だぶるばいせっぷす 新館

ホワイトカラーではないブルーカラーからの視点

デザインの盗用問題について考えてみた

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先日発表されたオリンピックのエンブレムが、実はパクられたんじゃないかって事で問題になっていますね。
最初は養護していたマスコミ等も、同じ方がデザインをしたトートバッグのデザインでコピーが行われていたという事で、風向きが若干変わってきました。

この問題で個人的な意見をいえば、コピー&ペーストレベルのパクリは駄目だけど、似ているレベルなら良いのではないかという事。
結構甘めの意見ですが、厳しすぎる著作権の主張は、市場の縮小を招いてしまうのではないかと思うからです。

では、最初に考案した人の権利は?という反論もあると思います。
しかし、最初って一体なんなのかと思うわけです。

そもそも、人間には全くの『無』から物を作り出すのは不可能だと言われています。
例えば、この世には数多くの物語が存在します。
小説等も日々新しいものが生み出され、ブログで気軽に公開出来る現在では、その数はますます増えていることでしょう。

では、その無数に生み出されている数だけストーリーがあるのかといえば、実際にはそうでは有りません。
物語のパターンは36通りしか無いといわれ、シェイクスピアの生きた時代には全て出尽くしていると言われています。
つまり、今現在生み出されている数々の物語は、その36パターンの焼き直しでしか無いという見方が出来ます。
かなりの長編で複雑な物語になっていたとしても、それらを分解して単純化すると、最終的には基本パターンを組み立てているだけになります。

つまり、小説でもドラマでもマンガでも映画でも、物語と呼べるものは、古代から受け継がれている物語のパターンをパクっているともいえるわけです。

では、デザインにより近い絵画はどうなのか。
絵画も、元々は自然の模倣から始まっています。
自然に生み出された木々や、動物や、自分たち人間の姿を書く所から始まっている為、自然をパクっているともいえます。

自然の美しさや、観たままのものを如何に上手く平面に写せるかという事で、様々な技術も生れました。
遠近法や空気遠近法等は、わかり易い例ですよね。

しかし、自然をそのまま映しだす手段として、写真が生れてしまいました。
単純に自然を写すだけなら、写真の方が早いし確実。
その結果として生まれたのが、絵として分かるようにタッチを残した、印象派の手法です。
では、その手法は全くの無から生まれたのでしょうか。
違いますよね。

自然を模倣する【写実】という方法のカウンターとして生れた手法で、単独で生み出されたわけでは有りません。
印象派以降は様々な手法が生み出され、結果として現代アートが生まれました。
現代アートに辿り着くまでには、様々な手法が生み出されてきましたが、それらの全てが主流に対するカウンターとして生れています。
『既に手法として確立しているもの以外の手法を生み出そう。』
この考えは、主流があって初めて存在するもの。
光が有るから影が存在できる様に、単体で存在できるものでは有りません。
主流に対する反抗や全く反対の方法での表現は、主流のやり方を反転させているだけという見方も出来る。
イデアの源泉は、あくまでもメインカルチャーという視点でみれば、カウンターカルチャーメインカルチャーの影響を受けまくっているともいえます。


整理して考えると、この世で生み出されているものを単純化すれば、AとBを組み合わせてCを創る。
Aとは違うもの、Aとは逆のものとして、Zを創るという方法でしか生み出されていません。

つまり、パクるというのは程度問題でしかない。
この世に存在するもの全ては、何かしらの影響を受けて存在しています。

この様な状況下で、似ているレベルでコンテンツ狩りをしていくというのは、むしろ世の中にとってマイナスなのではないかと思います。

では、『明らかにパクったデザインでも認めろというのか』という反論もあると思います。
確かに、いくら過去作品の影響を受けているとはいえ、自分で考えたキャラクターやデザインを盗まれ、勝手に使用されるのは、クリエイターとしては許せない行為なんだと思います。
後から生まれたデザインが、自分の生み出したものよりも市場価値が高まれば、その気持は尚更でしょう。

そこで私が思うのが、作品を作り出す際に影響を受けたコンテンツを、公表すれば良いのではないか。
そして、完全なコピーは論外ですが、少しにている程度であれば、個人の作品として認めればよいのではないかと思います。

そもそも、デザイン等のパクリ問題というのは、自分のセンスで無から創っているという前提によって、起こっている問題だと思います。
しかし先程も書きましたが、この世の全てのコンテンツは、何かしらの影響を受けています。
なので、コンテンツの制作者は作品発表の際に『この作品は、○○の作品の影響を受けています。』と言ってしまえば良い。
そして周囲は、その組み合わせが良い作品であるのなら、認める。

こういう社会になれば、コンテンツの可能性が更に広がると思うのですが、どうでしょうか。