だぶるばいせっぷす 新館

ホワイトカラーではないブルーカラーからの視点

泣ける作品だから良いとは限らない

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『泣ける作品だからといって、良い作品とは限らない。』

これは私の言葉ではなく、漫画家の蛭子 能収さんの言葉だそうです。
『だそうです。』とつけているのは、私が直接聞いた言葉ではなく、深夜の馬鹿力という深夜ラジオで、伊集院光さんが話されていたのを聞いたからです。

『泣けるから良い作品とは限らない。』
この言葉を聞いて、私は目から鱗がボロボロ状態になりました。
この言葉を聞くまで、私は泣けるから感動する作品なんだと思い込んでいたわけです。
私の中では、泣ける=感動する=良い作品という式が出来上がっていて、泣いたから良い作品だと思い込んでいたのです。

しかしこの言葉を聞いてからは、見方がガラッと変わりました。
見方が変わった作品で一番印象に残っているのは、スタジオジブリの『かぐや姫の物語』です。




最初に断っておきますが、ここから先に書くのは私の主観的な感想です。
作品というのは個々に感じ方が違うものですし、私の見方が正しいと主張するものではありません。

私が『かぐや姫の物語』を最初に見た時の感想は、かぐや姫とお爺さんお婆さんが分かれるシーンで号泣したので、感動したというものでした。
しかし、よくよく考えると、最後の別れのシーンで泣くのは、物語の構成が良くて泣いたわけでも、ストーリーが素晴らしくて泣いたわけでもないんですよね。

泣いたのは単に、最後の別れのシーンを、自分が肉親を失ってしまった悲しみとリンクさせたからというだけなんです。

かぐや姫の最後の別れのシーンは、月からの使者が仏さまだったり天女だったりと、どう見ても『あの世』の住人。
そんな人たちに、大事な一人娘が連れていかれてしまう。
しかも、その際に、かぐや姫は衣を着せられる事で、この世の全ての記憶を失ってしまうという別れ方。

このシーンを多くの人が見た場合、『かぐや姫は、月という死後の世界に連れていかれる』という印象を持つと思います。
つまりこの物語は、一人娘として大事に育ててきた娘が、親よりも先に亡くなってしまう物語とも受け取れるわけです。

私には子供はいませんが、数年前には祖父母を失うという経験をしています。
祖父母とは、小さいときは同居のような状態で、年を取ってからも同じ町内で暮らしていましたので、その人達を失ってしまうというつらさはわかります。
また、祖父母を失った時の親の様子も見ているので、自分の親を失ってしまうという状態も、近くで見ています。

そんな私が、手塩に掛けて育てた我が子が先立って不幸になってしまう状態を想像すると、当然のように泣けてしまいます。
でもこれって、自分の経験をリンクさせて泣いているだけなので、ストーリー的に感動して云々という話ではないんですよね。

では、親子の別れ以外の部分はどうだったのかというと、良いストーリーというわけでも感動できる作品というわけでもない。
親子の生活のシーンと別れのシーン以外で描かれていたことは、かぐや姫に惚れて言い寄る男たちに無理難題を押し付けて遠回しに断ろうとする、絵本でおなじみのエピソード。
その他には、この映画オリジナルキャラの幼なじみのお兄ちゃん的存在の男の子との、恋愛模様のみ。

このオリジナルキャラクターとの恋愛ですが、これも『感動した!』と言い切れるようなエピソードでもない。
かぐや姫は、小さい頃にいつも身近にいて、自分を身分といった己以外のオプションで言い寄らない男性、『捨丸』に思いを打ち明けるという場面があるのですが、この捨丸が結構ろくでもない男。
昔は美形のかぐやに好意を持っていた様なのですが、自分とは身分が違うという事で諦めて、さっさと他の女性と所帯を持って子供を授かります。
ここまでは良いのですが、かぐや姫に好意を伝えられると、妻と子の事を忘れて、かぐやと抱き合います。

その後、宙を舞うような描写(性的描写?)の後、いつの間にか眠ってしまう捨丸。
次に起きた時には、もう既に、かぐや姫の姿はありませんでした。
そこで捨丸のとった行動は、特に姫を探す事も無く、後から来た妻子と何事もなかったように帰ってく…

物語全般としては特に面白いというものもなく、登場人物も大した人間は出てこない。
そこで描かれるドラマにも感動はしないのですが、最後の別れのシーンのみ、観ている側の人間の悲しい思い出がフラッシュバックして、泣いてしまう。
極端な話、単に泣きたいだけなのであれば、かぐや姫の子供の頃の生活シーンを見せてキャラクターに愛着を持たせ、、最後に別れのシーンを描く30分番組ぐらいでも十分といった感じです。
それ以外の部分に焦点を当てると、自分の事しか考えていないキャラクターが右往左往しているといった印象しかありませんでした。

この作品を、『最後に泣いたから、素晴らしい作品だった』とは、とても思えないわけです。

今回は例として、この映画を取り上げました。
しかし、これはこの映画に限ったことではありません。
世に出回っている音楽や漫画等の表現、全てに当てはまります。

以前、マキタスポーツさんが、感動してヒットした曲を大量に集め、よく使われているフレーズや展開を用いて曲を作り上げるという企画が行われたそうです。
ヒットや感動する曲には、一定の法則があるであろうとして、機械的に作られたその曲は、大ヒットとはいかないまでも、それなりに売れ、それを聞いて感動した人もいらっしゃったようです。



こんなエピソードを聞くと、泣くという行為は、物語が非常によく作りこまれていたり、演出が素晴らしいから泣くというわけではない。
自身の経験を物語に投影して、自身の経験がフラッシュバックして泣いてしまうわけです。
そして泣かせるために必要なのは、『愛着があるものを失ってしまう』といった、誰でも想像できる様な要素を、ところどころに組み入れるだけで良い。

こういう風に考えると、全体として特に面白いというわけでもないのに、自身の経験を投影できるエピソードの部分でピンポイントで泣いたからといって、作品全体が良いという風にはなりませんよね。
考え方としては、泣く事と作品の出来は切り離して考える必要があると思います。

そうした目線で考えて初めて、作品を評価できるように思うのですが、どうでしょうか。