だぶるばいせっぷす 新館

ホワイトカラーではないブルーカラーからの視点

人は 社会を回す歯車でしかないのだろうか

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私のBLOGを毎回読まれている方が、どれほどいらっしゃるかは分かりませんが、私はブログ内で、矛盾しているようにも思える事を書いていたりします。
例えば、ある投稿では、生産性が上昇する事で職が無くなっていくので、今の社会を続けていくのであれば、生産性が上がり過ぎない方が良いと書き…
別の投稿では、さらなる効率化が必要だという感じで締めくくっていたりします。

これを読まれた方は、一体ブログを通して何を主張したいんだと思われるかもしれませんね。
ですが、私自身としては、矛盾はなかったりします。
一見矛盾しているように見えるのは、投稿毎にテーマに沿って書いている為で、想定している前提は微妙に違ったりします。
ただ、そのことは詳しく書いているわけではない。
結果として、投稿毎に主張が変わってしまっているように見えるんですね。

という事で今回は、私の基本的なスタンスについて書いていきます。

まず、生産性の上昇の是非についてですが、今の様に全ての人に働くことを強いる社会であれば、生産性は高めるべきではないと思います。
というのも、今までの経済モデルは、既に限界が来ているからです。
このことは、世界中が金融政策を行っているにもかかわらず、経済的な問題が一切解決できていないことからも分かりますよね。

しかし、それでもなお、今の状態を継続していくというのであれば、生産性を高めずに無駄を残すことが必要になってきます。
何故かというと、既に労働人口は余ってきているからです。
『今は人手不足でしょ!ニュースでいってるよ!』と反論する方は、では何故、労働者の給料が上昇しないのかを考えてみればよいでしょう。
今の人手不足というのは、最低時給で働いてくれる人が不足しているだけで、給料を上げて待遇を改善するぐらいなら、今の状態で何とかやっていくというレベルの人手不足です。

世間一般の人が月給30万円の給料が貰える職を探しているのに、月給17万円で募集していてもミスマッチが起こるだけ。
結果、求人の数値が増える事で有効求人倍率が改善しても、求職側からはとても選べない選択肢なので、無いのと同じ状態といえます。
これで人手不足といわれても、説得力に欠けますよね。

こんな世の中で更に生産性を上昇させる為に、効率化を推し進めたとしたらどうでしょう。
労働者はさらに余ることになり、労働条件はさらに悪化します。
多くの人の労働条件が悪化するという事は、消費に回す余裕もなくなるという事なので、最終的に経済は崩壊していきます。
この悪循環を止める為には、生産性は高すぎない方が良いというわけです。

では他の投稿で、『効率を高めるべきだ。』と書いたのは何故なのか。
これは、そもそもの前提が違うからです。

私は、今のすべての人が働くことを前提とする社会というのに、かなりの疑問があります。
そもそも人間は、如何に安定的に、働かなくてよい社会を作るのかという方法を模索してきました。
今となってはあってはならない事ですが、負の歴史である奴隷制度等も、働きたくない人が労働を他人に押し付けようとした結果でしょう。

それから技術が進み、今ではかなりの部分が機械によって自動化され、それによって生産効率も飛躍的に上昇しました。
その結果、世の中はとても消費しきれない量のモノやサービスで溢れかえり、先進国では供給過多の状態にまでなりました。
また、人工知能の開発も進み、あと10年でかなりの量の職業が消えるともいわれるようになりました。

ここまで技術が進んだのであればば、そろそろ、生産部分は機械に任せ、ゆっくり暮らせばよいというのが私の考えです。
といっても、全てが機械化できているわけではありません。その為に、さらなる効率化が必要というわけです。


こういうことを書くと、『頭の中がお花畑』だとか共産主義者と罵られるのでしょう。
皆が仕事をしなくなれば、人は堕落し、更ならる発展もしなくなるという反論もされるかもしれません。

しかし、本当にそうでしょうか。

過去の歴史を振り返ると、人って、仕事がなくなったら無くなったで、何かするんですよね。
例えば、奴隷に労働を任せていたギリシャでは、暇になった人は何も生み出さなかったのかというと、哲学が生まれました。

人は社会を形成する生き物なので、『何もしなくて良い』といわれても、何かをしてしまう生き物なんです。
ある実験によると、全ての情報を遮断した何も刺激が無い部屋に、自身に対して電気ショックで痛みを与える道具と一緒に人を入るという実験が行われたそうです。
その部屋に入れられた人は何もすることがないので、何らかの刺激を得る為に、一緒に入れられた道具を使って自傷行為を始めたそうです。

つまり、人にとって最も苦痛な行動というのは、全く何も行動しないという事なんです。
何もせず、ただただ時間を浪費できるのは、そういう才能を持った人だけ。
何出来ない状態であれば、自分を傷つけた方がマシというのが、人間です。

その一方で人は、報酬を貰わなくても人の役に立って喜ばれることに、快感を覚える生き物なんです。
この世から、しなければならない仕事がなくなった場合、人は何らかの形で行動を起こすと考えるのが自然でしょう。

昔の共産主義のように、全ての人間が働くことを前提としたシステムは、無理がありました。
ですが、全体の2割ぐらいが仕事をする事で上手く循環するシステムが出来たとしたらどうでしょうか。
世の中にはパレートの法則というのものがあり、システムの運営は2割ぐらいが働けば良いという考え方もあります。

これは、2割の人間を奴隷として強制的に働かせるという事ではありません。
2割しか働けないとなると、人って働くもんなんです。

例えば科学者は、お金が貰えるから研究をしているのでしょうか。
医者は、金が貰えるから診察をしているのでしょうか。
確かに中には、そういう人もいるでしょう。
ですが結構な割合で、人を助けたいから医者になったり、自身の知的好奇心や世の中の為に研究をしている科学者がいるのではないでしょうか。

これは職を問わず、そうなんだと思います。
実際に自身の手足を動かして仕事をしている人は、根本的な部分では、仕事を通して喜んでくれる人がいて、それによって自分も幸福になれるからというのが、仕事をする動機の大きな部分になっていると思います。

ただ、生活をする為にはお金がかかる。
家族なんかを抱えていると、余計にお金は重要になってきます。
その為、金銭面も考慮しなければならない。
そうなると、仕事をする上で金銭も重要になってくるというのが現状だと思います。

でも、もし、生活面を考えなくてもよくなったとしたら…
自分の好きな事に熱中する事が、世の中発展につながるのだとすれば。
そしてその行為が人から必要とされているものであるのなら、それが幸福につながる道だと思うんですよね。

とは言っても、明日から急に、『世界のシステムを変えよう』なんて言うのは無理です。
現実的なのは、今注目を浴びているベーシックインカムについての研究や導入の検討なのでしょう。
皆が最低限の生活が保障されている状態になるというのは、結構な変化だと思います。

『非現実的だ』と反発される方も多いとは思いますが、今のシステムも先細りで、それを良い感じで持ち直すことも、十分、非現実的だと思うんですけどね。