だぶるばいせっぷす 新館

ホワイトカラーではないブルーカラーからの視点

アートと資本主義

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少し前のことですが、バンクシーというアーティストが、自分の作品がオークションで競り落とされた直後に、事前に作品内に仕込んでいたシュレッダーで作品を裁断するという事がありました。
その事を受けて、私自身が思った事をブログに書いてみたのですが…
kimniy8.hatenablog.com

私自身の文章を書く能力が低いということも有ってか、誤解をされて受け止められている方も少なからずおられるようなので、もう一度、この事について書いていこうと思います。

伝えたかったことはアーティスト批判ではないという事

前に書いた投稿では、主語を明確にしていなかった為か、アーティストを含む美術界全般を批判しているような受け止め方をされた方も、少なくない人数でおられる事でしょうが…
私が批判したかったのは、自分の気持などを作品に込めて発表しているアーティスト・クリエイターの方々ではなく、出来上がった商品を、金を生み出す道具のように扱っている人達の事です。

例えば、前回、デュシャンの名前を出して、『便器に名前をつけただけで美術品になった』という形で紹介しましたが、これは、デュシャンという人物を批判する為に出したわけではありません。
この作品を通して、問題提起をしたかったというのは批判しませんし、この作品を通して、物事を考える切っ掛けになったという人も多いでしょう。その事について批判はしませんし、やったことに対しては、『凄いな』とも思います。

このデュシャンが市販の便器にサインをしたことで出来た『泉』という作品は、本人が伝えたかったメッセージというのも有るでしょうし、評論家による解釈というのも有るでしょうが、単純に、その行動そのものが考えさせられるものです。
私が『泉』というアートの存在を知った際に感じたことは、『アートとは何なのか?』という素朴な問題提議です。
名の通ったアーティストが、既成品として作られた便器を指さして、『私が、これをアートと認めたからアートだ』と言いだし、便器にサインをして、アートとして主張し、そのプレゼンが通って、実際に賞をとる。
そして、美術館には『既成品として作られた便器』が飾れれる。

では、『既成品として作られた便器』そのものは、サインが付けられた以外に変化したのかというと、そうではない。
便器が置かれる場所が、美術館の展示室かトイレかといった変化は有ったでしょうが、『既成品として作られた便器』そのものの存在が変化したわけではない。
しかし、実際にプレゼンをして賞を取ったことで、その便器の価値は確実に変わっているわけで、それによって、それを見る人達の目も変わる。
では、『何が変わったのか?』といった、哲学的な問いを感じました。

また、その他にも、『プレゼンがしっかりしていて、アートの中にメッセージが込められていれば、お前たちは便器ですらも美術品として扱うんだろう?』といった、ちょっとした嫌味も感じ取れましたし、美術館という『美しいもの』や『技工が素晴らしいもの』などを飾る場に、糞尿を受け止めるだけの目的で作られた『既成品の便器』を敢えて選んだのも、皮肉が効いていて良いと思いました。

この解釈が正しいのかどうかは分かりませんが、とにかく、一つの作品を通して、これだけの問いを投げかけられたのだから、その『泉』と名付けられたアートは、意味のあるものだと思いますし、価値も有るものだと思います。

バンクシーの絵の裁断問題も、根本的な部分は、この『泉』と同じで、単純ないたずらではなく、現状の美術界に対するアンチテーゼとしての行動だったんだと思います。
資本家は、美術に興味があるフリをして、自身の財産の保全の為に安全資産として、また、長期的に儲けるために、オークションを通して美術品という名の資産を購入するわけですが、その資産家に対して、『このアートは、オークションで競り落とされた瞬間に裁断される事で完成する。資産家が多額の資産を投じて購入した「モノ」が無くなる感情も含めて作品だ。』とした際に、その資産家は、また、美術をお金に変えてしまうシステムは、どの様な反応をするのだろう? といった皮肉が込められていたのだと思います。
私のように資産を持たず、美術をお金を増やすシステムとしか観ていないような人に対して『モヤッ』とした感情を持つ人間は、絵が裁断されていくあの映像を観て、スカッと&爽やかな笑いがこみ上げてきましたが、あのパフォーマンスそのものがメッセージであり、アートだと主張されれば、それはそれで納得しますし、その行動には価値があると思います。

では、前回書いた投稿で、私が何を批判したかったのかというと、それらのメッセージをお金に変換してしまうシステムに対してです。

美術と資本主義

上記で紹介した投稿では、冒頭部分で、
『今回の件では、誰も損をしていない。
むしろ、絵がシュレッダーで破壊されたことによって、1点ものになった事で、むしろ価値が上昇した。
関わった全員がハッピーになる演出で、流石、バンクシーって感じですね。』
と笑顔でインタビューに答えた、美術評論家の映像を観て、『モヤッ』としたと書きましたが、私が批判しているのは、こんな発言を笑顔でしてしまう、事象美術評論家の人たちの事です。
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バンクシーのあの裁断事件は、オークションであったり、そのオークションを成立させる為に、必要以上にアートを価値有るものと祭り上げて、金額を釣り上げているシステムや、それに関わる人達に対する批判のメッセージも含まれていたと思います。
自分たちが批判されている、もっと言えば、喧嘩を売られているにも関わらず、笑顔で『更に価値が上がってラッキー!』なんて言えるのは、そこに込められているメッセージが理解できていないか、そもそもメッセージなんてどうでも良くて、そのアートが生み出す金額にしか興味が無いかのどちらかとしか思えないんです。

仮に、あの絵の購入者であったりオークション主催者が、バンクシーに対して怒りを露わにするといった行動を取っていれば、少なくとも私は、この様な『モヤッ』とした気持ちは沸き起こって来なかったのかもしれません。
しかし、美術関係者の多くの人が『裁断されたことで、むしろ価値が上がった!』といってしまった。
これは、オークションという場を利用した新たな表現方法が生まれたから、価値が上昇したのか。 それとも、オークションで落札されたものが『無価値』になってしまうと、今後のオークション運営に支障をきたすから、逆に価値が上がったことにして、購入者の資産を守ったのか。

笑顔で『裁断されて逆に価値が上がって、誰も損してない!』と言い切る美術評論家の映像を見た私の目には、アートに込められたメッセージが凄いからというよりも、オークションという制度を守りたいから、そう答えざるを得なかたようにしか見えず、『モヤッ』とした感情を抱いてしまったのです。
少なくとも、バンクシーは資本家を、より、肥え太らせる耐えにパフォーマンスを行ったわけではなく、現状のシステムに疑問を呈する為に行動を起こしたのだと思うのですが、それすらも、資産の価値を保証する為の物語に利用されている点が、何か、納得がいかないのです。

1500万メリット

この私の『モヤッ』とした気持ちを代弁してくれているような映像作品が有るので、私の気持ちを、より具体的に分かってもらう為に紹介します。その作品とは、海外ドラマ『ブラックミラー』の『1500万メリット』というエピソードです。以後、ネタバレを含みますので、まだ見ていない方で、これから見る予定が有る方は注意してください。
ブラックミラーは、SF版の世にも奇妙な物語のようなドラマで、1話完結で独自の世界を観せてくれるのですが、『1500万メリット』は、完全管理社会の話です。

『1500万メリット』の世界では、殆どの人々は、電力を発生させるために行きています。 電力を作る方法は、自転車型の発電機で、1日で決まった量以上の電力を作ることを強制されます。
ただ、この義務にはリターンもあり、生み出した電力をポイントにして、通貨のように使用することが出来ます。 自転車型の発電機にはモニターが付いている為、見たい動画チャンネルやゲームなどをポイントを消費して購入する事が出来ます。
そして、そのポイントを数千万レベルで貯めると、動画チャンネルの出演者に成る事ができるかもしれないオーディションの挑戦権を購入することが出来ます。
動画チャンネルを持てれば、視聴者数に応じてポイントが貰える為、もう、自転車を漕ぐ必要もなく、自由な暮らしをする事ができるという世界。

そんな世界で主人公の青年は、ポイントを特に使うこともなく、ただ貯めていたのですが、同じ様に発電作業をしている女性に好意をもつようになり、その女性の夢である、歌手になって自分のチャンネルを持ちたいという夢を応援する為に、自分のポイントを託します。
その女性は、オーディションで得意の歌を披露し、高評価を得たのですが、オーディションの主催者側から、『君の歌は素晴らしいが、歌手は十分過ぎるほど足りている。ポルノ女優であれば、空きがあるよ。』と言われ、周りの観客の空気感が生み出す圧力に押され、ポルノ女優になってしまいます。

主人公の青年は、それを機に、このシステムに疑問を持つようになり、今度は自分でオーディションを受ける為に、再び数千万のポイントを貯めます。
そして、ダンスを披露すると嘘をついてオーディション会場に行き、その会場で、自身の首筋に武器であるガラスの破片を当てて、少しでも邪魔が入りそうになると自殺できるような状態にで、システムに対する不満をぶち撒けます。
オーディションを否定し、完全管理システムを否定し、命をかけて、『現状はおかしい!』と訴えます。

すると、オーディションの主催者側が、こう言います。
『君のメッセージは良くわかった。 君の言葉は、心に突き刺さる!人を動かす! どうだ? 君のそのメッセージを伝える動画チャンネルを持たないか?』

命をかけたメッセージでさえも、お金を得る為のパフォーマンスにされてしまう。システムを否定しているのに、そのシステムに取り込まれてしまう…
この『モヤッ』とした感じ、分かってもらえるでしょうか。

他の分野でも同じ様な事が

これは、美術界に限ったことでは無く、似たようなケースは他のジャンルでも起こっている事です。例えば最近で言えば、ウィスキー市場がそう。
お酒の中でも、ビールやワインは、なんとなく消費者との距離が近いからか、消費量もそれなりにある一方で、ウィスキーというのは、それらと比べると、少し敬遠されがちのお酒です。
このままではシェアも増やせないし、このまま衰退していくと、ウィスキーという文化そのものが無くなってしまうかもしれない。

何とか、ウィスキーというお酒を身近にする為に、メーカーは、ビールと似た感じで呑みやすいハイボールを押し、それをCMで流す。 CMの内容も、若い人に訴求するような感じの作りにし、できるだけ多くの人に楽しんでもらえるように工夫しています。
またCMだけでなく、飲食店などと協力しキャンペーンなどを行ったり、できるだけ多くの人に楽しんでもらえるように、値段を安価に抑えたりと、様々な工夫をしています。

しかし、そんな最中、ウィスキーブームが来てしまいました。 このブームによって、ウィスキーの価格は暴投し、その暴投を見て、転売ヤーが市場のお酒を買い占め、更なる供給不足に陥ってしまいました。
そうなってくると困るのは、メーカーと飲食店です。
今まで、より多くの人に楽しんでもらう為に、努力してきたのに、資産家が自身の資産を増やす為に買い占めを行ったことにより、本当に呑んで欲しい消費者の元へ届くことはなく、転売ヤーの倉庫の中で眠っているという状況になりました。
市場に出ている量そのものも減少し、市場価格も上がっている為、店で出す場合の単価も上昇し、結果的にウィスキーは、庶民の手には届かない呑み物へと変わっていってしまいました。

こうなると、メーカーとタッグを組んで、ウィスキーをメインで出していた飲食店は、ウリとなる商品をウィスキーから他のものに変えざるをえず、結果として、ウィスキーを楽しむ文化というのは衰退していく事になります。

これは、アートも同じだと思います。
アーティストの多くは、例え庶民であっても、アートと触れ合う機会が増えたほうが良いと思っているでしょうし、例え資産家でなくとも、家に絵画やオブジェなどのアートが2~3個ぐらいあるのが普通といった状態になっていった方が、アートの裾野も広がって、良いと考えているのではないでしょうか。
しかし、資産家が一部のアートを数十億という値段で落札し続ける状況をテレビ画面を通して見せられ続けると、『アートって、庶民には関係が無いものなんだね。 金持ちの道楽だ。』と思う人が増えてしまうように思えます。

そもそもアートは、資産家の資産を増やす為の錬金素材ではなく、生活や心を豊かにしてくれるもののはずで、もっと身近であるべきものだと思います。
しかし、オークションを始めとした何にでも金額を付けてお金に変えてしまうシステムによって、価格は釣り上げられ、価格が上昇するという状況を資本家に利用され、庶民からはどんどんと遠い存在へとかけ離れて行ってしまっているように思います。

この様な現状を、表現を発信する側のアーティストは、求めているのでしょうか?

資本主義である以上、アーティストの作品は売れないと、作家の生活は成り立ちませんので、値段が付くことそのものに全面的に反対をしているわけではないのです。
ただ、一部の資産家の資産保全の為だけに、アーティストのメッセージや作品が利用され、錬金素材になってしまい、結果として、アートが庶民からどんどんと離れてしまっている現状に、『モヤッ』としてしまったのです。

もし、前回の投稿を読まれた方の中に、アーティストの方がいて、気分を害されたのであれば、謝ります。
前回の投稿は主語が大きすぎるために、美術界全般を批判しているように思えるので、その様に誤解されてしまったとしても仕方のない事だと思います。
ただ、前回、私が本当に批判したかった事は、何でもお金に変えてしまうシステムと、それを利用して資産を効率よく増やそうと考えている一部の資産家であって、作品を制作しているアーティストそのものではないという事を理解していただけたらなと思います。