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ホワイトカラーではないブルーカラーからの視点

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第143回物事には全て『良くするための技術・知識』がある 後編

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人間の本質は『魂+肉体』なのか?


ここで、人間は肉体と精神を切り離すことは出来ず、肉体に精神が宿ってはじめて人間だと考える方もいらっしゃるでしょう。
わかりやすく少しオカルト的に考えて、人間の魂が幽霊のような形で肉体から分離できるとした場合、『分離された肉体はただの物体で、純粋な魂部分である幽霊の方が人間だ』とは考えにくいですからね。
肉体部分と魂部分が重なり合って、一つになった状態こそが人間だと考える方が出てきても不思議ではありません。

しかしソクラテスは、そんな考えを否定します。何故なら先程も言ったとおり、肉体は魂によって支配される道具だからです。
人間の本質とは意思決定をして肉体を支配するものです。その肉体を支配すべきものの一部が肉体だというのは、筋が通っていません。
というのも、これを認めてしまうと、肉体は自分自身を支配している存在という意味不明な状態になってしまうからです。

支配するとは、他のものを自由自在に動かすことが出来る状態のことで、支配されるとは自由を奪われて命令されることと解釈できますが、そうすると、支配する側と支配される側とは別々のものでなければなりません。
肉体そのものが肉体の支配権を持っている場合、肉体は何者にも命令されない自由な存在となってしまうわけですから、これでは支配されている状態とは言えなくなってしまいます。
つまり、肉体を支配できるのは肉体以外のもので、肉体の決定権は魂が持っていると思われるため、支配者は肉体と魂が合わさったものではなく、魂のみとなります。

ここでは断定的に言いましたが、これは確定事項ではありません。 真実を知らないソクラテスたちに推測できるのはここまでなので、仮説として人間の本質とは魂だと定義しようということです。
というのもソクラテスもアルキビアデスも、人間の本質とは何かという答えを知りませんので、知らない者同士で話したところで真実の答えに辿り着いたかどうかは判断が出来ません。
なので、一応の答えとして、『人間の本質とは魂だ』としているだけだという点に注意してください。

人を良くする技術


さて、仮に人間の本質が魂だとしましょう。 この場合、人が良くなるとは人の魂を良くする事と言い換えることが出来ます。
先程、服や肉体を良くするためにはそれぞれ専門の知識や技術が存在するという話をしましたが、そうすると同じ理屈から、人の魂を良くするための技術や知識が存在するということになります。
そして当然の流れとして優れた人というのは、その技術や知識を持つものとなります。

この視点でもって人々の行動を観ていくと、今までと違った風景が見えてきます。
例えばアルキビアデスは古代ギリシャの中でトップレベルの美貌を持った人間ですが、人間の本質は肉体ではなく、当然のことながら顔の造形ではありませんので、これが優れているからといって優れた人間とは言えません。
当然のことですが、体の見栄えを良くするための技術であるとか、化粧の技術の上手さであるとか、病気などの人の体の悪いところを治すための知識や技術を持っていたとしても、それは優れた人間ではないということです。

またアルキビアデスは、自分は太い実家を持っているため、財産を多く持っていると自慢していましたが、金や土地といった財産は自分の肉体ですらなく、自分とは全く関係のない単なる物質であるため、人間の本質とは全く関係がありません。
むしろ、財産を築き上げる能力に優れたものや、その能力を身に着けようと必死になっているものは、自分の本質とは全く関係のないものに対して夢中になっているため、自分磨きをおろそかにしている可能性すら出てきます。

ゴールを明確にする


これは仕事などでも同じです。現在では、仕事ができる人というのは優秀な人と言われますが、この理屈に当てはめれば、仕事ができる人というのは仕事に配慮することに特化している人でしかありません。
仕事に配慮する事と人間の本質に配慮する事は別のことなので、仕事ができるから人間も出来ているのかというと、それは全く別の話となります。

誤解のないように言っておくと、立派な人間は仕事が全くできなくて良いとか、知識や運動能力が全く必要ないと言っているわけではありません。
人の魂を磨く技術をみにつける上で運動が必要になることもあるかもしれませんし、知識や技術が必要になることもあるかもしれません。
しかし仮にそうだとして、それは魂を磨くための過程で必要になるものであって、それを身につけることそのものが目標になるわけではありません。

自分が向かうべき最終目標も見えていない状態で、それを探そうともせずに別の能力や知識を身につけるために躍起になるという行動は、『魂に配慮する』という観点から見れば意味はないということです。
重要なのは、まず、人の魂が最終的にどの様な状態になっているのが理想的なのかを一生懸命に探求することであるということです。

わかりやすく言えば、旅に出かける際に目的地も決まっていないのに、その旅の移動手段である車を買ったり、その車の内装を良くするために夢中になったり、それに多額の金をかけるのは意味がないということです。
一番重要なのは、ゴールまでの正しい道のりを知ることなのにも関わらず、その事を一切考えずに車の世話だけをし続けたとしても、目的地には1ミリも近づきません。
目的地の事を一切考えないままに、なんとなくの思いつきで適当に車を走らせてしまったりすれば、偶然にも方角があっていれば良いですが、方角が間違っていればゴールからはどんどん遠ざかってしまいます。

人間の本質が財産の有無なら


ここまで、同じことを繰り返し何度も言ってきましたが、何故かといえば、それがかなり重要だからです。

例えば、人間の魅力は人が持っている財産だと思い込んだとしましょう。 財産はわかりやすく数字で表されるため、ドラゴンボールで言えば戦闘力の様に他人と比較しやすいものです。
この数値を増やせば増やしただけ人間としての魅力が上がり、人の魂も磨かれていくと勘違いしてしまったとしたら、その勘違いした人は、金を得るために法律を犯してしまったりしてしまうかもしれません。
例えば、強盗や詐欺によって他人が持っている金を奪い取れば、短い期間で多額のカネを手に入れることができます。

その金の量がそのまま人間の魅力となるのであれば、地道に勉強したり働いたりしてお金を貯めるよりも、他人を騙して掠め取れる人物のほうが優れた人物となってしまいます。
また、金を持っている量がそのまま人間力の高さに直結するのであれば、人と結婚をする際には、相手の年収だけを見れば良いことになります。
何故なら、多くの金を稼ぎ出せる人間は優れた人間であるわけですし、優れた人間は関わるものを幸せにしてくれるはずなので、幸せになろうと思うのであれば、年収の高い人を探し出して結婚すれば良いこととなります。

また逆にこの価値観では、金を持っていない人間は悪とされてしまいます。
例え、人生の大半をボランティアや慈善活動に捧げていたとしても、その行動で対価を受け取らずに自身が貧しい状態であるのなら、その人間は悪だということになります。
何故なら、その人間は金を稼げていないからです。 財産の金額がそのまま人間力の高さに直結するのであれば、金を持っていない人間はそのまま悪い人間となってしまいます。

もし、この様な価値観が世界に広まったとしたら、世界はかなり殺伐とした感じになってしまうでしょう。
無償で人の為に働く人間は馬鹿にされますし、その結果としてあまり金を持っていなければ、人として見下されます。
自分に接してくる人は皆、自分から金を奪うことだけを考えています。

もし、この様な世界になったとしたら、心が休まらないのではないでしょうか。
では、人間の本質とはどのようなものと考えられるのか、このことについては次回に話していきます。

参考文献



【Podcast #カミバコラジオ 原稿】第69回【財務・経済】固定比率

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短期の財務分析


これまでの3回で、短期の財務分析について紹介して行きました。
どのようなものがあったのかを簡単に振り返ると、流動資産を流動負債で割った流動比率流動資産から流動負債を差し引いた正味運転資本
流動資産から商品在庫である棚卸し商品を差し引いたものを流動負債で割った当座比率、現預金に売買目的有価証券を足したものを年間売上の12分の1で割った手元流動性比率などがありました。

これらの財務分析についてのより詳しい説明については、第67回~68回をお聞きください。
先ほど紹介した財務分析は、冒頭でも言いましたが短期の財務分析で、主に企業の短期の安全性について見ていくものでした。
それぞれの指標の共通点としては、数値が高いほどに安全性は高くなるけれども、高すぎると資産を有効活用できていないということを示していて、一定範囲内にとどまっていることが推奨されているものです。

これらの分析では、主に1年以内に変動する数値を用いて計算をするため、出てくる数字も1年以内といった短期的なことしかわかりませんでした。
しかし企業の活動は1年といった短い期間で行われるわけではありません。 もっと長期的なスパンで行われます。
以前にゴーイング・コンサーンという考えを紹介しましたが、期間限定のイベントに関連する事業でもない限り、永続的な活動を目指すのが企業です。

その為、財務分析としても長期的な目線でも見ていくことが重要となります。 そこで重要となってくるのが、今回から紹介していく長期的な分析です。

固定比率


まず最初に紹介するのが『固定比率』です。 この固定費率は、固定資産を純資産で割ってだします。 この数字は小さければ小さいほどよく、100%を下回る数字になれば固定資産は全額が純資産で賄われていることになるため、安全といえます。
固定資産というのは、機械や設備、土地建物や、この先1年以上売る予定のない有価証券のことだと考えてもらえばよいです。
純資産というのは、資産から負債を差し引いた差額のことで、経営者の持ち分となります。 株式会社の場合は、この部分が株主から調達したお金と考えることも出来ます。

純資産とは


この純資産は返済義務がないお金です。 義務がないため『返済しろ!』と催促されることはありません。
この純資産で固定資産を割ると言うことは、固定資産がどれぐらい返済義務のない資金で賄われているのかを測るという事になります。
固定資産というのは先程も言いましたが、土地建物や機械などの設備、売るつもりのない有価証券のことです。 これらの資産というのは、大きな金額になることが多く、会社の持つ現預金のみで購入できることなんてほぼありません。

土地を買うにしても工場を建てるにしても、そこに搬入する機械を導入するにしても、大抵は借金をすることで資金を調達して購入します。
これは個人で考えてもわかりますが、マイホームを購入する時に全額現金で購入することは稀で、大抵はローンを組んで購入しますよね。
会社も同じで、大きな固定資産投資というのは銀行でローンを組んで購入することが大半です。

借金をしてローンを組むというのは、簿記的に見れば有利子負債で固定資産を購入しているということになるわけですが、この有利子負債というのは名前が示す通り利子がつくことはもちろんですが、それに加えて返済義務のある借金です。
銀行からお金を借りてお金を返さなくて良いなんてことはありませんので、これは当然のことです。
返済義務があるということは、定期的に訪れる返済期限以内に一定の売上を上げ続けなければならないことを意味します。

固定比率とは


この返済の負担がどれぐらいあるのかというのを分析するのが、この固定費率というわけです。
仮に全くお金がない人間が3000万円のお金を10年で返済するという約束で銀行から借金をして、工場を建てたとしましょう。 
わかり易さを優先するために利子を入れずに計算に入れると、3000万円を10年で返済するわけですから、1年で返済しなければならない義務のあるお金は300万円ということになります。

自己資金ゼロで全額借金をして事業をしている場合は、この会社は最低限300万以上の利益を出し続けなければ回していけないことになります。
実際には300万円の利益を上げると、それに応じた税金が徴収するため、それ以上の利益を出さなければなりません。
もし利益がその水準を下回ってしまえば、その会社は返済が困難になってしまいますし、借金を返すために新たに借金をするなんてこともしなければならない状態に追い込まれてしまったりします。

その一方で、自己資金が1000万円あればどうでしょうか。 仮に売上が下がって年間利益が300万円を下回ったとしても、1000万円の自己資金があるわけですから、それを取り崩せば借金が返済できないなんて事にはなりません。
つまり自己資金の額の多さというのは、長期的な安全性につながっているというわけです。
ここで、『返済義務のある借金額と自己資金を比べるのであれば、固定資産ではなく有利子負債額と自己資金とを比較すればよいのでは?』と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、それは別の分析方法として存在しています。

固定資産の性質


では何故、わざわざ固定資産と比べて固定費率なんてものを出すのかといえば、固定資産という資産の属性に関係していると思われます。
固定資産というのは、新たに固定資産を買わない限りは基本的には毎年減っていく資産です。 これは前にも減価償却の項目で説明しましたが、固定資産というのは減価償却の額だけ毎年減少していきます。
先程の例で言えば、3000万円を出資して工場を建てて、それを20年の定額法で償却すると仮定すると、毎年150万円ずつ減価償却費という経費が計上されて、その代わりに同じ額の固定資産が減少していきます。

つまり、毎年返済額以上の利益を出すことができれば、固定資産の減少分だけ固定費率は改善していくこととなります。
先程の例で言えば、もし仮に工場が20年を経過してもまだ買い替えることなく使い続けられている場合、この工場の固定資産としての価値は備忘価額の1円になっているため、会社が債務超過になっていない限りは固定比率は確実に100%を下回ります。
これは別の見方をすれば、固定資産というのは前もって一括で支払われた経費と考えることが出来ますから、それ自体は利益を生まない資産と考えることが出来たりもします。

これに加えて固定資産の中には、減価償却が行われない資産もあります。
土地などの資産は価値が動かない不動産であるため、減価償却が行われることはありません。 そしてこの土地というのは、他人に貸し出すか転売するしか利益を得ることは出来ません。
つまり、土地を購入するということは、資金を何の収益も産まない資産に固定してしまうということを意味します。

事業における土地とは


何の収益も産まないものに資産を固定していて、その資産を購入するために借金している状態というのは、基本的には良くない状態なので、この資産は経営者の資産である純資産で賄われていることが望ましいという考え方もあります。
これに対して『土地を持っていなければ、営業のために土地を借りる必要があり、出費が生まれてしまう。 土地の所有はその出費を防いでいるのだから、実質的に収益なのでは?』という反論もあると思います。
ただ、会社経営ではその様な考えはしません。 仮に土地を購入して出費が抑えられるとしても、そこで得するお金というのは家賃分に限定されます。

2022年現在の不動産賃貸の利回りは5%前後で、この値は時代が変わってもそこまで大きく変わることはありません。仮に3000万円で不動産を購入した場合、年間で得をするお金というのは150万円前後だと考えられます。
もし仮に、その3000万円を新規事業に投資することで150万円以上の利益を得ることが出来るのであれば、会社としては土地なんて買わずに新規事業に投資をした方が良いことになります。
つまり、他人の持っている土地を借りて商売をして、年間で150万円以上の利益を出せるのであれば、土地は買うよりも借りた方が得だということです。

こうして考えると、無駄な固定資産を持つことは経営効率上も良くないことを意味します。
その効率の悪い資産は、返済義務のある借金ではなく自己資金で間に合わせたほうが良いというのも、固定比率を考える上で重要なことだったりするようです。
ここ最近では、会社が自社ビルを売却した上で、その元自社ビルを借りて居座り続けるなんて会社もありますが、あれも、無駄な固定資産を売却して固定費率を改善させていると見ることも出来ます。

会社側としては、自社ビル売却によって一時的に多額の現金を手に入れることができるので、それをそのまま別の事業に投資をして家賃以上のお金を稼ぐことが出来るのであれば、そちらの方が利益が得られることになります。
またこの先、技術の進歩によってリモートが進んで広いオフィスが必要ないとなれば、借りているフロア数を減らすという事もできるため、柔軟性が増します。
好景気になって金利が上がり、5%以上の投資商品が沢山出てくれば、それを購入する事で、ビルを所有している時よりも多くの利益を得る事ができる可能性も出てきます。

固定比率まとめ


以上をまとめると、固定資産というのは既に支払いが済んでしまっている経費を資産扱いしているだけなので、その固定資産は一定期間でなくなるため、純資産で賄われていなければならないという理由が一つ。
もう一つは、土地などの持っているだけでは何の収益も産まないものに資産が固定されている場合、その固定資産は借金ではなく純資産で賄われているべきだという理由です。

この固定費率は冒頭でも言いましたが、固定資産を純資産で割って計算されるため、基本的には小さければ小さいほど良いということになります。
しかし小さすぎる場合は、投資に対して消極的だという見方も出来ます。 当然これも、業種によって変わってきます。 製造設備が必要な製造業と、それが必要ないサービス業とで同じ数値で良いなんてことにはなりませんので。
その為これも、業種ごとに比べる必要が出てくる数値ですが、基本的には100%以下であれば安全だと言われています。

ということで固定費率の説明はここまでにして、次回は固定長期適合率について見ていきます。

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第143回物事には全て『良くするための技術・知識』がある 前編

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それぞれの専門知識

今回も対話篇『アルキビアデス』について話していきます。
前回の話を簡単に振り返ると、ソクラテスがアルキビアデスに対して国をよく収めるためにはどの様な状態になっていないと駄目かと質問をしたところ、皆が同じ知識を持っていなければならないと主張します。
しかし実際の世の中を観てみると、会社組織で求められるのはそれぞれの分野の専門知識であって、全体的な知識が求められるわけではありません。

大きな会社の幹部候補になると、いろんな部署をたらい回しにすることで組織の全体像を理解させるなんてことをしたりもしますが、それは全部署の知識を浅く広く取り入れることが目的であって、すべての部署の専門知識を勉強させるためではありません。
最終的にはマネジメントという専門知識を磨くための前提知識として幅広い知識を求められているだけで、現場で働く専門家レベルの詳しい知識が要求されているわけではありません。
この様に、会社組織はそれぞれの専門家によって構成されている、つまりは統治されているわけですが、これでは上手く統治できないのかというとそうでもありません。

むしろ、高い専門性を持つ社員を多く持ち、その専門性を上手く活かす形で組織運営出来ている会社は、全ての社員の能力が中途半端な会社よりも業績を伸ばせそうです。
これは想像しやすい様に現代の例で例えましたが、当時のギリシャでも同じでしょう。国という観点で考えた場合、軍人がやることは体の鍛錬ですし、指揮官がやることは訓練された軍人を上手く動かすことです。
国を構成するためには食糧生産も必要だからと、牛の育て方や農作物の育て方、刈り入れ方を軍の指揮官は学ばないでしょうし、知る必要もありません。

国というのはその他にも、衣服を作るものや家を建てるものなど様々な職業があり、そこに従事している人達はそれぞれの職業に必要な専門知識を身に着けていますが、身につけているのは自分が専門とする知識だけで、他の職業の知識は持っていません。
では、それでは駄目かというと駄目ではないでしょうし、その様な状態では意志の統一が行えないから国民同士は理解し合うことが出来ず、友愛も生まれないのかというとそんなこともないでしょう。
これは自分自身に当てはめてみても分かりますが、人は自分が持たない知識を持つものや、自分にできないことをしてくれる人に対して尊敬の念を抱いたりします。

これは極端に言ってしまえば、全ての人がバラバラの専門知識を身に着けていたとしても、そこには尊敬の念は生まれますし、それを元にした友愛も生まれるということです。
このようにしてアルキビアデスの主張は崩れてしまい、アルキビアデスは無知であるにも関わらず、それを知らずに賢者だと思いこんでいた人間だと言うことが暴かれてしまいました。

物事には全て『良くするための技術・知識』がある

しかしアルキビアデスは他の賢者たちのようにソクラテスを敵視し、論点ずらしをして攻め立てるようなことはせずに、人間の本質について新たに学んでいきたいといった姿勢を示します。

こうした流れから2人は、人間の本質と、どのようにすればそれを良くすることが出来るのかについて考えていくことにします。
まずソクラテスは、漠然とした人間のイメージから人間の本質部分を分離させようと提案します。
何故、そんな事が必要なのかといえば、物事を良くする方法というのは、その対象ごとに変わってしまうからです。

例えば、漠然と人間を想像してみたとしましょう。 その想像した人間は、恐らく服を身に着けていますし、人によっては社会での肩書なども纏っているでしょう。
その人間が纏っている服や肩書というのは、同じ方法では良くすることが出来ません。
服を良くしようと思えば、デザインや裁縫技術の習得が必要になりますし、肩書を良くしようと思うのなら、人に取り入る方法を身に着けなければならないかもしれません。

この様に、なんとなく人間というものを想像してしまうと、そこには余分な不純物が入り込んでしまいます。
見た目至上主義で、ルックスが良ければそれで良いと考えてしまえば、人間を良くするために必要なのは服飾に関する技術や美容に関する知識となってしまいます。
肩書や社会に対する影響力が人間だと思ってしまえば、どの身分で生まれるかや、出世する方法が人間力を磨くために必要だという結論になってしまいます。

人の本質は魂

この様に人間の本質について考えた際に、人のどの部分に焦点を当てるのかで、人間をより良くするための技術が変わってしまうため、人間の本質を正しく見極めることが必要となります。
そのために、ソクラテスとアルキビアデスは人間を構成しているものを一つ一つ上げていき、それは本当に人間の本質なのかを考えていった結果、最終的に人の魂だけが残りました。
この魂というのは霊的なものというよりも、『決断する意志』と考えてもらったほうが良いと思います。

例えば、人はどこかに行きたいと思い、体を動かして移動すると決断するから目的地まで行くことが出来ます。
何かを観た際に『欲しい!手に入れたい』と思うから、人は手に入れるための行動や努力を行います。
人は何も決断を下すことなく行動することは出来ませんし、人の行動の起点となるのが決断であるとするのなら、『決断する意志』であったり『決断しようとする主体』のことを人間の本質と考えるのが自然です。

ソクラテスは、この事を指して魂と言っていると考えられます。

仮に肉体が人間の本質なら

これは、納得がしやすいと思います。というのも、もし人間の本質が、もっと見た目でわかりやすい肉体だとしましょう。この肉体を良くするために必要な知識というのは、トレーニングの知識や医学の知識となります。
例えばボディービルダーや陸上選手、体操選手などは、トレーニング知識を身に着けた上で実践することで、普通の人よりも遥かに優れた肉体を手に入れています。
もし人間を形作っている肉体そのものが人間の本質であるとするのなら、彼らこそが素晴らしい人間で、皆が彼らのような肉体を身につけるために精進スべきだと言うことになります。

また、優れた肉体を手に入れているものが素晴らしい人間であるとするのなら、総理大臣や大統領はオリンピックの金メダリストの中から選べば良いですし、そうすることで皆が幸福になれる世界が作れることでしょう。
しかし、彼らは本当に人として優れているのでしょうか。 確かに、常人には手に入れることができない肉体を手に入れるために鍛錬を行い、それを継続した結果として優れた肉体を手に入れているのですから、その点だけを見れば劣っているとは言えません。
ですが、プロのスポーツ選手で犯罪を行っている者も実際にいますし、禁止薬物に手を染める者もいます。スポーツ選手の暴力事件なんてのも、普通に存在します。

この様に、スポーツ選手の全員が人格者かといえばそんなことはなく、人として駄目だという人も中にはいます。
一方で、スポーツやカラダを鍛えることは苦手だけれども、誰もが尊敬するような人格者という人もいらっしゃいます。
こうして考えると、見た目でわかりやすい肉体というのは人間の本質というよりも、人間の本質である魂に支配された道具でしか無いと考える方がしっくり来るのではないでしょうか。

参考文献



【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第142回 肉体は人の本質なのか 後編

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無知の知


次にソクラテスは、アルキビアデスが主張していた前提についてもう一度問いただします。
その前提とは、友愛とは同じ知識を持つ者同士の間でしか生まれないという前提のことです。
ソクラテスは『同じ知識』という言葉を聞いて、知識とは学問に裏付けされた物のこと、つまりは数学や物理学といった理論に裏付けされた物のことだと思い込んで話していましたが、それでは辻褄が合わなくなります。

何故なら、数学だけを極めたものと言語学を極めたものとの間には友愛が生まれてしまうからです。
では、アルキビアデスが前提として国民全てが持っていなければならないとしている知識とは何なのでしょうか。
アルキビアデスはソクラテスからこの質問を突きつけられたことで、自分は知らないことを知った気になっていただけだったということに気付かされます。

しかしソクラテスは、その事に気がついたのは恥ずかしいことではなく、むしろ喜ばしいことだといって慰めます。
これは過去の対話篇でも語られていますが、今まで信じていたことが間違っていて自分が無知だとわかるという事は、これから正しいことを学んでいけるチャンスだからです。
自分が無知であることを知らないままに、知ったかぶりをした状態で生きていくことは気持ちの良い事かもしれませんが、実際には恥ずかしすぎることです。
アルキビアデスは若い内にそれに気がつけてラッキーだということでしょう。

この出来事によってアルキビアデスは、物事の本質について学びたいと思うようになるのですが、しかし、その学び方がわかりません。
そこでソクラテスは、彼に質問を投げかけ、彼がそれに答えることでわからせてあげようと提案します。
ここでやっと、この対話編のコアのテーマである人間の本質について語られていくことになります。

良くする技術


まず最初に、人の本質を見極めるために何に配慮すべきなのかということについて考えていきます。
配慮という言葉をネットで調べると『手落ちのない、または、よい結果になるように、あれこれと心をくばること。』という意味が出てきます。
簡単に言えば、より良い状態にするためにはどうすれば良いのかを考える事となりますが、漠然と人間という存在に焦点を当ててしまうと、どこに配慮すれば人間の本質が良くなるのかと言うのがわかりにくくなります。

そこで、焦点を当てるべきターゲットを絞っていきます。まず人間というのを想像して欲しいのですが、多くの場合、想像する人間には様々な要素が重なり合っていたりします。
例えば、人間を想像した際に服を着た人間を想像する方も一定数おられると思います。当時のギリシャというのは見た目至上主義的なところがあったようなので、見た目を着飾るというのも重要な要素の一つだったようです。
その価値観が今は完全になくなっているのかといえばそうでもないため、服装を含めて自分だと考える方が出てくるのも、もっともだと思います。

では、服装というのは人間の本質なのでしょうか。それを考えるために、服装に焦点を当てて配慮していきたいと思います。
配慮とは先程も言いましたが、対象のものをより良くするために考えることですので、服をより良くするためにはどの様な技術や知識が必要なのかについて考えていきます。
服をより良くするために必要な技術となるのは、色の調和を考えるカラーコーディネートやシルエットなどのデザイン。それに加えて、裁縫技術などが必要となります。

良くするためには専門知識が必要


これらの技術や知識が優れていれば優れているほど、生み出される服はより良いものとなります。
装飾品なども同じ様に、デザインと金属加工や宝石加工といった技術を組み合わせることで、より良い装飾品を作り出すことが出来ます。
つまり、身につけるものはデザイン案とそれを実現するための技術を高めれば高めるほどに良い品物が出来上がるということなのですが、これはそのまま、それを身に纏う人の体にも当てはまるのでしょうか。

例えば、私達の手足というのは、デザインの知識と加工技術があれば、より良い手足となるのかといえば、なりません。
人の体は加工することでより良い機能を持たせることは出来ず、性能を伸ばすためには運動をしなければなりません。
運動に関する適切な知識と、正しいフォームと負荷で実際に行われるトレーニングによって、人の手足はより良いものへと変わっていきます。

これは肉体のどの部分においても同じで、肉体を鍛えるためには、適切なトレーニング知識とその実践が必要となります。

肉体は人の本質なのか


では、この手足をはじめとした肉体というのは、人間の本質なのでしょうか。 優れた人間になるためには、筋トレを頑張ればよいのでしょうか。
人というのを単純に捉えれば、肉体というのはイコール自分自身だと思ってしまいがちですが、そうとも言えません。

かなり前に東洋哲学を取り扱った際にも話したのですが、目に写っているもの自体は本質でもなんでもありません。
もし仮に、肉体そのものが人間の本質であるとした場合は、五体満足に生まれた人間しか人間と呼べなくなりますし、何らかの欠損が生じた時点で、それは人とは呼べなくなってしまいます。
例えば、あなたが交通事故に巻き込まれて両足を失ってしまった場合、肉体が人間の本質とするのなら、あなたは自分が持つ本質の約半分を失ってしまったことになります。

しかし実際にはそんなふうには思わないでしょう。車椅子生活になることで性格は若干変わってしまうかもしれませんし、両足という自分の大切な財産を失ってしまったことによって喪失感を味わうこともあるでしょう。
ですが、自分が人間であることは変わらないと思うはずです。
では、肉体はなんなのかというと、肉体も衣服と同じ様に、人が纏っているモノと考えることが出来ます。

人間の本質を良くするためには


この様に、人が認識できるものについては、それぞれのやり方でもってその対象に配慮することが出来ます。
これは目に見えないものも同様で、例えば社会的な肩書を人間の一部だと考える人もいるかも知れません。

それを認識する事ができれば、それをより良くするための知識を身に着けて実践する事で、社会的地位をより良くすることが出来ます。
では、認識できないものについてはどうでしょうか。 これは当然ですが、自分が認識できていないものをより良くすることは出来ません。

この対話編の解説で繰り返し知識の身につけ方について話しましたが、それと同じです。
知識の場合は、自分が身に着けたいと思う知識がこの世に存在することを知り、その知識を自分が持っていない状態であることを理解し、知識を得ようと頑張ることで身につけることが出来ました。
もし仮に、第1段階の『この世にその様な知識が存在している事』を知らなければ、そもそも知識を身に着けようとは思いませんし、そう思わなければ頑張って勉強しようとも思いませんので、知識は身につきません。

認識できていないモノについては、それをより良くするための知識や技術についても分からないですし、必要な知識や技術がわからないということは、それらを身につけることも出来ません。
これはつまり、人間の本質を良くしようと思うのであれば、まずは人間の本質を認識できなければならないということです。

では、人間の本質というのは何なのでしょうか。 自分が身にまとっている衣服でもなく社会的な肩書でもなく肉体でもないのであれば、それらを身につけようと思ったり動かそうと思う精神、つまりは魂だと考えられます。
仮に人間の本質が魂だとした場合、これを優れた状態にしようと思うと必要になるのは魂を良くするための知識であり、それを実践する行動となります。
この後、この行動についてアルキビアデスとソクラテスは考えていくのですが、その話はまた次回にしていきます。

参考文献



【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第142回 肉体は人の本質なのか 前編

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人を支配する能力


今回も、アルキビアデスの第3部について話していきます。
簡単に第3部のこれまでの流れを振り返ると…
人は勉強や鍛錬を続けることによって優れた人間になることは出来るけれども、だからといって全ての事柄に対して優れた人になるわけではありません。

例えば、物心ついた頃からずっと卓球をしていた人は、仮に世界でトップの選手になったとしても、それは全ての面において優れた卓越した人になったわけではなく、卓球が上手い人になっただけです。
これは勉強も同じで、経済について勉強して知識を身に着けたからといって、その人は真理を得た人になるわけではなく、経済に詳しい人になるだけです。
人は専門の勉強をすることで専門家にはなれますが、全知全能の神になれるわけではありません。

では、人を支配する立場にある支配者層になるためには、どんな知識を修めればよいのでしょうか。
アルキビアデスの主張によると、それは『上手く作戦をたてる能力』のようです。
指導者とは方向性を示し、集団をその方向に確実に導いていくことが主な仕事ですので、その為に上手く作戦をたてる能力というのは、確かに必要な能力のようにも思えます。

では国の方向性とは、どの様に決めるのでしょうか。
例えばスポーツのように勝ち負けがある分野であれば、そのルールの上での勝ち筋を見つけるための技術を磨くだけで方向性が決められます。
しかし、国はどの様な状態になれば『勝ち』の状態になるのでしょうか。 『勝つ』というのを『より良い』と言い換えた場合、国がより良く統治されている状態とはどの様な状態のことを指すのでしょうか。

人が持つ知識はそれぞれ違う


これに対してアルキビアデスは、国民が一つの思想の元にまとまることだと答えます。
皆が異なる思想や考えを持っている状態であれば、その考えの違いから争いが発生してしまいます。
しかし、皆が同じ思想をもとに考えて結果として一つの答えにたどり着く状態を作ってしまえば、互いが互いに考えていることを深く理解できるわけですから、そこに争いはなくなります。

確かに言わんとしていることは理解できますが、では果たして、そんな事が可能なのでしょうか。 本当にその方法で理想的な国家が作り出せるのでしょうか。
仮に私達の身近にある会社などの組織で考えてみたとしても、皆が同じ知識や技術を共有できているかといえば出来ていませんし、出来ていないからこそ発展していたりもします。
例えば、営業の部門の人に会計の知識はないでしょうし、逆に会計の人に営業の知識はないでしょう。

ホワイトワーカーに現場で働くブルーワーカーの知識や技術はないでしょうし、ブルーワーカーに会社をマネジメントして発展させるだけの知識があるのかといえば、それもないでしょう。
組織というのはそれぞれの分野で働く人がそれぞれの専門的な知識を身に着けて、それぞれの分野で能力を上げることで全体としてパフォーマンスを上げることを目指すものです。
全員が同じ知識を持った均一な存在という状態では存在しません。ですから当然、お互いに持っている知識の違いによって軋轢が生じ、争いに発展することもあります。

アルキビアデスの矛盾


すべての人が営業の知識も会計の知識も組織マネジメントの知識も持った上で、現場で働くための技術も持っているというのは理想的かもしれません。
しかし実際には、人の能力には限界があるため、全てを収めようとすると全てが中途半端になってしまいます。

中途半端な人達が集まった組織が市場で生き残れるほど資本主義は甘くないので、こういった企業はいずれ淘汰されてしまうでしょう。
これは国に当てはめても同じで、軍に従事するものは戦闘知識や技術に長けているものがなるべきで、その他の商売やサービスも、それぞれの商品・サービスの専門家が専門店を運営した方が効率が良さそうです。

しかし、先程のアルキビアデスの主張と照らし合わせると、この様に国民がそれぞれの専門分野を極めようとする動きは知識のばらつきを生んでしまうため、これでは国は上手く統治出来ないことになってしまいます。
人がそれぞれの専門性を高めていくことは、現実世界では上手く行っているように思えるのに、アルキビアデスの先程の理論でいうと、上手くいかないことになってしまう。
何故なら彼は、同じ思想の中でこそ互いを理解でき、その状態だからこそ友愛が生まれ、争いのないよく統治された状態が生まれると主張しているからです。

皆がバラバラの知識やスキルを身に着けているような状態では、持っている知識に差ができてしまうために、他人の考えていることがわかりません。
そうなると人は相手のことを理解できなくなり、故に他人を愛することは出来ない。つまりは友愛も生まれなくなります。
しかしアルキビアデスは、人がそれぞれの専門性を高めていたとしても、国は上手く統治できると言い出します。

彼がそう主張する理由については彼自身では上手く説明できないようなのですが、とにかく直感としてそう思ったようです。

違う知識を持つ人は尊敬できないのか


これは先程の会社組織の例を見てみても分かりますが、実際問題として各自が専門性を伸ばした方が効率が良いという実例があるからでしょう。
しかし、単に直感でそう思ったからと言われても、今までの主張をひっくり返した理由がわから無いため、ソクラテスがアルキビアデスに質問をする形で、彼の真意を確かめていくことにします。

まずソクラテスは、専門知識を持つものそれぞれが、自分の専門分野について最善を尽くした際に、そこに正義は宿るのかと問いかけます。
SF作品で有名な攻殻機動隊という作品には、『我々の間には、チームプレーなどという都合のよい言い訳は存在せん。有るとすればスタンドプレーから生じる、チームワークだけだ。』というセリフがあります。
このセリフの意味としては、世間でよく使われているチームプレイという言葉は、自分の力が足りない時に他人に頼るための都合の良い言い訳でしかないということです。

しかし、個人個人が仲間に頼らずにそれぞれの専門分野で最高のパフォーマンスを出し合い、結果としてそれぞれの成果が他の者達の穴を埋めることになれば、外から観測すればチームプレイのように見えるという意味合いのセリフです。
仮にこの様な状態が達成されたとして、それは『正しいこと』にはならないのでしょうか。
国民それぞれが、他人には出来ない自分の得意分野で頑張って成果を出したとして、その国民達の間には友愛が生まれないのでしょうか。

仮に自分にしか出来ないことを熟した結果として他人から褒められれば、気分は良くなるでしょうし、それに加えて人間は自分にできないことを出来る人のことを、尊敬したりもします。
その結果として人々は互いに敬意を持つようになり、敬意を持つ人同士の間には友愛が生まれそうです。
こういったことを考えた結果アルキビアデスは、互いに違った知識を持つもの同士の間でも友愛は生まれると改めて意見を変えます。

参考文献



【Podcast #カミバコラジオ 原稿】第68回【財務分析】手元流動性比率

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手元流動性比率


前回、前々回に引き続き、今回も財務分析について勉強していきます。
前回は当座比率を紹介し、その前は流動比率や正味運転資本について話していきました。これらの数字は全て短期的な企業の安全性を示すものですが、今回紹介するのも、短期的な安全性を示すものとなります。
その分析方法は、手元流動性比率です。

この手元流動性比率ですが、まず、手元流動性を出すところから始めます。
手元流動性とは、現金や預金といったすぐにでも支払えるお金に、売買目的有価証券を足した数字のことです。 ちなみにこの手元流動性ですが、手元資金と呼ぶ場合もあります。
現金や預金というのは、いつでも支払いに回せることが出来るお金と言いかえることが出来ますが、これに足し合わせる売買目的有価証券も、直ぐに現金化出来るお金となります。

売買目的有価証券というのは、1年以内に売却する目的で保有している株式・債権などの事ですが、こういった目的で持つ株式というのは上場しているため、取引市場を通していつでも売買することが出来る上場企業の株式です。
これらは、取引所の営業時間内であればいつでも売買することが出来るため、いつでも現金化することが可能です。
足し合わせるのはこれだけで、前回に時間を取って説明した売掛金などは含みません。

売掛金


売掛金とはどういった性質のものかをもう一度振り返ると、商品として取引先に納品したけれども、まだ代金を受け取っていない状態の売上金額のことです。
例えば、月末締めの翌月末支払いといった取引方法の場合は、4月中に収めた商品の代金を受け取るのは5月末です。 代金を受け取るのは5月末ですが、実際に商品を納めたのは4月中であるため、売上は4月に計上しなければなりません。
現金での直接取引の場合は、売上が上がると同額の現金が入手できるので問題はありません。 つまりは、売上が増加して現金という資産が増えるので分かりやすい取引きと言えます。

しかし、代金を受け取っていないのに売上を計上しようと思うと、この売上に対して何らかの資産に関する勘定科目が必要となります。 その勘定科目が売掛金です。
つまり売掛金とは、実際に商品を販売して売上は計上されたけれども、その代金を回収していない状態。取引先に対する一種の貸付金のような存在だといえます。

複式簿記の復習がてら実際に振替伝票の書き方を説明していくと、損益計算書で収益の増加に当たるものは右に書くという決まりがありました。
売上は損益計算書の勘定科目で、且つ、収益になるものなので、売上の増加は振替伝票の右側である貸方に書くことになります。
一方で、貸借対照表の左にあるものが増加する場合は左に書き、減少する場合は右に書く。 貸借対照表の右にあるものが増加する場合は右に書き、減少する場合は左に書くという決まりがありました。

このルールに従うと、取引先に対する貸付金である売掛金は左側の資産の部に属する流動資産なので、これが増加するということは左の借方に記入しなければならないということになります。
結果として、左に売掛金が来て右側に売上が来ることとなります。

つまりこの例の場合は、4月の売上を計上する際には、振替伝票の右側に売上と書いて金額を記入し、その相手方となる勘定科目を左側に売掛金として書きます。
そして翌月、実際に支払いを現金で受けた際には、今度は資産項目である売掛金が減って、同じく資産項目である現金が増えることになります。
繰り返しになりますが、貸借対照表の左にある項目が減少する場合は右側に書くというルールがあったので、流動資産売掛金が減る場合は右側に書くことになり、それに対して増える現金は左に書くことになります。

これをお聞きになっている方の中には、『何故、そんな面倒くさいことをするのか? 実際に現金を受け取った時に売上に計上すれば良いのでは?』と思われる方もいらっしゃるかもしれません。
この理由は前にも簡単に説明したと思いますが、もう一度ここで話しておくと、月々や1年の売上を正確に計上するためです。
既にお気づきの方も多いと思いますが、実際に売り上げたタイミングと集金のタイミングにタイムラグが有る場合、集金タイミングで売上に組み込んでしまうと、その月の正確な売上がわからなくなってしまいます。

多くの取引先を持つ企業の場合は、その都度払いや月末払い。月末締めの翌月払いなど様々な支払い方法が混在するということがよくありますが、それらの取引を全て『入金時に売上として計上する』とした場合は、1月の売上が数ヶ月に分散してしまいます
このような状態では、ここ最近テーマにしている財務分析なども正確に行うことができなくなってしまいますし、一番大きな問題としては税金の計算が狂ってしまいます。
決算の締め日またぎでこの様な事をしてしまうと、今年計上すべき利益が来年に計上されてしまいますので、支払い税額が変わってきてしまいます。 このようなことを防ぐためにも、その年の売上はその年の間に計上します。

手元流動性比率


以上が売掛金の簡単な説明ですが、この説明をお聞きになれば分かる通り、売掛金というのは直ぐに現金化出来るものではありません。
長ければ商品を販売してから2ヶ月は回収が不可能なお金です。 2ヶ月という期間は長期的に見れば僅かな期間といえますが、短期的に見れば結構長い期間です。
現金がないにも関わらず3日後に支払いが迫っている状態では、このタイムラグはかなり長い期間といえますよね。 その為、この売掛金は手元流動性・手元資金と呼ばれるものには含めません。

結果としては冒頭でも説明したとおり、手元流動性は現金・預金と売買目的有価証券を足し合わせた金額となります。
そして今回テーマとなっている手元流動性比率とは、この手元流動性をひと月当たりの売上金額で割ることで算出されます。
ひと月あたりの金額とは、年間売上を12で割った金額のことです。 何故、年間売上を割ってひと月当たりの金額を出すのかというと、多くの企業の場合は季節ごとに売上のばらつきがあるからです。

例えば私が今現在携わっている仕事では、取引先がお土産物屋さんばかりなので、観光シーズンの売上は高く、それ以外の閑散期は売上が殆どありません。
その為、具体的な1月・2月といった売上の数字を使ってしまうと、分析そのものが難しくなります。 その為、1年間で均した数字を使います。
具体的にどれぐらいの余裕があるのかは、手元資金と支払額を単純に比べればわかるので、手元流動性比率の方では平均した数字を使います。

ちなみにこの単純比較をするための分析方法として、ネットキャッシュと呼ばれるものもあります。
ネットキャッシュの計算方法は、手元資金から有利子負債を引くだけですが、この有利子負債には短期だけでなく長期負債やリース料金なども含まれるので、マイナスになることもあります
ちなみにネットキャッシュがプラスの状態のことを無借金経営と読んだりもします。 仮に借金をしていても手元の現預金で完済可能なので、実質無借金ということです。

妥当な手元流動性比率


話を戻すと、この手元流動性比率ですが、上場企業の場合は1~1.5の場合が多いようです。 つまり、ひと月あたりの売上と同額から1.5倍程度の手元資金が存在するということになります。
この数値は当然ですが、高ければ高いほど短期の安全性は高いということになります。 ただ一つ注意が必要なのは、高すぎるのも問題だということです。
何故かと言えば、この数字の高さは、資金が有効に使えていないことも意味するからです。

この数字が高すぎるということは、会社内に使っていない現預金が沢山あるということを意味しています。
会社というのは、自身が持っている資産を使って利益を生み出していくのが目的で作られていますが、その資産が何にも使われずに金庫の中で眠っている状態であれば、その目的は果たされないことになります。
本来であれば、余分に現預金があるのであれば、それを利用して新たに事業を起こしたり何らかのものに投資をしなければなりませんし、それが経営者としての仕事です。

しかし、それを全く行っていないということであれば、経営者としては仕事をしていないということになってしまいます。
例えば、余分な現預金で長期国債を購入すれば、その購入学に応じてクーポンという金利のようなものが受け取れます。
自分の会社とシナジー効果の有りそうな会社を買収すれば、その会社が上げる利益は全て自分のものになりますし、シナジー効果によって既存事業の業績も増すかもしれません。

新商品開発や新たな拠点を作るなど、会社としての資金の使い道は沢山あり、それによって儲けられる可能性もあるわけですから、経営者としてはそれらに投資をする決断をするというのが一番大切な仕事です。
今回紹介している手元流動性比率が高すぎるということは、そういう事を一切せずに利益を溜め込んでいるだけという事になるので、経営者の仕事を放棄していると見ることも出来ます。
その為、手元流動性比率が高すぎる場合は、新たな事業を起こすなど投資案件を探すことに注力した方が良いことになります。

新たな投資先については、前に紹介した『多角化』や『自ナジー効果』『PPM』などの回を聞いてもらうとヒントになるかもしれません。
ということで今回は短期の安全性を測る財務分析である手元流動性比率について考えてきましたが、次回からは、長期の安全性分析について考えていきます。

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第141回【アルキビアデス】人を支配するとは 後編

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人を支配するとは


彼は、『優れた者とは、国民を支配できる立場になれる者のことだ』と主張します。
それに対してソクラテスは、支配とは何を指しているのかと質問をします。

例えば、医者は病気を患っている人間に、自分の助言通りの行動を行わせることが出来ますが、これは言い方を変えれば患者を支配しているとも言えます。
大工の棟梁は、他の職人たちを自分の手足のように動かすことが出来るため、これもまた支配者と言えますし、その大工に思い通りの家を建てさせる設計士もまた支配者といえるでしょう。
その設計士に依頼をするゼネコンも支配者と言えますし、そのゼネコンに家を発注する人も支配者と言えます。

1つの国には様々な職業があり、その職業に発注する者されるもの、チームをまとめる者等が存在するため、単に支配者と言ってもその対象は大勢います。
この質問にアルキビアデスは、国家に属していて、お互いに協力しあっている国民たちを支配する者が支配者だといいます。
協力しあっているとは恐らく、時には発注者となり時には受注を受けるという、他人を支配したり支配されたりと立場がコロコロ変わる、奴隷のように一方的に使役される者は含まない一般市民たちのことを指しているのでしょう。

何の能力で人を支配するのか


この答えに対してソクラテスは、第1部で行ったのと同じ質問をして切り返します。その質問とは、その支配の裏付けとなっている技術や知識は何かというものです。
先程の例で言うのなら、大工の棟梁は大工の技術や経験という点で他の職人たちよりも勝っているため、他の職人たちをその技術や知識によって支配し、言うことをきかせます。
設計士も同じで、大工の棟梁は現場で手を動かして家を建てる技術はありますが、家そのものを設計する知識や技術はないため、設計士はその技術でもって大工の棟梁に指示を出します。

この様に人を支配するためには、その裏付けとなる技術が存在するわけですが、では一般市民たちを支配するために必要な技術や知識は何になるのでしょうか。
この問いに対してアルキビアデスは、『うまく作戦を立てる能力だ』という、ふわっとした回答をします。
この回答はふわっとしていますが、それ故に、どんな事柄にも当てはめることが可能です。

うまく作戦を立てる能力


例えば、サッカーの監督はチームを勝利に導くために上手く作戦を立てることが仕事であり、チームが負けてしまうとすれば、それは作戦が上手くたてられなかったからということになります。
建設現場で言うのであれば、大きなビルの建設が計画通りにいかず納期が遅れてしまうというのは、現場監督が段取りを上手く出来なかったからで、作戦を練り込めていなかったといえます。
これをそのまま国の運営に当てはめれば、内政において上手く作戦を立てれば国は繁栄しますし、戦争において上手く作戦を立てれば、自国の兵力を消耗させずに相手を打ち倒すことが出来るでしょう。

アルキビアデスが答えた『うまく作戦を立てる能力』とは、先程も言いましたが何にでも当てはめることが出来るため、結構良さそうな答えではありますので、更に深く掘り下げて吟味していきます。
先ほど例に出したサッカーの監督の場合で言えば、監督はチームが勝利するために上手く作戦を立てます。建設現場の現場監督の場合は、納期内に指定された建物を不備なく完成させるために上手い作戦を考えます。
この様に、多くの事柄においては明確に方向性が決まっています。つまり、やるべきことが明確に決まっているということです。

優れた政治的統治


では、政治の場合はどうなのでしょうか。何を持って、国は良く統治されていると考えられるのでしょうか。
これに対してアルキビアデスは、皆が仲良く争うことなく生活できている状態が、良く統治されている状態だと答えます。
例えば現代の政治やその統治で言うのであれば、アメリカの場合では、大まかには労働者側が支持する民主党と資本家が支持する共和党の2つに別れています。

政党が2つに別れているということは、国民側もどちら側を支持するのかというので大きく分けると2つに別れているということを意味します。
この様な状態だと、当然、意見の違う者同士の対立というのが起こりますから、アルキビアデスの言うところの『皆で仲良く争うことのない政治』からはかけ離れていることになります。
ということは彼が目指す理想の政治というのは、一つの思想のもとに統治されていなければならないことになります。

思想はどの様な考えのもとに統一されるべきなのか


では、どの様な思想をもとに統一されるのが良いのでしょうか。
繰り返しになりますが、私達が住む世界で共通認識を持って話そうと思うと、同じ知識や認識を共有していなければなりません。
例えば、目の前に2つの皿に盛られた複数個のパンがあるとして、どちらの皿に乗っているパンが多いのかというのは、数を基準にして考えるのか重量を基準にして考えるのかで変わってきますし、認識がずれてしまえば答えも合わなくなってしまいます。

グラム数を基準にする場合、そのベースにあるのは測量の技術や知識になりますし、個数を基準にする場合は算数がベースの知識となります。この様に、同じ様な答えを導き出すためには同じ知識を共有していなければなりません。
アルキビアデスの主張は全国民が同じ意見でまとまる必要があるというものでしたが、その前提として知識の共有が必要となると、すべての国民は国のあり方についての知識を習得していなければならないことになります。
では果たして、そんな状態になる事は可能なのでしょうか。

必要な知識は人それぞれで違う


ここ最近では、男女平等が騒がれ始め、徐々に男女の格差は縮みつつありますが、昔は男女の役割ははっきり別れていました。
大雑把に言えば、外で働いたり戦争に行くのは男の仕事で、女性は家の仕事をするというのが常識とされていました。
その様な当時の状態では当然、生活に求められる知識が変わってきます。 大雑把に言えば、戦争や仕事については男性の方が詳しく、裁縫や料理については女性の方が詳しいといった状態になってしまうということです。

アルキビアデスの理論で言えば、互いに分かり合い、仲良くなって親密な状態になるためには共通の知識やそれをベースにした認識が必要とのことでしたが、男女で求められる知識が違うということは、男女間での友愛はなくなってしまいます。
これは、男女間で大きく分けた場合の話ですが、実際の社会では人の役割は更に細分化されています。
例えば会社という組織一つとっても、営業に求められる知識と経理に求められる知識と管理職に求められる知識はそれぞれ違います。

求められる知識が違うということは、その仕事を通して身につける知識も違うということですから、様々な役職や部署がある会社という組織は意志の統一がされないことになり、仲良くするのは不可能ということになります。
これは国単位で考えても同じで、警察官に求められる知識と官僚に求められる知識と政治家に求められる知識と製造業に求められる知識はそれぞれ違います。
この状態で、それぞれの職業の人達が自分の専門分野について探求して知識を深堀りしていけば、職業間の知識の格差はますます広がってしまうわけですから、一生懸命仕事をすればするほど、国はバラバラになっていくことになります。

アルキビアデスの矛盾


しかしアルキビアデスは、その様な状態になっても国はバラバラにはならないように思うと答えます。
これは当然で、それぞれの職業に付く人が一生懸命に頑張って専門性を磨いていけば、普通は国が発展しそうだからです。
もっと小さい単位の会社規模で考えても同じで、営業が営業知識やスキルを磨けば磨くほど売上は伸びるでしょうし、経理が頑張れば頑張るほど、会社の資産は有効活用できるでしょう。

経営層がそれぞれの部署の人間をまとめ上げる為に評価制度を最適化して、適材適所に人材を配置できれば、会社の業績は伸びそうです。
しかしこれまでの話の流れでいうと、そうしてしまうと社員は専門性を極めていくために、それぞれの社員が持っている知識はバラバラになってしまい、コミュニケーションが上手く取れずに組織が破綻してしまう事になってしまいます。
この矛盾に対してアルキビアデスとソクラテスは更に深く考えていくのですが、その話はまた次回に話していきたいと思います。

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これまでの振り返り


今回は、アルキビアデスの対話篇の第3部を取り扱っていきます。
前回までの話をものすごく簡単に振り返ると、第1部では、自分には政治家の才能があると思い込んでいたアルキビアデスが、ソクラテスによってそんな能力がない事を暴かれてしまいます。
政治家に成るために必要なのは善悪を見極める知識です。 知識を身につけるためにはまず、自分はその知識を身に着けてはいないことを自覚し、そのうえで、人から学ぶか自ら探求しなければなりません。

しかし彼は、子供の頃から善悪の区別がつくと思い込んでいました。 人は既に持っているものを更に持とうとは思わないため、善悪を見極める知識を既に持っていると思いこんでいるアルキビアデスは当然、その知識を得ようと努力することはありません。
結果としてアルキビアデスは、善悪を見極める知識を身に付けないままに大人になってしまいました。
政治家に成るためには善悪を見極める知識を身につけていなければならないのに、アルキビアデスはそれを持っていません。 これにより、彼は政治家に向いているとは言えなくなってしまいました。

この第1部でアルキビアデスの無知が明らかになり、彼が政治家に成るという夢を叶えるためには、本来なら善悪を見極める知識を身につけるという努力をしなければならなくなったわけですが、彼はそんな必要はないと言い出すのが第2部です。
彼の理屈としては、ソクラテスの主張は最もだけれども、彼の言う善悪を見極める知識なんてものを持っている人間も、それを身に着けようと努力している人間もいないわけだから、そんな知識を身につける必要はないと言います。
アルキビアデスは、持って生まれた才能と生まれの良さでアテナイの他の政治家を圧倒していると思い込んでいます。

アルキビアデス自身も他の政治家も、等しく善悪を見極める知識を持っていないのであれば、政治家に向いている向いていないを決めるのは、それ以外の能力となります。
彼は、自分自身の生まれの良さも含めて他の人間を圧倒していると思っているので、同じく知識を持たない同士で比べるのならば、自分は政治家に向いていると言うことなんでしょう。

アルキビアデスが目指す場所


しかしソクラテスは、彼に対して『君の目標はそんなに低いのか? もっと上を目指そうと思うのであれば、比べる相手が違うのではないか?』というような事を言います。

これは、もしアルキビアデスの最終目標がアテナイのいち政治家になることで、国の代表になることも他国を制圧して広大な国の大王になることも目指さないのであれば、アテナイの政治家たちと自分を比較して満足しておけば良い。
しかしそうではなく、アテナイという国の代表になり、それを足がかりにして他の地域も征服し、アジアとヨーロッパを制して大王になりたいと思うのであれば、ライバルは他の国の王やペルシャの大王に設定しなければならないということです。
では、アルキビアデスとペルシャの大王とを比べた場合は、どうなるのでしょうか。

アルキビアデスは生まれが良いとはいっても、所詮は民間人の子供ですし、自分に王位継承権などがないからこそ、一般市民でも国の代表を狙えるアテナイまでやってきたわけです。
一方でペルシャの大王はどうかというと、王様の子供として生まれ、生まれたときから次の王として育てられます。一般市民たちは王子に対して未来の王様として接し、自分たちと比べるなんてことは恐れ多くてしません。
両者の生まれだけを比べても、そこには天と地ほどの差があり、アルキビアデスとペルシャの大王とを比べても、どの部分で勝っているのかを見つけ出すのに苦労するほどです。

両者は生まれだけでなく、当然、その後の育てられ方も違っています。
アルキビアデスは生まれが良いとはいっても、それは一般人の中ではそうだというだけに過ぎません。一般人でも生まれが良ければ、自分の子供の為にそれなりに良い教師を雇って教育するということは出来ます。
しかしペルシャの大王の子供は、生まれながらに未来の王という将来が決定しているわけですから、物心がついてすぐに帝王学を叩き込まれます。

付き合う人達も、貴族や他の王族など選ばれた者たちばかりで、その中で揉まれながら未来の王として育っていきます。
こうしてペルシャの大王の子供とアルキビアデスとを並べると、比べることそのものが恥ずかしくなってしまう程の差があります。
持っている財産の量や生まれ育つ環境だけを考えれば、ペルシャの大王の一族には到底叶いません。

どの様な人間が優れているか


では、どれだけ頑張ったところで、一般市民であるアルキビアデスはペルシャの大王の一族には勝つことが出来ないのかというと、そうではありません。
アルキビアデスが不必要だと吐いて捨てた、善悪を見極める技術を始めとした誰もが身に着けていない技術や知識を身につけようと心がけ、実際に頑張ることで、彼らよりも上に立てる可能性が出てきます。
では実際にその様な人間になるためには、どう頑張ればよいのでしょうか。

ソクラテスはそれを一緒に解き明かす為の議論をアルキビアデスと始めるのですが、第3部は、その議論から始まります。
まず、物事をよく考える者と考えない者とを単純に比較した場合、より優れている者はどちらになるでしょうか。
これは、おそらく多くの方が『物事をよく考える者』の方が優れたものだと考えますし、物事をよく考えてよく勉強した結果として多くの知識を持つ人のこともまた、優れた人だと考えるでしょう。

知識というのは分野ごとに存在していますが、それぞれの知識を収める者の事を、その分野で優れた人と表現したりもします。
例えば、経済に興味があり、その分野についての情報を積極的に集め、世の中で起こっている出来事を経済学で説明しようと常に考えを巡らせている人は、経済学の分野で優れた人と表現することが出来ます。

賢者は同時に愚か者なのか


ではこの人は、この一分野において優れているからという理由で全体的に優れているのかというと、そういうわけではありません。

経済学について詳しい一方で、医学についての知識を学ぶ暇がなければ、この人は経済については優れた人だけれども医学については無知な人となります。
これはスポーツなどでも同じで、サッカー選手として優れた人がバスケットボール選手として優れているかといえば、そんな事はありません。
格闘技の世界では『どの競技が一番強いのか』なんてことが話題になったりしますが、これもルールによって変わります。柔道の世界チャンピョンがボクシングルールでボクサーと戦えば、アマチュア相手に負けてしまう可能性も大いにあります。

つまり専門家は、自分が納めた専門分野について優れているということであって、1分野で優れているからと行って全ての分野で優れているとは限らないわけです。
ではこの理屈でもって、『優れた者は、同時に劣った者である』ということは出来るのでしょうか。アルキビアデスはこの問いに対して、『そんなことはないでしょう』と否定します。
では彼にとって『優れた者』とはどの様な人間のことでしょうか。


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【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第140回【アルキビアデス】無知を自覚する目的 後編

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身分に関わらず人は知識を持っていない


しかしここまで言われても、アルキビアデスはあまりピンときません。 というのも、どの国の政治家たちも自分たちが無知であることすら気づかず、そのために努力も鍛錬も探求もしていない様に思えるからです。

他のポリスの王様やペルシャの大王も、その無能達の中のトップに過ぎないので、彼らに勝つために特別な能力などは必要がないということです。
この回の冒頭部分で、ソクラテスたちが住むアテナイの代表者であるペリクレスは賢者かもしれないと言いましたが、では彼が善悪を見極める知識を本当に持っていたかといえば、それは結構疑わしかったりします。
というのも、知識というのは主観的なものではなく客観的なものと考えられるので、知識は他人に伝えることができると考えられます。

知識が自分の主観でしか理解できない仏教の悟りのようなものであるのなら、他人には伝えられず悟った人間にしか理解はできないでしょうけれども、知識というのはそういったものではなく誰の目から見ても分かるものを知識と呼びます。
そのため、順を追ってレクチャーされれば、多くのものが理解できるというものを知識と呼びます。
もし仮に善悪を見極める能力というものが知識として存在していて、ペリクレスがそれを探求の果に身につけることができているとするのであれば、彼の関係者は彼からその知識を教えてもらうことで、彼と同じ知識を身につけることができるはずです。

ペリクレスには2人の子供がいますが、ペリクレスが善悪を見極める知識を持っている卓越した者で善人であるのなら、自分の子供を幸福にしようと、その知識を教えるはずです。
しかしペリクレスの子供が彼と同じような知識を身に着け、卓越したものになったのかといえば、そうはなっていません。 一部では彼らのことを愚か者と評する人もいるぐらいです。
つまりペリクレスは、知識ではない何らかの判断基準を持っていた可能性はありますが、善悪を見極める知識を持っていたかといえば、持っていない可能性が高いと考えられるわけです。

こうして考えれば、ソクラテスが『こうなるべきだ!』と掲げる理想的な人物はこの世にはいない事になるので、そんな高みを目指して真理を探求する旅などに出る必要はなく、その知識がないままに政治家になれば良いというのがアルキビアデスの意見です。

では優れた人間とは、どの様な人なのか


このようにアルキビアデスは、優秀な政治家になるためには現時点での自分の能力で十分だと考えているため、ソクラテスは別の視点から、どの様な人が優れた人なのかをアルキビアデスに考えさせるために質問を投げかけます。

アルキビアデスは、自身の生まれに絶対的な自信を持っているので、そんな彼に対してソクラテスはまず、『優れた人間は位の高い一族に生まれるか、それとも一般人やそれ以下の層に生まれるか、どちらだろうか』と質問を投げかけます。
これに対してアルキビアデスは当然、高貴な一族に生まれると答えます。 生まれの良さはアルキビアデスのアイデンティティの一つともいえるので、当然、このように答えます。

続いてソクラテスは、『では、生まれの良いものが良い教育を受ければ、アレテーを身に着けた卓越した人間になれる可能性が高いのだろうか』と聞くと、これについてもアルキビアデスは同意します。
これらの質問によって、人の卓越性というのは生まれの良さという前提があった上で努力した人間が素晴らしいというように単純化されたわけですが、では、このモデルを使ってアルキビアデスが他と比べて素晴らしい人間かどうかを観ていきます。

ペルシャの大王


先程アルキビアデスは、ペルシャの大王や他のポリスの王様達も等しく知識を身に着けていない愚か者だといったニュアンスのことを言いましたが、では、ペルシャの大王の生まれはどうなんでしょうか。
ペルシャの大王は、選挙によって国民から選ばれるわけではなく、王様の子供として生まれてきた長男がなります。 つまり、ペルシャの大王は皆、王子様として生まれるわけです。
王子は将来の王として英才教育が施されますが、その教育に携わる教師もまた、当然のことながら最高の教師が選ばれてその職に付きます。

つまり、ペルシャの大王は未来の王様として王族の家系で生まれ、生まれたときから最高の教師に英才教育を施されているということです。
また、ペルシャの王族は見た目の美しさにも気を使います。 子供の頃から矯正できる部分は矯正して体を美しくすることはもちろん、衣服や香水にも気を使います。
アジアで最高峰の衣装や香水を身に着け、見るものを圧倒する美しさを備えることで王としての貫禄を見せつけようとします。

この様な王族の努力の結果、ペルシャ市民たちは王子が生まれたときから未来の王様として接するようになります。
ペルシャの王というのは、このように生まれながらに選ばれし者がなるべくしてなるわけですから、市民が『大王になろう』と思うことすらしませんし、王家の血筋以外から王が誕生する事を想像すらしません。

アルキビアデスの生い立ち


一方でアルキビアデスはどうでしょうか。 彼は、自身の生まれにそれなりの自信を持ってはいますが、では一国の王の子供として生まれたのかというと、そんな事はありません。
この対話篇でソクラテスと話している時点では、アテナイの市民権すら持っていない人間です。
そんな彼はアテナイの最高指導者が後継人になってくれてはいますが、その最高指導者であるペリクレスはアルキビアデスの付き人として、それほど大した教育を受けていない召使いをつけているだけです。

そんなアルキビアデスですから、当然、アテナイ人で彼の将来を気にかけてくれる人間なんて彼の知人ぐらいのもので、国全体が彼に期待を寄せるなんてことはありません。
逆に言えばこんな状態だからこそ、アルキビアデスはアテナイで政治家になるために、市民たちに対して自分自身を売り込むために台頭演説をしなければならないわけです。
これはアルキビアデスの自慢の一つである美しさも同じで、アルキビアデスは美しいといっても天然物の美しさによって身近なものを魅了する程度で、衣服などの演出込で総合的に判断すると、ペルシャの大王にはボロ負け状態です。

この様に、アルキビアデスはペルシャの大王と比べると、生まれ・教育・美しさで劣ってしまっているわけですが、では彼が最後によりどころにする実家の太さで比べるとどうでしょうか。
これは考えるまでもありませんが、ペルシャという大国の大王と、ギリシャの中のいちポリスの中に収まっている資産家とは比べるまでもなく、ペルシャの大王のほうがお金持ちです。
今で言うなら、業績の良い中小企業のオーナー社長と石油王の資産を比べるようなもので、そもそも同じ土台で考えるほうがおかしいレベルです。

両者を比べると…


こうしてひとつひとつ見ていくと、アルキビアデスとペルシャの大王との間には、哀れになるほどの差があります。
もし、ペルシャの大王に何らかの方法で勝とうと思うのであれば、地位や財産では到底勝ち目はないため、唯一の方法は彼らよりも勉強をして知識をつけ、賢くなることだけです。
持たざるものが、物質的な財産を何でも持っている者に勝とうと思うのであれば、知識を磨く以外に勝つ方法はありません。

しかしアルキビアデスは先程、『誰もが善悪を見極める知識なんて持っていないんだから、私も同じ様に持たなくても良いし、そんな努力をする必要もない』と言ってしまっています。
では何を頼りに、アルキビアデスはペルシャの大王というライバルに勝とうというのでしょうか。アルキビアデスはどうすればよいのでしょうか。
これについては第三部で語られますが、それは次回に話していきます。

参考文献



【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第140回【アルキビアデス】無知を自覚する目的 前編

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第1部のまとめ


今回も、対話篇のアルキビアデスについて話していきます。今回からは、第二部について話していきます。
第一部について簡単に振り返ると、ここでは政治家という職業に必要な知識や能力について語られています。

この対話編は、政治家に成りたいというアルキビアデスという青年に対して、ソクラテスが何を根拠に政治家になろうとするのかと尋ねるところから議論が始まります。
アルキビアデスは漠然と、自分には政治家になれる能力があり、それは他を圧倒している。そのため、自分が政治家に成り天下を取るべきだと考えていました。
しかしソクラテスに、優秀な政治家になるための根拠となる知識は何かと訪ねられ、答えに詰まってしまいます。

その後の議論で、政治家になるために必要な知識は『善悪を見極める知識』だということが判明し、次はこの知識をアルキビアデスが持っているのかという話になりますが、議論の結果アルキビアデスは善悪を見極める知識を持っていないことが分かりました。
これにより、アルキビアデスは政治家には向いていないという事になってしまったのですが、アルキビアデスはそれに納得ができません。
彼は、『政治家に必要なのは善悪を見極める能力ではなく、損得勘定ができるかどうかだ』と反論し、それぐらいは自分にも出来ると主張します。

しかし、その後の議論の結果、得をするとは良い行いをするということで、損とは悪い行いをするという事だという事が分かり、損得勘定と善悪を見極める能力は同じだという事になってしまいました。
アルキビアデスは、善悪を見極める知識を持っていないと指摘された時に『政治に必要なのは損得勘定だ』として言い逃れをし、だから損得勘定が出来る自分には政治の能力があると主張していたわけですが…
議論の結果、両者に違いはないという結論になってしまい、アルキビアデスは自身に政治家としての能力があると思いこんでいるだけの人間だったということが判明してしまいました。

無知を自覚する目的


現代のネットの言い合いなどでは、ここで『はい論破』と言って終わるわけですが、ソクラテスの目的は相手を論破することではありません。
ソクラテスの本来の目的は、相手に自身が無知である状態であると知らせることで、真実を探求する心を持ってもらうことです。
何故、無知を自覚すると探究心が呼び起こされるのかというと、知識を手に入れる前提として、その段階が必要だからです。

人の学習プロセスというのは、まず、自分が知りたいと思う知識や法則がこの世界には存在するということを知り、その状態で自分自身にはその知識がないことを自覚する必要があります。
何故なら、学習しようとする目的となる知識の存在を知らない場合、知らないものを手に入れようと頑張ることはできませんから、人は行動を起こしません。
知識が存在していることを知っていても、その知識を既に自分が身に着けていると思いこんでいれば、その知識を更に身につけようとはしません。

人が知識を追い求めて探求するときというのは、知識の存在を知っている事と、それを自分自身はまだ身につけていないという2つの事を理解している状態の時だけです。
その状態になって初めて、人は知識を手に入れるための探求の旅に出ることができます。 つまり、スタート地点に立つことが出来るわけです。
第一部はアルキビアデスが、このスタートラインに立つまでの話となります。

勉強する必要性


続いて第二部の話に入っていきます。アルキビアデスは第1部で自身の無知を思い知ったのですが、では彼は素直に自分の無知を認めて、政治家に必要であるとされる善悪を見極めるを探求していくのかといえば、そうは考えていません。
アルキビアデスはソクラテスに『これからどの様な行動を取るのか』と聞かれた際に、努力する必要があるようには思えないといった感じで答えます。

アルキビアデスの言い分としては、確かにソクラテスが指摘するように自分は善悪を見極める知識を持っていないけれども、では、他の政治家がその能力を持っているのかといえば、他の政治家も持っていません。
前回は言っていませんでしたが、ソクラテスは第一部の最後で、アテナイで善悪を見極める知識を持っていそうな人間はペリクレスぐらいだと漏らしているのですが…
これは逆に言えば、賢者と呼べる人間は国に1人いるかどうかというレベルで、極端な物言いをすれば、その他の有象無象は全て無知な者と言っているのと変わりありません。

もし仮に、ペリクレス以外の他の政治家も賢者であるとするのなら、アルキビアデスはその賢者に勝つために一生懸命努力する必要があります。
政治家に必要な能力として善悪を見極める知識が必要であるのなら、誰かに弟子入するなり自分自身で探求するなりして、その知識を身に着けてライバルたちよりも賢い人間にならなければ、彼の夢は叶わないでしょう。
しかし、ペリクレス以外の全てものもが愚者であるのなら、愚者に勝つために努力する必要はありません。

仮にその愚者たちが、自分たちの無知を認めたうえで賢者になるための努力をしようとするのなら、これまた話は変わってくるでしょう、しかしアルキビアデスの見た感じではそうでもないようです。
アルキビアデスはソクラテスとの対話によって自らの無知を知ることができましたが、他の政治家たちは自分に知識がないことすら知らない状態で知識を持っている気になっているだけのように見えるので、そんな人間と争うのに努力はいらないという訳です
皆が等しく
無知であるのなら、人の有能さを決めるのは生まれ持ったスペックであり、自分には恵まれたスペックがあるのだから、それだけで勝負に勝つことが出来るというわけです。

アルキビアデスの最終目標


しかし、これを聞いたソクラテスはアルキビアデスに対し、そもそも比べる相手が違うだろと言い始めます。
というのも、もしアルキビアデスの目指す最終目標がアテナイの政治家に成るだけであるのなら、彼の主張はある程度は正しいのかもしれません。
国の代表は目指さずイチ政治家として留まり、権力者に対して批判や揚げ足取りだけをして存在感をアピールし続けるというのが彼の夢であるのなら、持って生まれた能力や親の太い人脈を使って政治家になれば良いでしょう。

ですが、最初の方にも言いましたが、彼の夢は国の代表になることです。アテナイの代表になれば他のポリスに攻め込んで自分たちの傘下に入れることができますし、そうして領土を拡大していっていずれは大王になりたいという野望を持っています。
しかし、そうなってくると話は変わってきます。 彼が相手にしなければならないのは国内の政治家ではありません。 自分の国の外側にいる国々の代表たちとなります。
国内の政治家達の中でトップになるなんてことは、目指すべきところではなく前提、つまりスタートラインでしかなく、国内のライバルをぶっちぎりで圧倒し、彼らを手下にして思い通りに動かせて初めて、他のポリスや大国と渡り合う為のスタートに立てます

分かりやすいように現在の政治で例えるのなら、『日本の代表になって、この国の影響力を増したい!』という目標を持っている人にとって、選挙に当選するだとか与党の政治家になるだとか政党の代表になるというのは、通過点でしか無いということです。
ライバルの政治家やその候補者と争って勝つなんてのは当然のことであるので、彼らに勝てるから努力しなくても良いなんてことにはならないわけです。
日本の代表になれば、他の国の代表である他国の首相や大統領。王族たちと外交を通して接し、自国の利益になるようなことを引き出していかなければならないわけで、国内の政治家相手に手間取っている場合ではありません。

アルキビアデスの立場で言うのであれば、彼のライバルはアテナイの政治家ではなく、他のポリスの代表者やペルシャの大王ということになります。
何故なら、アルキビアデスの最終目標は彼らの国を制圧して自分自身が大王になることだからです。

参考文献



【Podcast #カミバコラジオ 原稿】第67回【財務分析】当座比率

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勘定科目


前回は、なぜ負債と資産を流動資産や固定資産・流動負債や固定負債といったものに分けるのかという話をしました。
その理由としては、財務分析を出来るようにするためです。仮に、経理作業を税金のためだけにしようと思うのであれば、売上から経費を差し引いただけのモノがあれば良いことになります。
つまり売上の合計金額と経費の合計金額さえあればそれで良いということになってしまいます。これはこれで、楽だと思う人もいらっしゃるかもしれませんが、これでは経営の問題点を分析できないので、改善点もわかりません。

その為、会社の持っている資産や負債の内訳を細かく分けていき、分析をしやすくします。 これは、貸借対照表だけでなく、会社の利益を出す損益計算書についても同じです。
会社の本業で稼いだ売上とその他の収益は分けますし、経費に関しても、その属性ごとに分けます。

例えば製造業の場合、材料を仕入れて加工して商品にし、それを販売することで売上とします。
仮に、営業も宣伝もしなくても商品が勝手に売れていく場合は、売上から費用を差し引くだけで良いですが、もし、営業活動や宣伝活動をしなければならない場合は、製造に関する費用と販売管理に関する費用とに分けて計上します。
こうすることでコストの属性が分かりやすくなり、分析がしやすくなるということです。

指標は業種ごとに捉え方が違う


前回は、その具体的な分析方法の1つとして、短期的な安全性を見る為の流動比率を紹介しました。
この流動比率は、貸借対照表流動資産を流動負債で割って出すもので、一般的には200%以上あれば安全だとされています。
ただこれは前にも言いましたが、業種によって違います。 人が持つ知識や技術を売る職業と商品を売る職業とでは、同じ様に考えられないのは当然ですよね。

例えば、会社が持つ商品というのは、流動資産に含まれます。 しかし、この商品が全て売れて現金化されるのかというと、そんな事はありません。
例えば食料品の製造メーカーでは、売れずに廃棄される商品が一定数あります。 廃棄されると当然売上にはなりませんし、何なら廃棄費用が別途かかることになります。
その一方で、美容師や講師業といった技術や知識を売るタイプの職業には在庫というものがありません。 技術や知識はいくら販売したところで減るものではありませんし、それを金額で表して帳面に記載することも出来ません。

その為、流動資産に商品そのものがないため、流動資産の構成そのものも変わってきます。 この製造業とサービス業とを、1つの指標で比べることなんて出来ませんよね。
なので、仮に比べる場合は同業他社の平均値などを調べて比べる必要が出てきます。
またこの他にも、別の財務分析でアプローチするという方法もあります。 ということで今回は、前回紹介した流動比率以外の分析方法をみていきます。

賞味運転資本


前回紹介した流動比率は短期的な安全性を見るための手法だと説明しましたが、この短期的な安全性を測る指標というのは他にもあります。
具体的に挙げると、『当座比率』『手元流動性比率』『正味運転資本』『ネットキャッシュ』『インスタレスト・カバレッジ・レシオ』などがあります。

まず『正味運転資本』からみていきますと、これは単純な引き算で、流動資産から流動負債を引いたものです。
先程の流動比率の場合は割り算だったため、企業規模に関わらず比べることが出来るという利点がありますが、具体的な数字としてはわかりにくかったりします。
企業規模に関わらす比べられるというのはどういうことかというと、例えば資産規模が10兆円ある企業と300万しかない企業を、同じ指標で比べることが出来るということです。

何故なら、流動比率は割り算で計算されるからです。 流動比率流動資産が流動負債に比べで何倍あるのかという割合を出して比べるものなので、資産規模が10兆円であろうが300万円であろうが、出てくる数字は比率であるため、そのまま比べられます
これは一つの利点なのですが、その一方で具体的な数字がわかりにくいという欠点があります。 その欠点を補うのが『正味現在資本』です。
これは先程も言いましたが単純な引き算で計算されるので、具体的な額がわかります。しかしその一方として、売上や資産額が違いすぎる会社同士を比べるということは出来ません。

例えば先程の例のように、資産規模が10兆円の会社と300万円の会社とでは、比べることが出来ないということです。 当然ですよね。何故なら、資産規模が10兆円の会社の方が確実に正味運転資本の額は大きくなるからです。
しかし、これは具体的な金額であるがゆえに、自社の短期的な余裕資金を確認することが出来ますので、先ほどの流動比率よりも具体的にイメージがしやすいです。
例えば大掛かりな仕入れや設備投資をする際に、直近の正味運転資本を確認すれば、その支払が出来るのか出来ないのかを具体的な数字として比べることが出来ます。

ただ、流動比率の説明の際にも言いましたが、この正味運転資本の計算で使う流動資産には、短期的に現金化されるかどうかわからない資産も含んでいます。
主に会社が販売している商品などがそれにあたります。 商品の中には、いつ売れるかどうかも分からないものや、売れずに廃棄されてしまうようなものも含んでいます。
その為、現金や銀行預金は少ないにも関わらず、大量の在庫があるために流動資産の額が膨らんでいて、正味運転資本を計算すると金額的には多いということもあり得るからです。

その為、流動比率であっても正味運転資本であっても、流動資産としての商品の金額には注意する必要があります。
ここが多すぎるのであれば、これらの数字はあまり当てにならないことになってしまいます。

当座比率


ここで、『それなら、商品を抜いた数字を使えばよいのでは?』と考える方もいらっしゃると思います。
このようなことは皆が考えるようなので、当然、商品のような直ぐに現金化されなかったり、そもそも支払いに使えない金額を抜いて計算する指標もあります。
それが、当座比率です。

この当座比率ですが、当座資産を流動負債で割ることで計算される比率です。
では当座資産とは何かというと、簡単にいえば、何らかの請求があった際に、直ぐに支払いに回せるようなお金のことです。
具体的には、現金や銀行預金、会社の場合は当座に入っているお金や売掛金などのことです。

売掛金


これらの資産は、何らかの請求があった際に直ぐに支払いに充てることが出来るお金です。 現実問題としては、売掛金では支払うことが出来ないということもあるでしょうが、売掛金は大抵は2月程度何らかの形で別の資産に変わります。
ここで売掛金の仕組みを簡単に説明しておくと、例えば、B to B の取引の場合、月末締めの翌月末支払いなんてことがよくあります。この支払い方法の場合、仮に4月に納品した場合は、実際の入金は5月末となります。
支払いが行われるのは5月ですが、会計としては、4月に売り上げたものは4月中の売上にしなければなりません。 そうしなければ、その期間中の売上がハッキリと出ないからです。

例えばですが、得意先の内2件が先ほどのように月末締めの翌月末払いで、この他が商品を納入した際に代金をもらうという取引が混在している場合があったとします。
この際、入金時に売上として計上するとしてしまうと、同じ月に売り上げているにも関わらず、売上が2ヶ月にわたって計上されてしまい、実際にその1月でどれほどの取引があったのかがわからなくなります。
期間中の売上が明確にわからないということは、前にも言いましたが財務分析が正確に出来ません。

財務分析が正確に出来ないということは、企業の現状を正しく見れないことになりますし、現状を正しく把握できないということは先の経営戦略なども考えづらくなるため、簿記では、取引があった月に売上として計上します。
また売上というのは、経営分析として特に重要な数字となっているため、この数字は適当であってはならないという理由もあります。
例えば、売上というのはその数字を前月比や前年同月比で比べるだけで、企業の成長度合いを見比べることが出来たりする数字です。 この数字が適当であると、そういった単純比較すらもしづらくなるため、売上は売り上げた月に計上します。

売上を売り上げた月に計上することの重要性は分かってもらえたと思いますが、ここで問題が出てきます。
というのも、先程の月末締めの翌月末支払いの場合、売上は取引をした月に計上しなければならないのですが、実際にはお金を受け取っていません。この場合は、どの様に帳面に書けばよいのでしょうか。
複式簿記の振替伝票で言えば、売上は収益なので右の貸方に書くのですが、では相手方科目、つまり左に何の勘定科目を書けばよいのでしょうか。 現金をもらったわけでもないし振込も行われていないため、現金や預金は書くことが出来ません。

ここで登場するのが、売掛金です。 この売掛金は、取引実態があるので売上はあるけれども、今現在支払いを受けていない、つまりはツケ払いの金額となります。
この売掛金は、実質は得意先に対する貸付金のようなものなのですが、先程も言いましたが、B to B 取引の場合は2か月以内には何らかの方法で支払いが行われるお金です。
その為、この売掛金で直接支払いが出来なかったとしても、少し待てば支払いは行われるため、当座資産として含みます。

当座資金に含まれない流動資産


話を当座比率に戻すと、当座資産とは流動資産の中でも、直ぐに支払いに当てることが出来るような資産のことを指します。現金や銀行預金や、今回説明した売掛金などが含まれます。
では、流動資産の中でも当座資産に含まれないような資産とは何かというと、まずは、前回から問題になっている商品です。 この商品は別名『棚卸資産』と呼ばれたりもします。
この他には、繰延資産やその他流動資産が含まれます。

この内、繰延資産に関してですが、この説明は難しい上に、このコンテンツでターゲットとしている中小企業の場合はあまり関係のない項目だと思わるので、今回は説明を省きます。
その他流動資産ですが、これは前渡金とか前払金、立替金や短期貸付金などが含まれます。 立替金や短期貸付金は従業員や他人に対する貸付ですが、最長で1年間は現金化出来ないため、直ぐに現金化出来るようなものではないため省きます。
前渡し金や前払金は、将来発生する費用に対して前もって支払いを済ませている類のお金なので、実際に費用が発生するタイミングで消えてしまうものです。

その為、これらは他の支払いに回せるようなお金ではないため、当座資産には含みません。 このようなものを省いた『当座資産』を流動負債で割ることで出した数字が、当座比率です。
この当座比率は、前に説明した流動比率や正味運転資本とは違い、商品在庫などは省いて出された数字となるため、結構厳し目の数字となります。
その為、流動比率で安全性を示すためには200%必要だとされていましたが、この当座比率は100%で安全性が示せることになります。 以上が当座比率の説明となります。次回も、短期の財務分析についてみていきます。

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第139回【アルキビアデス】賢者だと思いこんでいた愚者 後編

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立派なこと=良い状態


では次に、『立派に生きる事』の方に焦点を当てて考えていきます。
ソクラテスは『立派に生きている者というのは最善を尽くして生きている、そんな彼らは幸福ではないのか?』とアルキビアデスに訪ね、アルキビアデスはこれに同意します。
なぜ彼らが幸福なのかというと、彼らは人生の内に良いものを宿しているからでしょう。 立派に生きようという彼らの人生は良いもので、良い人生を歩んでいるが故に幸福感を感じると言い換えても良いかもしれません。

そして、立派に生きることは良いことで幸福な人生。 みっともなく生きることは悪いことで不幸な人生とするのなら、立派なものというのは良いという事柄と同じものと考える事もできるでしょう。
では、立派なものと良いものが同じものとして、良いものを持つというのは自分の利益につながらないでしょうか? この事について質問されたアルキビアデスは、良いものを持つものは利益になると答えます。
これまでのやり取りを簡単にまとめると、勇気ある行動というのは立派な行動であり、立派な行動というのは良い行動であり、良さというのはそれを持つものの利益につながるということです。

これは、勇気ある行動と立派な行動と良さと利益が全てイコールで結ばれるということなので、つまるところ正義にかなった勇気ある行動というのは、利益になる行動とも言い換えることができます。

損得で考える


ここで、くどい様ですがもう一度、先程の例について考えていきましょう。 例というのは、戦場で仲間が窮地に立たされた際に、助太刀して逆に自分が死んでしまうのか、それとも、自分の命おしさに逃げるのか。どちらが得なのかということです。
アルキビアデスの当初の考えとしては、死ぬ事というのは一番悪いことで人生の損失と考えていたので、自分の命が助かるのであれば逃げた方が得だと考えていました。
しかしその後の討論によって、みっともなく生きていることは死んでいることと変わりがないと意見を変えてしまいました。

そして先程の理論で、立派な行動というのは利益につながる行動だとなったため、当初悪とされていた助太刀して逆に自分が死んでしまうという結末は、仲間を見捨てずに助太刀すること自体が立派な行動であるため、利益になる行動となってしまいました。
死んでしまうという結末は悪いとも捉えられますが、仮に悪い結末だったとしても、アルキビアデスは生き恥を晒してみっともなく生きている状態は死んでいる状態と同じだと言いきっていますので…
仲間を見捨てて逃げた結果生き恥を晒すという結末と、助太刀したけれども力及ばず死んでしまうという状態は、結末としては同じということです。

しかし、結末は同じですが、助太刀した方は良い行動をとっているため、その分だけ利益を得ていることになります。
ここまでの議論の結果、先程の選択肢である助太刀をして死んでしまうのか、それとも仲間を見捨てて逃げるのかの2択になった場合、損得を計算できる人間は仲間を助けて死ぬ方を選ぶことになります。
こうして順を追って考えていくと、最初にアルキビアデスが主張した、『善い行いをして損をする場合もあるし、場合によっては不正を働いた方が特をする場合もある』という理屈は破綻してしまいます。

賢者だと思いこんでいた愚者


この一連のやり取りから分かることは、アルキビアデスは自身では政治家になるための知識を持っていて、そのレベルは他の市民を圧倒していると思いこんでいたけれども、実のところ、何も知らなかったということです。
もっと細かく突っ込んで言うなら、その事について知らなかったという事すら分かっていなかったという事になります。

というのも、もしアルキビアデスが自身の無知を自覚していれば、『自分は善悪を見極める知識や損得勘定ができるので、他の人間に比べて政治家に向いている!』なんて事は思いもしないでしょう。
その知識を持っているであろう人に、自分の代わりに政治家をやってもらおうとするはずです。
例えば、自分には病気に対処するだけの知識がないと自覚していれば、病気の治療は医師免許を持つ人に任せるはずです。 自分に電気工事をする知識がないなら、資格を持つ人間に頼むでしょう。

自分に知識がないという事を自覚するということは、その知識がどのようなものかというのをある程度正確に知る必要があり、そのうえで、その知識を自分は身につけていないと初めて自覚することができます。
ではアルキビアデスはどうだったのかというと、当初は自分にその知識があり、自分がその知識を活かして政治家になって国を動かすことができると思い込んでいました。
しかし、ソクラテスと討論をしていくにつれて、自分が持っていると思い込んでいた知識はグラつき、最終的には主張を二転三転させています。

ですが、そもそも知識というのはグラつくことがありません。 知識というのは、現時点で分かっている事実を積み重ねただけのものなので、特定のインプットに対しては同じアウトプットを繰り返し行います。
1に1を加えるという処理をすると答えは毎回2になるというのが知識であり、知識はそういうものだからこそ、ソクラテスは何かを決断する際に『自分の感情ではなく、自分の外側にある知識を尊重しろ』と繰り返し言っているわけです。
しかしアルキビアデスは、ソクラテスが指摘をする度に自身の答えを変えてしまっています。

このことからアルキビアデスは、自分に知識が無いという状態すら自覚していなかった状態だった事がわかります。

無知の知


繰り返しになりますが、自分に知識がないという事を自覚するということはその知識がどのようなものかというのをある程度正確に知る必要があり、そのうえで、それが自分に無ければ『その知識は自分は身につけていない』と自覚出来ます。
ですがアルキビアデスは、当初は自分は知識があると思い込んでいたわけですから、自身に知識がないということを自覚してすらいなかったわけです。

知識がない事を自覚していておらず、その知識は自分には十分にあると思いこんでしまっていれば、当然のことながら、人はその知識を身に着けようと頑張ることなんてしません。
何故なら、その知識はすでに持っていると思い込んでいるわけですから、持っている知識を再び身につけようと頑張る人間はいません。
すでに知っている知識であったとしても、継続的に勉強している人はいると反論される方もいらっしゃるかもしれませんが、厳密に言えばそんな人間はいません。

これはどういうことかというと、例えば私は今、英語を勉強していて、1度覚えた単語帳を定期的に見直しています。
勉強の分野でこの様な事をしている方は多いと思いますし、この行動を取り上げて『既に身につけている知識を学んでいる人はいるじゃないか!』と主張する方もいらっしゃるかもしれませんが…
この様な一度勉強した内容を復習するという行動は、傍から見れば身につけた知識を再び勉強しているようにも見えますが、実際に勉強している側からすれば、その知識を身に着けてはいないと思ってるから繰り返し復習するんです。

人間の記憶力はそこまで良くはなく、また人は物事を忘れる生き物なので、一度テキストを読んだからといって内容を全て覚えられるようにはできていません。
人が何かを学習しようと勉強した際、その覚えた勉強内容というのは最初に短期記憶として記憶されます。この短期記憶は名前に短期とついているぐらいですから、暗記した内容は短期間で忘れてしまいます。
この短期間で忘れてしまう記憶を長期的に留めておくために長期記憶に移行しようとする場合、忘れてしまいそうになるタイミングで復習し、長期間かけて何度も思い出すという行動を取らなければなりません。

つまり、同じ内容を繰り返し勉強している人というのは、その知識が自分の中に定着していないと自覚しているから同じ内容を何度も何度も繰り返し復習しているわけで、既に身についた知識を勉強しているわけではありません。
数学の専門家が九九の表を定期的に見直さないように、既に身につけていると思っている知識を身に着けようと頑張る人はいません。
こうして考えると、アルキビアデスは自分の無知を自覚していなかったわけですから、当然、善悪を見極める知識についての探求もしていないわけで、その知識は身に付けようがありません。

ですが彼は、今回ソクラテスに指摘されたことで、自分が無知であったことに気が付きます。
ここでアルキビアデスは、無知を受け入れた上での勉強や探求の重要さに気付かされ、対話篇の第一部が終わります。

次回は引き続き、第二部を取り扱っていきます。

参考文献



【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第139回【アルキビアデス】賢者だと思いこんでいた愚者 前編

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損得勘定


今回も、対話篇『アルキビアデス』について話していきます。
前回までの話を簡単に振り返ると、政治家を目指すアルキビアデスは、政治家になる為に必要となる『善悪を見極める知識』を持っているのかというのをソクラテスが吟味したところ、彼にはその知識がないことが分かりました。
政治家になるには、人よりも善悪を見極める知識を持っている必要があるけれども、アルキビアデスはそれを持ち合わせていない。では、彼は政治家になる資格はないのでしょうか。

この事実に対してアルキビアデスは、政治家にとって本当に必要なのは、善悪を見極める知識ではなくて『損得を計算できるスキル』だと主張します。
私達の日常を振り返ると、人が事の善悪の本質について考えることなんて殆どありません。人が判断の中心に据えるのは損得です。
これは単純に目の前の事柄についての損得ではなく、後々のことを考えた上で、今回は損をするとしても後で取り返すことができるといったことを嗅ぎ分けることができる嗅覚のことです。

今の日本の政治を見てみても、国内の事柄に関しても対外国の事柄に関しても、それが本質的に良い事なのか悪い事なのかが話し合われることは余りありません。
話されている事柄の大半は、こうすれば得をするだとか、このような行動を取れば将来的に損をするといった損得の話だけです。
政治の場で実際に話されていることの大半が損得勘定であるとするのなら、政治家を目指すアルキビアデスにとっては善悪を見極める知識なんて持っていなくとも、損得勘定ができれば問題はないことになります。

正義にかなった行動


では、本当に損得勘定ができれば政治家に向いているのでしょうか。これに対してソクラテスが反論を試みます。

ソクラテスはまず、醜い行動だけれども正義にかなった行動というのを観たことがあるかと質問します。
つまり、人として正しいと思われる行動をとっているのに、格好悪い人間だと指を刺されるような人間を観たことがあるかと聞いたわけですが、これに対してアルキビアデスは、観たことがないと答えます。
これは言い換えれば、アルキビアデスがこれまでに観てきた正義にかなった行動というのは、全て立派なものに見えていたという事を意味します。

では逆に、立派なものは全て良いものなのでしょうか。 これに対してアルキビアデスはNOと言います。
例えば、戦場で仲間が大勢の敵に襲われているとしましょう。 この仲間に助太刀して仲間の命を助けようとする行為は立派ではありますが、その結果として自分が死んでしまうのは悪い結果のように思えます。
その一方で、仲間が襲われているのを見て、敵に恐れをなして逃げ出した場合、この行動はみっともない行動ではありますが、結果として傷一つなく生き残れたのなら個人の行動の結果としては良いようにも思えます。

物事を小さい単位に分解して考える


これは確かに言われてみればそうなのですが、ここで注意しなければならないのは、この例には複数の事柄が混ざり合っていて、実は単純な問題ではなく複雑だということです。
例えば、勇気ある行動というのは、先程の例で言うのであれば助太刀をしようと思う行動に限定された話で、その後、助太刀に失敗して死ぬというのは悪いことであったとしても、勇気とは別の事柄です。
つまり、それぞれの事柄は一連した一つの事柄ではなく、概念的には切り離して考えるべきだということです。

先程の例では、助太刀した場合に自分が死んでしまうのなら、その結果は悪いことなのでその事柄全体が悪いことだとされていましたが、結果が自分たちの死ではなく全員生き残ったというふうに変われば、悪い結果から良い結果に変わります。
自分の命おしさに逃げる場合も、運良く逃げ延びることができれば良いかもしれませんが、逃げ切れなければ、結果としては卑怯にも逃げたけれども死んでしまったという最悪な状態になってしまいます。
ちなみにですがこの善悪の基準は、あくまでも自分が死んでしまうことが悪いことだと決めつけた場合にそうなります。

では次は、勇気を持って助けるという行動の方に焦点を当てて考えてみましょう。 リスクを犯して人を助けるという勇気ある行動は、正義にかなった立派な行動と言えます。
つまり勇気ある行動というのは、善悪で言えば悪い行動ではなく良い行動と言えます。

良いものと悪いもの


次に、良いものと悪いものがあった場合、人はどちらを所有したいと思うでしょうか。

例えば、人間的に優れた立派な良い人と、臆病者や卑怯者、人に配慮できない悪い人間がいた場合、友だちになりたいと思うのはどちらの人間でしょうか。
別のもので考えるなら、自分の性格や人柄として身につけるのは、勇気などの立派なものが良いでしょうか。 それとも臆病者や卑劣といった身につけるだけで人が自分を避けていくようなものが良いでしょうか。
この例ではわかりやすく極端な例で訪ねましたが、このような極端な善悪で比べた場合、多くの人が立派なものや良いものを身に着けたいと思うはずです。

これは質問されたアルキビアデスもそうで、彼などは更に極端な考えで、仮に自分が臆病者と呼ばれてしまうような状態になってしまうのは最悪で、そのような状態では生きている意味がない。死んだも同然だと言い放ちます。
ここでお気づきの方も多いでしょうが、このアルキビアデスの主張は、先程の例に当てはめて考えると、少しおかしなことになってしまいます。

先程の例というのは、仲間のピンチに勇気を持って助けに行った結果、自分が返り討ちに合って死んでしまえば、結果としては『死』という最悪な結果になっているので悪い事柄だ。
一方で仲間を見捨てて逃げてしまえば、死ぬという最悪の事態は免れるのだから、良いことだという例え話のことです。
仲間を見殺しにして自分だけ尻尾を巻いて逃げてしまえば、彼はその後の人生を臆病者として過ごさなければならないわけですが、彼の言うように、その臆病者の烙印が死ぬ事と同じであるのなら、逃げるという選択肢は選べないことになります。

なぜなら、戦って死ぬのも臆病者として生き恥を晒すのも、アルキビアデスにとっては共に、人生が『終わってる』状態だからです。
つまり、死ぬ事と臆病者とレッテルを貼られて生きる事がイコールである限り、彼には勇気を持って立派に戦うという以外に選択肢はないことになります。

参考文献



【Podcast #カミバコラジオ 原稿】第66回【財務分析】流動比率

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財務分析


前回は、貸借対照表に記載されている資産や負債について、何故、短期的な属性を持つ流動資産や流動負債と、長期的な属性を持つ固定資産や固定負債などに分けるのかという話をしてきました。
大きな理由としては、会社の状態やその先の経営状態を占うための財務分析をするためです。
会社や財務の分析と聞くと難しそうな事をやっているイメージがありますが、最初にやることは、貸借対照表損益計算書にかかれている数字を加工するだけの作業だったりします。

数字を加工するとは言っても、それぞれの指標は単純に割り算するだけのものが多いので、計算自体は小学生でも出来たりする簡単なものです。
復習がてら、前回に紹介した流動比率でみていくと、これは貸借対照表の資産の部に記載されている流動資産を負債の部に記載されている流動負債で割っただけのものです。
これが最低でも100%を超えていないと、短期的に危険な状態といえます。

では、流動比率が100%を割り込んでいると、具体的にどの様に危険なのかを考えてみましょう。
流動資産とは、現金、もしくは直ぐに現金化出来る種類の資産のことです。 例えば銀行預金や当座預金売掛金などがこれにあたります。
この流動資産を、1年以内に支払義務のある借金である流動負債で割る場合、流動資産の方が金額が大きければ、数値は100%を超えることになりますし、流動負債の方が額が大きければ、計算結果は100%を割り込むことになります。

流動負債のほうが流動資産よりも額が大きいということは、この先1年間で返済しなければならない借金の額が、手持ちの資産よりも大きいことを意味します。
つまり、1年以内に借金の返済ができなくなる可能性が大きいということです。
この状態は一刻も早く解消されなければならない状態といえますが、では、どのようにして解消していけばよいのでしょうか。

流動比率を改善させる方法


その方法としては複数あります。 まず1つは、固定負債を増やして流動資産を増加させることです。
会計用語を使っての説明はわかりにくいかもしれませんが、これを簡単に言い直せば、返済期限が1年以上の金を借りてくるということです。
企業が取引銀行を決めてやり取りを始めると、銀行は企業の信用力に応じて借金できる枠を用意してくれます。 個人で言うのであれば、クレジットカードのキャッシング枠のようなものです。

それは、お金に余裕がある時に返済すれば良いお金なので、返済期限は1年以上であることが普通です。
この様な枠を利用して借金して現金を手に入れれば、会社の財務的には1年以上先に返済義務のある固定負債が増えて、すぐに返済に当てることの出来る流動資産である現金が増えることになります。
この行動によって、流動資産を流動負債で割った流動比率は改善することになります。

他の方法としては、使っていないような固定資産を売却するという方法があります。 この方法は分かりやすいと思いますし、真っ先に思いつくような方法だと思います。
例えば、今は使っていないような設備や車などの固定資産を売却すれば、その対価として現金が手に入ります。
現金が増えれば、その金額分だけ流動資産が増えることになるため、流動比率も改善します。

一応言っておきますと、これらの方法は根本解決にはならず、一時しのぎにしかなりません。
というのも、長期的な借金を増やして手許現金を増やしたとしても、会社全体としての借金の額は増えてしまうからです。 この方法では、流動比率は改善して短期的な倒産の危機は回避できますが、長期的には何の解決にもなっていません。
さらにいうのであれば、借金額が増えるということは利息の支払額も増えるということですから、長期的に見ると苦しくなります。

流動比率を改善させる方法(2)


もう一方の固定資産の売却ですが、これは資産の振替を行っているだけなので、いずれ限界がきます。 というのも、固定資産は有限だからです。
それにそもそも論として、使っていない無駄な資産がずっと眠っている状態というのも問題です。 何故なら、仮にその資産をもっと前に売却をして他のことに投資していれば、資産を有効活用できていたはずです。
新たな事業に投資するのも良いですし、国債などの元本保証の証券を買っていれば、利息も受け取れていたはずです。

無駄な固定資産が眠っているという状態は、効率的な経営ができていないということになるため、そもそもこの選択肢を選べることが問題だったりします。
その為、根本的な解決策としては売上を伸ばして利益を上げることで、自由に使える流動資産を高めていく必要があります。

流動比率の考え方


この流動比率ですが、数値が高ければ高いほど良いのかというと、そうとも言えません。
確かに流動比率が高ければ、経営の健全性を示すことが出来ますし、短期で会社が倒産する確率も減ります。
ですが、流動比率が高すぎるということは、それだけ使っていない流動資産が多いということを意味します。

先程も少し言いましたが、会社というのは自分の資産を投資して、それによって利益を得る事を目的として存在しています。
使っていない流動資産や固定資産があるということは、それだけ資産を効率的に使えていないことを意味しますので、流動比率が高いとうことは安全面から見れば良いことですが、収益面からみると効率が悪いことになります。
必要以上の金を溜め込んでいるというのは、見様によっては経営能力がないことを意味してしまいます。

会社の資金の使い道


最近良く、テレビの経済番組などで問題視され、日本の政府も改善しようとしている『内部留保の積み上げ問題』につながっているのも、突き詰めていけば、この『資産を有効活用できてない』という状態に行き着きます。
もし仮に、日本の全ての企業が無駄な資産を有効活用し、新たな事業分野に積極的に投資すれば、景気にとっては良くなるはずです。
新規事業のために設備投資をすれば、その分だけ消費が増えることになりますし、新規事業のために人を雇おうと思えば、労働市場で人材獲得競争が起きるわけですから、労働者の給料も増えることになります。

需要が増えて労働者の給料が増えるというのは、どう考えても経済に好影響を与えますので、政府がその様な行動を促そうとするのは、理解しやすいと思います。
しかし一方で、企業側から見れば不透明な経済状態の中で資産を投資するというのは、かなりのリスクを伴います。

例えば、2019年から始まったコロナ禍で多くの企業の売上が減少しました。
この状態に耐えるためには相当な流動資産が必要なりますが、もし、仮に流動資産に余裕がなければ、会社は潰れてしまうことになります。
この倒産を防ぐために政府は、返済期限に余裕がある借入制度を開始しましたが、先ほども言いましたが、これは根本解決にはなりません。

というのも、返済期限が迫っているのに状況が改善していなければ、状況がさらに悪化するからです。
仮に『返済は5年後でいいから』と言われて金を借りたとしても、その5年間で売上が改善して利益が上がり、借りた金と同額以上の流動資産を稼いでいなければ、5年後には流動負債が増えるわけですから、財務状態は悪化します。
その返済を先延ばしできるとしても、借りた金には金利がつくわけですから、その利息分が業績の下押し圧力となります。

つまり、経済にとって危機的な状況が襲ってきた時に『一定期間だけ返済不要で無金利の金を貸してあげる』というのは、根本解決にはなりません。 最悪の状況を先延ばしにしているだけです。
また、アメリカのように法人と個人が完全に切り離されていて、オーナー経営者であったとしても会社が潰れれば法人が抱えていた借金はチャラになるのなら、最悪の状況の先延ばしだけですみますが、日本のシステムの場合はさらに状況が悪化します。
というのも、日本の中小零細企業の場合は、借金をする際に経営者が法人の連帯保証人にされてしまうため、仮に会社が倒産したとしても、経営者には借金が残り続けます。

この様な、いざという時には自己責任でなんとかしろという制度では、日本の経営者は保守的にならざるをえなかったりします。
逆に言えば、危機的な状態の際には国がなんとかしてくれるという安心感があり、仮に失敗したとしても経営者個人に深刻な経済的ダメージが無いようなシステムであれば、経営者は積極的にリスクを取ることが出来るようになります。
ただ、あまりに寛容な政策を取りすぎると、経営者のモラルが破綻することにもなるでしょうから、その調整は難しいと思いますし、それは政治の話になるので、ここでは深く考えないことにします。

業種による違い


話を流動比率に戻すと、流動比率はどれぐらいが適切なのかというと、一般的には200%と言われています。 つまり、1年以内に返さなければならないお金の2倍の流動資産があれば良いということです。
ただこれは、事業の種類によっても変わってきます。
これは、想像してもらうと分かりやすいと思うのですが、例えば、ツアーガイドやマッサージ師や士業と呼ばれるような職種の場合は、人が保つ技術をお金に変えるために、仕入れというのが殆どありません。

売上も大半が現金収入となりますから、この様な職種では月々の人件費や家賃などを上回る売上が1ヶ月の間であれば大丈夫なことになります。
一方で、仕入れ業者に商品を発注してから自分のもとに届くまでに時間がかかる場合。この期間のことをリードタイムと呼びますが…
リードタイムが4ヶ月かかるものを仕入れて半年かけて少しづつ売り、売上は手形でもらうので現金化されるのに3ヶ月かかるといった卸売業の場合は、事情が変わってきます。

リードタイムが長いということは、そのリードタイム間の在庫を余分に持たなければ品切れを起こしてしまいますから、販売期間を逃さないためにも余裕のある在庫を持つ必要があります。
在庫分として仕入れた商品の代金は支払う必要があるわけですが、この支払った代金の代わりとして入ってきた商品は、流動資産になるわけですが、先ほども説明したとおり、今回例として出した卸売業では、商品が現金化されるのに1年近くかかります。
この様な場合、流動資産の結構な割合が直ぐに現金化されない商品で占められていることになるため、単純に流動比率の目安とされている200%で良いのかというと、もう少し余裕があったほうが良いと思います。

これはこの後説明する全ての財務分析に当てはまることですが、分析に使う数字というのは、業種や仕事内容ごとに変わります。その為、目安を探す場合は同業他社の平均と比べる必要があります。
これは結構大切なことなので、この後も繰り返し言っていくことになると思いますが、一般的な平均値と比べても無意味です。
もしコンサルなどに相談している方で、相手方がそういった事を考慮しない提案をしてくるような人だった場合は、その人は財務が分かっていないので付き合いを考えた方が良いレベルだと思います。

ということで流動比率の解説はこのあたりにして、他の分析方法についてですが… それはまた次回に話していきたいと思います。

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第138回【アルキビアデス】知識や技術の身につけ方 後編

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不毛な議論


アルキビアデスもこの理屈には納得してしまい、自分には善悪を見極める知識を身に着けている見込みはないというのですが、これに対してソクラテスは、『それもまた正確な言い方ではない』と言い始めます。
というのも、アルキビアデスは単に善悪の知識を身に着けていないというだけでなく、自分には知識がないにも関わらず、無いはずの知識を持っていると思い込み、尚且、それを他人に教える立場にあると思っていたからです。
対話篇の中では、ソクラテスがアルキビアデスに対してかなり皮肉たっぷりに指摘するのですが、この部分はアルキビアデスに対して指摘しているというよりは、対話篇の筆者が読者全体に対して指摘しているようにも思えます。

というのも、アルキビアデスの様に考えている人は少なくなく、世の中の人の多くが善悪について考えたことすら無いのに自分は善悪の区別がつくと思い込み、問題を前にした際には善悪を独断で決めつけるからです。
各自が『善悪を区別するための知識』ではなく個人の独断で判断しているため、当然のように判断結果はバラけてしまい、正しいのはどちらの意見なのかといった言い争いが日常的に起こっています。
しかしソクラテスに言わせれば、そもそも一般市民たちは善悪を区別するための知識について真剣に考えたことはないんですから、その話し合いにすら意味はないんでしょう。

医学の知識を持たない一般人同士が病気について話し合ったところで真実に到達しないように、善悪の知識を持たない人同士が話し合ったところで、出た結論が正しいのかどうかがわかりません。
話し合っている本人たちに『自分たちには知識がない』という自覚があれば、真実を探求する目的を持って話し合いができるため、対話篇メノンに登場した想起論に当てはめれば、対話を通して正しい答えにたどり着く可能性はあるかもしれません。
しかし一般市民たちは自分たちには善悪を見極める程度の知識はあると思い込んでいるわけですから、その探求すら行いません。結果、話し合いは不毛な言い争いにしかなりません。

必要なのは損得勘定


これに対してアルキビアデスは、善悪を見分けて物事の真実を知ることは、それほど重要ではないのではないかと主張します。
というのも、人々が言い争いをする場合、議論の本質は大抵は善悪ではなく、利害だったりします。
つまり人々は、建前では善悪のことを話しているように見せかけているけれども、実際には自分たちの損得について考えているだけだというわけです。

確かに、私達の身の回りの言い合いを注意深く聞いてみると、どのような行動を取るのが正しいのかということよりも、自分の立場が守れるのかとか自分たちに不利益はないのかといったことが議論の主軸になっていたりします。
ただ、それを露骨に出すと人間性を疑われるので、建前として、その行動は良いとか悪いと言っているだけで、本当に興味があるのは自分たちが損をするのか得をするのかということだけです。
現代日本の政治家同士の話し合いにしても、誰の顔を立てた方が良いだとか誰と組むと得をするといった感じで、善悪はそっちのけで個人や国の利害につて話し合われています。

古代に起こっていた戦争にしても、誰かが悪いことをしたから、その行動を正すために戦争を起こしていたのではなく、王様が敵対する相手から領土を奪い取ることが自分達の国にとって得だと判断したから戦争を仕掛けたと思えば分かりやすいです。
ただ、単に自分が得をすると主張したところで民衆はついてこないので、民衆を説得するために、いかに自分たちの行動が正しくて相手が間違っているのかと主張しているだけだとすれば、善悪を見極める技術なんて必要はありません。
自分たちの行動を正当化するためのストーリーを作り出す技術があれば良いだけだからです。 損得の話を善悪の話にすり替えて皆が納得するストーリーを考え出せば、後はどうとでもなります。

何故なら、それを受け止める一般市民は誰も善悪を見極める技術を身に着けていないため、自分たちが得になりそうで、尚且、聞こえの良いストーリーは正義だと決めつけて支持してくれるからです。

悪行でも進んでやる人達


例えば、自分たちの武力が圧倒的に勝っていて、ほとんど犠牲者が出ない形で相手の領土を手に入れる事ができる環境があったとしましょう。
相手の領土を手に入れることができれば、さらなる農地を手に入れることができますし、相手の民衆を捕まえて奴隷にし、農地で働かせることができれば、自分たちの国の食糧事情は安定するでしょう。

勝つか負けるかわからないような接戦になりそうな場合は、こちらも相当な被害を覚悟しなければならないわけですから、戦争をするという判断を下すのは慎重にならざるを得ません。
しかし、軍事力に圧倒的な差があり、こちらの犠牲が出ない状況で相手の領土を手に入れることができるのであれば、手に入れたいと思うのが人間です。
多くの人は何も悪いことをしていない人達の元へ攻め込んでいって略奪したり、人を攫って奴隷にするのは悪いことだと思うでしょう。

しかし、その何もしていない人たちに対して『野蛮人』だとか『邪教徒』とレッテルを貼ればどうでしょうか。
そのレッテルを貼るだけで彼らは自分たちと相容れない悪人となるため、その悪人を懲らしめに行く自分たちは善人になるという口実が生まれます。
人々が求めている善悪というのはこういった都合の良いストーリーで、学問や真理としての絶対的な善悪なんてものは求めていません。

普通に考えれば悪いことと思われる一方的な侵略戦争であったとしても、相手を侵略することで自国が利益になると思うのであれば、侵略を実行する指導者はいるでしょう。
人生でも国の運営でも、正義を行うことは必ずしもプラスにはならず、不正を行う事によってプラスになることもあります。
その際に人が考えることは、物事の善悪ではありません。 物事の善悪なんてものは考えるまでもなく最初から明白だと思い込んでいるので、議論の内容は主に、どのような選択をすれば利益が得られるのかということになります。

政治家に必要な知識


アルキビアデスは、世の中の議論の大半は本質としては『大きな不正を犯しても僅かな利益しか得られないのであれば、不正をする意味がないので不正に手を染めないが、莫大な利益が手に入るのであれば不正に手を染めるのも一つの手だ。』と主張します。
このアルキビアデスの主張が正しいのであれば、政治家に必要なのは善悪を見極めるなんて大層な知識ではなく、損得を見極める技術さえあれば良いということになります。
ではこの意見は本当に正しく、正しいことと利益が得られることは必ずしも一致しないのでしょうか。

ソクラテスは、アルキビアデスに対してこの事をちゃんと説明してほしいといいますが、アルキビアデスはなんだかんだと言って逃げ回り、一向に説明をしようとしません。
そこでソクラテスは、逆に自分が話すことで、アルキビアデスに『正義にかなった行動は利益になるものだ』という事を納得させてみせると言いだすのですが、その話はまた次回に話していきます。

参考文献