だぶるばいせっぷす 新館

ホワイトカラーではないブルーカラーからの視点

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿 】第14回 言葉の限界(2)

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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前回の放送では、言葉には限界があるということについて話してきました。
言葉の限界とは、自分の思い描いているイメージを、言葉を使って表現して、他人に伝えるには限界があるということですね。
これを、言語が違うという形でも表現しました。 言語が違うというのは、日本語と英語というように、使っている言語が違うという意味ではなく
同じ日本語同士でコミュニケーションをとっているにも関わらず、互いが通じ合わないという現象のことです。

では何故、同じ日本語通しなのに言葉が通じないのかというと、イデアの有無によるんじゃないかというところまで、前回話しました。
イデアというのは、このコンテンツの第2回3回辺りで話した、プラトンが主張した考え方ですね。
詳しくは、前の放送を聞いてもらいたいんですが、簡単に言うと、モノや概念の理想形やオリジナルというのはイデア界にしか存在せず、この世で、それらを表現しようとした場合、全てのものが模倣したものになってしまう。
更にいうなら、本物はイメージの世界であるイデア界にしか存在せず、この世にあるのは全て、偽物だという考え方です。
このイデアというのは、言い換えると『絶対的な価値観』という事になるので、イデアという価値観は最高のものが1つだけ存在する為、厳密に言うと、微妙に意味合いは異なってくるんですけれども、考え方としては似ているので
ここでは、頭のなかに有るイメージという意味合いで使っていきます。

過去の放送分を聴いてもらえばわかるのですが、このイデア論というのは、弟子のアリストテレスによって批判されます。
哲学というのは、多くの場合は既にある理論を批判することによって、新たな考え方というのが生まれる場合が多いので、主張された理論はいずれ批判されるわけですけれども、ここで注意して欲しいのは、批判と否定は違うということです。
最近の日本では、批判と否定が同一視されて、批判されることがイコール主張の否定になって、前の主張が間違っていたという受け止められ方がされがちです。
しかし、批判と否定は違うもので、批判されたからといって、その対象が間違っていて無価値なものというわけではありません。

というのも、これは、前回と今回のテーマである『言葉の限界』にもつながってくるんですが、そもそも、その本人が考えている主張を、誤解なく、完璧に理解することは出来ません。
何故なら、言葉には表現の限界があって、まず、言葉に変換した時点で、自分のイメージとはかけ離れたものになってしまうからです。
そのかけ離れたイメージを、言葉を通して相手は聞くわけですけれども、この言葉を正確に聞けるかどうかは、相手の読解力が関わってきます。
自分のイメージを空いてに伝えるためには、これほどの障害をくぐり抜けるわけですから、イメージそのものを完全に理解することは、結構、無茶な作業ともいえますよね。

その状態で批判されたとしても、批判された側は、自分のイメージが上手く伝わっていないと思うでしょうし、批判する側も、相手の主張は こう だろうという憶測で批判するわけなので、批判その物が見当違いの可能性も多いでしょう。
ですから、誤解なく、明らかな間違いというもので無い限りは、批判されたからといって、確実に間違っているともいえないわけですね。

という事で、本題に入っていきましょう。
言葉が通じないのは、イデアの有無についてと言いましたが、それを、前回 例に出した掃除の例で考えてみましょう。
前回の投稿をまだ聴いていない方は、先ずそちらから聴いてくださいね。

簡単に振り返ると、掃除の仕方を根本的に理解していない人に、『掃除をしてください。』と指示を出したとしても、床に掃除機をかけるだけで終了してしまって、きっちりと掃除を行ってくれない。
こういう人に対して、しっかりと掃除をしてもらおうと思うと、『窓を拭いてください。』『階段を吹いてください。』『トイレを掃除してください。』『ホコリを払ってください。』と全ての事に対して支持を出していかなければなりません。
でも、こうして細かい指示を一つ一つ出していくと、指示自体が膨大な量になってしまう為、言われた側は覚えられないという状態になってしまいます。

では何故、この様な現象が起こってしまうのでしょうか。
掃除を支持した際に、相手が掃除をうまくしてくれない場合というのは、大抵は、掃除を指示した側には、掃除というイデアがあって、支持を受けた側には、掃除のイデアが無いからなんです。
イデアを持つ人間が、イデアを持たない人間に対して、『このイデアの通りして』と支持したところで、イデアを持たない人間は、指示の意味がわからないので、行動を起こせないということです。

これはどういうことなのかを、順を追って考えていきましょう。
指示されている側というのは、『掃除機をかける前に、大きなゴミを拾う。』『整理整頓をする』『掃除機をかける』『拭き掃除をする』等の膨大な量の指示を一度に受ける為、それを覚えるのが大変ということになります。
また、この様な感じで具体的な内容を一つ一つ覚えて行動する場合、順序を間違えたり、忘れてやらなければならないことを抜かしてしまったりする事によって、二度手間が発生したりと、効率も落ちてしまいます。
でも指示した側は、そんな大量の指示をしている覚えはなく、指示した内容は最初から、たった1つの事で、『掃除してください。』という事だけなんです。

では何故、指示する側と、される側で、この様なギャップが生まれるのかというと、支持している側は、『既に掃除された完成形の部屋』というイデアを持っているんです。
このイデアを持つ人にとっての掃除というのは、部屋にある沢山の物を、その理想とする部屋に近づけていくだけなので、整理整頓も有るべき場所に有るべき物を配置していくだけなので、特に考える必要はありません。
また、自分の部屋の掃除の場合は、特に行為として『掃除』をしようと思わなくても、ものを使った時は使った場所に返せばよいし、疲れていてその辺に一時的に置いた場合は、気がついた時に、有るべきものを有るべきところに、自然に返します。
その為、意識的に整理整頓をすることもなく、部屋が散らかっていない状態をキープできる為、掃除という行為を意識して行う必要もありません。

また、部屋の理想形が常に頭にある人は、外出した際に、何か格好いいものや可愛いものを見つけた際も、それを買った際に置き場所が有るかどうかを、無意識に考えることが出来ます。
置き場所がない場合は、それを買うことが無い為、部屋に物が溢れるということもありませんし、どうしても欲しい場合は、既に部屋にある物のどれかを捨てる事も考えた上で、購入します。
つまり、既に掃除された完成形の部屋というイデア、理想形がある人間にとって、掃除というのはライフスタイルであって、特定の行動を指すわけではないんです。
物を使うために移動させたら、使い終わったら元の場所に返すといった、日頃から行う基本的な行動の積み重ねを無意識の内に行う事で、意識して何かを行うようなことでもないんです。

これに対して掃除の出来ない人は、頭のなかに、部屋の理想形というものが存在しないので、当然、整理整頓が生活の中に組み込まれることもありません。
その為、使ったものはその辺に捨て置きますし、服を脱いだ場合は脱ぎっぱなしになりますし、ゴミはゴミ箱に捨てずに、その辺りに置いておく事になります。
外出先で何か良いものを見つけた際は、当然、それを購入しますし、家に帰って置き場がない事に気づくと、それもまた、その辺りに捨て置くことになります。
結果として、部屋は荒れ放題になるんですが、それを掃除しろと言われたところで、どれを何処に片付ければ良いのかも分かりませんし、どれを捨てて良いのかも分かりません。
何をして良いのかわからないので、結局、整理整頓もしないまま、とりあえず掃除機をかけて『掃除は終わり!』と言い聞かせるしか無いんです。

こういう人に対して、『整理整頓は、有るべきとろこに、有るべきものを置けば良いだけでしょ。』と言ったところで、話が通じるはずがないですよね。

理解をより深める為に、もっと多くの方が体験を得ている例でも考えてみましょう。
例えば、虫に刺されるなどして、体の何処かの部分が痒くなったとします。この場合、多くの人は、特に考えることもなく、痒い部分を掻く人が多いのではないでしょうか。
そしてこの時、つまり体を掻く時に、体一つ一つの動きを意識するでしょうか。多くの人は、体の動きなどは意識しないままに、掻きたい部分を掻きたい様に掻くのではないでしょうか。
大抵の方は、体の何処がか痒いと思った際には、自然と体を動かして、目的の場所を掻くと思うのですが、そんなアナタの前に、『体が痒いんですが、どうしたら良いでしょう。』と質問してくる人が現れたとしたらどうでしょう。

あなたは、『痒い部分を掻けば良いんじゃないですか?』としか答えようがないですよね。
でもその人が、『痒い部分を掻くって、どうしたら良いんですか?』と質問してきたとしたら、どうでしょう。
『痒いところに手を持っていって、心ゆくまで掻いてください。』と答えるしか無いですよね。
でもその人が更に、『痒いところに手を持っていくって、どうしたら良いんですか?』と質問してきたとしたら?
あなたは、先ず、どの部分が痒いかを、その方に聞くところから始めなければなりません。

その人に、『何処が痒いんですか?』と質問した結果、首の後が痒いという答えが帰ってきたとしたら、次は、手を首の後に誘導しなければなりません。
どちらか一方の手を地面と水平になる位まで上げて、腕全体を少し外側に回した後、肘から先を曲げてみましょう。という感じで、手を痒い部分に誘導し、その部分に指を当ててもらって、上下左右に動かしてみてください。と、いちいち説明しないといけません。
その結果として、その質問をしてきた方が、首の後を掻くことに成功したとしましょう。
すると、その方は次に、『右足の こうの部分も痒いんですが、どうしたら良いんでしょう。』と質問してきたとします。

貴方は、『さっきと同じように、痒い部分に手を持っていって、掻けば良いんですよ。』と答え、質問者が、『さっきと一緒でいいんですね』と、手を首の後に持っていったとしたら?その間違いを訂正して、次は、足に手を持っていく方法を、一から説明しないといけません。
質問者は、貴方から色んな場所の掻き方を教えてもらった後、『痒い部分を掻くのって、物凄く覚えることが沢山あって大変ですね。』と言ってきたとしたらどう思うでしょう。
貴方はきっと、『覚えることなんて沢山無いですよ。 掻きたい部分に手を持っていって、掻けばよいだけ。覚えることは、その一つで十分ですよ。』と思うのではないでしょうか。

では何故、この様なギャップが生まれてしまうんでしょうか。
これは、体を掻くという行為を無意識レベル出来る人にとっては、呼吸をするのと同じぐらい簡単に出来ることなので、難しいことでも何でもない事なんです。
何故なら、無意識レベルで出来る人には、『体を掻く』という行為が体験として理解できていて、イメージとして確実に存在し、痒い場所が何処にあろうと、その法則に則って体を動かせば良い事を理解しているからです。
一方で、これが無意識に出来ない人、つまり、体験によって理解していない人にとっては、ケースによって、つまり、痒い場所が変わるたびに体の動かし方が変わるわけで、その動かし方を全て覚えようと思うと、ものすごい労力がかかってしまうということなんです。
確固たるイメージが無い為、法則に当てはめることも出来ず、痒い場所が変わる度に、体の動かし方を考えなければなりませんし、解らなければ教えを請わなければなりません。
ですが、ここで教えてもらえることは対処療法でしか無く、『体を掻く』という根本的なイメージではありません。
体を掻くという根本的なイメージを得るためには、体験として理解する領域にまで到達する必要が出てきます。

これは、全ての事について当てはまります。
例えば、彫刻家のミケランジェロは、彫刻は石の塊の中に完成形として既に存在し、ただ埋まっているだけなので、それを掘り出すだけで良いといったことを言っていますよね。
彫刻を彫るという事を体験として理解している人間にとっては、彫刻を制作するとは、既に完成品が存在していて、それが発泡スチロールのような物に包まれているようなイメージで、それを木の道具を使って掘り出すだけの作業なんでしょう。
完成形としての彫刻と、周りを包んでいるだけの物体には明確な違いが有るので、掘ってはいけない部分に差し掛かると体が勝手に手を緩めるし、掘っていい部分では勢い良く不純物を削る。
設計図なんてものは必要ないし、考える必要もなく、ただ、完成形として存在する石像を掘り返すだけの作業でしか無いんでしょう。

しかし、彫刻を彫るというイメージを体験として理解していない私の様な一般人には、まず、彼が何を言っているのかが理解できません。
そんな彼に教えを請うた場合は、彼は、普段意識もしないような基本的なことから話していくことになります。
まるで、体の掻き方を知らない人と同じように、『まず、手を水平まで上げてみましょうか。』といった感じで、イチから丁寧に教えてくれたとしても、それは根本的なイメージを培う為のものではなく、目の前にある1体を完成させるためだけの対処療法でしかありません。
石の形や大きさが変わってしまえば、また、イチから教えを請わなければなりません。
私が本当の意味で、ミケランジェロの発言を理解しようと思うのであれば、先ず、彼が立っている場所まで到達する必要がでてきます。

つまり、石の塊の中に完成形が見える状態を、体験として知るということですね。
この、体験として知るという共通のイメージ、つまりは、イデアを共有する事で初めて、それを前提とした共通の言語で会話が出来るということなんです。
では、言葉の伝達だけでそのレベルに達することが出来るのかというと、それは出来ないんです。
仮に、それが可能だとするなら、彫刻を掘るという技術は、ミケランジェロが書いた彫刻に関する本や言動を まとめた本を読むだけで身につくことになります。
ですが、実際に私達の生活を振り返ってみて、どうでしょう。本を読むだけで、何らかの能力が身につくことなんて、ほぼ無いですよね。
能力を身につけるためには、何らかの実践経験を積んでいって、体験として知って初めて、身につきますよね。

東洋哲学が重視するのは、この、体験として知るという事なんです。
体験としてイメージを理解したものを、言葉に変換すると、当然のように、矛盾が起こってしまいます。でも、イメージさえしっかりとしていれば、言葉による矛盾が起こる事は、特に問題はないんです。

その一方で西洋哲学は、言葉や論理による理解を重要視します。
つまり、言葉を使った論理に矛盾が有れば、その部分について批判されるということですね。
これは、ソクラテスが自身の主張である無知の知を理解してもらうために、色んな人に議論をふっかけては揚げ足を取って、『貴方は何も知らないじゃないですか』と言って回った事が影響しているんだとは思うんですけども…

でも、前回と今回で語っている通り、言葉というのは、前提となるイメージを共有していないと通じ合えない、かなり不完全なものですよね。
史上最強の哲学入門 の東洋の哲人たち という本の最後には、言葉の不完全さを説明するために、現代の哲学者の言葉が引用されていますので、その部分を読んでみたいと思います。

『生まれたときから目が見えない人に、空の青さを伝えるとき何て言えばいいんだ? こんな簡単なことさえ言葉に出来ない』
これは、本の中で現代の哲学者として紹介されている、江頭2:50さんの言葉ですが、まさに、その通りですよね。
言葉が、そこまで完全であるなら、生まれた時から目の見えない、つまり、色を知らない人にも空の青さを伝えられるはずですけれども、言葉というのは、そんなものも伝えられない道具なんですよ。

この、空の青さを真理に置き換えて、盲目の人というのを悟っていない人に置き換えれば、悟りを言葉で伝えることが如何に難しいかが理解できると思います。
この様に、真理というのは言葉では伝えられるようなものではない!としたのが、東洋哲学なんですね。
で、言葉については、今後も度々語っていくことになると思うので、今回はこの辺りにして、次回からは、仏教について触れていきたいと思います。