仕打ちを受けるのは当然の事。
その辛い仕打ちを耐え抜いて、上の階層の者の役に立つ事で徳を積めば、次に生まれ変わった時には、今よりも上の階層に生まれ変われるという世界観が前提となっています。

しかし、悟りを得ることで解脱が出来、この世に生まれ変わらなくて良いのであれば、今生きている人生が最後の人生ということになります。
次に生まれ変わった際の心配もしなくて良いので、今この瞬間を自分の思い通りに生きることが出来ます。

では、悟りを開く為には、何をしなければならないんでしょうか。
この当時、インドでは荒行が流行っていたそうなんですが、その様な厳しい修行を耐え抜かなければならないのかというと、そうでは無いんです。
ブッダは、荒行や瞑想と言った、その当時主流だった修行は一通り行いましたが、それらでは悟りは開けないことを明言しています。
結果としてブッダは、菩提樹の元で3日間考え抜いた後、悟りを得ています。

では何故、荒行などの修行は必要ないのでしょうか。
それは、そもそも荒行とは、梵我一如の考え方を誤解したことで生まれたものだったからだそうです。
梵我一如の考え方は、宇宙と個人の根本原理は同じものなのだから、宇宙の根本原理である真理を得るためには、自分の事をしる。つまり自己探求が必要だという考え方です。

その自己探求の結果として、アートマンとは自分を構成している あらゆるモノでは無い存在ということが分かります。
言葉で表すなら、『非ず、非ず』としかいえないもの。あらゆるものに対して『そうじゃない。それではない。』としか言えないものということです。
つまり、自分が纏っている身分や所有している財産のことではありませんし、自分の外見や、体その物の事でもありません。
アートマンとは、ただ観測しているだけの存在で、ただそれだけでしか無いものという事です。

この考え方が、時代を経る事に変化していくことになります。
梵我一如を説いた、ヤージュニャヴァルキヤがおよそ紀元前750~前700年の人物で、ブッダは、しっかりとした記録が残っていないせいか、様々な説が有るんですが、紀元前600年~380年の間の何処かと言われています。
ヤージュニャヴァルキヤがなくなってから数百年経っての登場なので、ブッダが登場するまでの間、梵我一如は解釈が解釈を呼んで、オリジナルからかけ離れたものになっていたんでしょうね。

では、どの様に誤解されていったのかというと、アートマンというものは、観測することが出来ず、故に壊れることも傷つけることも出来ずに、死ぬこともない存在なので、人間が肉体的に感じる感覚は、アートマンではないことになります。
この考え方がドンドン飛躍していって、肉体的感覚と精神的なもの、つまり、魂的なものとを分離させようとする試みが行われます。



その過程で生まれたものの一つが、荒行だったりします。

もう少し説明すると、肉体的な感覚や、肉体が存在することによって生まれる拘束感などは、アートマンでは無いものなので、それらを感じないような境地に自身を追い込んでいきます。
例えば、何日も食事を取らないと、肉体は当然のように食事を欲するため、空腹に襲われます。
ただ、空腹という感覚は肉体が存在することによって生まれる苦痛や欲望なので、アートマンではありません。
アートマンとは、傷つかず壊れず、故に、死ぬことがないものなので、その苦痛や欲望はアートマンとは程遠いものと考えられます。
これらの苦痛や欲望を、精神的に押さえ込む事によって、本来のアートマンに近づこうと思ったわけです。

確かに、荒行というのは苦しみや凄さが数値として理解できる為、一種の基準としても使えるため、非常に便利なものです。
隣の修行者が9日の断食に成功したのであれば、自分は10日間の断食に成功すれば、その人間よりも苦痛に耐えた事となり、自分の方が偉業をなしたと他人に説明しやすいですし、この記録を11日・12日と伸ばしていくことで、成功に近づいている感覚が得られるので、目標も立てやすくなります。
しかし、この荒行を行うという行為は、行えば行うほど、アートマンからは程遠くなっていきます。

というのも、苦痛を乗り越える、苦痛を耐え抜くという行為は、苦痛というものを無くしては生まれない価値観だからです。
他人に真似出来ない程に苦痛だからこそ、その行為が偉業とみなされるわけですし、苦痛を伴からこそ、頑張ったという実感が得られます。
逆に、誰が行っても苦痛を感じないような行為であれば、その行為を行ったとしても誰からも尊敬されませんし、一歩づつ進んでいる実感も得られません。
この荒行という行為は、苦痛という感覚に完全に依存した行為で、苦痛が存在しなければ意味をなさない行為です。

別の視点から見れば、苦行というのは肉体が苦痛を感じなければ意味を成さないということなので、肉体による感覚に依存するとも考えられます。
ですが、先程からも言っている通り、アートマンとは肉体やそれに付随する感覚のことではありません。
にも関わらず、完全に肉体の感覚に依存している荒行は、根本的に間違っているということです。
この間違った行為である荒行が推奨され、尚且つ、荒行に耐えた人間が神のように扱われることで、プライドまで満たされる。
これは、完全にアートマンに意味を取り違えているわけで、この行為を続けたとしても、悟りなんて開けるわけがないということですね。

では何故、この様な誤解をされたまま、荒行が流行することになってしまったんでしょうか。
理由は2つあって、一つは、アートマンというものの理解が非常に難しく、大半の人間が、肉体的な感覚に依存した考え方しかできないからなんです。
私は、死の恐怖というものが昔から少なく、不安というものもそんなに感じない状態で生きてきました。
これは今も同じで、今私が生きているのは、今直ぐにでも死にたい理由というものが無い事と、自分が死ぬことで、親が生きる意味を失ってしまうからなんじゃないかという思いから、積極的に死のうとは思っていないだけなんです。

この様な考えは、単純に私がアートマンの意味を理解しているとか、悟っているとかと言ったものとは関係がなく、単純に平和ボケという事もありますし、満たされた生活を送ったせいで欲望が薄いからかもしれません。
理由はよく分かりませんが、日常生活において『死んだらどうしよう』なんて心配はすることがなく、そういった意味では、死の恐怖からは開放されているともいえる状態を維持しているんです。
このことを、中学時代に当時の知り合い3人程に話したところ、その知り合いは、口を揃えて、私の考えを否定し始めました。

例えば、『今現在、観ている漫画やアニメ、ドラマなんかがあるでしょ? 今死んだら、それらが全て見れなくなるんだよ?』
とか、『じゃぁ、この場で手足を縛って拘束して、足から1センチずつノコギリで切っていっても、良いんやね。』と言った、見当外れの事を言い始めたんです。
この反論は、荒行を肯定している当時のインド人と同じことで、肉体と意識を同一視した結果、出て来る言葉です。

前者の、楽しみにしているコンテンツが見れなくなるのは良いのか?といった質問は、そもそも肉体というものが存在して、時間という概念がある世界にいるから、暇な時間というものが生まれて、その時間を埋めるために行っている作業が、コンテンツを楽しむという事です。
そのコンテンツを見るために生きているわけでも生まれてきた訳でもありません。例えば、何らかのアクシデントで1話見逃すといった事が起こっただけで、観る気をなくしてしまう可能性がある程度のものですし、他にやるべきことがある場合は、後回しにされるようなものですよね。
死というのは、人生の中で最大の変化なので、それに対する恐怖が薄い人間にとって、コンテンツが見れなくなる恐怖なんてものは無いに等しいわけで、コンテンツを楽しめなくなるから死にたくないなんて考えはナンセンスですよね。

そして、後者の足を1センチずつ切り刻んでいくという拷問ですが、これは完全に論外なんですが、この様に考える人が多いからこそ、荒行なんてものが肯定され続けてきたんでしょう。
というのも、仮に、この拷問によって泣き叫んだとしても、それは、痛みを感じて泣き叫んでいるだけであって、死にたく無いというのとは全く関係がない事ですよね。
これは冷静になって考えてみれば、肉体的な痛みと死という全く別のものを同一視する事によって起こってしまう錯覚でしか無い事が、分かると思います。

じゃぁ、苦しまずに死ねる薬が合ったとして、それを差し出されたら飲むのかというと、これも、別の話ですよね。
私は、積極的に死にたいといっているわけではなく、死ぬことに対する恐怖が無いと言っているだけなんですね。
つまり、痛い思いはしたく無いし、積極的に死のうとは思っていない。でも、死に対する恐怖が無いと言っているわけです。これは言い換えると、今この瞬間に不可抗力で死んだとしても、人生に悔いはないという事になるんでしょうか。
当然、死ぬという事は人生において最大の変化でしょうし、生き物は変化を嫌うものなので、状態が大きく変わることに対して不安が全く無いのかといえば、そんなことはありません。ですが、その状態に絶対的な恐怖は感じていないということなんです。
ですが、苦痛や変化に対する不安を、死に対する恐怖と同一視してしまう人は、この辺りの違いというものが理解出来ない為、苦痛や不安を乗り越えることこそが、恐怖を乗り越える唯一の手段と思ってしまうんでしょうね。

2つ目の理由としては、荒行を通して悟りの境地のようなものに到達した人が、実際に結構いたからなんだと思います。
例えば、長時間の間、走り続けるという荒行を行う人がいたとします。 人間は、長時間、苦痛を受け続けると、その苦痛を和らげる為に、脳内麻薬を出して苦痛を和らげたりします。
ラソンランナーが、ランナーズハイの状態になって苦痛から開放されるなんて話も、結構聴きますよね。
この様に、人間は苦痛に耐え続けることで脳内麻薬が分泌されて、変性意識状態になります。

私自身も、過去に社会人になってから空手道場に通っていた時期があり、一時期、仕事が終わってから4~5時間の稽古を週5~6日行うするという生活を過ごしていた時期があります。
この生活を2年ほど続けた時、日常的に幻覚が見えるようになりました。 それだけではなく、異様に体が軽くなる感覚など、明らかに普通の状態では無い状態が結構続きました。
私の場合は、道場通いは趣味で行っていた為、本当に辛い時には休めるという逃げ道もあったので、精神的には楽だったということもあって、この程度の症状で済んでいましたが、これが、半ば強制されるような状態で、自身を追い込まなければならない義務感などがあった場合、更に重い症状が出ていたかもしれません。

この様な状態は、先程のランナーズハイと同じ様な感じで、体が苦痛から開放されるように脳内麻薬を出した結果、変性意識状態に入ったんでしょうけれども、この変性意識状態で、宇宙と自身が一体となる梵我一如的な感覚が体験できるような状態に陥ることもあるようです。
宇宙と個人の一体感を体験として知るというのは、古代のインド哲学では正に悟りの状態ともいえるので、その神秘体験をした人間を一定数生み出した荒行は、真理に近づく有効な方法だと思われていたのかもしれません。
ブッダ自身が、この様な神秘体験を経験したのかどうかは分かりませんが、仏教の世界では、この体験だけで悟りを得たとはしていないようなので、これをもって、真理に到達することは出来ないとしたんでしょう。

では、涅槃の境地に辿り着くためには、何を知るべきなのかということについては、次回から、語っていこうと思います。

【ゲーム紹介】 ニーアオートマタ #PS4

今回は、『ニーアオートマタ』というゲームの紹介をしたいと思います。


      

このゲームですが、2017年の2月に発売された日本のゲームにもかかわらず、じわじわ売れ続け、新品価格も下がること無く、中古でも販売価格や買取価格を高値で維持し続けている、結構、人気の高い作品となっています。
作品自体は、発売前から一部では話題になっていましたし、シリーズの固定ファンも多かったようなのですが、その流れに何となく乗りたくなかったりしたので、購入をずっと見送っていた作品です。
ただ、じわ売れし続けているというのが気になり、プレイせずにモヤモヤするぐらいならプレイしてみようと思い、購入していました。

プレイしてみた上で、簡単にゲームを紹介してみますと、雰囲気ゲーといった感じでしょうかね。
ゲーム内容としては、ポストアポカリプス系の文明が崩壊した世界を、格好いいキャラクターを操作しながら無双するゲーム。

シナリオ的には、SFと哲学を合わせたような感じで、その世界観に、スタイリッシュな感じの独特のキャラクターが登場。
お姉さんキャラや弟キャラ、格好いい知的なメガネ男子の兄と、その兄を物凄く慕っている、やんちゃな感じの弟キャラ。
色んなジャンルのネタにしやすいようなキャラクターが勢揃いで、コスプレや薄い本を書いている人にとっては、テーマに扱いやすくて良い感じなのかもしれませんね。

発売当初は、レビューなども結構荒れていたようで、私も食わず嫌いな感じで未プレイだったのですが、実際にプレイしてみた上での個人的な感想としては、普通にそこそこ楽しめた作品でしたね。
スタイリッシュなキャラクターが、□ボタンを連打するだけで格好良く動いてくれますし、敵が攻撃したタイミングで回避ボタンを押すと、攻撃モーション中でも回避してくれます。

レベルという概念がありますが、意識的にレベル上げをする必要もないバランスで、レベル上げのストレスも無い。
レベル上げを意図的に行って、普通よりも高いレベルでストーリーを消化すると無双ゲーに変化して、これはこれで爽快感があって面白い。
また、ポッドと呼ばれる支援システムがかなり有能で、これを駆使すれば、戦闘面で困ることは殆ど無い状態になります。このポッド操作は、カメラ操作で行う為に最初は難しいですが、少し進むと、ポッドに自動で攻撃させることが出来るモードが追加される為、戦闘が一気に楽になります。

また、主人公を強化する為のチップというアイテムをカスタマイズすることが出来るのですが、『オート回避』『オートアタック』等のチップを装備すれば、自動で攻撃してくれる上、『オート回復』で自動的に回復アイテムまで使ってくれるため、アクションが苦手な人でも安心設計。
一応、難易度設定と言うものが存在しますが、それに加えてチップによって難易度が変化する為、自分好みのゲーム難易度に自由に変更できるシステムというのは、面白いと思いましたね。

マップについてですが…
ポストアポカリプスという事で、人類がいなくなった感じの世界観を上手く表現できているとは思うのですが…
超大作のFallout等と比べてしまうと、手抜きの印象を抱いてしまいますね。

『森』や『砂漠』『廃墟』といった感じの、同じ様な景色がループするマップをひたすら走らされるので、移動が暇。
砂漠などは本当に砂だけで、砂漠マップのド真ん中にセーブポイントがあるだけというのは、正直、つまらないという印象を抱いてしまいました。
ですが、その単調なマップも、所々で強制的にカメラを真上や真横からの視点に切り替えられる為、ゲームの雰囲気が変わって飽きないような工夫も感じられるので、人によって感想は変わるかもしれませんね。
私個人としては、探索する楽しみというのは得られませんでした。

シナリオは、先程も書いた通り、SFと哲学を合わせたような感じのストーリー。
私自身は、漫画でいうと『銃夢』や『攻殻機動隊』、映画だと『ブレードランナー』や、その原作となった小説の『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』等が好きなので、このゲームの設定や世界観、ストーリーは、何度も観た感じのストーリーで、あるあるって感じでした。
ゲームが開始した直後ぐらいに主人公が発した『アンドロイドに感情を持つことは許されいない』とか、相方の『機械生命体の発する言葉に意味はない』というセリフから、作品の大まかなメッセージがすぐに理解できましたし、その予測は最後まで外れずに、思った通りの展開になりました。
Amazonレビューなども見ましたが、低評価レビューの多くが、その理由にストーリーの薄さを挙げていましたが、この、過去の作品の焼き直し感が、そういう批判を呼び込んだのかもしれません。

ですが、攻殻機動隊、特に漫画版などは、読破するのも一苦労ですし、読破したところで、細かいところまで理解するのが難しい。
また、とっつきにくく、非常に排他的なもので、そもそも筆者が読者に理解させることを前提として書いてない印象すら受ける作品。
ブレードランナーや原作小説も、そうとう昔の作品で、発表当時は今の20代なんかは、そもそも生まれていない。
これを書いているアラフォーの私ですら、大きくなってから古典を読み解くような意気込みで手にした作品なので、若い方でこの分野に興味のない方は、そもそも読んでいないことが多いでしょう。

深いSFや哲学という分野は、それぞれが『分かる人だけわかれば良い』というスタンスで書かれていることが多く、かなり排他的な世界。
興味を持っていたとしても、入り口で追い返されるような感覚に、これらの世界に入っていけなかった人も結構多いと思います。
こんな感じの世界に入っていこうと思うと、相当、この分野が好きだという気持ちがなければ、そもそも入っていけません。

その一方でこのゲームの場合は、非常に解りやすく作ってあります。
小難しいことを話す機械生命体のキャラクターで、『サルトル』という人物がいるのですが、このキャラクターは『てつがく』という意味があるのか無いのかわからない、難しいことを考えている人物として紹介されます。
このゲームをプレイして、サルトルという人物に興味をもってGoogleなどで調べると、実在する哲学者のサルトルが検索でヒットするでしょうし、ゲームから哲学への流れが起こしやすいような作りになっています。

また、その人物がいる村で起こるイベントでは、村長に『哲学書』を届けるというクエストもあって、哲学を匂わせるというよりも、そのものズバリで哲学を推してきます。
イベントの数々も、プレイヤーに哲学的な問を考えさせるような内容になっているので、この分野に全く触れてこなかった人にとっては、知的な気分も味わえて非常に面白いと思いますね。

このゲームは、プレイヤーが今までに観たり楽しんできたコンテンツによって、面白さが変化するゲームだと思います。
ゲームに限らず、深い世界観やシナリオの作品に触れている人にとっては、然程、新しいことをしていないかもしれませんが、今から色んなコンテンツに触れていこうと思う人にとっては、色んな要素が詰め込まれている良い作品だと思います。
表現方法もストレートで、物凄く分かりやすいですしね。

興味のある方は、プレイしてみてはいかがでしょうか。

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿 】第15回 ゴータマ・シッダールタ(1)

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
goo.gl

youtubeでも音声を公開しています。興味の有る方は、チャンネル登録お願い致します。
www.youtube.com

第9回から12回では、インド哲学を中心に話し、前回と前々回では、東洋哲学で中心となる、体験としての理解や、言語の限界について話してきました。
簡単に振り返ってみると、この世のあらゆるものを瞑想によって同一視していき、最終的に宇宙まで拡大したのが、ブラフマンと呼ばれる宇宙の根本原理。
そして、自分の内側に焦点を当てて、最も根本的な部分にまで分解して到達する個人の根本原理を、アートマンと呼ぶ。
アートマンとは、『非ず、非ず』つまり、全てのものに対して『そうじゃない』としか答えられないもので、ただ、観察するだけの存在です。

このアートマンブラフマンが、同一のもの。つまり、宇宙の根本原理と個人の根本原理は同じものと主張したのが、梵我一如の考え方です。
この、梵我一如の考え方を、言葉やそれによる知識では無く、体験によって理解する事を重要視するのが、東洋哲学です。

では、言葉や理論による知識ではなく、体験によって理解するとはどういうことなのかというと、あらゆる物を直感として認識する境地とでもいうのでしょうかね。
彫刻家が、石を見ただけで、その石の中に完成形が埋まっているイメージを直感として認識して、それを掘り出すような感覚です。
言葉では言い表すことが出来ない、体験やイメージ。そして、それを実現するための方法や法則を直感で導き出すことが出来る状態が、体験によって理解する状態といえば良いんでしょうかね。

何故、言葉では無く経験を重視したのかというと、言葉というのは、そもそもが不完全なもので、人のイメージを正しく伝えることが出来る代物では無いからです。
例えば、私が皆さんに向かって、『赤色』を想像してみてくださいと言った場合、一人ひとりが思い浮かべる色は、似通っていはるけれども、それぞれ別の色でしょう。
燃えるような赤い夕日の赤を想像する人もいらっしゃるでしょうし、リンゴの赤を思い浮かべる方もいらっしゃるでしょう。
赤信号の色を思い浮かべる方や、ポストの色を思い浮かべる方もいらっしゃるでしょう。
それらは全て赤ですが、私が思い浮かべた色と全く同じかといえば、それは違うでしょう。また、そもそも生まれながらに盲目で目が見えずに、色というものを知らない方は、思い浮かべることすら出来ないかもしれません。

言葉とはその程度のものなので、色のような単純なものではなく、もっと複雑なイメージの場合は、それを言葉に変換して伝える事はそもそもが無理ですし、まして、それを他人に伝えて正しく理解して貰うとなると、更にハードルは上がってしまいます。
なので、言葉やそれを元にした理論では無く、体験による理解を良しとしたんでしょうね。

では、インド哲学では、何故、梵我一如といったものを、体験によって理解しようとしたでしょうか。
東洋哲学では、生きるということは苦しむことだという考え方があって、そこから、どのようにすれば抜け出すことが出来るのかという事を中心に考えていたからといわれています。
東洋系の宗教には、輪廻転生という考え方が有りますよね。
この輪廻転生を、『死んでも、また生まれ変わって来れる。』とか、『次に生まれ変わるなら、こんな感じで転生したい』とか『自分の前世は○○だった。』という事を無邪気に話す方も、現代では多いと思いますが、
そもそもの輪廻転生とは、例え死んで苦しみの世界から開放されたとしても、また現世に生まれ変わって苦しまなければならないという考え方で、その輪廻の輪から如何にして抜け出すか。
つまり、解脱するのかというのが一大テーマだったんですね。

そこまで、生きていくことが苦しいのと、疑問に思われる方もいらっしゃるかもしれませんけれども、紀元前の世界では、今のように豊富に食料があるわけでもありませんし、娯楽が有るわけでもありません。
病気や怪我で簡単に死にますし、子供を産むという行為も命がけですし、そこまでのリスクを犯して産んだ子供も、成人まで育つかどうかも分かりません。
また、比較的裕福で、生活の心配がない支配者層の人たちの場合は、普段の生活に苦しみを感じなかったとしても、老いることによって今と同じ生活ができなくなる事。または、いずれ死んでしまうことについて恐怖し、思い悩みます。
生きていくのが楽しければ楽しいほどに、そこから絶対に退場しなければならないという状態は苦痛とも考えられます。

また、快楽や幸せや達成感などの感情は、基本的には苦痛とセットになっていますよね。
どういうことかというと、快楽というのは、言いかえれば苦痛ではない状態なので、快楽を得るためには、絶対に苦痛や苦悩・絶望というマイナスの感情が必要です。
これは、SMのMといった感じの意味ではなく、苦痛というものが存在するから、快楽が存在するということです。
仮に苦痛などのマイナス感情が一切なく、楽しいことだけで人生の時間を埋めていくと、それは楽しい出来事ではなくなってしまい、日常化してしまいます。
日常化してしまうと、そこに幸せを感じることが出来ず、幸せという実感を得るためには、1段階上の更なる幸福な状態を体験しなければなりません。そして、上の段階の幸福な状態を体験してしまうと、日常が幸せではない状態、つまり不幸な状態へと、1段階落ちてしまいます。
プラスという概念は、マイナスという概念がないと存在しないというわけですね。

他の感情である達成感なども同じで、コツコツと積み重ねた事が報われた瞬間に、達成感というカタルシスが得られます。
この、コツコツと積み重ねることは、基本的にはマイナス感情で構成されなければなりません。
仮に、コツコツと積み重ねること、そのものが楽しい状態なのであれば、ゴールは達成感を得られる目指すべきものではなく、今現在の、楽しい日常が終わってしまう悲しい出来事になってしまいます。
コツコツと頑張ること自体がが楽しいと感じる人にとっての楽しい人生とは、永遠にゴールを迎えない状態で努力することになってします。

映画でいうのであれば、『うる星やつら』の劇場版、ビューティフル・ドリーマーのような世界観になるんでしょうか。
この作品の事を余り知らない方は、良い作品なので、この後に話すネタバレの前に、放送を止めてもらって、是非みてもらいたいんですが…
ネタバレを気にしない方、既に観て、内容を知っている方に向けて、ネタバレを含んで話すと、この映画は、文化祭の為に、皆で一丸となって準備をするという、文化祭前夜の話がメインになるんですね。
そして、そこの登場人物たちは、忙しいながらも、楽しく準備をしているわけですよ。
つまり、この作品内において文化祭の当日というのは、目指すべきゴールのはずなんですが、それを迎えてしまうと、今現在の、楽しい 非日常的生活が終わってしまうという状態に置かれているんですね。

そういう気持ちを、登場人物の多くが共有していて、心のすきを付かれたからなのか、映画では、ある登場人物の能力によって、文化祭の前日がループし続けるとい世界に変わってしまうんです。
ただ、登場人物たちは、日常化する非日常的な生活が楽しいのか、その事を気が付かないままに、ループした文化祭前日を、過ごし続けるんですね。
この状態は、ゴールが永遠に訪れないという事を知らない状態で、つまり、永遠に繰り返される日常の中で、毎日、明日が文化祭と思い続けて行動し続けるのであれば、永遠に楽しい人生が続くのかもしれません。
ですが、そんな状態というのは存在しないわけで、存在するとすれば、非常識なことでも普通にありえる夢の中ぐらいですよね。
現実の世界では、達成感を得るためには、コツコツと自分の意に沿わないことを行い続けなければなりませんし、その中に楽しみを見出してしまうと、訪れる終わりが悲しいものになってしまいます。

これらの苦痛から抜け出す為に、必死に考えて、ヤージュニャヴァルキヤが到達した境地が、梵我一如だったわけです。
梵我一如の境地に至れば、誤解なく、自身は認識しているだけの存在と知ることが出来るので、この世のあらゆる苦悩から距離を置くことが出来ます。
また、全ての事柄に対して『非ず、非ず』という存在であるアートマンは、傷つけることが出来ずに破壊することも出来ない存在なので、自ずと、死の恐怖も感じなくなります。

ただ、この梵我一如の考えは、時代を経るごとに誤解され、間違って解釈されて行くことになります。
その間違いを、もう一度修正したのが、悟りの境地にたどり着いたとされるのが、ゴータマ・シッダールタ
いわゆるお釈迦様やブッダと呼ばれる人で、仏教の開祖とされている方ですね。
呼び方が色々と有るのは、ゴータマ・シッダールタという方が、釈迦族の王子さまで、その後、王子のみでありながら出家したという経歴から、お釈迦様と呼ばれたり
悟りを開いた人の事を、『目覚めた人』という意味で、ブッダと呼ぶところから、悟りを得たゴータマ・シッダールタさんの事をブッダと呼んでいたりするんですが、全て、同じ人の事です。
このコンテンツでは、短くて言いやすいという理由で、以降は、ブッダと呼ぶことにします。

という事で、これ以降 少しの間、ブッダについて話していこうと思います。
で、一応、誤解の無いように、最初に言っておこうと思うんですが、ブッダは仏教の開祖ということもあって、宗教的な話も結構出てきます。
また、開祖で尊敬の対象となっていたせいか、伝わっている話も、かなり話が盛られている事も多く、どこまでが本当の事なのかがわかりにくくなっています。
と言うかむしろ、ブッダについての歴史を読めば読むほど、本当のことが書かれているのかどうか が不安になるレベルといっても良いかもしれないですね。

まぁ、ただ、宗教で教祖を祀り上げるというのは珍しいことではないですし、キリスト教のような大きな組織でも、ありえないような奇跡が実際に起こったと主張しているわけですし、仏教だけ特別というわけでもないんでしょうけどね。
で、前にも少し話したとは思うんですが、このコンテンツでは哲学を中心に話しているので、今回からの話についても、宗教的側面ではなく、極力、哲学的なことに焦点を当てて話していこうとは思うんですが…
初期の仏教は、哲学的な考え方が多く、宗教とは切り離せないような感じで融合してしまっている部分も多いので、宗教的な話も結構入ってくると思いますが、予め、ご了承くださいね。

という事で、先ずはブッダの人生を、簡単に振り返るところから始めてみようと思います。

まず、インドにある釈迦族という部族の王様の子供、つまり王子が、出家するところから始まります。
この王子が生まれたときの逸話としては、生まれた直後に7歩歩いて、天を指差して『天上天下唯我独尊』って言ったなんて話も有りますが、宗教の開祖の誕生秘話として盛られている可能性が高いので、この辺りの事は流します。
この王子の名前が、ゴータマ・シッダールで、後に悟りを開いてブッダと呼ばれることになります。

このゴータマ・シッダールタですが、最初は、荒行を行います。
まぁ、インドといえば、荒行ですよね。ストリートファイターシリーズに登場しているインドのダルシムも、荒行によって手足を伸ばすことを可能にしてますしね。
何故、インドで修行というと荒行になるのかというと、単純に、流行っていたからだそうです。

では何故、荒行なんてものが流行っていたのかというと、梵我一如の考え方というのが関係してくるんです。
梵我一如というのは、冒頭でも言いましたが、宇宙と個人の根本原理は同じものだとする教えで、同じものなのであれば、宇宙、つまりこの世のすべてのことを知るためには、自分を知る必要があるということで、アートマンについて掘り下げて考えていく考え方でしたよね。
このアートマンについて考えていった先に、アートマンとは、『非ず、非ず』としかいえないもの、つまり、ただ意識として世界の観測を行っているだけの存在で、外から観測できない実態が存在しない物であるというところまで考えが及んでいきましたよね。

この考え方というのが、誤解されていくことになるんです。前回と前々回でも言いましたが、言葉は不完全なものなので、難解な考え方であれば有るほど、真意は伝わりません。
では、どのように誤解されることになったのかというと、自分が今まで認識していた自分。つまり、肩書はもちろん、肉体といった体も自分自身では無いわけだから、肉体とアートマンとを分離させる為には、肉体にどんなに辛いことが有ったとしても、動じない精神が必要になると解釈したんですね。
つまり、長期間、食事を行わないとか、顔を土の中に埋めてしまうとか、肉体をつらい状態に置いたとしても、アートマンは傷つかないし、アートマンは苦しいはずがない。
荒行による苦しみを乗り越えることが出来れば、アートマンを実感することが出来るし、アートマンの存在を体験として知ることが出来れば、同一のものである宇宙の根本原理であるブラフマンも体験として理解することが出来るという感じに誤解されたんですね。

そしてこの誤解というのは、修行者にとっては、非常に受け入れやすいものだったんです。
というのも、人間というのは、何らかの基準が有ったほうが、判断がし易いものですよね。例えば、これだけ頑張ったんだから、結果が出るはずといった感じの安心感といえば良いでしょうか。
頑張ったんだから報われるはず!と、根拠なく信じれる人間は多いですし、そういったものは拠り所にしやすいので、荒行のような頑張りがいが有る修行は、一部の人にとっては実行に移しやすいんですね。
また荒行の場合、7日間断食した!とか、私は10日間断食に成功したよ!とか、数値化しやすいですし、他人とも比べやすいので、張り合いがいが有りますよね。
そんな感じで、古代のインドの修行僧の間で、大流行していたようなんです。

その流行に乗る形で、ゴータマ・シッダールタも荒行に参加します。
また荒行の他にも、ウパニシャッド哲学者のように、瞑想によって真理にたどり着こうともします。
これによって、無の境地や非想非非想処に到達する事にも成功したようです。
この2つの境地についても解釈が色々有るので、私の解釈としてしか話せないのですが、無の境地は、雑念や煩悩といった、人間が本来有しているものを無に返す境地といえば良いんでしょうかね。
非想非非想処とは、その発展形のようなもので、『無』つまり無い状態というのは、有るという状態ではない状態でしか無いわけですが、その前提である、在るとか無いとか言う物ごと、無い状態にするということといえば良いんでしょうかね。
例えば、机の上の皿の上にリンゴが乗っている状態を有るという状態とするなら、無の状態とは、その状況からリンゴを取り去った状態が、リンゴがない状態となります。
非想非非想処は、机の上に皿が乗っている状態というのが、元々存在していなかった状態といえば良いんでしょうかね。限りなく死んでいる状態といえば良いんでしょうかね。

これは、私もよく分かってない状態なので、言葉を重ねるほど誤解されると思うので、それぞれで理解してもらうしか無いんですが、まぁ、そういう状態のことです。

この、瞑想による2つの状態と、荒行を体験したゴータマ・シッダールタは、これらの修行に意味が無いことを理解し、菩提樹のもとで3日間瞑想し、悟りの境地に至ってブッダと成ったとされています。
そして、ブッダはその悟りを人に伝えたくて、昔、一緒に荒行をしていた5人の修行僧のもとに向かいます。
この5人の修行僧は、ゴータマ・シッダールタの事を、荒行が辛くて逃げ出した腑抜けと思っていた様なんですが、悟りの内容を聞いて感激し、この5人が中心となって、仏教というものを作り上げてブッダを開祖としたのが、仏教が出来るまでの大まかな流れです。

次回は、仏教の考え方などを、哲学的な視点で観ていこうと思います。

【ゲーム紹介】 KILLZONE SHADOW FALL (ps4)

今回紹介するゲームは、KILLZONE SHADOW FALL
この作品は、PS4発売時のローンチタイトルだった作品のようで、かなり昔の作品となります。
何故、今頃になっての、紹介・感想を書こうかと思ったのかというと、少し前に、PS plusのフリープレイに採用され、その際にダウンロードしたからです。


      

このゲームですが、フルプライスで発売されていますが、現在(2017/10/3)ではAmazonでも75%オフで購入できるようです。
ジャンルとしてはFPSなのですが、FPSでマルチが有るゲームは、マルチプレイの人口を確保するためにも、発売から期間が経つと値段が下がる傾向にあるようですね。

ちなみに、私はマルチプレイでは遊んでいないのですが、このゲームでは、他のゲームのようにレベルでアンロックされる武器というものがないようで、初心者も熟練者も使用武器は足並みが揃っているそうなので、後から始めるのも安心設計ですね。
逆にアンロックがないという事は、モチベーションが続かないという事にもつながりますけどね。

前置きが終わったところで、早速ゲームの紹介や、プレイした際の感想を書いていこうと思います。
私はキャンペーンモードしかプレイしていませんので、予めご了承くださいね。

このゲームですが、発売日は2013年と結構前なのですが、PS4の性能を引き出す為に作ったと言われているだけあって、映像は非常にキレイです。
特に、ヘリコプターに乗って町並みを見下ろすシーンがあるのですが、そのグラフィックは、思わず溜息が出るほどに美しい映像でした。

簡単なストーリーとしては、自分が子供の頃に、敵の兵士が突然、国境を超えて攻め込んで来るという状況になり、父親と一緒に逃げようとするも、父親は殺されてしまいます。
その際に、偶然、一緒になった自国の兵士に助けてもらい、何とか中立地帯まで逃げ込む事に成功。
その後、身寄りのない主人公は、その兵士に殺人兵器として育てられ、戦争を優位に進めるために、数々のミッションに送り出されるという始まりです。

実際にプレイしてみた感想ですが、始めは、かなり手こずりましたね。
私はSF系のFPSは初めてプレイしたので、そのジャンルではお馴染みなのかもしれませんが、このゲームは、無人ドローンを駆使して、自分の有利な状態にして進行していきます。

この操作に慣れるまでが、結構、難しかったです。
つまりは、第一ステージが一番難しかったということですね。

最初は、開けた自然がある場所に落ちた自国の船の乗組員の回収や、敵基地の放題の排除などを行うのですが、開けた森は隠れる場所が結構少なく、直ぐに周りを囲まれて死ぬというのを繰り返していました。
また、敵の端末をハッキングしなければ、警報が流されて、敵の援軍が続々と駆けつけてくるという状態になるのですが、ハッキングの仕方もあやふやなので、イマイチわからない。。
そんな感じで、とにかく最初で死にまくり、時間を浪費していました。

しかし、ドローンの利用方法が、ある程度わかる様になってくると、かなり状況は変わってきます。
ドローンで出来ることは、敵方向に移動しながらマシンガンを撃つ事と、強烈な光と電撃で敵を一定時間無効化すること。
そして、自分自身の前にシールドを張る事と、ジップラインを出す事。

ジップラインは移動手段なのですが、その他の3つがかなり強力。
というか、このドローンの性能込みで難易度が決定されているようで、これを使いこなさなければクリアーが難しい感じといえば良いでしょうか。
この操作に慣れるまでが辛かったですが、慣れてからは、比較的楽に進んでいくことが出来ました。

ドローン操作に慣れてからというものは、戦闘面では、それほど困ること無く進めることが出来たので、バランスは丁度良い感じだったのではないでしょうか。

不満点を上げるなら、ライトが無い事と、目的地が分かりにくい事でしょうか。
ライトは、このゲームでは暗い場所に潜入するというシーンが何箇所かあるのですが、その時に、画面が暗すぎて何処に行けばよいのかが分からなくなることというのが何度かありました。
こういうゲームの場合、所持品の中にライトがあって、任意で点ける点けないが選べるゲームも多いと思うのですが、このゲームでは、それが無いように思えました。
(ライトの使用方法を、私が発見できなかっただけかもしれませんが…)
暗い場面は多くはなかったので、困る場面が多いという事はなかったのですが、目的地が分かりにくいという事との相乗効果で、結構ストレスが溜まってしまいました。

その他の不満点は、ストーリーがいきなり始まるところですかね。
このゲームはシリーズらしく、このゲームも前作の続編という位置づけなのですが、前作までのストーリーを知らない私にとっては、いきなり敵が攻め込んできたという印象しかありません。
物語の最初は、右も左も分からない子供時代から始まるので、その『何も知らない子供』という立ち位置で主人公が戦士にされていくという事で、物語を知らなくても大丈夫な様には出来ているのですが、それでも、全体像が把握できない為、おつかい感が拭えません。

続きであれば、最初に前作までのダイジェスト的なものを入れてくれていれば、親切でよかったのではないかと思ったりしましたね。

とは言っても不満はその程度で、現状で2000円以下で買えるという事を考えると、結構楽しめた作品でした。
主人公は紙装甲で、何発か撃たれれば死にますが、逆にいえば、この環境で普通にクリアーできるようになれば、他のFPSでも普通にクリアーできる立ち回りができると思います。

値段が安い割にはグラフィックが素晴らしいので、FPS初心者の方は、これを購入して練習するというのも良いかもしれませんね。