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ホワイトカラーではないブルーカラーからの視点

フレーム問題 ~サイコパス・コミュ障は治るのか

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最近、『サイコパス』とか『コミュ障』について、悶々と考えていました。
『そもそも思考の仕方が違うんだろうな』と漠然と思っていたのですが、そこに随分昔に読んだ事がある『フレーム問題』を当てはめると、何となく説明がつきやすくなったので、今回はサイコパスやコミュ障をフレーム問題から考えてみます。

私は専門家ではないので、『フレーム問題』についての詳しい説明は出来ませんが、簡単に説明すると、『人が行動できているのは認知できている範囲(フレーム)があるから』というもので、人工知能を適切に動かすには、フレーム問題を解決しなければならないというもの。
フレーム問題 - Wikipedia

例えば、人工知能搭載のロボットが有ったとして、そのロボットにあるもの(A)を取ってくるように命令する。
その(A)にはセンサーが付けられており、動かすと爆弾が起動して爆発してしまうとします。

ロボットに何の条件もつけずに、ただ『取ってくること』だけを命令した場合、ロボットは何も考えずに(A)を取り、センサーが反応して爆発してしまいます。
これでは困るので、対策としてロボットに、『(A)を正常な状態で持ち帰ってくること』という条件を付けたとします。
するとロボットは、(A)に取り付けられている爆弾は勿論のこと、それ以外のあらゆる出来事にも反応してしまう。
例えば、爆弾のセンサーを取り外そうとした際に発動するトラップはないか、(A)がある場所までに落とし穴はないか…など、考えうる全てこの事に反応してしまい、結果として命令を実行できずに動けなくなってしまう。

この問題を解消する為に、ロボットに『必要最低限の警戒をしろ』という命令を書き込んだとしても、今度は『何が必要最低限なのか』を計算してしまうため、これまた動けなくなってしまう。
人工知能の場合は、可能性の視野が無限にある為、何が重要なのかを理解することも絞り込むことも難しいというのが、フレーム問題。
人間の場合にはフレームが有り、可能性の視野が限定されている為、細かい可能性を無意識で無視するために動けるということ。

この考え方って、人間にもそのまま当てはまると思うんですよね。
結論から書くと、サイコパスとコミュ障の違いは、人が持つフレームの大きさに関係しているのではないでしょうか。

具体的には、サイコパスの人間は元々のフレームが小さい。
視野が極端に狭いため、目の前に自分の利益を確認した場合は、それしか認知できず、その利益を手に収めた場合やそれまでの過程で『周りの人が困る可能性』については全く見えていない。
その為、自分の利益に最短距離で全力疾走で進むことが出来る。こんな人が経営者になった場合、我先にと利益に飛びつく行動を取る。
資本主義の世界は、誰も行動していない時に行動できるかどうかが成功出来るかどうかに繋がる事が多い。
経営者にはサイコパスが多いなんて話も有りますが、こう考えると納得もしやすい。
president.jp
ただ、フレームが小さいということは、先程も説明したとおり認知できている『可能性』が殆ど無い状態。
その為、『この職場環境で従業員は満足だろうか』『こんな真似をして、迷惑がかかる人はいないだろうか。』といった視点は全く抜けている、というか見えていない為、ブラック経営者になりがち。
この他に、自分の考え出したものでもないのに、話題になったり有名なワードで商標登録を出願して、利益を得ようと思うような人も同類だったりする。
全てのベクトルが『自分の利益』に向いていて、それ以外が見えていない状態なので、自分の行動で人が傷つこうが嫌な思いをしようが、それが『見えていない』ので躊躇なく行動を起こせるし継続することが出来る。

これが悪い方向に転び、『人が死ぬ姿を見たい!』と思ってしまった場合も、その行為に伴う被害・損害などは見えてないので、躊躇なく行動を起こすことが出来てしまう。

コミュ障はこれとは逆で、フレームが大きすぎる為に行動を起こせない人たちのことでしょう。
私も自覚できる程のコミュ障なのですが、よく他人から『考えすぎだ』と言われます。
他の人からすると考える必要もなく、普通に行動すれば問題は起こらないと思われることも、私の場合は考えてしまう。
その結果、いざという時に行動が起こせなかったり、テンポが明らかに遅れたりしてしまう。

例えば人と約束があるときなどは、どんな話題を話そうかを考える。
それもただ考えるだけでなく、自分が話した事で相手がどんな返答をするか、その場合はどのように返答するかなんてことを綿密にシュミレーションしたりする。
この時点で結構なストレスになっているので、他人から誘われて『行く』と返答している場合は、その約束を破るということはしないのですが、自分から『誘おうかな?』と考えている場合などは、シュミレーションをしている内に面倒くさくなって結果的に誘わないなんてこともしばしば起こる。
他人に誘われて行った場合も、シュミレーション通りに会話が進むことなどはなく、その場その場で臨機応変に対応を求められるわけですが、いざ家に帰って会話内容を反芻すると、『あのときの返答はあれでよかったのだろうか。』『あの伝え方では誤解をされてないだろうか』なんて事を考えてしまい。悶絶してしまう。

人と会いに行こうが行くまいが、結果的に物凄くストレスが貯まってしまう為、そういう機会からは遠ざかってしまう。
これがコミュ障なのでしょう。

もっと視野を狭くし、『他人が何を考え感じたとしても、自分には関係ない。』『自分が楽しければ、それで良い。』と考えれば、ストレスも軽減されるし、もっと人と会う行動その物を楽しむことも出来るのでしょう。
純粋に人と合うことが楽しめれば、その雰囲気は相手にも伝わるため、相手も『この人と一緒にいると楽しい』と感じることが多く、結果的に人と会える回数も増えていく。
リア充と呼ばれる人は、『今の社会に適応した丁度良い大きさのフレーム』を持っているため、その様な行動を取れるのだろう。

このように考えると、世の中でうまく生きていく為に必要なのは、適切なフレームを見極め、自分のフレームを最適化することなんだと思います。
極端にサイコパスだったりコミュ障だったりする場合は、矯正するのは難しいようにも思えますが、サイコパス気味・コミュ障気味程度であれば、自分の認識を変えてパラダイムシフトを起こすことで、改善も可能の様に思えます。
この様な矯正に必要なのは、自分の起こした行動とその結果を真摯に見つめ直すことです。

人間の認識とは結構適当なもので、人は見たいものを見て聴きたいように聴いています。
同じ事実を見たとしても、捉え方は自分が捉えたいように捉えるということです。
コミュ障の人は、自分は他人から見ると対して面白くないと自分を捉えますし、サイコパスの人は自分の都合の用意ように解釈してしまいます。
これはつまり、世の中を見ている人ごとに事実があることになるわけですが、その事実を主観から客観的なものに変えていく作業が必要なのでしょう。

客観的に物事を見つめ直した結果、自分が考える事実と客観的に観た事実との間に差を見つけ出すことが出来れば、その時点でパラダイムシフトが起こり、考え方や行動が根本的に変えることが可能になってくるでしょう。
ただ、自分以外の視点を持つというのは自分ひとりではかなり難しいため、コミュ障を解決するために他人と積極的にコミュニケーションを取らなければならないという矛盾したことも起こってくるわけですが。
まぁ、性格を変えるなんてことは簡単に行えるものではないので、地道に少しづつ、焦らずに視点の差を埋めていくことが継続して出来るかどうかが重要になってくるんでしょうね。