だぶるばいせっぷす 新館

ホワイトカラーではないブルーカラーからの視点

スピリチュアルの可能性

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私は昔…というかつい最近まで、オカルトやスピリチュアルというものに全く関心が有りませんでした。
中学生の頃に観ていたTV○ックルの企画、オカルトvs科学といった討論企画も、正直、オカルト陣営を馬鹿にしたような目で観ていました。
その一方で、正論で論破しているように見えた科学サイドの人達の意見に素直に頷き、思考を硬直化させていました。

しかしここ最近、スピリチュアルやオカルトに真面目に取り組んでおられる方の意見を聞く機会が増えたせいか、若干考え方が変化してきました。
という事で今回は、オカルトやスピリチュアルの可能性について書いていきます。


人は感情という曖昧なものに振り回されて生きています。
同じ物事に接した場合でも、感情の有り様によって捉え方や感じ方が変わるという事が結構多い。

どんな困難に直面しても、ポジティブな状態であれば、乗り越えるべき試練だと自身を奮い立たせ、むしろやる気が起こる場合もある。
その一方で、ネガティブな状態で困難にぶち当たると、何もやる気が起こらず、本来であれば解決可能な出来事すらも放棄してしまう。

これはどちらが良いという問題ではなく程度問題で、ポジティブ過ぎてもネガティブ過ぎても冷静な判断は出来ない。
物事に正しく接するためには、精神状態を絶えずフラットにしておく必要が出てきます。

これを科学的に解決しようと思えば、精神状態をコントロールする為の精神安定剤等を飲むのが良いのでしょう。
しかし、現実問題として、事が起こる度に病院に駆け込むことも出来ないし、精神病でもない人が常に薬を携帯して、必要時に飲むなんてことも出来ない。

そうした時に、スピリチュアルやオカルトを用いた解決というのも、選択肢としてはあり得る。
オカルトやスピリチュアルというものは、基本的に科学で定義できないものとされている。
神や悪魔、信仰や儀式といった、非現実的な物を持ち出してくる場合も多い。

この様な物を用いて、問題解決が出来るのか。
昔の私は、非現実的だと笑い飛ばしていたのですが、最近は信じていれば出来ると思うようになりました。


こんな事を書くと、この投稿を読まれている方の一部は『変な宗教に入信したのか?』と心配をされるかもしれませんが、そういうことでは有りません。
納得できる理論のようなものが自分の中に出来たので、そう思っただけです。

スピリチュアルやオカルトがどの様な形で、問題解決するのか。
これを考える為には、まず、問題が起こる根本原因を考えなければなりません。

人が悩む状況というのは、大抵は感情的に落ち込んでいる時です。
落ち込んだ状態で、一つの問題に対してただひたすら悩む。
その結果として多くの人が、問題の原因を自分以外の周りの環境のせいにしがちなんですよね。

『自分自身がこれだけの事を考えて行動しているのに、周りは全く分かってない』
大抵はこれと類似した結論に行き着き、他人が変わらないから自体が好転しないと腹を立てている。
この様な考えに支配されると、周り全てが怒りの対象になる。
当然、物事が更に上手く行かない状態になり、その怒りを周りにぶち撒ける。
この過程を辿ことで、負のスパイラルが完成。

結果として、目に映る物全てが面白くなくなり、怒りの対象となって、その態度が更なるトラブルを生むことになる。
このスパイラルから抜け出す為に重要な事は、物事を一人称の狭い視野で見ずに、もっと広いメタ的な視点で捉えることです。

その時に効果的なのが、スピリチュアルやオカルトなんでしょう。

例えばオカルト的な儀式として、丑の刻参りというものが有ります。
丑の刻(午前1時~3時ぐらい?)に神社の御神木に、憎い相手に見立てた藁人形を釘で打ち込む。
格好は白装束で、頭に2本のロウソクを2本つきたてた装いで、誰にも発見されずに7日間この儀式を行う。
もし見つかったら、効力がなくなる。

人が他人を殺したいぐらい恨むのには、かなりの集中力とエネルギが必要となる。
この時に、丑の刻参りといった神経を使う様な儀式を行った場合、他人を恨む集中力が儀式の方に削がれてしまう。
その儀式を誰にも見つからないように7日間も行えば、その頃には自分を含んだ環境を客観的に見る余裕も出てくる為、殺したいという気持ちは薄れている可能性が高い。
結果として、相手が本当に呪い殺されることがなかったとしても、儀式を行った本人的には解決している場合がある。

他のオカルト的な儀式も同じようなものでしょう。
例えば毎日神棚に手を合わせる習慣がある人は、他のことに対しても気を使う場合が多いので、事が上手く運ぶ。

百度参り等も、大抵の願いはお参り中に諦めてしまう。
それでも願い続けることが出来るほどの願いは本気の願いなので、叶う場合が多い。

ネガティブなものでもポジティブなものでも、願いは現実と理想のギャップで起こるもの。
理想に集中し過ぎると現実との距離感がわからなくなる為、様々な問題が起こってしまう。
その距離感を認識するためには、少し距離をとって俯瞰した目線で、自分を取り巻く環境を見渡さなければならない。
しかし、理想に集中しすぎている時には、その事から目を外すことは難しい。

それを可能にしてきたのが、オカルト的な儀式なんでしょう。
最初の動機が『理想を実現する』という、今まで集中してきた事と同じなので、導入も自然な形で出来る。

この様な意識を他に向ける方法としては、カウンセリング等も有るんでしょう。
しかし、皆がカウンセラーの意見に素直に耳を傾けられるわけではない。
人によっては、オカルトやスピリチュアル的な儀式によって注意を逸らした方が効果的な人もいるでしょう。

こう考えると、科学以外の選択肢も捨てたものではないのかもしれない。