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【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第111回【ソクラテスの弁明】命をかけた教訓 後編

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目次

注意

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。

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真の裁判官たちへ

次にソクラテスは、無罪に票を投じた裁判官達に向けて、この様に話しを始めます。 呼び名が市民ではなく裁判官となっているのは、彼らこそが真っ当な仕事を行った立派な人達だからです。

私に無罪票を投じてくれた裁判官諸君。  私は、死刑囚として牢獄に投獄されるまでに、少し時間があるので、その時間を使って、君たちと語らい合いたいと思う。
裁判中にも語ったことですが、私には、小さな頃から不思議な声が、時折聞こえてきます。  その声は、私が悪い道に進みそうになったり、ある決断によって災難が降りかかるかもしれない時に聞こえてきて、警告をしてくれます。
その声は、例え、重要な討論の最中であったとしても、言ってはならない事を言おうとした際には警告してくれて、発言を事前に取りやめるという事もありました。

では今回の裁判に出向く前や、裁判中にその声が聞こえたのかといえば、私は一度も、その声を聞いてはいません。 裁判結果によって、私は殺されることが決定したのにも関わらずにです。
死ぬという、普通の人間が考えうる最悪の事態、最大の災難を突きつけられる状況にも関わらず、その声は、私の行動を一切、止めようとはしませんでした。
この事から分かることは、死ぬという事が、私達が考えているほど悪いものでは無く、むしろ、良いものかもしれないということです。

死の捉え方

もし、裁判官たちの中に、死が人生において最大の災いと考えているものがいるとするのなら、その考えは、改める必要があるのかもしれません。
この世の中に、一度死んで戻ってきた人間はいない為、冥府・あの世がどの様な存在なのかというのは、想像することしか出来ないが、思うに2通りの考え方ができると思う。
1つは、全くの無に帰する状態。 そしてもう一つが、肉体は死ぬけれども意識は残り、魂だけがハデスが収めるあの世に旅立つという考え方です。

仮に、死というものが前者、つまり、無に帰するものだとするのならば、これほど心地良いことはないでしょう。
人間というのは、日々、睡眠を取ります。この睡眠中に、夢なども一切、観ることがなく、熟睡できるときが、たまにあると思いますが、その時に人は、どの様な感想を得るでしょうか。
とても心地が良く、この様な質の高い眠りにずっと浸っていたいと思うのではないでしょうか。 中には思うだけでなく、もう一度、意識を失う為に寝ようと思うものすらいるでしょう。その様な状態が永遠に続くというのは、悪いことなのでしょうか。

次に、人は死んだ後に無に帰らず、魂になってハデスが治める【あの世】に行く場合のことを考えてみると、これもまた、これほど楽しみなことはないでしょう。
あの世では、今回のような人が行う不完全な裁判ではなく、人よりも優れている神々が直々にさばきを与えてくれるし、魂は不死で、あの世の世界にいくということは、既になくなっている者たちとも意見交換が出来るということです。
今回の私のように、不当な裁判で殺された人間もたくさんいるだろうから、どちらの裁判が不当で悪いものだったかという不幸自慢などをして楽しむなんてことも出来るでしょう。

それよりも、何よりも楽しみなことは、現世では絶対に出来ない、既に亡くなっている賢者との対話も行うことが出来るということです。
現世では伝説上の話や、吟遊詩人の歌のモデルになっているような偉人を探し出し、直に話すことで、彼らが本当に優れている人物かどうかを存分に吟味すると言った対話も楽しむことが出来る。
またあの世では、他人を吟味する過程で怒らせたとしても、現世のように不完全な人間による裁判で死刑に課せられることもないでしょう。 死んだ状態でもう一度、人を殺すことは出来ないのだから。

この2パターンのどちらになったとしても、これ程の幸福は無いと思う。
どちらの結果になったとしても、死ぬという結末が、絶対に避けなければならない最悪なものだとは思えない。

この世からの開放

もっとも、不正を行い、私に対して死刑判決を下した者たちは、私にこの様な状況を与えたくて死刑に票を投じたのではなく、単純に、憂さ晴らしの為に、危害を加えたかっただけだと思いますが。
彼らは、私に対して良からぬ感情を抱き、腹いせの為に死刑判決を下したんだろうが、私はこの様に、死に対して恐怖を抱いてはいないし、むしろ楽しみにすらしている。

そして、今回、この裁判によって、もたらされた死は、何かしらの偶然によってもたらされたものではなく、神の意志、運命のようなものだと思う。
そう思うのは、この世でこうして生きながらえるよりも、むしろ死ぬことで、この世から開放される方が幸せだと感じるからです。
だからこそ、私が間違った道に進もうとした際に聞こえてきたあの声は、今回の裁判に限っては、何の警告もしてこなかったんでしょう。

遺言

職務を全うしてくれた裁判官諸君には、最後に一つ、願い事を聞いてもらいたいと思います。
私には子供がいますが、もし、その子供が、物事について何も知らないにも関わらず、知ったふうな態度をとったとしたら、私が貴方達にしたように叱咤し、無知であることを気づかせて欲しいのです。
また、アレテーというものについて真剣に考えることもなく、『そうすることが幸せに近づけるから』という思い込みで、財産を溜め込むといった行動をとった際にも、その行動について責めて追求して欲しい。

もし、私の子供たちに、その様に接してくれるのであれば、その時初めて、私は、そして子供たちは、貴方方に正当な扱いを受けたことになるのですから。
もう、時間が迫ってきたので、話は終わりにしましょう。

私は死ぬ為に、貴方達は生きるために、この法定を去ることにしましょう。

ソクラテスの弁明

この言葉を最後に、ソクラテスは刑罰を受けるために、連行されていきます。
これまでに紹介してきた対話篇が、プラトンの創作色が強かったのに対し、今回取り扱った『ソクラテスの弁明』に関しては、プラトンが実際に裁判を傍聴し、その言葉を心に刻みつけて、書き上げたものだと言われていますが…
いかがだったでしょうか。

これまでの対話篇でも、ソクラテスは秩序を重要視して、その秩序を崩壊させようとする人たちに対して厳しい態度で接していましたが…
今回のソクラテスの弁明では、自分自身の命すらも道具にして、世の中を良くしようという気持ちが伝わって来なかったでしょうか。

ソクラテスの弁明』という作品に、初めて接した方は、もしかすると、ソクラテスが死刑になりたくないと、一生懸命に弁明をし、最後は強がった態度をしたという感想を抱く方もいらっしゃるかもしれません。
この配信をしている私自身も、はじめはその様に感じる部分もありました。
しかし、くり返し読んでいくうちに、ソクラテスは、そもそも最初から死ぬ前提で裁判に挑んでいる様子が読み取れます。

命をかけた教訓

どの様な部分で読み取れるのかというと、ソクラテスは、正論で持ってメレトスを完全に論破しているところです。
メレトスの主張には無理がある一方で、ソクラテスの主張には一貫性があるので、普通の態度で淡々と説明していれば、ソクラテスは無罪になっていた可能性のほうが高いです。
何故なら、最初の裁判は、総勢500人もいる裁判官の30人が意見を変えるだけで、無罪になっていたからです。

別に、泣き叫んだり、同情を買うための演技をしなくとも、裁判官に対して普通に敬意を払った喋り方をするだけで、高い確率で、無罪になる可能性があったわけです。
しかしソクラテスは、裁判開始の最初の段階で、裁判官のことを市民や諸君と言い、煽っています。
何故、わざわざ、自分の立場が不利になる様な態度をとったのかというと、態度に関わらず、事実だけを見て正しい判断を下せるのかどうかを見定めたかったのでしょう。

仮に裁判官たちが感情に流されて、無罪の者を腹いせで殺してしまうんなんて事になれば、殺した側は、一時の感情に負けて殺人を犯したことになるので、これほどの教訓を与える機会はそうないと思って、自分の命を使って、世の中に喝を入れたのでしょう。
無実の人間を、自分たちの手で、自分たちのシステムが殺したという罪悪感によって、人々が目を覚まして良い方向へ進むことを期待したのでしょう。

ということで、今回でソクラテスの弁明は終わります。 いつもなら、まとめ回へ映るのですが、今回はそのまま、対話篇のクリトンへ移ります。
といのもクリトンは、死刑が執行される直前の話となっていて、この話と続いているからです。 ということで、次回、『クリトン』をお楽しみください。

参考文献