だぶるばいせっぷす 新館

ホワイトカラーではないブルーカラーからの視点

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿 】第14回 言葉の限界(2)

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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youtubeでも音声を公開しています。興味の有る方は、チャンネル登録お願い致します。
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前回の放送では、言葉には限界があるということについて話してきました。
言葉の限界とは、自分の思い描いているイメージを、言葉を使って表現して、他人に伝えるには限界があるということですね。
これを、言語が違うという形でも表現しました。 言語が違うというのは、日本語と英語というように、使っている言語が違うという意味ではなく
同じ日本語同士でコミュニケーションをとっているにも関わらず、互いが通じ合わないという現象のことです。

では何故、同じ日本語通しなのに言葉が通じないのかというと、イデアの有無によるんじゃないかというところまで、前回話しました。
イデアというのは、このコンテンツの第2回3回辺りで話した、プラトンが主張した考え方ですね。
詳しくは、前の放送を聞いてもらいたいんですが、簡単に言うと、モノや概念の理想形やオリジナルというのはイデア界にしか存在せず、この世で、それらを表現しようとした場合、全てのものが模倣したものになってしまう。
更にいうなら、本物はイメージの世界であるイデア界にしか存在せず、この世にあるのは全て、偽物だという考え方です。
このイデアというのは、言い換えると『絶対的な価値観』という事になるので、イデアという価値観は最高のものが1つだけ存在する為、厳密に言うと、微妙に意味合いは異なってくるんですけれども、考え方としては似ているので
ここでは、頭のなかに有るイメージという意味合いで使っていきます。

過去の放送分を聴いてもらえばわかるのですが、このイデア論というのは、弟子のアリストテレスによって批判されます。
哲学というのは、多くの場合は既にある理論を批判することによって、新たな考え方というのが生まれる場合が多いので、主張された理論はいずれ批判されるわけですけれども、ここで注意して欲しいのは、批判と否定は違うということです。
最近の日本では、批判と否定が同一視されて、批判されることがイコール主張の否定になって、前の主張が間違っていたという受け止められ方がされがちです。
しかし、批判と否定は違うもので、批判されたからといって、その対象が間違っていて無価値なものというわけではありません。

というのも、これは、前回と今回のテーマである『言葉の限界』にもつながってくるんですが、そもそも、その本人が考えている主張を、誤解なく、完璧に理解することは出来ません。
何故なら、言葉には表現の限界があって、まず、言葉に変換した時点で、自分のイメージとはかけ離れたものになってしまうからです。
そのかけ離れたイメージを、言葉を通して相手は聞くわけですけれども、この言葉を正確に聞けるかどうかは、相手の読解力が関わってきます。
自分のイメージを空いてに伝えるためには、これほどの障害をくぐり抜けるわけですから、イメージそのものを完全に理解することは、結構、無茶な作業ともいえますよね。

その状態で批判されたとしても、批判された側は、自分のイメージが上手く伝わっていないと思うでしょうし、批判する側も、相手の主張は こう だろうという憶測で批判するわけなので、批判その物が見当違いの可能性も多いでしょう。
ですから、誤解なく、明らかな間違いというもので無い限りは、批判されたからといって、確実に間違っているともいえないわけですね。

という事で、本題に入っていきましょう。
言葉が通じないのは、イデアの有無についてと言いましたが、それを、前回 例に出した掃除の例で考えてみましょう。
前回の投稿をまだ聴いていない方は、先ずそちらから聴いてくださいね。

簡単に振り返ると、掃除の仕方を根本的に理解していない人に、『掃除をしてください。』と指示を出したとしても、床に掃除機をかけるだけで終了してしまって、きっちりと掃除を行ってくれない。
こういう人に対して、しっかりと掃除をしてもらおうと思うと、『窓を拭いてください。』『階段を吹いてください。』『トイレを掃除してください。』『ホコリを払ってください。』と全ての事に対して支持を出していかなければなりません。
でも、こうして細かい指示を一つ一つ出していくと、指示自体が膨大な量になってしまう為、言われた側は覚えられないという状態になってしまいます。

では何故、この様な現象が起こってしまうのでしょうか。
掃除を支持した際に、相手が掃除をうまくしてくれない場合というのは、大抵は、掃除を指示した側には、掃除というイデアがあって、支持を受けた側には、掃除のイデアが無いからなんです。
イデアを持つ人間が、イデアを持たない人間に対して、『このイデアの通りして』と支持したところで、イデアを持たない人間は、指示の意味がわからないので、行動を起こせないということです。

これはどういうことなのかを、順を追って考えていきましょう。
指示されている側というのは、『掃除機をかける前に、大きなゴミを拾う。』『整理整頓をする』『掃除機をかける』『拭き掃除をする』等の膨大な量の指示を一度に受ける為、それを覚えるのが大変ということになります。
また、この様な感じで具体的な内容を一つ一つ覚えて行動する場合、順序を間違えたり、忘れてやらなければならないことを抜かしてしまったりする事によって、二度手間が発生したりと、効率も落ちてしまいます。
でも指示した側は、そんな大量の指示をしている覚えはなく、指示した内容は最初から、たった1つの事で、『掃除してください。』という事だけなんです。

では何故、指示する側と、される側で、この様なギャップが生まれるのかというと、支持している側は、『既に掃除された完成形の部屋』というイデアを持っているんです。
このイデアを持つ人にとっての掃除というのは、部屋にある沢山の物を、その理想とする部屋に近づけていくだけなので、整理整頓も有るべき場所に有るべき物を配置していくだけなので、特に考える必要はありません。
また、自分の部屋の掃除の場合は、特に行為として『掃除』をしようと思わなくても、ものを使った時は使った場所に返せばよいし、疲れていてその辺に一時的に置いた場合は、気がついた時に、有るべきものを有るべきところに、自然に返します。
その為、意識的に整理整頓をすることもなく、部屋が散らかっていない状態をキープできる為、掃除という行為を意識して行う必要もありません。

また、部屋の理想形が常に頭にある人は、外出した際に、何か格好いいものや可愛いものを見つけた際も、それを買った際に置き場所が有るかどうかを、無意識に考えることが出来ます。
置き場所がない場合は、それを買うことが無い為、部屋に物が溢れるということもありませんし、どうしても欲しい場合は、既に部屋にある物のどれかを捨てる事も考えた上で、購入します。
つまり、既に掃除された完成形の部屋というイデア、理想形がある人間にとって、掃除というのはライフスタイルであって、特定の行動を指すわけではないんです。
物を使うために移動させたら、使い終わったら元の場所に返すといった、日頃から行う基本的な行動の積み重ねを無意識の内に行う事で、意識して何かを行うようなことでもないんです。

これに対して掃除の出来ない人は、頭のなかに、部屋の理想形というものが存在しないので、当然、整理整頓が生活の中に組み込まれることもありません。
その為、使ったものはその辺に捨て置きますし、服を脱いだ場合は脱ぎっぱなしになりますし、ゴミはゴミ箱に捨てずに、その辺りに置いておく事になります。
外出先で何か良いものを見つけた際は、当然、それを購入しますし、家に帰って置き場がない事に気づくと、それもまた、その辺りに捨て置くことになります。
結果として、部屋は荒れ放題になるんですが、それを掃除しろと言われたところで、どれを何処に片付ければ良いのかも分かりませんし、どれを捨てて良いのかも分かりません。
何をして良いのかわからないので、結局、整理整頓もしないまま、とりあえず掃除機をかけて『掃除は終わり!』と言い聞かせるしか無いんです。

こういう人に対して、『整理整頓は、有るべきとろこに、有るべきものを置けば良いだけでしょ。』と言ったところで、話が通じるはずがないですよね。

理解をより深める為に、もっと多くの方が体験を得ている例でも考えてみましょう。
例えば、虫に刺されるなどして、体の何処かの部分が痒くなったとします。この場合、多くの人は、特に考えることもなく、痒い部分を掻く人が多いのではないでしょうか。
そしてこの時、つまり体を掻く時に、体一つ一つの動きを意識するでしょうか。多くの人は、体の動きなどは意識しないままに、掻きたい部分を掻きたい様に掻くのではないでしょうか。
大抵の方は、体の何処がか痒いと思った際には、自然と体を動かして、目的の場所を掻くと思うのですが、そんなアナタの前に、『体が痒いんですが、どうしたら良いでしょう。』と質問してくる人が現れたとしたらどうでしょう。

あなたは、『痒い部分を掻けば良いんじゃないですか?』としか答えようがないですよね。
でもその人が、『痒い部分を掻くって、どうしたら良いんですか?』と質問してきたとしたら、どうでしょう。
『痒いところに手を持っていって、心ゆくまで掻いてください。』と答えるしか無いですよね。
でもその人が更に、『痒いところに手を持っていくって、どうしたら良いんですか?』と質問してきたとしたら?
あなたは、先ず、どの部分が痒いかを、その方に聞くところから始めなければなりません。

その人に、『何処が痒いんですか?』と質問した結果、首の後が痒いという答えが帰ってきたとしたら、次は、手を首の後に誘導しなければなりません。
どちらか一方の手を地面と水平になる位まで上げて、腕全体を少し外側に回した後、肘から先を曲げてみましょう。という感じで、手を痒い部分に誘導し、その部分に指を当ててもらって、上下左右に動かしてみてください。と、いちいち説明しないといけません。
その結果として、その質問をしてきた方が、首の後を掻くことに成功したとしましょう。
すると、その方は次に、『右足の こうの部分も痒いんですが、どうしたら良いんでしょう。』と質問してきたとします。

貴方は、『さっきと同じように、痒い部分に手を持っていって、掻けば良いんですよ。』と答え、質問者が、『さっきと一緒でいいんですね』と、手を首の後に持っていったとしたら?その間違いを訂正して、次は、足に手を持っていく方法を、一から説明しないといけません。
質問者は、貴方から色んな場所の掻き方を教えてもらった後、『痒い部分を掻くのって、物凄く覚えることが沢山あって大変ですね。』と言ってきたとしたらどう思うでしょう。
貴方はきっと、『覚えることなんて沢山無いですよ。 掻きたい部分に手を持っていって、掻けばよいだけ。覚えることは、その一つで十分ですよ。』と思うのではないでしょうか。

では何故、この様なギャップが生まれてしまうんでしょうか。
これは、体を掻くという行為を無意識レベル出来る人にとっては、呼吸をするのと同じぐらい簡単に出来ることなので、難しいことでも何でもない事なんです。
何故なら、無意識レベルで出来る人には、『体を掻く』という行為が体験として理解できていて、イメージとして確実に存在し、痒い場所が何処にあろうと、その法則に則って体を動かせば良い事を理解しているからです。
一方で、これが無意識に出来ない人、つまり、体験によって理解していない人にとっては、ケースによって、つまり、痒い場所が変わるたびに体の動かし方が変わるわけで、その動かし方を全て覚えようと思うと、ものすごい労力がかかってしまうということなんです。
確固たるイメージが無い為、法則に当てはめることも出来ず、痒い場所が変わる度に、体の動かし方を考えなければなりませんし、解らなければ教えを請わなければなりません。
ですが、ここで教えてもらえることは対処療法でしか無く、『体を掻く』という根本的なイメージではありません。
体を掻くという根本的なイメージを得るためには、体験として理解する領域にまで到達する必要が出てきます。

これは、全ての事について当てはまります。
例えば、彫刻家のミケランジェロは、彫刻は石の塊の中に完成形として既に存在し、ただ埋まっているだけなので、それを掘り出すだけで良いといったことを言っていますよね。
彫刻を彫るという事を体験として理解している人間にとっては、彫刻を制作するとは、既に完成品が存在していて、それが発泡スチロールのような物に包まれているようなイメージで、それを木の道具を使って掘り出すだけの作業なんでしょう。
完成形としての彫刻と、周りを包んでいるだけの物体には明確な違いが有るので、掘ってはいけない部分に差し掛かると体が勝手に手を緩めるし、掘っていい部分では勢い良く不純物を削る。
設計図なんてものは必要ないし、考える必要もなく、ただ、完成形として存在する石像を掘り返すだけの作業でしか無いんでしょう。

しかし、彫刻を彫るというイメージを体験として理解していない私の様な一般人には、まず、彼が何を言っているのかが理解できません。
そんな彼に教えを請うた場合は、彼は、普段意識もしないような基本的なことから話していくことになります。
まるで、体の掻き方を知らない人と同じように、『まず、手を水平まで上げてみましょうか。』といった感じで、イチから丁寧に教えてくれたとしても、それは根本的なイメージを培う為のものではなく、目の前にある1体を完成させるためだけの対処療法でしかありません。
石の形や大きさが変わってしまえば、また、イチから教えを請わなければなりません。
私が本当の意味で、ミケランジェロの発言を理解しようと思うのであれば、先ず、彼が立っている場所まで到達する必要がでてきます。

つまり、石の塊の中に完成形が見える状態を、体験として知るということですね。
この、体験として知るという共通のイメージ、つまりは、イデアを共有する事で初めて、それを前提とした共通の言語で会話が出来るということなんです。
では、言葉の伝達だけでそのレベルに達することが出来るのかというと、それは出来ないんです。
仮に、それが可能だとするなら、彫刻を掘るという技術は、ミケランジェロが書いた彫刻に関する本や言動を まとめた本を読むだけで身につくことになります。
ですが、実際に私達の生活を振り返ってみて、どうでしょう。本を読むだけで、何らかの能力が身につくことなんて、ほぼ無いですよね。
能力を身につけるためには、何らかの実践経験を積んでいって、体験として知って初めて、身につきますよね。

東洋哲学が重視するのは、この、体験として知るという事なんです。
体験としてイメージを理解したものを、言葉に変換すると、当然のように、矛盾が起こってしまいます。でも、イメージさえしっかりとしていれば、言葉による矛盾が起こる事は、特に問題はないんです。

その一方で西洋哲学は、言葉や論理による理解を重要視します。
つまり、言葉を使った論理に矛盾が有れば、その部分について批判されるということですね。
これは、ソクラテスが自身の主張である無知の知を理解してもらうために、色んな人に議論をふっかけては揚げ足を取って、『貴方は何も知らないじゃないですか』と言って回った事が影響しているんだとは思うんですけども…

でも、前回と今回で語っている通り、言葉というのは、前提となるイメージを共有していないと通じ合えない、かなり不完全なものですよね。
史上最強の哲学入門 の東洋の哲人たち という本の最後には、言葉の不完全さを説明するために、現代の哲学者の言葉が引用されていますので、その部分を読んでみたいと思います。

『生まれたときから目が見えない人に、空の青さを伝えるとき何て言えばいいんだ? こんな簡単なことさえ言葉に出来ない』
これは、本の中で現代の哲学者として紹介されている、江頭2:50さんの言葉ですが、まさに、その通りですよね。
言葉が、そこまで完全であるなら、生まれた時から目の見えない、つまり、色を知らない人にも空の青さを伝えられるはずですけれども、言葉というのは、そんなものも伝えられない道具なんですよ。

この、空の青さを真理に置き換えて、盲目の人というのを悟っていない人に置き換えれば、悟りを言葉で伝えることが如何に難しいかが理解できると思います。
この様に、真理というのは言葉では伝えられるようなものではない!としたのが、東洋哲学なんですね。
で、言葉については、今後も度々語っていくことになると思うので、今回はこの辺りにして、次回からは、仏教について触れていきたいと思います。

初対面でも積極的に大声で威嚇 『アッパー系コミュ障』とは?

今回は、アッパー系コミュ障という、私が最近になって知った言葉について書いていきます。
コミュ障というのをテーマとして取り扱うわけですが、この様な投稿をすると、『お前自身はどうなんだ?』という意見も当然予測されますので、最初に書いておくと、私自身が軽いダウナー系コミュ障を患っています。

ダウナー系というのは、意味合いとしてはアッパー系の逆で、人とコミュニケーションを取るのが面倒くさいとか、人と話す際には心臓がバクバクして冷静になれないといった、今までコミュ障として扱われていた症状のことです。
私自身は、他人と話す際に心臓がバクバクして話せないという程ではありませんが、基本的には一人行動が多いですし、興味を持たない人から話しかけられたとしても、話を打ち切ったりするような人間なので、普通ではないといっておきましょう。
まぁ、何を持って普通というのかという問題もありますけどね。

という事で、本題に入っていきましょう。
アッパー系コミュ障という単語を知ったのは、私自身が、そんな感じの人に遭遇したからです。
以降、多少愚痴っぽくなってしまいますが、その点はお許し下さい。

私は、趣味でスポーツジムに通っていて、その日も、いつもと同じように体を動かすためにジムに生きました。
フリーウエイトゾーンに行き、空いている器具を使おうとすると、後ろの方から、いきなり罵声が飛んできました。
その人の主張によると、その器具の向う側にある鏡を見ながらトレーニングしていたらしいのですが、私がその器具を使うと鏡が見えないということで、大声で威嚇してきたといった感じです。

まぁ、鏡を見ながらトレーニングをすると効果が上がるという話もありますし、その行為自体は理解できますが、フリーウエイトゾーンは、基本的に鏡張りなので、自分が少し角度を変えるだけで鏡を見ながら行うことが出来るわけです。
しかし、その人物は、その器具の向う側にある鏡を観たかったのでしょう。 いきなり大声を出して威嚇してきました。
私は、冒頭でも書きましたが、興味のない人とのコミュニケーションを嫌う為、その人から距離を取るためにも、その器具を使うのを諦めました。

すると、大声で威嚇してきた人間は、『喋れへんのか コラ!!』と言い出したので、面倒くさくなって、適当に『すいませんね』と言ってその場を離れました。
その後も、『お前はジムのマナー知らんのか!』とか色んなことを言っていましたが、私が通ってきた今までのジムのマナーでは
・一人で複数の器具を専有しないでください。
・自分が使用していない器具は、他の人が使える状態にしてください
・一人で長時間の器具の占領は止めてください
といったマナーはありましたが、空いている器具を使うのに、そのエリアの人全てに許可を取らなければならないというマナーはなかったので、当然、その人が勝手に決めたマナーなんて知るはずがありません。
でも、反論すると面倒くさいことになる為、特に反論すること無く、適当にあしらいました。

では、この大声で威嚇してきたオッサンは、ルールを厳格に守っている、しっかりとした人間なのかというと、実はそうでもありません。
この人は、腹筋をしてからベンチ台を使いたかったのか、腹筋を終えた直後に時分がスムーズにベンチを使うため、腹筋をしている間はベンチ台に荷物をおくという、使ってない器具を占領するというマナー違反を平然としている。

また、この日、偶然、そのオッサンとトレーニングが終わる時間が似たような時間になり、風呂に入って出るタイミングが重なったのですが、そのオッサンは、浴場から出た際に体を拭かず、びしょ濡れのまま更衣室に向かっていきました。
風呂エリアから出る扉には、『他のお客様の迷惑になる為、更衣室に向かう際は、体を拭いてから向かってください』という注意書きが書いてあるにも関わらずです。

つまりこのオッサンは、自分で勝手に作ったルールは他人に押し付けたいが、客同士が快適に過ごせる為に、施設が決めたルールには従わない人間なんです。
そして、気に入らないことがあると大声を出して威嚇し、他人を馬鹿にするという行動を取っているわけです。
ちなみに、このオッサンですが、私は2年程ジムに通っていますが、トレーニングの時間帯が合わないせいか、5~6回ぐらいしか観たことがないのですが、その人物を見かける度に、毎回違う誰かを大声で威嚇してました。

この時、思ったんです。『これって、コミュ障の一種なんじゃないか?』と…

この手のタイプの人間は、社会人では比較的少なくなっていきますが、中学・高校時代には、一定数存在していましたよね。
そう、不良・ヤンキーと呼ばれる類の人達です。

この人達って、『ナメられたら負け』というよく分からない価値観がある為なのか、それとも、強さを誇示するぐらいしか存在価値が見いだせないのか、基本群れて、少人数の自分よりも弱そうな人達を見つけては、大声で威嚇してますよね。
中には、奇抜なファッションをする事で、見た目でも威嚇し、自ら疎外される方向に突き進んでいます。
コミュニケーションの一発目で威嚇し、見た目で威嚇することで、周りの人間から避けられる…

これって、見方を変えれば、完全にコミュニケーション障害ですよね。
そんなわけで、早速グーグル先生に聴いてみました。

しかし私の予想に反し、『不良 コミュ障』ってな感じで検索しても、『不良はコミュニケーション能力の塊!』みたいな記事がトップに来て、不良やヤンキーはリア充として語られている場合が多い…
これは、単に私の感性がおかしいだけで、彼らの方が普通なのか?と疑問を持ちはじめた頃。一つの言葉を見つけました。

それが、『アッパー系コミュ障』
聴く耳を持たない(片方しか)
詳しくは、はてなキーワードなどに書かれているのですが、転載すると

・他人に対して無頓着・無自覚
・そのため人やものを貶すことに躊躇がない
・自分に無意識の自信を持っている
・相手が認めるまで何度も主張を繰り返す
・上記の言動による相手への不快感などの影響を想像できない
・そのため周囲が好きなものでも気にせず堂々と貶す
・他人との距離感を読まずに主張をし続ける
・声が大きい
・外野のマナーにはうるさい
・これらの症状に対する指摘に対しては非を認めない
・一方で不足の指摘自体はすることは求める、ただし聞かない
・自分本位なので相手にも自分と同じように主張することを求める
・周りと会話が噛み合っていなくとも気にせず盛り上がる
・同じアッパー系との相性は良いので集団を形成できるため、コミュ障の自覚がない

・・・ まんま、私が実体験として遭遇したオッサンや、不良・ヤンキーの特徴を捉えてますね。
そういえば、これは聴いた話なのですが、成人式などで暴れているヤンキーですが、自分達が認めた人間以外が暴れだすと、制裁を加えるという自分達ルールが存在するようです。
自分達は、いままで散々、ルールを破ってきたにも関わらず、自分達で創ったルールは徹底させ、暴力を背景に強制させるというのは、アッパー系コミュ障の特徴に見事に合致しますね。

では、この様な人たちに、万一遭遇してしまったとしたら、どうしたら良いのか。
これは、私が取った行動が正しいようで、基本的には、まず距離を取り、こちらに話しかける口実をなくした状態で、徹底的に無視をするという以外無いようです。
何故なら、この手のコミュ障は、コミュニケーションをとる手段がケンカしか無い為、言い争いなどに発展してしまうと、向こう側としてはコミュニケーションが取れていると錯覚して、嬉しい。むしろ向こうの思う壺だったりするからです。

私の近所には、この項目に当てはまる反社会勢力の方が住んでいるのですが、この様な行動を長年続けた結果、近所の人間が誰も喋らなくなり、孤独になり過ぎた結果起こした行動が、投網を持参した状態で警察署に聴き、『今から、あの川で投網をしてくるから!』と宣言。そして、近所にある投網漁禁止の川に行き投網をして警察に捕まるという行為を繰り返しています。
何故、こんなにも無意味な行動をするのかというと、自分に興味をもってくれる人間が、警察ぐらいしかいないからです。
しかし、冷静になってよくよく考えてみると、警察もその人物に興味をもっているわけではなく、犯罪予告をされてしまったら、捕まえなければならない義務が発生するから、業務の一環として行っているだけなんですけれどもね。
非常に悲しいですよね。 私なら、自殺しているかもしれません。

この様な感じで、地域のコミュニティーから完全に疎外されてしまった人間は、他人に迷惑をかける事でしか自分を認識してもらえない為、せっせと嫌がらせをするのでしょう。
その行為自体が、コミュニティーから疎外される一番の要因なんですが、そこまで考えられる頭はないですし、行動を改めたとして、コミュニティーに受け入れてもらえるには相当な時間がかかるわけですが、その時間を耐える根気も無いでしょうからね。
この投稿を読まれている方は、ネットに接続出来ているでしょうから、ネット界隈の話で例えると、Twitterで投稿した際に、FF外から来ていきなりケンカ売るといったクソリプ飛ばしてくる層が、このカテゴリーに入るんでしょう。

もっとも、ここまで極端な人は少数で、多くのヤンキーや不良と呼ばれる人達は、社会経験を摘むことで丸くなり、マイルドヤンキーの方向に向かうか、更に進んで普通の価値観を身につけるんでしょうけどね。

もし、この投稿を読んで、自身の行動に思い当たる部分があるのであれば、出来るだけ早い段階で、治すように努力したほうが良いと思います。
だって、そのまま突き進めば孤独死確定ですから。

【ゲーム紹介】 バットマン アーカムナイト

今月は、東京ゲームショウが開催されるということで、PS storeで、その記念セールが1ヶ月程にわたって開催されていました。
対象商品の多くが、50%以上の割引となっていてるセール。
このセール対象に、前から少しだけ気になっていた商品があったので、早速購入してみました。

購入したのは、『バットマン アーカムナイト スペシャルエディション』
元の値段が3600円程度だった為、セールで1800円程度の買物。映画一本分の値段で30時間とか遊べるわけですから、結構オトクな感じですよね。


      

この作品は、バットマンアーカム3部作の最終章のようで、前作からの続きとなるようです。
曖昧な書き方をしてしまったのは、私自身がシリーズをプレイするのが、この作品が初めてだからです。

という事で早速プレイ、バットマンといえば宿敵はジョーカー。
酷いことをやりまくっている割には、どこか憎めない道化師の犯罪者がライバルなわけですが、どうやらこのシリーズでは、前回までの物語でジョーカーを倒していたらしく、その火葬シーンから始まります。
その後、一応の平和を取り戻したかに見えたゴッサムシティですが、ヴィラン(悪役)の一人である、スケアクロウが起こしたテロ事件によって、大騒ぎとなります。

そして、この犯行は今回限りのものではなく、始まりの狼煙でしか無い事を知った市民たちは、ゴッサムシティから一斉に逃げ出し、街はヴィラン達によって選挙されてしまったというのが今回のお話。
オープニングの時点で一般市民が全員、街から逃げ出す為、街に残っているのは悪人のみ。
この状況は逆にいえば、バットマンがどんなに大暴れしたところで、一般市民には迷惑がかからない状態とも言えますね。

そんな街の中を自由に駆け巡り、敵を倒していくのが、今作の内容です。

冒頭でも書きましたが、私はこのシリーズは今回が初めてなのですが、前作から比べるとマップが大幅に広くなっているらしく、その移動のために、今回からはバットモービルという戦車に変形できる車が登場します。
この乗り物を駆使して、犯罪者を追い詰め、無法地帯となったゴッサムシティの治安を回復をしていく。
街には犯罪者しか残ってないので、バットモービルで轢いてしまっても大丈夫。
またこの車は、人に接触すると電気ショックを与えて吹き飛ばす為、どんなに拘束で接触しても死なずに気絶するという優れもの。

アクションの方でも、バットマンは不殺を貫いている為、殺傷能力のある銃などは持っておらず、基本的には殴って敵を倒します。
倒した敵は、後に警察が回収しているらしく、刑務所を訪れると、最初は誰もいなかった留置所に、ドンドンと人が溢れて賑やかになっていく様子が見れたりします。
こんな設定の為、アクションは好きだけど、敵を殺したくない!って方にはもってこいのゲームかもしれませんね。

その他のこのゲームの魅力としては、映画やコミックの中でしか感じることができなかったゴッサムティーが、箱庭の形で完全に再現されているところでしょうかね。
オープンワールド形式のゲームの為、基本的には何処に行くのも自由。
バットモービルで駆け巡っても良いですし、グライダーで空を飛部ことも出来たりします。

ゲームのシステムとしては、イベント戦闘やクエストをクリアーする毎に経験値が貰えて、バットマン自体がレベルアップする仕組みで、その際に貰えるポイントを振り分けることで、自身を強化していきます。
体力をアップしたり、防弾性能を上げたり、ガジェットを強化したり、バットモービルの性能を上げたりなどですね。
どのスキルを上げるのかは自由になっているので、時分の好きなようにバットマンをカスタマイズできますし、何を上げるかによって戦略も変わってきたりするので、その辺りのことを考えるのがメインの楽しみ方となっています。

実際にプレイしてみた感想としては、映画を観ているような感じで、結構楽しめましたね。
戦闘などを少し行うと、映画のようなイベントシーンが挟まるため、時分が映画の主人公になったような感覚を味わえます。

難易度的には、メインストーリーで困るという事は少なく、ちょっとした謎解きも、攻略サイトなどを観ること無くクリアーできる感じで、良いバランスだったと思います。
バトルの方も、結構失敗して死ぬことが多かったですが、メインストーリー重視でサブクエストがほぼクリアーできていない弱い状態でも、ゴリ押しでなんとかなるレベルの難易度だったので、これも良いと思いました。

ただ、このゲーム。真エンディングを見ようと思うと、途端に難易度が急上昇してしまうのが難点ですね。
このゲームですが、消防士救出や道路封鎖、武器輸送車破壊といったサブクエストがあるのですが、これらの難易度が途中から急に上がりだします。
とはいっても、スキルポイントを惜しまず振っていき、バットマンをかなり強化すれば、これらのクリアーは、まだ楽な方でしょう。

一番面倒くさいのが、リドラートロフィーの収集です。
オープンワールド系の作品でありがちなのが、マップ中に隠されているアイテムを集めろという感じのトロフィー関連。
MAPを細かいところまで一生懸命創ったスタッフからしてみれば、色んな所を観て欲しいと思うのか、様々なところにアイテムを隠して、それらを全て取るという実績が有ることは珍しくありません。
ただ、殆どのゲームの場合は、トロフィーという実績が貰えるだけで、ゲーム本編には何の影響もないことがほとんどです。

しかしこのゲームでは、このリドラートロフィーと呼ばれるものを全て集めることが、真エンディングの条件だったりします。
このトロフィー収集も、単純にアイテムを取ればよいのかといえばそうではなく、いちいちミニゲームをクリアーしていく必要が有ります。
個数は覚えていませんが、調べた所、総数で243個も有る様子。

攻略サイトを読んだところ、youtubeなどで有る場所やとり方を調べた上で、7時間以上かかったという報告まである、かなり面倒くさいものなのですが、真エンディングを観る為には必須という、結構きつい条件だったりします。
私の場合は、あまりの面倒臭さの為、youtubeで検索して動画だけ観てしまいましたが…
この辺りのバランスのとり方は、どうなんだと首を傾げたくなる感じですね。

と、最後に悪口になってしまったのですが、総評すると、1800円で購入した割には、かなり楽しめたというのが本音です。
少し前の作品ということも有り、廉価版も出てるでしょうし、その中古も出てるでしょうから、中古屋で購入すると同じような金額で入手出来るかもしれませんし、見つけたら購入してみるというのも有りだと思います。
まぁ、4000円の価値が無いというわけでもないので、新品で購入しても損をするというわけでもないと思いますが。

ただ、注意点として少し書いておくと、基本的にはキャラゲーなので、バットマンを全く知らない人にとっては、楽しめない可能性もあると思います。
全く知らない人は、Netflixなどの動画サイトで、ダークナイト3部作を観ておくと、おなじみのヴィランなども知れて、一層楽しめると思いますね。
バットマン好きの人にとっては、買いの一度だと思います。

【ゲーム紹介】 Gravity Days2

今回の投稿は、久しぶりのゲーム紹介&感想ブログです。
紹介する作品は、Gravity Days2です。


簡単にゲーム内容を書きますと、重力アクションという、ちょっと変わったアクションゲームとなっています。
大きなジャンルでいうと、一応、オープンワールドということになるんでしょうかね。

割りと大きめのマップが用意されていて、その中を自由に動き回ることが出来るんですが、普通のオープンワールドのように、歩いたり車移動をするわけではなく、重力操作によって動きます。
重力操作とは何なのかというと、一度ボタンを押すと、主人公が無重力状態となり、もう一度ボタンを押すと、画面の中心部分に向かって落下していきます。
この落下時に、Xボタンを押すと落下速度が増し、無重力ボタンを押すとその場で停止して無重力状態となります。

この独特のアクションの為か、普通のオープンワールドは平面的な箱庭が多いですが、このゲームでは縦方向に長かったり、街自体が浮遊島って感じで空に浮かんでいるという設定なので、縦方向に街が重なっていたりもします。
上下左右に広がる街を、重力操作で自由に落下して飛び回れるのが楽しいゲームとなっています。

この作品ですが、発売自体は今年(2017年)の1月で、今が9月なので結構前の作品となります。
私自身は、発売直後に購入したのですが、クリアーしたのはごく最近という事で、随分と放置していたことになりますね。

そんなに放置をしていた作品ということもあり、このブログを読まれている方は、『そんなに面白くないのでは?』と思われる方も少なからずいらっしゃるかもしれませんね。
クリアーした結果から言いますと、後から振り返ると非常に面白い作品でした。

この作品、タイトルに2とついているので、同タイトル作品の続編という形で発売されたわけですが、前作が、非常に中途半端な形で終了していたんですよね。
ですが、今回は完結編と銘打っている為、前回 放置されていた謎がやっと解明されたわけですが、そのストーリーが単純に面白かった為、結果から見ると面白いという感想になるんですけれどもね。
私は、ここ最近、余り作品を見て感情が動くという事が減ってきたわけですが、この作品のエンディングでは、久しぶりに結構、泣かされました。
その後も数日は、この作品のエンディングについて考えさせられましたし、プレイして良かったかどうかと聞かれれば、良かったと答えられる作品ですね。

では、何故、クリアーまでにこんなに時間がかかってしまったのでしょうか。
これは、やりこみ要素が凄くて、単純に時間がかかったというわけではなく、私自身の環境と、ゲームの作りの問題ですね。
私の問題としては、この2をプレイする直前に、前作の1をプレイしてクリアーしたんですよ。

というのも、私は`PS plus の会員で、毎月、フリープレイでゲームソフトを手にすることが出来るのですが、2の発売発表があった時点で、1の方がフリープレイで配信されたんですよ。
私はこのゲームを、ダウンロードだけして寝かしておいて、数カ月経ってからプレイしたので、クリアータイミングが2の発売と重なったんですね。
そして、2をプレイしたんですが…

確かに、前作から比べると進化している部分や改善している部分が非常に多く、快適にプレイ出来るようにはなっているんですが、基本的にはやることが前回と同じような感じで、プレイ体験としての新鮮さがイマイチだったんですよね。
マップは、前回のマップに加えて同程度の広さのマップが追加されている為、2倍になっているんですが、その2倍のマップで行うことが一緒。
基本的には、新しい街を見つけては、その街を飛び回って『ジェム』という経験値の代わりとなる縫製機のようなものを集めまくって、自身を強化。
その為、1と2を連続してプレイしていた私にとっては、単純作業の繰り返しで退屈に感じてしまったんですよね。

そんなわけで、最初の大きな街に到達した時点で放置をしてしまっていた為、クリアーが遅くなってしまったというわけです。

こんな感じでスタートしたゲームなのですが、先程も書いた通り、ストーリー自体はそれなりに楽しめるので、ストーリーメインでプレイをすると、結構面白いと思います。
ただ、操作性やマップの作りが良いかといえば、個人的には駄目な印象。
というか、このせいで、私は長時間放置することになってしまいました。

メインとなる重力操作なのですが、確かに、ゲームを始めた当初は面白いと思える要素でした。
しかし、ほぼ全ての移動が重力操作になる為、ゲームが中盤に差し掛かる頃には飽きが来ます。
私の場合は、1をクリアー直後に2を始めたため、重力移動に新鮮味を感じなかった為、『またか』という印象が強かったですね。

そしてマップですが、PS4専用タイトルということで、グラフィックは格段に上昇してはいますが、他のオープンワールドのように、街を散歩やドライブだけする為にゲームをしようと思えるような作りにはなっていない。
島が点在しているようなマップで、島を行き来するだけで数十秒、体感で1分ぐらいxボタンを押しっぱなしで放置のような事が頻繁に起こります。

また、移動の大半を重力移動に頼っているせいか、地上を歩いて移動する際の操作性が非常に悪い。
重力移動があるから、普通に歩くことがないから良いか!と思いきや、クエストで頻繁に重力操作を禁止される為、操作性が悪いアクションを矯正させられるとい事が頻繁に起こる。
その上、カメラワークも良いとはいえない。というのも、重力操作が移動の基本になっていて、重力操作によって方向性を失わせるような感覚を味あわせたいためか、カメラが変な動きをする。
この様な感じで、普通の操作が結構ストレスとなる。

…と、ここまで結構、悪口を書いてきたわけですが、冒頭にも書いた通り、ストーリーは良いです。
主人公の、少し抜けている性格も、終盤に近づくと愛らしくなってきますし、ラストはその性格があって始めて感動できるような内容になっています。
これは、映画などで2時間の尺で見せられたとしても、それ程、心を揺さぶられることは無いのでしょうが、長期間プレイ体験を通してキャラクターに愛着を持たせることで心を動かす様になっている為、ゲームならではという感じで良いです。

ただ、ストーリーに関しても一つ言わせてもらうと、1の続きで、感動のラストというのはオマケ要素となっていることです。
これは、1をやらずに2だけをやっている人に配慮しているからなのかもしれませんけどね。
これ以降、少しネタバレになる為、自力でラストまで行きたい人は、読まないでください。



このゲームのメインストーリーですが、エピソード1~20まで存在するのですが、1で謎の部分とされていた設定の謎を解くのは、エピソード21~26となっています。
エピソードの最後は20なの?26なの?と疑問に思われる方もいらっしゃるでしょうが、本当の最後は26なんですが、エピソード20をクリアーした時点で短めのエンドロールが流れるんです。
その後、何の説明もないまま、クリア後の世界って感じで自宅前に放り出されるんです。
そこから手順をこなしていくと、エピソード21が新たに始まるという設定。。

その為か、エピソード20までクリアーしたところで『全然、完結編じゃないじゃん!』って怒り出す人もチラホラ見かけるという始末。
しかし、26までクリアーすると、それなりに納得できるエンディングになり、今度は本気の長いエンドロールが流れるんですよね。
正直、26までクリアーした自分としては、物語を見事に完結させていて、尚且つ、感動も出来たので良かったという印象ですが、20までしかプレイしていない人にとっては、結構不満がある作りになっています。

若干、文句が多くなった感想にはなりますが、今だと中古で安めで買えると思いますし、PS storeでも頻繁にセールを行っているので、割引で購入するのであれば、結構楽しめる作品となっています。
世界観も、重力と時間何かが関係していますし、登場人物のセリフも意味深なものが多かったりと、楽しめる要素は多いですしね。
深く考えようと思えば、いくらでも深く考えられそうなところも、個人的には大好きな部分でしたしね。

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿 】第13回 言葉の限界(1)

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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youtubeでも音声を公開しています。興味の有る方は、チャンネル登録お願い致します。
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前回までの東洋哲学の放送で、ブラフマンという宇宙の根本原理や、人それぞれが持つ『私』という概念、個人の根本原理である、アートマンについて考えていきました。
そして、宇宙の根本原理と個人の根本原理が同じであることを、体験として知る事が梵我一如という考えだという事について説明してきました。

で…今回の内容なんですが、前回の最後では、仏教について考えていくといっていましたが、その前に、東洋哲学で重要視している『体験によって知る』ということについて、考えていこうと思います。
これは、結論からいってしまうと、言葉や理論というのが不完全なもので、それをもって理解しようと思っても矛盾が生じてしまうからなんです。
なので、イメージによる理解や、それを元にした直感を重んじるということになるんでしょうね。

という事で、本題に入っていきましょう。
単純に、『知る』『知っている』または、『理解する』という状態ですが、日本語で言葉として伝えると、『知る』とか『理解する』としか、言いようのないもので、こう言うしか無い状態になるわけですが
知る・理解するというのには、様々な段階が有るんですよ。
これらの段階を知るために、先ず、様々な『知る』ということについて考えていきます。

まず、知るというのは、誰にでも行うことが出来ます。というのも、知っている人に聴いたり、本やネットの記事を読むだけで、物事を知ることが出来るからなんですね。
では、これらの、聞いたり読んだりする経験によって知ることは、体験によって知る事になるのかというと、そうでは無いんです。
それは、ただ知っているだけで、体験として理解している事にはならないんです。

では、どのようなものが、体験によって知るということなんでしょうか。
少し前の放送の、東洋哲学と西洋哲学の違いという回では、体験によって知るという状態を、自転車に乗る行為に例えましたので、復習のためにもう一度、自転車に乗る例で考えてみましょう。

自転車に乗ることが出来ない人間は、最初、自転車に転ばずに乗る方法を知りません。
その状態で、自転車に乗る方法を知るためには、実際に自転車に乗ることの出来る人間に、教えて貰う必要が有ります。
そして、実際に行動を起こして聴いてみると、『自転車にのる為には、一定以上のスピードを出す必要があるから、思い切ってペダルを踏み込むことが重要だよ』と教えてくれたとします。
この状態で、教えを請うた人間は、自転車の乗り方を知ったことになります。

では、知ったからといって、その知識を得た人間は、その時点で自転車に乗れるんでしょうか。
運動神経の良い人などは乗れるかもしれませんが、多くの人は、乗ることが出来ません。
じゃぁ、なんで乗ることが出来ないのでしょうか。 乗れる人に聞いて知識は持っているはずなので、その通り実行すれば 乗れるはずですよね。
でも乗れないのは、人から聞いて知識を得た人間は、記憶として知識を得ているだけなので、他の人から『自転車に乗るコツを教えて。』と聞かれれば、先程教えてもらったことを復唱することは出来るんですが
それを体験として理解していないので、乗ることは出来ないんですよ。

例えば、この知識を持っているだけの人が、いざ自転車に乗ろうと思った場合には、様々なことを考えます。
乗れる人に教えてもらったのは、『スピード出せば安定するので、思い切って踏み込むこと』ということなんですけれども、実際に実行しようとすると、殆どの場合は出来ないんです。
何故なら、この人は、『ゆっくりの状態でもコントロールが難しいのに、スピードを出すと、操作がより難しくなるのに違いない。その上、もし転んだ場合、スピードが出た分だけ大きな怪我をするんじゃないか。 』
こんなことを考えてしまって、なかなか、実行することが出来ないんです。
結果として、実際に乗りこなすためには、それなりの練習期間が必要となります。

では、何故こんな事が起こるのでしょうか。
この練習している人物は、実際に自転車に乗れる人間に、その方法を教えて貰うことによって、自転車にのるために必要な知識は得ていますよね。
後は、これを実行すれば良いだけなんですが、実際には実行することが出来ない。
これは、教えてもらった知識を、本当の意味で理解できていないから。つまり、体験として理解できていないからなんですね。

では、この人物が本当の意味で、自転車の乗り方を理解する場合は、どうしたら良いかというと、体験として、実際に乗りこなす以外にはないんです。
実際に力強くペダルを踏み込むことで、自転車が安定することを体験を通して実感するしか、理解する道は無いんです。
逆にいえば、この体験をする前の自分というのは、教えてもらったことに対して、心の何処かで教えを信用していなかったとも、本当の意味で理解していなかったともいえますよね。

そして、ここからが、知識や理解、体験として理解するという部分の難しいところなんですが、この人物が練習によって自転車に乗れるようになったとして、自分以外の他の乗れない人から『自転車の乗り方を教えて。』と教えを請われた場合
この人は、『自転車は一定速度以上を出すと安定するから、思い切って力強く踏み込むだけだよ。』としか、答えようがないんです。

でも、このセリフというのは、自分がまだ自転車に乗るという体験ができていない状態で、乗れる人間に乗り方を教えてもらった状態の時に、つまり、乗れないけれども他人から聴いて、知識だけ知っている状態の時に、誰かに尋ねられたとしても、同じ答えが出来ますよね。
つまり、体験として理解していても、体験としては理解が出来てなくて、知識だけを知っている状態の時でも、他人から問われた時には、同じ様な答えしか発言できないということなんです。
ここに、言葉の限界というものが有るんですよね。

つまり、相手が本当に体験として理解できているのか、本当は体験としては理解できておらず、知識として知っているのかというのは、その人間を外側から見ている人間には、見分けがつかないですし
仮に見分けがついたとしても、体験したイメージを、言葉を通して理解することも伝えることも出来ないということなんです。

身近な、その他の例で考えてみると、これを聴いている皆さんの年齢がどれぐらいかは分かりませんけれども、人生のうちで、教える立場になった事がある方も多いと思います。
例えば、職場や学校の部活などで後輩が入ってきたときだとか、子供に対してものを教えるときだとか、様々なところで、教える機会というのが有ると思います。
この際に、自分が教えた内容が相手に伝わっていないという経験をした方って、結構多いんじゃないでしょうかね。

例えば、相手が明らかな間違いをしているので、次から同じ様な間違いを起こさないためにも、言って聞かせようとするとかですね。
でも、日本で育って、同じ日本語を話しているはずの人間に、日本語で注意をしているはずなのに、話が通じない場合というのが、結構有りますよね。
少しシチュエーションは違いますが、ここでいっていることは、そういうことなんです。 先程も言いましたが、これが、言葉の限界なんでしょうね。

私の経験した例で話すと、私も社会人として働いていますし、立場の関係上、指示を出さなければならないことって、結構有るんですね。
で、私が働いている業種は、閑散期と繁忙期が割とはっきりしているので、閑散期は仕事がなく、細々とした仕事と掃除ぐらいしかすることがない事も多いんです。
この閑散期は、私は、技術を必要とする細々とした仕事を片付けたりするんですが、技術が無くて、する仕事がない人には、『掃除をしておいて』と指示をだすんです。
まぁ、この時期ぐらいしか本格的な掃除というのが出来なかったりしますからね。

でも、その指示を受けた人は、やらないんですよ。 というか、本人的にはやっているつもりなんですが、実際にやってる行動は、散らかしているだけなんですね。
もう少し具体的にいうと、忙しい時期でもする掃除というものが有ります。その際の掃除というのは、作業場の床に掃除機をかけるだけなんですね。
その人に対して、『いまする仕事がないから、掃除をしておいて』というと、作業場の床に掃除機をかけるという5分ぐらいの作業だけを行って、後は、床に座って休憩をし続けるわけです。
そこで、『忙しい時期にする掃除と、暇でやることがないときにする掃除は、違いますよね。』と注意して、もう一度、『掃除をしておいて』と指示を出しても、特に行動を起こさないんですよ。

では、何故こんな事が起こるのかというと、指示を受けた人は、掃除をするという事が、どういう事かということを、本当の意味で理解できていないからなんですね。
そこで私は、『掃除とはどういうことなんですか?』と質問します。人間は、相手がどの様な考えをしているのかを知るためには、言葉によるコミュニケーションを取る以外の選択肢がないので、相手が理解できていないと思うのであれば、理解度を知るためにも、質問しなければなりませんよね。
そうすると、その従業員からは、『汚いところを綺麗にすることです。』と答えが返ってくるわけです。
この答えは正しくて、私はこう返されると、言葉で何も言い返すことが出来ないわけですよ。 というのも、掃除にそれ以上の理解は必要ないからです。汚いところを見つけて、綺麗にするだけ。それが掃除なんです。

言葉のやり取りとしては、この従業員は、私の指示も理解していますし、掃除の意味も理解しています。
なので、その支持に従ってもらわないと困るわけですけれども、掃除をしないんですよ。では何故、支持された行動を取らないのでしょうか。
答えは簡単で、その従業員は、どの状態が汚れているのか、そして、どのような状態にするのが綺麗になった状態なのかというのが、理解できていないからなんですよ。
だから、その従業員の認識としては、掃除というのは、忙しい時期でも毎日行っていた、作業場の床を掃除機がけする事とイコールになっていて、そこから先の思考というのが無いんです。
その従業員にとっては、汚い場所というのは イコール 作業場の床で、そこを5分間、掃除機をかければ、キレイな空間が出来ると思っていて、そこに疑いを持っていないんですね。

ですから、この言葉のやり取りを、それぞれの認識としてみてみると、私の主観としては、部屋全体を見渡して、整理されていないところは整理して、ゴミを見つけたら拾って、掃除機をかけて、拭き掃除をして…といった感じの事を、まとめて行ってください。
つまりは、部屋の汚いところを見つけて、掃除をしてください。と言っているわけですが、聞いている側の従業員は、部屋の汚いところは作業場の床だけで、その床は、掃除機を5分かければ完璧にきれいになると思い込んでいるんですね。
だから、部屋の汚いところを見つけて、掃除をしてください。と指示をすると、それを聴いた従業員は、作業場の床を5分掃除機がけをして、全作業は終了したとして、休憩するわけですよ。
仮に床にゴミが落ちていたとしても、そのゴミを避けるように掃除機がけをしますし、動かせる荷物が置いてある場合、それを動かして掃除機をかけることもないんです。
ただただ、床に掃除機をかけるだけで、掃除は終了なんです。

ですから… 先程も言いましたけれども、同じに日本語を使ってコミュニケーションを取っているつもりなんですが、実際には、そもそも両者が使用している言語は違うものなので、コミュニケーションはとれていなかったということなんです。
なので、私がこの従業員に掃除を行って貰う場合、全ての箇所について、どの様に作業をしないといけないかを、いちいち支持しないといけないんですね。
床を掃除する場合には、ゴミは拾って掃除機をかけて、移動出来る荷物がある場合には、それを移動させて掃除機をかける。
移動させて掃除機をかけた後は、移動させたものを元の位置に戻すというのも、言わなければなりません。これを言わないと、動かしっぱなしで余計に散らかってしまうという状態になってしまうんでね。

床の掃除が終わったら、置いてある機械のホコリを払うとか、トイレ掃除をするとか、窓を拭く…といった感じで、全てのことに対して言わなければ、やってもらえないんですね。
で、こういう風に、やるべき事を全て言葉で伝えていくと、次に、別の問題が出てくるんです。
それは、聴いている側にとって、そんなに沢山、覚えられないという問題ですね。

確かに、一つ一つを覚えていこうと思うと、膨大な量になると思います。
閑散期の大掃除なんて、やりだしたら、それこそ幾らでも やるべきところを見つけられるもので、5分で終わるようなものでも無いですよね。
それを全て言葉で伝えようと思うと、それこそ、膨大な量になってしまいます。

しかし、実際にこちらが伝えていることは、たった1つのことなんですよ。
それは、『掃除をしてください。』って事で、その意味は、『汚いところを綺麗にする』という意味でしか無いものですよね。
そして、それを聴いた相手は、しっかりと言葉として聴き、その意味を理解しているんです。にも関わらず、意思疎通が出来ないんです。
これは、先程から言っている通り、同じ日本語を話しているにも関わらず、同じ言語を話していないから、意思疎通が出来ない状態になっているわけです。
では、同じ日本語なのにもかかわらず、何故、言語が変わってしまうのかというと、『掃除をする。』という言葉を、知識として知っているか、体験として理解しているかの違いなんです。

それでは、体験として理解するというのはどういうことなのかというと、今まで勉強してきた事に置き換えると… まぁ、厳密に言うと違うんですが、プラトンイデアという考え方が近くて、それを持っているかどうかという事になるんだと思います。
つまり、掃除というイデアを持っているかどうかという事になるのではないか?ということですね。
このイデアというのは、第2回3回辺りの過去の放送で話していますので、まだ聴いておられない方は、そちらを参考にしてください。

ということで次回は、体験をイデアに置き換えて、もう少し掘り下げて、言葉というものについて考えていこうと思います。

人手不足倒産?求人増加はアベノミクスの成果なのか。

最近、人手不足倒産という言葉をよく聞くようになりました。
また、アベノミクスの大成功で求人が大幅に増えて、もう直ぐ完全雇用になっちゃう!なんて話も聞かれるように。

数字しか見てないお偉いさん方や政府の人には、世の中がそのように映っているんでしょうが、現場で働いて経済を肌で感じている私としては、この話に違和感しか感じません。
という事で今回は、人手不足について考えていきます。

個人的に・・・というか、人手不足の原因については10年以上前からいわれていたことですが、今起こっている人手不足は、単純に企業の採用担当が無能だっただけで、景気が良いわけでもアベノミクスの影響でもありませんよね。
では、10年以上前から、労働市場でどのような事が言われてきたのかという事について、振り返って考えていきましょう。

まず、日本というのは基本的には社員をクビにすることが出来ません。
クビにする為には、結構なハードルがあり、社員に余程の非がない限りは首にはなりません。
日本は、戦後の焼け野原からの復興や、生産拠点がアメリカ等から日本に移ったこともあり、高度成長期を迎えました。
その頃は、需要過多からの慢性的な人手不足だったせいもあって、終身雇用制だった為、そもそも、教育を終えた社員をクビにする必要が無かったのでしょう。
この終身雇用も美化されて語られていますが、基本的には供給不足が前提となって生まれた制度です。
供給不足の社会の場合は物が足りないわけですから、人を解雇する理由もない。また、スキルを身に着けて生産性が上がれば、それだけ利益を生み出すわけですから、会社に余裕が出てくる。
せっかく育てた社員が他社に引き抜かれたら、堪ったものではないので、それを阻止する為に給料を上げる。終身雇用制とは、当時は理にかなった制度で、経営者が人格者とかそういったものではありません。

そんな状態が続いて迎えたのが、バブル景気です。
戦後からの長い高度成長期で人口が増え、また、大家族から核家族化が進んだことによって、人々は住む為の家を建てる土地を求めました。
日本は国土面積が狭く、その上、大半が山岳地の為、平地の需要は強く、需給関係から価格は上昇し続けました。
バブル景気は、この『土地の価値が下がらない』という不動産神話を背景に起こりました。
不動産価格は上昇しまくり、不動産の買い占めの為に資金需要が大幅に増加し、貸出の為の金がなくなった銀行は、高い預金金利で一般からお金を集めました。
銀行や郵便局に預ければ、株などのリスキーな事を一切すること無く、元本保証で10年で資金が倍になる程の高金利時代。

これは、仮に、1000万円を預ければ、最初の10年で2000万になり、次の10年で4000万になり、次の10年で8000万になり、次の10年で1億6000万になる。
最初の1000万円が40年後には1億6000万になり、そこまで膨れ上がった元金は、毎年、1300万程度の利息収入が得られる状態。
つまり、20代である程度、節制した生活をして大きな金額を貯金すれば、後は収入を全額使ったとしても、退職後には金利だけで1000万円超えの生活が出来たという事。
この当時は、今ではブラックな運送業で必死に頑張ると3~4年で1000万円程度は余裕で貯まるといわれていた時代。 体力のある若い時代を数年捧げるだけで、定年後には金利だけで1000万。それに年金を加えたら、月に100万程度使える余裕がある生活が送れたわけです。

また、子供が出来たとしても、負担は殆どかからないのがこの時期。
一番カネがかかると言われている大学も、子供が一人暮らしをする為のマンションを買い与えれば、子供が大学を卒業した頃にはマンション価格が上昇していて、マンションの売却益によって大学の授業料や生活費が回収できて、上手く行けばお金が余ると言われていた時期。
何も考えずに、行き当たりばったりで生きていても何とかなったのが、高度成長期からバブルにかけての時期。

こんな状態なわけですから、当然、消費意欲も旺盛になり、お金がどうでも良い事にドンドン使われた。
思いつきの事業でも失敗するほうが難しかったでしょうし、経営能力ゼロの馬鹿でも、それなりに事業をやっていけたのがバブル時代。
作ったものは作っただけ売れるので、企業は大量の人を欲しがり、人材獲得合戦へと突入しました。

今では、エントリーシートだけで何十社も送り、面接までこぎつけるのも一苦労…なんて言われている就職戦線ですが、バブル期の就職というのは非常に楽。
まず、会社はいくらでも人を確保したいと思っているので、超が付く程の売り手市場。その為、面接に行くだけで交通費が1万貰えたそうです。
面接を受けに行けば、その場で合格が貰えるのですが、せっかく確保した人材が他の企業に取られると困る為、企業が考え出したのが、内定者の拉致。

拉致といっても非合法なものではなく、グアムなどのリゾート地に、研修という名目で就活期間が終わるまで遊んでもらうというもの。
リゾートから返ってきたら、就職活動期間は終了していて、就職先も決定しているというわけです。

正に、人生、イージーモード。

しかし、こんな馬鹿な時期がそうそう長く続くはずはありません。
バブルは崩壊し、状況は一変してしまいます。
作ったものは売れず、物が余るようになり、企業は在庫の処分や生産設備の活用の為に、商品を安売りせざるを得ません。
バブルによって、本来の価値以上の金額が付けられていた土地価格は一本調子で下落している為、不動産関連の資金需要も無くなった上、今まで貸していた不動産向け貸付が焦げ付き始めて不良債権化し始めます。

資金需要がなくなった上、銀行の自己資本が傷つき始めた為、銀行は一般からの預入を減らそうと、預かり金利を引き下げ始めました。
これによって、退職後の金利生活を夢見ていた人の夢は脆くも崩れ去り、消費は更に落ち込む事になります。

この様な状態になると、企業はバブル期に何も考えずに大量に採用してしまった、不必要な人材を必要以上に大量に抱えることになります。
そしてその人材は、高度成長期から続く終身雇用制によって、気軽に解雇することが出来ない。
既に雇った人間の首を切れないのであれば、企業が社員数の帳尻を合わせる方法は一つしかありません。

それは、新規雇用者数を減らすという方法です。
バブル期に抱えてしまった人材は、定年まで辞めさせる事が出来ないので、新人を取らないことで人件費を抑えようとしたんです。
この行動によって生まれたのが、就職氷河期です。
約10年以上にわたって雇い止めが行われた結果、企業内の年齢層に空洞部分が生まれてしまいました。

そして、ここ最近になり、バブル時代に大量採用した人間が、一気に定年になり始めました。
こうなると、企業は当然のようにに人材不足となります。
その足りない人数を、また、企業間で奪い合っているのが現状です。

つまり、アベノミクスは全く関係がなく、単純に大手企業の採用担当が無能なので起こっている現象というわけです。
仮に、アベノミクスが成功し、経済が発展したことによって人材募集が活発になっているのであれば、人件費は上昇していなくては辻褄がありません。
しかし、起業の募集をみると、人材が足りないと言われている業界でも、正社員で年収200万以下の求人なんてザラ。
フルタイムで働いて貧困層になってしまうような求人で、『経済成長のお陰!アベノミクス様々!!』なんて言われても、説得力が全く無いんですけどね。

ちなみにこんな事は、就職氷河期に突入した序盤から言われていたことです。バブル世代の大量退職時に人が足りなくなるなんてことはね。
にも関わらず、今になって焦って求人。 しかも給料は払わない。 こんなので人が集まるわけがありませんよね。

この現状を何とかする為に、国は動くことになります。
その方法とは、年金支給開始年齢の引き上げと、定年年齢の引き上げ。この策により、企業は5年の猶予が得られ、国は年金支給額を抑えられる可能性が出てきました。
正にwin win ですが、庶民の私達にとっては、とばっちりも良いところですよね。

今の人手不足は、基本、こんな流れで起こっているので、潰れたくないんなら、内部留保貯めずに人件費に当てて、就職氷河期時代に冷遇した人達に土下座して頼めば良いだけなんですが、それすらしたくないのであれば、、勝手に潰れろというのが個人的な意見だったりします。

観光立国とは何なんだろうか

先日のことですが、夜の経済ニューースを見ていると、国は訪日客を1.8倍にする計画が有るらしく、観光シーズン以外でも集客が出来るように、世界各地で行われている世界レベルの様々な会議を誘致する事に力を入れていると行った報道がされていました。
その中でも、特に注目を集めているのが京都で、観光都市としては上位なのにも関わらず、会議の開催が東京の半分以下ということで、より積極的に頑張っていくそうです。

では何故、様々な誘致活動を行ってまで、訪日外国人の数を1.8倍にまで増やしたいのでしょうか。
その理由としては、訪日外国人の消費額が多いことがあげられるそうです。
日本人が国内旅行をするよりも、外国人が日本に着たほうが、一日に消費する金額が高い。
どうせ客を相手にするのなら、単価の高い外国人を受け入れた方が効率が良いということのようです。

しかし私は、ここで一つの疑問が湧いてきます。
訪日外国人が増えて、本当に日本は盛り上がってるの?って事です。

というのも、私が住んでいる場所は京都です。
京都といえば、観光したい都市の世界ランキング上位に入る程の人気都市で、当然、街も観光産業に携わっている人が多くいるわけです。
そんな私も、観光産業に携わっているのですが、訪日外国人の割合が増えれば増えるほど、売上は下がっていますし、当然、収入も下がっているんですよね。

私は趣味で、週末に繁華街を訪れて呑みに行くこともあるのですが、そこで店主の話を聴いても、良い話は殆ど聞かない。
爆買いが話題になったときなどは、京都の有名な繁華街の木屋町通では、『店に入ったら、最低、一人1品は注文してください(TT)』といった感じの張り紙まで貼られるしまつ。

その他には、お土産物屋はドンドン潰れていってますし、取り扱う商品の量も減ってきている。
京都の大手お土産物メーカーは、毎年100億の売上があったのに、去年はそれが半減したという話も聴きました。
京都といえば八つ橋ですが、八ツ橋の売上も、今年だけで3割ぐらいは下がっていますし、その他のお土産物の定番として昔からあった五色豆は、今年、大手メーカーが廃業しました。

国のお偉いさん方は、何らかのデータに基づいて、外国人観光客を呼び込んでいるんでしょうが、実際に住んでいる立場の人間からすれば、外国人観光旅行者が訪れたところで、全く恩恵がない状態。
では何故、こんなにも、国と現場で感じている事に差があるんでしょうか。

という事で、外国人観光旅行者の消費について調べてみると、一つの表が出てきました。
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この表は、外国人観光旅行者が、どの分野に消費を行っているかを表したものですが、これを見て納得。
訪日外国人の支出傾向を観ると、全体的にほぼ全ての国の人が、支出額を減らしていることが分かります。
伸びているのはロシアとオーストラリアだけで、伸び率の大きいオーストラリアに焦点をあわせて見てみましょう。

一回あたりの旅行の総支出は、平均で24万円程度で平均宿泊日数が13泊。
この24万円の内、宿泊費に10万円使っていて、これを宿泊日数の13日で割ると、1泊当たり7700円ぐらいとなります。
そして交通費が4万円なので、合計で14万円。 この2つで、全体支出の6割となります。

飲食代は5万円なので、これを13日で割ると、一日あたり3846円。
オーストラリアの観光客といえば、長野や北海道にスキーにやって来るイメージが強いですが、シーズン時期の1泊7700円の宿で、2食出るとは思えないので、素泊まりと考えた場合、観光地で3食 外食して4000円未満というのは、結構、節約しているようにも思えます。
こうしてみると、外国人観光旅行客の1回の訪問あたりの支出が多いのは、比較的長期間滞在するから、宿泊代が跳ね上がる(1泊あたりの宿泊費は安い)、欧米からの訪問者の場合、頻繁に来れないから、一回の訪問で色々訪れようと、福岡・京都・大阪・東京など移動しまくるため、電車代で結構使うというのが主な理由ということが分かります。
全体を通して交通費が3~6万の間で推移しているのは、外国人限定の新幹線乗り放題サービスが関係しているのでしょう。
JAPAN RAIL PASSとは? | ジャパン・レール・パス | JAPAN RAIL PASS
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ちなみにこれは、支出が伸びているオーストラリアの例なので、支出がマイナスの国の場合は、もう少し渋いことになります。
一日あたりの宿泊費は5000円前後まで抑えられ、娯楽・サービス費用は半分から4分の一にまで下がります。
娯楽・サービス費用が下がるのは当然でしょう。先程も書きましたが、オーストラリア旅行客の多くは、冬に長野や北海道に行って、スキー・スノボなどのウィンタースポーツを行うために来日する場合が多い。
その一方、単純に観光で来る場合は、料金の発生する施設にはいかず、ただ散策して眺めて終りとなるわけですから、基本的にはお金は使わない。
全体の平均宿泊日数が10日で、娯楽・サービス費用が4725円という事は、1日あたりの娯楽費は500円以下ということで、本当に消費が行われていないことが分かります。

これを見て、納得。
京都というのは、観光スポットが離れている割には、電車がつながって無くて、観光しにくい土地だったりします。
その為、国内の修学旅行客などは、生徒を4人一組に分けてタクシーを1日チャーターして、ドライバーにガイド役をさせて観光名所を回ってもらったりするんですが、外国人観光旅行客はというと、基本的に移動は歩きかバスかレンタサイクル。長距離移動は新幹線の乗り放題サービスを利用。
極力金を使わない移動手段を選び、伏見稲荷大社など、拝観料の必要が無い観光地に行く。
風貌も、大きなリュックを背負ったバックパッカーみたいな人達ばかりで、富裕層が観光旅行に来ているという雰囲気が全く無い。

また、夜、BARに呑みに行っても、カップルで来て酒を頼むのは男性一人で、それを2人でまわし飲み。
その上、チェック後、チャージ料や消費税にイチャモンを付けて怒り出す客も一定割合でいる。(主に欧米系が多く、アジア人はそもそもBARで余り見ない)その中には、一人で切り盛りしているバーテンを2時間占領して散々接客をさせた上、『他の店に行くから案内しろ』という客も見たことが有ります。
文句が多い上に客単価が非常に少なく、その上、手間がかかる為、正直、来ないで欲しいと漏らす人も結構いたり。


では、買い物代はどうなのかというと、買い物に関しては、欧米などよりも東・東南アジア圏の人達の支出が目立つことが分かります。
中でも突出しているのが中国で、一回の旅行で12万円も買い物をしてくれていますし、台湾や韓国も、宿泊日数の割には買い物をしてくれていることが分かります。

ただ、この近隣の国の買い物というのも、そのまま鵜呑みに出来なかったりもするんですよね。
というのも、iPhoneの新作が発表された時に、中国人が物凄い行列を作り、一人で何台も購入したなんてニュースがありましたよね。
こんな感じで、近隣国の買い物というのは、転売ヤー仕入れも混じっている為、完全に鵜呑みにも出来ないんですよね。

ここで、『売れているんだから問題ないだろう!』という反論もあるんですが、この転売ヤー仕入れによる売上増加は、アッという間に無くなる可能性もあるから、信用出来ないんです。
というのも、近隣国からの訪日客の支出が軒並み大きなマイナスを記録しているのは、単純に転売ヤーが減ったからとも考えられるからです。
転売ヤーというのは、普通の人が買いにくい人気の高い商品を、いち早く仕入れることによって、利益を得ることが出来ます。
例えば、iPhoneが、中国でもネット経由で定価で買うことが出来るようになれば、わざわざ日本まで出かけてきて行列に並んで購入する人がいるでしょうか。

IT革命以降、情報技術はドンドン進んできているので、これを利用した様々な販売方法によって、転売ヤーを通さずに直接、企業が客に届けられるようになってきています。
つまり、アジア圏の買物代というのは、今後、大幅に下る可能性があるということ。

こんな感じで見てみると、『観光立国を目指す!』と言っている割には、観光地で働く人たちにお金が落ちていないことが分かります。
光都市と呼ばれる京都でこんなんだから、全国で見ると、観光産業はもっと酷い状況になってるんだと思います。
簡単に言うと今の日本は、治安が良くて安全で、カネを使わなくても観光できる、バックパッカーにとって良い国という感じになっているんでしょうね。
バックパッカー御用達の国といえば、観光客からボッタクるなんて事をして、他の国は潤っているのかもしれませんが、日本の場合は、それらの国に比べて元の物価が高いので、そんな事もしにくい。
その上、『お・も・て・な・し』で料金が発生しないことにも丁寧な対応を求められるわけで…

私の主観では、ドンドン疲弊していっているようにも見えます。
日本はこのまま観光立国を目指したほうが良いのか、真剣に考える必要があると思いますね。

理系人口が増えないのは何故なのか

ここ最近、『日本で理系が育たない。』という話をよく聞きます。
はじめに聞いたのが何年前だったのかは忘れたしたが、結構前から、この様なことは言われていたような気がします。
にも関わらず、何故、これが改善できないんでしょうか。原因は、何なんでしょうか。
ということで今回は、これらの事について考えていきます。

原因は非常に簡単で、理系は労力の割に儲からないからなんでしょう。
『原因は金だけ?』と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、資本主義社会では、金は評価の全てです。
必要とされるから、評価されるから、資本主義社会では金が得られるのです。

逆にいえば、金が貰えないということは、評価もされていないし、必要とされていないという事。
必要とされていない分野に積極的に行こうと思うのは、余程、その分野が好きな人だけでしょう。
資本主義社会では、特定分野の人口を絶対値として増やしたいのであれば、儲かる環境を作るしかありません。
しかし、日本では何だかんだで、それが出来ていない。それが、理系離れが解消できない唯一の原因でしょう。

これを聴いて、『科学者も、それなりに給料がもらえるんじゃないの?』と思われる方もいらっしゃるかもしれません。
確かに、現在は低所得者層が増えているので、大きな会社の科学者・研究者はそれなりに給料をもらっていると感じる方も多いかもしれません。
文系と理系で平均年収を比べると、理系のほうが高いというデータも多く有るので、平均値で観ると、理系は評価されていることになります。
しかし誤解の無いように書いておくと、ここでいう評価が低いというのは、平均年収とかそういうものではありません。

また、数字において平均値ほど信用できないものはありません。
例えば、年収100万円の人間が100人いたとします。その中に、年収1億人の人間を1人放り込めばどうなるでしょう。
101人の平均年収は、たった一人の富裕層によって、約2倍に引き上げられる事になります。
逆も同じで、極度の貧困層が一定割合存在すると、平均値は大幅に引き下げられることになります。

もう少し具体的に書いてみると、文系の給料は平均値は理系よりも低いが、桁外れの高所得者層がそれなりにいる。
ただ、その一方で、貧困層もそれ以上に多く、結果として平均値では文系の方が低い値になっている。
その一方で理系というのは、技術職的な側面が有る為、何も特技を持たない人間よりも、基本的には給料は高いんですが、桁外れの高所得者層は少なく、その一方で貧困層も少ない。
つまり、平均値の人が多い。

苦労した上で平均値よりも少し上ぐらいの給料をもらって、平穏に暮らしたいと思っている人は、理系の道を選ぶのが良いのかもしれません。
ですが、出世して平均値を大きく超える給料をもらいたいと思うのであれば、文系一択になってしまうのが、今の日本なんでしょう。

簡単にいえば、文系は上手く行けば、楽して一攫千金のチャンスが有るが、理系は苦労して平均所得より少し上という事。
もっと噛み砕いていえば、文系は夢が有るが、理系に夢は望めないということでしょうか。

これは、実際に世の中に出回っている商品を見てもわかりますよね。
例えば、ペットボトルに入った水素水を堂々と販売するなんて事は、理系には無理でしょう。
そもそも水素を口から取ったところで、ゲップやオナラで出てくだけですし、水素分子は小さいので、ペットボトルでは閉じ込められず、出ていくそうです。
つまり、科学的根拠はなんにもないわけですが、それで結構なお金が動いたりします。

水関連でいれば、水に『綺麗だよ』なんて言葉を投げかけると、水の分子がきれいになって、それを飲むと健康に良いなんて話もありましたよね。
それを鵜呑みにした教育環境の人が、その話を道徳の時間に教えたり、『綺麗だよ』と投げかけて出来た水で牛を育てる酪農家なんてもの登場しましたが、そんな事が理系の人に出来るでしょうか。
先ず無理でしょう。まともな神経を持った理系の人は、そんな非科学的なことを堂々と発言することは、恥ずかし過ぎて出来ないでしょう。

こういったことが出来るのは、科学的な知識がないからこそ、それを無視して背景にストーリーを作ることが出来る、文系の人だけでしょう。

その一方で理系はというと、中村さんという方が苦労して青色発光ダイオードを作ったら、『会社の金と設備を使って作ったんだから、会社のもんだよね。』と作ったものを取り上げてしまう。
その日亜化学工業という会社の行為にあまりにムカついて、日亜をやめてアメリカの別会社に再就職したら、日亜がアメリカの再就職先の会社に嫌がらせをしてくるしまつ。
その嫌がらせに耐えきれなくなった中村さんは、とうとう裁判を起こすという事態にまでなってしまった。
しかし日本のメディアは、日亜の嫌がらせ部分には触れず、『発明が成功した途端、今まで支えてくれていた会社をやめてアメリカに!』って感じの報道しかしない。
中村修二 ‐ 通信用語の基礎知識

青色発光ダイオードなんて世紀の大発明をした人ですらこんな扱いをされるわけですから、他の無名な科学者なんで、本当に飼い殺し状態なんでしょう。
その一方で文系は、先程も書いた通り、科学理論なんて無視して、聞こえの良いストーリーやベースさえ作ってしまえば、一攫千金が可能です。

この前も、ほぼ日手帳が上場しましたよね。
科学者が、試行錯誤をしながら理論や実験を繰り返す一方で、手帳のレイアウトで上場まで出来てしまうのが文系の凄いところです。
手帳が大ヒットして売れるだけでも濡れ手に粟状態なのに、創業者は株式上場に伴う株の売却益でも、ものすごい額を手にしたことでしょう。

本来、上場というのは、資金が必要な企業が株主を公募することによって返済不要の資金を得て、それを設備投資などに使って、更に成長するというのが目的で行われます。
キャッチコピーや手帳のレイアウトなんて、基本的には大掛かりな設備投資は必要ないので、上場目的は、株式売却による上場益以外はない。つまり、上場ゴールなんですが、創業者の方は、ここでも独自のストーリーを展開して、周りを納得させていましたよね。
そのストーリーは、自分がいなくなったとしても、会社が残るようにだそうです。 別に、上場しなくても会社は残りますよね。
でも、こんなストーリーを作って誤魔化すことが出来るのが、文系の強みです。

ただのバッグも、ストーリーを付けて、有名なロゴを付けるだけで、5万のものが150万になる。
LSDをキメながら、上から絵の具を垂らしただけの作品も、ストーリー次第で150億で売れる。
これらの文系の可能性を考えたら、今の社会で理系を選ぼうとは思えません。
だって、理系で同じぐらいの注目を浴びようと思ったら、ノーベル賞が必要ですから。。

ノーベル賞を取ることに比べたら、一つのストーリーで一発当てる方が、確立は遥かに高いでしょう。
本当に理系を増やしたいと思うのであれば、単純に助成金を出すといった短絡的なものではなく、理系が認められやすいように社会構造から変革させていく必要があると思うんですけどね。

政府主導の情報銀行は うまくいくのだろうか

少し前ぐらいから、情報銀行という言葉を聞くようになりました。
情報銀行とは何なのかというと、物凄く簡単にいえば、今、氾濫している情報をまとめて、それを企業に有効活用して貰うことによって、経済活動をより活発にしよう!といった感じの高層です。
国が主導して積極的に行っていくようです。

ビッグデータの活用といえば聞こえは良いんですが、私個人の意見としては、今更感が非常に強い印象しか受けません。
というか、新たな天下り先を作っただけとしか思えないんですよね。
私のブログでは、あまり政府を褒めるといった記事は書いていないので、また文句かと思われるかもしれませんが、過去に作った政府主導の組織を見てみると、文句も言いたくなりますよ

例えば、クールジャパン戦略の一環として立ち上がった、アニメ制作とかね。
wedge.ismedia.jp

日本を元気にするコンテンツ総合戦略60億円の負の遺産:ALL NIPPON ENERTAIMENT WORKS4年間の杜撰な経営実態と公的資金投資評価hiromasudanet.wordpress.com

この例でいえば、政府主導で世界に通用する日本のアニメ作品を作ろう!と60億円程の資金を投じた結果、今だに一本も発表されていないという状態だったりします。
私はアニメ業界に詳しいわけではないですが、地上波テレビなどで放送される30分枠のアニメ(実質20分の動画)を制作するのに、1話あたり1300万程度という話を聴いたことが有ります。
1クールが13話程度なので、動画の時間としては260分で1億6900万円。

映画の場合は放映時間は120分程度が多いですが、クオリティーが勝っている部分が多いので、予算は地上波アニメよりは掛かるようですが、それでも10億円以下というのが主流のよう。
あのジブリが傾いて経営危機になったと言われている『かぐや姫の物語』でも、かかった費用は50億のようですが、公務員が行ったクールジャパン戦略では、それ以上の予算を使って、未だ1本も公開されていない。

というか、そもそもが日本のコンテンツを世界に売り出そうという趣旨で組織されたのに、何故、ハリウッドに制作を投げるのかも意味不明。
こんなことなら、日本に有るアニメ製作会社20社程に、3億円ずつ配って『好きなアニメ作って!』って言ったほうがマシだったんじゃないかとすら思えます。

公務員が行う事業なんて、こんなものなので、組織は作るだけ無駄。
その上、その組織が損失を出した場合の原資が税金だというもの腹立たしい。
まぁ、損失を出したところで、担当者が借金を背負ったり、株主から責められるなんてことが無い立場なんで、こんな環境で上手くいくと考えるほうが、どうかしているのかもしれませんが。
優秀な公務員というのは、少ないコストで高いパフォーマンスを出すことではなくて、思いつきの案で大量の予算を確保出来ることですからね。

と、余談が長くなってしまいましたが、とりあえず言いたいことは、国が絡むと余計にややこしくなる上に、効率が悪そうとい事。
税金関係でもなんでもそうですが、国が作る仕組みや書類というのは、基本的には利用する人間のことは考えていない作りとなっています。
ユーザービリティが低いというのでしょうかね。

そんな国の作る仕組みだから、今回の銀行も、非常に面倒くさそうな感じなんじゃないか感が凄い。
って事で、軽く調べてみることにしました。
www.sankeibiz.jp

今、考えられている仕組みとしては、先ず、個人が『情報銀行』にアカウントを作り、そのアカウントに個人情報を入力していくらしい。

…まず、この時点で普及する見込みがなさそうな感じ。
情報銀行では、情報を集めた上で、企業に優良でそれを貸し出し、その利益の一部を個人にも還元する仕組みを想定しているそうなんですが…
物凄く面倒くさそう。

先ず、アカウントを作るのが面倒くさいし、現金を受け取るのであれば、そのアカウントに口座やクレジットカード情報を打ち込まないといけない。
そして、睡眠時間や歩いたルートなどなど、様々な情報を打ち込むか、専用アプリをダウンロードした上で、アプリ同士の連携をさせなければならない。
こんな面倒くさいことをして、一体いくらぐらいのリターンが返ってくるのだろうか?

これと全く同じような事をしている民間企業のCCCを例に、考えてみましょう。
『CCC』なんて、聴いたこと無いよ?と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、『Tポイントカード』を発行しているTSUTAYAの母体です。

このTカードですが、普通の小売店が顧客囲い込みの為に発行しているポイントカードとは、根本的に違います。
普通のポイントカードと混同している方などは、『同業他社のようなライバル企業も導入しているし、囲い込みにならないよね?』なんて発言をされる方もいらっしゃいますが、Tカートの本当の狙いは囲い込みではなく、情報収集です。
簡単にいえば、買い物履歴を全て記録し、そのデータをCCC本社に溜め込む事が目的なんです。

では、CCCの情報収集に、何故多くの企業が協力をするのかというと、CCCが溜め込んだ大量のデータというのは、加盟店であれば有料でレンタル出来るからです。
これにより、大手企業は情報収集の手間が大幅に省けるだけでなく、同じ様に加盟している他社の販売履歴も閲覧ができるようになる為、戦略上、非常に優位に立てるということです。
例えば、映画館に行っている客の20%が、その後、ファミレスで食事をしたというデータが有ったとします。
この場合、ファミレスが独自でポイントカードを発行して顧客データを集めた場合は、自分の店舗と映画館の売上の相関関係が分かりません。
しかし、Tカードに加盟して相関関係が分かった場合、映画の半券を持ってくると、ドリンクバーを無料にしますよというキャンペーンを行うことで、映画館帰りの客をピンポイントで狙い撃ちすることが出来、映画館帰りの客の比率を20%だったものを40%に増やせるかもしれません。

こんな感じで、他業種の消費動向も含んだ戦略が立てることが出来る為、効率的だということでTカードを導入しているんです。
では、Tカードの消費者への還元率はどれぐらいなのかというと、200円の消費で1円程度。つまり、0.5%しか還元されていません。
私は、還元率の低さが馬鹿らしくてTカードは持っていませんが、民間企業が経営として個人に支払う情報利用料は0.5%だということです。
提携先サービス早見表 | Tサイト[Tポイント/Tカード]

では、情報銀行はどれぐらい貰えるのでしょうか。
これは、まだ始まってないので何ともいえませんが、データ販売量がCCCと同じ場合、1年間せっせと情報を打ち込んだとしても、年間で1000円も貰えないような気がします。
と言うかそもそも、消費に結びつくような分野では、既にCCCやAmazongoogleなどがビックデータ市場を押さえ込んでいるので、今更どの分野で情報を集めるんでしょうか。

ビッグデータというのは、それなりの人数とデータが揃わないと、そもそも意味を成さないものです。
それなりの人数からデータを集めようと思う場合、誰でも簡単に使えて、尚且つ、個人のリターンが大きい仕組みを作らなければ、個人は情報を提供しようとすらしないでしょう。
仮に、提供しても良いと言ってくれる人がいたとしてお、入口部分で面倒くさければ、手続きを行うこと無く、それで終了です。

国は余計な組織を作ろうなんてせず、民間を効率的に動かすための法整備だけに特化したほうが、良いと思うんですけどね。
そういえば国は何年も昔に、『病院ごとに診察券を作らず、1枚の診察券に統合しよう! カルテも電子カルテ化することで、効率が上がるぞ!』なんて事を言ってましたね。
ある病院で検査をして、設備的に手術が無理だから、別の病院を紹介されたら、そこでも同じ検査をされるというのが頻繁に起こっているので、診察券を統合して、電子カルテで情報も共有すれば、無駄がなくなって医療費削減にもなるといった感じで。

それって、まだ実現してませんよね。
今でも、薬局に行くと『お薬手帳』を作られて、印刷されたシールを自分で貼らなければならないし、病院に行く度に、手帳を持参しなければならないので荷物が増えている状態なんですけど…
医療業界という一つの業種内での情報の集積が出来てないのに、何故、分野を跨いで出来ると思ったんでしょうかね。

まぁ、情報銀行なるものが出来る前から文句ばっかり言っていても仕方のないことなのかもしれないですし、2018年中には出来るそうなので、私の予想に反して、この銀行によって世の中がより暮らしやすくなってくれれば良いんですけどね。

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿 】第12回 東洋哲学(4) アートマン

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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前回は、『私』というものや、『意識』と言うものについて、私の考えを踏まえた形で話していきました。
意識は何故宿るのか、そもそも本当に存在するのかというのは、主観的な問題で、明確な答えや証明などは出来ない為、知識として理解することは難しいと思います。
東洋哲学では、知識として得ることではなく、体験として得ることが大事だと前に話しましたが、主観的な問題だからこそ、体験でしか理解できないとしたのかもしれませんね。

では、東洋哲学の基礎となったインド哲学では、どの様な解釈がされていたのでしょうか。

前回までに話してきて、『私』という意識ですが、インド哲学ではアートマンと呼んでいます。
インド哲学では、この、アートマンと、宇宙の根本原理であるブラフマンが同じという梵我一如という思想が生まれるわけですが、この梵我一如という考えが、何故、重要なのかというと
個人の根本原理と宇宙の根本原理が同じであるという事を、体験によって理解できた人間は、あらゆる苦悩から開放されて、究極の心理に到達できるとされていたからです。
『あらゆる苦悩から開放されて』という言い回しに、宗教臭さを感じる方も多いとは思いますが、ベースになっているのがバラモン教という宗教なので、その辺りは、仕方のないこととして、心のなかで線引して置いてください。

前回は、私の考えも踏まえて、意識とは何なのかということを考えてきましたけれども、では、インド哲学においての『私』アートマンとは何なのかというと、『非ず 非ず』としか表現できないものとされています。
この『非ず』というのは、簡単に説明すると、『そうじゃない』ということです。更にいうなら、『認識できないもの』という意味です。
『認識するもの』を『認識すること』は出来ないということです。

例えば、何の前提条件も付けずに、普通に、『私』とは何ですか?と訪ねた場合、多くの人が自分自身を指差して、『これが私』と答えそうですよね。
でも、その指差した私というのは、自分自身の体を観察したり、鏡に体を投影させることで認識が可能ですよね。『非ず・非ず』というのは『そうじゃない』としか言いようが無いって言ってるわけです。
自分の体は私なのかというと、『そうじゃない』というしかないし、鏡に写った自分は私かというと、『そうじゃない』としかいえないという事。
簡単に認識可能なものは、アートマンではなく、アートマンとはそもそも認識できず、捉えることが出来ず、故に壊れることもないものだと言ってるんですね。

では、イメージの世界ではどうなのでしょうか。
私たちは、イメージによって、認識している自分を認識することが出来ますよね。
例えば、目の前にコップがあったとして、それを目で見て認識している自分というのをイメージの世界で作り出すことによって、認識することが可能ですよね。

有名な野球選手にイチローという選手がいますが、その方は、最高の自分を作り出すために
『自分の斜め上にはもう一人自分がいて、その目で自分がしっかりと地に足がついているかどうか、ちゃんと見ていなければならない。』と言ったそうですが、この様に、自分をイメージによって客観視する事は可能ですよね。
では、それがアートマンなのかというと、それはアートマンではないんです。

先程の、イメージによって自分自身を観察する客観視ですが、これを行った際に、自分の主体はどの立場になるでしょうか。
例えば、コップを見つめる自分を客観視した場合、主体となる自分は、コップを観ている自分なのでしょうか。それとも、コップを観ている自分を客観視している自分なのでしょうか。
客観視のイメージを行った場合、自分の主体は、客観視をしている方に移ってしまい、コップを観ている自分というのは観察対象であって、自分自身ではないですよね。
となると、『私』という認識しているもの『そのもの』を観察することは出来ないことになります。
つまり、客観視によって観察されている自分というのはアートマンではないという事です。

これは、何回繰り返しても同じです。コップを観ている自分を客観視している自分を、更に客観視したところで、最終的な意識であるアートマンを認識することは出来ません。
認識するものを認識しようとして、無限に近いほどに客観視を繰り返したところで、認識するものは一番最後に俯瞰したところから認識するわけですから、その認識するものを認識することは出来ないということです。
その、『認識するもの』がアートマンとしています。
そして、アートマンについては、『非ず。非ず。』としか表現することが出来ないものとしています。

ここら辺りからの解釈が、かなり難しく、人によって解釈が変わってくると思います。
というのも、これを体験として、本当の意味で理解できるのであれば、それは悟った人なので、格としてはブッダと同じということになるんですよ。
しかし、私は当然のように悟ってないですし、東洋哲学系の本を出版している人達も、悟ってはいないはずなんですね。
また、仏教や、ヒンドゥー教に入信して修行している人も、悟ってない人達ばかりだと思うので、当然、解釈はそれぞれ変わってくると思います。
その為、ここで話すことが、確実に正しいとは思わずに、自分自身で考えて、自分なりの解釈を見つけてみてくださいね。

前から紹介させていただいている、史上最強の哲学入門の東洋哲学編には、人の不幸の最大の原因は、自分の認識とアートマンとのズレに有ると書かれています。
先程から説明している通り、アートマンとは捉えられないもので、客観視出来るものでは無いとされています。
しかし、現実の私たちはどうでしょうか? 現実に存在する私達は、自分のことを指差して、これが自分と言いますよね。
この認識のズレが、全ての不幸の元凶になっているという考え方です。 この本の中では、映画館と観客という例を使って、説明されています。

アートマンとは、認識するだけのものなので、捉えようがない存在なんです。つまり、映画館と観客という例でいえば、観客ということになります。
観客は、映画に映し出された主人公の人生をただ観ている。つまり、ただ認識し続けているだけの存在なのですが、無意識の内に観客である自分は、映画の主人公に感情移入をしすぎて、自分が映画の主人公だと思いこんでしまいます。
その結果として、主人公が痛い目にあうと、アートマンも痛いという感情を受けてしまうわけですが、そもそも、映画の主人公が殴られたり不幸になったところで、観客には何の関係もないですよね。
つまり、本当の意味での自分自身は、認識しているだけの存在である事を再認識することで、映画の主人公と本来の自分である観客を分けることが出来る為、そこには幸福も不幸も無いという事なんですね。

結構わかりにくいと思うので、私の解釈も付け加えると
この世にある物事全ては、ただそこに事実があるだけの状態でしか無いものなんですよ。つまり、不幸や幸福を纏ったものがそこに有るのではなく、事実がそこに有るだけなんですね。
でも、その事実を認識する際に、人間は自分のポジションによって、その事実の受け入れ方を変えますよね。
そして、ただの事実でしか無いものに、不幸であったり幸福であったりと言った意味を、自分自身で付け加えていきますよね。

例えば、自転車を盗まれたという事実が有ります。
この事実は、自分が必死にお金を貯めて購入したものが盗まれた場合、不幸な出来事として認識されますよね。
でも、盗難保険に入っていて、全額保証してもらえるなら、不幸の度合いは全く違いますし、盗まれる前に転倒していて、自転車が傷物になっていた場合、得した気分になるかもしれません。
また、長い年月使い続けていて、買い換えようと思っていたけれども、その踏ん切りがつかなかった時に盗まれたら、それは不幸な出来事ではなく、良いきっかけと捉えられますよね。

この様に、実際には『自転車が盗まれた』という事実だけが、世の中では事実として存在するんですけれども、その捉え方は、認識するものの状態によっても変わりますよね。
認識の仕方によって世界が変わるというのは、一時期、世界系というジャンルが、そのようなことをテーマにおいて、ヒットしていましたよね。

世界系で有名なものでいえば、エヴァンゲリオンがありますが、エヴァンゲリオンの主人公であるシンジ君は、エヴァに乗りたくないと思っていて、その環境に馴染めずに、ずっとウジウジしていましたよね。
でも、シンジ君のクラスメートのミリオタは、巨大兵器に乗って世界のために戦うヒーローに憧れていたため、シンジ君を凄く羨ましく思っていましたよね。
そのうち、仲良くしているもう一人の友達までパイロットに選ばれると、自分だけが選ばれない状態に気を落としてしまいましたよね。

ここでも、巨大兵器に乗って戦うという事実だけが有るんですが、その捉え方によって、事実の性質が変わってきますよね。
逆にいえば、事実の認識の仕方さえ変えてしまえば、世界の観え方が変わるという考えも出来ますよね。

ここで、そんなに簡単に、事実の受け入れ方を変えるなんて無理でしょと思われる方も多いと思うんですが、そもそも事実の受け入れ方を変えれないのは、『私』というものとアートマンとの間に、認識のずれが有るからなんですよ。
先程から何度も言っているわけですけれども、アートマンと呼ばれる人間の根本原理は、あなたが指(ゆび)を指して、これが私と言っているものではないんですよ。
ましてや、学歴や、社会的地位、どれほど財産を持っているかという、本人につきまとう付加価値のことでもないんですよ。
『私』とは、ただ、認識するだけのものなんですよ。
ただ、そこに有るだけの事実を認識するだけの存在が、『私』なんですよ。

これを、自分を指さして、これが自分と言い、この大学を出てこの会社に入り、年収1000万の私が自分と言ってしまうと、そこに価値判断が挟まってしまうので、その価値が揺らいだ時に、不幸が訪れてしまいますよね。
でも、それは自分じゃないんですよ。認識できるもの全ては『私』では無く、『私』とは認識できないもので、捉えようのないものなんですよ。
これは、全宇宙のものがそうで、この世の中には、ただ、事実が有るだけなんですけれども、『私』とか『自分』といった物の解釈を間違ってしまうと、その事実に、自分自身で線引を行って、レッテルを貼っていってしまいますよね。
つまり、この事実は不幸で、この事実は幸福と言ったぐあいにですね。

ただ、先程から言ってますけれども、その事実は、ただそこに有るだけなので、他の人間から観ると、その幸・不幸は変わってきますよね。
ある人物にとっては幸福でも、ある人物にとっては不幸と言った具合に。

これが分かりやすいのが、株式市場だったりしますよね。
株式市場では、決算などで、ただひとつの事実だけが伝えられます。
しかし、その事実の捉え方は、『これから株を購入しよう』としている人と、『売り抜けよう』としている人と、『買い増ししよう』としている人と、『既に空売りをしている』人とで、認識が変わりますよね。
何故、認識が変わるのかといえば、株に対してアクションを起こそうとする事に、とらわれているからですよね。
もし、株に何の興味のない人が、決算発表のニュースを観たとしても、ただ、事実を認識するだけですよね。

これを、体験によって、本当の意味で理解することを重要としたのが、インドのウパニシャッド哲学です。
次回は、この後に発展した、仏教について、考えていこうと思います。

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿 】第11回 東洋哲学(3) 梵我一如の個人的な解釈

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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前回の放送では、『私』とは何なのかについて、疑問を持ってもらうために、様々な問題を挙げていきました。
そして、『私』とは、ものを観たり感じたりしている主体となっている、『意識』ではないのかという流れになっていきましたね。
では今回は、その『意識』について、もう少し掘り下げて、考えていこうと思います。

そもそも、私達が自分と感じる意識というのは、どこかに有るものなんでしょうか。
意識が、どこかに有ると思っている人の多くは、頭とか、脳に有ると思っておられる方が多いかもしれませんね。
脳というのは、体が感じ取った感覚を最終的に受け取るところですし、脳から電気信号を出して、体その物を動かすことが出来る器官でも有ります。
そして何よりも、情報の大半を占めると言われている、視覚から入ってくるイメージを受け止める目は、脳の前についています。
この為、目や脳の付近に自分の主体である意識が有ると思っている方も、多いと思います。

しかし、意識は本当に、そこにあるのでしょうか。

以前も紹介した本、『史上最強の哲学入門』の東洋哲学編には、脳という機械が行っていることは、脳細胞、ニューロンが、体に何らかの刺激を受けた際に、化学物質をだし、隣のニューロンに渡しているだけだ。
と言った感じのことが書かれています。
この、ニューロンが物質を隣のニューロンに渡し、それを受け取ったニューロンは、また別のニューロンに情報を渡し…といったことが繰り返されているだけの機能で、何故、意識が生まれるのかというのが疑問とされています。

これを聴いた方の中には、脳というのはそういうもんで、それで意識が生まれるんじゃないの?と納得されている方もいらっしゃるかもしれませんが、これは結構、不思議な事なんです。
この本では、これを別の形で例える事で、その不思議さを伝えようとしています。
その例を一つ、紹介してみますね。先ず、大量のミミズを辺り一面に、それぞれの個体が接し合える程度の近距離でばら撒いた環境を作って、脳と見立てます。
この状態で、その内の一匹を手で触れると、触れられたミミズは『大きなものに触られた』という反応をして、身をよじったりして暴れたりして、反応をします。

ミミズは、接することが出来る程の近距離で配置されているわけですから、一匹のミミズが大きな反応をすると、隣のミミズにも触れることになり、触れられたミミズはこれに反応し、また隣り合ったミミズに触れることで、反応は伝播していきます。
このミミズの動きによる伝播は、脳が行っている脳内物質や電流の伝播と同じわけで
脳が行う物質の受け渡しによって意識が生まれるのであれば、このミミズの動きによる反応の連鎖でも、そこに意識のようなものが生まれないとおかしいと主張しているんですね。

この本の中での書き方としては、文章としてハッキリと否定が行われているわけではないのですが、否定しているのではないかという読み解き方しか出来ないような書き方がされています。
本では、このミミズの例の後に、もう一つ同じような例を出した後で、否定的とも読み取れる内容がかかれているので、その部分を修正しつつ引用すると

たまたまミミズの動きのパターンが、『意識が赤いものを観ている状態』と同じパターンになったとしよう(ここでの動きのパターンとは、脳内物質をニューロンが受け渡しをするパターンとミミズの動きが同じ動きをした場合ということですね。)
これで説明がつくと思う人は(ここでいう説明とは、脳内物質をニューロンが受け渡すだけで、意識が生まれて当然だと主張する人のことです。)その時、『あの独特の赤を見ている意識』が、ミミズが散らばった空間に発生していると主張しなければならない。
何故なら、物質的には全く同値なのだから。
だが、少なくともそれは、既存の科学や理屈を超えており、今までにない新しい考え方やものの見方を提示する必要性があるだろう。と書かれています。

つまり、ミミズの動きによって意識が発生することを、明確に否定はしないですが、少なくともその主張は、既存の科学の理屈を超えているという事ですね。
まぁ、意識というのは実態が有るものでもなく、主観的なものですし、観測することも不可能なので、証明することは出来ないですよね。

ただ、私個人の意見を言わせてもらえれば、このミミズの例でいうと、ミミズのそれぞれの動きによって、その場に意識は生まれると思うんですよ。
というのも、世の中には、そう考えたほうが辻褄が合うことが結構有るからなんです。

例えば、私は以前、株式投資を行っていたんですね。今現在も、頻繁に売り買いはしていないですが、買ったまま放置しているという点では、今も行っているといえるんでしょうけれども。
その株式なんですが、株式市場で行われていることは、先程のミミズの例や、脳細胞内で起こっていることと同じことなんですよ。

株式投資は、難しいと思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、簡単にいえば、株という商品を扱った、複数同士のオークションです。
株を売りたい人がいて、その人が売り値を提示して、その値段で購入しても良いと思う人がいれば、売買が成立します。
売る人が多いか、買う人が多いかによって、売買のされ方や価格の付き方がかわるというだけで、実際に市場の中で行われていることは、株券と現金との交換なんですよ。
その現金と株との交換が、もの凄い人数で複雑に行われているのが、株式市場です。

先程も言いましたが、脳の構造も同じですよね。脳も、脳内物質をニューロン同士で受け取ったり渡したりしているだけで、株式市場も、現金と株を受け取ったり渡したりしているだけですよね。
で、これらの取引が行われることで、株式市場では何が起こるのかというと、株価というものが、まるで意思を持っているかのように、上に下にと動き回るんですよ。
そしてこの動きの予測は、誰も行うことが出来ないんですね。

株式市場というのは、人それぞれが、自分の意志で持って売り買いを行っているわけで、株式相場とは、その意思を反映させた動きをしているに過ぎないんです。
ですから、主体となるのは取引に関わっている人間のはずなんですけれども、そこに関わる人には誰も、動きを予測することが出来ないんです。
これは、観ようによっては、自由意志を持った一つの生物のようにも見えますよね。

その他の例でいうと、キノコなんてものも有りますよね。
キノコというのは、突き詰めていけば菌ですよね。それぞれの菌は、それぞれの意志でもって動くわけですけれども、でも、その独立した菌が集まると、キノコという一つの物体が生まれるわけです。
不思議ですよね。一つの生物でもなく、全くバラバラのものが、一箇所に集まると、有るものは軸になり、有るものは傘になって、傍から見ると一つの生物のようにみえるわけですから。
これは、一定数の意志のあるものが集まると、その場には、それを統合するような意識が生まれると考えると、説明が付きやすいですよね。

これと似たような例で、昆虫の蟻とか蜂といった物も有ります。
アリやハチは、それぞれが交尾して子を生むわけではなく、女王とされるものが卵を生む役目を負っていますよね。
この女王蟻などは、人間の器官でいうと子宮という役目を負っているようにも見えますよね。
こうして考えていくと、人間でいうところの手の役割をするハチと言った具合に、それぞれの役割を持った個体が集合し、一つの群れで一つの生物という見方も出来ます。
話題になっているヒアリなんかも、群れで団子のようになったり、その状態で水に浸かるとイカダを形成したり…なんて言われていますが、それも、一匹一匹が独立した動物で
コミュニケーションを取って、結果として行動しているのではなく、群れで1体と考えると、素直に納得できそうですよね。

この様な視点で、もう一度、人間の方に焦点を当てて考えて見ましょう。人間は、脳で意識的に考えた通りの行動を確実に行うことって、出来ないですよね。
もし出来るのであれば、英単語なんて覚えるのは簡単ですし、スポーツなんていうのも、目で見たイメージ通りに動かせばよいだけですから、上達も早いはずですよね。
では、全く意識もせずに、完全に体だけが勝手に動いているのかといえば、それも、現実感があまり無いですよね。出来る事と出来ない事が混在している状態ですよね。

で、出来ること、出来ないことは性格などにもよるのではないかという意見もあると思います。意識的にも無意識的にも、その人の性格として、やりたくないことは出来ないという考え方ですね。
でもその性格も、腸内細菌の種類によって、人間の性格が変わるなんて話も有りますよね。その他には、事故や手術なので、大量に輸血をする事で、性格が変わったなんて話も有ります。
この話も、性格というものが、『私』個人を私足らしめてい意識の一部であるなら、血液は別としても、腸内細菌のような外部の者によって影響を受けるというのは、不思議ですよね。

また、外部のものという目線でいえば、人間の細胞の中にあるミトコンドリアは、元々は寄生虫なんて話も有りますよね。
こうして考えると、人間というのは、小宇宙なんて例えをされることも有りますが、腸内細菌であったり、細胞内のミトコンドリアであったり、脳の伝達物質の受け渡しであったりと、物凄い数の生物が集まって
一つの個体として成立しているという考え方も出来ますよね。
そして、それぞれの部位がそれぞれの意識から発する意思のもとで、勝手に動き回ったり、与えられた役目をこなし続ける事で、人という意識が発生しているだけという考え方も出来ますよね。
つまり、意思を持って動き回るものが、限定された空間内に多数ある状態になると、一つ上のレイヤーに、その動きを総合したような意識が生まれるという考えです。

この話は、イメージの話で、かなりフワッとしている為に、聴いている方にどれだけ伝わっているかというのが分からないんですけれども…
人間と腸内細菌の話を、先程の株式相場の話に当てはめると、腸内細菌というのは、株式相場で売り買いをしているプレイヤーの事で、株価の動きというのが、一つ上のレイヤーに生まれる意識としての人間に当てはまります。
ではこの時、主体はどちらにあるのかというと、両方に有るんです。
株価が上に上昇したいと考える時、株価はプレイヤーに命令して、株を買えという指示を出す事はありません。プレイヤーは、それぞれの自由意志に則って、売り買いをするだけの存在です。
では、株価の方は、プレイヤーに踊らされているだけなのかというと、そうではなく、株価は株価で自由意志が有ると思いこんでいて、自分の好きな方向に進んでいるんです。
そして実際に、上に上昇したい時には上昇してみると、プレイヤーはその上昇した動きを観て、行動を変えますよね。
つまり、株価とプレイヤーは、どちらかが主体になって一方を動かしているのではなく、相互に影響を与え合って、一連の動きを形成しているんですよ。

これを人間の行動でいうなら、『将来のことを考えると、今勉強した方が良いのは頭ではわかっているけれども、漫画を読みたいから漫画を読む』みたいな感じですかね。
人間は、これをやっておいたほうが良い。覚えておくべき。といったことは無数にありますけれども、実際には出来ることと出来ないことがありますよね。
興味があると思って読み出した本なのに、全く進まずに頭にも入らないのに、隣で鳴ってただけのラジオのセリフが一発で頭に入ることって有るじゃないですか。
人間が下していく決断というのは、そういう、制限がかかっている中で行う選択じゃないですか。そして、その限定された選択肢を選んで実際に行動を起こすことで、脳に流れる電流の量とか体内の環境は実際に変化するわけで…
その変化を元に、体内の微生物や細胞は行動を変える可能性が有るわけで、これも、相互に影響を与え合っていると考えられますよね。

結構、伝わりにくいことだと思うので、別の例で考えてみましょう。意思を持つものが限定された空間に集まることで意識が生まれるとするなら、人が集まることで、その人達を統合した意識というものが生まれる可能性も考えられますよね。
例えば、人間が10人程で集まって、何か行動しようとした際に、例えリーダーを決めていたとしても、完全にリーダーの思い通りに事が運ぶことって少なかったりしますよね。
また、リーダーという役割を負うことで、その人の性格が急変して、最初思っていたとおりの組織が生まれない場合もありますよね。
これは、その10人が集まって、それぞれが行動したことによって、その限定された空間の10人の行動を前提とした意識が、一つ上のレイヤーに生まれて、それが自由意志を持つかのように振る舞っているだけかもしれないですよね。
この10人の意思を統合したような意識は、元を辿ると、10人の人間に帰結するわけで、当然、一つ上のレイヤーに生まれた意識に影響をあたえるわけですけれども、そこで生まれた意識が元の10人に影響をあたえることで、行動を限定させてしまうという事です。
影響は相互に与えあっていて、双方の意識は、無意識の内に限定された範囲内での行動しか取れない状態といえば良いんでしょうかね。

この考えを、もっと大きな目線で当てはめれば、地球というのは、70億人の人間がいて、その他にも様々な動植物がいるわけで、それらのものがそれぞれに動いているわけですから、地球そのモノに意識があったとしても、不思議ではないですよね。
ここで、地球の意識というのが出てきたわけですが、誤解してほしくないのは、環境破壊は地球が悲しむだとか、地震や火山噴火や温暖化は、地球が人間に対して怒っているという、スピリチュアル的な事を言っているわけではないんです。
例えば、人間の性格に腸内細菌の活動が本当に関係していたとして、人間は、腸内細菌の一匹の行動について、いちいち不満を持ったりしないですよね。
その関係と同じように、仮に地球に意識があったとして、地球は人間の存在なんて感知していないですし、その人間の行動も含めて、地球の意識という感じです。
先程も言いましたけれども、地球という意識は、それを構成しているすべての動植物の意識によって限定されていますし、地球に住む私達の意識は、地球によって限定されているという考え方ですね。

これをさらに発展させると、宇宙の意識となり、その意識を構成しているものを再商談会まで深掘りしていくと、最小単位の意識というものに帰結していくという考えが出来ますよね。
こう考えると、一つのものが全てのものであって、全てのものは一つのものであるという梵我一如的な考え方も、理解できたりしますよね。

ただ、一つ言っておくと、これは私が勝手に考えた事なので、『宇宙はこうなっている』と断定するものではなく、こういう考えも出来ますよというものなので、その点だけは、注意してくださいね。

今回は、私の持論が中心になってしまったので、次回は軌道修正して、インド哲学に戻りたいと思います。

【アニメ・漫画紹介】 幼女戦記

今更になるのですが、今年のはじめに放送された、『幼女戦記』という作品を紹介します。
何故、こんなにも時期を外しての投稿になったのかというと、盆休みにする事が無かったせいか、2周も観てしまったからです。
盆休みに初めて観たんじゃないですよ。 リアルタイムで見ていたにも関わらず、盆休みに更に2周観たんです。
この行動で火がついたのか、Kindle版の漫画も買ってしまい、盆休みは幼女戦記漬けの日々を過ごしておりました。

前置きはこれぐらいにしておいて、では、どんな物語なのかを簡単に説明していきましょう。
この作品は、石を投げれば大抵は当たると言われている程に大量生産されている、異世界転生モノの一つです。
幼女戦記』というタイトル通り、主人公は魔法が存在する異世界に転生し、魔法少女となって大空を飛びながら、お仲間と一緒に平和の為に『いっしょうけんめい』頑張る!って感じのお話です。
タイトルがこれで、話の要約がこんなだと、引いてしまって観たくないと思われる方もいらっしゃるでしょうから、ネタバレも含みつつ、もう少し説明していきましょう。

ネタバレを含むので、情報無しで観たいという方は、これ以降は読まないようにお願いします。
動画は、AmazonプライムNetflixで視聴可能なので、是非、観てみてください。
では、これ以降、ネタバレも含んで説明していきます。宜しいでしょうか。


この作品。主人公は幼女なのですが、生まれ変わる前は、人の心が分からない徹底した合理主義の中年の中間管理職のおじさんです。
主な仕事は、会社で役に立たない人間をリストラしていく仕事で、人の心がわからないという長所?を活かして、心を痛めること無く、淡々と業務をこなしていました。
こんな人ですから、当然のことながら神なんて信じず、科学的な事しか信用せずに生きてきました。

そんな彼ですが、ある日、リストラした元社員に逆恨みされ、線路から突き落とされて殺されてしまいます。
しかし、電車が自分にぶつかる寸前に神が現れ、人間が信仰心を失ってしまったことをボヤき始めます。
そして、合理主義の塊のような主人公が神の存在を信じるようになるのであれば、もう一度、神は力を取り戻せるのに…なんて事を言い始めます。

これを聴いた主人公の中年サラリーマンは、神なんて存在は、科学が発達する前の世界で、理解できなかった存在を神と定義していただけに過ぎない。
現代のように科学が進んだ平和な世界で、神を信じるなんて事は、ありえない。
お前は確かに、電車が衝突する直前に時間を止めて対話をするという超常的な力を持ってはいるが、それを持って神とは言え無い。
仮に神が存在するのであれば、この様な理不尽を許すはずがない。故に、お前は神ではなく悪魔だ。そうでないのであれば、存在xとでも定義しようか…なんて事を言い出します。

これを聞いた神は、『そうか…現状では、神を信じられないということだな。では、全くの逆であればどうだ。
男では無く女で、平和な世の中ではなく戦争状態で、科学ではなく魔法が常識となっている世界に生まれ変われば、信仰心も生まれるかもしれない。』
ってな感じで、この直後に主人公は電車に轢かれて死に、めでたく異世界に転生することになります。(これは漫画版の演出で、アニメ版は若干変わります。)

転生先の世界は、現在の世界でいうところの第二次世界大戦が起こる直前のドイツ。
ただ、第一次世界大戦は起こっておらず、第一次世界大戦という世界レベルの消耗戦を経験していない状態で、第二次世界大戦と同じ様な展開で戦争が起こりそう…って感じのかなりヤバイ世界です。
そんな国で、両親がおらず、孤児院で女性の体を持って転生します。

この世界での科学力は、今の世界でいうところの1900年頃の科学しかないのですが、魔法が発達しており、それによって空を飛ぶことが出きる為、当然のように軍事転用され、航空魔導兵と呼ばれる兵科が存在します。
この兵科は簡単にいえば、音がない戦闘ヘリのような存在。 無音で飛ぶことが出来、携帯したライフルの弾に術式を行うことによって、範囲爆撃や長距離爆撃を行うことが可能。
つまり、最強クラスの兵科という事になります。 では、これを量産すればよいのかというと、それは出来ません。
魔法は、その才能を持って生まれた人間しか扱うことが出来ないため、限られた戦力ということになります。

こんな世界で主人公は、最強クラスの魔力をもった状態で生まれてきます。
何故、存在xが主人公に高い魔力を持たせたのかというと、先程書いた航空魔導兵が関係してきます。 航空魔導兵は最強の兵科なのですが、魔法の才能を持つ人間にしかなることが出来ません。
そんなわけで、貴重な魔力保持者は、男女の区別なく、確実に徴兵されてしまいます。
主人公は女として生まれてきているので、魔力さえ持たなければ、か弱い女性を演じ続ければ戦争から逃れることも可能なのですが、魔力、それも最強クラスの才能を持って生まれてきているので、見逃されることもなく徴兵は確実に行われてしまうということ。

前世の記憶を引き継いだ状態で転生し、10歳にして既に合理的な考えが出来る主人公のターニャ・デグレチャフは、『逃れることが出来ないのであれば、徴兵ではなく、敢えて志願して、出世街道を突き進むしかない!上手く行けば、安全な後方で楽が出来る』と軍隊に志願します。
ここで、めでたく魔法少女の誕生です。
まぁ、魔法のステッキなんかは持たず、常に携帯しているのはライフルで、身にまとっているのはコスチュームではなく軍服。
当然、一緒に戦ってくれる仲間は、帝国軍の戦友たちで、相談相手になってくれるのは、花屋や喫茶店の主人ではなく、参謀本部や作戦局のお偉いさんですけどね。


その後、ターニャは軍隊の訓練過程が終わった直後に、北の国境線の警備に派遣されることになります。
丁度その頃、以前から北方諸国(現在でいうところのノルウェー辺り)の内部でナショナリズムが高まり、そのうえ右翼政権が権力を握った事もあり、政治家は国民のガス抜きをする為に、軍隊を南下させて帝国軍領土まで進行してきます。
北方諸国の狙いとしては、国境を超えたという事実だけを国民に見せて、『俺達はいつでもやれるんだぜ!』って事を見せるためのデモンストレーションのつもりだったんですが…

これに対して帝国軍は重野砲を使用しての本気の反撃を行い、見事に北方諸国と戦争状態に。
この時、現場にいて着弾観測を行っていたターニャは、敵魔導兵に見つけられ、司令部に撤退要請をするも拒否され、援軍が来るまで耐えろといわれる。
死にたくないターニャは敵前逃亡も出来ず、全力で必死に戦った結果、デビュー戦でものすごい戦果を上げ、生きている人間で受賞した人間がいないとされる『銀翼突撃章』をもらう羽目に。

完全にエース扱いをされ、最前線送りが濃厚になっていくターニャは、どの様にして生き残っていくのか…

ここまで読んでもらえればわかると思うんですが、此処から先の内容は、完全に戦記物となっています。
ここ最近は、異世界転生ものが流行っていて、尚且つ、魔法少女物も流行っているので、そのミックスでしょ?なんてタイトルだけみて思った方は、完全に当てが外れたことでしょう。

では、シリアスな戦争モノなのかというと、実はそうでも無い。
ターニャは、後方に行きたい一心で、一生懸命、戦略に長けた軍人を演じるのですが、周りはそうとは観ておらず、火力が有って戦術的に長けているのに、戦略まで理解できる有能過ぎる兵士と賞賛したりと、ギャップが凄い。
また、ターニャは基本的に自己保身しか考えていない合理主義者なのですが、部下が死ぬと肉の盾が減る。評価が下がると思い、部下に適切な支持を出して犠牲を減らす。
そして、周りが危険な仕事だと思い込んでいるが、どう考えても楽な仕事は、評価欲しさに率先して行うため、現場から絶大な支持を得て、英雄扱いをされる。

結果として、常に最前線に送られるということになるという、アンジャッシュの漫才のような状態を見れたりもします。
では、コミカルな戦争映画なのかというと、そうでも無い。
主人公は、周りから見れば孤高で、冷酷な人間なのですが、登場人物の中で誰よりも世界平和を願っている人物。
何故なら、平和な世界こそが、安定した暮らしを出来るからです。世界平和の実現のためなら、つまり、早期の戦争終結のためなら、どんなに残虐な命令であろうとも実行するのですが、それを阻止するのが存在x。

神は信じないが、世界平和のために命を賭して戦う人間と、信仰心欲しさに人間を戦争の渦に巻き込んで試そうとする神。
どちらが善なのか。 こんな感じの、哲学的なテーマも盛り込まれていたりもします。

最初にも書きましたが、AmazonプライムNetflixで視聴可能なので、もし興味を持たれた方は、一度観てみてはいかがでしょうか。

京町家をゲストハウスにする投資商品は買いなのか。

先日テレビを見ていると、平日深夜に放送されている経済ニュース番組で、凄い投資商品の説明が結構な尺で行われていました。
何が凄いって、その投資商品の構造です。

構造を簡単に説明してみましょう。
この投資は、基本的に不動産をもとに行われる投資商品です。

先ず、誰も買わないようなボロボロの町家を購入し、それをリフォームした上で、その家屋をゲストハウスとして活用します。
ゲストハウスの運営自体は、資金を集めた会社が3年ほど行い、その後、物件ごと売却。
物件の売却益とホテル収益を投資家に分配することで、年率10%程度の利益が出るかもしれないというという前提で、投資家からネットを通じて幅広く資金を集めるという方式。

物件の売買は主に京都で行われますが、その理由としては、京都に宿泊施設が足りないこと。
京都は、世界中から観光客が訪れるにも関わらず、高さ制限のせいか、大規模なホテルが作りにくい。
その為、供給不足が続いているので、外国人に人気の町家を購入し、おしゃれな感じに改装、その後、3年ほど経営した上で事業ごと売却し、3年分の利益と売却益を投資家に分配するらしい…

一見すると、ものすごい魅力的な投資商品に思える代物で、『今すぐに買いたい!』と思われる読者の方もいらっしゃるでしょうが、この投資商品の本当に凄いところは、こんな構造ではありません。
この投資商品の本当に凄いところは、リスクは全て投資家に押し付けて、運営側だけがノーリスクで確実に儲かる形になっているという事です。

もう一度、冷静になって考えてみましょう。
今の日本の現状は、日銀が国債を市場で買いまくった結果、銀行の買う国債がなくなってしまい、銀行にとっては運用先がないような状態が年単位で続いている状態です。
個人で住宅ローンを借りる際でも、2%台。上手く制度を使えば1%台でも借りることが出来る現状で、何故、年率10%も支払うリスクを犯してまで、ネットを通じて個人から借りる必要が有るのでしょうか。

テレビの中では、取引される町家がボロボロ過ぎて、物件としての価値が全くない為、銀行からは借金出来ないという言い訳がされていましたが、この理屈が既に胡散臭い。
というのも、何年も買い手がつかないボロボロの町家は、確かに物件としての価値はない。しかし、価値が無いということは、建物に関しての購入額もゼロということ。
現状で住むことが出来ないような町家は、市場では資産価値がゼロ、もしくは、購入後に壊さなければならない費用分のマイナス価値、つまり、-300万円ぐらいでしか取引されない。
つまり、この建物を購入する為に銀行からお金を借りる必要性は全く無い。何故なら価格はゼロなんだから。

では物件購入に、何故、お金が必要なのかというと、その建物が立っている土地には値段がついている為、土地取得費用として値段が提示されている。
仮に不動産価格が1300万円だったとして、上に建っているボロ屋が住めないほどのゴミなのであれば、そこから解体費用の300万円を差し引いた、1000万円程度が適正価格とも言える。
そして、土地購入者は先程も書いた通り、そのボロボロの家屋をリフォームする事で、ホテルとして営業できるような物件に建て替える。
リフォーム代金と土地取得費用を合わせて3000万円とした場合、銀行はリフォーム後のきれいな建物が建った不動産に対して担保を設定すれば良いだけ。
なので、不動産の上に経っているボロ屋の価値が無いというだけで、担保が設定できずにお金も借りれないというのは、言い訳になりません。

また、この会社は、既に何軒もホテルを経営していて、経営も順調という感じで報道されていました。
この会社に本当に経営能力が有って、同じ様な計画で何軒もの物件で成功を収めているのであれば、事業計画書を過去の実績とともに銀行に提出すれば、銀行は普通に貸してくれるでしょう。
にも関わらず、この会社は銀行からは借りずに、ネットを介して少額投資を募っている…

これは、銀行から借りたくない理由があるからと、考えざるをえません。
(仮に、業者の言い分が正しく、本当に銀行がお金を貸してくれないんだとしたら、それこそ警戒しなければなりません。何故なら、銀行がお金を貸してくれないのは、業者に返済能力がないと思っているからです。)
では、何故、銀行から借りたくないのでしょうか。

銀行から借りれば低金利で借りることが出来るにもかかわらず、何故、10%以上もの金利を支払うリスクを犯してまで、ネットで投資家を募るのでしょうか。
答えは簡単で、銀行から借りた場合は、返済額が決定してしまうからです。
つまり、仮に事業を行うために3000万円を借り入れた場合、3000万円+利息は、確実に返済しなければならない義務が生じてしまいます。

その一方で、ネットを介して少額投資を募った場合はどうでしょうか。
ネットの投資家募集には、元本保証なんて事は書かれていません。
書かれているのは、3年分の利益と、その後の物件の売却益を分配するということだけ。
仮に、それらの合計が投資額よりも下回ったとしても、投資家は文句が言えない仕組みとなっています。
数字を出して考えてみると、3000万円を投資資金として調達したとしても、3年分の利益と売却益の合計が2000万円にしかならなかった場合、この会社は2000万円を分割して投資家に支払えば良いだけということになります。

ここで、『損を出すという行為は、運営会社も避けたいのでは?』と思われる、心優しい方もいらっしゃるでしょう。
ですが、そんなことはないんです。このシステムは、資金調達さえ行えれば、運営会社は損失が出ることはなく確実に儲かるので、損失は出ようが出まいがどうでも良いんです。

というのも、この会社の本当の狙いは、ホテルの経営管理をする事で、その手間賃である物件管理費を徴収することです。
テレビでは、『今月の予約だけで、○○万円の売り上げがでてます!』と威勢の良い事を言われていました。
仮に月の売上が100万円として、投資というか経営の知識が無い人の場合は、『3000万円の投資で、月に100万の売上だと年間1200万円で、3年で3600万円。これに物件売却額を加えた金額がもらえるなら、確実に儲かる!』なんて甘いことを考えるわけですが…
そんなわけがありません。
ホテル経営には、予約受付や清掃など、管理の為の人手がかかりますし、それらにかかる経費は当然、その売上から差し引かれることになります。
これらの作業は当然のことながら、この投資商品を企画した不動産屋が手がけるわけで、その作業にかかる経費の請求は、この不動産会社の言い値で請求し、売上から天引きします。

つまり、プロジェクトが立ち上がった時点で、この不動産会社は3年分の不動産管理費を得ることが出来るということです。
不動産管理費は、ホテル経営が黒字だろうが赤字だろうが請求し、仮に赤字になった場合は、その損失は投資家の方に回してしまえば良い。
何故なら、投資家には元本保証なんて行ってないわけですから、損失を出したとしても文句はいえないというわけです。

ここが、この投資商品のもっとも重要なところとなります。
先程も書きましたが、仮に、銀行からお金を借りた場合は、借金したお金は利息を加えて全額返済しなければなりません。
しかし、この投資用品の場合は、物件を見る目がなく、思ったよりも儲けることができなかった場合でも、損失分は投資家が支払ってくれます。

また、3年後に売却することが決まっているという事は、とりあえず3年間だけ営業してみて、儲けが出なければ売却し、物凄く儲かるドル箱物件の場合は、不動産屋自身が自分で買い取るという事も出来るということ。
この3年で売却するシステムにより、不動産屋はドル箱物件だけを格安で買い取ることが出来、儲けの出ない不要な物件は、安値で売り抜けることが出来る。
安値で打った場合の損失分は、投資家が支払ってくれるので、不動産会社自体に損失はない。

まぁ、なんて素晴らしいシステムでしょう。
本来であれば、起業した際のリスクは自分で追わなければならないのですが、その損失リスクだけは無知な投資家に押し付けて、利益だけは最大限に受け取ることが出来る。。
これは、人の金で博打をやって、的中したときだけ配当が受け取ることが出来るという仕組みで、考えた人は天才なんじゃないかと思ってしまいます。

これを読まれている方の中には、『放送局が、そんな胡散臭い投資商品を紹介するわけがないだろう!』なんて思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、過去を振り返ってみると、放送局は胡散臭い商品でも平気で紹介していたりします。
例えば、ラブホファンド。この投資商品は、今回紹介しているシステムとほぼ同じで、購入して運営するのが、京都の町家を改装したホテルでは無く、ラブホテルという違いしかありません。
ラブホテルは、かなりの回転率で儲かるにも関わらず、参入障壁が高くて普通の人には算入が出来ないので、ノウハウの有る業者が事業をファンド化して、投資商品として売り出すという行為を行っていた時期がありました。
この投資商品を、何故、私が知っているのかというと、日本経済新聞社の傘下であるラジオNIKKEIで、連日、宣伝がされていたからです。
この『ラブホファンド』が、その後どうなったかは、ご自身で【ラブホファンド】と検索窓に入れてgoogleなどで調べてほしいのですが、痛い目を有った方も多数いらっしゃったようです。

まぁ、今回取り上げている投資商品が、ラブホファンドと全く同じ道をたどるのかといえば、それは分かりません。
この商品の性質上、一定以上の利益を上げ続けなければ、資金の調達がどんどん難しくなていきます。
不動産管理会社は、プロジェクトが成立すればする程、物件管理費名目でお金が貰える仕組みなので、資金は大量に集まって欲しいし、その為には、高利回りを続けなければなりません。
当然、物件選びも慎重に行うでしょうし、確実に失敗するとはいえない商品です。

ですが、私個人の意見を言わせてもらうなら、他人のギャンブルの資金を出すなんてことはしたくない。ってことでしょうか。
例えば、同じ投資をする場合でも、企業の為に発行された株を購入するとかなら、その事業が軌道に乗った場合、とてつもない利益を得る可能性があるのですが、この商品は、3年という限定されたプロジェクトに投資するというもので、リターンは多くても10%前後。
10%しか得られないのに元本割れリスクを背負うなら、上場している株を買ったほうがまだマシって感じがするんですよね。

投資関連の話題では、毎回、同じことを言わざるをえないわけですが、本当に儲かる投資商品が、一般に出回るなんてことはありません。
一般に出回るということは、その時点で、専門家や事情通が『買いたくない』と思って売れ残っているから出回るんです。
投資を行う際は、この事を踏まえた上で行うほうが良いと思います。

【Podcast #だぶるばいせっぷす 】第10回 東洋哲学(2)『私』という存在への疑問

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
goo.gl

youtubeでも音声を公開しています。興味の有る方は、チャンネル登録お願い致します。
www.youtube.com

前回は、梵我一如という考え方について、簡単に説明していきました。
要約すると、宇宙の根本原理であるブラフマンと個人の根本原理であるアートマンが同じだと体験によって理解することでしたね。
そして、宇宙の根本原理であるブラフマンは、元々は『言葉』という意味しか持っていなかったのが、異質の2つのものを瞑想によって同一視するという方法によって、最終的には宇宙の根本原理になっていったのではないか、ということについて、話しました。

では今回は、個人の根本原理、『わたし』という存在について、考えていこうと思うんですが…
その前に、この放送では、私自身が理解した事を中心に話していて、私の認識その物が間違っている可能性があると言った注意を度々いわせて頂いてますけれども、この東洋哲学では、その傾向がさらに強くなると思います。
というのも、テーマになるものが主観的なものですし、それを経験によって理解するというのも、主観的なものです。
その為、ここで話すことが理解出来ないと思われるかも、多数出てくると思います。これは、私自身の伝え方が悪いということもありますが
最も大きな理由としては、テーマがそもそも主観的なものなので、それを完全な言葉で他人に伝えることが不可能からです。
ですので、もし、この放送を聞いて興味を持たれた方は、自分自身で考えたり調べたりしてみてください。

『私』という存在について考えていくわけですが、私という存在について考える際に、先ず必要なのが、私という存在について疑問を持つということです。という事で、先ずは疑問を持ってもらうところから始めたいと思います。
『わたし自身』が何なのかと質問された場合、哲学に接していない多くの人は、特に疑問も持たずに、自分自身を指差して、『これが私だ』というと思います。
しかし、東洋哲学に限らず、西洋哲学でも問題とされている『私』という存在は、そういったものではありません。

これは、人間に限らず、『その物』が、何故そこに存在しているのかという、もっと根本的な疑問で、非常に難解で、明確な答えというものは、まだ存在しません。
過去の哲学者達が、それぞれ自身を納得させるような説を打ちだしてはいますが、それを他人が聴いたとして、本当の意味で理解できるかどうかも疑問ですし、哲学者本人が納得しているかどうかも疑問だったりするんですけれどもね。

え…問題をわかりやすくするためにも、先ず、私という存在ではなく、物という概念について考えていきます。
例えば、自転車を思い浮かべてみましょう。自転車は、様々な部品を寄せ集め、それらを組み合わせることによって、この世に『自転車』として存在しています。
では、この自転車から、夜に点灯させる為に取り付けられている『ライト』を取り外してみましょう。
この自転車は、変わらず自転車なのでしょうか。それとも、ライトのない自転車は、自転車ではない、他の何かなのでしょうか。

この場合、多くの人が、『まだ自転車だ』と答えるのではないでしょうか。
では、このライトのない自転車から、ベルを取り外してみましょう。 これは、自転車なのでしょうか?
ベルを取り外した程度では、まだ自転車と主張する人が多いかもしれませんね。 では、サドルを取り外してみたらどうでしょう。
滅多にない事ですが、サドルだけを盗まれるケースというのも考えられますよね。この場合、これは自転車なのでしょうか。
この様な感じで、泥除け・ペダル・チェーン・タイヤなど、一つ一つ取り外した場合、どこからが、『自転車では無い、何か』に変わるのでしょうか。

フレームだけになった場合でも、まだ自転車と呼ぶのでしょうか。
そのフレームを、原料レベルまで戻した場合、それもまた、自転車なのでしょうか。
逆に、パーツを組み上げていく場合、どの段階から、『自転車』が出現するのでしょうか。ただの部品の寄せ集めから、それを組み上げていくことで、どこかの段階で自転車という概念が生まれるわけですけれども、その境界線は何処に有るのでしょうか。
これについて、明確に境界線を引くことが出来た人って、いらっしゃいますかね?

では、『わたし自身』というものを理解する為に、この、どこからが自転車かという問題を、人間に当てはめて考えていきましょう。
人間の場合、体の部品を切り分けていくと言うふうに考えるとグロテスクな感じになってしまうので、攻殻機動隊風に、体を機械に置き換えていくという形式で考えていきましょう。
攻殻機動隊というのはSF作品で、脳を含めた体のすべての部分を機械化出来る程に技術が進んだ世界で繰り広げられるストーリーです。

まず、貴方が腕を怪我したとして、その傷は治すことが出来ない程に深刻なので、腕を義手に交換するとします。
この時に、手術で腕を切り離して機械化させるわけですが、切り離した腕とそれ以外の体と、どちらが自分自身でしょうか。
殆どの方が、切り離した腕は私ではなく、義手をつけた、わたし自身が『私』だと答えるのではないでしょうか。
この形式で、体のパーツをどんどん機械に入れ替えていきます。
足を機械化して、胴体を機械化する。そんな感じで、頭以外の全てを機械に置き換えた場合、私という存在の大半は切り離されて、機械化されている状態となります。
その時に、私という存在は、何処に存在するのでしょう。

頭を残して全てを機械化ということは、9割以上の部分が機械化されているわけで、言い換えれば自分を構成している9割は別の物に入れ替わっているわけです。
この時に、多くの人は、『それでも脳が残っているんだから、こちらが自分自身だ』と機械の体を指差して答えると思います。
しかし攻殻機動隊の世界が凄いのは、その『脳』も、機械化が可能なんです。
脳というのは、体の五感を電気信号に変えて、その電気信号を脳の中で相互に受け渡しているだけに過ぎません。
この構造を完璧に解明できれば、機械化することは絶対に不可能というわけではないでしょう。そして脳までも電脳化、つまり脳を機械に置き換えた時に、それは果たして私と呼べるのでしょうか。
この時、体の状態としては、元の体の部分は一切残っておらず、100%機械化された状態です。

100%、体のパーツが入れ替わっているにも関わらず、それでも『私』と呼べる状態を考えた場合、それは、100%機械の体に入れ替わった体でも、『私』というものを認識している意識があるかどうかが問題になりますよね。
攻殻機動隊という作品では、その『私』という意識を、『ゴースト』と読んで、そのゴーストを持つものだけを人間だと位置づけているんですね。
というのも、人間の完全義体化が可能で、脳ですらも交換可能となる技術が生まれているということは、AIの研究も相当進んできるわけですし
人間を模した擬態に、人間とそっくりに振る舞い、人間と同じように考えて行動できるAIを搭載した場合、それは人間なのかという問題が出てきます。
しかし、この作品内では、それはロボットと位置づけていて、人間と境界線を引いて区別しています。
何故ロボットと言い切れるのかというと、ロボットには『ゴースト』がないからという理屈ですね。

ただ、攻殻機動隊という作品は、この、『私』や『ゴースト』の存在を考えるための作品なので、作品内で高度に発達したAIが、ゴーストを持つ可能性というのも示されています。
有機物ではない、100%ニンゲンの手によって作られた無機物がゴーストを宿した際に、それは人間と呼ぶのかという問題ですね。

で…こういう話をすると、『それはSFの作られた話であって、現実的じゃないですよね。』という反論をされる方も、いらっしゃると思います。
しかし、一概にそうともいえないんですよ。というのも、この話は、現実の私たちに既に起こっている問題だからです。

人間の体というのは、子供は70%、成人でも60%が水で出来ているなんて話を聴いたことがある人も多いと思います。
この水ですが、私たちは日々、水分補給したり、食事で野菜に含まれる水分等を取ることで補って、余分な分は尿として排泄していますよね。
つまり、体の60%以上の水というのは、定期的に新しいものに入れ替わっているわけです。

それだけでなく、私たちは生きているだけで新陳代謝を行います。
人間を構成しているタンパク質部分は3ヶ月程度で完全に入れ替わり、それよりも長い時間がかかる骨の細胞でも、2年で入れ替わると言われています。
つまり、私達の体は、2年毎に総取っ替えされているのと同じという事です。つまり、考えようによっては、2年前の私と2年後の私は、全くの別人とも言えるわけです。
しかし私たちは、2年前も現在も、同じ『私』だと主張しますよね。 これは、何を根拠にしているのかというと、2年前の自分と現在の自分とで、意識が継続しているからですよね。

では、意識が自分を自分足らしめているものであったとして、この意識とは何処に宿るのか、何故生まれるのか、そもそも、意識なんてものが本当に存在するのかという疑問が生じてきますよね。
そして、仮に、意識というものが存在したとして、その意識は、人間の取る行動にどれだけ影響をあたえるのかというのも、問題になってきますよね。
多くの方は、人間を巨大ロボットに例えると、意識とはパイロットのことで、パイロットの思い描くようにロボットは動くと考えていると思います。
別の言い方をすると、肉体に魂が宿っていて、その魂が肉体を支配して動いているという発想ですね。
この考えに対して、何の疑問も持たない方は多いとは思うんですが、そういう結論は出ていませんし、そう考えると説明できないような現象というのは、世の中には沢山有るんですね。

これらの疑問については、冒頭部分でも話したと思いますが、西洋哲学や、それをルーツとする科学では、今だに結論は出ていません。
意識は『脳』に宿っているんでしょ?と短絡的に思われる方も多いとは思いますが、これも、一概にそうも言えなかったりするんです。

これらの、意思についての考察は、次回、私の持論なども含めて、話してみようと思います。

Netflixがアニメ業界を救う!? のか?

ここ最近、Twitterで、何度か同じような投稿を見かけました。
その内容は、日本のアニメ業界を、Netflixが救うといった感じのツイート。

何故、Netflixがアニメ業界を救うのかというと、予算が全然違うからということらしい。
という事で、今回はこの件について、一旦整理して見ていこうと思います。

私が、ネット記事やラジオで聞いた知識によると、今のアニメ業界というのは基本的に、製作委員会方式と呼ばれるもので、これが結構な曲者のようです。
製作委員会方式というのは、ステークホルダーというのでしょうか。それぞれの利益を得る可能性のある関係者が、業界を超えて金を出し合って、一つのプロジェクトを作っていこうという方式です。

利益を得れる可能性のある関係者を具体的みてみると、ラノベや漫画原作の場合は、アニメ化されることによって原作が売れる可能性がある為、出版社は利益を得られる。
それに加え、アニメキャラクターのフィギュア(人形)等のグッズを作る会社、アニメのサントラを作っている場合、音楽会社。
アニメ原作のゲームを作って販売する場合は、ゲーム会社など、様々な業種からお金を集めて、その金を元に『製作委員会』を発足して、集めた金を予算としてプロジェクトを動かしていく。
これが、全体としての流れ。 製作委員会が生み出した利益は、出資比率によって分配する感じになるようです。

それぞれがバラバラに動くのではなく、一つのプロジェクトとして進められる為、製作委員会方式は一見すると非常に効率が良く見えるのですが…
これが、結構問題になっているようです。

何が問題になるのかというと、業界内の馴れ合いというか談合と言うか…
全体としての予算が、実質、一社によって決められてしまう事が、最大の問題のようです。
もう少し詳しく書くと、製作委員会では、大抵、幹事となる会社が最初に決められるようです。
そして、その幹事が、自身の出資比率と拠出する金額を決定してしまうことによって、全体としての予算が決定してしまうというようなんです。

具体的に数字を出して書くと、A社が幹事となって、『我が社が幹事なので、出資比率は50%とすることにします。そして、我社からは2000万円お金を出します!』と発言する。
この時点で、全体としての予算の上限が4000万円に決定してしまう。
作られた製作委員会は、その予算内でアニメを制作してテレビの放送枠を買う必要が出てきます。

テレビというのは、公共の電波を握っているわけで、放送局自体が少ない。つまりは、チャンネル数は限られているということ。
その上、テレビ業界と出資会社は、それなりに仲が良い。
というのも、テレビの主な収益はスポンサーから得られるCM料で、それを出しているのは、製作委員会の親会社である、おもちゃ外車や音楽会社。

この関係だけを観ると、一方的にスポンサー側の会社が強いようにも思えるが、テレビ側は、番組内で特定のキャラクターを取り扱った特集を組んだり、工場見学ツアーなどの番組を制作して発表することが出来る立場。
スポンサー側からしてみれば、この様なステルスマーケティングは大助かりだったりするわけで、持ちつ持たれつだったりする。
こういうズブズブの関係だと、アニメの放送枠の金額をまけてくれなんて提案もしないでしょう。

となると、そのしわ寄せが来るのが、アニメ制作の現場だったりする。
現場のことを知らない会社が大枠の予算を決めて、その中から友達のテレビ局にお金を渡す。
その搾りカスの様な金で、『クオリティーの高いアニメを作れ!』と言われるわけで、現場は地獄と化してしまう。

結果として、不眠不休で働いても年収が100万円台のアニメーターなんてものが誕生してしまう。

この構造の一番の問題点は、先程も書きましたが、予算が幹事会社によって決定してしまうというところ。
例えば、今、飛ぶ鳥を落とす勢いで成長している中国企業が、日本のアニメ制作に参入するために出資したいと思い、10億円を用意したとします。
しかし、この10億円という金額は、日本の製作委員会にとっては非常に困ってしまう金額なわけです。
何故かと言うと、10億円も出資されてしまったら、そこで発足される制作委員会で幹事になろうと思うと、幹事会社は最低でも10億円以上を出資しなければならない。
今までと同じように、2000万円しか出しませんなんてことをいってしまうと、出資比率は数%になってしまい、幹事どころか、得られる利益は微々たるものになってしまう。

では、今まで仕切ってきた日本企業はどのように対応するのかというと、中国企業のコンサルをやっている企業に上手く説明してもらい、10億の予算を1000万円の100分割にして、100本のアニメに分散投資されるようです。
この分割によって、日本企業は従来通りの金額で幹事になることが出来、それなりに主導権も握れるというわけです。
また、100分割されて投資が行われるということは、100本以上のアニメを作らなければならないという義務も発生するため、アニメの制作本数だけがドンドン増えていく…

制作本数が増えては行くが、予算の増額が行われない為、アニメーターに支払われる金額は増えることはなく、職場環境だけが悪化していくというのが、今の業界のようです。
この話は、アニメ業界の方か漫画家の方かは忘れたのですが、その方と岡田斗司夫さんが動画などで対談しているのを見て知ったので、元ソースは探せば出てくると思いますので、興味の有る方は探してみてください。

という事で、製作委員会の簡単な説明が終わったところで、冒頭のNetflixの話に戻ろうと思うわけですが、一番、注目すべき点は、Netflixの直接発注の場合、製作委員会と言うものが必要ないという事です。
製作委員会が、なぜ必要なのかという点について思い出してほしいのですが、製作委員会は、出版社や音楽業界、おもちゃ会社等の他業種と利益を分配する為に作られる持ち株会社の・ようなものです。
つまり、一本のアニメで様々なグッツ展開をする事で、制作費を捻出して儲けを出そうという考え方。
しかし、Netflixの場合は話が違います。

ネットフリックスが一番欲しいのは、単純に契約者であって、DVD売上やフィギュア販売なんて興味はありません。
では、契約者を増やすために何が一番重要なのかというと、優良な動画コンテンツです。
動画配信サイトでは、他社が著作権を有する作品の場合は、視聴時間によって、著作者にお金が支払われます。
etflixの単価は知りませんが、Amazonビデオの場合は、1時間で10円が支払われるというのを聴いたことが有ります。

つまり、動画配信サイトの場合、他社が著作権を持つ魅力のある、キラーコンテンツを引っ張ってきたとしても、それが観られれば観られる程、著作権料を支払い続けなければならないという事です。
先程書いた、1時間で10円という話を鵜呑みにすれば、1億人の人間が1時間みただけで、著作権支払いは10億円になってしまいます。
それなら、魅力あるコンテンツを、自分で作ってしまえば良い。自分で作ってしまえば、制作費用はかかりますが、それ以降の著作権料がかからない為、長期間で考えれば得ということになる。
etflixもAmazonも、全世界でサービスを行っている為、魅力のあるコンテンツを作ってしまえば1億人の視聴なんてアッという間に達成するでしょう。

この様な考えで行けば、アニメ1本で10億円の予算をかけたとしても、決して高いものではない。
製作委員会をすっ飛ばして、直接、アニメ製作会社に依頼をすれば、アニメーターもクオリティーに見合った単価で仕事が受けられる為、アニメ制作の救世主になると言われているんですね。

まぁただ、Twitterでは、『Netflixの仕事を受けたとしても、実際に現場が受け取っている金は変わらない』という意見もみましたし、製作委員会を飛ばすというのが難しいのかもしれないですし、飛ばしたとしても、別の中抜き業者がお金を持っていっているのかもしれませんけどね。
ですが、現状、何も変わっていないとしても、変化するのは良いことだと思うので、徐々に変化し、現場の人間が余裕を持って制作できる環境が実現すれば、それに越したことは無いと思いますし、そうなって欲しいものですけれどね。