だぶるばいせっぷす 新館

ホワイトカラーではないブルーカラーからの視点

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿 】第17回 ゴータマ・シッダールタ(3)

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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前々回で、仏教が誕生するまでの簡単な流れを説明し、前回では、その全体的な流れの中から、苦しみと荒行について、ピックアップして説明していきました。
苦しみについては、前々回で語った大きな流れとしての苦しみの概念。これは、苦しみというのは相対的なもので、絶対的に無くすことは出来ないという事と、前回で語った、カースト制を肯定して仕組みを強化する為に作り出された、概念です。
前回の放送では、カースト制を現在の価値観に照らし合わせて、批判的な立場で語りましたが、この当時の考え方としては、ある意味、仕方のない仕組みだったのかもしれません。

というのも、今も一部の地域では当てはまるのでしょうが、紀元前の世界では、全ての人がしっかりとした教育を受けているわけではありません。
当然、識字率も低いですし、物事を論理建てて考えるというのが貧民層にまで定着しているはずもありません。
この様な世界で、治安を維持出来るような社会システムを作ろうと思うと、分かりやすい考え方が必要となります。
その考え方がカースト制だったのでしょう、現世で悪いことをしたら、低い身分に落ちて苦労するよという考え方によって、人が悪い行いをしないようにするという考え方ですね。

また、紀元前の世界は機械なども存在しないですから、誰かが肉体労働を行わなければならない時代です。
この時代の肉体労働は、生活に直結しているものが大半ですし、大量に人数も必要だった為、肉体労働に携わる人間を効率的に集める為にも、必要なことだったんでしょう。
それに加えて人間社会は、『敵』や『いじめ対象』を作ると、それ以外が団結するという特徴も有ります。
一度システムを作ってしまえば、『イジメ対象』となる人々を生かさず殺さず管理するだけで、その他大勢を用意に管理することが出来る為、カースト制は効率的な方法だったんでしょう。
また、この方式は、地獄や天国といった、有るか無いかが分からないような世界ではなく、実際に苦しんでいる人を目で見ているわけですから、『あの様になりたくない』という思いを抱かせ易かったのかもしれませんよね。

それに、イジメ対象を作るといっても、高い身分の人が、それに胡座をかいて下の身分の者に対して辛くあたるという行為その物が悪行でしょうし、それを行うことで、来世で自分が奴隷の立場になる可能性も有ります。
逆に、弱者に施しをするといった行為を行うことで、来世で高い身分を維持できるというシステムなので、上手く回れば、効率的なシステムだったんでしょうね。
ただ、完全に人権は無視なので、現在の価値観で照らし合わせると、ダメでしょうけどね。

この様なカースト制なのですが、上手く回れば、それなりに効率的なシステムでもあるんでしょうけれども、身分制度や組織というのは、長期間続けていれば腐敗していきます。
腐敗によって、強者はより強くなり、弱者はより弱くなり、その差はドンドン開いていき、決定的なものへとなっていきます。

このカースト制に異論を唱えたのが、ブッダとされています。
ブッダの考え方としては、悟りを得ることで輪廻転生の輪から解脱する。つまりは、抜け出す事を主張しているわけで、これは言い換えれば、カースト制からの脱却ともいえます。

では、どうすれば真理に到達できるのかというと、『悟りを得た』と自身で明言しているブッダの教えを、体験として理解するしかありません。
それではブッダは、どの様な教えを説いているのでしょうか。
ブッダ自身は、他のものには理解することが出来ないとして、後世に伝える為に、自身で考えを体系立てて書物に記したりするといった行為は、積極的に行っていなかったようなので、その様な作業は全て、弟子が行っています。
これは、第8回の西洋哲学と東洋哲学の違いでも話した事なんですが、東洋哲学の考え方というのは、基本的には、悟りを開いた本人ではなく、弟子が自分の解釈を元にして書いていきます。
そして、それよりも後の時代に生まれた人は、その解釈本を読んだ上で自分なりの解釈をし、その解釈を更に本に書いたりします。

では何故、悟った人間が自身の手でしっかりと説明しないのかというと、これは、第13回14回の言葉の限界でも話しているんですが、言葉は、考えやイメージをそのまま相手に伝えられるほど優れているツールではないからでしょう。
言葉で悟りの本質を書いたとしても、悟りを得ていない人間は、それを読んで、確実に誤解してしまいます。
例えば、大乗仏教の教えの中に、悪人正機(あくにんしょうき)というものがあり、意味は、「“悪人”こそが阿弥陀仏の本願(他力本願)による救済の主正の根機である」
と言うもので『善人でさえ救われるのだから、悪人はなおさら救われる。』という考え方です。
この考えは、普通に読み取れば、善人よりも悪人のほうが良いっているわけですが、これを知識のない人が読んだ場合は、確実に誤解しますよね。

人間というのは、基本的には自分に都合の良い解釈しかしません。 観たいものを観たいように観て、聴きたいものを聴きたいようにしか聴けません。
その為、言葉で体系立てて説明したところで、誤解されるだけで、余計な混乱を生むだけだと考えたのかもしれないですね。

余談が長くなりましたが、では、どの解釈を読むのが良いのかというと、これも、人によって解釈の仕方も読んでいる量も違うので、一概にはいえないのですが、このコンテンツでは、般若心経を取り上げていこうと思います。
取り上げる理由としては、最大の理由としては短いという事ですね。
般若心経というのは、内容が同じ大般若経をコンパクトにまとめたものなのですが、大般若経というのが600巻あるらしいんですね。その一方で般若心経は同じ内容で262文字でまとめられている様なので、概要を理解するには便利なものですよね。
ちなみに、仏教の経典は般若経だけではなくて大量にあって、正確には数えられていないようなんですが、形容詞的にいわれているのが8万4千の経典が有るといわれているようなので、とても読んでられないですよね。
それなら、262文字で大まかに理解できた方が効率的ですよね。 般若心経は日本でも大人気なんですが、人気の理由として、短いというのが結構なウェイトを占めていると思いますね。

余談になりますが、この般若経をインドから持ち帰ったのが、玄奘三蔵という中国のお坊さんで、この人物は、西遊記の登場人物としても活躍しますよね。
斉天大聖という猿の悟空と、沙悟浄猪八戒の3匹の妖怪をつれて、天竺を目指すアレですね。
三蔵法師は、経典をインドから中国に持ち帰るだけでなく、中国に伝わる経典の多くを翻訳したことでも有名なようです。

前置きがかなり長くなってきましたので、内容の方に入っていきましょう。
この般若心経ですが、大乗仏教の経典という事になっています。 仏教は大きく分けると、大乗仏教上座部仏教の2種類に分けることが出来るのですが、両者の違いを簡単にいうと、
ブッダの主張をより忠実に守っているのが上座部仏教で、より宗教色を強くしたのが大乗仏教です。
もう少し説明を加えると、自身で涅槃の境地に至って真理を得ようと頑張ることを推奨しているのが、上座部仏教で、大乗仏教は、仏の教えを持って多くの人を救おうという事を目的とした宗教ですね。
上座部仏教の場合は、自身で真理に到達する為に知識や体験を得ようと頑張るのですが、大乗仏教は、大衆に広げる為にドンドンと簡略化されていきます。

その結果、お経はブッダの教えを理解するためのものではなく、呪術的な呪文となりますし、意味を理解するよりも、紙に書き写す写経が重要視されますし、写経した紙はお守りとして扱われます。
知識を得ることや瞑想や禁欲生活といったものも必要なく、お坊さんにお金を渡す御布施が修行の一部とされ、徳が高まるとされるようになります。
その為、仏教に詳しい方は、ここで般若心経を取り上げることに違和感を感じられる方もいらっしゃるかもしれませんが、単純に短い事と、人気が高い為に現代語訳が簡単に手に入るということから、
般若心経を読み解くことで、ブッダの主張を追って行くことにします。

では、早速みていきましょう。
先ず冒頭部分で、世界は5つの要素、五蘊(ごうん)によって構成されていると主張しています。その5つ。色受想行識の5つです。
一つ一つ説明していくと、色とは、元々は人間の肉体の事だったようですが、その後、すべての物質、物そのモノの事になったようです。受とは、感受作用。花を見て美しいと思う事。
想とは、表象(ひょうしょう)作用。頭のなかで、花を思い浮かべること。行とは、意志作用。頭のなかで、綺麗な花を摘み取ろうと思い、それを体を動かして実行しようとする事。
そして最後の識とは、花というモノ・概念を認識する事です。

考え方のベースになっているのがウパニシャッド哲学で、その中では、真理を得る為には、自分そのものであるアートマンを理解することが重要という話でしたよね。詳しいことは、第9回~12回の中で話しているのですが
自分自身を知ることが真理に繋がるというのがベースになっている為、この世の構成要素の5つは、自分自身を5つに分解したものになっています。
この5つの構成要素ですが、よくよく考えてみると、全てのものに実態がない事に気が付きます。自分を構成している全要素に実態がないということは、人間が抱えている全てのものに実態がないということで、人が抱えている苦しみといった概念も、
実態がないことを意味します。

では何故、実態がないのか。それは、自身と同一の存在である、宇宙、つまり、自分の外側の世界を見て見れば分かります。自分自身と自分の外の世界である世界が同じというのは、梵我一如というのを解説した回でも話しましたよね。
では、外の世界で起こっている物質的現象、つまり、外の世界での色について考えてみると、自分の外の世界の物質的現象の色にも実態がないことが分かります。
例えば植物の例でいうと、種子の段階では、タネという名前がついています。では、タネという絶対的で不変の物がこの世にあるのかというと、そうではありません。
タネは、養分が有る土に植えて適切な水を与えることで、発芽して成長し、植物になります。 新芽が出て、葉や茎が成長し、最終的に花を咲かせて、実をつけ、またタネを生み出します。

この世にあるものは全て同じで、この一連の動きの中の一時的な部分を取り出して、それぞれに名前をつけているに過ぎません。
世界は絶えず変わり続けているわけですが、その変化の一部分だけを人間が切り抜いて、その特性に名前を付けて、カテゴリー分けしていっているだけということですね。
この考え方は西洋哲学にもあって、ヘラクレイトスによって万物流転と名付けられます。ヘラクレイトスといっても、God of warの主人公でも、ギリシャ神話の神と人間の間の子の英雄でもないですからね。

これらの考え方は、ブッダヘラクレイトスのどちらが先に唱えたのかは分かりませんが、当時、この様な考えに至る地盤があったということなんでしょうね。
ヘラクレイトスが出した例で有名なものは、『同じ川に二度と足をつけることは出来ない』というのが有名なようです。
川というのは、絶えず、川上から川下に向けて水が流れています。また、その流れによって動植物も流されているでしょうし、生息場所を変えたりしています。
流れてくる土砂や石も、川の流れによって常に配置を変えているので、川というのは、常に形状を変え続けていることになります。 つまり、同じ川と言うものは存在しないということで、存在しない物に足をつけることは出来ないということですね。

この理屈は、人間にも当てはまります。 人間は、タンパク質部分は3ヶ月で、代謝の遅い骨でも2年で完全に入れ替わるそうです。
また、生活を送っていく上で知識や経験は常に上書きされますし、考え方も微妙ながら、常に変化し続けています。 そしてその形状も、成長や老いによって変化します。
つまり、自身を含めた、この世にある全てのものは、常に変化し続けているわけで、同じ状態を維持し続ける不変の状態ではないということです。

では、こんな世界で、変わらず存在し続けるのは何なのかというと、縁起だけは変わらず存在し続けます。
縁起とは、事が起こる前には、それが起こる原因となるものが存在し、その原因によって結果が起こり、結果が次の原因になって、更なる結果を生むという考え方です。因果関係とも言いますよね。

タネは、土に植えられて水を与えられたという原因で発芽し、発芽して土の中から顔を出したという結果によって、光合成が出来るようになり…といった事が繰り返されることで、成長をしていきます。
そして、寿命を終えた植物は微生物に分解されて土へ返っていきます。では、植物のサイクルは植物内だけで完結しているのかといえばそうではなく、実をつけることで他の動物に食べられる物や、種子その物が人間の食べ物になる米のような作物も有ります。
全ては縁起の法則によって、溶け合いながら存在している現象に過ぎず、全てのものは空。 つまりは実態のないものということです。

つまり、この世には『実態がない』という現象だけが存在していると言えるわけです。
この世の全てのものは空であるため、生じたものでも滅したものでも無いことになります。 ある側面から見た現象が生まれるという現象であっても、それは、別の側面から見れば死という現象になります。
米は人に食べられると死にますが、人は米を食べることで生きるためのエネルギーを得ます。 植物が枯れることは植物にとっては死ですが、微生物にとっては解釈が変わりますし、微生物によって性質が変えられる土壌にとっても解釈は変わります。

あらゆる出来事は、汚れたものでもなければ清浄なものでもなく、醜いものでもなければ美しいものでもなく、増えることもなければ減るものでもないということです。
人が、何かの数が減ると認識するのは、その対象に名前をつけて特別視しているからで、その対象が減った一方で、別の何かは増えているという事です。
世の中は、縁起の法則に則って、ただ変化をし続けているだけに過ぎず、故に、実態はないということです。

この自然現象に照らし合わせれば、人間の五感なんてものは存在しないですし、心なんてものも存在しないことになります。
というのも、人間の意識というのは、感覚器官を統合するために存在しているようなものです。 実際に見えるから・聴こえるから・触ることが出来るから・臭いを感じるから・味がするからといった、感覚器官が有るからこそ、人はそれによって、
何かを想うわけです。
しかしブッダは、その感覚器官その物が無いものだと否定します。

先程から言っている通り、この世にあるあらゆるものには実態がないわけですから、対象物を観て・聴いて・感じて・臭いで・味わうといった五感も実体のない物という事になります。
実態のない対象を感じる五感も実態がないわけですから、それによって感じる心も実態がないことになります。
これが、無我。つまり、我というものが存在しないという境地になります。

今までの梵我一如は、宇宙の根本原理と個人の根本原理は同一のものだから、個人の根本原理であるアートマンを理解することで、全ての物事を理解できるようになるという考え方だったのですが、ブッダの説では、
そのアートマンは無いですよという主張をしたことになります。
この考え方についてですが、ブッダアートマン皆が追い求めていたアートマンという存在を無いというところにまで到達した!から偉大だと主張する人と、梵我一如の考え方から進んだわけではないと主張する人に、解釈が二分していていたりもします。

話の途中にはなるんですが、これについての詳しい説明と、般若心経のこれから先の解釈については、また次回ということにさせて頂きます。