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ホワイトカラーではないブルーカラーからの視点

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第126回【饗宴】エロスの誕生秘話 前編

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この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。

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今回も、対話篇『饗宴』の読み解きを行っていきます。

美の化身が美を求めるはずがない

前回は、ソクラテスが饗宴で行われているゲームの前提が自分が思っていたものと違うとして、難癖をつける回でした。
その中でもソクラテスは、アガトンの『複数の徳性を従えて、全ての人から称賛されているエロスは美しさを求めているため、この世界は美しくなろうとする。』という主張の『エロスは美しさを求めている。』という部分がおかしいと指摘しました。

これのどこが変なのかというと、人は、欲しい物を手に入れて充実感や満足感を得ると、同じものは欲しいと思わないからです。
何故、人の感情がエロスの行動に関係しているのかというと、エロスは人という存在に依存しているからです。
人が、何かしらのものを欲しいと思ったり愛したり慈しんだりする感情を神格化させたものがエロスなので、エロスという神は単独で存在することが出来ないからです。

エロスが人の感情に依存している存在ということは、エロスの振る舞いは人が思い感じる事がベースとなる為、人が『既に手に入れたものを欲しいとは思わない。』と思うのであれば、エロスもその様に思うはずです。
では、この前提を置いた上でもう一度、『エロスは美しさを求めている。』という文を見直してみると、エロスは美しさを宿していないことがわかります。
なぜなら、既に究極の美しさを宿しているのであれば、さらなる美しさを求めるなんてことはしないからです。 エロスが美しさを求めるのは、完全な美しさをまだ手に入れていないからです。

中間の存在

これは、一見すると屁理屈のようにも思える主張ですが、論理的に考えてみると、否定もできず筋も通っていそうな主張です。これに対して指摘された側のアガトンは、納得してしまいます。
この様な指摘をソクラテスが行った理由としては、自身も過去に同じようなことを考えていて、その様に主張もしていたけれども、その意見をディオティマというエロスを極めたとされる女性に正されてしまったからです。
どの様に正されたのか。 彼女がいうには、ソクラテスやアガトンの主張では、この世には両極端の概念しか存在しないことになってしまいます。

例えば、美しいもの以外は全て醜いもの。 賢者以外は全て愚か者といった具合に、究極の存在が1つあり、それ以外は全て駄目という100か0しか無いことになります。
しかし実際にはそんなことはありません。 賢い者と愚か者は独立してバラバラに存在しているわけではなく、両者にはその中間が存在します。

これは、偏差値などで考えると分かりやすいかもしれません。
偏差値だけで頭の良さが図れるとは思いませんが、一応の目安にはなると思いますので偏差値で考えてみると、偏差値というのはそれぞれを相対評価して、自分自身が全体のどれぐらいの位置にいるのかを確認するための数値です。
もし、ソクラテスの言うような両極端の概念しか存在しないのであれば、自分が全体のどれぐらいの位置にいるかなんて考えそのものが無くなります。

テストの点数でいうのであれば、100点を取るものと0点を取るものしかいないことになるので、賢いか馬鹿かの2つに分かれることになってしまいます。
しかしそんなことはなく、実際には中間のものが存在します。以上のことを踏まえた上で、エロスについて考えていくと、エロスが美しさを求めるからと言って、必ずしも醜いとはいえないことになります。
つまり、エロスは相対的には美しいが絶対的な美を持っていない中間的な存在だということです。

不完全な神

しかし、これに納得ができないソクラテスが『神は究極の概念を神格化したものだから全ての人から称賛されているはずなのに、その神が中途半端な存在ということが有るえるのですか?』と質問を投げかけます。
これに対しディオティマは、『全ての人から称賛されているというが、ここに、エロスを神として信じていない人間が2人もいるじゃないか。 それは、私とソクラテス、お前だ。』と言い放ちます。
ソクラテスは神を信じていないと不敬罪で訴えられて死刑判決が下された人物ですが、自分自身では神の存在を疑っていないと思い込んでいるので、この発言が理解できないため、その理由を訪ねます。

するとディオティマは、『神という存在はどのようなものだろうか。 アナタは全ての神々は幸福で美しい存在だと思いませんか? それとも神々の中には、何かしらが欠けているために美しくもなく幸福でもない者がいると思いますか?』と問いかけます。
これにソクラテスは、『全ての神々は美しく、幸福を手にしている存在だ。』と答えます。これは言い換えれば、神は絶対的なものなので欠けているものはなく、満足感と充実感を常に得ていて幸福だと言っているのと同じです。
しかしこの答えは、ソクラテスがディオティマに尋ねた疑問に反した答えとなります。

その疑問とは、『エロスが真に美しい存在であるのならば、エロスは美を求めないはず。美を追求するということは、自身が美しさを手に入れていない状態だから、つまりは醜いからではないのか。』という疑問です。
この疑問を言い替えると、エロスは美しさが欠けているから美を求める行動を取る。これは、自身に欠けているものを補うために行動している事と同じで、満足感を感じていない、幸福とはいえない状況といえます。

これを短くまとめると、『エロスは自身に美しさが無いため、美しさを追い求めている不幸な神』ということになってしまいます。

ダイモニア

人の感じ方としては、憧れのものを手に入れたいと努力している状態こそが幸福だと考える方も多いでしょうけれども…
この場で語られている幸福の定義とは、欲しい物を手に入れて満足感や充実感を得ている状態のことなので、エロスは、自身が欲しいと思っている『美しさ』を手に入れられていない状態となるため不幸となります。

ソクラテスは、『全ての神は美しく、幸福を手にしている存在。』と定義する一方で、『エロスは美しさを追い求めている。』といってしまっているので、エロスは神々には含まないと言っているのと同じことになります。
つまりソクラテスは、先程ディオティマが指摘したとおり、エロスを神の一員としては認識しておらず、称賛もしていないということになります。
自分はエロスを神だとし、尊敬していると思っていたソクラテスは、それが思い込みだったと思い知らされ、ディオティマにエロスの正体を尋ねることにします。

これに対しディオティマは、『エロスは神と人間の間を取り持つ存在である精霊(ダイモニア)である。』と答えます。
ダイモニアとは、過去に扱った対話篇『ソクラテスの弁明』にも登場しましたが、神と人とをつなぐメッセンジャー的な役割を持つものです。
古代ギリシャでは、神と人間とは次元が違いすぎて、直接コンタクトが取れないと思われていました。

しかし実際には、神の声を聞くといわれている巫女が存在しています。では彼女たちは、神の声が聞けるのかというと、聞けません。
そこの登場するのが精霊で、この者達は神と人間との間を通訳のように取り持つことで、人間と神との対話を成立させます。
では、この精霊がいれば、誰でも神とコンタクトが取れるのかというと、そういうわけでもなく、精霊を通じて神の声を聞くには一種の才能が必要で、その才能を持つものが、巫女や占い師や司祭や預言者と呼ばれたようです。

神の世界と人間界には大きな隔たりが存在しますが、この精霊がメッセンジャーの役割を果たすことで、2つの世界を1つにまとめているようです。

参考文献



【Podcast #カミバコラジオ 原稿】第57回【経営】ブランド8

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ライン拡張戦略


今回も前回の続きで、ブランド戦略について話していきます。
前回に紹介した戦略は、ライン拡張戦略とブランド拡張戦略でした。

まず、ライン拡張戦略から振り返ると、これは既存ブランドで既存製品を出していく戦略です。既存製品とは既に売っている商品と全く同じ商品というわけではなく、同じ様なカテゴリーの商品という意味です。
具体例をだすと、アパレルの場合で言えば、同じターゲット層に対してブランドの雰囲気を崩さないような同系統の服であったり、これまでの商品の色違いやサイズ違いを出すといった感じです。
サイズ違いといっても、アパレルの場合はあまりに大きなサイズを出してしまうとデザインのシルエットも崩れてしまうでしょうし、ターゲット層そのものも変わってしまいそうですが、そういった場合はこれには当てはまらないと考えて良いです。

ブランドというのはイメージであるため、きっちりとした線引が出来るようなものでもありませんので、ケースバイケースで考えてもらいたいのですが…
これまでに販売してきた製品と同じイメージの商品を引き続き同じブランド名で出していくのが、このライン拡張戦略です。
この戦略によって得られる効果は、同じイメージの商品郡を出し続けることによって、そのブランドのイメージを固定化させることが出来るようになることです。

自社商品を思い出してもらう


顧客の頭の中で、ブランドイメージを特定の製品群に関連付ける事によって、顧客がその製品を買いたいと思った際に、真っ先に思い出してもらえるようになります。
何故、顧客に真っ先にブランド名を思い出してもらわないといけないのかというのは過去にも説明してきましたが、簡単に言えば、思い出してもらえないような商品は売れないからです。
人は、頭の中で思いついた行動しか起こせませんので、見込み客が消費したいと思った時に、自社の製品のブランド名や販売先の店名などの場所のブランド名を思い出してもらえることは、そのまま売上に直結することになります。

人間は物を覚える際に段階があり、最初は普段はブランド名を忘れているけれども、実際に商品を見たり人から名前を聞いたら思い出せる様なレベルから始まり、最終的には商品カテゴリーを聞いただけで真っ先に思い出すようなレベルに到達します。
心理学的には4段階ぐらいに分かれるそうですが、この中のどの段階にも入らないような無名ブランドの場合、顧客の購買リストにはそもそも入りません。
この状態というのは、検索に引っかからないホームページのようなもので、仮に存在していたとしても誰もその存在を知らないので手に入れようとも思いません。

この状態を避けるために、自社のブランド力を育てる。もしくは育った自社や他社のブランド力を利用する方法として考え出されたのが、ブランド戦略といえます。

ブランド拡張戦略


話が反れたので元に戻して、次のブランド拡張戦略ですが、これは先程とはある意味真逆の戦略で、既存のブランドを使って別の分野に進出していくという戦略となります。
先程のライン拡張戦略が、どちらかといえばブランドに特定のイメージを与えることでブランド力を育てていくことに重心を置いているのに対し、こちらは既存のブランド力を利用することに重心を置いています。
既存のブランド力を利用する戦略であるため、当然ですが、既存ブランドにそれなりのブランド・エクイティ、つまりブランドとしての知名度が高くなければ意味はありません。

意味はないというのは、知名度がないブランドがこの戦略をとったからといって、売上は増えないということです。
そのため、そもそものブランド力がない場合は、先ほど紹介したライン拡張戦略でブランドイメージやブランドとしての信用力を高めた方が良いということになります。
一方で、既に強力なブランドを持っている企業の場合は、既存ブランドで培ったブランド力を武器にして、新分野に進出することも可能となります。それがこの、ブランド拡張戦略です。

イメージの抽象化


このブランド拡張戦略に必要なブランドイメージとしては、個別商品に紐付けされる様な具体的なイメージではなく、『信用できそう』とか『質が高そう』といった曖昧なブランドイメージの方が良いです。
何故なら、具体的な商品イメージに紐付けされたブランドイメージというのは、新規市場で活かすことが出来ないからです。
例えば、精密な電気機器をつくっている会社が外食産業に進出した場合に、電気機器と料理との間には大きな乖離がありますので、この乖離によって、新規市場でのブランドの関連付けが難しくなってしまいます。

また、新規市場の方で頑張れば頑張るほど、元々あった精密機器メーカーとしてのブランドイメージが崩れていき、外食企業としてのイメージが濃くなっていってしまうため、会社全体として売上が上がるかどうかもわかりません。
大抵の場合は、ブランドイメージが崩壊して何をしたいブランドなのかがわからなくなってしまうことで、顧客に忘れ去られてしまう可能性が高いです。
何故なら、人はシンプルな関係性の方が覚えやすく、一方で要素が多くなんだか良く分からないものについては理解しようとは思わず、忘れる方を選ぶからです。

しかし『信頼できる』とか『質が高そう』といった曖昧すぎるイメージは、曖昧すぎるが故に、あらゆる分野で通用しますし、この様なイメージが製品に負荷されると、大抵はイメージがプラスになります。
この様なブランドイメージを持つ企業が行える戦略がブランド拡張です。

マルチブランド戦略


次に紹介するのはマルチブランド戦略で、これは、既存製品をブランド名を変えて販売していく戦略です。
同じ様な商品をブランド名を変えて売る利点としては、売り場の販売スペースを増やす効果があります。

売り場の販売スペースを増やすとは、例えば私の得意先にお菓子メーカーがあります。そのメーカーは自社で販売を行うのではなく、小売店に販売を委託する形で商売をしています。
この様に、メーカーが自社で販売を行わずに小売店に任せるという方法は多くの企業がとっている販売方式だと思いますが、この方式の場合は当然ながら、小売店側がある程度の影響力を持つことになります。
売店側が巨大な店舗網を持っている場合は当然ですが、自分が作っている商品カテゴリーで競合他社が多く、なおかつ商品の差別化も出来ていない場合は、多数あるメーカーの中から自社の商品を小売店に採用してもらわないといけません。

この様な状態だと、小売店側の立場が強くなってしまいます。 これはかなり前に紹介した、『5フォース分析』の買い手の交渉力に当てはまります。
この小売店側が、『取扱商品を増やしたいので、従来の商品の陳列スペースを半分にして、空いた棚に新製品を置きたいので、新商品を持ってきて』と言ってきたとすれば、なんとかして小売店側の期待に答えなければなりません。
何故なら、もしその期待に答えられなければ、その空いた棚には他社の製品が並ぶことになるからです。ライバルが増えれば当然、自社製品に余程のブランド力がない限りは売上が減ることになります。

こういった要求に答えるために新商品を作る場合、現在つくっているのと似たような商品を別のブランド名で出すのが一番手っ取り早いです。
全くの新商品を考え出そうと思うと、研究開発費や期間が必要となりますが、これまでに作ってきた商品と同じカテゴリーのものであれば、既に製造ノウハウもその分野に詳しい人材もいるため、コストが掛かりません。
これまでの商品を少しマイナーチェンジして、パッケージを変えてブランド名を変えれば、顧客にはそれが新商品に映ります。

メーカー側の理由


この他の理由としては、ブランド=イメージというのは前々から繰り返し言っていますが、これは逆に言えばブランド名を変えることでイメージを刷新できることにも繋がります。
そのため、これまでの商品展開とイメージを少し変えた商品ラインナップも作っていきたいと思う場合は、敢えてブランド名を変えることでイメージの方も変えることが出来るようになります。
例えばアパレルなどは、女性用の服飾メーカーとして同じターゲット層に対して服を作り続けているのに、複数のブランドを持っているメーカーがあったりします。

洋服というのはイメージの部分が大きいですから、微妙な世界観の差でブランド名の方も変えていくというのは行われやすいです。
電機メーカーなどがブランド名として自社の会社名をつけるのに対し、アパレルメーカーは製品ブランドの方を全面に出していることも多いです。
例えば、ユニクロファーストリテイリングとでは、どちらが知名度が高いかで考えてみると分かりやすいかもしれません。

新ブランド戦略


そして最後が、新ブランドです。これは、新しい製品を新しいブランドで販売していくもので、言い換えるのなら、これまでに自社で育ててきたブランド資産を使わない戦略となります。
既存ブランドを使わないのは、大きく分けて2つぐらいの理由が考えられます。
一つは、シナジー効果を切るためです。

既存ブランドの商品と毛色が違いすぎる市場に打って出る場合は、既存製品のブランドイメージが新市場に合わないことがあります。
この様な場合は、無理に既存ブランドを利用するよりも、新たにブランドを立ち上げてイメージをイチから作り上げていく方が良かったりします。
何故なら、仮に既存ブランドと同じ名前をつけたとした場合、新規事業立ち上げ直後は既存ブランドのイメージに新商品が引っ張られてしまって商品のイメージ付が難しくなってしまうからです。

仮に新規事業が上手くいった場合は、次は既存ブランドのイメージが新規ブランドの方に引っ張られてしまいます。このイメージが引っ張られるというのは、事業が成功した状態だけでなく、失敗してしまった場合も同じです。
これは失敗の仕方もあるのですが、製品品質や信用問題に関連するような失敗をしてしまった場合は、悪影響はその製品にとどまらず、ブランド全体に波及してしまいます。
この場合、新ブランドを立ち上げてブランドそのものを分けていれば、既存ブランドの方は名前が違うために同一視されず、失敗は新ブランド内だけで収まる可能性があります。

もう一つの理由は、企業買収などで他社ブランドを傘下に収めた場合です。買収するということは良いブランドだから買ったんでしょうし、その様なブランドは既に市場で高い信頼を得ている場合が多いです。
この様な場合は、敢えて自社ブランドに変えて販売するよりも、そのままのブランド名を使った方が一貫性が保てて顧客も混乱しないために、良いと考えられます。
以上がブランド戦略の説明です。

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第125回【饗宴】『美しさ』を求める者は醜いのか 後編

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今回も、対話篇『饗宴』の読み解きを行っていきます。

定義を確かにする

前回までの放送では、アガトンが開催した饗宴で行われた『誰が一番エロスを称えることが出来るのか』というゲームで、ソクラテスより前に行われた5人の主張を簡単に紹介しました。
その主張を聞いたソクラテスは、最後に行われたアガトンの主張の1部分には同意しつつも、納得できない点を挙げました。

ソクラテスが同意した部分としては、エロスそのものの定義をしっかりとしようという点です。
過去の対話編でもそうですが、ソクラテスはテーマとなっているものについての定義をしっかりと定めようとします。
その理由としては、テーマの定義がしっかりと出来ていないと、途中で論点をずらされたりするからです。

ソクラテスのこれまでの討論の相手というのはソフィスト達でしたが、彼らは論理学を使って相手を言いくるめる詭弁家と言われていました。
詭弁家は、真理に到達するために討論を行うのではなく、目先の討論に勝ち『ハイ!論破』と言いたいだけで討論をしているため、揚げ足取りやゴールずらしなどをスキあらば行おうとします。
その為ソクラテスは、彼らと話す際にはルールを決め、テーマや用語についての定義を明確にしていました。

手に入れたものを欲する人はいるのか

今回のゲームではアガトンも、メインで取り扱っているエロスに対する定義をしっかりとしなければならないと主張していたため、その部分には賛成をしました。しかしソクラテスは、アガトンが行ったエロスの定義には納得ができませんでした。
アガトンが行ったエロスの定義をもう一度簡単に振り返ると、エロスは正義であり節制と勇気を従えて、エロスを抱くものは知性を宿すということで、最高善であるアレテーと同じ様な概念であるとしました。
そして、そのエロスは美しいものを求めているため、この世界は美しくなろうとしている。 故に、エロスは偉大だとしました。

これに対してソクラテスは、エロスは単独で存在できる概念では無く、人間の感情に依存する概念だとした上で、『人は、既に所有しているものを所有したいと思うのだろうか。』と疑問を投げかけます。
エロスは人間の欲望を神格化したものなので、人の欲望にスポットライトを当てて考えてみると、人が欲しているものを手に入れて欲望が満たされとして、それを更に欲するのかということです。
大抵の人は、欲しいと思っていたものを手に入れた場合、更にそれを欲することはないでしょう。 ワンルームに住む人が、憧れの60インチのテレビを手に入れたとして、その直後にもう一台欲しいとは思わないはずです。

エロスが人の感情に起因する概念である以上、この法則は、エロスにも当てはまるはずです。
つまり、エロスは既に手に入れているものを、更に欲することはないということです。
しかしアガトンは、エロスは美しいものを欲するため、この世界は美しくなろうとすると主張しました。

この主張を先程の法則に当てはめると、エロスが美しいものを欲するのは、エロスが美しさを手に入れていないからということになります。
エロスは美しさを手に入れていない、言い変えるのなら、エロスは醜いということになってしまうのですが、これに対してアガトンは反論できず、納得することになったというのが、前回の話でした。

ディオティマ

次にソクラテスは、自分の主張をしていこうと思うのですが、ソクラテス自身は無知な者を自称しているため、エロスについてはわかりません。
対話篇のプロタゴラスでも取り扱いましたが、最高峰のソフィストであるプロタゴラスと対話をしても、最高善や徳と呼ばれるアレテーと、その構成要素とされている徳性の関係性すらわかりません。
しかしソクラテスは過去に、ディオティマという女性からエロスについて教えてもらったことがあるので、その時に教えてもらったことを披露します。

実はソクラテスは、自分自身も先程アガトンが行った主張と同じ様な考えを持っていました。しかし、それをディオティマに先程の理論で否定されてしました。
この時ソクラテスは、自分の意見がどの様に間違っているのか、また正解は何なのかが分からなかったため、ディオティマに教えを請いました。
その時に教えてもらったディオティマの主張を、自身の主張の代わりに語っていきます。

欠損が欲望を生む

まずエロスの定義ですが、エロスは人間が抱く愛情にまつわる全ての欲望や感情を神格化させた存在なので、その言動は人の感情が基準となります。 その為、人が抱かない感情はエロスの性質とは言えなくなります。
つまり、神話に登場するエロスやアフロディーテのとる行動は全て、人の抱く感情に由来している行動であるため、エロスは人が想像もできないような行動を取ることはないということです。
彼女たちの行動は、人間が抱く欲望やそれに起因する感情の揺らぎに関連する言動しか行わない。

では、私達人間はどの様な時に欲望を抱くのかというと、何らかの欠損を抱いたときとなります。
例えば、人が新たにテレビが欲しいと思う時は、現状に満足していないときです。例えば、もっと大きなテレビが欲しい。 黒の表現が凄いなど、色の再現度が高いものが良い。8Kに対応している方が良いといった感じで、現状に満足できていないときです。
現状のテレビの能力が、今、自分がほしいと思っているテレビに比べて欠けていると思った時に、欲望が生まれます。

つまり、大きさ・色・解像度などのスペックに全く不満がない状態で、テレビを買い替えたいとは思わないということです。
繰り返しになりますが、自分の理想と現状を比べた際に、現在の状態が何かしらが足りない時にだけ、それを補うために欲望が生まれます。
理想と現実が完全に一致している場合は、そもそも欲望は生まれません。



極端なものの見方

これをエロスに当てはめると、エロスが美しいものを欲するということは、エロスは美しいものを宿していない、持っていない状態であると言い替えることが出来ます。
この理屈は、先程、アガトンに対してソクラテスが言ったことと同じです。
ソクラテスは自分がアガトンにしたように、ディオティマによって論破されてしまい、その答えに納得してしまったので、アガトンに対しても同じ理屈で指摘をしたのでしょう。

では、エロスが美しさを宿していないとして。エロスは醜い存在なのでしょうか。
この饗宴という対話編に限らず、ソクラテスは『AでなければBだ。』といった感じで、極端な物言いをすることが結構ありました。
今回も当然のようにディオティマに対して、『エロスが美しさを宿していないのなら、彼女は醜い存在なのですか?』と訪ねます。

これに対してディオティマは、『そんな両極端な考え方をしなくても良いのでは無いですか? この世で美しくないものは全て、醜いものとでもいうのですか?』と問われます。
もし、美しさを求めるから醜いと考える場合、この世の価値判断は美しいと醜いの2種類しかないことになってしまいます。

『美しさ』を求める者は醜いのか

例えば、現代でもそうですが化粧をする者達や綺羅びやかな服や装飾品を身に着けてお洒落をする者達はたくさんいます。

その者達は、美しくなりたいから、格好良くなりたいからとその様な行動をしているわけですが、先程の理屈に当てはめるのであれば、そのもの達は美しさを求めて着飾っているわけですから、全員が醜い者となってしまいます。
美容研究家や美容業界に携わる人達は、人一倍、美に関する情報に興味を持ち、それを日々、集めているわけですが、その人達は美しさに対する欲求が人一倍強いため、人一倍醜いことになります。
しかし実際問題として、そんな事はありませんよね。 人一倍努力をして知識や経験を積み重ねているわけですから、美に関して無頓着な人よりも美しい場合が多いです。

別の例えでいうのなら、賢くなるために勉強をしている人は全員が愚か者ということになりますし、常に正しいことをしようと心掛けている人は、悪人ということになります。
礼儀正しく振る舞おうとマナーを学び、礼儀を身に着けようと勉強している人は全員が無礼者になりますし、優れた者になろうと日々努力しているものは、劣った者になってしまいます。
しかし現実に当てはめてみると、社会人になっても進んで勉強をしている人は優秀な人が多いですし、礼儀正しい行動を心がけて注意している人は、そうしていない人よりも礼儀正しく、人に好印象を与えます。

これまでの対話篇のソクラテスの主張は、『美しくなければ醜い』といった極端な物言いが多かったため、このコンテンツを聞かれた方の中には、彼の主張に違和感を持たれた方も多いと思います。
何故、ソクラテスがこの様な極端な意見になったのかは、おそらく、彼のスタンスが絶対主義だからだと思いますが…
今回登場したディオティマは、このソクラテスの考え方に対して、『世の中、そんな両極端には出来ていないよ。』と、中間の存在を主張します。

中間の存在

中間の存在とは、例えば美しさでいうと、これまでのソクラテス認識としては、美しいか醜いかの2択で、この2つはデジタル的な非連続なものという認識でした。
しかしディオティマは、その2つの価値観はアナログ的に連続していて、美しさと醜さは段階的に変わっていく。 つまり両者には中間部分があると主張します。

この中間部分に位置するものは、作品内では賢さと愚かさで説明されていて、中間に位置する者はどのようなものが正しいのかを理解はしているが、それを言葉を使って正確に言い現す事ができない者のことと説明します。
例えば、良い行動と悪い行動があるとして、その両者の見分けはつくけれども、どこが良くて悪いのかというのを説明できないケースというのは結構あると思います。
過去に紹介した対話篇で、ソクラテスと対峙した賢者たちがそれに当たります。

ゴルギアスプロタゴラスも、アレテーの概念や、その一部の徳性である勇気や知性や美しさなどがどの様なものかというのは、おそらく感覚的には理解もしていたし、判別も出来ていたのでしょう。
しかし、それを言葉を使って正確に相手に伝えることが出来ず、ソクラテスとの討論では彼を説得できずに、結果としてアレテーについては理解できていなかったとして無知な者とされてしまいました。
たしかに彼らは、ソクラテスがぶつける根本的な問には答えられませんでした。 その点だけを取り上げて強調すれば、彼らは基本的な問にも答えら得ない無知な者になってしまうのでしょう。

ですが、実際に彼らが良い行動や悪い行動を目の当たりにした場合は、彼らはその行動の善悪を判断できるでしょう。
また彼らは彼らなりにアレテーについて考えて、一応の結論を出した者達です。そういった者達を、アレテーについて考えたこともない大衆と一緒くたにして『無知な者』としてしまうのは、分け方が大雑把過ぎます。
ゴルギアスプロタゴラスも、大衆と同じ様に無知だとするよりも、賢者でも愚者でもない、両者の中間にいる者と考える方が、しっくりときます。

『究極の存在としての神』は中途半端なのか

確かに対象が人間であれば、この様に考えるほうが自然です。 AでなければBという両極端な考え方をするよりも、物事はグラデーションの様になっていると考えるべきでしょう。
しかし、ソクラテスは納得ができません。というのも、これを神に当てはめた場合についても同じ様な結果になるとは思えないからです。 というのも、そもそも神とは、概念を神格化したものです。
今回のエロスでいえば、人を愛したり慈しんだりする感情であって美、美しいという概念を神格化したものが、エロスやアフロディーテと呼ばれる神でありこれらの神は文字通り、美の化身となるものです。

神は、その概念の究極的なものを表す象徴であるため、全ての人々から称賛されて崇められています。
この、『概念の究極的な状態』エロスでいうのなら、究極的に美しいという概念を神格化し、美しさの象徴としたものが、中間の存在であるなんてことがあるのでしょうか。
このような疑問は当然のように沸き起こってきますし、当然、ソクラテスも疑問に思い、ディオティマに尋ねます。『神は究極の存在であるために、全ての人間から称賛されているはずなのに、それが中途半端な存在ということが有るのですか?』と

この疑問に対しディオティマは、逆に質問を投げかけます。
『全ての人間に称賛されているというが、その全てというのは全ての愚か者のことを指すのか、それとも、全ての賢い者達の事を指すのか?』と。これに対しソクラテスは、両社を含む全ての人だと答えます。
これを聞いたディオティマは、『全ての人というが、この場にいる私と君は、エロスを神とは認めていないじゃないか。』と切り替えします。

これを聞いて困惑するソクラテスに対し、ディオティマ続けます。
『そもそも神という存在はどの様な存在でしょうか。 全ての神々はアレテーを宿し、美しい存在だとは思いませんか?
それとも神々の中には、美しくもなく幸福でもなく、完全でなく欠陥がある存在がいるでしょうか。』

この問いに対してソクラテスは肯定しますが、ディオティマは、それだとソクラテスが最初に抱いてディオティマに尋ねに来た疑問と矛盾すると主張し説明を始めるのですが、この話はまた次回にしていきます。

参考文献



【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第125回【饗宴】『美しさ』を求める者は醜いのか 前編

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今回も、対話篇『饗宴』の読み解きを行っていきます。

定義を確かにする

前回までの放送では、アガトンが開催した饗宴で行われた『誰が一番エロスを称えることが出来るのか』というゲームで、ソクラテスより前に行われた5人の主張を簡単に紹介しました。
その主張を聞いたソクラテスは、最後に行われたアガトンの主張の1部分には同意しつつも、納得できない点を挙げました。

ソクラテスが同意した部分としては、エロスそのものの定義をしっかりとしようという点です。
過去の対話編でもそうですが、ソクラテスはテーマとなっているものについての定義をしっかりと定めようとします。
その理由としては、テーマの定義がしっかりと出来ていないと、途中で論点をずらされたりするからです。

ソクラテスのこれまでの討論の相手というのはソフィスト達でしたが、彼らは論理学を使って相手を言いくるめる詭弁家と言われていました。
詭弁家は、真理に到達するために討論を行うのではなく、目先の討論に勝ち『ハイ!論破』と言いたいだけで討論をしているため、揚げ足取りやゴールずらしなどをスキあらば行おうとします。
その為ソクラテスは、彼らと話す際にはルールを決め、テーマや用語についての定義を明確にしていました。

手に入れたものを欲する人はいるのか

今回のゲームではアガトンも、メインで取り扱っているエロスに対する定義をしっかりとしなければならないと主張していたため、その部分には賛成をしました。しかしソクラテスは、アガトンが行ったエロスの定義には納得ができませんでした。
アガトンが行ったエロスの定義をもう一度簡単に振り返ると、エロスは正義であり節制と勇気を従えて、エロスを抱くものは知性を宿すということで、最高善であるアレテーと同じ様な概念であるとしました。
そして、そのエロスは美しいものを求めているため、この世界は美しくなろうとしている。 故に、エロスは偉大だとしました。

これに対してソクラテスは、エロスは単独で存在できる概念では無く、人間の感情に依存する概念だとした上で、『人は、既に所有しているものを所有したいと思うのだろうか。』と疑問を投げかけます。
エロスは人間の欲望を神格化したものなので、人の欲望にスポットライトを当てて考えてみると、人が欲しているものを手に入れて欲望が満たされとして、それを更に欲するのかということです。
大抵の人は、欲しいと思っていたものを手に入れた場合、更にそれを欲することはないでしょう。 ワンルームに住む人が、憧れの60インチのテレビを手に入れたとして、その直後にもう一台欲しいとは思わないはずです。

エロスが人の感情に起因する概念である以上、この法則は、エロスにも当てはまるはずです。
つまり、エロスは既に手に入れているものを、更に欲することはないということです。
しかしアガトンは、エロスは美しいものを欲するため、この世界は美しくなろうとすると主張しました。

この主張を先程の法則に当てはめると、エロスが美しいものを欲するのは、エロスが美しさを手に入れていないからということになります。
エロスは美しさを手に入れていない、言い変えるのなら、エロスは醜いということになってしまうのですが、これに対してアガトンは反論できず、納得することになったというのが、前回の話でした。

ディオティマ

次にソクラテスは、自分の主張をしていこうと思うのですが、ソクラテス自身は無知な者を自称しているため、エロスについてはわかりません。
対話篇のプロタゴラスでも取り扱いましたが、最高峰のソフィストであるプロタゴラスと対話をしても、最高善や徳と呼ばれるアレテーと、その構成要素とされている徳性の関係性すらわかりません。
しかしソクラテスは過去に、ディオティマという女性からエロスについて教えてもらったことがあるので、その時に教えてもらったことを披露します。

実はソクラテスは、自分自身も先程アガトンが行った主張と同じ様な考えを持っていました。しかし、それをディオティマに先程の理論で否定されてしました。
この時ソクラテスは、自分の意見がどの様に間違っているのか、また正解は何なのかが分からなかったため、ディオティマに教えを請いました。
その時に教えてもらったディオティマの主張を、自身の主張の代わりに語っていきます。

欠損が欲望を生む

まずエロスの定義ですが、エロスは人間が抱く愛情にまつわる全ての欲望や感情を神格化させた存在なので、その言動は人の感情が基準となります。 その為、人が抱かない感情はエロスの性質とは言えなくなります。
つまり、神話に登場するエロスやアフロディーテのとる行動は全て、人の抱く感情に由来している行動であるため、エロスは人が想像もできないような行動を取ることはないということです。
彼女たちの行動は、人間が抱く欲望やそれに起因する感情の揺らぎに関連する言動しか行わない。

では、私達人間はどの様な時に欲望を抱くのかというと、何らかの欠損を抱いたときとなります。
例えば、人が新たにテレビが欲しいと思う時は、現状に満足していないときです。例えば、もっと大きなテレビが欲しい。 黒の表現が凄いなど、色の再現度が高いものが良い。8Kに対応している方が良いといった感じで、現状に満足できていないときです。
現状のテレビの能力が、今、自分がほしいと思っているテレビに比べて欠けていると思った時に、欲望が生まれます。

つまり、大きさ・色・解像度などのスペックに全く不満がない状態で、テレビを買い替えたいとは思わないということです。
繰り返しになりますが、自分の理想と現状を比べた際に、現在の状態が何かしらが足りない時にだけ、それを補うために欲望が生まれます。
理想と現実が完全に一致している場合は、そもそも欲望は生まれません。

参考文献



【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第124回【饗宴】美しさを欲するエロスは美しいのか 後編

目次

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これまで行われていたゲームについて

ソクラテスはまず、このゲームの前提をもう一度考え直さなければならないと言います。
このゲームというのは、今回の宴会の場で、だれが一番エロスを賛美することが出来るのかという今現在行っているディベート大会のことです。

最初にこのゲームの説明を聞いてソクラテスが最初に思ったことは、『このゲームに置いてやらなければならないことは、エロスについての真実を語った後、できるだけ美しいものを並べて行けば良い』と思っていました。
しかし、先に行われた5人の主張を聞いていると、自分は、このゲームのルールを勘違いしていたのではないかと思い始めたようです。

というのも、実際に行われたそれぞれの主張を聞いてみると、エロスについての真実を語っている人間がいないからです。
先の5人が行ったことは、知識を持たない聞き手に対して、どうやれば上手い具合に言いくるめることが出来るのかという詭弁でした。
語られている内容が真実かウソかは関係がなく、いかにもっともらしく聞こえるのかが重要視されていて、聞き手の関心を引くために如何に話を盛るかが重要になっていました。

例えばアガトンですが、彼は、他の参加者がやろうと思わなかった『エロスそのものの本質』を見極めようとしました。
この点については非常に良く、その姿勢についてはソクラテスも同意でくるのですが、問題は、エロスの本質が正しく見抜けていない点です。
そこでソクラテスは、エロスに関する自分の見解を述べます。

エロスの定義

エロスというのは、その概念が抽象化されすぎていて、性欲であったり欲望であったり慈しみであったりとカバーする範囲が広すぎるので、ソクラテスはまず、エロスの広すぎる定義を限定させるところから始めます。
まず、エロスというのは絶対的なものなのか相対的なものなのかを考えます。理解しやすいように別のものに変えて、例えば、親子や兄弟とうい概念に当てはめて考えていきます。
親や兄弟には、母親や父親、兄や妹といった概念が存在しますが、これらの概念は単体で存在することが出来るのでしょうか。

答えからいうと、単体では存在することは出来ません。 親の定義は『子供を持つもの』であり、親は全て『何者かの親』で有るべき存在と言えます。
兄も同じで、弟という存在なくしては兄は存在しません。逆に、妹や弟が単体で存在することはなく、自分よりも先に生まれた存在がいるものだけが、妹や弟と呼ばれます。一人っ子なのに弟や兄であるということはありえないということです。
つまり、兄は弟という存在がいるから成立する概念で、弟は兄という概念が存在するから成立するため、自分以外のものに依存した相対的な概念といえます。

では、エロスはどうなんでしょうか。
何者かに依存しなければ存在できない概念なのでしょうか。それとも、エロス単体で成立する概念なのでしょうか。

こういったアプローチで、エロスとは何なのかを今一度考え直してみると、エロスとは、人間が心のうちに抱く感情であったり欲望を神格化した存在です。
ということは、エロスは人間に依存した存在ということになります。 なぜなら、この世に人間というものが一人もいなければ、そこに宿る精神の存在もなくなるため、エロスという概念も存在できなくなります。
これを聞かれている方の中には、動物も交尾をする際には恋心を抱いているかもしれないと反論されるかもしれませんが、それは動物の精神に依存しているエロスなので、同じ様に動物という存在がなくなれば、そのエロスもなくなります。

つまりエロスとは、何者かに依存しなければ存在できない概念ということになり、エロスを突き詰めていくと人間の感情に行き当たります。

手に入れたものを欲するのか

次に、人間が持つ欲望などの感情について考えていきましょう。
人間が欲望を抱くときというのは、何かを求めている時です。欲望とは欲して手に入れたいと望むことですから、これは当然のことだと思います。
では人間は、既に物を所有している状態で、所有しているものを更に欲するということはあるでしょうか。

例えば、アナタがAさんを好きになったとしましょう。その思いをAさんに伝えて付き合うことになったとして、その状態で更にAさんを手に入れたいと思うでしょうか。
ここで間違えて欲しくないのは、例えば彼女を欲しいと思って告白して彼女をゲットし、その状態でもう1人彼女が欲しいと思うかどうかという事ではありません。
Aさんと付き合える事ができた状態で、同じ人物であるAさんを手に入れたいと思うのかどうかということです。 これが、手放したくないに変わると、それは別の感情になる為、話が変わってきます。

ここで語られていることは、欲しいと思ったものが手に入って、既に所有している状態になったにもかかわらず、更に欲しいともうのかという話です。
別の例えでいうと、A社の株を2000株欲しいと思い、お金を支払って2000株手に入れたのに、更に2000株手に入れたいのかということです。
ここで、『株券はいくらあっても良いので、手に入るのなら無限に欲しい』なんて反論する方もいらっしゃるでしょうが、その場合は、最初の前提が変わってしまします。

追加で出来るだけ欲しいと思うのは、最初の欲求が、発行されている株は全て欲しいが、手持ちの金では2000株しか手に入らないので、とりあえず2000株だけ購入した状態の場合です。
この前提条件であれば、2000株手に入れた後でも、本来欲しいと思っている発行株式全部という本来の欲望は満たされていないわけですから、追加で欲しいと思うでしょう。
ですがここで言っているのは、2000株だけ欲しく、自分の保有株式はそれ以上でもそれ以下でも駄目だと思っている人が2000株を手に入れた場合、その所有した2000株を更に欲するのかということです。

こうして考えると、人は何かを所有した場合には、更にそれを所有したいという欲求に駆られることはありません。
もし、既に所有したにも関わらず、同じものに対する欲求が収まらない場合、それはこの先の未来も、そのものを所有し続けたいという気持ちであって、先程も言いましたが前提条件が変わってきます。
今現在に限って言えば、既に目当てのものが手に入った状態であれば、欲求は満たされて満足感に支配され、更に所有したいという欲求は消えていることでしょう。

美しさを欲するエロスは美しいのか

では、この考え方を、エロスにも適用してみることにしましょう。
アガトンは自分の主張の最後に、『エロスは美しいものを求めるために、この世界は美しくなろうとする』として締めくくりました。
しかし、エロスは美を神格化したものであるため、『美しさ』そのものであるはずです。 エロスが美しさそのものであるのなら、アガトンの論法に従うのであれば、エロスはこの世で最上級の美を既に得ているはずです。

そこに先程の、『既に所有したものを再び所有したいとは思わない』という理屈を当てはめてみると、エロスは最上級の美を既に得ているため、新たに美しさを求めるなんてことはしないはずです。
しかしアガトンは、エロスは美を好み求めていると主張しています。 それに従って、エロスがいまだに美を求め続けている前提で考えた場合、エロスは最上級の美を得ておらず、醜い存在であることになってしまいます。
このソクラテスの指摘に対してアガトンは、納得してしまいます。

ソクラテスのいうことは、論理的に正しく、納得できる様にも思えます。 しかし実際問題としてはどうなんでしょうか。

本当に欲しているもの

例えば金持ちは、既に大量の金を所有しているにも関わらず、金を更に得ようとします。 一方で貧しいものは、金が欲しいと口では言いつつ、実際に金を手にすると直ぐに使い果たしてしまいます。
ソクラテスの理屈では、所有したものを更に所有したいと思うものはおらず、所有したい欲求に支配されるものは、所有できていない者だけであるはずです。

しかし実際問題として、金を持っているのは金持ちの方で、金をすぐに手放してしまうのは貧しい人です。
この事実は、先程の説と矛盾するのではないかと思ってしまうのですが、実は矛盾しなかったりします。
というのも、両者は口では『お金が欲しい』と同じ言葉を発したとしても、実際に求めているものがそれぞれ違うからです。 

金持ちは、純粋に金が欲しく、金を貯めるためなら質素な生活をすることも受け入れます。 また目標額も定まっていないため、お金コレクターのようにお金を集めまくります。
一方で、金を得ても直ぐに使ってしまう人は、実際に求めているのはお金を使って得られるサービスであって、お金そのものではありません。
その為、金持ちはお金を残し続け、貧乏な人は金が手に入ると直ぐに使ってしまいます。

この様に考えると、現実問題に当てはめても、ソクラテスの言っていることに矛盾は生じません。

この後、ソクラテスは、エロスを極めた女性、ディオティマから教えてもらったことを紹介しながら、他の者の主張に対しても吟味していくのですが、その話はまた次回に話していきます。

参考文献



【Podcast #カミバコラジオ 原稿】第56回【経営】ブランド(7)

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ブランド戦略


ここ数回にわたって、ブランドの分類や機能について話して来ましたが、それらを踏まえた上で今回はブランド戦略について話していきます。
このブランド戦略も、前に紹介したブランドの分類と同じ様にマトリクス図となっています。
製品カテゴリーが既存製品か新製品か。 ブランド名が既存ブランドか新ブランドかで、それぞれ4つのカテゴリーに別れます。

実際に分類を見ていくと、商品カテゴリーが既存製品で、且つ、ブランド名も既存ブランドの場合はライン拡張
商品カテゴリーが同じく既存製品で、ブランド名の方が新ブランドの場合はマルチブランド。

商品カテゴリーが新製品で、ブランド名が既存ブランドの場合はブランド拡張。商品カテゴリーが同じく新製品で、ブランド名の方も新ブランドの場合は新ブランドとなります。
この分類の仕方というのは、結構前に紹介した事業展開の方法についてのマトリクスである、アンゾフの成長ベクトルや成長マトリクスと呼ばれるものと結構似ています。
事業展開の方法についてまだ聞かれていない方は、第31回ぐらいから話しているアンゾフの成長ベクトルの回から聞いてみて下さい。

ブランド戦略の目的


話をブランド戦略に戻すと、このブランド戦略の基本的な考え方というのは、ブランドをどの様に育てていくのか。また、これまで育ててきたブランドをどの様に利用していくのかというのがベースにあります。
ブランドには様々な機能がありますがその中でも重要なのが、名前がつけられた製品群に特定のイメージを付け、消費行動を取ろうとしている顧客に真っ先に思い出してもらいやすくすることです。
つまり、言葉にして説明すると長くなってしまう商品軍のことを、特定のイメージとして印象づけてしまうということです。

別の例えをするなら、ネット検索で引っかかりやすくするようなものです。
例えばネットの検索窓に、女性・高級ブランド・バッグなどを入れると、エルメスやルイヴィトンといったブランド名が上位に出てきますが、これは消費者の頭の中でも同じようなことが起こっています。
顧客が高級バッグが欲しいと思った際に、頭の中には具体的な商品名や商品の形が思い浮かぶことは少ないかもしれませんが、2~3個のブランド名が思い浮かぶことは多いと思います。

ネット検索の場合で記事が閲覧されるのが検索上位の数個の記事であるのと同じ様に、顧客の消費行動も、物を買おうと思った際に思い浮かぶ数個のブランドの中から選ぶ場合が多いです。
ちなみにこのブランドというのは、商品ブランドだけに限りません。 例えば百貨店の名前なども、ブランドとなりますので、具体的な商品名が思い浮かばなかった場合でも、『あの百貨店を見に行こう』と行動する場合は多いと思います。
こういう現状がある以上、各企業は自身が持つブランドを思い出してもらいやすいように、何かしらのイメージと結びつけようと行動します。 その行動を効率的にしようと考えられたのが、ブランド戦略です。

ここで注意としていっておきますと、今回紹介するブランド戦略に限った話ではありませんが、ここで紹介しているのは物事を理解しやすいように単純化されたモデルとなります。
そのため、ここで紹介したことを忠実に守って行動したからと言って、現実世界で確実に成功するわけではありません。
あくまでも戦略を考えるベースとして知っておくと便利なツールでしかありませんので、予めご了承下さい。

ライン拡張


話題をブランド戦略に戻して、先程紹介した戦略を1つ1つ紹介していきましょう。
まず、既存製品を既存のブランドで出すライン拡張ですが、これは、同じ様な雰囲気の商品を同じブランドで出していく戦略となります。
服でいうのなら、全体としての雰囲気は同じ様に保ったまま、色合いや形などを若干変えて同じブランドで出していくような感じです。

同じ様なイメージの商品を同じブランド名で出すことによって、そのブランドのイメージはより強く固まっていくことになります。イメージを尖らせていくといえば良いのでしょうか。
1つの製品ではブランドの持つ世界観を表現できなかったとしても、複数の商品でブランドイメージをより具体化していくことで、顧客の中でブランドイメージが固まっていきます。
イメージがより具体化していくことでターゲット層は狭まっていきますが、顧客の頭の中での検索順位は上がるので、結果としてファンを獲得しやすくなります。

ブランド拡張


次に紹介するのがブランド拡張です。これは、新商品や新規事業を既存ブランドで出す際の戦略となります。
先程のライン拡張とは違い、こちらの戦略は既存のブランドイメージを武器にして新製品を売りやすくしたり、新分野に進出しやすくする戦略です。
この戦略は先程のライン拡張と真逆の戦略の様に思えるかもしれません。何故なら、新規事業やこれまでとテイストの違う新商品を同じブランドで出してしまうと、イメージが分散してしまうからです。

一見すると先ほどと真逆のように思えてしまう戦略ですが、この戦略はライン拡張と使うステージが違います。ある程度ブランド力が強化された状態でしか行えない戦略と考えたほうが良いです。
つまり、ライン拡張が起業後すぐに取れるブランド戦略なのに対し、ブランド拡張はブランド・エクイティ。つまりブランドとしての資産価値が相当高くなければ取れない戦略だということです。
またブランドイメージも、製品がまとっている雰囲気や特定のジャンルといったイメージだけでなく、ブランドそのものに信用力が伴っていなければなりません。

ブランド拡張戦略の具体例


例を挙げた方が分かりやすいと思うので具体的な企業名を上げると、有名所で言えばソニーなどがブランド拡張を積極的に行っている企業と言えます。
ソニーは、元々はウォークマンの様な電化製品を作っていましたが、その際に獲得した『品質の確かさ』というブランドイメージを使ってゲーム機分野に進出しました。
今では事業の牽引役となっているゲーム部門ですが、初代プレイステーションを出した当時のソニーは、ゲームメーカーとしての信用も実績も何もありません。

もしこの様な企業が、既存ブランドを利用せずに全く別の新ブランドを立ち上げてゲーム機やソフトを販売していたとしても、その知名度の無さから成功していた可能性は低かったでしょう。
しかしソニーは、家電を販売していたときの実績。つまりブランド力を武器にして全く新しい分野に進出することで、当時同時期に次世代ゲーム機を発売していたセガに最終的には勝ちます。
そしてソニーは、このゲーム機事業を足がかりにしてエンターテイメント事業に乗り出し、映画事業などにもソニーブランドを使って展開していきます。

ソニーはこの他にも、保険会社や銀行といった事業にもソニーブランドで進出していますが、その基礎となるのは、家電時代に培ってきた信用力となります。
しかしここまで様々な分野に進出してしまうと、先程も言いましたが当然、ブランドイメージは具体性を欠いていきます。
仮に電化製品一本で製品展開をしていれば、ブランド名と家電メーカーというのが顧客の頭の中のイメージとして結びつくようになるので、イメージは具体化しやすいです。

ブランド拡張戦略のデメリット


電化製品の中でも、携帯音楽プレーヤーに特化してそれのみを生産販売していれば、携帯音楽プレーヤーといえばソニーといった感じで、特定の商品とブランド名が強力に結びつきやすくなるでしょう。
この様な製品の幅を狭める戦略をとっているメーカーは意外と多く、ヘッドフォンなどの音響やスピーカーに特化したメーカー、別の分野でも、キャンプ容認に特化していたり、アウトドア用の鍋に特化しているブランドなどもあったりします。
この様な特定の物に特化する戦略は、それが欲しいと思った際に真っ先に思い出してもらいやすくなる。つまり、顧客の頭の中での検索順位が上がることに繋がります。

しかしソニーのようにブランド展開を積極的に行って、取扱商品の幅を広げていくと、個別の製品群や作品とブランド名とのつながりは薄くなっていってしまいます。
ですがその一方で、多方面の分野で成功を収めている大企業だという安心感や信用力といった抽象的なイメージは増していくことになります。
これはつまり取扱商品の幅が増えることで、ブランドイメージが具体的なものから抽象的なものへと変わっていくということです。

ブランド拡張戦略のメリット


では、ブランドイメージが抽象的なものへと変化していく事による利点は何でしょうか。
真っ先に思い浮かぶのが、売上規模の上限の引き上げです。

製品市場というのは、それがどんな製品であれサービスであれ、市場規模は大体決まっていると考えられます。
例えばテレビで考えると、日本の景気がいくら良くなったからと言って、4人家族の家庭が100台のテレビを買うなんてことはありません。
4人家族の場合、それぞれが1台ずつ持っていて、皆が集まる共有スペースに1台置くと考えると、多く見積もっても5台も有れば十分事足りるでしょう。

1家族が必要とするテレビの台数にある程度の上限があり、日本の世帯数もある程度決まっているわけですから、テレビという製品の必要数も、当然決まってきます。
その必要数にテレビ1台あたりの平均価格をかければ、市場規模の上限はある程度計算できます。 今なら、こんな面倒くさいことをしなくても、ネットで年間の販売台数や市場規模を調べることも出来ます。
つまり1つの製品を作り続けるだけでは、売上に上限が出来てしまうということです。

ブランド拡張戦略に必要なこと


しかし、様々な分野に新たに進出することができれば、新規参入した市場の規模の大きさだけ、その上限は増加していくことになります。
ソニーのような上場している大企業の場合は、株主から売上や成長力を伸ばすことを絶えず求め続けられるわけですから、それに答えるためには、今まで進出していなかった市場に進出せざるを得ません。
この際にブランドイメージとして求められるのは、具体的な製品イメージと結びついたブランド力ではありません。 企業に対する漠然とした信用力といった曖昧なイメージです。

生命保険業界で求められるブランドイメージと、テレビの生産で求められるブランドイメージは、全く別のものと言えます。 これは具体的に観ていけば観ていくほど、両者のイメージはかけ離れていってしまいます。
しかし、『大企業だから信用できる』と言った曖昧すぎるイメージであれば、その曖昧さ故に、生命保険とテレビの製造という全く違うカテゴリーであったとしても、両方で通用するイメージとなります。
つまり、イメージを抽象化させることで、どんなものにでも当てはめることが出来る様にするということです。

では次にマルチブランドの説明ですが、この話はまた次回にしていきます。

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第124回【饗宴】美しさを欲するエロスは美しいのか 前編

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パイドロス・パウサニアス・エリュクシマコスの主張

今回も、対話篇『饗宴』の読み解きを行っていきます。
これまでに、5人の人物による『エロスが何故素晴らしいのか。』についての考察を聞いてきました。
それぞれの主張を簡単にまとめると、パイドロスの主張としては、愛情であるエロスのために代償を支払う行為は美しく、神すらもその行動を称賛するが、一方でエロスに対して代償を惜しむ行為は醜く、軽蔑されると主張しました。

次にパウサニアスは、エロスには良いエロスと悪いエロスの2種類存在し、エロスに支配されたものが何に心を奪われているのかで、それが変わると言います。
人を好きになる場合、相手が持っている何らかのものに心を奪われるから好きになるわけですが、これが、金や財産や相手の体といったものを目的とした場合は、俗のアフロディーテに属するとして軽蔑されます。
一方で、知性や勇気や節制といった相手が持つ徳性に惹かれてアプローチした場合、このエロスは天のアフロディーテに属することとなり、周囲からも応援されるようになります。

相手に対して求愛するという同じ行動をしていたとしても、最終的に求めているものが俗物なのか徳性なのかで、その行動の善悪は決定してしまう。
これは、目的の善悪によって行動の善悪が決定するという事で、重要なのは何を目的に据えるのかということだという主張です。

これに対してエリュクシマコスは、エロスを欲求を操作して調和を生み出す技術と定義した上で、善悪に分かれるのは、まず行動で、行動の善悪が結果として目的の善悪につながると主張します。
先程のパウサニアスの主張では目的が重要視されていて、それを達成する手段でしか無い行動は、目標の属性によって善悪が振り分けられるというものでしたが、その意見とは逆となっています。
何故、逆の意見が出てきたのかというと、おそらく、この世には目標がはっきりしないものが多数存在するからでしょう。

例えば人間は、種としてこの世に誕生しているわけですから、そこにはこの種が誕生した目的が有るはずですし、人間個人としても、この世に生まれてきた以上は目的があって生まれてきているはずです。
しかし、その目的を認識できている人間はいません。 古代ギリシャでは、人は幸福になることが目的であろうと仮定し、それに必要なのはアレテーだと定義しましたが、そのアレテーは未だにどのようなものかがハッキリとは定義できていません。
つまり、目的がわからないということです。目標がわからないということは、当然、その善悪も判別できないため、先程のパウサニアスの主張は、人間には当てはめることができなくなってしまいます。

そこで、手段である行動の方に善悪の基準があり、良い行動を積み重ねることによって良い目的に到達することが出来るとすることで、その問題を解決しようとしたのでしょう。

アリストファネスの主張

次いでアリストファネスですが、人と人は何故惹かれ合うのかというのを、根本的なところから考えなければならないとして、太古の人類というもの出してきます。
太古の人類は、今の人間が2人くっついた様な姿をしていて、強大な力を持っていたけれども、自分たちの力を過信して神に挑戦したことで神の怒りをかってしまい、ゼウスによって2つに引き裂かれて、今のような姿になったと主張します。
急に毛色が変わり、昔話のようなテイストの話になってしまっていますが、これはこれで重要な考え方です。

動物の中には、群れや社会を作らない動物もたくさんいますが、人間は誰かを求める性質が有るために、群れや社会を作りますし、その社会の中でパートナーとなるべき人を探そうとしますし、見つければ満足感や充実感を得るという事実が有ります。
ではこれは、子供を作るために本能がそうさせているのかというと、そういうわけでもありません。なぜなら、女同士や男同士のカップルが存在するからです。 
もし、子供を産むためだけの生物的な本能が原因であれば、子供が生まれる男女間のカップルしかいないことになりますが、実際にはそうなってはいません。

であるのなら、そこには子供を作って種として繁栄するという以外の何らかの理由があるはずで、そうして考えられたのが太古の人類という設定です。
もともと1つだったものが、何らかの形で無理やり引き離されたので、もう一度、元の完全体の姿に戻ろうとしているとすることで、何故か理由わわからないけれども惹かれ合う人の気持を説明したのでしょう。

アガトンの主張

そして前回取り扱ったのが、アガトンの主張です。
アガトンは、これまでに行われてきた主張というのは、人間の目的や行動について神がどの様な評価を下すかという点で語られていたけれども、その議論よりもまず、神がどの様に優れているのかについてハッキリさせないといけないと主張します。
これは例えば、絵画の評価をする際に、評価者が誰もが認める審美眼を持っている場合には、その評価は信用できるけれども、何の実績もなく、どこの馬の骨とも分からない人間が評価したとしても、その評価には意味がないということです。

先に主張を述べた4人は、暗黙のうちに『神は素晴らしい存在だ』という前提を置いて、『その素晴らしい神でも称賛するのだから、エロスを伴った行為は素晴らしい。』と結論づけていました。
神々の存在が絶対で、その存在を疑えば不敬罪で訴えられる可能性がある国で議論をしているわけですから、神の素晴らしさを語るまでもなく共有するというのは普通のことなんでしょうけれども…
それでもアガトンは、同じ素晴らしいと結論を置くにしても、どの様に素晴らしいのかをハッキリさせなければならないと考えたのでしょう。

アガトンがいうには、エロスが介在すれば、あらゆる同意は円滑に進み、そこに争いが発生することはないと言います。
エロスとは、相手を愛おしく思う気持ちであり、慈しみの心であるため、その気持を宿した人間は、愛おしい人間に対して無理難題を押し付けることはありません。
また相手も同じくエロスを宿していれば、愛する人からの提案は聞き入れようと努力するため、両者は争うことなく同意することになります。

この範囲を拡大し、全ての人達が同意出来るようなルールを作れば、それは法律となります。
エロスが介在することで作られた法律は全国民の同意によって生まれ、皆がルールを守るため、そこには正義がやどり、こうして生まれた国は秩序有る平和な国になります。

またエロス自身が欲望の王であり、全ての欲望を従えている為、最大級の節制となります。
この他にも、勇気や知性も支配下に置いているため、エロスは最高善であるアレテーと近い存在とも考えられるので、エロスは偉大だと主張します。

これらの意見を受けて、次に、ソクラテスが主張を行います。

参考文献



【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第123回【饗宴】世界を支配するエロス 後編

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エロスは刺激を好まない

エロスのその他の優れた点としては、エロスは繊細である点で優れているようです。
ホメロスは、アーテという女神を称賛する際に、その女神の足が繊細で美しいと詩によって表現しているようですが、その際、表現方法として、アーテが硬いものの上を歩かずに柔らかい物の上だけを歩くことで表現しています。
ここで新たにホメロスという名前が出てきましたが、これは吟遊詩人の名前です。 前にも言いましたが、ギリシャ神話はソクラテスたちが生きていた時代よりもはるか昔に作られていますが、オリジナルが文章で残されていることはありません。

その為、吟遊詩人によって口伝で伝えられます。 文章で残さずに口伝や歌に乗せて伝える場合、伝え聞いた人それぞれが神話を独自解釈して、人が聞いて興味を持てるように物語を改変したり創作して付け加えたりして、人々に伝えていきます。
その様な感じでギリシャ神話はアメコミ世界の様にパラレルワールド的に広がっていき、神様の出自が変わったりしていくのですが、そんな物語を生み出して伝える吟遊詩人で有名な者の1人が、ホメロスです。
その他には、ヘシオドスという人物もおり、饗宴では、2人が作ったアフロディーテの設定が違うため、天のアフロディーテと俗のアフロディーテが2人存在することになっていたりします。

話を戻すと、ホメロスはアーテという女神は硬い物の上を歩かず、柔らかいものの上を歩くから繊細だと表現しましたが、アガトンは、この繊細さについての説明はエロスに対しても当てはまると言います。
というのも、エロスはそもそもどこかを歩くといったことはしないうえ、その神が宿るのは柔軟な柔らかい心を持った人間の心の中だけだからです。
エロスは足だけでなく全身が柔らかく繊細なので、好む住処も柔らかい心の持ち主の中だけと決めています。

つまり、エロスが心に宿っているということは、その人物の心は柔らかい。 柔軟な心を持つ人間は争いを好まないため、エロスの支配下では平和になるという先程の主張へとつながるのでしょう。

エロスによる支配

次にエロスの性質ですが、エロスは神に対しても人に対しても不正を行うことがなく、また、不正を行われることもないようです。
また、何らかの同意が必要な場合も、暴力で脅迫して同意を迫られるということもありません。 何故ならエロスは愛するものに対する慈しみの心の象徴で、それを神格化したものだからです。
愛する人からの願いに対して聞く耳を持たない人はおらず、愛する人に対して無理難題を押し付けようとする人間もいません。

エロスが介在する交渉では、相手を無理やり納得させる必要がなく、暴力も脅迫も必要なく、両者が納得する形で同意することになります。
この同意を拡大解釈し、すべての国民が同意したルールを法律と定めた場合、その法律は正義となります。
何故なら、全国民が納得し、強制しなくともその取り決めを守ろうとし、それによって秩序が生まれて争いがなくなるわけですから。

エロスの他の性質としては、最大級の節制を備えています 節制とは欲望抑え込むものですが、この世で最大の欲望はエロス自身であるため、すべての欲望はエロスよりも下ということになり、支配下にあると言えます。
繰り返しになりますが、節制とは欲望をコントロールなどして抑え込む、言い換えれば支配する能力ですが、エロスはこの世の全ての欲望を支配下に置いているため、最大級の節制とも言えます。

更に言えば、エロスは欲望だけでなく勇気すらも支配下に置いています。 これは神話に登場するエピソードになりますが、勇気の象徴であるアレスは、アフロディーテに恋をして虜になります。
この恋という感情こそがエロスであるため、勇気の象徴であるアレスはエロスに支配されいるともいえます。
エロスの性質をこの様に掘り下げていくと、エロスは正義であり、節度を持ち、勇気を従えていることになり、徳性の中で3つのものを支配していることになります。

愛する人のためには努力する

では、徳性の中でも重要だと思われる知恵はどうでしょうか。
知恵の象徴とも言える職業といえば、詩人が上げられます。 詩人は、神話を語り継いで広めていきますし、神話に新たな解釈を加えて作り変えもします。
今回の饗宴で行われた議論でも神話は度々取り上げられますし、概念的な物事を考える中心にあるのが神話とも考えれられるので、詩人は知性の象徴と考えることが出来ます。

では詩人というのは、知性が優れた人だけがなることが出来る特別な存在なのかというと、そんな事はありません。
好きな人ができて恋心が生まれれば、意中の人に気持ちを伝えるために、そのものは詩に興味を持ち、詩人となります。

例えば無知な者がいたとします。人は自分にないものを提供することは出来ませんし、知らないものを他人に教えることも、また、ポエムとして伝えることも出来ないので、当然、無知な者は詩人になることは出来ません。
しかし人は、恋をすることによって自分の気持ちを相手に伝えようとしますし、相手がコチラの気持ちに応えてくれるようにと伝え方を考えますし、良い表現が分からなければ調べたり勉強したりします。
そして、自分なりのベストな形で表現をし、相手に伝えます。

この一連の流れは、無知な者が知性を身に着けたということになるわけですが、ではその要因となったのは何かというと、エロスの存在です。
無知なものにエロスが宿った結果、そのものは知性を身に着けて、詩人となったわけです。

これは、ポエムという限られた分野だけに限ったことではありません。彫刻家の様な芸術家であれ、医者であれ、全ての知恵や技術はまず、最初に欲望というエロスが存在し、それに導かれる形で技術や知恵を発見したり発展させていきます
エロスはすべての物事の先導者であり教師であるため、エロスに出会うことが出来た人間は傑出した著名な人間になることが出来ますが、そうではないものは、世に知れ渡る前に終わってしまいます。
これは、自分がある行為を行う根本に、欲望が有るのか無いのかの違いで、欲望がある人のみが成功できるということになります。 つまり、あらゆる知識や技術は、エロスに支配されているということです。

世界を支配するエロス

そして、この『全ての上に立つエロス』は、当然の様に美しいものを好みます。
そのために、エロスが関わった知恵や技術は美しく、エロスが美しいものを求めるために、この世の中は美しいくなろうとします。

まとめると、エロスが介在する交渉事で争い事は起こらないため、エロスという概念がそこに存在してさえいれば、争いごとはなくなって平和が実現します。
このエロスは、最上級の欲望で有るために、すべての欲望の頂点に君臨しています。 徳性の中の節制は、欲望を支配する力のことですが、エロスは欲望の頂点であるため、全ての欲望を支配している。
つまり、エロスは最大級の節制を宿しているとも言えます。

この他にも、エロスは勇気や技術や知識も支配下に置き、その上、正義でも有るため、最高善であるアレテーとほぼ同じものと考えられる。
そのエロスは美しいものを好むため、エロスの支配下に有るこの世界は美しくなろうとする。 故に、エロスは偉大だ。ということになります。

これで、ソクラテス以外の者の話は終わり、次からは、ソクラテスの主張へと続きますが、その話はまた次回にしていきます。

参考文献



【Podcast #カミバコラジオ 原稿】第55回【経営】ブランド6

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ブランド=イメージ


前回まででブランドの採用の仕方や展開の仕方について話してきましたが、今回はもっと根本的にブランドについて考えていきます。
そもそもブランドとは何なのかというと、前から繰り返しいっていることですが、その会社や製品のイメージと考えて良いと思います。
かなり抽象的な答えになっていますが、この抽象的というのが重要だったりします、というのも、企業のこれまでやってきたことや信用力を全て具体的に言葉にしていこうと思うと、膨大な量のテキストが必要となります。

そんなものを懇切丁寧にホームページに書いたところで、それに目を通す人はよっぽどの物好きでもない限りいないでしょう。
何故なら、それらを全て読み込んで正しく理解しようと思うと、その会社が属している業界知識などの前提となる知識も必要となってくるでしょうし、文章を読み込んで理解する読解力も必要になるからです。
まっとうな会社運営を行ってきた会社であれば、今までの実績や思いを膨大な文章にして公開し、それをターゲットとなる顧客層に読んでもらえれば一番良いのでしょうが、そんなことをしてくれる顧客や見込み客はいません。

また、TVCMにしても雑誌や新聞の広告欄にしても、そんな膨大な量の情報を伝えることは出来ません。
今ならネットで公開するといったことも出来ますが、何らかのサービスを利用する際の利用規約も読まない人がほどんどの世界で、そんなものを自社サイトに掲示したところで見る人は極少数でしょう。
ネットがない昔であれば、分厚い冊子や本にする必要すら出てきます。しかし、そんなことをしたとしても、得られる利益は少ないでしょう。

そこで、会社や製品のイメージを抽象化し、イメージとして伝えようとして生み出されたのがブランドだと思われます。
ブランドはイメージが入るフォルダーのようなものなので、企業による情報発信や顧客が受け取るイメージによって、ブランドイメージが構築されていきます。
単なるイメージであるため、人々に単純なイメージと名前を関連付けて発信することも出来ますし、忠誠度の高い顧客に対しては、ブランドイメージをより深く伝えることも出来ます。

ブランドの機能


このブランドの機能というのを具体的にいうと、4つほどに分かれます。 まず1つ目が、どこのメーカーや流通会社が作っているのかというのをはっきりさせる出所表示機能。
これは、その商品がどこの会社の商品かというのを明確にする機能です。例えば、日用品としてなんとなく購入した商品が非常に使い勝手が良く、次回も購入したいと思った場合、顧客はその商品名やブランド名を知ろうとします。
何故なら、そうしなければ次に同じ商品を買おうとした際に、商品を見つけられない可能性があるからです。

その商品が独特のもので、他のメーカーが作っていないというのであれば、小売店に買いに行った際に商品を店員に説明すれば、すぐに目当ての商品を発見できるかもしれません。
しかし、他のメーカーも商品をたくさん出している、例えば洗剤などの場合、そのブランド名を覚えていなければ、商品を特定して購入することは難しくなるでしょう。
逆に言えば、ブランド名さえ覚えていれば、店員さんにそのブランド名を言うだけで商品を簡単に発見することが出来ます。 これはネットで商品を探す場合でも同じです。 名前がついていることで商品が特定しやすくなるのが出所表示機能です。

出所と品質


次に品質表示機能ですが、これは製品の品質や価値を表す機能で、ナショナルブランドなどが担うことが多い機能といえます。自動車や電化製品など製品に一定の品質が要求される場合などで重視されがちな機能です。
例えば大型薄型テレビを買おうと思った際に、聞いたこともない外国ブランドの商品が8万円で売っていて、ソニーのテレビが10万円で販売されていたとしましょう。
テレビの構造に詳しくなかった場合、名前をよく知るソニーの方が品質の良いものを作ってそうな気がしますし、安心できそうな気はしないでしょうか?

逆に言えば、アナタがテレビの構造に詳しくて、双方ともに使われている部品を作っている会社が同じだと知っている人場合は、大して効果を発揮しない機能とも言えるかもしれません。
その一方で、今までになかった様な全くの新製品の場合などは、過去の実績の積み重ねによって構築されたブランドのほうが優位に立てたりします。
何故なら、その新製品に対する知識を持っている人は、その製品の開発者ぐらいしかいない上に、他の製品と比べようもないため、ブランドぐらいでしか判断が出来ないからです。

『今まで良い製品を作ってきたあの会社が作っているんだから、大丈夫だろう!』と思われる様なブランドの場合は、そのブランドの信用のみで製品を買われるということもあるでしょう。
こういった場合は、品質表示機能が重要になってきたりします。

宣伝広告機能


次に宣伝広告機能ですが、ブランドの名前そのものが、宣伝効果を発揮するという機能です。
例えば、新製品を出す際に既存ブランドの名前をつけて販売すると、既存のブランドが宣伝効果となって、新製品が売れやすくなります。
これは前に紹介したダブルブランドやファミリーブランドの解説を思い出してもらえば、分かりやすいと思います

例えば、ネスレという会社が変わった味のチョコレート菓子を出そうと思った場合、既に名前が浸透していて売れている自社商品であるキットカットのブランドを利用することで、新製品でも売りやすくなります。
つまり、キットカットの何々味といった感じで売り出せば、全くの新商品を出すよりかは売れやすくなります。これは、既存のキットカットというブランドが宣伝効果を発揮していることになります。
また、ネスレという会社は、あのキットカットを作っている会社なんだということが分かれば、ネスレという会社に馴染みがなかったとしても、一気に信用力が高まったりします。

これも、企業の名前に対して個別の商品ブランドが宣伝効果を発揮していることになります。
これは、商品を取り扱っている店舗などにも当てはまります。 キットカットがものすごく好きな人にとっては、キットカットが置いてある店かそうでないかは重要な情報となります。
キットカットが置いてあるから、買い物の際にあの店を使おうと思われれば、キットカットというブランドは取り扱い店舗にとっても宣伝効果を発揮していることになります。

資産価値機能


最後に資産価値機能で、これはブランド・エクイティと呼ばれたりもする機能です。
これを簡単に説明すると、ブランドそのものが資産的な価値を持っているということです。
資産というのは、企業同士の合併などの際に実際に『のれん代』といった感じで資産に計上されたりする意味合いでの資産というのもありますし、製品にその資産分が上乗せされるという意味合いでの資産という意味合いもあると思われます。

製品に資産分が上乗せされるというとわかりにくいですが、例えば革で作られたバッグがあったとして、それが聞いたこともないブランドのものなのか、それともエルメスが作っているものなのかでバッグの価値が変わるといえば分かりやすいでしょうか。
聞いたこともないメーカーの製品の場合は、市場でそのブランドが認知されていないため、それほど高い価格では売れないでしょう。
もちろん、革の素材やそれを加工する一流の腕があれば、それなりの値段では売れると思います。しかしその価格は、エルメスというブランドのバッグには価格面でかなわないことが多いでしょう。

製品価格というのを簡単に分解して考えてみると、製品の値段は素材価格と人件費と企業が手にする利益を足し合わせたものとなります。
つまり、素材価格が2万円で職人の人件費が5万円で、会社が3万円の利益を取ろうと思うのであれば、メーカーはその商品に10万円の値段をつけるということです。
メーカーが直接売らずに小売店を通す場合、その小売店も販売手数料を取るでしょうが、それでも20万円はいかない価格になると予測されます。

しかし有名ブランドの場合は、この計算式にブランド・エクイティが加わります。
ブランドエクイティは、ブランドの持つ資産価値を商品価格に反映させたものなので、それを足し合わせることで、100万円を超えるような価格も実現できてしまいます。

ブランドの価格面以外での資産的価値


価格面ばかりの説明をしてきましたが、それ以外にもブランドの資産効果は様々なところで働きます。

例えば、大きな百貨店に店を出す場合、聞いたこともないような無名ブランドであれば、そのブランドに集客能力がないため、百貨店側は強めのテナント料を提示してくるかもしれません。
しかし、そのブランドがテナントとして入ることで多くの客を集客できるような場合は、テナントを貸してあげるという姿勢ではなく、是非この場所を使ってくださいという姿勢で誘致するわけですから、テナント料も変わってくるでしょう。
また有名なブランドであれば、求人を出す際も能力の高いデザイナーや職人などが多く応募するでしょうから、良い人材を集めやすくなります。

この様な感じで、強いブランド力というのは物事を良い方向へと導いていくような力があり、これは資産として見ることが出来るということです。

以上が、ブランドの機能なのですが、結構あやふやだったり、具体的に考えた際に役割が被ってそうなものもあるとは思いますが、これは前にも言いましたが、ブランドというものを学問的に無理やり分けているからだと思われます。
この番組は実際に中小企業で働いている人に向けて発信していますが、そういった方は、今回登場した4つの機能の名前と定義を暗記するなんてことはしなくても良いと思います。
ブランドには、こういった機能があると何となく理解できれば、次のブランド戦略につなげていきやすいと思います。

そのブランド戦略についてですが、それはまた次回に話していきます。

【Podcast #カミバコラジオ 原稿】第54回【経営】ブランド5

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ファミリーブランド


今回も引き続き、ブランドについて話していきます。
前回と前々回で、ファミリーブランドとダブルブランドについて話していきました。
ファミリーブランドは、同じ様な系統の製品を同じ様な顧客層に向けて販売するブランドで、ダブルブランドは、同じ様な顧客層に対してこれまでと違ったイメージを打ち出していく際に使われるものです。

ブランド・プラス・グレード


次に紹介するのはブランド・プラス・グレードで、同じ様な製品ラインのイメージでその市場での競争地位も同じ商品を、をこれまでと違う顧客層に対して販売していく場合のブランドです。
ブランド・プラス・グレードという言葉の響き通り、既存ブランドのイメージをそのままに、グレードを変えた製品を作ることで違う層を取り込んでいこうとする考え方です。
具体例をあげるのであれば、ベンツが自社製品をクラス別で分けているような感じです。

クラスごとに価格帯などが変わるわけですが、ではクラスによってイメージが大きく変わるのかといえばそうではありません。
ベンツという大きなブランドによってイメージ付けが行われているので、実際にはシリーズごとに外観は変わっていますが、その外観の変化よりもベンツのロゴのイメージのほうが強いため、製品ラインのイメージは同じと考えられます。
つまり、ベンツ内で細かく分かれているクラスによって価格差や若干のイメージの違いなども存在するのですが、顧客が抱くイメージの大半は『ベンツ』というメーカーがまとっているイメージです。

このベンツというイメージを全てのクラスが共通してまとっているため、製品ラインのイメージや市場での競争地位は同じものと考えます。
では客層の方はどうかというと、グレードによって若干変わってきたりします。先程も言いましたが、グレードごとに製品の見た目もそうですが価格が大きく変わります。
ベンツといえば一般的には高級車ブランドとして有名ですが、その中でも大衆車と変わらないような価格帯の車もあれば、1千万を軽く超えるような車もあります。

当然のことながら、ここまでの価格差が開いてしまえば、同じベンツといっても購入する層は変わってきます。
そのため、この様なブランドはカテゴリーとしては、ターゲット層は異質で製品ライン間のイメージやその市場での競争地位は同質である事になります。

個別ブランド


この例だけでは少し分かりづらいと思うので、ついでに次の個別ブランドの例を出して、それと比較してみましょう。
【個別ブランド】というのは、ターゲットとする客層も製品ライン間のイメージと競争地位の両方が異質とされているブランドです。
先程と同じく自動車の例で言うのであれば、トヨタブランドとレクサスの違いです。

トヨタというのは安全性や品質の良さなどで一定の評価を受けていますが、そのブランドの大まかなイメージとしては大衆車です。
いくらトヨタ式改善を行って品質を上げたとしても、会社が長年活動する中で定着してきた大衆車というイメージは払拭できません。
もし大金持ちが見栄を張るために車を買おうと思った場合、トヨタ車はいくら性能が良かったとしても選択肢からは外れるでしょう。

何故なら、誰もが普段遣いする車ですし、持っていることで車のオーナーが何らかの優位性を示すことが出来ないからです。
仮にトヨタブランドで2000万を超えるような高級車を出したとしても、それを買う人がいるかどうかは疑問です。
何故なら、どんな高級車であったとしても、あのトヨタのロゴが付くだけで大衆車に見えてしまうからです。

イメージを変える


ではこのトヨタが、高所得者向けに高級車を提供する際にはどうすれば良いのかというと、新たにブランドを作る必要が出てきます。
ブランド=イメージというのは前から言ってきたと思いますが、そのイメージが全く付いていない無垢な状態のブランドを新たに作り、そこに新たにイメージ付をしていけばよいわけです。
今回の例で言えば、トヨタブランドには大衆車としてのイメージを担ってもらい、高級車向けのブランドを新たに作ればよいということになります。 そうして生まれたブランドがレクサスです。

レクサスは高級車として売り出していますし、トヨタというブランドからは切り離された存在であるため、独立した高級なイメージをまとっています。
皆から高級車として認知されているということは、先程のように大金持ちが見栄を張るために車を買おうとした際に、十分選択肢に入ってくるということです。
これを先程のブランド・プラス・グレードと比べてみると、その違いが分かりやすいと思います。

このレクサスというブランドの中で、デザインや価格帯をさらに細分化すれば、それはブランド・プラス・グレードとなります。
レクサスの中での下位モデルと高級モデルがあり、そこに結構な価格差があったとしても、レクサスブランドとしてのイメージは固まっているわけですから、両者ともに高級車として認知されます。
しかし、ブランドや車の詳しい人達にとっては、レクサスブランドの中でのシリーズ間の地位のようなものが分かるため、それぞれのシリーズごとに顧客層が変わることになります。

顧客層は変わるのですが、ブランドイメージとしてはレクサスはレクサスであって、レクサスの下位モデルだから実質は大衆ブランドのトヨタなんてことにはなりません。

顧客層の切り分け方


少しややこしいと思いますが、理解の仕方としては、顧客層の切り分け方の違いといえば良いのでしょうか。
トヨタを選ぶ層とレクサスを選ぶ層というのは、結構はっきりと別れています。 コスパを求める顧客層は大衆車を買いますし、それ以外の付加価値を重視する顧客層は高級モデルを買い求めやすいということです。

ここで注意が必要なのは、この顧客は大衆商品しか買わない、この顧客は高級品しか買わないといった感じで、その人ごとに決まった商品しか買わないとして人間の方をカテゴリー分けしているわけではありません。
例えば洋服を購入する際の例で言えば、普段着や部屋着用にはユニクロを購入するけれども、何かしらのイベントのためにシャネルなどの高級品も買うという人は結構いると思います。
つまり、同じ人間であったとしてもシチュエーションによって、高級品を買うこともあれば安いものを購入することもあるということです。

なので、顧客層の方は商品を購入する目的によってくくり直されます。その顧客に、どのようにブランドを認知して欲しいのかというのを考えて行くのが、今回扱っているブランドの分け方です。
また、この各ブランドの分け方ですが、実はくくりの大きさが違います。 そのため、一つのブランドの中に複数のブランドの分け方が混ざっていたりもします。
この辺りは、ブランドの枠組みを学問的に無理やり切り分けているので、このようなことになってしまっているんだと思います。

まずはファミリーブランド


このことは、全てのブランドが出揃った上でもう一度、各ブランドについて見ていくことで理解が深まると思うので、簡単に復習していきましょう。
まずファミリーブランドですが、これは、同じ商品イメージのものを同じ顧客層に向けて販売していく際につけるブランドです。 トヨタで言えば、トヨタというブランドで商品を出すようなものです。
会社は殆どの場合、小規模から初めて徐々に規模を拡大していくものなので、多くの会社が、まずこのファミリーブランドの製品を増やしていくことから始めていきます。

ある程度の商品が出揃って、顧客が選択肢の多さに困るようになってくると、そのファミリーブランドの中でのブランドの分け方によって、2通りの展開の仕方が出てきます。
1つは、それまでに会社が培ってきたイメージを活かしつつ、それぞれの独自の製品イメージをより鮮明にしたダブルブランドです。
トヨタで言うのであれば、トヨタというブランドを活かしつつもサブタイトルのように『カローラ』や『プリウス』といった感じで個別製品のブランド名をつけていきます。

製品の安全性や品質、アフターフォローや価格帯といった、製品全般のブランドイメージはトヨタブランドが引き受け、外見やコンセプトなどの好みに依存するイメージは製品ブランドが引き受けます。
こうすることによって、企業は様々なイメージの異なる製品を展開することが出来、大本のイメージは大看板の方のブランドが引き受けてくれることになるため、その商品ブランド知名度も上昇させやすくなります。

ブランド・プラス・グレード


もう一つの方法としては、ブランド・プラス・グレードです。 こちらは、レクサスの様にあまりイメージを崩したくないブランドが、それでも車種間の違いを出すために、各車のグレードをシリーズ化するような売り方です。
ブランド・プラス・グレードについては、製品ラインのイメージや市場での地位が同じで、顧客層だけが違うものであるため、ダブルブランドの様に車種間であまり大きな違いを出すことは出来ません。
何なら、パッと観た感じのシルエットや雰囲気で、ブランド名が当てられた方が良いぐらいかもしれません。

そこまでイメージがしやすければ、顧客の頭に製品イメージが定着しやすいでしょうから、思い出してもらいやすいというブランドの最も重要な仕事が達成しやすくなります。
この様に、イメージを固定しつつも複数の居客層に購入してもらいやすくする売り方が、ブランド・プラス・グレードです。

ブランドの流れ


そして最後の個別ブランドですが、これまでのブランドイメージとは違った市場・顧客層を取りに行くために、全く別のイメージを持ったものとして作られるブランドです。
トヨタが、これまでの大衆車というイメージを捨てて高級車というイメージを持った製品を売り出したいと思うのであれば、これまでとは別のブランドを立ち上げて、そちらで一からイメージの構築をしていく必要があるということです。
そうして作られたブランドがレクサスです。

この個別ブランドは、一見すると随分と大層なことをしてそうなイメージがありますが、これは例に出したのが自動車という値段が高いものなのでそう思うだけで、私達の身の回りには結構たくさんあったりします。
例えばオンワード樫山という服飾メーカーは、複数の個別ブランドを展開しています。全て挙げていくとキリがないので代表的なものだけを上げていくと、23区であったり組曲がそれにあたります。
実際にサイトを訪れてブランド一覧を見れば確認できますので、見てみて欲しいのですが、服飾メーカーというのはデザインやイメージが全てといったところがあるため、個別ブランドで商品展開をしていくことも珍しくありません。

以上が、ブランドの分け方です。 次回は、ブランドとは何なのかについて考えていきたいと思います。

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第123回【饗宴】世界を支配するエロス 前編

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劇作家 アガトン

今回も前回と同じ様に、プラトンの対話篇『饗宴』の読み解きを行っていきます。今回は、アガトンの主張です。
この人物ですが、アリストファネスが喜劇作家だったのに対し、こちらのアガトンは悲劇作家です。
彼の作品は断片的にしか残っておらず、どの様なものだったのかはわかりませんが、伝えられている話によると、当時の演劇界では革新的な考えを取り入れて演劇界に影響も与えたようです。

どのようなことを実践したかというと、当時の演劇というのはギリシャ神話を題材にした物が多かったようです。 悲劇で言えば、例えば前に紹介したオルフェウスの物語を題材に劇を作ったりというのが普通のことでした。
しかしこのアガトンは完全オリジナルで悲劇を作るなど、前例がないことを行って、尚且、評価された人物のようです。
ちなみにですが、この対話篇『饗宴』は簡単に言い直すと宴会なのですが、このアガトンがはじめて悲劇で賞をとった際に祝として開かれた宴会が舞台になっています。

前置きはこのぐらいにして、アガトンの主張に入っていきたいと思います。

神そのものの評価

彼がいうには、これまでに話をしてきた者達は、『神そのもの』を褒め称えたのではなく、神が与える祝福を受けた人間について話してきたのであって、神そのものを賛美した者はいないといいます。

これまでに出された主張を簡単に振り返ってみると、パイドロスの主張は、エロスという概念は早い段階で生まれたから尊く、人がエロスのために代償を支払って行動をすれば神様から祝福されるから、エロスを伴う行動は尊いと主張しています。
パウサニアスの主張は、エロスには天のアフロディーテと俗のアフロディーテの2種類あり、それは目的によって分かれ、人の目標の善し悪しによって手段の良し悪しが決定されるというもので…
それに対しエリュクシマコスは、人間が行う手段そのものに善悪があり、人が起こす行動の延長線上に目的があって、良い行動を積み重ねれば良い方向へと到達するという主張でした。

この手段というのは、様々なもの同士の間で働く欲求を適切に操作して調和を生み出す技術のことで、これを幅広く捉えると、あらゆる学問になります。
人が他の動物に比べて優れているのは知性で、その知性を高めるための手段が学問であり、その根源となるのがエロスと考えられるために、偉大だと主張します。

そして前回のアリストファネスの主張では、人間がパートナーに惹かれる理由は、元々1つの完全な生物だった人間が、神に挑戦したことで怒りをかってしまい、2つに引き裂かれてしまった。
2つに引き裂かれた人間は、無意識のうちに再び1つの完全な状態に戻ろうすることで、パートナーと惹かれ合うというものでした。

評価者の能力

確かにこれまでの主張を振り返ってみると、人間の目的であるとか手段。人が持つ知識やそれを磨くための学問といったものが褒め称えられているだけで、神そのものが讃えられてはいません。
一番最初のパイドロスの説では、人間の精神を司る概念としては一番最初に生まれたので尊いと主張されていますが、先に生まれたから尊いと言われても、余り讃えられているようには思えません。

そこでアガトンは、エロスそのものの存在について賛美しようとします。
そうしなければならない理由は、『何故、称える対象であるのか。』の根本原因を明確にしなければならないからです。 これは、どのようなものを褒める場合でも同じです。
例えば、ある美術品がAさんによって評価されたとしましょう。 この美術品は優れていて、大変価値のあるものと評価が下されたわけですが、この美術品が本当に評価すべき価値があるのかどうかは、評価を下したAさんに依存します。

つまり、Aさんに美術品の評価ができるほどの審美眼がある場合には、その美術品には本当に価値があるといえますが、Aさんにモノの美しさを見分ける能力がない場合は、その評価は無意味なものになってしまうということです。
これまでに出てきた主張というのは、『エロスが称えるような行動だから凄い。』といった形で紹介されていましたが、評価を下したエロスそのものの評価を正しく行わなければ、それらの行動が本当に凄いかどうかは分からないということです。
神が称賛するものは素晴らしいと定義するのであれば、まず、神がどの様に優れているのかを示す必要があります。

永遠に若いエロス

では、神はどの様に優れているのでしょうか。 先程も言いましたが、パイドロスは『エロスは最も古い神であるがゆえに偉く、尊い。』と主張しました。
しかしアガトンに言わせればこの主張は間違っていて、エロスは神々の中で最も若く、故に美しいと言います。
ではエロスは、神々の中でも最後に生まれたということになるのでしょうか。

これはそういうことではなく、彼がいうには、エロスは年老いることを嫌い、これと意図的に距離をとっているために年を取ることもなく、永遠に若いそうです。
人のように物質的なものであれば、時間という概念からは逃れることが出来ずに、必ず年老いていきます。これは生物に限らず物も同じで、時間とともに経年劣化していきます。
しかし、美しさという概念であれば、時間と同じ概念であるため、時間から逃れることも可能だと考えられるので、一番最初に生まれながらも一番若いということもあり得るのでしょう。

神の地位の変化

次にアガトンは、神々の争いについて話し始めます。 ギリシャ神話において神々は、親子間で結構な争いを行っています。
例えば、一番最初にカオスから生まれたガイアとウラヌスは、多くの子供を作りますが、最初に生まれたものが化け物のような姿かたちをしていたため、ウラヌスはタルタロスという奥深い穴に子供を封じ込めます。
このタルタロスですが、ガイア自身が大地の化身であり、穴というのは大地に開くものなので、ガイアの体内に戻したという説もあるようです。

これに怒ったガイアが、子供の一人クロノスと手を組んで、ウラヌスを撃退します。 この時に、男性神ウラヌスのアソコが切り落とされて遠くへ飛んでいき、エロスと同一視される美と愛の化身アフロディーテが生まれたとされています。
神々の戦いはこれで終わらず、クロノスと子どもたちとの間でも、同じようなことが起こります。 簡単に説明すると、子どもたちによって王座が奪われると予言を受けたクロノスが、次々に子どもたちを丸呑みにしていきます。
この時にクロノスの妻は、1人でも子供を守ろうと、生まれたばかりのゼウスの代わりに子供と同じ様な大きさの石を身代わりに差し出して、最後の子供であるゼウスを守り抜きます。

その後ゼウスは成長し、クロノスが寝ているスキに神の酒であるネクタルを飲ませて、飲み込んだ子どもたちを吐き出させます。
この際にクロノスは飲み込んだ順と逆順に子どもたちを吐き出していくため、兄弟の順番が入れ替わります。 この順番の入れ替わりは、パイドロスの主張の際にも出てきた様に、概念の重要度が変化したと考えるべきでしょう。
結果として末っ子だったけれどもクロノスに飲み込まれなかったゼウスが長男となって一番偉くなり、クロノスに変わって権力を得ます。

では、ここで争いが終わったのかというと、そんなことはなく、ゼウスも『子供に権力を奪われる』という予言を受けてしまい、親と同じ様に子供を丸呑みにしてしまいます。
しかしその後、ゼウスは頭痛に襲われます。ゼウスはその原因を解明するために、プロメテウスに頭を割って調べてもらった所、ゼウスの頭から完全武装したアテナが誕生します。
アテナは、知性の象徴であるゼウスの頭から生まれたため、ゼウスの知性を引き継いで生まれます。

エロス不在中の神々

この様に、神々は事あるごとに争うのですが、この争い事にエロスは登場しません。理由は明確に語られていませんが、先程も言ったとおり、アフロディーテはウラヌスの男性のシンボルが切り落とされ、それが海に落ちて誕生します。
海の上で誕生したアフロディーテ、またの名をビーナスは、絵画で描かれている様に貝殻の船に乗って、トルコの近くにあるキプロスに流れ着きます。
つまり、エロスと同一視されているアフロディーテは、神々が争いを起こしていた時には、ギリシャにはいなかったとも考えられます。

アガトンはこの事を重要視し、もし仮にエロスがギリシャにいれば、争いは起こっていなかったであろう。
神々の間で争いが起こったのは、アナンケという神が原因。愛と平和の象徴であるエロスが争いの中にいれば、争いは解決していたはずで、実際に平和が実現したのは、エロスが神々の王になってからだと主張します。
ちなみにアナンケとは、必然や宿命といった概念を神格化したもので、愛や平和という概念がなければ、神々でさえも争い殺し合う運命にあるということなんでしょう。

エロスが神々の王…という下りは、正直わからないですが、エロスとアフロディーテが同一のものとするのなら、アフロディーテはその後、鍛冶の神様である職人のヘパイストスと結婚することになる為、彼女がギリシャに戻ってきたということかもしれません。
人間の世界は別として、神々の世界ではアフロディーテが帰ってきてからは、大掛かりな争いは起こってないようですしね。

参考文献



【Podcast #カミバコラジオ 原稿】第53回【経営】ブランド(4)

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ファミリーブランド


今回も、ブランドについて話していきます。
前回はファミリーブランドとダブルブランドについて触れていきました。

簡単に振り返ると、ファミリーブランドは同じ様な性質の顧客層に向けて同じ様な商品ラインナップの商品を出し続ける際に取るもので、基本的には同じブランド名で商品を出し続けるものです。
例えばアパレルメーカーは、一つのメーカーが複数のブランドを展開していたりもしますが、同じ様な雰囲気で同じ様な顧客層に向けて作っている商品については、同じブランド名で出しています。
何故、同じブランド名で出し続けるのかというと、顧客の頭の中での自社のブランドイメージを固定化させるためです。

具体例を出すと、ファーストリテイリングというアパレルの会社は、ユニクロの他にGUというブランドを持っています。これらブランドは有名ですのでご存じの方も多いと思いますが、皆さんはこれらのブランドにどの様なイメージを持っているでしょうか。
ユニクロよりもGUの方が安いというイメージを持ってはいないでしょうか。多くの方がGUの方が安い服が多いというイメージをお持ちだと思いますが、それは会社側がブランドイメージをその様に印象づけるために戦略的に動いていたからです。
GUが出来る前のユニクロは、他のメーカーに比べて低価格の服を売っているというイメージでしたが、GUという低価格を全面に出したブランドを新たに出したことによって、こちらが低価格ブランドという役割を担うようになりました。

その結果として、ユニクロはその上位ブランドという位置づけになり、顧客層が若干ズレる事になりました。
顧客層が分かれるということは、そのそれぞれの顧客に対してターゲットを設定して商品開発を行うことになるので、GUは低価格を求める顧客向けの商品開発を行うことになりますし、ユニクロはそれよりも高い商品開発を集中して行うことになります。
この例の場合は、価格帯で顧客層を分類して考えていますが、この他にも、デザインであったり年齢層といった感じで市場を分けることも可能で、それぞれの市場に向けた商品を同じブランド名で出すのが、ファミリーブランドです。

ダブルブランド


次に紹介したのがダブルブランドで、こちらは一つの商品に2つのブランド名を併記する方法となります。2つのブランドで勝負をするのでダブルブランドです。この方法は基本的に、顧客層が同じで製品の質が違う場合に使われます。
これは具体的な例を上げたほうが分かりやすいと思うので例を上げると、アサヒビールというブランド名と『一番搾り』というブランド名を併記して商品を売るという事です。
何故この様な事をするのかというと、商品個別のブランド名よりもメーカーとしてのナショナルブランドの方が有名で信頼されている場合、そちらの名前を併記した方が売りやすくなるからです。

今でこそ一番搾りは有名になり、この名前だけでも十分に知名度があるため、ダブルブランドの意味は薄れていますが、仮にキリンビールが全く新しいブランド名の商品を開発し、キリンビールという名前を併記せずに売り出す場合を考えてみてください。
消費者は、見たこともない商品名のビールが並んでいたとしても手に取りづらいでしょうし、実際に売れるかといえば売れないでしょう。
というのもビールを買う消費者は、常に目新しいビールを探し、新商品が出ればすかさず買うといった冒険的な行動は取らず、いつも呑んでいる商品を買いがちだからです。

そのため、どこのメーカーが作っているかわからない、全く聞いたことがないような商品をあえて購入したりすることは少ないです。
しかしこの新商品に、いつも自分が購入して呑んでいるビールを作っている、信頼できるメーカー名が併記されていたらどうでしょうか。
自分が贔屓にしているメーカーが新商品を出したとすぐに分かるため、品質については信頼できますから、興味本位で購入しやすいです。

また、ブランド名を商品ラインナップ毎に変えることによって、メーカーは製品間の違いを簡単に表現することも可能になります。

ダブルチョップ


ここまでが前回に話したことです。ちなみに、このダブルブランドに結構似ている考え方があるので、ついでに紹介しておきます。それは、ダブルチョップというものです。
先程のダブルブランドとの違いを説明するために、もう一度ダブルブランドの前提を話しておくと、この方法はメーカーが自社製品を出す際に、商品ラインのブランド名に加えてナショナルブランドである自社ブランドも併記するという方法です。
それに対してダブルチョップというのは、他社の名前を併記して販売する事です。

これは、他社のブランド名の信用力を利用して自社製品を販売するという方法なので、自社ブランドがあまり認知されていなかったとしても、併記する他社のブランド名が有名であれば、そのブランドの信用に乗っかることが出来ます。
ちなみに当然ですが、勝手に他社ブランドを名乗って良いなんてことは法律的にも道徳的にもありえないので、この方法は1社で行うものではなく、他社と合同で行うものとなります。
これはどの様な時によく使われるのかというと、プライベートブランドを開発する際などによく使われたりします。

プライベートブランドというのは以前にも説明しましたが、簡単に言えば、スーパーなどの小売店や卸売業者など、商品の製造設備を持たない会社が商品企画し、実際の商品自体はメーカーに作ってもらうことで成立するブランドのことです。
大手スーパーは、自社のプライベートブランドとしてビールや調味料などを作って販売していますが、その際に実際に作っているメーカーの名前を併記することで、商品に安心感を与えようとするのがダブルチョップです。
大手スーパーは販売実績などはありますし、普段から使っている店であれば、顧客側は『変なものは仕入れていないだろう』という安心感は持っているでしょうが、それでも、メーカーが有名なところであれば更に安心します。

日用品の場合は顧客は安心感を求めることが多いでしょうから、メーカー名を併記するだけで売上が伸びる可能性があるのであれば、併記するほうが良いというのが基本的な考えです。

過剰な価値をつけない


少し話はずれますが、この様な考え方は食料品や飲食店などでもよく見られます。
原材料にドコドコ産の野菜を使っているとか、ブランド牛を材料に使っているといった売り文句はよく観ると思いますが、あれも、食材が持っているブランドの力を借りて自社製品の価値を上げているという点では同じです。
提供している店や料理人のことを全く知らなかったとしても、食材の方がが一流であれば、出来上がった製品もそれなりのクオリティを保っているだろうと考える人は多いので、それを利用したものと言えます。

ただ、この際に気をつけなければならないのは、仮に提供した商品が顧客の期待するレベルを下回っていた場合、普通に販売していたときよりも顧客に悪い印象を与えてしまう可能性があるということです。
顧客は使用されている食材ブランドによって、商品に対して過度の期待をしている状態で購入します。 にも関わらず、大した商品を提供できなかった場合、顧客は精神的にかなりガッカリしてしまいます。
この様に気持ちが落ち込んでしまった場合、顧客はなんとかして気持ちを落ち着かせようとするのですが、多くの場合、『買い物に失敗したのは自分のせいではなく、相手が過剰な宣伝をしたからだ。自分は騙されたんだ』として納得しようとします。

顧客がこのようにして自分を納得させた場合、顧客の中では当然、商品の販売者は大したことのない商品を過剰な宣伝で騙して買わせた悪者で、自分は騙された被害者だということになりますから、販売者の印象は相当悪くなります。
この様な心理の動きを認知的不協和といったりもするそうですが、この様な状態に陥った顧客は二度と商品を買わないだけでなく、積極的に販売者の悪口を言って回る可能性すら出てきます。
特に現在では、誰でも自由にSNSで自分の発言を発信できるわけですから、場合によっては大きな問題になる場合もあります。

口コミ効果


前に、口コミの重要性について話したと思います。口コミは信頼できる知り合いが勧めて来るため、普通の広告と比べて信用されやすく、人の行動にも反映されやすいです。
その口コミが会社にとってマイナスの方向に働いてしまうといえば分かりやすいかもしれません。
つまり、知り合いから会社や製品の悪口を聞かされることで、今後、その人がその製品を購入しないようになってしまう可能性があるということです。

ワイドショーなどを観ても分かる通り、人はネガティブな話を好む傾向にあるので、人から会社や製品の悪口を聞いて購入をやめてしまう人は、自分が購入してもいない商品の悪口を更に別の知人にする可能性もあります。
この様な連鎖が進んでいくと、そのブランドの価値がマイナスになってしまい、企業名や店名、ブランド名をつけることで逆に売上が落ちてしまうという自体にも陥ってしまう可能性があります。
つまり、過度な行き過ぎた宣伝は逆効果になってしまうということです。

ただこれは、企業努力によって製品のクオリティーの方を上げてしまって、宣伝内容と製品品質の釣り合を取ってしまえば、問題が無くなったりもします。
単に他人のブランドを借りるだけで自らの努力をしなければ、結果として痛いしっぺ返しを食ら可能性があるということでしょう。
まぁ、何事もあまり楽をしようとせず、誠実な商売をするというのが、結果としてブランドを守ることにつながるということでしょうか。

ということで今回は、ダブルブランドの派生の話をしていきましたが、次回は残りのブランド展開について話していきます。

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第122回【饗宴】太古の人類 後編

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地球は丸かった

この、3つの性別を持つ太古の人間ですが、彼らは何故、足で歩くことをせずに回転しながら移動するのかというと、彼らの起源が星だからです。
星は丸く、回転しながら移動していますが、その星を起源として生まれてきているため、太古の人間は回転によって動くということです。
この表現から分かることは、紀元前4世紀とか5世紀の時点で、地球や月や太陽が丸く、回転しながら移動しているということが、一つの説として出ていたことです。

古代ギリシャでは、地球が丸いとするのなら、その大きさはどれぐらいだろうという研究もされていて、同じ時刻に離れた場所で棒を立てて、その影の傾きと長さを図って地球の大きさを図り、円周で約4万キロ程度と出たという話もあります。
とはいっても、その考えが全体に浸透して主流になっていたわけでは無かったようです。というのも当時は当然、重力の存在もわかってないですから、球体の上に立つというのをイメージしにくかったでしょうからね。
このことは、映画の『アレクサンドリア』という作品でも紹介されています。

映画アレクサンドリアの舞台は、この対話編の時代から800年後ぐらいのローマの統治下にあったエジプトの都市です。 アレクサンダー大王がエジプトのファラオになった際に、自らの名前をつけて首都を置いた場所が舞台となります。
この土地にはアレクサンドリア図書館という科学の象徴のような場所があるのですが、そこに保管されていた古い書物の記述に、『太陽や地球は丸いというのがあるが、主流ではない。』といった感じで、地球が球体であるという説が紹介されます。
アレクサンドリア図書館については、第42回で紹介していますので、まだ聞かれていない方で興味のある方は、聞いてみてください。

神に反抗する人類

この太古の人間ですが、その力は神々の力に匹敵するのではないかと言われていたほどで、現代の人間と比べると、遥かに強大な力を持っていたそうです。この強大な力に慢心した人間たちは、神々に戦いを挑むようになります。
しかし実際には、人間たちが神と同等の力を持っていると思い込んでいただけで、実際には、神との力の差はかなりあったようです。
神は、人間の挑戦に対して殲滅することで応えることも出来ましたが、そうはせず、制裁を加えるにとどめました。

何故、無知であるがゆえに無謀にも神に挑んだ人間を殲滅しなかったのかというと、神々には人間が必要だったからです。
神々という存在が何故、存在しているのか。これは、卵か鶏かどちらが先かという話になるのですが、このアリストファネスの主張の中では、人間がいるから神々が存在できているといった事が語られます。。
もう少し具体的に説明すると、神々が存在していると思い込み、その神々に信仰を捧げる人間がいるから、神々が本当に存在しているように振る舞えているということです。

例えば、ソクラテスは神々を信じていないとして不敬罪で訴えられて死刑になっていますが、実際に神々がソクラテスの命を奪ったわけではありません。
ソクラテスを死に追いやったのは、神々を信仰している人間です。人間が、『神様に無礼を働いたから』と彼に死刑判決を下して、死ぬように促したのです。
もし仮に、ギリシャ内で市民が誰も神話を信じておらず、神々も信仰していなければ、少なくともソクラテスは、不敬罪で死ぬことはなかったでしょう。

つまり、神々が人間に対して直接手を下せるのは、信仰心のある人間がいるから出来ることで、誰も神を信じていなければ、神の存在自体がが無くなってしまうため、神自身も困ってしまうということです。
この様に、人間を懲らしめたいが殲滅は出来ない神の代表であるゼウスは、人間の体を2つに裂き、人間の姿かたちを現在の人間と同じ様にして、力を奪いました。
これにより、人間の力が弱まる一方で人間の数は倍に増え、信仰心もそれに伴って上昇させることが出来ました。

現在の人類の誕生

こういった話は、キリスト教の聖書にも登場し、バベルの塔の話がそれに当たります。
バベルの塔は、人間が自身の力に慢心し、神々の領域である天にまで塔を伸ばそうとした行動に対し、神が雷を落とすことで、その塔を破壊するという話です。
神はこの時に塔を破壊するだけでなく、人間が団結することで力を持ったと考え、人間同士の意思疎通がし辛いように、それぞれの人が話す言葉を変えてしまいます。

これにより、日本人の私達が外国語である英語を勉強しなければならないという、面倒くさいことになってしまいました。

話をギリシャ神話の方に戻すと、太古の人間は2つに裂かれて2人の人間になってしまったため、元の1つの生物に戻ろうとして、互いが互いを求め合う様になります。
しかし、片割れが先に死んでしまうと、残された方は、相手の性別に構うこと無く手当たりしだいに相手を求めるようになり、人類は滅亡へと向かっていったようです。
それを哀れに思ったゼウスは、人間の性器の用途を変えます。

今までの性器の使い方としては、人間は大地に種を落とすことで、母なる大地から芽吹くように生まれてくるとされていたのですが、それを人間同士で性交することで誕生できるようにと仕組みを変えます。
この時以来、人間には『互いに求め合う』という感情であるエロスが宿ることになります。 このエロスという感情について更に言えば、2つのものを1つにして人間本来の姿を取り戻そうというする感情です。
魚でいえばヒラメやカレイのように、本来1つだったものが2つに別れた割符のような存在なので、現代の人間は、符合するもう一つの存在を探し続ける。そういった感情のことを総称してエロスと呼びます。

ここで当然のように、ヒラメとカレイはもともと1匹の魚だったものが2つに割れたという説明が出てきますが、当時はその様に思われていたようです。
ちなみにキリスト教でも、ヒラメやカレイは元々1つだったものが、モーゼがエジプトから奴隷を連れて逃げる際に海を割った時に、一緒に割れた魚と言われていたりします。

人間同士が惹かれ合う理由

少し話がそれましたが、アリストファネスの主張をまとめると、人間は太古の昔は3つの性別に分かれていて今と違った形をしていたが、それが引き裂かれて2つになることで、今の人間と同じ様な姿形となった。
もともと1人だったものが2人に別れてしまったので、もし半身となる者を見つけることができれば、互いにそれを手放そうとはせず、完全体である1つになろうとする。
また人間は、自分たちを2つに引き裂いた神々を恐れ、それと同時に、強大な力を持つ神を敬わなければならない。

もし、神々を尊敬することをやめてしまい、再び神に挑戦しようなどと思えば、神は再び人間の体を分断し、一本足、一本腕にされてしまうだろう。
人間の幸福が太古の人間性の回復であり、そのために必要になるのが己の半身である者との愛情を通じた結合であるのなら、その行為こそが人々を幸福に導く行動であり、その行動の象徴として存在する神であるエロスは、称賛しなければならない
なぜなら、人々を幸福に導いてくれるのはエロスだから。 となります。

昔話調でエロスを語るという喜劇作家らしい主張ですが、ここで語られていることは、そもそも何故、人間はパートナーを求めるのかという根源的な理由です。
人間が相手を求める理由として誰でも思いつくのは、子供を産んで子孫を反映させるためというものだと思います。
しかしその場合、女同士や男同士のカップリングが成立する理由にはなりません。

ですが実際問題として、その様なカップリングは存在しています。 その理由付けとして、子供を作る以外の根本的な理由が必要になり、この様な説が生まれたのでしょう。
以上でアリストファネスの主張は終わり、次はアガトンの主張へと続きますが、その話はまた次回にしていきます。


参考文献



【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第122回【饗宴】太古の人類 前編

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今回も、対話篇『饗宴』の読み解きを行っていきます。

パイドロスとパウサニアスの主張

前回までで出てきた主張を簡単にまとめると、パイドロスの主張としては、エロスは大地や空という概念の次に生まれたもので、人間の内側の概念としては一番最初に生まれた。
また、愛情であるエロスのために代償を支払う行為は美しく、代償を惜しむ行為は醜いため、エロスは尊いと主張します。

次にパウサニアスは、エロスは天のアフロディーテと俗のアフロディーテの2種類あり、両者は最終的な目的の善悪によって分類できると主張します。
恋愛において、相手に求める最終目的が知性や勇気といった徳性の獲得である場合には、天のアフロディーテに分類されて、その行為は美しいものとなる一方、金や権力といった物質的なものを欲する場合には、俗のアフロディーテとなり醜いものとなります。
好きな相手に振り向いてもらうために起こす行動は、その行動そのものに善悪があるのではなく、最終目的が良いものであれば美しい行動となるということです。

エリュクシマコスの主張

そして前回のエリュクシマコスの説ですが、ここではエロスを相対する者同士の欲求と定義し、天と俗の2種類に分かれるのは目的の性質によるものではなく、手段そのものに原因があるとします。
手段として取る行動そのものをエロスと定義し、行動そのものが善悪に分かれるとした理由は、そうしなければ、生まれてきた理由がわからないものが起こす行動を分類することが出来ないからでしょう。
また、エロスをそれぞれが発する欲求と定義し、専門技術をエロスを適切に操作して調和させる事と定義すれば、これは恋愛だけに限らず、自然や宗教すべての事柄に当てはまります。

例えば、物質同士の力の関係性について研究すれば物理学となり、気候や天気の調和をはかるために空の動きを研究すれば、天文学や気象学となります。
この様に学問は全て、それぞれのものが発する欲求の調和を考えていることになる為、エロスの研究となります。
プロメテウスの神話によれば、人間が他の動物に比べて唯一優れている点は、アテナから盗み出した知性なので、知性の代名詞的な学問の根源がエロスであると考えるなら、エロスは偉大だということなのでしょう。

以上がこれまでのまとめになります。各主張をかなり短くまとめたため、これだけを聞いても意味が分かりづらいと思うので、過去回をまだ聞いていない方はそちらから聞いてください。

アリストファネス

今回の内容ですが、アリストファネスの主張を取り上げていきます。
アリストファネスの職業は、喜劇詩人・作家です。彼の作品は劇になっていて、かなりの人気があったようで、そのことは数千年たった今でも名前が語り継がれているところからも、その事が想像できると思います。
アリストファネスは、ソフィストを詭弁を使って他人を言いくるめて、大したことのない情報をさも重要なものとして他人に授けている職業だとしてdisり、そのソフィストの代名詞としてソクラテスを作品内に登場させています。

前に紹介した『ソクラテスの弁明』の中でも彼の作品が紹介され、ソクラテスが信用出来ない奴だという証拠として話題に上がりました。
現代でも、風刺画なんてものがあり、政治や社会で起こっている出来事を題材にしてバカにしたり笑いものにして挑発するというのがありますが、アリストファネスは、それを喜劇で行っていた人物です。
そんな彼の主張なので、これまでに紹介してきた主張とは少し違ったアプローチとなっています。

太古の人類

アリストファネスの主張によると、そもそも人間というのが誕生した太古の昔は、人間は今のような姿形はしていなかったと言います。
ではどの様な姿をしていたのかというと、手と足がそれぞれ4本あり、頭も2つあったと言います。つまり、人間2人分のパーツで出来上がっていたということです。
姿としては、私達に馴染みのある普通の手足が2本ずつの人間が背中合わせで結合している様な感じの容姿を想像してもらえればよいです。

かなり変わった容姿をしているように思えますが、ギリシャ神話の場合は、カオスから生まれたガイアとウラヌスとの子供として、1つ目の巨人であるキュクロプスや、百の手と50の頭を持つヘカトンケイルといったものが、まず生み出されたりしています。
これらは巨人族であったため、たいへん大きな力を持っていたとされています。 この辺りの解釈としては、世界が誕生した際にはまず、大きくて目立つものから概念として生まれ、そこから細分化させて小さな概念を作っていったと考えれば良いんだと思います。
例えば、地形で言えば山や海というのは遠くからでも観察できますし、デカイです。この大きな概念から、小川などの小さな概念が生まれていったと考えると良いと思います。

この様な感じで、ギリシャ神話では最初に化け物のような巨人が生み出されて、そこから徐々に今の人間のような姿形のものが生まれていったと考えられていたので、太古の人間がその様な姿をしていたとしても、不思議ではないのでしょう。

この太古の人間の移動方法ですが、それぞれ4本の手足を伸ばすことで球状になり、転がって移動します。 イメージで言うと、ウニのような感じで外側に目一杯手足を伸ばして、その状態で転がって動く感じです。
この太鼓の人類には性別が3つ有り、それぞれ、『男男』『男女』『女女』で、男女の性質を持ち合わせるものをアンドロギュノスと呼びます。
この性別ですが、太古の人間を1人と数えずに、今現在の人類2人が結合されていると考えて、それぞれの性別の組み合わせがどうなっているのかで、3つの性別が出来ていると考えると分かりやすいと思います。

つまり、2人の男性が結合されているのが『男男』で、2人の女声が結合されているのが『女女』。そして、男女で結合しているのがアンドロギュノスです。
今現在では、アンドロギュノスといえば両性具有の事を指しますが、その言葉はこの話が元になっているのかもしれません。

人類の起源

この3つの性別にはそれぞれ起源があり、男同士が繋がったものは太陽を起源とし、女性同士が繋がったものは地球を起源とし、アンドロギュノスは月を起源とします。

男同士が繋がったものの起源を太陽とするのは、太陽が空に浮かぶ象徴的なものだからでしょう。前にも簡単に説明しましたが、ギリシャ神話では空はウラヌスという男性神とされているため、空に浮かぶ象徴として太陽を起源としているのかもしれません。
同様に、女性同士が繋がった者の起源が地球とされているのは、母なる大地である地球ガイアは地母神であるため、女性の起源が地球ということになっているのでしょう。
では、アンドロギュノスの起源が月となっているのには、どの様な理由があるのか。これは、月は夜の象徴だからかもしれません。

太陽が照っている日中であれば、光によって大地が照らされて、空と大地の境目は明確となりますが、夜には、大地を照らす光は月明かりぐらいとなり、空と大地の境目は暗闇に紛れて曖昧になります。
空が男性、大地を女性とする場合、その両方の性を持つ中間的なアンドロギュノスは、空と大地が一体化した概念とも捉えられるため、夜の象徴としての月を起源としているのかもしれません。

この、それぞれの性別の起源の解釈ですが、対話篇の中で詳しく説明されているわけではないため、公式の解釈というわけではなく、私独自の解釈ですのでご了承ください。


参考文献



【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第121回【饗宴】エロスは手段と目的のどちらに宿るのか 後編

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エロスは手段と目的のどちらに宿るのか

この、優れた技術を持つものによって発生するエロスですが、前にパウサニアスが主張した様に、天のアフロディーテと俗のアフロディーテの2種類に分かれるといったことはありません。
パウサニアスの主張では、アレテーを求める感情がエロスとなり、互いが惹かれ合う現象自体にはエロスが宿ることはなく、その行為の目的によって二種類のエロスのどちらかが宿ることになります。
しかしエリュクシマコスの主張では、目的ではなく手段が行われている現場においてエロスが宿ると主張します。 つまり、調和のとれた和音が奏でられたときや、恋愛が行われている状態そのものにエロスが宿るということです。

では、パウサニアスが主張した2種類のエロス説というのは全くの出鱈目なのかというと、そうではなく、エリュクシマコスは、エロスの結果として2種類の結末に分かれるといいます。
彼は、技術を持つものが、良い欲求同士を組み合わせることで調和を図ると言いましたが、技術のないものが調和をもたらそうとした場合は悪い結末となってしまい、結果としてはパウサニアスの主張通り、善悪に分かれることになります。
これは、目的が良いから手段が良くなるのか、手段が良いから目的が良くなるのかという話なのですが、卵か鶏かどちらが先かという話になる上、主観的な話も絡んでくるため、相当見極めづらいです。

これに関しては、エリュクシマコスも、専門知識を持つものでなければ識別は難しいといっています。
何故、この様な観点が出てきたのかというと、世の中には、目的の善悪がわからない事柄というのがたくさんあるからでしょう。

人類が存在する目的は不明

ソクラテスの孫弟子に当たるアリストテレスは、全ての存在は、まず目的があって生まれると主張していますが、現に存在はしているけれども、目的がわからないものもたくさん有ります。

例えば、人間がそれに当たります。私自身も人間ですし、このコンテンツを聞かれているリスナーの方々も人間だと思います。人間というのは当然のように存在していますが、では、その人間が生まれた目的は何でしょう。
アリストテレスの言う通り、全てのものは目的を持って生み出されたとするのなら、人間にも誕生した目的があるはずです。その目的を達成することが幸福であるとするのなら、目的を達成するために必要なものがアレテーであるはずです。
しかし、ソクラテスを含む人類は、アレテーがどのようなものかを解明できていないですし、どこに向かえば絶対的な幸福が手に入るのかもわかっていません。

パウサニアスの主張するように、目標の善悪が手段の善悪につながると仮定した場合は、まず最初に、ゴールである目標を明確にして、その善悪を判断しなければなりません。
しかし、目標そのものがわからない場合は、当然、目標の善悪の判断ができないわけですから、人間が起こす行動が良いものなのか悪いものなのかも判断できなくなります。
こうなってしまうと人が取る行動に善悪の基準がなくなるため、手段である行動の方に着目して、良いと思われる手段を積み重ねることで、最終的に正解であろう地点へ辿り着くことを目的にするといった考え方もできます。

では、行動そのものの善悪をどの様に見極めるのかというと、それは誰でも見極められるわけではなく、それが出来るようになには見極めるための技術が必要になります。
この技術は、それぞれのシチュエーションに合わせた専門的な技術となります。

欲求の善悪の見極め

先程は、医者の専門技術の例え話を出しましたが、違った例で説明してみましょう。
音楽が奏でられている宴会の場があったとします。 宴会に参加している人は、その場を楽しもうとそれぞれの欲求をだします。
この際、それぞれの参加者が出す欲求であるエロスは、全てが善なるものではなく、悪いものも含まれているので、良い行動を取るためには良い欲求に従わなければならないということです。

この事を、状況を具体的に想像しながら考えてみましょう。 音楽のコンサートではなく宴会の場ということで、そこに集まった人たちは音楽を聞くことだけが目的ではなく、参加者たちと談笑する目的で参加している者も多いでしょう。
ここで、その場の全体的な雰囲気を尊重しながら会話をする人は、流れている音楽を聞けるような大きさの声で話しますし、流れてきた音楽をネタにして知的な会話をしたりするでしょう。
この様に、場をわきまえるという技術を持つものは、『音楽を聞きたい』とか『話をしたい』といったそれぞれの欲求を上手く引き合わせ、宴会自体を調和の取れた楽しめるものへと変えていきます。

また、この流れは、その人と会話をしている人達だけに収まらず、会場全体へと波及していき、そのイベント全体が良いものへと変わっていきます。
逆に、場をわきまえる技術がない人が幅を利かせた場合、話す話題も選べず、自分の欲求に素直に従い、例えば大声で下ネタを話し、一部の人達だけで盛り上がってしまう可能性もあるでしょう。
この様なイベントに参加した他の参加者は、聞きたくもない下ネタを聞かされ、音楽も聞けず、楽しめないまま帰ることになります。

これは、宴会で出される料理などにも当てはまります。
例えば、料理人が宴会場の料理を用意する際に、調和を考えずに『客に受けそうだ』という理由だけで偏ったメニュー構成にして、客が栄養の偏った料理を度を越して食べ過ぎれば、客は病気になってしまうこともあるでしょう。
一方で、料理人がバランスの取れたメニュー構成にし、料理を出すタイミングを調整することで客の欲求を適切にコントロールすることができれば、客は料理に満足するだけでなく、健康まで手に入れることができます。

エロスは欲求の調和を行うもの

この様に、エロスを目的と捉えるのではなく手段と捉え、手段であるエロスを専門技術を使うことで良い方向へと導いてやれば、結果として人は良い方向へと向かって行きます。
またこの二種類のエロスと調和の話は、人間が生み出した文化だけに限らず、自然にも適用することが出来ます。

例えば、自然には四季の移り変わりというものがありますが、これも調和が取れていなければなりません。寒い時期と暖かい時期、そしてそれらが混じり合う季節が調和の取れた形で巡っているから、自然というものは成り立っています。
これが、ずっと寒い状態が続いたり、反対に熱い状態が続いてしまうと、調和は崩れて生態系に大きな被害が出てしまうでしょう。
一時期、この地球の支配者とされていた恐竜は、隕石衝突による気候変動によって絶滅してしまったと言われていますが、外的要因によって気候の調和が崩れてしまうことで、今の生態系は致命的な打撃を受けてしまうことでしょう。

この気候の移り変わりを研究するために必要なのが天文学となります。
現代では、天文学は別の意味を指すのかもしれませんが、倍率の高い天体望遠鏡もない古代ギリシャでは、天文学は暦を知るために活用されていたので、季節の移り変わりの研究=天文学になるのでしょう。
この天文学を、季節同士のエロスの調和を研究する学問と捉えれば、天文学は四季に関するエロスを研究する学問と解釈することも出来ます。

この様に、エロスを欲求同士の調和をとるものだと解釈すれば、あらゆるものにエロスが関係してきます。
例えば、あらゆる宗教的儀式は、神と人間とがお互いの意思を伝え合うための行為となりますが、その行為そのものが、エロスを誘導させて調和を取ろうとする行為にほかなりません。
仮に、神の存在を無視して、自分の欲求だけを優先して神の意にそぐわない行為を平然と行えば、その行動は調和を乱す行為となり、俗のエロスの行為となります。

まとめると、エロスとはあらゆるものが持つ欲求を、専門技術や知識で調整し、欲求同士を適切に誘導することとなります。
調和の取れた正しいエロスは、人間を正しい方向に導いてくれる一方で、自分勝手な欲望を優先させて調和を乱すエロスは俗のエロスとなります。
調和の取れたエロスが私達を幸福へと導いてくれるエロスで、これがあってこそ、私達人間は互いに友愛の絆を結ぶことができます。

これでエリュクシマコスの主張が終わり、次はアリストファネスの主張が始まるのですが、それはまた次回に話していきます。

参考文献