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【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿 】第12回 東洋哲学(4) アートマン

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この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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前回は、『私』というものや、『意識』と言うものについて、私の考えを踏まえた形で話していきました。
意識は何故宿るのか、そもそも本当に存在するのかというのは、主観的な問題で、明確な答えや証明などは出来ない為、知識として理解することは難しいと思います。
東洋哲学では、知識として得ることではなく、体験として得ることが大事だと前に話しましたが、主観的な問題だからこそ、体験でしか理解できないとしたのかもしれませんね。

では、東洋哲学の基礎となったインド哲学では、どの様な解釈がされていたのでしょうか。

前回までに話してきて、『私』という意識ですが、インド哲学ではアートマンと呼んでいます。
インド哲学では、この、アートマンと、宇宙の根本原理であるブラフマンが同じという梵我一如という思想が生まれるわけですが、この梵我一如という考えが、何故、重要なのかというと
個人の根本原理と宇宙の根本原理が同じであるという事を、体験によって理解できた人間は、あらゆる苦悩から開放されて、究極の心理に到達できるとされていたからです。
『あらゆる苦悩から開放されて』という言い回しに、宗教臭さを感じる方も多いとは思いますが、ベースになっているのがバラモン教という宗教なので、その辺りは、仕方のないこととして、心のなかで線引して置いてください。

前回は、私の考えも踏まえて、意識とは何なのかということを考えてきましたけれども、では、インド哲学においての『私』アートマンとは何なのかというと、『非ず 非ず』としか表現できないものとされています。
この『非ず』というのは、簡単に説明すると、『そうじゃない』ということです。更にいうなら、『認識できないもの』という意味です。
『認識するもの』を『認識すること』は出来ないということです。

例えば、何の前提条件も付けずに、普通に、『私』とは何ですか?と訪ねた場合、多くの人が自分自身を指差して、『これが私』と答えそうですよね。
でも、その指差した私というのは、自分自身の体を観察したり、鏡に体を投影させることで認識が可能ですよね。『非ず・非ず』というのは『そうじゃない』としか言いようが無いって言ってるわけです。
自分の体は私なのかというと、『そうじゃない』というしかないし、鏡に写った自分は私かというと、『そうじゃない』としかいえないという事。
簡単に認識可能なものは、アートマンではなく、アートマンとはそもそも認識できず、捉えることが出来ず、故に壊れることもないものだと言ってるんですね。

では、イメージの世界ではどうなのでしょうか。
私たちは、イメージによって、認識している自分を認識することが出来ますよね。
例えば、目の前にコップがあったとして、それを目で見て認識している自分というのをイメージの世界で作り出すことによって、認識することが可能ですよね。

有名な野球選手にイチローという選手がいますが、その方は、最高の自分を作り出すために
『自分の斜め上にはもう一人自分がいて、その目で自分がしっかりと地に足がついているかどうか、ちゃんと見ていなければならない。』と言ったそうですが、この様に、自分をイメージによって客観視する事は可能ですよね。
では、それがアートマンなのかというと、それはアートマンではないんです。

先程の、イメージによって自分自身を観察する客観視ですが、これを行った際に、自分の主体はどの立場になるでしょうか。
例えば、コップを見つめる自分を客観視した場合、主体となる自分は、コップを観ている自分なのでしょうか。それとも、コップを観ている自分を客観視している自分なのでしょうか。
客観視のイメージを行った場合、自分の主体は、客観視をしている方に移ってしまい、コップを観ている自分というのは観察対象であって、自分自身ではないですよね。
となると、『私』という認識しているもの『そのもの』を観察することは出来ないことになります。
つまり、客観視によって観察されている自分というのはアートマンではないという事です。

これは、何回繰り返しても同じです。コップを観ている自分を客観視している自分を、更に客観視したところで、最終的な意識であるアートマンを認識することは出来ません。
認識するものを認識しようとして、無限に近いほどに客観視を繰り返したところで、認識するものは一番最後に俯瞰したところから認識するわけですから、その認識するものを認識することは出来ないということです。
その、『認識するもの』がアートマンとしています。
そして、アートマンについては、『非ず。非ず。』としか表現することが出来ないものとしています。

ここら辺りからの解釈が、かなり難しく、人によって解釈が変わってくると思います。
というのも、これを体験として、本当の意味で理解できるのであれば、それは悟った人なので、格としてはブッダと同じということになるんですよ。
しかし、私は当然のように悟ってないですし、東洋哲学系の本を出版している人達も、悟ってはいないはずなんですね。
また、仏教や、ヒンドゥー教に入信して修行している人も、悟ってない人達ばかりだと思うので、当然、解釈はそれぞれ変わってくると思います。
その為、ここで話すことが、確実に正しいとは思わずに、自分自身で考えて、自分なりの解釈を見つけてみてくださいね。

前から紹介させていただいている、史上最強の哲学入門の東洋哲学編には、人の不幸の最大の原因は、自分の認識とアートマンとのズレに有ると書かれています。
先程から説明している通り、アートマンとは捉えられないもので、客観視出来るものでは無いとされています。
しかし、現実の私たちはどうでしょうか? 現実に存在する私達は、自分のことを指差して、これが自分と言いますよね。
この認識のズレが、全ての不幸の元凶になっているという考え方です。 この本の中では、映画館と観客という例を使って、説明されています。

アートマンとは、認識するだけのものなので、捉えようがない存在なんです。つまり、映画館と観客という例でいえば、観客ということになります。
観客は、映画に映し出された主人公の人生をただ観ている。つまり、ただ認識し続けているだけの存在なのですが、無意識の内に観客である自分は、映画の主人公に感情移入をしすぎて、自分が映画の主人公だと思いこんでしまいます。
その結果として、主人公が痛い目にあうと、アートマンも痛いという感情を受けてしまうわけですが、そもそも、映画の主人公が殴られたり不幸になったところで、観客には何の関係もないですよね。
つまり、本当の意味での自分自身は、認識しているだけの存在である事を再認識することで、映画の主人公と本来の自分である観客を分けることが出来る為、そこには幸福も不幸も無いという事なんですね。

結構わかりにくいと思うので、私の解釈も付け加えると
この世にある物事全ては、ただそこに事実があるだけの状態でしか無いものなんですよ。つまり、不幸や幸福を纏ったものがそこに有るのではなく、事実がそこに有るだけなんですね。
でも、その事実を認識する際に、人間は自分のポジションによって、その事実の受け入れ方を変えますよね。
そして、ただの事実でしか無いものに、不幸であったり幸福であったりと言った意味を、自分自身で付け加えていきますよね。

例えば、自転車を盗まれたという事実が有ります。
この事実は、自分が必死にお金を貯めて購入したものが盗まれた場合、不幸な出来事として認識されますよね。
でも、盗難保険に入っていて、全額保証してもらえるなら、不幸の度合いは全く違いますし、盗まれる前に転倒していて、自転車が傷物になっていた場合、得した気分になるかもしれません。
また、長い年月使い続けていて、買い換えようと思っていたけれども、その踏ん切りがつかなかった時に盗まれたら、それは不幸な出来事ではなく、良いきっかけと捉えられますよね。

この様に、実際には『自転車が盗まれた』という事実だけが、世の中では事実として存在するんですけれども、その捉え方は、認識するものの状態によっても変わりますよね。
認識の仕方によって世界が変わるというのは、一時期、世界系というジャンルが、そのようなことをテーマにおいて、ヒットしていましたよね。

世界系で有名なものでいえば、エヴァンゲリオンがありますが、エヴァンゲリオンの主人公であるシンジ君は、エヴァに乗りたくないと思っていて、その環境に馴染めずに、ずっとウジウジしていましたよね。
でも、シンジ君のクラスメートのミリオタは、巨大兵器に乗って世界のために戦うヒーローに憧れていたため、シンジ君を凄く羨ましく思っていましたよね。
そのうち、仲良くしているもう一人の友達までパイロットに選ばれると、自分だけが選ばれない状態に気を落としてしまいましたよね。

ここでも、巨大兵器に乗って戦うという事実だけが有るんですが、その捉え方によって、事実の性質が変わってきますよね。
逆にいえば、事実の認識の仕方さえ変えてしまえば、世界の観え方が変わるという考えも出来ますよね。

ここで、そんなに簡単に、事実の受け入れ方を変えるなんて無理でしょと思われる方も多いと思うんですが、そもそも事実の受け入れ方を変えれないのは、『私』というものとアートマンとの間に、認識のずれが有るからなんですよ。
先程から何度も言っているわけですけれども、アートマンと呼ばれる人間の根本原理は、あなたが指(ゆび)を指して、これが私と言っているものではないんですよ。
ましてや、学歴や、社会的地位、どれほど財産を持っているかという、本人につきまとう付加価値のことでもないんですよ。
『私』とは、ただ、認識するだけのものなんですよ。
ただ、そこに有るだけの事実を認識するだけの存在が、『私』なんですよ。

これを、自分を指さして、これが自分と言い、この大学を出てこの会社に入り、年収1000万の私が自分と言ってしまうと、そこに価値判断が挟まってしまうので、その価値が揺らいだ時に、不幸が訪れてしまいますよね。
でも、それは自分じゃないんですよ。認識できるもの全ては『私』では無く、『私』とは認識できないもので、捉えようのないものなんですよ。
これは、全宇宙のものがそうで、この世の中には、ただ、事実が有るだけなんですけれども、『私』とか『自分』といった物の解釈を間違ってしまうと、その事実に、自分自身で線引を行って、レッテルを貼っていってしまいますよね。
つまり、この事実は不幸で、この事実は幸福と言ったぐあいにですね。

ただ、先程から言ってますけれども、その事実は、ただそこに有るだけなので、他の人間から観ると、その幸・不幸は変わってきますよね。
ある人物にとっては幸福でも、ある人物にとっては不幸と言った具合に。

これが分かりやすいのが、株式市場だったりしますよね。
株式市場では、決算などで、ただひとつの事実だけが伝えられます。
しかし、その事実の捉え方は、『これから株を購入しよう』としている人と、『売り抜けよう』としている人と、『買い増ししよう』としている人と、『既に空売りをしている』人とで、認識が変わりますよね。
何故、認識が変わるのかといえば、株に対してアクションを起こそうとする事に、とらわれているからですよね。
もし、株に何の興味のない人が、決算発表のニュースを観たとしても、ただ、事実を認識するだけですよね。

これを、体験によって、本当の意味で理解することを重要としたのが、インドのウパニシャッド哲学です。
次回は、この後に発展した、仏教について、考えていこうと思います。