だぶるばいせっぷす 新館

ホワイトカラーではないブルーカラーからの視点

【Podcast #カミバコラジオ 原稿】第61回【財務・経済】費用

目次

注意

この投稿は、私が配信している Podcast番組『カミバコラジオ』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。

▼▼Apple Podcast▼▼

podcasts.apple.com

▼▼Spotify▼▼

open.spotify.com

note

noteにて、番組のサポートを受け付けています。応援してくださる方は、よろしくお願いします。
note.com

▼▼youtubeチャンネル登録はこちら▼▼

https://www.youtube.com/channel/UCqx0z_3n3tBH450v8CtNoUg
youtu.be

前回はこちら

kimniy8.hatenablog.com

損金処理


今回は、費用や経費について考えていきたいと思います。
経費という言葉を聞くと、サラリーマンしかしていない人にとってはもしかすると『領収書を提出したらお金が戻ってくるシステム』といった捉え方をしている人もいらっしゃるかもしれません。
以前、フリーランスの方のインタビューで、取引先と飲食した際に自分が食べた分の領収書を店に求めたら、『経費で落ちるなら奢ってよ!お金戻ってくるでしょ』と言われたなんて話も聞いたことがあるのですが…

経費や費用というのは、どこかに領収書を提出したらお金がもどってくるというシステムではありません。 利益から差し引くことが出来る出費のことです。
このコンテンツではこれまでに何度も、利益とは売上から経費を差し引いたものだと言ってきました。
ちなみに費用と経費の違いですが、費用が会社の出費すべてのことを指し、経費はその中でも損金処理出来る様なものを指す、つまりは費用の1部が経費になるということです。

ここで新たに出てきた損金ですが、これは税務会計上の言葉です。
この税務会計上の言葉を使って先ほどの利益を算出する式を言い換えると、 所得=益金ー損金 となります。
そして重要なことですが、この所得には、税金がかかります。

節税するためには


この税金の存在が、会社が使った費用の領収書を集めている大きな理由となります。
先ほどの税務会計上で言い換えた所得に関する式を、もう一度、財務会計上の式に言い換えると、 利益=収益ー費用となります。
そして、利益には税金がかかります。 つまり、会社が支払う税金をできるだけ少なくしようと思う場合、収益を減らすか費用を増やすか、その両方をする必要があります。

しかし、事業をしていて売上を減らすという戦略は基本的にはありえないので、節税のための一番の方法は費用を増やすこととなります。
この費用ですが、出費であれば何でもかんでも費用として利益から差し引くことが出来るのかといえば、そんな事はありません。
例えば車を購入する場合であれば、配達用の業務用のトラックを購入する場合と、自分の趣味で購入するスポーツカー。 どちらも車に関する出費ですが、利益から差し引くことが出来る出費は配達用の業務用トラックとなります。

損金処理できるもの


この回では以降、利益から差し引くことが出来る出費のことを損金という言葉でいうことにしますと…
自分の趣味で購入するスポーツカーに関しては、業務で使用していないのであれば、いくら領収書があったとしても損金とは認められないので、この出費で持って利益を減らすことは出来ません。
これがもし仮に、重要顧客の送迎用にたまに業務でも使っているというのであれば、業務での使用割合に応じて損金に出来る場合が出てくるといった感じです。

この他には、取引先との飲食の場合なども、損金扱いできるものと出来ないものがあります。
この様な出費に関しては、接待交際費という勘定科目で費用計上するのですが、損金計上できる場合と出来ない場合があります。
これは、先ほどのようなケースによって、つまり純粋な遊びか仕事上の接待かによっても損金に出来る場合と出来ない場合があるというのもそうなのですが、会社の規模が関係してきたりもします。

具体的には大企業の場合は、接待交際費は基本的には損金として利益から差し引くことが出来ない損金不算入で、1人5000円以下の領収書に関しては損金算入が出来ます。
一方で中小零細企業ですが、年額800万円までか、年間の接待交際費の50%のどちらか多い方を損金扱いできます。
ここで、中小企業なら800万円までは飲み食い出来るんだから、普段の食事を全て経費で落とせるのでは?と思う方もいらっしゃるかもしれませんが、そんな訳はありません。

損金処理出来る飲食費用


先程も言いましたが、基本的に損金に含めることが出来るのは会社の事業に寄与する出費に関してだけです。
その為、事業となんの関係もない飲食に使ったとしても、それは経費計上できません。 当然、損金扱いできないため、利益の圧縮も出来ませんから節税対策にもなりません。
簡単な例を出すと、例えば大企業の幹部を接待したことで接待費用が800万円かかったとします。ですがその御蔭で、その幹部から仕事がもらえて売上が1億円増えて利益も2000万円増えたとします。

この場合は、800万円使って2000万円の利益を引っ張ってこれているわけですから、接待費用の出費が事業の成長に大きく寄与していると考えられます。その為、損金として認められる場合が大きいでしょう。
しかし一方で、800万円使ったのに売上が100万円しか伸びなかった場合は、この800万は無駄金となります。 何故なら、800万円も使って売上が100万しか増えていないわけですから、会社としてはこの接待は赤字になるからです。
この様な接待交際費は第三者から見れば、取引先との接待ではなく自分が遊びにいっているだけだとみなされるでしょうから、損金算入は出来ないと考えられます。

このあたりの判断は、正直言って難しいです。 というのも、後者のケースでも、何年にも渡って関係性を築いていくことで大きな取引に繋がる場合もあるからです。
その為、この辺りの判断は、基本的には専門家に相談するのが一番です。 専門家とは税理士のことです。
事業が小さすぎて税理士を雇っていないという方に関しては、自分で判断して損金計上し、税務署から捜査が入った際に税務署側と認識をすり合わせて、差額があれば支払うとかでも良いと思います。

とにかくここで言いたいことは、領収書があれば何でも損金扱いできて税金を圧縮できるわけではないということです。
基本的な考え方としては、会社の利益につながるのであれば経費扱いできるけれども、会社の利益に繋がらないのであれば経費には出来ず、会社の利益を圧縮することは出来ないということです。

用途が曖昧な場合


ここまでの説明ではわかりやすく、『経費扱いできる』『出来ない』といった二択で説明してきましたが、現実の世界ではこの様にキッパリと使用用途が別れているわけではないと思われます。

例えば個人事業主がパソコンを買う場合、業務でパソコンを使う場合ももちろんありますが、個人が自分の楽しみとしてネット閲覧のために使うという場合もあると思います。
これは先ほど例に出した車などでも同じです。 飲食店を経営している人が車を使って仕入れに行くというのは良くあると思いますが、その車は仕事に関してだけ使っているわけではないでしょう。
休みの日に業務とは関係のない方法、例えば遊びに行くために使用するなんてこともあると思います。

家賃などもそうで、個人事業主でオフィスを借りるまででもないような場合は、自宅の1室を仕事部屋にしているケースがあると思います。
飲食店などでも同じで、1階部分を店舗にして2階部分に住んでいるという場合もあるでしょう。この様なケースでは、先ほどのように『業務用』『自宅用』でハッキリと分けることが出来ません。
こういった場合はどうするのかというと、使用割合で按分します。

按分とは簡単にいえば、会社の業務に関連する使用で5割。個人の仕様で5割の場合は、使った費用の半分を経費として組み入れるという考え方です。
大雑把に例えると、200万円の車を買って業務と個人使用の半々で使用した場合は、100万円を経費として組み入れるということです。
このようにして経費を積み上げていって利益を減らしていくことで、税金を安くしていくというのが経営者の仕事の中でも重要な部分です。

経費の使い道を決めるのは経営者の仕事


『経費の計算は経理の仕事では?』と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、経理の仕事は基本的に、会社の経営状態を示す帳面を作ることが仕事です。
それらの帳面を見て、会社の資産の使い方、つまりは経費の使い方を決めるのは経営者の仕事です。

これはどういうことなのかといいますと、例えば好景気や新商品投入によって売上が上がって利益が大幅に増えた場合、それをそのまま申告してしまうと大幅に支払い税額が増えてしまいます。
『自分が生活できているのは国のおかげなので、税金をたくさん払いたい』と思う方は、もちろんそのまま税金を支払ってもらってよいのですが、『払う税金を少しでも安くしたい』と思うのであれば、会社の未来のために投資するというのも一つの手です。
『未来のための投資』としてお金を使えば、それは経費に組み込むことが出来ます。 経費が増えれば、先ほどの説明のように利益を圧縮することが出来るため、支払う税金を安くすることが出来ます。

実際の例で言えば、ネットショッピング大手のAmazonは、アメリカでネットの本屋として誕生し、そこから扱う品ぞろえを増やして世界展開し、最近ではクラウドサービスなどを展開して世界でもトップレベルの会社に成長してきています。
それなら、余程利益が出ているのかと思いきや、利益が出て始めたのはここ最近で、それまでは利益がほぼ出ていない状態が続いています。
これは何故なのかというと、利益を全て投資に回しているからです。

新事業立ち上げや人材育成、設備投資といった感じで会社を成長させるために利益の大半を投資に回しているため、利益が出ていないわけです。
利益が出ていないということは、当然、税金もほとんど発生しません。 『利益を出さなくて問題にならないのか』と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、それは問題にはなりません。
経理作業では貸借対照表損益計算書を作ると言いましたが、この様な状況では確かに、損益計算書上では利益は出ていないことになりますが、貸借対照表的には会社の規模が大きくなっているため、会社は成長していることになります。

会社を成長させなければならない最大の理由は、自社に投資してくれている株主に対してリターンを支払う為ですが、会社の持つ資産が大きくなって事業規模も拡大しているため、会社の価値そのものは成長していることになります。
会社が成長していれば株主の資産である株の価格の本質的な価値も上昇している為、利益を出していなくても株主から文句を言われることはありません。

割引価格で投資する


また節税のために投資をするという行動は、投資が実質割引価格で出来るということを意味します。
簡単な例を出すと、仮に利益が1000万円出たとしましょう。 税率が20%だった場合、税金で200万円持っていかれるわけですから手元に残るのは800万円となります。
しかし、出た利益1000万円分を設備投資や人材育成といった会社のための投資として全額使った場合は、税金はゼロとなります。

勘の良い方なら気がついたと思いますが、お金を使わずに手元に残しておけば800万円しか残らないのに、経費として使えば1000万円分お金を使える事となります。
つまり会社としては、手元にお金を残しておくよりも投資としてお金を使ってしまった方が、税金分だけ得だということになります。
その為、優秀な経営者は例外なく、利益は未来の為に投資します。

よく経済の専門家が『内部留保を貯めるな』という話をしていますが、これは現金で貯めておくのではなく投資しろという話をしていたりします。
この投資ですが、注意して置かなければならない重要な点があります。 それが減価償却です。 これについては次回に考えていきます。

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第131回【饗宴】まとめ回(2) 後編

目次

注意

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。

▼▼Apple Podcast▼▼

podcasts.apple.com

▼▼Spotify▼▼

open.spotify.com

noteについて

noteにて、番組のサポートを受け付けています。応援してくださる方は、よろしくお願いします。
note.com

▼▼youtubeチャンネル登録はこちら▼▼

youtubeでは、音声コンテンツでは聞けないバックナンバーも聞くことが出来ます。
だぶるばいせっぷす - YouTubewww.youtube.com
youtu.be

前回のリンク

kimniy8.hatenablog.com

平和の女神

次にアガトンは、神々の争いについて話し始めます。
ギリシャ神話の神々というのは、考え方の違いや権力争いによって、よく争いを起こします。
この争いでは、肉親である父と子が争うことも珍しくなく、神話で語られている神々による大きな戦争は、大抵が親子間で世代交代が行われる際に、子が親に立ち向かっていくことで引き起こされています。

この争いというものは、誰かが傷つき、誰かが亡くなり、それによって誰かが悲しむものであるため、基本的には美しいものとはいえません。
特に、権力争いによる親子間の戦争などは、醜い行動と言っても良いでしょう。この戦争に、多くの神々は参加していますが、エロスと同一視されているアフロディーテは参加していませんでした。
理由としては、おそらくですが、アフロディーテは天空の神であるウラヌスの一物が切り落とされて、海に落ちて泡となって誕生するのですが、その誕生したアフロディーテは、ギリシャには帰らずにキプロス島に行きます。

神々の起こした戦争は、アフロディーテキプロスに滞在中に起こっているものであって、その後、アフロディーテギリシャ神話に登場するようになってからは、神々による大きな戦争は起こっていません。
つまりアガトンは、美しさや愛や平和、相手への慈しみという概念であるアフロディーテと同一視されるエロスが不在だったので、神々による戦争が起こったが、エロスが戻ってきた事によって平和が訪れたということを言いたいのでしょう。
アガトンは、神々が戦争を起こしたのはアナンケという必然の神の仕業だといいますが、これは言い換えれば、価値観の違う者同士が同じ空間にいれば、争いが起こるのは当然だということです。

人であれ神であれ価値観が違えば、自分の価値観を押し通そうとし、それが対立構造を生んで、争いに発展するというのは必然で、避けられないことだけれども…
そこに、相手に対する思いやりであったり、慈愛の心、愛する心が宿れば、争いは回避できるということでしょう。

エロスはアレテー

この他のエロスの性質ですが、エロスは神に対しても人に対しても不正を行うことがなく、また、不正を行われることもないようです。
なぜならエロスは慈愛の象徴であるからです。愛する人を騙そうとする人間はおらず、愛する人の言う事に耳を貸さない人間もいないため、エロスが関わる取り決めは、全ての人が納得する形になります。
もし、このエロスを全国民が心に宿し、その状態で国の法律を決めようとすれば、その法律は全国民が納得できるものとなる為、正義となります。

なぜなら、法律とは平和を脅かす行動を規制する為のルールなので、全国民が納得して同意したルールということは、そのルールは全国民が守らなければならないと思っている象徴とも言えるため、それは正義となります。

この他にもエロスは、他の徳性を宿しているため偉大な存在だといいます。例えば神話の中でエロスは、勇気の象徴であるアレスから好意を寄せられ、彼を虜にしています。
この神話では、勇気は愛する者の前で振り絞られるものだというのを表しているのでしょう。慈愛に満ちた心を持つものは、何らかの脅威が現れた際に勇気を振り絞って行動を取るため、エロスは勇気を支配しています。

この他にも、エロスは知性を宿しています。人が恋に落ちた際には、気になる人に自分の思いを伝えるために、必死になって言葉を考えます。
自分の思いだけを伝えると重くなりすぎないだろうか、適切な距離感はどのようなものだろうか、自分の思いを伝え、尚且、相手からの興味を引くためにはどの様な言葉を紡げば良いのか。
この様に、人は愛情に支配されると必死に相手に伝える言葉を考え、詩人のように言葉を発します。

詩人といえば、古代ギリシャでは美しい言葉を美しい音色に乗せて、古代から伝わる知識を人々に伝える職業であった為、知性の象徴とされていました。
恋に落ちた人間は、学のあるなしに関わらず、必死に頭を働かせて詩人のように言葉を紡ごうとするため、エロスは知性をも支配していることになります。
この様にエロスは、自身の性質によって正義や勇気や知識を従わせ、更に、自身の性質として美しいものを好み、追い求めます。

これにより、この世界は、美しくなろうとします。

愛が世界を美しくする

正義は人間社会やそれを取り囲む環境が美しくなるために、その力をふるいます。正義の範疇としては、人間同士が決めたルールの範囲に限られますが、それ以外の脅威が迫ってきたとしても、勇気ある行動によって、その脅威にも立ち向かえるでしょう。
エロスが宿った知性によって生み出されたものは、それが知識であれ発明品であれ、この世を美しく変えるものとなるでしょう。

何故なら、正義であれ、勇気であれ、知性であれ、そのベースにあるのは愛情であり、慈しむ心です。
エロスは、その性質上、自分以外の他人がいないと成立しないものなので、それに支配されている正義や勇気や知性は、自分のことだけを考える利己的な状態では存在しません。
何故ならエロスは、自身が最大級の欲望でありますが、自身の行動を抑制できているため、最大級の節制を持っているからです。その為、常に自分以外の他人の事を考えた状態で正義は執行され、勇気は発揮され、新たな知識は生み出されます。

また、これらを支配するエロスは美の化身であるため、正義は美しい社会を実現するために存在し、勇気は美しいものを守るための美しい行動となり、知性は世界をより美しくするために発揮されるということです。
人が幸せになるために生まれてきたとするのであれば、美しい世界に住むのと醜い世界に住むのとでは、美しい世界に住む方が幸せでしょう。
エロスは、人が住む世界をその様な環境に変えてくれる為、偉大だとアガトンは主張します。

これで、ソクラテス以外の登場人物の主張が終わり、続いて、ソクラテスの主張に移りますが、それはまた次回に話していきます。

参考文献



【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第131回【饗宴】まとめ回(2) 前編

目次

注意

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。

▼▼Apple Podcast▼▼

podcasts.apple.com

▼▼Spotify▼▼

open.spotify.com

noteについて

noteにて、番組のサポートを受け付けています。応援してくださる方は、よろしくお願いします。
note.com

▼▼youtubeチャンネル登録はこちら▼▼

youtubeでは、音声コンテンツでは聞けないバックナンバーも聞くことが出来ます。
だぶるばいせっぷす - YouTubewww.youtube.com
youtu.be

前回のリンク

kimniy8.hatenablog.com

アリストファネスの主張

今回も、プラトンが書いた対話篇、饗宴の『まとめ回』となっています。
前回までで、パイドロスとパウサニアス、そして、医者であるエリュクシマコスの主張を紹介してきました。
今回はそれに続いて、アリストファネス、アガトンの主張を観ていきます。

まず、喜劇作家のアリストファネスの主張ですが、彼は、人間が今の形になる前の太古の話を始めます。何故、この様な話をしだすのかと言うと、人と人が惹かれ合う根本的な原因を考えるためです。
これまでに紹介してきた3人の意見では、男女間であれ、同性同士であれ、人が惹かれ合うことは当然で、その前提すら疑わない状態で、既に存在しているエロスについてあれこれ考えて主張していました。
その為、そもそも人々が何故、惹かれ合うのかというのが謎のままでしたが、アリストファネスは、そこに踏み込むために、人の起源の話を始めます。

人類の起源

彼の話によると、太鼓の人類は今のように頭が1つで手足が2本ずつという形をしておらず、今の人間が背中合わせに2人くっついたような姿をしていたようです。
つまり、頭が2つで手足が4本ずつある様な姿をしていて、性別も、男女・男男・女女の3種類があったといいます。この性別ですが、先程、この太古の人類は今の人間が背中合わせに2人くっついたような姿と言いましたが…
そのくっついている人間が、男と女。女と女。男と男がそれぞれペアでくっついているものと理解してください。

この太古の人間は、今の人間と比べものにならない程の力を持っていたそうで、移動の仕方も現在の人間とは違い、手足を放射線状に目一杯伸ばして玉のようになり、その状態で転がりながら移動していたようです。
何故、転がりながら移動するのかというと、それぞれの性別は、男男が太陽。女女が月、そして男女が地球と、それぞれ起源とする星を持っていて、それを真似て球体になって回転しながら移動していたようです。
この太古の人間ですが、先程も説明したように今とは比べ物にならない程の力を持っていたため、恐れ多くも神々にも勝てるのではないかと思い込み、神に挑戦をします。

しかし結果として人間は、神々の足元にも及ばず、人々は神の力を見せつけられることになりました。
神々は、この時点で反乱を企てた人間を殲滅しても良かったのですが、そもそも実体を持たない神々は、人間から信仰されていないと その存在を保てないため、殲滅することは辞めました。
その代わりに、人間を真っ二つに分割することで、今のような手足が2本で頭が1つの状態にしました。 それにより、人は神々を恐れ崇める様になり、数も倍に増えて信仰のエネルギーもより多く手に入れることができるようになったという話です。

人がパートナーを求める理由

このようにして、今の姿の人間が生まれたわけですが、この人間は、強大な力を持っていた当時の事を本能レベルで忘れることが出来ず、昔の姿に戻りたいと潜在意識で思い続けています。
アリストファネスは、その思いが行動に現れた結果、相手を探し求め続けると主張します。
人がパートナーとして求める相手は、太古の昔に、男と女でつながっていた人間は、互いに異性を求めて、女性同士や男性同士でつながっていた人間は同性のペアを見つけ、1つになることで昔の力を取り戻そうとします。

この説は、一見すると滅茶苦茶なようにも思えますが、人々が何故、惹かれ合うのかという理由を説明しています。
人々がパートナーを求める理由として、子孫を残すためだと断言する方もいらっしゃるでしょうが、それでは、同性同士のカップルは成立しないことになります。
しかし実際問題として同性愛は存在し、一部の国や宗教は厳格に規制しているにも関わらず、この対話篇が書かれてから今現在までの数千年間、同性愛は存在し続けています。

わからないなら分からないなりに仮説を立てるというのは大切なことで、この意見はそれを行っているという点では聞くべき意見と言えるのでしょう。

神そのものを研究する

続いての主張を述べるのは、アガトンです。アガトンも、アリストファネスと同じ様に仕事で劇作家をしていますが、アリストファネスが喜劇だったのに対し、アガトンは悲劇作家です。
彼は、これまでにエロスについて賛美してきた者は、神が与えた祝福を受けた人間について話してきたのであって、神そのものを賛美したものはいないと指摘します。
これまでの主張を振り返ってみると、たしかに、エロスの生まれた順が早いとか、欲望の象徴であるエロスは、欲しているモノの善悪によって、天のアフロディーテと俗のアフロディーテに別れるとか…

いや、そうではなく、エロスは天と俗の2つに分かれず、本質は同じものなので、欲望をうまい具合に操作する技術を学べば、良い流れに持っていける。
その為、人間がすることは、欲望を操作できるようになるために、欲望そのものを分解して研究していくことの方で、結果として、学問が生まれたといった意見でした。
こうしてみると、たしかに、エロスがもたらす効果に対して褒め称えてはいますが、エロスそのものについては語られていません。

これまでに登場した者たちは、エロスは神で、美や慈愛という分野では究極の存在であるという前提があるため、敢えてこの部分に触れるとうことはしなかったのかもしれません。
しかしそれでは、権威主義の思考停止と同じです。 つまり、あの偉い教授が言っているんだから、それが絶対に正しいとして思考停止しているのと同じなのです。
例えば、古美術の偉い先生が、『この作品は素晴らしい』とお墨付きを与えたから、自分自身ではその作品の美しさに何も気づいていないのに、偉い先生を盲信して高い金を出して美術品を買うのと同じです。

評価者を評価する

この場合は、その美術品の美しさの基準は、偉いとされる先生に完全に依存しています。
逆に考えれば、その偉いとされている先生が実際には実力が全く無く、目が節穴だけれども、周りが盲目的で思考停止しているがために、みんなから偉いと思われているだけの人物だった場合、その美術品の価値は無いことになります。
何故なら、皆から煽てられているだけで、審美眼がない目が節穴の人物が良いといっているだけの品物だからです。

これはエロスも同じで、エロスを伴う行動を取ると神々が祝福してくれるから、エロスが伴った行為は美しいとか優れているという理論の組み方では、神々の評価が信用できない場合は、その前提が崩れてしまいます。
この様に理論を組み立てるのであれば、まず、前提となっている神が下す評価が絶対的に正しいことを証明してから出ないと、説得力がありません。
そこでアガトンは、何故、エロスや神そのものが優れていて卓越しているという事を、証明しようとします。

若いものは美しい

アガトンがいうには、エロスが尊い理由として、神の中で一番若く、故に美しいと主張します。
若いということは、神の中で一番最後に生まれたのかというと、そうではなく、神は概念的な存在であるため、人と同じ様な時空で過ごしてはいないため、時間と距離を取ることで年老いること無く過ごしてきたようです。
何故、一番若いと美しくなるのかというと、年老いたものが醜いという考え方があるからです。

経年劣化という言葉がありますが、物質であれ生物であれ、若い状態のものはそれだけで美しいという考え方は、どこの世界でも共通してあります。
例えば日本でも、寺院などの一部では、完成したときが一番美しいので、敢えて完成させないように柱を一本だけ逆さまにして取り付けて、永遠に完成しない状態で納品するというのがあるぐらいです。
この世に生まれたものは時間の経過と共に劣化して醜くなっていくため、逆に考えれば、その時間という概念そのものから距離をとっているエロスは、劣化せずに美しい状態をキープできていることになります。

参考文献



【Podcast #カミバコラジオ 原稿】第60回【財務・経済】複式簿記(2)

目次

注意

この投稿は、私が配信している Podcast番組『カミバコラジオ』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。

▼▼Apple Podcast▼▼

podcasts.apple.com

▼▼Spotify▼▼

open.spotify.com

note

noteにて、番組のサポートを受け付けています。応援してくださる方は、よろしくお願いします。
note.com

▼▼youtubeチャンネル登録はこちら▼▼

https://www.youtube.com/channel/UCqx0z_3n3tBH450v8CtNoUg
youtu.be

前回はこちら

kimniy8.hatenablog.com

複式簿記とは


今回も前回と同じ様に、複式簿記について話していきます。
前回までに話してきた複式簿記の復習を簡単にすると、複式簿記とは複数の帳面をリンクさせて作っていく帳面です。
複式簿記の知識を全く持たない方にとっては、この概念を理解するというのが最大のハードルとなると言ってよいほど難しいですが、これを乗り越えると簿記的な考え方ができるので、頑張ってみてください。

複数の帳面とは、身近な例で言えば現金の出入金を記録するための帳面であったり、銀行取引を記録した帳面のことです。
複式簿記ではこの他に、水道光熱費だけを記録した帳面や接待交際費の記録だけを書き出した帳面などが存在します。
ここで例を出した現金や銀行預金・水道光熱費・接待交際費の事を勘定科目と呼びますが、複式簿記では勘定科目ごとに帳面を作ると考えてもらって良いです。

それらをリンクさせていくのが複式簿記ですが、全て手作業で帳面を書いていた昭和の時代とは違い、現代では会計ソフトを使うことで『振替伝票』というのを書くだけで、勝手に何十冊もの帳面をソフト側が作ってくれます。
この振替伝票の書き方ですが、左が借方で右が貸方と呼ばれていて、双方に適切な勘定科目を書いて、それぞれの金額を記入していきます。 ちなみにこの金額は、左右で同じ金額となります。
この勘定科目の記入ですが、右左のどちらにどの勘定科目を書けば良いのでしょうか。

複式簿記を行う目的


複式簿記の第一難関が複式簿記の概念の理解だとすると、次の関門がこの、『どちらに何の勘定科目を書けば良いのか』問題となります。
この問題を正しく理解するために必要となるのが、貸借対照表損益計算書となります。
この2つの表は、複式簿記で帳面を作った後に、結果として最終的に落とし込まれる物です。 つまりは、複式簿記をつける作業とはこの2つの表を作るために必要な作業ということです。

複式簿記の最終結果がこの2つの表に落とし込まれるということは、この表を理解することで、勘定科目そのものを理解することが出来るということです。
それぞれの表の詳しい解説は別の機会に行いたいと思いますので、今回は、この2つの表と勘定科目の関係について話していきます。
貸借対照表については前回にも簡単に説明しましたが、今回も復習がてら簡単に触れていくと、貸借対照表は左が資産、右側が負債で構成された表で、この左右の金額は完全に一致することになります。

貸借対照表


右側の負債をさらに細かく見ていくと、負債は他人から借金をしている借入金と、投資家から投資を受けている純資産から構成されています。
両者の違いとしては、借入金がいずれ返済しないといけないお金なのに対し、投資家からの投資金額である純資産は返済の必要がない金です。
返済不要と聞くと投資を受けるほうが良いようにも思えますが、会社は投資した人の持ち物となるため、全額投資を受けて起業をした場合、あなたはオーナーではなく雇われ経営者となり、会社のオーナーは出資者となります。

出資を行けれる場合は雇われ経営者になることが出来ますが、成功するかしないか分からない事業に投資する人間はいないので、起業する場合は投資金額を全額自分で用意する必要があります。
この場合は、起業した会社は100%自分が出資した会社となるため、自分が経営者でありオーナーとなります。
この様な感じで純資産とはオーナーから借りている金であり、会社とはオーナーの所有物なので、結果として、純資産はオーナーが自分の会社に貸し出している金とも、オーナーの持ち分とも言える存在となります。

貸借対照表(2)


この貸借対照表ですが、左右に書き込まれる勘定科目は決まっていて、1つの勘定科目を右に書いたり左に書いたりすることはありません。 例えば資産である銀行預金は、絶対に左の資産の部に書くものであり、右に書くものではありません。
逆に借入金である借金は、絶対に右に書くものであり、左に書くことはありません。
ここで間違えてほしくないのは、現金は絶対に左の資産の部、借金は絶対に右の負債の部に書くというのは、貸借対照表上での話だということです。

簿記で実際に帳面を作る際に振替伝票を書く場合は、現金を右に書く場合も借金を左に書く場合もあります。 あくまでも、貸借対照表上では、資産である現金は左で、負債である借入金は右だと覚えてください。
何故、貸借対照表上での記載の場所を覚えないといけないのかというと、この場所が勘定科目を書く場合の基準になるからです。
基準とはどういうことなのかというと、左の資産の部にある勘定科目を振替伝票の左、つまりは借方に書いた場合は、その勘定科目の残高が増えます。逆に右の負債の部に属する勘定科目を振替伝票の右に書けば、残高が増えます。

こうして覚えていくと、比較的イメージしやすくなると思います。 貸借対照表の左にあるものを振替伝票の左に書くと残高が増える。 同じ様に右にあるものを右に書けば残高が増える。
逆に、貸借対照表の左にあるものを右側に書くと、その勘定科目の残高は減少する。 同じ様に貸借対照表の右にあるものを振替伝票の左に書くと、その勘定科目の残高は減ります。

振替伝票の具体例


具体例として、銀行から100万円借りてきた場合を考えていきます。
銀行から借金をすると銀行からの借入金は増加します。借入金は貸借対照表の負債の部、つまりは右側にある勘定科目なので、借入金の残高を増やしたい場合は振替伝票の右側に『借入金』という勘定科目を書き込みます。
一方で、銀行から100万円の借金をすると、100万円の現金が増えます。 銀行からお金を借りてきているわけですから、当然ですよね。 借金の総額が増えて、代わりに現金が自分の手元にきます。

現金は貸借対照表の資産の部、つまりは左側の勘定科目なので、現金が増える場合は振替伝票の左側に現金を記入します。
そうすると、振替伝票には左・借方に勘定科目の『現金』がきて、右側・貸方に勘定科目の『借入金』が来ることになります。
では金額はというと、借金が100万円増えて手元にある現金が100万円増えるわけですから、貸方借方双方に100万円と書き込みます。

結果として、左の借方は勘定科目『現金』100万円となり、右の貸方は勘定科目『借入金』100万円となり、左右の金額も一致します。
この様に、貸借対照表に記入されている勘定科目の位置を覚えるだけで、借方貸方に何を書き込んでいけば良いのかがわかります。

損益計算書


では次に、もう1つの表である損益計算書と勘定科目について見ていきます。損益計算書とは簡単にいえば、会社の利益をあらわした表です。
会社の利益の構造をものすごく大雑把に説明すると、会社の利益とは収益から仕入れや経費を差し引いて残ったものです。
収益というのは、自分たちが提供したモノやサービスの対価である売上高や、資産運用をしている場合はその利息や配当などのことで、会社の収入だと考えてもらえれば良いです。

この会社の収益から、仕入れ代金や水道光熱費、人件費といった費用を差し引いて残ったものが利益となります。 この利益も複数に分かれるのですが、それはまた別に機会を設けて話していきます。
損益計算書には、大雑把に言うと収益と費用が記載されているわけですが、この内の費用については振替伝票の借方である左側。収益については右側である貸方に書いていきます。
この覚え方ですが、貸借対照表の純資産の位置とリンクさせて覚えると覚えやすいと思います。

純資産は先ほども説明しましたが、会社側から見ればオーナーからの借入であり、オーナー側から見ればその会社の所有者はオーナー自身なので、自分の資産と考えることが出来る物です。
会社が行っている事業が利益を出すとオーナーが儲かるというのはイメージしやすいと思いますが、簿記的に見れば、会社の所有者であるオーナーの資産である純資産額が増えるからオーナーが儲かると言い換えることも出来ます。
では、その会社の利益はどのようにして計算されているのかというと、これは先程も言いましたが、収益から費用を差し引いた残りです。

損益計算書と勘定科目


会社の利益を出してオーナーの資産を増やす処理を経理上でしようと思うのであれば、貸借対照表の右側にある純資産の項目が増えなければなりません。
この2つの条件、会社の利益が増えれば貸借対照表の右側にある純資産が増える。利益は収益から費用を差し引いたもの。というのを同時に満たそうと思うと、収益は右の貸方、費用は左の借方に書く必要が出てきます。

収益と費用の差額が右側に来るので、黒字が出て右側の純資産額が増えると考えると、右側の方が数字が大きくならないと、駄目だということになり、数字の大きな収益が右に来ると考えます。
勘違いしないで欲しいのですが、これは振替伝票を実際に書く際の話とは全く別だということです。何度も言ってますが、振替伝票は左右の金額は一致するので、どちらかかが大きくなるなんてことにはなりません。
先ほどから説明している考え方は、あくまでも収益と費用を振替伝票のどちらに書くのかという覚え方として説明しているだけです。

実際に振替伝票に起こす際には、単純に収益から費用を差し引くという方法では行わず、もう少し段階を踏んで利益を出しますが、その話はもう少し簿記の理解が進んでからしようと思っているので、今回は、収益は右、費用は左だというのを覚えてください
損益計算書の勘定科目については、大部分が貸借対照表に登場する勘定科目と共に登場するので、先に貸借対照表の勘定科目を書いてから、損益計算書の勘定科目を書き込むという方法でも良いと思います。

具体例を出すと、商品が売れて現金を受け取った場合で考えると、売上という勘定科目は収益になるので右側に書き、現金は損益計算書の左側にある資産で、これを受け取るということは現金残高が増えるので、勘定科目の現金は左に書きます。
売り上げた金額と受け取った金額は同じなので、左右の金額は一致します。

振替伝票の書き方のまとめ


まとめると、貸借対照表に属する勘定科目に関しては、資産の部にある勘定科目が増加する場合は振替伝票の左に記入し、減少する場合は右。
逆に対照表の右側にある負債の部に属する勘定科目が増える場合は振替伝票の右側に記入し、減少する場合は左に書く。

損益計算書に属する勘定科目に関しては、収益と費用の2つに分けて、収益の増加に関しては右、費用が発生した場合は左に書きます。
これで、複式簿記の書き方についての説明は終わりです。
次は、今回も登場した費用に関して話していきます。

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第130回【饗宴】まとめ回(1) 後編

目次

注意

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。

▼▼Apple Podcast▼▼

podcasts.apple.com

▼▼Spotify▼▼

open.spotify.com

noteについて

noteにて、番組のサポートを受け付けています。応援してくださる方は、よろしくお願いします。
note.com

▼▼youtubeチャンネル登録はこちら▼▼

youtubeでは、音声コンテンツでは聞けないバックナンバーも聞くことが出来ます。
だぶるばいせっぷす - YouTubewww.youtube.com
youtu.be

前回のリンク

kimniy8.hatenablog.com

パウサニアスの主張

次に、パウサニアスの主張ですが、彼は、エロスは1柱ではなく2柱いると主張します。この両者の違いは出生の違いです。
何故、同じ神で出生の違いがあるのかというと、神話を語り継ぐ者によって、その内容が少しずつ変わっていくからです。
神話は今のキリスト教の聖書のように、本に書かれていて、それが信者のもとに配られて広まっているわけではありません。吟遊自身が音楽に乗せて詩として広めたものです。

吟遊詩人の仕事は布教活動ではなく、音楽を奏でて歌を歌うことを生業にしていた人気商売だと思われますので、神話をより魅力的にして、自分の作品を聞いてもらいたいという思いから、今で言う二次創作が活発だったのでしょう。
その為、同じ神でも出生の違うものがギリシャ神話やローマ神話などでは多く登場します。
エロスや、それと同一視されているアフロディーテもこれに当てはまり、生まれ方が2種類存在します。1つ目は、パイドロスが先程主張した、ウラヌスから分離した説です。こちらの方を、天のアフロディーテと呼びます。

もう1つは、ゼウスとディオネの間に生まれた娘であるアフロディーテです。ゼウスは、有名な神様なのでご存じの方も多いと思いますがディオネは初めて聞かれた方も多いと思うので説明すると…
まずこの神様も、出生のエピソードが1つではなかったりします。一説ではウラヌスとガイアとの間に生まれた巨人族の娘と言われていたり、オケアヌスという海の神様の娘と言われている存在です。
このディオネは、ゼウスと結婚しない場合は奈落の神であるタルタロスと結婚するという説もあります。ゼウス自身も、浮気グセが酷い神様ですし、その神との間に生まれたアフロディーテということで、俗のアフロディーテとします。

天と俗のアフロディーテ

この、天と俗のアフロディーテですが、両者が等しく素晴らしいわけではなく、素晴らしいのは天のアフロディーテのみとします。
この理由としては、天のアフロディーテは男性神のウラヌスの1部分が変化したものですが、俗のアフロディーテにはゼウスとディオネという男女の神の子供として誕生しているため、男女の性質が含まれていることになります。
パウサニアスは、これが問題だと主張します。 何故、男性神の一部が変化したものは尊いが、男女の性質を併せ持つものはそうでもないのかというと、愛情を概念として考える場合に、不純物が混じり込んでしまうからでしょう。

不純物とは、尊敬に値しない欲望のことです。 例えば、相手を尊敬してもいないのに、相手と手っ取り早く性行為をしたいからとか、子供が欲しいからという理由だけで結婚する人たちは一定数、存在します。
こういう人たちは、例えば、単に性処理をしたいと思うのであれば、できるだけ騙しやすい頭の悪い人を捕まえようと思うでしょうし、子供だけが欲しい人は、将来を考えるなら、相手の持つ家柄や資産の有無について考えるでしょう。
そういう人生や欲望を否定するつもりはないですが、その行為と、今回議題に上がっている、称えるべき愛情であるエロスとを分けるために、称えるべきではないエロスの象徴として、俗のアフロディーテという概念を生み出したのでしょう。

この対話編では、男女間の恋愛では俗のアフロディーテの要素が強く、同性愛では天のアフロディーテの要素が強いと説明していますが、これは当時の文化も影響しているでしょうし、わかり易さのために極端な表現をしている可能性もあります。
その為、この話は男女間の恋愛だから否定されて、男性同士の恋愛だから尊いというわけでは無いという点に注意してください。
欲望には、称えるべき欲望と軽蔑される欲望があり、称えられるべき欲望とは、アレテーを宿したものだけで、低俗なものを目的とした恋愛は称えるにに値しないということです。

相手のどこが好きなのか

では、どの様なエロスが称えられて、どの様なエロスが軽蔑されるのか。例え話で説明すると…
例えば、好きになった相手の両親に挨拶に行く場合で考えてみると、親に『何故、この子を選んだんだ?』と聞かれた際に、実家が裕福で金を持ってそうだったからとか、顔が好みのタイプだったからとか…
頭が悪そうで、すぐに騙せそうだったからとか、抱き心地が良かったからなんて答えたら、相手の親に張り倒されますよね。

一方で、知的で物の考え方が素敵だとか、欲望を抑える節制を備えているとか、曲がったことが嫌いで、不正があれば相手が誰であろうと、勇気を持ってそれを正すために立ち向かっていけるところを尊敬していると言ったら、どうでしょうか。
この様な、アレテーに属する知性や節制、勇気や正義といった部分を持っていて、尊敬できるから一緒にいたいといった場合は、相手の親も悪い気はしないでしょうし、むしろ応援しようと思うでしょう。
この両者は、欲しい物を手に入れたいという点でいえば、その気持ちは共通していますが、手に入れたいと思っている目的の属性の違いによって、相手に与える印象が変わっています。

この様に、エロスには称えるべきものと軽蔑すべきものの2種類あるというのが、パウサニアスの主張です。

エリュクシマコスの主張

次に、エリュクシマコスの主張ですが、彼は職業が医者なので、その立場や考え方をエロスを考える際のベースにしています。
彼はまず、人間の体の状態を二種類に分けるところから始めます。一つは健康な状態で、もう一つは病気の状態です。
この二種類の状態は相反する状態と考えることも出来ますが、この相反するそれぞれが、エロスである欲求を発して意識に訴えかけてきます。

例えば、水が飲みたいとか食べ物を食べたい。睡眠を取りたいであったり体を動かしたいといった感じで、欲求を出し、人の意識がその欲求を聞き入れる形で人は行動を取ります。
しかしその欲求は、もとを辿れば、健康的な部分が出している欲求と、病気の部分が出している欲求に分かれているということです。
そして当然ですが、耳を傾けなければならない欲求は、健康的な部分から発せられている欲求だけで、病気の部分から発せられている欲求は無視すべきです。

例えば、風を引いて食事を取りたくないという場合、その体の欲求を素直に聞いてご飯を食べずにいれば、体力はどんどん削られていくことでしょう。
アルコール依存症の人が、体の欲求に応える形でアルコールを飲み続ければ、症状はどんどん悪化していくでしょう。

エリュクシマコスに言わせれば、医者という職業の本質は、患者の欲求が健康な部分から出ているのか、病気の部分から出ているのかを見極めることだと主張します。
また優秀な医者は、体のそれぞれの部分が発する欲求をぶつけて消し去ったり、別の方向へと変えたり、欲求がないところに欲求を発生させることが出来ると言います。
これは簡単に言えば、風邪を引いた時に解熱剤を処方して、食欲が増進されるように対処するといった感じでしょうか。

エロスは調和をもたらすもの

またエリュクシマコスは、これらの本質的な部分は、医者だけが備えた能力ではないとし、ヘラクレイトスの主張を引用します。
ヘラクレイトスの主張とは、『一なるものは、自分自身と合致していないのに、自分自身と調和している。それはまるで、竪琴が生み出す調和のようなもの。』という主張です。
この言葉の解釈ですが、おそらくは、本質的に同じものが別々の表現をすることで、別物と認識されている場合、本質的には同じものなのだから、組み合わせることで調和をもたらすことが出来るということでしょう。

対話篇に登場するたとえ話で説明をすると、竪琴を奏でた時に生まれる音は、音それぞれを分割して捉えると、高い音や低い音といった具合に、正反対の音色が存在します。
しかし、大本を辿ると、1つの竪琴から奏でられている音なので、演奏技術が高いものが奏でれば、相反する音も和音となって、エロスが宿る美しい音色を奏でるということでしょう。
ここで発生したエロスは、パウサニアスが主張したように、天と俗のアフロディーテというように、2つに分かれることはありません。

何故かといえば、エロスはパウサニアスの主張するように、最終到着地点としての目標が明確にあり、その目標に向かうエネルギーとして欲望という名のエロスが生まれるわけではないからです。
優秀な医者が患者を治すように、優れた演奏者が音楽を奏でるように、手段を実行しているその瞬間にエロスは表れるのであって、目標に依存するものではないということです。
目標に依存しないため、目標の善悪によって、エロスが天と俗の2つの属性に別れることもありません。

エロスは学問

ですがエリュクシマコスは、パウサニアスの主張を完全には否定せず、エロス自体は手段に宿るものだけれども、技術を伴っていないものが手段を実行した場合、結果は2通りに別れると言います。
例えば、医者が診察して手術をしたが、医者の腕が未熟であったために、病気を治せなかったり、誤診でそもそも必要がないのに手術をしてしまったとか、それによって患者の様態を悪化させてしまうという具合にです。
こうして考えると、エロスを宿すためには勉強をしたり技術を磨いたりと、その分野に対する研究が欠かせないことになります。

つまり、エロスを体現する為には、この世界のことを探求して解き明かしていく必要がある。 言い換えるのなら、この世を科学的に解明し、物事の善し悪しを判断できる技術を身に着けなければならないということになります。
その様に考えると、エロスはこの世に科学技術を生み出し、現状の人間社会をも生み出した概念であると言えることになり、エロスは尊いと主張します。

次は、アリストファネスの主張なのですが、それはまた次回に話していこうと思います。

参考文献



【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第130回【饗宴】まとめ回(1) 前編

目次

注意

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。

▼▼Apple Podcast▼▼

podcasts.apple.com

▼▼Spotify▼▼

open.spotify.com

noteについて

noteにて、番組のサポートを受け付けています。応援してくださる方は、よろしくお願いします。
note.com

▼▼youtubeチャンネル登録はこちら▼▼

youtubeでは、音声コンテンツでは聞けないバックナンバーも聞くことが出来ます。
だぶるばいせっぷす - YouTubewww.youtube.com
youtu.be

前回のリンク

kimniy8.hatenablog.com

饗宴について

今回から、饗宴のまとめ回を行っていきます。 この饗宴という作品でテーマとなっているのはエロスです。
饗宴というのは、みんなで集まって楽しく騒ぐ宴会と同じ様な意味ですが、この対話編では、宴に集まった複数人の人たちとエロスを称えるゲームを行います。
ゲームでは、参加者一人一人がエロスの素晴らしさを称えていき、誰が一番うまくエロスを称えることが出来たのかで勝敗を決めます。

参加者の登場人物は、それぞれ違った説で持ってエロスを称えるため、このゲームにより、エロスという1つのものを多面的に分析することができるというわけです。
本題に入る前に、一つ注意をしておきますと、エロスという言葉は、日本では性的な意味で使われることが多いですが、ここで議論されているエロスは、恋愛や欲望に絡むすべての要素を含んだ概念です。
人が心を奪われる場合には美しいと感じるわけですが、では、その美しさとは何か、何が人の心を動かすのかといった事全般が、エロスという概念です。

パイドロスの主張

では早速、1人目のパイドロスの主張を観ていきますと、彼は、エロスの化身とされる神様の誕生が早いから、エロスは偉大だと主張します。
ギリシャ神話では、まず最初に全ての要素を含む概念である混沌があり、そこから様々な神が分離する形で誕生したと考えられています。
まず、全ての命を育む地母神としてのガイアが生まれ、ガイアが生まれたことによって空の神であるウラヌスが生まれます。

つまり、何もない空間に大地とそれ以外を分ける概念である地平線が生まれたことによって、大地と空が生まれたということです。
この神々は、子供を生むことで次の世代を残していきますが、エロスの誕生は特殊で、ウラヌスの一物が切り落とされて、それが海に落ちるて泡になった後に、その泡が美の女神アフロディーテになりました。
つまり、ウラヌスの性的な部分が分離して生まれたのがアフロディーテとなり、アフロディーテはウラヌスの子供ではなく分身であるため、ガイアとウラヌスの子どもたちよりも序列としては上ということになります。

パイドロスは、エロスとアフロディーテを同一視しているため、エロスは生命の象徴である大地の次に生まれた概念であるため、偉大で尊いと主張します。
またエロスは、人間の魂に関わる概念としては、一番最初に生まれています。魂というのは、わかりにくければ精神と言い換えても良いと思います。
人間が、自分の外側の世界の情報を受け止めて、何かを感じる、何かを考える、そして、行動する為の意思を生み出すものが、魂であったり精神で、この精神に関わる神は沢山いますが、一番最初に生まれたのがエロスというわけです。

様々なエロス

ここでまた、注意点としていっておきますが、エロスというのは愛情や慈愛や美しさの神とされていますが、この神は様々な神と同一視されています。
例えば、パイドロスの主張では、美の女神であるアフロディーテと同一視されていますし、後にローマ神話でクピドと呼ばれる恋愛の神様とも同一視されています。このクピドは、その後、言葉がなまってキューピッドとなります。
アフロディーテは、その後ヴィーナスと名前を変えて、ルネッサンス期に様々な絵画で表現されたりします。

これらの別々の名前で表現される神々ですが、なんとなく共通したイメージが有ると思いますが、その共通はしているけれどもフワッとしている概念を言語化しようというのが、今回の対話篇の試みです。
エロスの定義であったり、その定義されたエロスが人々や、人が作る社会にどの様な影響を与えているのかを考える行動を、エロスを称えると表現しています。

人は好きな人の前では強くあろうとする

話を戻しますと、パイドロスはエロスが人の精神に一番大きな影響を与えている理由として、恥をかかされた時に一番感情が揺れ動くのは、恋愛が絡んだときだけだと主張しています。
例えば、会社で同僚の前で恥をかかされた場合。親が子供の前で恥をかかされた場合と、逆に子供が親の前で恥をかかされた場合。そして、好きな人の前で恥をかかされた場合とをくらべると、一番、感情が揺れ動くのはどれかというと、好きな人の前です。
そして、愛の為に命をかけて行動を起こせば、神々の心すら動かすことができるといいます。

この主張に則れば、男性同士のカップルで軍隊を作れば、兵士はパートナーに格好悪いところを見せたくないと思い、また、パートナーが窮地に落ちれば、命がけで助けるわけですから、神々の祝福を受けて最強の軍隊が作れることになります。

エロスに命を捧げれば神から祝福される

何故、愛のために命をかければ、神々の祝福を得られるのかというと、そういう神話が数多く残っているからです。逆に、対価を出し惜しんで愛するものを手に入れようとする行為は、神々から軽蔑されます。
例えば、愛する夫の寿命を伸ばすために、自ら身代わりとなって死神のもとへ行った妻のアルケティスは、ヘラクレスによって助けられ、再びこの世に戻ってきています。

別の神話の話をすると、トロイア戦争で活躍したアキレスは、事前に母親から、『親友のパトロクロスが命を落としても、仇討に行ってはいけない、もし行けば、あなたが命を落とす。』と事前に予告をされていました。
しかし、パトロクロスヘクトールに殺されたのを知って、感情を抑えられなくなり、死ぬと分かっている状態でヘクトールに対して向かっていきます。
その行動に感動した神々は、アキレスに神がかり的な力を与え、アキレスはヘクトールを倒すことに成功します。しかしその後、予言通りに、ヘクトールの弟のパリスに弱点であるアキレス腱を弓矢で射抜かれて、それが元で命を落としてしまいます。

結果としては死んでしまいましたが、その直前までは神の祝福を受けて、敵討ちをするという願いを成就させています。
一方で、死んでしまった自分の愛する妻を生き返らすために、何の犠牲も代償も支払わないオルフェウスは、神々から軽蔑され、願いがもうすぐ叶うかもしれないという状況でそれをぶち壊され、その後、悲惨な最後を迎えています。
つまり、愛情に対して価値を起き、それを手に入れるためにあらゆる犠牲を払う覚悟で行動する人間は、神も認める偉大な人間だといっているわけです。

パイドロスの主張 まとめ

パイドロスの主張をまとめると、まず、概念として最初期に誕生し、人の精神というカテゴリーでは一番最初に生まれたから、エロスは尊いと主張します。
神々が誕生する順番が重要なのは、神話に置いて神々が生まれた順番は、世界にとって重要度が高い順だと思われていたからでしょう。
そのようにして世界は生まれ、その世界に生まれた人間や神々は、当然のようにエロスに支配されているため、その支配は人や神々の行動に表れることになるということです。

参考文献



【Podcast #カミバコラジオ 原稿】第59回【財務・経済】複式簿記 

目次

注意

この投稿は、私が配信している Podcast番組『カミバコラジオ』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。

▼▼Apple Podcast▼▼

podcasts.apple.com

▼▼Spotify▼▼

open.spotify.com

note

noteにて、番組のサポートを受け付けています。応援してくださる方は、よろしくお願いします。
note.com

▼▼youtubeチャンネル登録はこちら▼▼

https://www.youtube.com/channel/UCqx0z_3n3tBH450v8CtNoUg
youtu.be

前回はこちら

kimniy8.hatenablog.com

複式簿記とは


前回までは、マーケティングといった売上面を中心とした経営に関することをお伝えしてきましたが、今回からは経済的なものをメインに据えて話していきます。
最初のテーマは、複式簿記です。

複式簿記経理や簿記の資格を持っていない人に取っては馴染みのないものだと思いますが、経済を理解する上では必須の知識ですので、ここから始めていきます
なぜ、複式簿記が必須の知識なのかというと、会社の状態を書き記したり読み解いたりする為に必要なのが、複式簿記だからです。
経済というと、日本経済新聞にかかれているような記事や、株式関連の経済ニュースを想像する方も多いと思いますが、ではこれと簿記がどのように関係があるのでしょうか。

先程も言いましたが、簿記とは現在の会社の状態や事業の収支の状態を確かめる為につけるものです。 そして経済とは、その会社や会社が行う事業の結果をまとめたものです。
つまり、経済というマクロ的なものを分解して小さな規模にしていくと、最終的には1つの会社が行っている事業に行き着くということです。
その事業の内容を詳しく見ていこうと思うと、複式簿記の知識が必要になります。

複式簿記


ということで早速、複式簿記について見ていきます。
これをお聞きの皆さんの中には、小遣い帳や家計簿をつけている方もいらっしゃるかもしれませんし、銀行預金を持っている方は、これまでの出入金の記録が残っている預金通帳を持っていると思います。
それらは、小遣い帳の場合は現金が、預金通帳の場合は銀行預金がベースになっているもので、それのみで完結した帳面といえます。

複式簿記とは、それらのように単体で完結する帳面ではなく、複数の帳面をリンクして作っていくものとなります。 言葉の頭に『複式』というのがついているのはそのためです。
では、帳面をリンクしていくとはどういうことなのでしょうか。

先ほど例に出した小遣い帳と銀行預金をリンクさせて説明すると、仮に銀行預金が100万円あったとして、そこから20万円引き出すと銀行預金の残高が20万円減少し、残高は80万円となります。
その一方で、銀行預金から現金を引き出したわけですから、現金は20万円増えることになります。つまり、銀行預金が20万円減少し、その分、現金が20万円増えたわけです。
これは、一方の資産が減って、もう一方の資産が増えたことを意味しますが、この場合は両方とも資産であるため、資産全体でみると-20万+20万=0となり、資産の変動はないことになります。

当然ですよね。自分の持っている預金を現金に変換しただけなので、この行為では利益も損失も発生しません。 トータルとしての自分のお金は同じで変動はないということです。
この様な金の動きをそれぞれバラバラの帳面につけていき、それらをリンクさせていくのが複式簿記です。
ちなみに、今回登場した現金や銀行預金というのは、簿記の世界では勘定科目と呼びます。

帳面をリンクさせる


複式簿記では、全ての取引を最終的には勘定科目に落とし込み、その勘定科目ごとに帳面を作り、それらの帳面をリンクしていきます。
リンクしていくというと作業が増えるような印象を持たれそうですが、実際には複数の帳面を作った時点で帳面はリンクされます。
例えば、先程の例では銀行から20万円下ろしたことによって、銀行口座が20万円減少して現金が20万円増えましたが、この引き出した20万円の一部でガスや電気・水道代を支払った場合、その支払金額は水道光熱費という勘定科目にいきます。

仮に、電気・水道代・ガス代の合計が10万円だった場合、これらの勘定科目は水道光熱費となるため、現金が10万円減って水道光熱費が10万円増えることになります。
この水道光熱費は、当然ですが自分の資産ではないため、現金という資産から水道光熱費にお金が移動すると、その金額分は自分の資産が減少することになります。
会社の場合は、この水道光熱費は経費という扱いになるので、経費が増えれば増えるほど、資産は減少していく事になります。

振替伝票


以上が、簡単な複式簿記の説明ですが、なんだか面倒くさそうなイメージを持たれた方が多いかもしれません。 会社としての活動をするだけで、全ての勘定科目、何十冊もの帳面をつけるのは、確かに面倒くさそうです。
ただ、現在では何十冊もの帳面を別々で制作する必要はありません。会計ソフトを使えば、振替伝票を作り、そこに勘定科目同士をリンクさせた結果を書き込んでいくだけで、勝手に何十冊もの帳面が作られます。
では、その振替伝票はどのように書いていくのかというと、資産が増える場合は左側に増える資産の勘定科目を書き、資産が減少する場合は右側に減る資産の勘定科目を書いていきます

先程の例の銀行から現金を引き出す例でいえば、現金が増えるので左側に現金と書き増える金額を書き込み、銀行預金は減少するので右側に銀行預金と書き減少する金額を書きます。
この左右ですが、それぞれ名前がついています。 左が借方で、右が貸方となります。
この貸方借方ですが、覚え方としては、物を貸すと手元の物がなくなるので貸方がマイナス。 物を借りてくると今まで無かったものが自分の手元に来て増えるので、借方がプラスと覚えると覚えやすいと思います。

資産がプラスに成る際は左、つまりは借方に勘定科目を記入し、資産がマイナスになる際には右側、つまりは貸方に勘定科目を記入し、それぞれ金額を書き込みます。
この金額ですが、左右は基本的には同じ金額になります。 先ほどの銀行からお金をおろしてきた例で言えば、銀行からおろしてきた金額と手に入れた現金は同じ金額となります。
これが同じになっていないと色々と問題が出てきますので、左右の金額は絶対に合うというのは覚えておきましょう。

貸借対照表


ところで、先ほどから資産という言葉が出てきていますが、この資産とは何なんでしょうか。
簿記の世界の資産という言葉を理解するためには、貸借対照表、別名バランスシートの理解が必要になってきます
バランスシートとは何なのかというと、会社の財務面での状態を1枚のシートで表したものです。

左側に資産の一覧が書かれていて、右側には負債と純資産の合計金額が書かれています。
資産とは、会社が持っている現金化出来るとされている全ての物のことを指します。
先ほどから例として出てきている現金や銀行預金はもちろんですが、他に土地などの不動産や株式などの金融資産を持っていれば、それももちろん資産となります。

この他には、営業や配達に車が必要だから買ったとした場合、当然、その車も資産となりますし、工場でモノを生産するための製造機械も資産に含まれます。
負債とは、簡単に言えば借金のことです。 借金の合計金額が負債の合計金額になると考えてもらえれば良いでしょう。
最後に純資産ですが、これは会社のオーナーが持つ資産のことです。

純資産とは


なぜ、純資産が負債側に含まれているのかというと、純資産とは会社のオーナーが投資している金だからです。
投資というのは資金調達の手段のひとつで、借金のように金利を支払う必要がない代わりに、会社が利益を出せば、その利益は全てオーナーのものとなるという種類の金です。
これは逆に会社の業績が悪くなって倒産してしまえば、この純資産の部分の大半はなくなってしまうため、投資家であるオーナーは大きな損失を被ることになります。

この純資産の考え方はものすごく基本的なことなんですが、案外、理解していない人が多かったりします。
例えばネットなどでは、従業員は必死に働いているのに経営者は楽をして多くの給料を取っているという不満をぶちまけている人が多いですが、これは先程の仕組みを理解すれば当たり前の話であることがわかります。
従業員というのは、基本的には自分の時間を切り売りしているのに過ぎません。その為、会社の業績が悪かろうが赤字を出そうが、決まった額の給料を受け取る権利がありますし、経営者には支払義務があります。

一方で経営者側は、会社が赤字を出せば自分の資産である純資産が減少しますし、それがゼロ、もしくはマイナスになれば、銀行からは借金をすぐに返せという圧力がかけられます。
日本の中小企業の場合は、銀行から借り入れをする際には経営者が会社の連帯保証人になる場合がほとんどですので、仮に無理な返済で資金繰りが悪化して会社が倒産してしまえば、会社が抱えている借金は全て、経営者が支払うことになります。
つまり経営者というのは、ハイリスク・ハイリターンの仕事だということがわかります。

オーナーと従業員


事業がうまく行っていれば、社員に任せているだけでお金が入ってくる楽な仕事ですが、会社の業績が悪くなりだすと、自分の資産である純資産がどんどん減りだします。
銀行からの追加の資金も借りられない上に返済を迫られるようになるので、自分の貯金を切り崩して借金の支払いをしないといけないこともあるでしょうし、会社がすぐに倒産できない場合、従業員の給料も自分の貯金を切り崩して支払う必要があります。
一方で従業員側にそこまでの責任が求められるのかといえば、求められません。 従業員が行っているのは自分の時間の切り売りなので、会社が赤字を出していようが働いた分の給料はもらえます。

仮に会社が倒産したとしても、未払い給料の支払い優先度はかなり高いので、会社にわずかでも資産が残っている場合は支払われる場合が多いです。
つまり従業員というのは、ローリスクローリターンの職種だということです。

話が反れたのでバランスシートの話に戻ると、バランスシートの左が会社が持つ全資産で、右側が会社の持つ全負債ということになり、この両者、つまり表の左右は全く同じ金額となります。
先程、振替伝票を書く際に右左、つまり借方貸方の金額は同じになると言ったのは、これか関係してきます。
振替伝票の内容は最終的には貸借対照表であるバランスシートと損益計算書に落とし込まれるのですが、その貸借対照表の負債と資産の金額を全く同じにしないといけないので、ベースとなる振替伝票も左右の金額を揃えていないといけ無いということです。

ここで新たに損益計算書というのが出てきましたが、これの簡単な説明と複式簿記の残りの説明は、次回にしていきます。

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第129回【饗宴】真に美しいのはソクラテス 後編

目次

注意

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。

▼▼Apple Podcast▼▼

podcasts.apple.com

▼▼Spotify▼▼

open.spotify.com

noteについて

noteにて、番組のサポートを受け付けています。応援してくださる方は、よろしくお願いします。
note.com

▼▼youtubeチャンネル登録はこちら▼▼

youtubeでは、音声コンテンツでは聞けないバックナンバーも聞くことが出来ます。
だぶるばいせっぷす - YouTubewww.youtube.com
youtu.be

前回のリンク

kimniy8.hatenablog.com

勇敢なソクラテス

他には、ソクラテスは複数回戦争に赴いて、全て生還しているのですが、そのうち1回は撤退戦ででした。
撤退戦なので当然、ソクラテスが属しているアテナイ軍が負けていて、敵が優勢になっているわけで、場合によっては残党狩りなんてことにもなっていたでしょう。

同じ軍に派遣されていたアルキビアデスは、騎兵だったためにいざとなったら逃げやすい状態だったのですが、それに対してソクラテスは歩兵だったため、逃げることが難しい状態でした。
普通ならパニックになるところですが、ソクラテスは焦ることもせず、怪我を負って逃げることが出来ない仲間をかばうという事もしていたようです。
その姿があまりに自身にあふれて堂々としていたため、敵ですら『この人物に関わると自分たちが危険な目に合う』と思い、避けていったようです。

結果として、ソクラテスが属していた部隊は生き残ることが出来たようで、アルキビアデスは部隊を代表して勲章をもらうことになるのですが・・・
アルキビアデスは、その戦争で起こったことを上司に正確に伝え、ソクラテスこそが評価されるべきだと訴えたそうですが、ソクラテスはそれを辞退し、アルキビアデスに手柄を譲ったそうです。

この話から分かることは、ソクラテスは人々を魅了することができるほどの知性を持ち、戦場では、不利な状況にも関わらず、怪我を負った仲間を見捨てずに敵に立ち向かう。
そして、他人から称賛されることを望まず、手柄を他人に平気で譲る様な人物です。それに加え、ソクラテスは美しい容姿を持つアルキビアデスの誘惑に打ち勝てる節制を持っています。
これらのことからソクラテスは、知性と勇気と節制を持ち合わせている人物だということがわかります。

アルキビアデスという存在

これらの発言によって、ソクラテスがすごい人だということはよく分かったのですが、では何故、アルキビアデスは、呼ばれてもいない饗宴にわざわざやってきて、この様な事をいったのでしょうか。
これがドキュメント番組であれば、アルキビアデスという常に酒を飲んでいて騒動を起こす様な人物が急に入ってくるというのは、有り得る話です。
何故ならドキュメント番組は、事実に基づいた番組制作を行っていくジャンルなので、制作が意図しない様な出来事が起こってしまうこともあるからです。

しかしこれは、プラトンが書いた作品で、事実をそのまま書き起こした作品ではなく、ソクラテスの主張や、彼から学んだプラトンの主張を世間一般に分かりやすく伝えるために書かれたものです。
この作品が事実をそのまま反映させたものではなく、プラトンによって作られた作品であるのなら、このアルキビアデスの登場も、何らかの意図があるはずです。
では彼の登場に、どの様な意図があるのでしょうか。

この饗宴とは

この饗宴という対話編ですが、もともとは、一定のルールによって登場人物が自分の主張を述べていくものでした。
そのルールとは、エロスの賛美です。 エロスという概念を、どの様に捉えて、どの様に賛美するのかというゲームをしていくというのが、この対話篇の大まかなストーリーです。
ソクラテス以外の登場人物は、そのルールに則って、各自、自分が思い描いているエロスの概念について説明をし、次いで、そのエロスが何故、素晴らしいのかについて語っていきます。

この各自の主張ですが、前にもいったと思うので繰り返しになりますが、各登場人物がそれぞれ持っていた当人の主張というよりも、古代ギリシャで既に広まっていたエロスに対する概念を、それぞれのキャラクターが自身の主張として述べています。
その、世間一般で伝えられているエロス像に対し、ソクラテスがディオティマの説を代弁する形で述べているというのが、この饗宴という作品です。
何故、ソクラテス自身の主張ではなく、ディオティマという巫女の主張をソクラテスが代弁する形になっているのかというと、ソクラテスはエロスがどのようなものかを知らないからです。

彼は、自身が死ぬ原因になった裁判でも、自分自身が無知であることを主張していますので、時間的にそれより前の出来事を綴っている、この饗宴でも、当然、エロスについてなんて知りません。
しかし、物事を知らないものが、他人の意見に対して間違っているなんてことはいえません。 それを言う場合は、より正しいと思われる主張を行わなければ、相手は納得しないでしょう。
そこでプラトンは、究極のエロスに到達した人物であるディオティマを登場させ、その者からエロスについて教えてもらったとして、ソクラテスに代弁させているのでしょう。

無知であるソクラテス自身には、ディオティマから教えてもらったエロスの正体が正しいかどうかは分かりませんが…
過去に取り扱った対話篇メノンによると、知識を持たない者同士で話し合ったとしても、どちらの説が正しいかどうかは見分けがつくという話でした。
その為、ソクラテスは饗宴で行われたゲームの参加者の主張とディオティマの主張を比べた上で、ディオティマの主張のほうが正しいだろうとして、彼女の主張を代弁したと思われます。

真に美しいのはソクラテス

つまり、この場で行われていたことは、エロスの研究であり、エロスの賛美であるわけです。
そこへ、アルキビアデスが登場して、ソクラテスの賛美を始め、彼が何故、素晴らしいのかについて熱弁し始めます。
この流れから考えて、おそらくですが、アルキビアデスが急に空気を読まずに演説を始めたというよりも、アルキビアデス自身も、エロスについての研究と賛美をしているとおもわれます。

つまりは、アルキビアデスはソクラテスこそがエロスの化身であり、彼こそが素晴らしいといっているんだと思われます。
では何故、最後になってアルキビアデスという人物を使って、ソクラテスを持ち上げたのかというと、エロスに対する誤解を無くすためでしょう。

エロスというのは、美しさを象徴する神なので、ここまでエロスについて探求してきたとしても、『外見的な美しさ』という分かりやすいイメージからは脱却できません。
そこで、より具体的に美しさをイメージできるようにと、ソクラテスのイメージと重ねたのでしょう。ソクラテスは、対話篇のメノンでもその外見について触れられていますが、シビレエイのような人だと例えられています。
これは、外見的な要素と、かかわり合いになるもの全てを思考停止にしてしまうというのを合わせてシビレエイと表現しているのですが、外見的な要素に絞っていえば、美形とはいえない人物です。しかし内面は優れています。

エロスとは

一方でアルキビアデスは、美しい外見をしています。
また、家柄や才能に恵まれ、出世欲を持ち、それに必要な努力を惜しまないため、知性も地位も資産も人望も備えた人物で、物事を深く考えない人にとっては、彼こそがエロスを宿した人物だと思われる様な人です。
アルキビアデスがここまで優れているのに、アレテーを宿していないのかというと、宿していません。それは、彼の人生を見てみればわかります。

彼は、アテナイとスパルタが戦争に入った際に、アテナイの情報を持ってスパルタに亡命してスパルタで要職につき、アテナイを敗北に追い込み、次はスパルタ情報を集め、その情報をアテナイに売ってアテナイで要職につくなどしています。
色恋も盛んだった彼は、『最終的には恋人に殺された』とも『政治関連で暗殺された』とも言われていますが、この様な最後を迎える人物をアレテーを宿した人だとは言いません。
しかしそんな、美貌も金も地位も家系も人脈も持つ彼が、手に入れることができなかったものがソクラテスで、ソクラテスにプライドを傷つけられたにもかかわらず、アルキビアデスはソクラテスを絶賛しています。

つまりエロスとは、見た目でも金でも地位でも家系でも無いと言うことです。何故なら、その全てを持っているアルキビアデスは、エロスの化身ではないからです。
ソクラテスにあって、アルキビアデスに無いもの。その差が、エロスになるんだと思います。
長く続いてきた饗宴の読み解きですが、今回が最期となります。 次回からは、饗宴のまとめ回を行っていきます。

参考文献



【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第129回【饗宴】真に美しいのはソクラテス 前編

目次

注意

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。

▼▼Apple Podcast▼▼

podcasts.apple.com

▼▼Spotify▼▼

open.spotify.com

noteについて

noteにて、番組のサポートを受け付けています。応援してくださる方は、よろしくお願いします。
note.com

▼▼youtubeチャンネル登録はこちら▼▼

youtubeでは、音声コンテンツでは聞けないバックナンバーも聞くことが出来ます。
だぶるばいせっぷす - YouTubewww.youtube.com
youtu.be

前回のリンク

kimniy8.hatenablog.com

人間の最終到達地点

前回は、ディオティマの主張する、エロスを宿した人間の最終到達地点について話していきました。
簡単に振り返ると、ディオティマの主張するエロスの正体は、自分が欲しいと思うものを手に入れる知識を持ち、実際に手に入れることができる能力も持っているけれども、欲するものを手に入れた途端に、それは自分のもとを離れてしまう。
水や砂を手ですくっても、指と指の間からすり抜けて行くように、エロスは欲望を真に自分のものにすることは永遠に出来ないものでした。

この、欲するものが手に入れられないという部分については、本当に手に入れたものが離れてしまう場合と、欲しい物を手に入れてしまうと、興味が別のものに移ってしまうというケースがあります。
どちらにしても、エロスを宿した人間は永遠に満たされることはないわけですが、永遠に満たされることがないゆえに、人は永遠を求めます。
例えば、名誉を求めて、自分という存在が永続的に語り継がれ、概念として永遠にこの世に残ろうとしたり、他人と思想をぶつけ合うことで新たな価値の有る思想を作り出し、それを後世に残そうとします。

つまり、生物として自分が死んでしまったとしても、自分の存在が語り継がれたり、自分が生み出した思想やその一部がこの世界に残ることで、永遠にこの世に残ろうとするということです。
エロスが永遠に欲しい物を手に入れようとするのであれば、それを宿した人間側も時間という概念を超越して、自分という概念を永遠にこの世に留まることができれば、最終的には幸福に到達できる可能性があります。

究極のエロスへの段階

次にディオティマは、人間がエロスに到達する方法について語り始めます。彼女がいうには、人が究極のエロスに到達するためには、段階を踏んで行く必要があるといいます。
その段階を簡単に説明すると、まず、人が若者であるとき。これは精神的なものも含むと思いますが、その状態では、人は外見に惹かれます。 相手の内面をよく知らなかったとしても、外見だけで恋をして夢中になります。
ですが、仮に一目惚れした人に告白して付き合うことが出来たとして、その若者はそれで永遠に幸福になるのかというと、そうはなりません。

何故なら、エロスは永遠に欲望を追い続ける性質があるからです。人は、一度手に入れたものを再び手に入れようとはしないため、まだ手に入れていないモノを手に入れようとする欲望に支配されます。
そしてその過程で、自分が手に入れた恋人だけが美しい存在ではなく、他の人間であったとしても、美しい肉体は美しいと思うようになり、他の人間にも目が行きはじめます。
その様な状態では、恋人との関係もうまく行かないため、2人は分かれて、再び別の人を求めます。

昔の言葉に、『賢者は他人の経験に学び、愚者は自分の経験に学ぶ』なんて言葉がありますが、この様に、ひっついては他の人間に目移りして別れるということを繰り返していくうちに、人は外見よりも内面の重要さに気が付き始めます。
内面の良さとは、一言でいってしまえば、これまでに学んできたことを踏まえていうのであれば、魂にアレテーを宿しているかどうかです。

人は永遠を求める

精神に徳を宿す美しい精神を持つ人に惹かれる様になると、人はその美しい精神を持つ人に追いつき相応しい人間になろうと、また、知的好奇心から相手と討論をしようとします。

相手も同じ様に思い、こちらとの討論を望めば、2人の意見はシナジー効果によって新たな価値観に到達することになります。
いずれ、討論をする2人の意識は、2人が作り出す閉じた世界から飛び出し、自分たちを取り囲む外側の世界に向きだします。
世界に溢れる、ありとあらゆる美しいものを観察し、インプットした2人は、それを互いにアウトプットすることで、更に真の美に近づきます。

こうして生み出された理論は、それを生み出した2人が例え死んだとしても、他の人たちの心を動かし、心を動かされた人たちがその理論を組み込んだ形で独自の理論を生み出すことで、要素としてはこの世に永遠に残り続けることになります。
つまり、美という概念に人一人の人生で到達できなかったとしても、到達しようと行動した痕跡はこの世に残すことが出来、それを利用した他の者が更に先に考えを進めていくということです。

アルキビアデス

ここまでが、前回に話したことですが、このディオティマの主張をソクラテスが代弁したところで、饗宴の場にアルキビアデスという人物が乱入してきます。
アルキビアデスは正式に招待されたわけでもなく、しかも泥酔している状態で押しかけてきたので、まさしく乱入してきたという感じです。

このアルキビアデスという人物ですが、関係性としてはソクラテスの弟子のような存在であり、ソクラテスの弁明でソクラテスが訴えられることになった原因の1人だったりします。
前にも少し話したと思いますが、忘れている方も多いと思いますので、今回、もう一度アルキビアデスの話をしますと、彼はソクラテスのことを賢者だと思って尊敬し、彼に近づいて知恵を授けてもらおうとした人物です。
どのようにして知恵を授けてもらおうとしたのかというのは、この対話編にも書かれているのですが、色仕掛けです。

アルキビアデスというのは男性ですが、ソクラテスよりもかなり若く、見た目も美しい青年だったため、それを利用して、ソクラテスから知恵を聞き出そうとします。
というのも当時のギリシャでは、髭が生える前の少年が自分の体を対価として、年上の人間から知恵を得るという習慣があったからです。
この習慣が、古代ギリシャではジェンダー問題で今現在よりも進んでいるなんて一部で言われていたりする理由ですが、実際にはこの習慣は、髭が生えるまでの少年と知恵の有る年上の男性との愛情が日常化していただけなので・・・

その関係性が、少年の髭が生えた後も続いていると、異常とされていたりしたようです。
とはいっても、髭が生え揃った男性同士のカップルもいて、この饗宴内でもその様なカップルがいたりするので、今と同程度には進んでいたのかもしれません。

ソクラテスとアルキビアデス

話を戻すと、アルキビアデスは美しい容姿をした青年で、その美しさに自身でも気がついていたため、それを利用して、ソクラテスの寝室に裸で忍び込み、寝床に潜り込んで誘惑したりしています。

しかし、ソクラテス自身はアルキビアデスはソクラテスのことを過大評価しているとし、その誘惑は失敗に終わります。
この出来事によって、アルキビアデスはソクラテスに恥をかかされたような形になり、ソクラテスに対して怒りと愛情が入り混じったような複雑な感情を抱くようになります。
もう少し具体的にいうと、ソクラテスが自分の誘惑に乗らなかったことで、プライドが傷ついた一方で、ソクラテスの事を賢者だとして尊敬はしているので、表面上では嫌っているけれどもソクラテスを尊敬しているといった感じです。

この饗宴という対話篇の中にも、その辺りのことは詳しく書かれていて、アルキビアデスは口調そのものはソクラテスに辛く当たるような事をいっていますが、話す内容を詳しく聞くと、ソクラテスをベタ褒めしていたりします。
例えば優れた音楽の演奏家は、楽器を使うことで人々を魅了することが出来ます。優れた技術を持つものが優れた楽譜を元に演奏することで、多くの人はその音楽に聞き惚れて、動くことができなくなってしまうでしょう。
まちなかで演奏していれば、通行人は歩みを止め、人だかりができると思いますが・・・

アルキビアデスは、ソクラテスが、それと同じことを楽器を使わずに行うことができると主張します。ソクラテスが街頭で演説をすれば、道行く人は足を止め、その演説内容に聞き惚れます。
アルキビアデスも例外ではなく、強い意志で持って抵抗しなければ、ソクラテスの演説を永遠に聞き続けてしまうだろうと言います。
そして、アテナイには過去から今まで、それと同等の演説をできるものはいないと断言します。


参考文献



【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第128回【饗宴】『有限』の克服 後編

目次

注意

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。

▼▼Apple Podcast▼▼

podcasts.apple.com

▼▼Spotify▼▼

open.spotify.com

noteについて

noteにて、番組のサポートを受け付けています。応援してくださる方は、よろしくお願いします。
note.com

▼▼youtubeチャンネル登録はこちら▼▼

youtubeでは、音声コンテンツでは聞けないバックナンバーも聞くことが出来ます。
だぶるばいせっぷす - YouTubewww.youtube.com
youtu.be

前回のリンク

kimniy8.hatenablog.com

個人の不死性

個人としての人が不死性を求めるという点でいえば、名誉なども同じです。
名誉は、自分の分身である子供ではなく、自分自身の名前が未来永劫語り継がれることなので、個人の存在感や概念として不死性を帯びています。
例えば、今現在私は、このコンテンツを通してプラトンが書いた対話編を読み解いていますし、その対話編の中にはプラトンの師匠であるソクラテスが登場しますが、彼らは2000年以上前に生きていた人ですが、今現在でも、彼らの存在は大きいです。

おそらくですが、数十年や数百年後であっても、彼らは語り継がれるでしょう。
彼ら自身は名誉を求めて行動していたわけではないと思われるので、その他の人物も例に上げると、カエサルアレキサンダー大王なんて人物も、現代にまでその名前が語り継がれています。
現代でいえば、アメリカのトランプ大統領が、大統領選に負けてからも、歴代の大統領がやっていなかったようなことを次々に行って、影響力を発揮させて、人々の記憶に自分の名前を刻もうとしています。

では何故、彼らはその様な行動を取るのかというと、自身の存在の不死性を求めてです。
ディオティマは、彼らがとった行動が死後に一切語り継がれること無く、死ぬと同時に存在そのものが消えるとするのなら、彼らはそんな行動は取らないはずだと言います。
これはつまり、人々の記憶に刻み込まれるような行動を取ることで、自分が死んだ後も語り継がれ、それによって自分の存在そのものが不死になるから、彼らは名誉を求めて頑張るということです。

人の集合である『社会』の不死性

ディオティマは、これまでのまとめとして、この様な例え話を始めます。 社会を構築する人間にとって一番重要な知識は、その社会を継続させていくための知識である『正義』と『節度』となります。
これは、人間は単独で生きることは出来ず、生きていくためには社会をつくり、それを成立させなければならないからです。その社会を存続させるためには秩序が必要で、秩序が成立するためには、『正義』と『節度』が必要だということです。
この『正義』と『節度』を身に着けた人間が成人し、適齢期になると、その子供は子供を作ろうとします。

そのために、『優れた者』『美しい者』を探し、話をします。 自分が思う正義とはどのようなものなのか、節制とは何なのか。
自分の持つ価値観をさらけでし、互いを良い方向へと導こうと討論を重ねていきます。
この様にして高めあえる二人は、やがて愛し合って子供を作ることになりますが、その子供は、親である自分たちよりも美しく、不死に近い存在であるため、彼らは子供を優先して守ろうとします。

この子供というのは、先程から繰り返し言っていますが、物質的な人間の赤ん坊に限った話ではありません。何故なら、そのようにしてしまうと、エロスは男女間でしか成立しないからですその為、ここでいう子供とは、思想も含みます。
思想も含むとは、今回の例で言うなら、『正義』と『節度』を持つ2人の人間が互いに高め合うために価値観のすり合わせを行えば、単独では思いつかなかったような考えに到達するということです。
この『新たに生まれた考え』というのは、それを生み出すことになった それぞれの親が元から持っていた思想よりも尊重され、大切にされるということです。

正義と節度を持つ2人が討論を重ねることで、新たな価値観に到達し、その価値観を更にぶつけ合うことで、更に優れた価値観を得ていく。
この様なサイクルを重ねることで、多くの知識や徳を生み出したものは、尊敬され、未来永劫、語り継がれて、不死性を宿すこととなります。

エロスの第一段階

この様な状態が人が目指すべき道となりますが、人間は愚かであるため、誰もが最初からこの様な道を選択して行動することは出来ません。
その為、人は1段1段階段を登るようにして、成長していく必要があります。では実際に、どの様に段階を踏んで成長していけばよいのでしょうか。
ディオティマは、人間の恋愛に例えて、この説明を始めます。

まず最初、人が若者であるとき。恋心をいだいて感情に突き動かされる場合というのは、大抵は、対象に対して外見的な美しさを見出したときです。
つまり、格好良いからとか美人だからという外見的な理由で、人の感情は揺れ動き、それを行動に移すようになります。
この際、若者のパートナーとなるものが、その若者を正しく導くことが出来るのであれば、その若者は浮気をせず、他のものには目もくれず、1つの体を愛すようになります。

特に初恋の相手などの場合は、自分が好きになった人間を、この人だけは特別だと思い込み、他の人間と恋人との間に明確に線を引き、その相手を特別視して盲目的に愛します。
しかし、ある程度の時間が経って冷静になってくると、他の体にも目がいきます。
というのも、この初期の段階では外見的美しさにのみ目がいっているため、自分が好きだと思った人と似たような外見や身体的特徴を持つ人も、同じ様に美しいと思うようになるからです。

また、精神的に若いうちは、熱しやすく冷めやすいところもあり、外見が好みだから好きになり、実際に付き合ってみらた、思っていたのと違ったということも多々あり、すぐにパートナーを変えてしまったりします。
この様にして、人は経験を重ねていきますが、その繰り返しの中で、身体的な美しさに共通の部分があることに気が付きます。
簡単に言えば、好きなタイプというものが分かってくるようになり、それを言語化出来るようになってくるということです。

エロスの第二段階

自分の好みの傾向がわかり、この様なパターンの外見であれば好みだということが分かってくると、1つ次の段階に進み、次第に、外見へのこだわりは無くなっていきます。
何故かというと、外見の姿形が内面を反映しているわけではないということが、経験によって理解できるからです。
経験の少ない私自身が偉そうに言える立場にはありませんが、恋愛経験が少ないと、外見が美しいから内面も美しいはずだと、無関係の2つをリンクさせて考えてしまいがちです。

しかし、経験を積んでいけば、同じ様な姿かたちをしていても、人によって正確や考え方が違うことに気が付き、互いの価値観といった内面同士が合うことの重要性に気が付き始めます。
最初は、自分の好みの外見で、尚且、自分と合う内面をしている人を探そうとしている人も、次第に、外見はそっちのけで、内面の方を重視するようになっていきます。
この内面も、人が正しく成長を続けている場合は、心が美しく、優れた知恵を持つものが尊いと思うように考えるようになります。

エロスの最終段階

優れた知恵や思想を持つものを愛すようになると、その者に受け入れられたいという想いや、受け入れられた後、その人と互いの思想をぶつけ合って討論することで、その人は更に成長を遂げます。
すると、その若者の意識は、愛し合っている自分たちという閉じた世界だけでなく、自分たちの外側を取り囲んでいる世界の方に目が行き始めます。
こうなると、今まで自分たち中心の狭い視野でしか見えていなかったものが、広い視野でみることが出来るようになり、この世界のありとあらゆる美しさの方に目が行き始めます。

こうして、あらゆる『美』を観察し、その情報を自分にインプットしてさらなる知識を蓄え、それを元にパートナーと討論を重ねて新たな思想を生み出し続けるものは、最終的に『美』そのモノに到達することになります。
ここで到達する美というのは、何かに宿ることで初めて認識できる、修飾語としての美ではありません。
時間が建てば、いずれ消滅してしまうようなものでも、地域が変われば価値観が変わってしまうものでも、何かに対する美といった相対的なものでもなく、絶対的な美です。

乱入者

このようにして、人は最初は肉体的な美という分かりやすいものを入り口にして、経験を重ねていくことで、絶対的な美である究極のエロスへと到達することが出来るというのが、ディオティマの主張です。
これで、饗宴に参加した人たち全ての主張は終わったのですが、ここでこの対話編は終わりではなく、アルキビアデスという人物が宴の噂を聞きつけてやってきて、一騒動起こすのですが、その話はまた次回にしていこうと思います。

参考文献



【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第128回【饗宴】『有限』の克服 前編

目次

注意

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。

▼▼Apple Podcast▼▼

podcasts.apple.com

▼▼Spotify▼▼

open.spotify.com

noteについて

noteにて、番組のサポートを受け付けています。応援してくださる方は、よろしくお願いします。
note.com

▼▼youtubeチャンネル登録はこちら▼▼

youtubeでは、音声コンテンツでは聞けないバックナンバーも聞くことが出来ます。
だぶるばいせっぷす - YouTubewww.youtube.com
youtu.be

前回のリンク

kimniy8.hatenablog.com

エロスによって生まれる『子』

今回も、プラトンが書いた対話篇『饗宴』の読み解きを行っていきます。
前回は、エロスが最終的に求める幸福とは、『子をなすこと』だというところまで話していきました。この子供というのは、人間同士の間に生まれた子供に限定した話ではありません。
何故、子供の定義をその様に限定しないのかというと、その様に定義してしまうと、エロスは男女間の恋愛に限定されてしまうからです。

もしかすると、科学技術が進んだ先の未来では、同性同士で子供が作れるようになっているかもしれませんが、この議論がされているのは2500年ほど前のことなので、そんなことは考慮されていません。
その為、ここでいう子供とは人間の子供という具体的なものではなく、『異なる2つのものが合わさって生まれる新たなもの』という認識をした方が理解しやすいと思います。
例えば、Aという思想を持つ人と別のBという思想を持つ人とが討論をすることで、双方の思想とは違った別のCという思想が生まれるというのが、これに当てはまると思われます。

『有限』の克服

何故、『子をなすこと』がエロスが求める幸福につながるのかというと、人の命が有限だからです。
ディオティマが語るエロスの特性とは、美や愛に関連するものを欲しいと思い、知性を使ってそれを手に入れることができるけれども、満たした欲望はその瞬間から指の隙間からすり抜けるように逃げていってしまうものでした。。
つまり、エロスを宿す人間は、永遠に満たされることがないわけです。 そして人の欲望は永遠に発生し続けて、人はその欲望を知性を伴った行動で叶え続けることになります。

このサイクルは永遠に続いていくわけですが、一方で人間は永遠に生きることは出来ません。 人間には寿命というものがあり、その生命は限り有るものだからです。
エロスとは人間の精神に依存している概念ですが、エロスという概念が永遠にサイクルを回すことで幸福に到達しようとしているのに対し、人間側に寿命という制約があると、エロスは幸福には到達できないことになってしまいます。
これでは、エロスは幸福に到達しようとする概念なのに、幸福に辿り着くことは絶対にないわけですから、それを宿した人間は、幸福に到達することができなくなります

そこで、永遠という時間を克服するために登場したのが『子をなすこと』という考え方です。
先程、人間の子供に限定しないと言っておいてなんですが、例えとして人間の子供で考えると、人間1人の命には限界がありますが、その人間が子供を作ることで子孫をつなげていくことで、遺伝子情報としての人間は時間を引き伸ばすことが出来ます。
また、子供が生まれ際に、自分が今まで経験したことを子供に教えることで、子供は親の経験をベースにして、その先の新たな欲望を追求することが出来ます。

陸上で例えるなら、リレー競走や駅伝のようなもので、バトンやタスキをつなげていくことで自分だけでは到達できなかった場所にまで到達することが可能になります
このバトンやタスキを永遠につなげていけば、エロスが求める永遠のサイクルに対抗できる様になるため、『子をなすこと』が重要になるということです。

ヘーゲル弁証法

これは人間の思想にもそのまま当てはまり、人間1人が到達できる思想には限界がありますが、それを語り継いだり、様々な人と議論をすることによって新たな概念へと昇華させていくことができれば、その概念は永遠を手に入れることができます。

私自身がまだ勉強不足で、この喩えがあっているかどうかはわかりませんが、この時代からもっと先の哲学者の理論で言えば、ヘーゲル弁証法なども、これと近い考え方なのかもしれません。
ヘーゲル弁証法は、大まかに言えば、ある主張に対して反論をぶつけて、その主張と反論を融合させた感じで1段階上の主張を導き出そうといった感じの考え方です。
先程出した例えをもう一度いうと、Aという意見とBという意見をぶつけて、Cという意見を生み出すことです。 ここで重要なのは、どちらの主張が正しいのかをバトルさせるわけではなく、双方の意見を組み合わせて1段階上に上げるということです。

話を饗宴に戻すと、このように『子をなすこと』によって人や人が生み出すものは不死性を獲得することが出来るようになり、時間を克服することが可能となります。
これにより、エロスが永遠に発し続ける欲求にも応えることが可能となり、幸福にたどり着ける可能性が残ることになります。

継続と変化

また、この『子をなすこと』を色んな角度から観ることで更に掘り下げていけば、他の様々なことに当てはまることに気が付きます。
例えば、物質的なものでいえば子供を生んで子孫をつなげるというのも人の不死性を可能にするものですが、これは人間個人に当てはめても同じです。
爪や髪や皮膚は、新たなものが生えてくることで生まれ変わっているため、人間は常に新しく生まれ変わり続けているとも考えられます。

これは現代では新陳代謝はと呼ばれますが、この新陳代謝は個人だけに当てはまるわけではなく、個人が集まって集団になり、組織化されたものにも起こります。
身近な組織といえば会社がありますが、会社という組織は毎年のように新入社員を採用する一方で、一定数の退職や定年によって去る人が出てくるため、組織として新陳代謝が起こります。
この新陳代謝が起こらない場合は、組織発足時に雇った社員が定年を迎える時に、組織の寿命もツキてしまいます。 組織が不死性を帯びて永続的に存続し続けるためには、新陳代謝が必要となります。

記憶のメカニズム

得たものを失い続けるために、常に追い求め続けるというエロスの性質は、人間の記憶にも当てはまります。
人は、一度目にしたものを完全に記憶することは出来ません。 もし、それが可能であるとするのなら、人間は勉強などで思い悩む必要はありません。
何故なら、最初に1度テキストを見た段階で覚えてしまえば良いだけだからです。

しかし人間は、そのようには出来ていません。 多くの方は、一度見ただけでは物事を忘れてしまいます。
では、特定の記憶を定着させようと思う場合、何をすればよいのかというと、覚える作業を繰り返すことです。
この、一度手に入れたはずのものを失って、再度手に入れるということを繰り返す作業は、エロスの性質と同じです。

人は、失った記憶を復習によって覚え直すという一連の動作を繰り返すことによって、記憶の定着。つまり、脳にある情報の不死性を獲得しようとします。


参考文献



【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第127回【饗宴】エロスの行き着く先 後編

目次

注意

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。

▼▼Apple Podcast▼▼

podcasts.apple.com

▼▼Spotify▼▼

open.spotify.com

noteについて

noteにて、番組のサポートを受け付けています。応援してくださる方は、よろしくお願いします。
note.com

▼▼youtubeチャンネル登録はこちら▼▼

youtubeでは、音声コンテンツでは聞けないバックナンバーも聞くことが出来ます。
だぶるばいせっぷす - YouTubewww.youtube.com
youtu.be

前回のリンク

kimniy8.hatenablog.com

人は愛されるためだけに行動する

ディオティマは、この『幸福になるために』という答えは、そのままエロスの役割にも当てはまり、美しさを求めるエロスは、幸福になりたいがために美しさを求めると言います。

エロスは幸福になるために愛情を求め、それを手に入れようとします。
これは、愛情そのものを手に入れることが最終目的なのではなく、それを手に入れることで自身が幸福になることが目標となり、それを維持し続けることを目指します。
そしてまたこの様な感情は、全ての人間が宿している感情ともいえます。

人が起こす全ての行動は『幸福になる』という最終目的を達成するための手段でしか無く、人が行動を起こす原因を辿れば、慈愛を求める欲求に行き着く。
つまり簡単に言い替えると、人は愛情を求める欲求によって全ての行動を起こすことになります。
愛情を求め、それによって行動を起こすという振る舞いは正しくエロスのものである為、人はエロスが宿ることではじめて、何かしらの行動を起こすことになります。

人は幸福になるために愛情をを手に入れようとし、そのために、お金を貯めたり体を鍛えたり勉強をしたり、社会的地位を高めようとしたりします。
愛情を手に入れる方法は1つではなく、人の価値観の数だけ存在するため、それぞれの人の考えによって様々な方法で試されますが、それらの行動の根本原因となっているのは、『幸福になりたい』という感情ということになります。
幸福になるためには愛されなければならない。愛されるためには、何かしらのことで他人よりも秀でていなければならない。 だから人は行動を起こすというわけです。

『愛する』という行動

この様に、エロスがもたらす愛情への欲求は人が起こす行動全てに関連しているのですが…
では人は、『愛情を手に入れたいから勉強をしよう』とか、『愛情のために体を鍛える!』といった感じで、いちいち『愛情を手に入れるために頑張る。』なんてことは言いません。別の言葉で表現しようとします。
何故かといえば、人が起こす様々な行動は細分化され、そのそれぞれに別々の名前がつけられているために、その名前ごとに違った言い回しで表現されるからです。

例えばクリエイターはものを作る人全般を指す言葉ですが、自分の職業を説明する際に単にクリエイターと名乗る人はいません。
何故ならクリエイターの範囲は広すぎて、それだけを言ったとしても他人には伝わらないからです。
その為クリエイターの方々は、彫刻家であったり映像クリエイターであったり画家であったり小説家と言った感じで、それぞれに割り当てられた言葉を使って他人に説明をします。

これらを頑張る全ての理由を探っていけば、最終的には『愛しているから』という原因に行き着くわけですから、彫刻であれ絵画であれ、行っているのは『愛する行動』と表現すれば良いわけですが、そんなことはしません。
『愛しているから』という動機を口に出して行動をするのは、恋愛に関する行動だけだけになります。
結果として愛情のための行動に、『恋人のため』であるとか『恋人を作るため』といった別の意味が付加されることになってしまい、愛するための行動が特別視されるようになっているけれども、大本を辿ると同じだということです。

『愛する』と『愛される』の違い

このエロスの定義や、エロスが人に宿った際にどの様に作用するのかといった事の解釈についてですが、サラッと聞くとなんとなく分かった気になりますが、実際には理解することが結構難しい話だと思います。
どのあたりが難しいのかというと、『愛する為に行う行動』と『愛されること』の違いです。
このプラトンが書いた饗宴という対話篇は、おそらく古代のギリシャ語で書かれていると思われますが、その古代ギリシア語では明確に言葉の定義が違うのかもしれませんが、日本語で考えると『愛するために行う行動』と『愛されること』は同じになります。

例えば、自分が好意を抱く人物がいたとして、その人間の愛を獲得しようと努力をして卓越した人間になったとしましょう。
その結果、好意を持つ相手が自分のことを好きになって愛してくれた場合、その人間は『愛される者』になります。 しかしディオティマは、エロスは常に欠乏状態であるため、愛される者ではないと言っています。
全ての人間にエロスが宿っていて、エロスが宿った人間は『愛される者』ではないとするのなら、いくら努力をしたとしても愛する人からの愛情を獲得することは出来ないことになります。

つまり、恋愛が成就する可能性はなくなるわけですが、実際問題としてそんなことはないでしょう。では、どの様に解釈すればよいのか。

ハードルを乗り越え続ける人生

これは、私の勝手な解釈になるのですが、人というのは不完全な生き物なので、どれだけ努力しても全知全能になるわけではありません。
また、人の欲求というものに果はないので、好きになった相手に対する欲求というのもエスカレートしていきます。

つまり、努力して他のものと比べて優れた存在になったことで、相手からの好意をゲットして愛されるものになったとしても、相手の欲求はエスカレートしていくため、手に入れたからと安心してそこで止まってしまうと、相手は離れていくということです。
好きな相手をつなぎとめておこうと思うなら、相手から好意を抱かれる人間になったとしても、そこで歩みを止めず、エスカレートする相手の欲求に応えるように努力し続けなければならない。
その姿勢が、『愛される者』ではなく『愛する者』の姿勢ということなのかもしれません。

これまでをまとめると、人間の行動の原点となるのは、愛の化身であるエロスの性質であり『幸せになりたい』という願望になります。
この感情に支配された人間は、『美しいもの』や『良いもの』を永遠に自分のものにしたいと追い求めて行動を起こします。
永遠に自分のものにし続けるためには、相手のエスカレートする欲望に応え続けなければならないため、人は行動し続けることとなります。

『太古の人類』の否定

またディオティマは、アリストファネスが主張する太古の人類の話も否定します。太古の人類とは、現在の人間が2人くっついた姿をしていて、今よりも強大な力を持っていて神に挑戦した人類のことです。
アリストファネスは、元々1つの生命体だったものが2つの生命に分けられたため、元の1つの存在に戻ろうとして、人間は互いに惹かれ合うと主張しました。
しかしディオティマは、一つに戻りたいと思うかどうかは、切り離されたものの状態によると主張します。

例えば雪山で遭難して足が壊死してしまい、切り離さなければ死んでしまう状態になったとしましょう。
この状態で、元々1つの体だったのだから切り離さないで欲しい、切るぐらいなら死んだ方が良いと思う人がいるでしょうか。
また、切り離された壊死した足を再びつなげようと思うでしょうか。人が何かを補ってよいのは、現状と比べて良い状態になれるときだけで、元々1つのものだったからという理由だけで1つに戻りたいとは思いません。

エロスの最終到着定点

では次に、エロスが最終的に求める幸福とは、どのようなものなんでしょうか。これは結論からいえば、『子をなすこと』によって達成されます。
ここで、疑問に思われる方もいらっしゃると思います。というのも、この饗宴という対話編を取り扱う際に一番最初に注意としていったことに、ここで語られるエロスは同性愛を中心に語られると言っていたからです。
当然ですが、同性愛では子供が生まれることはないため、『子供を作ること』が幸福であるのなら、同性愛者は幸福には到達できないことになります。

ですが、ここで語られているのは物質的な、人間の子孫としての子供のことだけではありません。2つのものが重なり合うことで新たに生まれるもの全般も含みます。
何故、子を成す事が幸福につながるのかというと、人の人生は時間的に有限だからです。
先程から言っているとおり、人の欲望に果は無いので、エロスはいくら愛情を手に入れようと努力し続けたところで、その努力は永遠に続きます。しかし人は、永遠には生き続けることが出来ません。

しかし、子供を作ることで次世代にバトンを繋ぐことができれば、その有限であるはずの時間を克服することが出来ます。
この時間の克服のために、世代をまたいだ継承というものが重要になってきて、そのためには子供が必要になる。その子供を作ることが幸福につながるということです。
この子供を作るという部分については、もっと詳しい説明が必要になると思いますのが、その説明は次回にしていきます。

参考文献



【Podcast #カミバコラジオ 原稿】第58回【経営】ブランド まとめ回

目次

注意

この投稿は、私が配信している Podcast番組『カミバコラジオ』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。

▼▼Apple Podcast▼▼

podcasts.apple.com

▼▼Spotify▼▼

open.spotify.com

note

noteにて、番組のサポートを受け付けています。応援してくださる方は、よろしくお願いします。
note.com

▼▼youtubeチャンネル登録はこちら▼▼

https://www.youtube.com/channel/UCqx0z_3n3tBH450v8CtNoUg
youtu.be

前回はこちら

kimniy8.hatenablog.com


ブランドは何故必要なのか


前回まででブランドとは何なのかというのを話してきましたが、結構長くなってしまったので、今回はブランドの総まとめ回をやっていきたいと思います。
ます、何故ブランドが必要なのかというと、売上を上げるために必要となります。
売上というのは、販売数量×販売価格で計算されるため、このどちらか、もしくは両方を上げなければ売上は上がりませんが、ブランド力の強化は、上手く行けば販売数量と価格の両方を上げることが可能です。

ブランド力を高めるためには


まず販売数量の方から説明すると、人がものを消費しようと思う場合は、まず買いたいと思う物や買いに行きたいと思う場所を思い浮かべ、実際に行動に移します。
ものを販売する際に重要になってくるのは、顧客が物を買おうと思ったタイミングで、顧客の頭の中で自社製品が思い出されるかどうかです。
この時に思い出されやすくするために、様々な戦略や方向性を決めていきます。

顧客に思い出してもらい易くするために重要となってくるのが、ブランドの方向性です。 これは、どういった顧客をターゲットにするのかという風にも言い換えることが出来ます。
ターゲット層の切り分け方は、過去にマーケティングの回で説明していますので、詳しくはそちらを聞いてもらいたいのですが、性別や年齢層、どこに住んでいるのかと言った地域や職業などで分けたりします。
このターゲット層は絞り込めば絞り込むほど、ターゲットとする顧客の人数そのモノは下がっていきますが、逆にイメージは具体的なものとなっていきます。

自社ブランドを思い出してもらうために


例えば洋服を販売する場合、男女という大きすぎる枠組みで分けた場合は、ターゲットとなる顧客の人数は増えますが、イメージが固まりません。
イメージが固まらないということは、顧客が服を買おうと思った際に思い出してもらえなくなるということに繋がりますから、結果として販売数を伸ばすことは出来ません。
しかし、女性の中でも20~30代に年齢層を絞り、大柄やスレンダーと言った体格でもターゲットを絞り、独特の世界観をデザインによって表現すれば、ブランドのイメージはより具体化されます。

この様にイメージが具体化されていけば、当然のように好き嫌いもはっきりしてきます。つまり、自社ブランドを明確に嫌う人達も出てくるということです。
こうして顧客を絞り込んでいくと、ターゲットとなる顧客の人数自体が減っていき、市場規模も小さくなっていきます。
しかし、イメージを先鋭化させることによって、このブランドのことが好きだという人達が購買行動を取る際には、真っ先に思い出してもらいやすくなります。つまり固定客がつきやすくなるわけです。

結果として、先程のように、ターゲットを広げた結果、誰の目にも止まらないようなブランドを作るぐらいなら、イメージを先鋭化させてブランドイメージを固定化させて、顧客に覚えてもらいやすくする方が良いということになります。

ライン拡張戦略


このイメージを固定化させる方法としては、ライン拡張戦略が有効とされています。 つまり、商品開発をする際には同じ様な機能や世界観を持った製品を作り続けるという戦略です。
これは洋服にしても電化製品にしても同じですが、特定分野に特化することで、『そのブランドはこの種類の製品を専門としている』というイメージを顧客から持たれ易くなります。

別の例で電化製品でいえば、スピーカーやイヤフォンなどに特化して製造を続けていけば、音響分野で名前が売れていくでしょう。
会社としても、1つの分野に特化するわけですから、ノウハウやデータも溜まっていくでしょうし、ブランド力が上がることで、音響関連が好きな人達が社員として応募してくるということもあるでしょう。
そうするとその分野での会社のイメージも上昇しますから、結果として売上が上昇しやすい状況が生まれます。

ブランド拡張戦略


『一つの分野だけでは、絶対値として売上は上がりにくくなるのでは?』と思われる方もいらっしゃるでしょうが、その場合は、ブランド拡張戦略か新ブランド戦略を取ることで、事業の幅を広げていきます。
ブランド拡張戦略は、今までと同じブランド名を引っさげて、新たな事業に進出していく戦略です。 この戦略はライン拡張戦略とは行動の方向性が全く違うため、それなりのリスクもあります。
ただ、現実の事業の場合は前回までに説明した机上の理論とは違い、もっとアナログですので、ブランド拡張戦略を取りつつもリスクを減らす方法もあります。

その方法は、関連分野に進出することです。 これは以前に事業の多角化戦略を説明した際にも言ったことですが、今までの事業と関連する様な事業に進出することで、リスクを減らすことが出来ます。
全く違う分野ではなく既存事業の関連分野であれば、これまでに培ってきた経営資源を再利用することも出来ますし新規投資も減らせるので、新事業進出のハードルが下がります。
それに加えて、既存ブランドのイメージも大きく揺らぐことがないため、リスクを減らすことが出来ます。

何故ブランド力を高めなければならないのか


ブランド力が重要になるもう一つの理由として販売価格が挙げられます。利益というのは簡単に言えば、売上から経費を差し引いて計算されます。
この利益を上げようと思った場合、方法としては売上を上げるか経費を削減するか、それとも両方を行うかのいずれかです。
この場合、経費を削減するのは自社の努力でなんとかなるため、手を付けやすいですが、経費はどれだけ頑張ったとしても限度がありますし、あまり削減しすぎると製品の品質が低下したりもします。

こうして考えると、企業を成長させるためには売上を上げなければなりませんが、ではどうやって売上を上げるのか。
売上というのは、販売数と販売価格をかけ合わせたものなので、仮に市場規模的に販売数を増やすことが難しいとした場合、販売価格を上げるしか方法はありません。
この販売価格を上げる為に必要なのが、ブランド価値の上昇です。

ブランド力は価格に反映される


例えば、原材料1000円で仕入れた物に職人が1時間手を加えた製品があったとしましょう。この製品価格は、その職人や職人を雇っている会社のブランド力によって変化します。
具体例で服飾メーカーで考えてみると、ユニクロが出している服とシャネルが出している服で、どちらの方が粗利が高いかで考えてみると良いかもしれません。
両方のブランドの最終的な服の値段から原材料費を差し引いた残りの金額は、両者で同じにはならないでしょう。

ではこの差は何なのかというと、ブランドが持つ価値です。このブランドの価値。ブランド・エクイティに顧客は余分に金を支払っているんです。
これは企業側から見れば、ブランド力を上げれば上げるほど販売価格を上げることが出来る様になるとうことです。
ブランド力を上げる行為は、企業にとって良いことしか無いため、基本的に企業はブランド力を上げる方向で戦略を練っていきます。

ブランド力を上げる方法


このブランド力を上げる方法ですが、この一連のブランド回の最初にも言いましたが、基本的には地道に実績を積み上げていくしかありません。
ターゲットとしている顧客が何を求めているのかを知ろうとし、それを実現させるために品質の改善やコストの見直しを行って、顧客に彼らが支払った値段以上の満足度を与え続ければ、いずれ評価されてブランド力は上がっていきます。
この様な地道な作業が基本となるのですが、この他の戦略として、自社がすでに持っているブランドや他社が持っているブランド価値を借りてくるという方法もあります。

自社ブランドを利用する場合は、ブランド拡張やダブルブランド戦略となります。 他社から借りてくる場合は、ダブルチョップとなります。
ダブルチョップを簡単に復習すると、自社が企画した商品であっても、製造メーカーの方がブランド力や知名度が高い場合は、製品に製造メーカーの名前も併記して販売する方法です。
自社ブランドが無名であっても製造メーカーの方が有名であれば、そちらの名前で売れるでしょうし、その商品を長く売り続けていれば、いずれは併記していた自社ブランドの名前も定着して信用されるようになります。

利用できるブランド


ほかからブランドの力を借りてくるというとたいそうに聞こえますが、世の中をよく注目すると多くの会社が実際に行っているのがわかります。
例えばスーパーで売られている食材で、産地によって値段が違う状態を見たことはないでしょうか。日本では国産がブランド化しているので、国産と名前が付けばそれだけで割高に売れるという状態になっていたりします。
この様な状況であれば、国内の生産者から仕入れた商品については『国産』と銘打って売り出せば、それだけで販売価格を上げることが出来るようになります。

食材の場合は、何を持って美味しいのかというのは人によって違うため、国産が本当に美味しいのか、品質が高いのかはわかりませんが、そのブランドをつけることでブランド価値が上る可能性があるのであれば、利用を考えて見る価値はあります。
同じく食料品関連で言えば、ブランド食材を材料に使っていると大々的に宣伝しているような飲食店もありますが、あれも見方を変えれば他社ブランドの利用となります。
料理というのはどの様な食材を使ったところで調理するものの腕が悪ければ品質の高いものは出来ませんし、料理人の腕が良かったとしてもその人の料理が自分の口に合うかどうかは別問題です。

その為、『料理が美味しい』と宣伝することは難しいですが、食材にブランド物を使っていると宣伝するのは、実際にその食材を使っているのであれば単に事実を述べているだけなので簡単です。
簡単である上に、顧客の方が勝手に『料理の品質は高いはずだ』と思い込んでくれるので、料理の値段が多少高くても納得してもらいやすくなったりもします。
このようにして引き上げられる価格は、実物としての商品の価値そのものが上昇しているわけではないので、ブランド価値の上昇と言うことが出来ます。

他社ブランドに頼らずに自力でブランド力を高める場合は、王道としては自社製品の品質を上げるためにどの様な改善活動をしているのかと言ったことを積極的にアピールすることですが、会社が社会にどの様に貢献しているのかをアピールする方法もあります
最近で言えば環境問題が問題視されていますが、この環境問題にどの様に取り組んでいるのかというのをアピールするのも一つの手でしょう。

このようにしてブランドのイメージを引き上げることで販売価格や販売数量の増加を狙っていくのが、ブランド戦略です。
以上でブランドについての話は終わります。次回からはカテゴリーを変えて、経済や財務について話していきます。

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第127回【饗宴】エロスの行き着く先 前編

目次

注意

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。

▼▼Apple Podcast▼▼

podcasts.apple.com

▼▼Spotify▼▼

open.spotify.com

noteについて

noteにて、番組のサポートを受け付けています。応援してくださる方は、よろしくお願いします。
note.com

▼▼youtubeチャンネル登録はこちら▼▼

youtubeでは、音声コンテンツでは聞けないバックナンバーも聞くことが出来ます。
だぶるばいせっぷす - YouTubewww.youtube.com
youtu.be

前回のリンク

kimniy8.hatenablog.com

両極端な考え方

今回も、対話篇の『饗宴』の読み解きを行っていきます。
前回は、これまでにソクラテスが行ってきた両極端に答えを求めるという姿勢に対して、ディオティマが中間に存在するものも有ると説明をした回でした。
両極端な答えを求めるというのは、簡単に言えば『はい』か『いいえ』で答えを求める。『はい』の場合はAだ、『いいえ』の場合はBだと決めつける様な論法です。

例えば、アナタは全知全能ですか?と質問し、『いいえ』と応えると、『では、アナタは愚か者ですね。』といった感じで、賢者と愚か者しかこの世にいないと決めつける話し方です。
ソクラテスは、『既に持っているものを欲しいと思うものはいない。』という前提をまず置いて、エロスが美しいものを欲するのであればエロスは美しさを宿していないので、醜いものになってしまうと主張しました。
しかし、対話相手であるディオティマは、世の中はそんな両極端には出来ておらず、美しくも醜くもない中間的な存在が有ると主張します。

自分に足りないものを知っている人間

そして今回のテーマとなっているエロスという概念は、美や慈愛に関する知性と充足という概念に欠乏という概念を合わせたものなので、美や慈愛を獲得するための知性を持ちつつも、それが欠乏していくために、美や慈愛に対する欲望が消えないと主張します。
この世に全知全能の存在が有る場合、その者は新たに知識を手にれるための行動は行いませんが、逆に無知なものも、自分自身に知識が足りていないことが理解できていないため、何の勉強をしてよいのかが分からず、行動を起こしません。
しかし中間に位置する者は、全知全能では無いために知識が欠けていますが、無能ではないため、自分に足りない知識を自覚して、それを手に入れるためにやらなければならない事を理解し、行動して手に入れます

これは、身近なケースに当てはめて考えてみると分かりやすいと思います。 学校や会社で能力が低く、いつも注意されている人がいるとして、その人は、勉強や仕事の重要性や今やらなければならないことを理解しているのでしょうか。
こういう人に限って、上司や優秀な人のあら捜しをして悪口や陰口を叩いたりすることがありますが、彼らは賢く能力も有るから、自分よりも上の立場の人間を叩くのかといえば、必ずしもそうではありません。
自分が今どの地点にいるのかが理解できていないので、自分に非はないと思い込んで、その様な態度を取るんです。 自分自身に何が欠けているのが理解できていないため、その部分を補うために何をしてよいのかもわからず、無責任に他人を責めます。

では、どの様な人間が自ら知識を求めて行動するのかというと、自分に足りないものを知っていて、それをどの様にすれば補うことが出来るのかを知っている人間です。
自分で課題を設定してそれに取り組み、欠けているものを補ったり弱点を克服する事で一歩前に進む。 次はその進んだ地点を基準にして、次の課題を設定する。
両者を比べると、前者は無知であるために自分が良い方向へ進むのに何が必要なのかが分からず、故に何かを追い求めることはしませんが、後者は何をしなければならないかを知っているために、常に改善を行い続けます。

中間に存在する人

この両者を第三者の視点で見比べた場合、ソクラテスが最初に指摘したように『後者の人間は無能であるが故に努力している、本当に有能であれば、努力の必要なんて無い。』なんてことが言えるでしょうか。
ではこの後者の者は全知全能かと言えば、そんな事もいえないでしょう。全知全能であれば全ての知識を有しているため、知らない知識を求めて努力する必要はないからです。
なら、この人はどこにカテゴライズすれば良いのかというと、無能でも全知全能でもなく、中間に存在する人になります。

中間に存在している人は、無能な人と比べれば有能ですが、全知全能かといわれるとそうではないため、理想を目指して努力することになります。
自分に足りないものを見つけ出して課題とし、計画を立てて実行し、順調に達成できているかどうかをチェックし、進捗度合いや目標までの距離を確認して改善策を考える。
そして改善策が見つかれば、それを新たな計画に取り込んで実行する。

この様なサイクルを、plan,do,check,action の頭文字をとってPDCAサイクルなんて言ったりしますが、こうしたサイクルを回せる人は、世間一般では有能な人とされますが、カテゴリー的には中間の人となります。
この例え話では、勉強や仕事について話しましたが、これを『美しさ』に変換すれば、エロスの性質を理解しやすいでしょう。
エロスは美を追求する『愛するもの』であり、既に美を宿していて『愛されるもの』ではありません。

エロスの行き着く先

以上の説明を受けてソクラテスは、エロスの存在がどのようなものかを理解し納得したのですが、ではその存在が、人間にどのようなことをしてくれるのかがわかりません。
アガトンが主張したように、エロスがアレテーと同じ様な存在であれば、それを宿せば卓越した人間になることが出来るでしょう。
しかし、ディオティマが定義する様な中間のものであるエロスを宿したとして、人にはどの様な影響が出るのでしょうか。

この疑問に対してディオティマは、エロスが求めている『美しいもの』という概念を、『善い』という概念に変えて考えてみると、分かりやすいかもしれないと提案します。
繰り返しになりますが、ディオティマが主張するエロスの定義は、自分に足りない美しさを欲し、それを手に入れるために必要な知性を宿し、行動を起こして手に入れるというものです。
ではこれを、善いに変えるとどうなるかというと、『善いものを欲し、それを手に入れるために必要な知性を宿し、行動を起こして手に入れる。』というものに変わります。

では、この概念は何故、『善い』ものを欲し、良い存在になろうとするのか。
過去に取り扱った対話篇でもこの話題は繰り返し登場し、その度にソクラテスは、この様に答えていました。『幸福になるために。』

参考文献



【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第126回【饗宴】エロスの誕生秘話 後編

目次

注意

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。

▼▼Apple Podcast▼▼

podcasts.apple.com

▼▼Spotify▼▼

open.spotify.com

noteについて

noteにて、番組のサポートを受け付けています。応援してくださる方は、よろしくお願いします。
note.com

▼▼youtubeチャンネル登録はこちら▼▼

youtubeでは、音声コンテンツでは聞けないバックナンバーも聞くことが出来ます。
だぶるばいせっぷす - YouTubewww.youtube.com
youtu.be

前回のリンク

kimniy8.hatenablog.com

感覚的な世界

ここで登場する神々の世界と人間の世界を、この言葉のままに受け入れると、かなり宗教的な感じを受けてしまいますが、ここでプラトンが作品を通して伝えようとするイメージとしては、感覚的な世界と物質的な世界があるということでしょう。
目で見たり聞いたり触ることで直感的に理解できる世界と、一部の才能のあるものだけが到達することが出来る感覚的な世界があって、感覚的世界のことを神の世界といっているんだと思います。

これだけではイメージが伝わりにくいと思うので、対話篇に書かれている例を紹介すると…
先ほど説明したように、神の声や意思を聞いて知識を得て、それを皆に伝える事ができる才能を持つ人間の事を賢者と呼びますが、神の世界はこれだけでなく、肉体を通してもコンタクトを取ります。
例えば、一流の彫刻家や大工は、普通の人間が真似できないような技術を感覚的に身に着けて、実際に腕を振るうことが出来ます。

これは、技術的な仕事やスポーツなどをされた経験が有る方なら分かると思いますが、この様な体を使う分野の場合、教科書を読んで知識を得たからと言って、一流の職人や選手になれるわけではありません。
おそらくこれが正しいのだろうという感覚的なことを、反復作業を通じて身につけていきます。
普通の人間にとっては完成させることすら難しい彫刻ですが、ルネッサンス期の有名な芸術家であるミケランジェロは、彫刻は石の中に眠っている完成品を取り出す作業に過ぎないといっています。

既に完成品が石の中に埋まっているのだから、それを取り出すのに難しいことを考える必要はないとでも言いたいのでしょう。
しかし彫刻の素人が、この様な感覚的な説明を聞いたところで、石の中にある完成品を取り出せるようになるのかというと、なりません。
ですが、実際に技術を身に着けた側としては、その様にしか説明ができない状態に有ります。 この様な状態を、精霊を通じて感覚的な世界とつながったとしているのでしょう。この様な境地に到達した技術者は、技術に関わる賢者になります。

エロスの誕生秘話

次にディオティマは、エロスの誕生のきっかけとなる神話について話し始めます。
ここで注意ですが、この神話では、エロスとアフロディーテは別のものとして扱われています。

ディオティマがいうには、エロスが誕生する切欠となたのは、アフロディーテの誕生祭です。 この祭りには、叡智の女神メーティスとその息子である充足の神ポロスも出席して誕生を祝ったそうです。
この誕生祭は滞りなく進むと思われたのですが、祭りの終わり際になって、ペニアという貧乏神が呼ばれてもいないのに宴会の場に現れます。
この貧乏神ペニアは、自身が恵まれていないため、一発逆転を狙って酔いつぶれているポロスの寝込みを襲い、二人との間に子供を作ることに成功します。こうして誕生したのがエロスという神です。

エロスはアフロディーテの誕生祭が縁で生まれたということで、アフロディーテの従者にして下僕となります。アフロディーテは美の化身であるため、その従者であるエロスは、常に美を追い求める性質となります。
エロスはこの他にも、充足の神である父親ポロスと、その親であるメーティスの性質も併せ持つため、美しいものを知略を尽くして手に入れる能力を持ちます。
しかし、貧乏神である母親の性質も受け継いでしまっているため、手に入れた美しいものは指の間からすり抜けてしまい、最終的に無くなってしまいます。 これらの性質を併せ持つため、常に何かを求めてさまよい続けるのがエロスです。

神話の読み解き方

この神話での例え話ですが、前にも話したと思いますが、純粋に物語として読もうと思うと、本質を見失う可能性が有ります。
解釈の仕方としては、概念同士の位置関係や足し算引き算で考えるようにすると、理解しやすいと思います。

今回の場合でいうと、まず、美しさや愛情、慈しみという概念が大枠として存在して、その中に『知性』と欠けたものを補って満ち足りるという意味の『充足』と、常に満たされない状態である『貧乏』『欠乏』といった概念を集めます。
知性や充足、貧乏・欠乏という概念は、美しさや愛情、慈しみというアフロディーテという概念の大枠の中にあるため、それぞれがアフロディーテの属性を帯びることになります。
つまり、美しさや愛情、慈しみを手に入れるための知性と、それらを手に入れることで満足する充足という概念、美や慈愛が欠乏しているという概念になり、エロスはそれらをすべて備えている概念になるということです。

エロスという概念は、知性によって慈愛を獲得して一時的な満足感を得ることは出来るけれども、貧乏や欠乏という概念によってその満足感は失われるため、結果として常に慈愛を求める性質を持つことになります。
この様に定義されたエロスという概念を改めてみてみると、エロスは慈愛や美という概念を獲得する能力を持ち、一時的であれ満たされる為、醜い存在とはいえません。
しかし、欠乏という性質によって充足の状態を維持することが出来ないため、エロスは美や慈愛の究極的な存在かといえば、そうともいえず、結果として中間の存在となります。

愚か者と賢者

次に、ソクラテスがこれまで主張してきた両極端の概念について考えていきます。これまでの対話篇でもそうですが、ソクラテスはAで無いならBだという主張を続けていました。
今回の例で言えば、既に所有しているものを欲するものはいないため、美を欲しているエロスは美を所有していない。つまり、エロスは醜い存在だというのが、これに当たります。
この様な、美しくないものは全て醜い、賢者でなければ全て愚か者、この世界には相反する概念が存在するだけで、中間なんて存在しないという考えは、正しい主張なのでしょうか。

これに対してディオティマは、そんなことは無いとして、中間という存在が有るというのを説明するために、例え話を始めます。
例えば、全知全能の神という存在を定義した場合、その神は、新たな知識を手に入れるために勉強するなんてことはしないでしょう。なぜなら、この世のあらゆることについての知識を既に持っているわけですから、知らないものなんてものはありません。
無いものを見つけ出して身につけるなんてことは出来ないので、この全知全能の神が新たな知識を追い求めるなんてことはしません。

ではその正反対に属する、無知な者、愚か者についてはどうでしょうか。 知識を追い求めるために勉強をするのでしょうか。
結論から言うと、愚か者達も勉強なんてしません。 何故なら、愚か者はその愚かさ故に、知恵の存在を知りません。
愚か者は、自分自身は賢くもなく美しくもなく、何も満たされていないにも関わらず、自身に欠けているものが何かを知らないために、このままで良いという現状維持を選んでしまいます。

『中間の存在』は成長する

では、中間に存在する人はどの様な行動を取るのかというと、自分に足りないものを認識し、それを手に入れるためにはどの様にすれば良いのか、筋道を考えて行動に移していき、一歩ずつ確実に前に進んでいきます。
この者は全知全能ではないため、何かしらの欠陥を抱えていますが、無能ではないため、その欠陥と、どの様にすれば補えるのかを知っていて、行動に移すことが出来ます。
つまり、世間一般でいわれている有能な人というのは、ほぼ全てがこの中間に存在するとなります。

そして次にディオティマは、エロスとはなにの化身なのかを話していくのですが、その話はまた次回にしていきます。

参考文献