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【Podcast #だぶるばいせっぷす 】第9回 東洋哲学(1)梵我一如

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この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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前回は、東洋哲学と西洋哲学の違いを、簡単に説明しました。
内容を簡単に振り返ると、西洋哲学は自分の外側に有るもの、つまり、観察できるものを中心に、世界や、物、概念を、理性的に考えることで解き明かそうとします。
自分がどのように考えたのかを順を追って説明して、世間に発表し、それを受けて周りは、その主張を踏み台にして発展させたり、批判したりする事で、様々な理論を生み出していきます。

その一方で東洋哲学は、瞑想などを行うことによって、自分の内面に焦点を当てて、ある日突然、真理という体験を得た人が登場します。
真理をまだ得ていない人達は、その人に教えを請う形で知識を得て、それを基にして解釈本をだして…といった具合に、真理を得た人をトップとしたピラミッド状の組織が生まれるといった感じでしたね。
この様な感じで、東洋哲学は、真理を得た人に教えを請うといった感じの組織なので、宗教化しやすい一面もある形態といえますね。

では早速、東洋哲学についてみていきたいと思います。

ギリシャ時代の哲学は、奴隷という存在によって労働から開放された人達が、有り余る時間を使って世界の法則、真理について考えだしたことがキッカケで起こっりましたが、この流れは、東洋哲学でも同じです。
紀元前13世紀頃に、インドにアーリア人が侵入し、先住民族を支配して奴隷にするところから始まります。
西洋哲学と違うところは、東洋哲学の場合は、支配しているアーリア人が、現代のヒンドゥー教の大本になるバラモン教という宗教を起こし、カーストの最上位をバラモンという僧侶にしたことです。
一応いっておきますと、アーリア人侵入説には疑問の声も上がっている様なんですが、このコンテンツは歴史をテーマにしているのではなく哲学をテーマにしているので、この辺りは深く考えません。

この様な流れで東洋哲学というのは生まれたので、東洋哲学の考えというのは、バラモン教聖典であるヴェーダを作っていくという過程で生まれていくことになります。
このヴェーダは、宗教的な儀式の手順を示すような内容のものから、哲学的な内容を記してある奥義書と呼ばれるものまで4種類あり、更に各部門が『リグ・ヴェーダ』『サーマ・ヴェーダ』『ヤジュル・ヴェーダ』『アタルヴァ・ヴェーダ
の4種類に分かれることで、4×4で都合16種類に分かれるようですね。
ただこれも、大きく分けて16種類なので、更に細分化していくと膨大なジャンルに分かれていくようです。
夢枕獏さんという方が書いた小説で、ブッダが主人公になって旅をする『涅槃の王』というものがあるんですが、この小説の中にもヴェーダは登場するんですが、そこでは、一人の人間が人生をすべて使っても読み切れない量の書物と表現されていますね。

東洋哲学の中でも、この様なヴェーダを元にした哲学を、ウパニシャッド哲学というそうなんですが、この分野では最終的に、『梵我一如』という考え方が生まれます。
この梵我一如ですが、これは、どういうものかを理解する為に、一つ一つ分解して考えていきましょう。
『梵』とはブラフマンの事で、全宇宙を支配する原理の事です。

ブラフマンは、元々は『ことば』を意味する言葉で、呪力に満ちた「賛歌」「呪」を表していたようですね。
言葉というのは、呪文や魔術的なものと結びつきやすいようです。先ほども紹介した、夢枕獏さんの小説で、映画化もされた『陰陽師』という作品があるのですが、そこで、言葉と呪文についての関係性が書かれています。

例えば、あなたが男性だとして、好きな女性が、貴方の周りに円を書いて、『私が帰ってくるまで、そこから出ないでくださいね』と言ったとしましょう。
こう言われた場合、多くの人は、その円から出ないんじゃないでしょうか。それは、言葉によって行動が縛られているとも考えられるわけで、傍から見れば魔法のようにも見えますよね。
実際には、言われた方の男性の思考としては、この程度の事を守れないようでは、信用を勝ち取ることも出来ないし、仮に破った場合、今まで積み上げてきた信用を失うかもしれない。
ただ、円の外に出ないという程度の頼みであれば、聞き入れたほうが良いという計算が働いての事なんでしょうけれども、結果的に起こった現象だけ観てみれば、女性が言葉を発して、男性がその通りに動いたと見ることが出来るわけです。

これを、相手がこちらの提示する条件を聞き入れやすい状況を作り出すという、現実的な方向に置き換えると、現代で言うところの交渉術といった物に変わりますよね。
そして、この、女性が円を書いて、戻ってくるまでという条件を、円を祭壇などに置き換えて、戻ってくるまでという条件を、何らかの儀式に置き換えた場合、魔法や呪術のように神秘的なものにも置き換わりますよね。
ブラフマンというのは、この言葉に内在する神秘的な力という意味に徐々に変わっていったようです。

そしてまた、ウパニシャッド哲学では、瞑想によって、異なる2つのものを1つの物へと同一視するといった試みが、頻繁に行われます。
AとBとは同じもので、CとDは同じもので…といった感じで、あらゆる物が同一視された結果、全てのものがブラフマンと同一視され、宇宙の根本原理になっていったってことなのでしょうかね。
この辺りのことは、かなり怪しいので、興味のある方は、自身で本などで調べてみてください。

このブラフマンですが、後に仏教に取り込まれた際には梵天様になり、ヒンドゥー教には、ブラフマーという形で取り込まれています。
そして、ヒンドゥー教のシヴァやヴィシュヌと同一視される事になります。

梵我一如の梵がブラフマンということが分かったので、次は『我』『われ』とは何なのかについてみていくと…
『我』というのはアートマンの事で、個人を支配する根本原理の事です。つまりは、皆がそれぞれ持っている『わたし』という概念のことですね。
一如とは、この2つのものは同じ1つのものという意味で、つまり『梵我一如』とは、宇宙を支配する原理と個人を支配知る原理は同じものだという説です。

先程も言いましたが、ウパニシャッド哲学では2つの異質のものを、瞑想によって同一視するという試みが行われているので、その一環として生まれたのが『梵我一如』という事でしょう。
この『梵我一如』を考え出したのは『ヤージュニャヴァルキヤ』という人物で、この人物は、およそ紀元前750~前700年頃の人だとされています。

ちなみにですが、この考え方に大きな影響を受けて作られたゲームに、『デジタルデビルサーガ アバタールチューナー』という作品が有ります。
かなりネタバレを含んだ内容になるので、興味があって、情報がない状態でプレイしたいという方は、少し飛ばしていただければと思います。
とはいっても、13年ぐらい前に発売されたPS2のソフトなので、これを聴いて出来るかどうかは疑問が有りますけれどもね。

この作品ですが、女神転生の外伝という位置づけで作られたPS2のゲームなんですけれども、ラスボス・最後の敵ですね。これが、ブラフマンなんです。
そして、主人公たちは、アートマを宿していて、悪魔に変身する能力を持っているんですね。
説明しておくと、このゲーム内では、人間以外の存在を悪魔と読んでいるので、実際の宗教で神様扱いされているものも悪魔と呼ばれています。
実際に主人公達が変身するのは、アグニやヴァーユといった、ヒンドゥー教の中では神様扱いされているものに変身するんですが、設定上は、悪魔と読んでいます。

このゲームは、ロールプレイングゲームなので、道中で敵が出てきた際に戦う事になるんですが、敵を倒した際には、カルマと呼ばれる経験値が得られて、敵を食べて自分と一体化させることで、自身を強くしていきます。

これは、先程説明した、異質のものを同一視する考え方に通じる部分が有りますよね。
そして、物語を進め、最終的にブラフマンに到達した時に、ブラフマンは主人公たちに向かって、こういうんですよ。『自分自身と戦え』と
しかし実際に戦うのは、自身でも自身の分身でもなく、ブラフマンと戦うんですね。
これは、宇宙の根本原理であるブラフマンと個人であるアートマが同じという、梵我一如の考えですよね。

もう少しこのゲームについて話していくと、このゲームの面白いところは、あらゆるものを循環によって説明していくところなんです。
循環とはどういうことかというと、例えば、この世界では水が循環していますよね。
海に貯まっている大量の水は、太陽のエネルギーによって蒸発し、空気中に溶け込みながら上層へと登っていき、雲となって漂いますよね。
この雲は、様々なキッカケによって、雨となって地上に降り注ぎ、人の飲水になったり植物の糧となったり、地面に落ちて地下水になったり川に流れ込んだり、あるいはそのまま海に落ちたりするわけですが
流れを追っていくと、最終的には、また海に戻りますよね。これが、循環なんですよ。

これを、人や世界に置き換えるとどうなるのかというのが、このゲームの面白いところで、このゲームでは、今 私達が住んでいる世界は、情報の循環によって構成されていると考えいます。
先程の水の循環でいえば、海とはカオスで、あらゆるものが融合した世界で、その情報が雲のようになり、あるキッカケによって、雨のように大地に降り注ぎます。
その雨粒一つ一つが、私達が個体として認識している、自分達が考える『この私』とう意識ですね。つまり、この世界観の中では、物心がついて死ぬまでの間というのは、雨粒が誕生してから地上に落ちるまでの間という事になるわけです。

この人生の中で人は、様々な情報を受け取るわけですけれども、この情報の事を、カルマと呼びます。先程も言いましたけれども、このゲーム内では、敵を倒すと経験値としてカルマが貰えて、一定値以上貯めることで、レベルアップできます。
このカルマは、漢字で書くと『業(ごう)』という字になります。他人、もしくは先人が持つカルマである業を、何らかの形で授かる事によって、自身の情報量を上げるわけですけれども、この、業を授かるという行為を漢字二文字で表すと、授業になりますよね。
学校などで受ける授業ですね。こうした観点から見ると、授業というのは物事を暗記すると言ったことではなく、自分自身では到達できなかった、または、考えもよらなかった情報を得ることで、自分自身の考え方をアップグレードするものとも考えられますよね。

そして、また梵我一如の考え方に戻るわけですけれども、それぞれの個体は、一生を終えると、つまり、雨粒の例で例えると地面に落ちると、自分自身の自我を保つことができなくなります。
例えば、洗面器に水を入れて、その中にめがけて水を1滴だけ垂らして落とした場合、その水滴は、一度洗面器の水と同化してしまうと、二度と、その一滴だけを選り分けることができなくなりますよね。
これと同じで、自分という自我を保っていられるのは、意識が体の中に押し込まれている間だけ、雨粒の例で言うと空中にいる間だけなので、肉体が滅ぶ事で自我が情報の海であるカオスと同化してしまうと、二度と元の自分には戻れないということなんです。

ですので、この世界を情報の循環と捉えて、意識といったものも循環しているという思想は、一見すると輪廻転生的な考え方と思われるでしょうし
実際にそうなんでしょうけれども、ここで言う輪廻とは、皆さんが考えているような輪廻転生とは違うということですね。
つまり、『わたし』という自我を持った状態で、別の個体に乗り移るのではなく、死んでしまった段階で自分の意識はカオスの中へと取り込まれるので、次に形成される意識の材料にはなるかもしれないけれども
そのままの『わたし』という存在が生まれ変わるわけではないという事です。

この考え方で言うと、私という存在の元をたどると、あらゆる物が融合したカオスだということになりますよね。そして、全てモノもがそのカオスから生まれて、一時期だけ個体として切り離されるわけですけれども
最終的には、再び全てのものと融合し
次に、再び個体として『わたし』が誕生する際には、前に存在していた『わたし』というものを含む、全てのものが混ざりあったものから、別の『わたし』という存在が誕生するわけで
『わたし』という存在と『カオス』という存在は同じものだという考え方も出来ますよね。

誤解の無いように言っておきますけれども、この考え方はヒンドゥー教の考えがそうだと言ってるんじゃなくて、このゲームでの解釈がそうだと言ってるだけですからね。

他には、結構人気のある漫画でアニメ化もされた、『鋼の錬金術師』という作品が有ります。
この作品の中には、頻繁に、あるワードが出てくるんです。それは、『全は一 一は全』という言葉で、全てのものは一つであり、一つのものは全てであるというものですね。
この『全て』という言葉を宇宙の根本原理に置き換えて、一つのものを個人の根本原理に置き換えると、梵我一如の考え方になりますよね。

こじつけだと思われる方もいらっしゃるかしれませんが、一概にそうともいえないんですよ。
この作品は、錬金術という名の魔法のようなものが出てきて、それを駆使して様々なことを行っていくんですけれども、タブーとされている事が有るんです。
それが、人体錬成なんですね。この世界での錬金術は、理論によって魔法陣を構築して、錬成に必要な材料を揃えることで、様々なものを作ることが出来るという設定なんですね。
作品の中で、これまた頻繁に出てくる言葉の中に、『等価交換』という言葉があるんですが、無から有を作り出すことは不可能なんですが、最終的に錬成される物の原材料さえ揃っていれば、それを元にしてモノを錬成することが可能なんです。

しかし、人間を錬成する人体錬成はタブーとされていて、それを犯してしまうと、自分自身の中に存在する真理の扉の前に連れて行かれることになるんです。
その真理の扉の先には、この世のあらゆる知識、つまり宇宙を貫くだた一つの法則、真理があるんですが、それの ほんの一部手だけでも手に入れるためには、扉の鍵として、自分の体の一部を持っていかれる事になるんです。
ここでも、情報と自身の体の等価交換が行われているということですね。

この描写からも分かる通り、この世のあらゆるものを貫く究極の知識を守っている真理の扉は、自分自身の中にあって、その扉の先には、真理が有るんです。
この心理は、宇宙の根本原理にともいえるもので、それは、個人の中に存在するんです。
つまり、真理と個人は同一のもので、これは、作品の中に度々出てくる言葉である『全は一 一は全』という言葉に帰っていくわけですよね。
なので、梵我一如の考え方といった見方も出来るんですよ。

この作品は、先ほど紹介したゲームのように昔のものではなく、連載もここ数年で終わった、比較的新しい作品ですし、人気も高かったので、現在でも本屋で揃えることが出来ると思いますので、興味が有る方は読んでみてください。

で、前回の放送でも触れたんですけれども、東洋哲学では、知識による理解ではなく、体験によって理解をしなければなりません。
つまり、梵我一如という考え、人の根本原理と宇宙の根本原理とが、同一のものだというのを、知識ではなく体験として知ることが、重要になってくるようなんですね。

ということで今回は、梵我一如という考え方を軽く説明してきたわけですが、次回からは、より理解をるかめるために、梵我一如の『我』つまり、私という存在とはどういうものなのかという事について、考えていきます。