だぶるばいせっぷす 新館

ホワイトカラーではないブルーカラーからの視点

『地球のために』という人達

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ネットやテレビ等のメディアを観ていると、『気球のために』という人達が出てきて、主張をする事があります。
個人的な感想ですが、私はこのセリフを聞いた瞬間に、胡散臭い雰囲気をその人物に対して抱いてしまう。
一見良いことを言っている風なのに、なぜこの様な感想をいだいてしまうのか。

今回はこの事について考えていきます。


『地球の為に』と何の疑問を持たずに他人に向けて主張できる人の心理は理解できませんが、想像するに、思い込みが強い方々なのでしょう。
どのような思い込みかというと

  1. 自分達には地球環境を操作する権限と力がある。
  2. 自分達は善なる存在。

この2つの思い込みがなければ、この様な主張はそもそもが出来ない。
そして、この様な主張になるという事は、世の中に対する視野がかなり狭いという事も読み取れます。

もしこの様な思い込みが無い人。
つまり、自分達の存在を過大評価せず、広い視野で世の中を見ている人が主張しているのだとすると、何らかの裏がある発言だと思われるので、更に胡散臭さが増加する。
どちらにしても近寄りたくない方々なので、胡散臭いセンサーが反応し、瞬時にバリアーを張っているのでしょう。

冷静になって考えれば分かりますが、地球環境は長いスパンでみると変化の連続です。
そして人間だけが地球環境に変化を与えていたわけではない。

例えば大昔の地球は二酸化炭素の割合が多く、その頃に地球に誕生した生物は、二酸化炭素をを吸収して酸素という毒を生み出す構造で生まれた。
これが植物ですよね。
植物は、地球環境を良くしようと思って誕生したのではなく、その時の地球に多かった気体を利用したに過ぎない。

植物の量が増えると、二酸化炭素は酸素に変換されて地球環境自体が激変してしまった。
その後に生まれたのが、毒である酸素を取り込んで二酸化炭素を吐き出す生物。
これも地球環境のバランスを取ろうと思って誕生したのではなく、この方が効率的だったからに過ぎない。

様々な生物が生れて、環境に最適化されたものが残っただけ。
人間が文明を持つ前や、この世に誕生する前にも環境は激変しているし、その変化についていけなかった生物は絶滅している。
地球に生まれた生物は、『地球のために』頑張っているわけではなく、自分達が生き残るだけで精一杯。

そんな状況の中で、平然と『地球の為』と言ってしまえる人は、何様なんだろうと思ってしまう。

例えば、先の震災の影響による原発事故で、放射能が問題視されました。
人間や一部の生物にとっては、かなり重要な問題かもしれません。
しかし、他の生物の視点でみると、さほど大した問題では無いのかもしれない。

この先、もっと深刻な原発事故が発生して人間が地球上から滅亡したとしても、その放射線を取り込み、利用して生きていく生物が人類の代わりに台頭するだけなんでしょう。
今現在の地球環境は激変し、生態系も大きく変わるかもしれませんが、それが地球の為にならないというわけではない。


地球という大きな存在を、人間の体に例えて視点を変えて考えてみましょう。。
人間やその他の生物というのは、人間の表面に繁殖している雑菌のような存在です。
その視点で見てみれば、その雑菌達が勢力争いで争っていたとしても、意識すらしない。

当然、目に見えない雑菌達が『寄生している人間の為に、勢力バランスを考えないと』なんて考えていたとしても、知る由も有りません。
また、生まれた時から共存関係にある菌ならまだしも、1~2秒前に体に付着した菌が全体のバランスを考えるというのが馬鹿らしい。
(地球の歴史を人類の寿命に例えると、人類が誕生したのは数秒前)
この様な視点で世の中を見れる人は、『地球のために』なんて事は軽々しく主張できないと思います。
それを簡単に実行してしまうところに、胡散臭さを感じてしまうのでしょう。

極端な話、地球の目線で考えて人類が有害なものであるのなら、『地球のため』に行動する人達は、地球の負担を少しでも減らすために自殺するのでしょうか。
おそらくそんな事はしないのでしょう。
何故なら最初にも書きましたが、『地球のために!』といえる人達は、自分達が地球にとって善なる存在で、バランサーとして無くてはならない存在だと信じて疑わないからでしょう。


先程も書きましたが、人間なんて地球全体から観れば、皮膚の上をはう雑菌のような存在です。
いくら頑張った所で、風邪をひかせるぐらいが関の山でしょう。
それなら、『地球のために!』なんて壮大な事は考えず、『人間が暮らしていくのに快適な環境を維持する為』といった方が、まだ理解を得られやすいのではないでしょうか。