だぶるばいせっぷす 新館

ホワイトカラーではないブルーカラーからの視点

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿 】第16回 ゴータマ・シッダールタ(2)

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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前回は、輪廻転生やこの世が苦しみであると言ったことや、仏教の開祖となったゴータマ・シッダールタが悟りを得るまでの話を、簡単に説明していきました。
今回は、前回簡単に紹介した内容を、もう少し詳しく説明していこうと思います。

苦しみについての大まかな考え方は、前回で語っているので、詳しく知りたい方は前回の放送を聞いてもらいたいのですが、簡単に言うと、苦しみとは相対的な概念なので、この世から無くすことは出来ないという事です。
苦しみをこの世から完全になくしてしまった場合は、それと対になっている幸せという概念も消滅してしまいますし、この世が楽しければ楽しいほど、死は恐ろしいものとなっていきます。
光が強ければ、それだけ影は濃くなるということでしょうか。

苦しみについての大まかな考え方は、この通りなのですが、今回は、輪廻転生と組み合わせた形で、別の側面から観ていきます。
まず、この世が苦しみで満たされているという発想と輪廻転生という発想は、当時、インドを支配していたバラモン教の世界観が強く現れた発想です。
インドでは、現在もカースト制が採用されています。カースト制とは、日本でも有った士農工商といった身分制度のことで、生まれながらにして身分を決定し、労働の役割分担や差別などを行っていたんです。
この様な身分制度ですが、これを運用していくというのは、結構難しかったりします。

というのも、身分制度で中間層に位置する人間は、自分よりも下のものを虐げる事で鬱憤を晴らせますが、最下層の人間は、ただ、辛い現実を突きつけられることになります。
最下層の身分の者を虐(しいた)げ過ぎて、全てのものを奪ってしまうと、失うものが何もなくなった最下層の人達は、開き直って暴動を起こすなんてことも考えられます。
日本の場合は、実質は最下位である農民を、建前として武士の次という上位に持っていくことで、気持ちのやり場を調整しようとしていたんですが、それでも、失うものが何もなくなった状態に追い込まれると、一揆などを起こしてましたよね。

古代インドでは、その調整として、輪廻転生やカルマといった概念を持ち込んで、そんな気を起こさせない様にしようとします。
カルマというのは、簡単にいえば、自分の取った行動を数値化するような考え方です。
悪いことをした際にはマイナス何ポイント。 善い行いをした場合には、プラス何ポイントと言った具合で、人の行動を人生を通してポイント化していって、最終的に死んだ時に判定が行われて、善い行いをした場合は
上位の身分として生まれ変わるといった感じでしょうか。

つまり、自分が最下層の身分として生まれたのは、前世や、それよりも前の人生で悪行を積み重ねてきたからで、自業自得。
その身分から抜け出したいのであれば、現世で善行を積む事で、少しでもマイナスポイントを減らし、プラスに持っていくことで、次に生まれ変わる時には高い身分として生まれ変わることを願うといった考え方ですね。
最下層の身分に落ちたのは、過去の過ちのせいなので、それを差し置いて暴動を起こすなんてとんでもない行動。
もし、国の制度に対して反発し、暴動を起こすなんて事を行動に起こしてしまえば、それは悪行とされる為、次に生まれ変わった世界で更に苦しむ事となる。
この様な考え方によって身分制度を肯定し、暴動を抑えていたんですね。

この時代というのは、今のようにネットがあるわけでもなく、義務教育があるわけでもありません。
知的階層以外の人達の識字率も少ないでしょうから、知識を有する人達から、カルマや輪廻転生といったものを利用した一種の脅しを受けると、それを真に受けて、奴隷の生活を受け入れる人も結構な数がいたんでしょうね。
このカースト制の浸透は凄く、ブッダと共に荒行をし、その後、ブッダの理論を聴いて感動を覚えた人間ですら、『ブッダが35の若さで悟りを開けたのは、何度も生まれ変わり、その度に善行を積んでいたからだろう。』と思われる程に
信じられていたようです。

これに対し、ゴータマ・シッダールタが主張したのは、悟りを得る事による『解脱』です。
解脱とは、輪廻転生の鎖を断ち切って自由になろうという考え方で、言い換えれば、カースト制の否定にも繋がる主張です。
何故、カースト制の否定につながるのかというと、カースト制を維持し続ける為には、先程も言いましたが、輪廻転生が不可欠です。
低い身分に生まれるのは、前世で悪いことをしたから。だから、酷い仕打ちを受けるのは当然の事。
その辛い仕打ちを耐え抜いて、上の階層の者の役に立つ事で徳を積めば、次に生まれ変わった時には、今よりも上の階層に生まれ変われるという世界観が前提となっています。

しかし、悟りを得ることで解脱が出来、この世に生まれ変わらなくて良いのであれば、今生きている人生が最後の人生ということになります。
次に生まれ変わった際の心配もしなくて良いので、今この瞬間を自分の思い通りに生きることが出来ます。

では、悟りを開く為には、何をしなければならないんでしょうか。
この当時、インドでは荒行が流行っていたそうなんですが、その様な厳しい修行を耐え抜かなければならないのかというと、そうでは無いんです。
ブッダは、荒行や瞑想と言った、その当時主流だった修行は一通り行いましたが、それらでは悟りは開けないことを明言しています。
結果としてブッダは、菩提樹の元で3日間考え抜いた後、悟りを得ています。

では何故、荒行などの修行は必要ないのでしょうか。
それは、そもそも荒行とは、梵我一如の考え方を誤解したことで生まれたものだったからだそうです。
梵我一如の考え方は、宇宙と個人の根本原理は同じものなのだから、宇宙の根本原理である真理を得るためには、自分の事をしる。つまり自己探求が必要だという考え方です。

その自己探求の結果として、アートマンとは自分を構成している あらゆるモノでは無い存在ということが分かります。
言葉で表すなら、『非ず、非ず』としかいえないもの。あらゆるものに対して『そうじゃない。それではない。』としか言えないものということです。
つまり、自分が纏っている身分や所有している財産のことではありませんし、自分の外見や、体その物の事でもありません。
アートマンとは、ただ観測しているだけの存在で、ただそれだけでしか無いものという事です。

この考え方が、時代を経る事に変化していくことになります。
梵我一如を説いた、ヤージュニャヴァルキヤがおよそ紀元前750~前700年の人物で、ブッダは、しっかりとした記録が残っていないせいか、様々な説が有るんですが、紀元前600年~380年の間の何処かと言われています。
ヤージュニャヴァルキヤがなくなってから数百年経っての登場なので、ブッダが登場するまでの間、梵我一如は解釈が解釈を呼んで、オリジナルからかけ離れたものになっていたんでしょうね。

では、どの様に誤解されていったのかというと、アートマンというものは、観測することが出来ず、故に壊れることも傷つけることも出来ずに、死ぬこともない存在なので、人間が肉体的に感じる感覚は、アートマンではないことになります。
この考え方がドンドン飛躍していって、肉体的感覚と精神的なもの、つまり、魂的なものとを分離させようとする試みが行われます。



その過程で生まれたものの一つが、荒行だったりします。

もう少し説明すると、肉体的な感覚や、肉体が存在することによって生まれる拘束感などは、アートマンでは無いものなので、それらを感じないような境地に自身を追い込んでいきます。
例えば、何日も食事を取らないと、肉体は当然のように食事を欲するため、空腹に襲われます。
ただ、空腹という感覚は肉体が存在することによって生まれる苦痛や欲望なので、アートマンではありません。
アートマンとは、傷つかず壊れず、故に、死ぬことがないものなので、その苦痛や欲望はアートマンとは程遠いものと考えられます。
これらの苦痛や欲望を、精神的に押さえ込む事によって、本来のアートマンに近づこうと思ったわけです。

確かに、荒行というのは苦しみや凄さが数値として理解できる為、一種の基準としても使えるため、非常に便利なものです。
隣の修行者が9日の断食に成功したのであれば、自分は10日間の断食に成功すれば、その人間よりも苦痛に耐えた事となり、自分の方が偉業をなしたと他人に説明しやすいですし、この記録を11日・12日と伸ばしていくことで、成功に近づいている感覚が得られるので、目標も立てやすくなります。
しかし、この荒行を行うという行為は、行えば行うほど、アートマンからは程遠くなっていきます。

というのも、苦痛を乗り越える、苦痛を耐え抜くという行為は、苦痛というものを無くしては生まれない価値観だからです。
他人に真似出来ない程に苦痛だからこそ、その行為が偉業とみなされるわけですし、苦痛を伴からこそ、頑張ったという実感が得られます。
逆に、誰が行っても苦痛を感じないような行為であれば、その行為を行ったとしても誰からも尊敬されませんし、一歩づつ進んでいる実感も得られません。
この荒行という行為は、苦痛という感覚に完全に依存した行為で、苦痛が存在しなければ意味をなさない行為です。

別の視点から見れば、苦行というのは肉体が苦痛を感じなければ意味を成さないということなので、肉体による感覚に依存するとも考えられます。
ですが、先程からも言っている通り、アートマンとは肉体やそれに付随する感覚のことではありません。
にも関わらず、完全に肉体の感覚に依存している荒行は、根本的に間違っているということです。
この間違った行為である荒行が推奨され、尚且つ、荒行に耐えた人間が神のように扱われることで、プライドまで満たされる。
これは、完全にアートマンに意味を取り違えているわけで、この行為を続けたとしても、悟りなんて開けるわけがないということですね。

では何故、この様な誤解をされたまま、荒行が流行することになってしまったんでしょうか。
理由は2つあって、一つは、アートマンというものの理解が非常に難しく、大半の人間が、肉体的な感覚に依存した考え方しかできないからなんです。
私は、死の恐怖というものが昔から少なく、不安というものもそんなに感じない状態で生きてきました。
これは今も同じで、今私が生きているのは、今直ぐにでも死にたい理由というものが無い事と、自分が死ぬことで、親が生きる意味を失ってしまうからなんじゃないかという思いから、積極的に死のうとは思っていないだけなんです。

この様な考えは、単純に私がアートマンの意味を理解しているとか、悟っているとかと言ったものとは関係がなく、単純に平和ボケという事もありますし、満たされた生活を送ったせいで欲望が薄いからかもしれません。
理由はよく分かりませんが、日常生活において『死んだらどうしよう』なんて心配はすることがなく、そういった意味では、死の恐怖からは開放されているともいえる状態を維持しているんです。
このことを、中学時代に当時の知り合い3人程に話したところ、その知り合いは、口を揃えて、私の考えを否定し始めました。

例えば、『今現在、観ている漫画やアニメ、ドラマなんかがあるでしょ? 今死んだら、それらが全て見れなくなるんだよ?』
とか、『じゃぁ、この場で手足を縛って拘束して、足から1センチずつノコギリで切っていっても、良いんやね。』と言った、見当外れの事を言い始めたんです。
この反論は、荒行を肯定している当時のインド人と同じことで、肉体と意識を同一視した結果、出て来る言葉です。

前者の、楽しみにしているコンテンツが見れなくなるのは良いのか?といった質問は、そもそも肉体というものが存在して、時間という概念がある世界にいるから、暇な時間というものが生まれて、その時間を埋めるために行っている作業が、コンテンツを楽しむという事です。
そのコンテンツを見るために生きているわけでも生まれてきた訳でもありません。例えば、何らかのアクシデントで1話見逃すといった事が起こっただけで、観る気をなくしてしまう可能性がある程度のものですし、他にやるべきことがある場合は、後回しにされるようなものですよね。
死というのは、人生の中で最大の変化なので、それに対する恐怖が薄い人間にとって、コンテンツが見れなくなる恐怖なんてものは無いに等しいわけで、コンテンツを楽しめなくなるから死にたくないなんて考えはナンセンスですよね。

そして、後者の足を1センチずつ切り刻んでいくという拷問ですが、これは完全に論外なんですが、この様に考える人が多いからこそ、荒行なんてものが肯定され続けてきたんでしょう。
というのも、仮に、この拷問によって泣き叫んだとしても、それは、痛みを感じて泣き叫んでいるだけであって、死にたく無いというのとは全く関係がない事ですよね。
これは冷静になって考えてみれば、肉体的な痛みと死という全く別のものを同一視する事によって起こってしまう錯覚でしか無い事が、分かると思います。

じゃぁ、苦しまずに死ねる薬が合ったとして、それを差し出されたら飲むのかというと、これも、別の話ですよね。
私は、積極的に死にたいといっているわけではなく、死ぬことに対する恐怖が無いと言っているだけなんですね。
つまり、痛い思いはしたく無いし、積極的に死のうとは思っていない。でも、死に対する恐怖が無いと言っているわけです。これは言い換えると、今この瞬間に不可抗力で死んだとしても、人生に悔いはないという事になるんでしょうか。
当然、死ぬという事は人生において最大の変化でしょうし、生き物は変化を嫌うものなので、状態が大きく変わることに対して不安が全く無いのかといえば、そんなことはありません。ですが、その状態に絶対的な恐怖は感じていないということなんです。
ですが、苦痛や変化に対する不安を、死に対する恐怖と同一視してしまう人は、この辺りの違いというものが理解出来ない為、苦痛や不安を乗り越えることこそが、恐怖を乗り越える唯一の手段と思ってしまうんでしょうね。

2つ目の理由としては、荒行を通して悟りの境地のようなものに到達した人が、実際に結構いたからなんだと思います。
例えば、長時間の間、走り続けるという荒行を行う人がいたとします。 人間は、長時間、苦痛を受け続けると、その苦痛を和らげる為に、脳内麻薬を出して苦痛を和らげたりします。
マラソンランナーが、ランナーズハイの状態になって苦痛から開放されるなんて話も、結構聴きますよね。
この様に、人間は苦痛に耐え続けることで脳内麻薬が分泌されて、変性意識状態になります。

私自身も、過去に社会人になってから空手道場に通っていた時期があり、一時期、仕事が終わってから4~5時間の稽古を週5~6日行うするという生活を過ごしていた時期があります。
この生活を2年ほど続けた時、日常的に幻覚が見えるようになりました。 それだけではなく、異様に体が軽くなる感覚など、明らかに普通の状態では無い状態が結構続きました。
私の場合は、道場通いは趣味で行っていた為、本当に辛い時には休めるという逃げ道もあったので、精神的には楽だったということもあって、この程度の症状で済んでいましたが、これが、半ば強制されるような状態で、自身を追い込まなければならない義務感などがあった場合、更に重い症状が出ていたかもしれません。

この様な状態は、先程のランナーズハイと同じ様な感じで、体が苦痛から開放されるように脳内麻薬を出した結果、変性意識状態に入ったんでしょうけれども、この変性意識状態で、宇宙と自身が一体となる梵我一如的な感覚が体験できるような状態に陥ることもあるようです。
宇宙と個人の一体感を体験として知るというのは、古代のインド哲学では正に悟りの状態ともいえるので、その神秘体験をした人間を一定数生み出した荒行は、真理に近づく有効な方法だと思われていたのかもしれません。
ブッダ自身が、この様な神秘体験を経験したのかどうかは分かりませんが、仏教の世界では、この体験だけで悟りを得たとはしていないようなので、これをもって、真理に到達することは出来ないとしたんでしょう。

では、涅槃の境地に辿り着くためには、何を知るべきなのかということについては、次回から、語っていこうと思います。