だぶるばいせっぷす 新館

ホワイトカラーではないブルーカラーからの視点

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第107回【ソクラテスの弁明】試される裁判官 後編

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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目次

幸福とは

人は生きている間、様々な欲望を抱き、意思の弱いものは、その欲望に流される形で不正行為を行ったりします。
不正に蓄財をしたり、散財したり。 人付き合いでは、名声を高めて、必要以上に持て囃されたい、崇められたいと思ったり… 逆に、バカにされたり雑に扱われたりすると、腹を立てる者も多いでしょう。
そういった者の中には、いつか自分が権力を握って、その権力を不正な形で利用して仕返しをしてやろう!と思う人も少なくないと思います。 例えば、ありもしない罪をでっち上げて、裁判を起こすなどです。

しかしソクラテスは、たったその程度の理由で秩序を乱し、法を破るものがいるとすれば、その者こそが恥ずべき人間だと断言します。
この辺りの事は、過去に取り扱った『ゴルギアス』に登場した、政治家のカリクレスとの会話で掘り下げられていました。

簡単に振り返ると、カリクレスの主張としては、人間は幸福になる為に生まれてくるが、その幸福を手に入れるために必要なのが、欲望を満たし続ける事という意見でした。
人は欲望を満たして満足感を得ると、幸福感を感じた後に、更に大きな欲望を抱くようになります。
その欲望を抑えること無く拡大し続けて、欲望を叶え続ければ、人はずっと幸福感を味わうことが出来るので、その力を得るためにも、どんな手を使っても権力を手に入れなくてはならない。

権力さえ手に入れてしまえば、その影響力を利用して様々な欲望を叶えることが出来るし、絶対的な権力を手に入れれば、不正を犯しても捕まえるものもいない。
この世を面白おかしく楽しむことが出来る為、幸福になれるというのが、彼の持論でした。

秩序

それに対してソクラテスは、自分が不幸になってしまう力は力とは呼ばないとして、不正行為は絶対に許しませんでした。
人間が幸福になる為に必要なのは、欲望を満たした際の満足感であるとか、長生きすると言った事ではなく、良く生きる事で、よく生きるとは何かというと、秩序を守ることでした。

人間は、一人で生きることは出来ず、共同体を組織して、皆で生きる社会的な生き物です。 その人間が秩序を乱し、社会を混乱に陥れて破滅へと導く秩序の破壊は、絶対に避けなければならないことです。
人が持つ、果てしない欲望を満たし続ける為には、どこかで規則や法律が邪魔になり、法を破って不正を犯したいという思いに支配されそうになりますが、その誘惑に負けて不正に手を染めてしまう行為は、最も醜い行為です。
何故なら、それによって崩壊してしまうのは、自分たちを守り続けてきた社会だからです。

人は、一人では生きていけないからこそ、共同体としての社会を作りました。 そして、その社会の維持には、秩序が必要です。
その秩序を破壊してしまうという行為は、結果として社会を破壊してしまうことにに繋がり、自分だけでなく、全ての人の生命を危険にさらしてしまうことにも繋がります。
不正行為は行ってもダメだし、行われるのも駄目なもので、この世から排除しなければならないと考えています。

話を『ソクラテスの弁明』に戻すと、ソクラテスが弁明させられている場所はどこかというと、裁判所です
裁判は、行われた行動が、不正か正当かを見極める場所で、社会の秩序を守る番人的な役割を持つ場所です。 そこで不正行為が行われようとしているのを、彼は許せないんでしょう。
メレトスが嘘で塗り固めた罪をでっち上げたことも不正ですし、裁判官が、『ソクラテスが憎い!』という自身の感情によって有罪に投票することも不正です。

また、裁判官がソクラテスに対して、『無罪になりたければ、泣き叫んで哀れに思われるような態度を取れ!』と、権力を振りかざしながら強要するのも不正ですし、ソクラテスがそれに応えて演技をするのも不正です。
その様な不正行為を不正だとも認識せずに、社会から与えられた権力を、自分たちが持つ正当な力だ! と思い込んでいる事こそが恥ずべき行為。
そして、その恥ずべき行為は、死を怖がる一般人には効果的かもしれないが、死についてむやみに恐怖を抱いておらず、むしろ死後の状態に興味すら持っているソクラテスには通用しないということです。

つまり、死をチラつかせて脅す行為に意味がないことを認識した上で、恥ずかしくない正しい判決を下せるようにしろと言ってるわけです。
そして、事実を捻じ曲げて不正な判決を下すことで後悔をするのは、ソクラテスではなくは裁判官の方だと断言します。

罪とは

というのも、ソクラテスが先程から主張している事は簡単に言えば2つで、1つは、自分は神の意志によって動いている事、もう1つは、一切の不正を行わないことです。
彼に言わせるなら、自分は法律には一切抵触していないわけで、事実だけで判断をするのであれば、無罪以外はありえません。
『賢者たちを不愉快にしたでしょ?』と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、ソクラテスに言わせるなら、自分が知らないものを知っていると嘘をついて他人に教えて、授業料を巻き上げていたのは賢者たちなので、不正をしているのは賢者の方です。

詐欺師に対して、『詐欺はいけないよ。』と意見する事が犯罪になるのであれば、それは法治国家とは言えません。
賢者たちに寄り添って考えた場合、ソクラテスが取り扱う問題は難解である為、賢者自身が自分自身の無知を理解していないということは十分にありえます。
この場合も、ソクラテスに言わせるなら、本当の賢者であるのなら、自分が気がついていなかったことに気づかせてくれた者には感謝するだろうと思っています。

これは、過去に取り扱った『メノン』という作品で、想起説の実験を行った際にも語られています。
その人物に本当に知的好奇心があるのであれば、自分が正しいと思い込んでいた知識が間違っていたと判明した場合は、『では、本当はどの様になっているのだろう。』と、新たに知識を求める欲望が呼び覚まされ、知ろうと努力するはずです。
先程、名前を出したカリクレスは、人間は欲望を満たす為に生きていると主張していましたが、本当に知識を求めるものが自分の無知を指摘されれば、怒るどころか感謝して、真実を求める為に、研究をやり直すはずです。

それをせずに、間違いを指摘したソクラテスに怒りを向けるというのは、そもそも、その人物には知的好奇心がなく、知識を商売道具としてしか観ていないからです。

まとめると、不正を働いてお金儲けをしている人間が、その事を指摘されたことによって激情し、不正な手段で訴えを起こしたのがこの裁判となります。
嘘で塗り固められた彼等の言い分に耳を貸して、結果として間違った判決を下してソクラテスを死刑にしてしまえば、それは、裁判官達が不正によって殺人を行った事と同じで、アニュトス達よりも酷い不正に手を染めることになります。
何故なら、アニュトス達は単に疑いをかけて訴えただけなので、裁判官の見る目さえしっかりとしていれば、その訴えは退けられるからです。

しかし、その見極めを行わず、彼等の主張に流されて間違った判断を下した場合、その全ての責任は裁判官に移ります。
ソクラテスはこの事を裁判官達に警告した上で、アテナイという国の現状を、例え話を絡めて話しますが、その話については次回にしていきます。

【Podcast #カミバコラジオ 原稿】第26回【経営】VRIO分析(2)模倣とは

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目次

前回は、VRIO分析について話していきました。
簡単に振り返ると、VRIO分析のVRIOは企業の持つ経営資源を整理するための4つの要素の頭文字となっています。
『V』がVALUで価値。『R』がRealityで希少性。『I』がlnimitabilityで模倣困難性、『O』がそれらを上手く活用できる組織力です。

この内、『V』と『R』については前回に話したので、詳しくはそちらを聞いてください。
今回はこの続きで、模倣困難性についてみていくのですが…
その前に、前提となる知識を入れるという意味で、企業が行う模倣について学んでいこうと思います。

全く新しいサービスは殆どない

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模倣困難性とはその名の通り、模倣がしやすいかしにくいかということです。
ビジネス書や自己啓発本などを読むと、自分の主体性を大切にするとか、思いついたアイデアを積極的に行動に移していこうなんてことが書かれていますが、実際のビジネスの世界では、ゼロから物を生み出していくことは稀です。
当然、オリジナルのアイデアがゼロということはありませんが、かなり少ないです。

これを実感するのは簡単です。お持ちのスマートフォンで無料のゲームアプリを上から順番にダウンロードしていって、片っ端からプレイしていってみてください。
かなりのゲームが、似通ったシステムであることに気がつくと思います。 システムが全く同じで、キャラクターだけ違うといったものも珍しくなく、むしろ主流だったりします。
つまりスマホゲームの世界では、1からゲームシステムを考えるのではなく、既に存在していて成功しているシステムを丸パクリして、そこに別のキャラクターを当て嵌めるというのが定石だったりするわけです。

これはスマホゲームに限らず、据え置き機やPCゲームでも同じですし、ゲーム以外の分野でも同じです。
例えば2019年には原宿を起点としてタピオカブームが起こり、その流れは全国へと広がっていき、私が住む京都でも、タピオカを使った飲料を出す店が増えていたりしました。
この流れは、何らかのシンクロニシティが働いて、皆が一斉にタピオカ店が流行ると閃いて行動したわけではなく、タピオカが流行ったという現象を確認した後で、その店舗形態を模倣して多くの者が参入していっただけです。

企業は他社を模倣するもの

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こういったことは製造業でもあります。例えば、掃除機でダイソンが出したサイクロン式のものが有名になった途端、他のメーカーもサイクロン式を発売したなんてこともありました。
メーカーによっては自社で新製品開発を行わず、既にある既存製品を後から真似して出すことで、研究開発費を削って安価な値段でそれなりの品質のモノを提供しているメーカーなどもあります。
これは一見すると卑怯な行為のようにも思われるかも知れませんが、実際には卑怯な行為でもなんでも無く、割と王道的な戦略だったりします。この模倣に関しては、当然ですが、特許などが絡んでいないものに限定されますけれどもね。

何故、メジャーな戦略として模倣というものがあるのかというと、コスパが良いからです。
メリットとしてまず挙げられるのが、先程も少し言いましたが、研究開発費がかからないことです。
この世にまだ存在しない、全く新しいアイデアを商品やサービスに変えて大成功を納めるというのは理想的で、それでお金を稼げれば格好良いですが、そんなアイデアを捻り出すのには相当な時間や労力が必要でしょう。

将来、金になるかならないのかが分からないような基礎研究をしなければならない場合もありますし、その分野の専門の大学から研究成果を買うとか、利益の一部を渡すという約束で共同で事業を進めるなんてことが必要な場合もあるでしょう。
この様な事をするためには、当然、優秀な研究者や技術者を雇ったり、大学や他企業との関係構築が必要になりますが、成果が出るか出ないかわからない研究に対して固定費を払い続けるというのは、その企業に相当余裕がないと出来ません。
また、そこまでのリスクを抱えて、新製品や新サービスを発表したとしても、それが成功するかどうかは運次第というのが実際のところです。

リバースエンジニアリング

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つまり、この世に存在していない新商品をゼロから創造し、それが市場に受け入れられて大成功を納めるというのは、極端な話、当たるかどうか分からない宝くじを買い続けるようなものです。
それに比べて、既に受け入れられている商品を模倣して、製造して流通させるのはどうでしょうか。 ゼロからの商品開発に比べると、簡単そうではないでしょうか。
既に商品やサービスが開発されているわけですから、それを真似しようとする場合、膨大な研究費などは必要がなく、実際に商品を購入して分解してみるとか、サービスを受けてみるだけで、その商品がどのようなものかがわかります。

この様な行動を、リバースエンジニアリングと言いったりします。
経済の分野で、先進国と言われている国の成長率が鈍く、後進国と呼ばれている国の伸び率が高いのも、このことが関係していたりします。
先進国は、未だ人類が経験していない経済状態の中を手探りで探りながら進んでいかなければならないのに対し、後進国は、先進国が進んだ道を進んでいけば良いだけなので、当然ながら進むスピードは早くなります。

企業の努力は報われるものではない

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話が反れたので元に戻すと、模倣というのは研究開発費が大幅に削減できるため、膨大な資金力を持たない会社であればある程、実行しやすい戦略となります。
この他のメリットとしては、模倣するターゲットが既に成功し、市場で受け入れられているのを確認してから参入できるという点にあります。
市場というのは良くわからないもので、労力を掛けて高品質のものを安価で提供したからといって、必ずしも受け入れられるとは限りません。

何故なら、市場に参加している消費者自身に、メーカーほどの知識がないからです。
メーカーが、どれだけ手間暇をかけて、素材にこだわったものを安価で提供したところで、消費者は、それにどれほどの手間がかかっているかも、その素材がどれだけ貴重なものかも知りません。
その為、この社会では努力が必ず報われるというわけではありません。 必死に努力して作った商品ではなく、適当に作った商品に適当なストーリーを付けて、派手に宣伝すると売れたりするのが、この社会です。

そんな社会の中で、既に売れている事がわかっている商品というのは、非常に参入がしやすいです。
前に第9回と10回で、マーケティング1.0~4.0の話をしましたが、ブームに火が付いた直後の状態というのは、その商品に関してはマーケティング1.0や2.0の状態にあるので、非常に売りやすいです。
先行した1社が相当強いブランド力を持ってたり、高いスイッチングコストが発生しない限り、後続の会社は同じ様な商品を提供するだけで売上は伸ばしやすくなります。

模倣は全てのものに当てはまる

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これは、商品やサービスだけでなく、会社組織やオペレーションについても同じことがいえます。
わかり易い例で言えば、やる気のある社員ばかりのA社と、やる気のない社員ばかりのB社、どちらが成功しやすいかといえば、当然ながらやる気のある社員で構成された組織です。
では、やる気のない社員ばかり抱えているB社の経営者は、それで良いと思っているのかといえば、そんなことは思っていないでしょう。

社員になんとかしてやる気を出してもらいたいと思っているはずです。 しかし、その具体的な方法がわからないから、現状に甘んじていると考えるほうが妥当でしょう。
逆に、やる気のある社員ばかりを抱えているA社は、そういう環境を実現できている、何らかの理由が有るはずです。
もし、社員にやる気を出させる何かしらの方法をA社が知っていて、意図的にその様な状態を作り出せているとするのなら、B社はA社が導入している方法を盗んで真似するだけで、社員のやる気を出させることが可能となります。

この他には、企業が製品を作るに当たっての作業であるオペレーションなども、効率の良い会社を真似する事によって、自社の効率を上げることが可能になったりします。
素材のコスト管理や、従業員の育成方法、流れ作業をどの様に円滑にするかや、在庫をどの様に減らすのかといったことを、自社で全て1から考えて導入する必要はありません。
効果の有りそうなものを導入してみて成果を比べるなんて実験をしなくとも、他社で既に導入されていて成果の出ているものをパクれば、手間を大幅に削減することが可能となります。

模倣をしにくくするのが模倣困難性

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このノウハウは、会社によっては公開している会社もあります。 トヨタの改善などが有名ですよね。
核心部分まで含めて全て公開しているかどうかは謎ですが、外に漏らしても問題がないようなレベルのノウハウは公開されている場合もあるため、こういった物を取り入れるのも一つの戦略となります。

この様に企業の活動は、自社で様々なものを開発する場合もありますが、他社からパクってくるということもかなり多くなります。
なぜなら、繰り返しになりますが、会社の成長につながるものをゼロから開発して導入するには途方も無い労力がかかりますが、既に成功しているモデルをパクってくるのは簡単だからです。
模倣困難性とは、簡単に言えば、この自社で開発したり自社が身に着けているものが、パクられやすいかパクられにくいかということです。

パクられにくければ、他社はこちらのモノをパクることが出来ないわけですから、こちらが先行している場合でも相手は真似して追いつくということができなくなります。
逆に、パクられやすい場合。相手はこちらのアイデアなどを真似することが出来るため、いくら自社が市場で先行していたとしても、簡単に追いつかれてしまうことになります。
当然ながら、模倣困難性は高ければ高いほど競争優位性を保ちやすいということになります。

この模倣困難性については次回に、もう少し詳しく観ていくことにします。

【Podcast #カミバコラジオ 原稿】第25回【経営】VRIO分析

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目次

第18回ぐらいから前回の第25回ぐらいまで、ネットワーク外部性や参入障壁について話してきましたが、今回からはVRIO分析について考えていきます。

強みの分析

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この分析は、主に企業の持つ『強み』について考えていく分析です。
強みというのは、第13回~15回で取り上げたSWOT分析でいうと『S』に当たる部分です。

SWOT分析では、自社の強みを探してその強みを伸ばしたり、強みを機会にぶつけるという戦略が有効だという話をしましたが、今回のVRIO分析では、その強みについてより詳しく分析して行きます。
この強みですがVRIO分析では、リソースドベースドビューという考え方をベースにして考えていきます。
リソースド・ベースド・ビューというのは、企業の外部環境や業界内でのポジショニングについての強みではなく、企業が持つ経営資源に焦点を当てていく考え方です。

つまり、同業他社などの他の企業と自社との位置関係などを中心に据えて考えるのではなく、自社が持つ経営資源を中心に考えていくということです。

VRIO分析

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経営資源とは、会社が持っているヒト・モノ・カネ・情報のことです。人は社員と言いかえることが出来ますし、ものは商品、金は資金力と言い換えたほうが、分かりやすいかも知れません。
これをベースにして考えていくのが、VRIO分析です。

このVRIO分析のVRIOは、アルファベットで『V』『R』『I』『O』と書きますが、前に紹介したSWOT分析と同じ様に、分析に使う切り口の頭文字をとったものとなっています。
『V』はvalueで、経済価値を表しています。『R』はRarityで経営資源の希少性を表しています。『I』はlnimitabilityで、模倣困難性を表していて、『O』はorganizationで、前の3つを上手く活かせるための組織力があるかどうかです。

経済価値(value

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ひとつひとつ観ていきますと、まず『V』が表している経済価値ですが、自分たちが雇用している社員や製造しているもの、持っている情報などに経済的価値があるかどうかです。
その経営資源があることによって、事業機会を逃さずに収益に繋げられたり、脅威が現れた際に上手く対処できる価値があるのかどうかを見極めます。
もし無い場合は、社員教育をするなり情報を集めるなりして対応する必要が出てきます。

希少性(Rarity)

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次の『R』である経営資源の希少性ですが、自社が持っている経営資源と同等のものを、他社のどれぐらいが持っているのかというのが希少性です。
希少性なので当然ですが、自分たちと同レベルの経営資源を持っているライバルが少なければ少ないほど、自社にとっては優位となります。
もう少し具体的にいうと、ものすごく貴重で出回っていない素材を生産したり採掘できる技術であったり、そういった技術を持つ会社と親密で特別な取引ができることであったり、特別な能力を持つ社員を抱えていたりといった感じのことです。

この様な経営資源を持つ会社は、それをテコにして競争に打ち勝ったり、新規事業を立ち上げたり、脅威に対処したりできるようになるため、他社に比べて優位に立つことが出来ます。

模倣困難性(lnimitability)

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次の『I』である模倣困難性ですが、これは、自社が持っている経営資源を他社が真似できるのか出来ないのかということです。
いくら希少で価値のある経営資源を持っていたとしても、それを他社が簡単に真似できるのであれば、その経営資源はあまり競争優位性をもたないことになります。
何故なら、いくら優れて希少性があって、それを利用して今現在、自分たちが競争優位に立っていたとしても、他社はそれを真似してしまえば、簡単に追いつくことが出来るからです。

逆に言えば、他社が真似できなければ問題はありません。他社よりも優位な経営資源を維持し続けることが出来るため、競争優位を長く保ち続けることが可能となります。
模倣を困難にしておくことで、他社と比べて相対的に優位な立場を取り続けることが出来るため、模倣困難性は高ければ高いほど良いということになります。
模倣困難性を高めるには、重要な情報を機密扱いして外に漏らさないようにするとか、模倣する際にコストが高くなるといった状態を生み出すことで可能になります。

考え方としては、前に取り扱った参入障壁に近い考え方です。

組織力(organization)

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最後の『O』は、今まで上げた項目を全て活かすことが出来るような組織力のことです。
価値があり、希少性がある経営資源を持っていて、その資源は模倣困難性が高いにも関わらず、会社にその資源を活用できる組織力がなければ、意味はありません。
企業は、自社が保有しているヒト・モノ・カネ・情報の本当の価値を十分に熟知し、それらをどの様に活用すれば良いのか、どのように組み合わせればシナジー効果を生むのかといった事を考えて実行するための組織力が必要となります。

これは、言葉で聞くと難しく聞こえると思いますので、中小企業経営でありそうな事柄を例にして話していきます。

価値を生み出す経営資源

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まず、価値のある経営資源ですが、これは商品やブランド、従業員や取引先との関係性など、様々なものに当てはまります。
例えば商品ですが、何の価値もない商品はそもそも売れないため、価格が付いて販売できている時点で、その商品には何らかの価値が付いています。
製造業などの場合、その製品を作るための設備を持っているというのも、価値になるでしょう。

その製品は、設備を揃えるだけで作れるわけではなく、熟練した職人が手を加えないと作れない場合、その技術を持つ職人にも価値があることになります。f:id:kimniy8:20210721211432j:plain
その製品は、作っただけでは売上につながらないため、何らかの方法で顧客に売る必要があります。その際の販売先を持っているかどうかというのも、価値のあるものでしょう。
これは物を仕入れる場合でも同じです。 商品や材料を仕入れる場合、誰でも簡単に仕入れることが出来る場合には、そのルートには価値はありません。

しかし、何らかの目利きが必要だとか、ある程度の関係性が築けていなければ仕入れることが出来ないという場合、その取引ルートには価値があります。

経営資源の希少性

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次の希少性も同じで、技術であったり製造機械であったり仕入先であったり資材や商品に希少性があれば、それはそのまま競争優位性に繋がります。
例えば、私の本業は紙の箱を作ってメーカーに販売するという仕事をしています。得意先は和菓子メーカーが多く、配達などでメーカーを訪れることが結構あるのですが、そこに置かれている製造機械は、オーダーメイドが多かったりします。
生八ツ橋を例に挙げると、生八ツ橋を使ったお菓子でいちばん有名なのが、つぶあん入り生八つ橋という生八ツ橋の四角い生地の真ん中に餡を入れて、三角形に折ってあるお菓子です。

このお菓子は八ツ橋会社各社から出ていて、会社によって名前が変わりますが、株式会社おたべが作った場合は『おたべ』になり、聖護院八ツ橋が作った場合は『聖』になり、井筒八ツ橋が作ると『夕子』になり、御殿八ツ橋が作ると『おぼこ』になります。
八つ橋会社というのは20社ぐらいあると言われていますが、その全てが機械を導入しているとしても、必要な機械の数は100台も必要ありません。
日本全国で100台しかないような機械が既製品になっているわけはないので、これらの機械はオーダーメイドとなります。

この様に、既製品ではなくオーダーメイドの機械を作っているという会社は結構あり、自社が持っている機械を他社が持っていないということは珍しくありません。
こういった機械は他社が持っていないため、当然、希少性があります。

人も経営資源に含まれる

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これは当然、設備だけでなく、人についても同じ様なことがいえます。

閃きによって、普通の人が出来ないような目を引くデザインをすることが出来るとか、上手いキャッチコピーをつけられるといったことも、それを行うことが出来る人が少なければ、希少性は高いでしょう。
優れたプログラミング技術を持っているとか、大工や左官や料理の優れた技術を持っていて、同等のレベルを持つ人間が少なくダントツで高い場合は、それも高い希少性を持つことになります。
得意先や仕入先と個人的なつながりがあり、他社と差別化された取引をしてもらえる関係性があるのなら、それも希少性があるでしょうし、誰も知らない情報を知っていることも希少性になります。

次は模倣困難性なのですが、これは説明するのにそれなりに時間が必要となるので、次回に話していこうと思います。

【Podcast #カミバコラジオ 原稿】 第24回【経済】ネットワーク外部性と参入障壁(2)

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前回はこちら
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ネットワーク外部性と参入障壁

前回は、ネットワーク外部性と参入障壁は、一見すると正反対の概念のように思えるけれども、実際にはそうではなく、同じ市場内で共存している場合も、切り替わる場合もありますよという話をしていきました。
これは、市場の成長段階によっても変わりますし、市場をどの視点で見るのかによっても変わってきます。
最初は参入障壁を低くしてネットワーク外部性を利用していたのに、市場がある程度の段階になってきたら、高い参入障壁を築き上げるなんてこともあります。

例えば、ネットの動画市場でみれば、youtubeという限定された市場の中で見れば、ネットワーク外部性が働いているように見えます。
しかし、一歩引いて、動画プラットフォームという観点から見れば、プラットフォーム間では独占的市場シェアを狙って激しい争いが行われていますし、今からこの市場に入ろうと思うと、参入障壁も高いことでしょう。
では、この様な動画プラットフォーム市場というのは、最初から参入障壁を高くしていたのかと言うと、そういうわけではないでしょう。

マイナーな市場は人を引き入れたほうが良い

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ネットで動画を見るなんてことが、人々の習慣に組み込まれていない黎明期では、参入障壁を高くして市場を独占したところで、その市場の存在を皆が知らない状態です。
市場自体が認知されていないわけですから、その認知されていない市場を独占したところで、大した意味はないでしょう。
それなら、参入障壁を低くして、プラットフォームを増やすことで市場の認知を高める方を優先させた方が、利益が出る可能性が出てきます。

しかし、市場の認知を高めるという目標を達成してしまえば、知名度上昇の為の新規参入は必要がなくなりますし、何なら、既存のプラットフォームのシェアを奪って、市場内で独占的地位を占めたほうが儲けが出やすくなります。
そうなると、新規参入を抑えるために、参入障壁を築き上げるというのも一つの戦略となります。
つまり、市場が未成熟な段階では参入障壁を下げていたのに、市場が成熟してくると参入障壁を高くするというように、戦略を切り替えているとも観ることができます。

ここまでが前回に話したことなのですが、前回までの話もそうですし、今回の振り返りでもそうなのですが、結構、スケールが大きな話となっています。
このコンテンツは中小零細企業向けに作っているわけですが… 市場の独占やプラットフォーム間の競争なんて話をしても、ピンとこない方も多いと思います。
そこで、もう少し身近な感じの例を使って、この事に関する説明をしていこうと思います。

出店戦略

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ネットワーク外部性については、前回までは、電話やゲーム機や動画のプラットフォームといった物を例に出して説明してきましたが、これは、それらの大きな概念だけでなく、どこにでも当てはめて考えることが出来るものです。
例えば、飲食店が出店する場合などでも、これらの考え方を適応することが出来ます。
店を出店する場合、一番重要になるのは立地ですが、この立地をどの様に考えるのかで、大きく分けて2つの考え方があります。

例えば、他の店が出店していないような、飲食店的に空白の地域に出店するとしましょう。
周りが住宅街で、半径500m範囲内に飲食店がない場合、そこに出店をすれば、その店の周囲の顧客を独占出来る可能性があります。
この場合、この半径500mの市場を自分たちで独占しようと思うのであれば、参入障壁を築く必要があります。

参入障壁を築く

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参入障壁を築く方法としては、地域に密着したサービスに特化するという方法があります。
コミュニケーションを密にしたりするなどして近隣住民の方たちと仲良くなり、それぞれの住民の好みなども抑えた上でメニューを決めるなどすることで、その地域に特化した店にすることが出来ます。
自分の店を中心とした狭い商圏内の顧客との関係性を良好に保ち、顧客を囲い込めば、新規参入者は、既に見込み顧客を囲われているため、参入しづらくなるでしょう。

新規参入がないのであれば、自分の商圏を守り抜くことが出来るため、一定の売上を確保し続けることが出来るかも知れません。
では、これがベストの選択なのかと言うと、そういうわけでもありません。
敢えて参入障壁を引き下げて、同じ地域内で新規参入を促して、同業他社である飲食店を呼び込むという方法もあります。

同業他社を商圏内に呼び込む

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参入障壁を下げるとは、例えば、常連客や友達に飲食店経営の楽しさを伝えたり、もし開業するのなら相談に乗ると伝えるなどして、他の人間がその地域で開業しやすい様にしていくということです。
同じ地域にライバルである飲食店が出店すると、自分の店の客を食われるのではないかと思われる方もいらっしゃるかもしれません。
確かに、その可能性は大いにありますが、同業他社を呼び込んだ場合、商圏が拡大するという別の可能性も生まれます。

例えば、私が住む京都の一乗寺には、狭い範囲にラーメン店が複数店舗あります。
正確に数えたわけではないですが、半径100mの狭い範囲に10軒程のラーメン店が乱立しています。
普通に考えれば、そんな狭い範囲にラーメン店が乱立していれば、客は分散してしまって、1店舗あたりの売上は下がってしまいそうです。

では実際にはどうなっているのかと言うと、一乗寺はラーメン街として有名になり、県外からも集客ができるほどに商圏が拡大しました。
つまり、その地域に1店舗しかない状態であれば、その店舗の近辺の人しか集客できなかったものが、地域として有名になったことで、近隣の地域からも人が集まってくるようになったということです。
地域が有名になったことで、商売をする範囲である商圏が、仮に30倍になったとすれば、狭い範囲に10店舗が集まったとしても、すべての店舗が増益を狙える可能性があります。

飲食店街は店舗単体より集客力が有る

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この流れがもっと拡大すると、更に商圏が拡大する可能性もあります。
同じ様な飲食街でいえば、京都には先斗町という通りがありますが、その通りは観光客にも有名で、日本全国から顧客を集めています。
中には、個人の店として有名な店もあるとは思いますが、それよりも先斗町という通りの知名度のほうが上であるため、集客の大半は先斗町という飲食店街が集めています。

これは飲食店だけでなく、他の業種にも当てはまります。
京都の話ばかりになりますが、京都には夷川通という通りがありますが、その通りには椅子やタンスといった家具を取り扱う店が乱立しています。
この様に、似たような店が集中して営業していると、客としては利便性が高まります。

何故なら、ポツンと1店舗だけ存在していた場合、そこに好みのものがなければ、その時間は無駄となってしまいますが、その近辺に同じジャンルの商品を取り扱っている店が20店舗ある場合、他の店を覗きに行くことが出来ます。
消費者の利便性が上がって人通りが多くなれば、店に入る客の数も多くなるわけですし、その内の何%かが購入をすれば、店側の売上も増加するでしょう。
また店側にとっては、何もしなくても露出も増えるわけですから、多額の広告費を使わなかったとしても、店を知って貰える機会は増えます。

今紹介したのは、『ラーメン屋だけ』であったり『家具屋だけ』といった出店について話してきましたが、もっと大きな括りで『飲食店』や『生活雑貨』の店が出すことで、シナジー効果を得られて更に効果が増したりもします。
例えば、先ほど紹介した先斗町には、主に晩御飯を食べるための店がひしめき合っていますが、その1本西にある木屋町通りには、ショットバーを始めとした飲み屋街が広がっており、ショットバーだけでなくクラブや女性が接待する店などもあります。
この様に複数の営業形態の店が1箇所に集まると、先斗町でご飯を食べて、二次会や三次会は木屋町で呑むなんてことも可能になるため、複数の店で客を融通することが可能になります。

繁華街は地域がプラットフォーム

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この状況は、地域そのものがプラットフォームとなっているとも考えられます。
この様な環境で、この繁華街に集まる人達を独占しようとして、戦略を練って1軒1軒潰していったとしたらどうでしょう。 この一帯の客を全て自分で独占できるのかと言うと、そういうわけには行かないでしょう。
何故なら、どんどん店が潰れて1店舗しかなくなった地域に魅力は無いため、そもそも客が来なくなってしまいます。

しかし、地域が変われば話は変わってきます。 京都には先斗町木屋町通りがある河原町から少し離れた場所に西院という地域がありますが、この地域が打倒河原町を狙って、地域を盛り上げるイベントを起こすことはあるでしょう。
これはプラットフォームが違っているため、プラットフォーム間の争いはあるけれども、プラットフォーム内の争いは少ないと言うことです。
少ないといったのは、飲食店がそれなりの規模になると、細かい部分ではバッティングしてしまう店同士も生まれるからです。

同じ様な価格帯で同じ様なメニュー構成の中華屋が近くに3軒あれば、その店同士では客の取り合いが起こることも十分に考えられます。
この争いを制すために、品質や食材で差別化をはかったりり、これ以上の新規参入を防ぐために、特定の価格帯の中華屋といった限定された範囲の参入障壁を築くことはあるということです。

ということで、長々とネットワーク外部性や参入障壁について話してきましたが、次回からは話題を変えて、企業の強みについて考えていきます。
それではまた次回。

【Podcast #カミバコラジオ 原稿】第23回【経営】ネットワーク外部性と参入障壁(1)

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前回はこちら
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参入障壁とは

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第18回で参入障壁を説明し、第19回20回ではネットワーク外部性について説明していきました。
これらの詳しい説明は過去回を聞いてもらいたいのですが、簡単に説明をすると、参入障壁とは新規参入を防ぐための防壁で、これを高くすることで新たなライバルの登場を阻止します。
市場というのは大きさに限界があり、企業は限られた市場の中で売上を伸ばすためにシェア争いを行うわけですから、争う相手は少ない方が良いでしょう。

極端な話、ライバルが少なくなり、市場に商品を提供する企業が1社になれば、製品価格も販売方法も、その1社が握れることになります。
この様に、市場の圧倒的なシェアを握ってしまうことは、企業にとっては有利に働くため、企業はその様な状態を目指そうとします。
余談になりますが、商品は市場を通して消費者の手に届きますが、企業が有利になるということは、逆に言えば消費者にとっては立場が不利な状況となります。

この様な状況を防ぐため、多くの国には独占禁止法というものがあり、その市場において供給業者が1社になることは出来ません。
逆に言えば、法律で規制しなければならない程、市場で圧倒的なシェアを握るというのは企業にとっては有利で望ましい状態と言うことです。

ネットワーク外部性とは

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その一方でネットワーク外部性とは、自分の市場に他社を引き込めば引き込むほどに、自社にとっては有利になるという概念です。
例えば、プレイステーションというゲーム機がありますが、このゲーム機のソフトをソニーしか制作していなければ、プレイステーションはここまで売れていないと思われます。
ソニーがゲーム機を作り、ゲームソフト制作部門もソニーにあるのですから、先程の理屈で言えば、ソニープレイステーションのソフト市場を開放せずに、自社のみでソフト制作する方が市場シェアを独占できて良いはずです。

しかし消費者目線で考えた場合、ソニー製のソフトしか発売されないゲーム機に魅力はないでしょう。
スクエアエニックスであったり、カプコンであったり、アトラスなどのサードパーティが参入してくれた方がハードの魅力が上がり、結果としてゲーム市場は拡大し、1社で独占していた状態よりも売上が上昇することが想像できます。

市場ごとに戦略が変わる

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この、ネットワーク外部性と先ほど紹介した参入障壁は、考え方としては正反対のようにも思えますが、実際にはそうではありません。
実際の経済を観てみると、この正反対と思われる2つの考え方は共に存在していますし、時には、1つの市場で共存している場合もあります。
では実際に、この相反すると思われる考え方は、どのようにして存在しているかを考えてみましょう。

まず考えられるのは、製品・サービスごとに、ネットワーク外部性が働く市場と参入障壁が働く市場があるということです。
これは、今回、例を上げて説明したゲーム機市場や、前に紹介したSNSなどの市場ではネットワーク外部性が働くけれども、他社を排除することによって儲けることが出来る市場も別に存在するという考え方です。
傾向としては、何も行動を起こさなくてもニーズが発生する様な市場では、参入障壁を設けて新規参入を警戒したほうが良いですが、ニーズを掘り起こさなければならない市場では、ネットワーク外部性が働きやすいです。

参入障壁が有利な市場

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例えば、鉄道や航空会社などの場合、人が移動したいというニーズは常にあるわけですから、その市場を独占できれば、利益の最大化を狙うことが出来ます。
人の移動といったものは、他社との関わり合いが無ければ成立しないものではなく、『特定の場所に疲れずに行きたい』という人がいれば、その人行動のみで完結します。
人の移動は、ビジネス関係に限らず、個人の旅行など様々なニーズは掘り起こさずとも存在するため、その市場を独占することが出来れば、儲けやすくなります。

ネットワーク外部性が働く市場

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一方でネットワーク外部性は、ニーズがそもそもないところから、それを掘り起こして、顧客を巻き込む形で発展させていきます。
例えば、昔はネットで動画を見るなんて習慣はそもそもありませんでした。 その状態から、ネットで動画を視聴するというニーズを掘り起こす為には、ネットワーク外部性が必要になってきます。
ネットでの動画視聴をしてもらおうと思えば、コンテンツを豊富に取り揃えないといけませんが、1社で制作しても出来上がるコンテンツ量はたかが知れているため、自発的に動画を作ってアップロードしてくれる人が必要になってきます。

そのために動画プラットフォーム側は、見やすい動画の作り方や再生数を伸ばす方法などを積極的に公開し、動画の再生数が上がれば製作者に利益が出るような仕組みを作り上げます。
つまり、動画コンテンツ市場に入りやすいように参入障壁を下げて、新規参入を促すことで、ニーズを掘り起こそうとします。
このようにして、制作される動画が増えれば増えるほど、視聴者が視聴することが出来る動画の選択肢は増えますし、番組数が増えてニッチな話題を扱う番組が充実すれば、ユーザーのニーズを満たしやすくなります。

このようにして便利になったプラットフォームでは視聴者が増加するため、その大勢の視聴者に向かって動画を提供しようという人たちも増えることになり、動画市場というのは一気に拡大していきます。
この拡大幅は、どこかのラインを超えると爆発的に拡大幅が増加すると言われていて、そのポイントのことをキャズムといったりもします。

ネットワークの外には壁を置く

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この様に説明すると、では、これらの参入障壁を築くべき市場とネットワーク外部性を利用すべき市場は、きっぱりと別れているのかと思われる方もいらっしゃるかも知れませんが、そうではありません。
これは、市場の成長度合いや、市場をどの様な観点で観るのかといったことでも変わってきたりします。

例えば、先程のネットでの動画市場でみる場合、youtubeという1つのプラットフォームの中では、新規参入のための参入障壁を低くして、動画制作が行いやすい環境を作っていたとしましょう。
しかしこれが、一つ外側の視点でプラットフォーム間の話になると、事情が変わってきます。
youtubeは、今更、動画プラットフォームを作られるのは面白くないでしょうから、新たな驚異となる動画プラットフォームの新規参入を防ぐために、高い参入障壁を作るでしょう。その参入障壁は、例えば、特定の配信者の囲い込みであったりです。

これは、前に例として挙げたゲーム機市場でも同じです。 ソニープレイステーションは、ゲーム機を購入したユーザーの利便性を上げるために、数多くのソフト制作会社を引き込むことで、ネットワーク外部性を利用します。
しかしその一方で、任天堂マイクロソフトが提供するプラットフォームとはシェア争いを行っていますし、そこで使われる戦略には、特定のソフトをソニーのハード向けでしか発売させないといった囲い込みを行ったりします。
何故、この様な事をするのかというと、プラットフォーム戦争を制して、市場を独占したいからです。

市場がマイナーな場合

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では、こういった動画プラットフォームやゲーム機市場などでは、はじめから参入障壁を築いて独占を狙っているのかと言うと、そうでもありません。
そもそも知名度がなく、ニーズもない市場である場合、他のプラットフォームが立ち上がることを歓迎したり、手を組んだりすることも珍しくはありません。

私はこのコンテンツをyoutubeだけではなく、PodcastSpotifyなどでも提供しています。
これらは音声コンテンツなのですが、音声のみの配信は、ネットでの動画視聴に比べるとまだまだ市場での認知度が高くないため、プラットフォーム間でもシェア争いは激しくありません。
何なら、複数のプラットフォーム同士が手を結んで、共同で賞を作って市場を盛り上げようとすらしています。

これは、音声コンテンツのプラットフォーム市場が特殊なのではなくて、そもそも認知されていない習慣を広めようとしている段階では、排他的な行動は起こりにくいです。
何故、初期段階ではプラットフォーム戦争が起きず、独占を狙わないのかと言うと、独占して1社で広報・宣伝活動を行うよりも、同じ様な会社が多数増えたほうが認知度が増えやすいからだと思われます。
企業が持つ経営資源は限られているため、1社でとれる戦略は多くはありません。 しかし複数の会社が参入してくれば、全体として取れる戦略は多くなります。

そのウチのいくつかが成功して市場が拡大していけば、例え自社の市場シェアが下がったとしても売上は下がりにくいですし、市場拡大スピードによっては、むしろ売上が上がるということもあるでしょう。
市場が拡大している中でシェアをキープできていれば確実に業績は伸びますし、シェアを伸ばすことが出来れば加速度的に利益が増えていきます。
多くの会社がその市場に参入し、それぞれの戦略で市場にアプローチをすれば、失敗する例や市場に受け入れられる戦略の傾向なども分かってくるため、市場を独占するよりも利点が大きいです。

新規参入を受け入れるメリット

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また、多くの会社と一緒に市場に入ることで、リスクを下げるための新たな戦略を取ることも出来ます。
例えば、自社が市場に対してあるアプローチを行って、一定の成功を収めたとしましょう。ですが、経営による成功は1つではないため、その方法だけが絶対的な正解というわけではありません。
他の会社が、自分たちでは考えられなかったような奇抜なアイデアで、成功することもあるでしょう。

そういったことが繰り返し起こりながら市場がある一定レベルまで拡大した場合、成功している会社と失敗している会社がはっきりと別れてくると思います。
失敗している会社の中でも、成功している事業と不採算事業に分かれていたりするでしょう。
この様な状況になれば、成功している会社や成功している事業だけを買い取るという戦略も取ることが出来ます。

市場の中で生き残れた企業や事業というのは、既にある一定の成功を収めていることが確定しているわけです。
事業拡大や新たな事業を始める場合、1から戦略を練って、不透明な市場に対して投資するよりも、既に成功を収めている会社を購入するほうが、リスクは低いです。

成功は金で買える

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つまり、自分たちと同じ市場に100社が参入し、それぞれ別の戦略をとって、5年後に20社が生き残っていて一定レベルの利益を上げているのであれば、その中から自社の事業と相性のいいモノを買ってしまった方が良いということです。
自社で新たにサービスを開発して、それを軌道に乗せるために労力を使うぐらいなら、既に成功しているモデルを購入した方が、リスクは低くなります。

この様に、参入障壁とネットワーク外部性は、全く正反対の概念のようにも思えますが、実際には、市場の成長段階であったり、市場の範囲という観点を変えることで、入れ替わったり共存していたりします。
今回は比較的大きな会社の話になってしまったので、次回は、中小零細企業に当てはめて、このことについて考えていこうと思います。 それではまた次回。

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第107回【ソクラテスの弁明】試される裁判官 前編

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今回も前回と同じ様に、プラトンが書いた『ソクラテスの弁明』の読み解きを行っていきます。
著作権の関係から、本を朗読するわけではなく、私が読んで重要だと思った部分を取り上げて考察する形式になっていますので、興味のある方は、ご自身で本を読まれることをお勧めします。

唯一の悪人?

前回までの話を簡単に振り返ると、ソクラテスの評価が『賢者』と『愚か者』と両極端に2分されている理由と、メレトスやアニュトスを始めとした、彼を非常に恨んでいる人間が生まれた理由を話していきました。
ソクラテスの評価が両極端に分かれている理由としては、『この国で一番賢いのはソクラテスだ』という神の託宣が本当かどうかを確かめる為に、様々な賢者に対話を申し込んだ所、多くの賢者が、自分は賢いと思い込んでいるだけの人だと分かってしまいました。
無知を暴露された賢者は怒り狂い、彼を非難しますが、その一方で、『賢者を打ち負かした彼こそが、本当の賢者だ!』とうい者も現れて、結果として、評価は二分してしまったというわけです。

この解説の後、ソクラテスは自身に恨みを持つ人たちに対して反論します。
この裁判に置いては、訴えている張本人はメレトスなので、メレトスの主張に対して弁明していきます。
メレトスの主張は『ソクラテスは、青年に良からぬことを吹き込んで堕落させ、国家で定めた神々を信仰せずに、独自のダイモニアを信仰している。』というものです。

ソクラテスは、この主張に反論をする為、一つ一つ、メレトスの主張を確かめていくことにします。
彼の主張によると、アテナイという国では、ソクラテスただ一人を除いて、全ての人間が青年を正しい道へと導くことが出来るけれども、ソクラテスだけは、青年を悪の道に引きずり込んでいるという主張でした。
ですが、仮にメレトスの主張が正しければ、アテナイには悪人はソクラテス1人しかいないことになります。 何故なら、人を良い道へと導く方法を知っている人間が、悪人のはずがないからです。

人の命と国の運命

しかし実際には裁判所があり、刑務所があり、法律がある。 これらは、国の秩序を保つ為に存在するものですが、わざわざこんなものを作らなければならないというのは、アテナイが善人だけで構成されていないことを意味します。
また、現実の世の中を見渡してみると、動物を上手く調教できる調教師にしても、子供を賢く育てる事が出来る教師にしても、優秀とされている人は極限られた少数の人だけです。
仕事や勉強は、分かっている事実を教えるだけなのにも関わらず、優秀な教師の数は限られているのに、人を卓越した優れた存在にするアテレーは、全国民が教える事が出来るというのは、おかしな話です。

この問答によってメレトスは、青年の教育やアテレーについては一切興味がなく、今まで考えたことすら無いにも関わらず、ソクラテスを訴えたい一心で罪をでっち上げた事が推測されます。
ソクラテスは、この様に弁明をし、自分は不正を行っていない無実の存在だと訴える一方で、多くの自称賢者たちを傷つけて、恨みをかってしまった事は認めます。
そして、その上で、裁判官たちの気持ちを汲み取る形で『人々に恨みを買い、下手をすれば自分を死に追い込むような活動を続ける事を、恥とは思わないのか?と思うものがいるかもしれないが、私は恥だとは思わない!』と断言します。

人には、これを行えば自分が死ぬと分かっていてもやらなければならない事があり、それを実行したまでに過ぎないといった事を、ギリシャ神話のトロイア戦争のアキレスになぞらえて力説したのが、前回まででした。

ソクラテスに言わせるなら、自分は賢いと思い込んでいる人が無知である事が分かれば、その人自身も一からやり直せる良い機会だし、その人物は次からは知ら無い事を知った風に他人に教えることもないので、間違ったことを教えられる犠牲者も減る。
アテナイという国にとっては良い事尽くめなのに、多くの賢者は、自分の無知が暴露されることを恥ずかしいことだと思い、ソクラテスの事を馬鹿にすることで、逆説的に自分の主張が正しいと言い張っている。
しかしそれは、賢者自身にとっても、彼等の弟子にとっても良くないことなので、指摘することは恥ずかしいことだとは思わないし、それによって自分が死ぬことになったとしても、国を良くする為には、その活動は止めないということです。

死ぬことは悪いことなのか

プラトンソクラテスを主人公に据えて書いた他の対話篇を読む限り、ソクラテスが人生において最重要視することは、長生きすることではなく、良く生きることで、よく生きる事とは、秩序を重んじて生きるということでした。
その為、彼は、過去に国の命令で兵士として戦場に駆り出されたときも、国の言うことを聞いて逃げずに最期まで堂々と戦いました。
民主主義の国で決められた事を、自分の都合だけで無視するというのは、それこそが秩序を破壊する行為なので、そんな事は出来ないということです。

ソクラテスは、自分が命を落とすかもしれない過酷な戦場に3回も行った人間が、命惜しさに、神々の意思に逆らうなんて事をするはずがないと力説します。
何故なら、その行動こそが秩序の破壊であり、神への冒涜なので、そんな事をしでかしてしまう人間こそ、不敬罪で法定に引きずり出されるべきだと考えているからです。

次に彼は、『死』とういものについての考えを述べていきます。
この裁判は、ソクラテスを亡き者にしたいという者が起こしていますが、これは、訴えを起こしたメレトスをはじめとした多くの人達が、死ぬという出来事が悪いことだと考えている証拠です。
しかし冷静に考えて、『死ぬこと』とは、本当に悪いことなのでしょうか。

死の経験者

この世には、一度死んでから現世に戻ってきた人間は、一部の宗教の神話に登場する聖人などを除いては、存在していません。
つまり、死ぬという出来事が、本当に悪いものなのかを確かめた人間は存在しないということです。

この様な状態の中で、『死とは恐ろしいものだ。』と言われても、それをすんなり信用することは出来ません。
何故なら、これまでに行ってきたソクラテスの活動によって、賢者と呼ばれている人達は誰一人として、真理を得てもいないし追求しようとも思っていない事が分かったからです。
そんな者達の口から出る『死ぬのは怖いこと』という主張を、どうやって信じれば良いのでしょうか。 多くの人達は、本当に『死』というものを理解して上で、怖いものだとしているのではなく、単にその様に信じ込んでいるだけです。

誤解のないように言っておくと、ソクラテスは、『死』というものに対して、恐怖すべきではないと断言しているわけではありません。
その様に断言してしまうことは、スタンスこそ違えど、今さっき、自分自身が否定した彼等の行動と同じ行動を取ることになるからです。
そうではなく、ソクラテスが主張していることは、『死』というものが良いものか、それとも悪いものなのかを知る人間は1人もいないのだから、知らないものとして扱うべきだという事です。

無闇矢鱈と恐怖するわけでもなく、怖いものではないと信じ込むことでもなく、知らないものとして研究する必要があるのではないのか。
その為、ソクラテスは、『死』というものに対しては恐怖するわけでもなく、安易に喜んで迎え入れる事もしないと言います。
これは、分からないものは分からないものとして、ありのまま受け止める為、正体が不明な『死』という出来事を避けるために、自分の信じる道を曲げるという事はしないということです。

ですからソクラテスは、判決を下す権限を持つものには、その事を踏まえた上で、判決を下して欲しいと伝えます。
これは、死刑をチラつかせたところで、自分の発言内容は絶対に変えることが出来ないという強いメッセージといえます。

試される裁判官

『死』というものを怖がることはないので、死ぬのが嫌だという理由だけで、裁判官に媚びへつらったりしないし、この場をやり過ごすためだけに泣き叫んだり、反省をしている演技なんてこともしない。
自分は、嘘偽り無く事実のみを話していくので、判決を下す者は、様々な関係のない情報や感情に惑わされず、その事実のみを判断材料にして、判決を下して欲しいということでしょう。
彼はこれまで、裁判官に対して無礼な発言や言い回しを敢えて行っっていますが…

これは、裁判官が本当に優秀で、その資格があるとするのならば、こういった行動に惑わされること無く、真実だけを観て判断できるだろうという、一種の挑発とも取れます。
メレトスは、ソクラテスを有罪にしようと、様々な嘘や演出を行う一方で、ソクラテスは、自分が助かる為の小細工は一切しない、それどころか、ここにいる裁判官に、その資質があるかどうかを疑うという態度で裁判に臨みます。

裁判官に事実を見抜く能力がない場合、ソクラテスが行った無礼な振る舞いによって、感情に流されて有罪にしてしまうでしょうが、もし、ここにいるのが真の裁判官であれば、事実だけを観て判断できる為に、その結論は変わるでしょう。
それを見極めるためにも、有罪か無罪か、どちらかはっきりして欲しいと、ソクラテスは裁判官たちに要望します。
決して、『メレトスの主張には無理があるが、ソクラテスの方も、他人の気分を害することを行ったんだから、これからはそんな事はしないように。』とした、中途半端な判決は下すなということです。

何故ならソクラテスは、神の導きによって活動をすると決意し、その行動を、今まで続けてきたからです。
彼は、同じ国に住むアテナイ人に対して敬意を払ってはいますが、彼等と神々を比べた場合に、優先すべきは神々だと思っています。
その為、当然ですが、今回のように人間と神々の意見が対立したときには、神々の意見を尊重すると主張します。

先程のような、メレトスの主張は認めないけれども、ソクラテスも人を不愉快にする活動は止めるべきだという玉虫色の判決が出たとしても、彼は、神を信じているが故に、その命令は無視するでしょう。
どうせ守れない約束を課すぐらいなら、今ここで殺されたほうがマシだという事です。 何故なら、その行動こそが秩序を守るということだからです。

【Podcast #カミバコラジオ 原稿】第22回【経営】戦略は必要なのか

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学問と現実にはギャップが有る

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前回は、経営学の理論と現実の社会との間にはギャップが有り、学問で構築された理論は、そのままでは現実社会に当てはめることは出来ないといったことを話していきました。
今まで、様々なフレームワークや分析法を取り上げてきましたが、それらは全て理論上の話しなので、現実の現場にピッタリと当てはまるわけではありません。
当然、それらを使って作られた戦略は、理論的に正しのだから、現実世界でも確実に通用するし、成功をもたらしてくれるものではありません。

では、経営学なんて机上の理論は、勉強する価値がないのかというと、そうではありません。
古代の哲学者ソクラテスは、人間は、感情に任せて行動するのではなく、自分の外側に確固たる基準を持つべきだと主張しました。
これを事業経営に例えるなら、感情で意思決定せずに、理論によって構築された基準に則って、今後取る行動を決めるべきだと言うことです。

例えば、事業というのは、上手くいくか行かないかは予測ができないものなので、ギャンブルと同じようなものと捉えて考えると…
競馬にしてもパチンコにしても株式投資にしても、どの馬券や株券を買えば当たるかや、どの台を選べば大当たりするかというのは、予測したところで確実に当てることは出来ません。
予測法や見極め方というのは有るでしょうし、その分野の研究というのも有るんでしょうけれども、それを極めたとしても、確実に儲けることは不可能です。

マネーマネジメント

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では、戦略もなく、自分の思うがままにギャンブルに金を突っ込み続けることが正解なのかというと、それも違います。戦略もなくギャンブルをやったところで、身ぐるみ剥がされて終わりです。
当たらないからといっても、戦略は必要になります。では、どの様な戦略が必要なのか。ギャンブルに置いて必要な戦略は、マネーマネジメントです。
つまり、BETの仕方。賭け方です。

例えば、ルーレットで有名な戦略として、『マーチンゲール法』というのがあります。これは、カジノ側がイカサマを行わない限り、そして自分の資金が底をつかないという前提条件のもとで、確実に儲けることが出来る賭け方です。
やり方ですが、その前にまずルーレットのルールを説明すると、ルーレットは、数字が書かれた円盤にディーラーが玉を転がして、その玉がルーレットのどの数字に止まるのかを予測するゲームです。
特定の数字にピンポイントでかけることも出来ますが、ルーレットでは範囲に賭けることも出来たりします。

マーチンゲール法

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例えば、数字が1~36まである場合は、それを3分割し、1~12・13~24・25~36といった範囲にも賭けることが出来ますし、1~18。19~36といった範囲にも賭けることが出来ます。
その他にも、数字には赤か黒かの2種類の色がついているのですが、玉が赤か黒のどちらに入るのかを予測して賭けることも出来ます。
当然ですが、範囲が広くなれば広くなるほど当たる確率は上がるわけですから、当たった際の倍率は下がっていきます。

赤か黒のどちらに入るのかを予測する場合は、当たる確率が約2分の1のため、予想があたった際には2倍になって返ってきます。つまり、約2分の1の確率で倍になる賭けだということです。
当たる確率が約2分の1と書いたのは、ルーレットの数字は先程は1~36までと言いましたが、実際には0と00があって、その数字の色は緑になっていて、赤と黒のどちらにかけていたとしても負けてしまうからです。
つまり、実際の確率は2分の1よりも小さく、その僅かな確率の差が、カジノの収益となります。 つまり、カジノのゲームは確率的にカジノに有利にできているということです。

話を戻すと、マーチンゲール法では、約2分の1の確率で2倍になる、赤か黒のどちらに玉が入るのかだけを予想し、赤か黒のどちらかにBETします。
1回当たりの掛け金は、何回まで連続で外れてしまうのかに依存してしまいます。つまり、完全に確立依存というわけです。

何回までの『ハズレ』を想定するか

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約50%の確率だから3回しか連続では外れないと予想する場合と、10回連続で外れてしまうかもしれない可能性を考えて賭ける場合とで、全資産の何%を賭けるのかで賭け金は変わります。

さて、まず1回目、賭け金を赤か黒のどちらかにBETします。当たれば勝ちですが、負ければ当然ですが、賭け金は没収されます。
負けた場合は、賭け金を倍にして、もう一度BETします。当たれば、1回戦で負けた賭け金と今回のBET分を上回る額が返ってきます。負ければ当然ですが、賭け金は没収されます。
2回連続で負けてしまった場合、1回戦での負けと2回戦の負けを合わせると、結構な額の負けとなっているわけですが…

3回戦の賭け金を更に倍額にすることで、1回戦と2回戦の負けを全て取り返した上で、更に儲けを出すことが出来ます。
既にお気づきの方も多いと思いますが、このマーチンゲール法というのは、負けた際には、直前に賭けた額の倍額を次回に賭けることで、これまでの負けを全て取り戻した上で、利益を上げようという戦略です。
では実際に、この戦略で本当に儲けが出るのかを観ていきましょう。

実際に計算してみる

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まず、1回目でチップを1枚掛けて負けたとしましょう。 この時点で負けはチップ1枚です。 2回戦ですが、次はチップを2枚賭けます。
これで、1回戦で負けたチップと2回戦の賭け金で、合わせてチップが3枚となりますが、賭けたチップが2枚で当たった場合の倍率が2倍なので、当たればチップは4枚になって返ってくることとなり、儲けが出ます。
もし、2回戦も負けた場合も考えてみましょう。 1回戦で1枚負けて2回戦で2枚負けて、3回戦目の賭け金がチップ4枚ですから、コストは7枚です。

ですが、3回戦の賭け金はチップ4枚なので、2倍の倍率だと8枚返ってくるため、負けをすべて取り戻して上で、チップ1枚の儲けが出ます。
この様に、仮に負けが続いたとしても、賭け金を倍にして賭け続ければ、1回の勝ちで負け分を全て取り戻した上で、儲けが出るというのが、マーチンゲール法です。
このマーチンゲール法で誤解して欲しくないのは、この方法は、賭け金を倍にして賭け続けて諦めなければ、最期には全て取り戻せるという話ではないということです。

賭け金を倍ずつ増やしていくということは、負けが続けば続くほど、賭け金は指数関数的に増えて行くこととなります。
指数関数的に増える賭け金をコントロールしながら勝ちを拾う為には、一番最初の1戦目の賭け金の設定が重要になってきます。
つまり、最初に賭け金の設定の仕方を説明した際にも話しましたが、何回連続で負けるのかを予め想定した上で、逆算して賭け金を設定しなければならないということです。

もし仮に、10回戦連続で負けてしまうことを想定すれば、10戦目の賭け金はチップ1024枚となります。
これまでの傾向から、この勝負に勝ったとしても、総トータルでの利益はチップ1枚だけです。
つまり、10回戦までの総コストとしては2047枚を費やしているということです。もしこれに負けた場合は、11戦目の賭け金は2048枚となり、トータルのコストは4095枚となります。

マネーマネジメントとは

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マーチンゲール法の場合、当たるまで賭け続けなければならないという縛りがありますから、一度も当たりを引く前に資金が尽きてしまえば、全ての資産を失ってしまうことになります。
すべての資産を失うのを回避しようとする場合、当然、何回まで賭け続ければあたりが出るのかを、正確に予測する必要があります。 その予測に保険をかけるためにも、更に数回分負けるということも織り込む必要があるかもしれません。
つまり、マーチンゲール法の最も重要な部分というのは、『負けたら2倍賭け続ける』という分かりやすい法則の方ではなく、何回連続で負けるのかを適切に予測し、最初の賭け金を逆算して決めるという部分です。

これを、企業の戦略に当てはめるのなら、赤か黒のどちらにかけて、その際のコストはどれぐらいで、リターンはどれぐらいかを考えるのかは、これまでに紹介してきた分析やフレームワークの部分です。
実際の社会では、ルーレットのルールのように当たる確率と配当の倍率が明確に決まっていません。 つまり、その事業を始めたとして、成功する確率も得られるリターンも明確にはわからないということです。
それを少しでも明確にするために、内部環境や外部環境の分析を行うことで、リスクを減らしていきます。

そして、その事業が仮に失敗したとしても会社が破産しないように、事業に対する初期投資額を決めていく必要があります。
つまり、自社の内部やそれを取り囲む環境の分析を行って、おおよそのリスクやリターンを計測した上で、初期投資額を決める。その事業がうまく行かない場合は、撤退ラインを決めるというのが、事業戦略となるわけです。
撤退ラインを決めるためには、当然、成功する場合はどの様な筋道を辿るのかをシミュレーションし、それと現実がどれほどかけ離れているのかを比べて決める必要があります。

モデルを使って戦略を考える

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その元になる筋道を考えるためには、どの様なケースにでも当てはまりやすい、抽象的なモデルケースや、それを利用して作られたフレームワークを使って考えていくしかありません。
つまり、これまで紹介してきたフレームワークや分析方法を使って出来た事業計画に一定確率の失敗があったとしても、それを利用した方が、結果としてはリスクが下げられるということです。
まとめると、理論を使って建てた戦略が確実に成功するわけではないですが、そもそも戦略というのは失敗することも考慮して建てるものなので、経営理論を使った方が、結果としてリスクは下げられることになります。

ということで今回は、勉強や戦略の必要性について話しましたが、次回は、話を少し戻して、参入障壁とネットワーク外部性について、現実寄りで話していきたいと思います。

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第106回【ソクラテスの弁明】神と神霊 後編

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前回はこちら
kimniy8.hatenablog.com

目次

神と神霊

例えば、人間という存在を全く信じていないのに、人間の所業を信じている人間は存在するのだろうか。
人間がこの世に存在しているなんて全く思っていないが、人間が作った街など文明の存在は信じて疑わないといったものは、いるのでしょうか。
その他の例でいうなら、どこかから笛の音が聞こえてきたとして、笛の音色という存在は信じて疑わないのに、その笛を吹く人間の存在を全く信じない者はいるでしょうか。

笛吹という存在を信じないのであれば、聞こえてきた音色は笛の音ではなく、風によって起こった別の音としなければ辻褄が合いません。
笛を吹いているものはいないと主張しながら、聞こえてきた音が『誰かが吹いた笛の音だ』と確信するのは、かなり矛盾した行為だといえます。

現代風の別の例えをするのであれば、ウーバーイーツという出前サービスがありますが、ウーバーイーツの存在を信じていて、サービスを頻繁に利用しているのに、飲食店の存在を否定している人がいたとすれば、その人の考えはおかしいと言えます。
ウーバーイーツの仕事は、飲食店と客の橋渡しなのに、ウーバーイーツという仕事だけ認めて、飲食店なんてサービスはこの世にないと主張する人がいたとすれば、その考えは否定されるでしょう。

これを、神々とダイモニアに当てはめて考えるのであれば、ダイモニアの働きとは、人と神々との橋渡しをすることなのに、神々は存在しないとすると、ダイモニアとは何なのかという話になってきます。
メレトスの主張によると、ソクラテスは、神々の存在は否定しているけれども、ダイモニアは信仰しているそうですが、この主張そのものが矛盾していて、到底受け入れることが出来ないものといえます。

これらのことを踏まえて考えると、メレトスが主張する『ソクラテスは、青年に良からぬことを吹き込んで堕落させ、国家で定めた神々を信仰せずに、独自のダイモニア(半神)を信仰している。』という罪状は、全て嘘だった事がわかります。
メレトスは、ソクラテスに刑罰を与えたい一心で罪を考え、でっち上げたけれども、普段から、青年を良い方向へと導く方法や神々について考えていなかった為に、その主張は矛盾し、破綻していることが明らかになりました。
しかしソクラテスは、この対話を聴いた聴衆の中には、『他人から、そこまで恨みを買い、下手をすれば自分が死罪になってしまうような活動を続けることを恥ずかしいとは思わないのか?』と思う者も少なからずいる事に、理解を示します。

ソクラテス自身が法を破らずに、不正にも手を染めていなかったとしても、彼の活動によって面目を潰された人や営業妨害された人は確かに存在していて、彼等から恨みをかってしまうというのは、それはそれで恥ずべき行為なのではないのかということです。
ですが、ソクラテスはそうは思いません。
何故なら、彼は、単純に知識のある人から教えを授かりたかっただけですし、その結果として、賢者が、モノを知らないのに知っていると思い込んで、人々に適当なことを吹聴していたと暴かれたとしたら、それはそれで、良いことだからです。

トロイア戦争

ソクラテスは、神々の声によって、使命感から突き動かされて、結果として、多くの人たちから恨みを買うことになりましたが、恨まれるのが怖いからと行動を起こさない方が悪い行為だと考えていたので、起こした行動は恥ではないということです。
彼は自身の行動を、ギリシャ神話に登場するアキレスの最期と同じだと言います。

ギリシャ神話のアキレスとは、トロイア戦争に登場する英雄の一人です。
簡単に説明をすると、トロイアという国があるのですが、その王族が、『次に産み落とす子供は禍の元凶となる』という予言を受けることになります。
その予言を受けた王族は、生まれたばかりの男の子の処分を部下に命令するのですが、その部下は子供を殺すことが出来ずに、事情を全て伏せた上で、羊飼いの子として育てます。

パリスと名付けられた男の子は、その後、青年になるまで羊飼いとして暮らすのですが、ある日、森に迷い込んだ際に、4人の神と出会います。
その神とは、ゼウス・ヘラ・アテナ・アフロディーテなのですが、神たちは結構、険悪な雰囲気を漂わせていました。
事情を聴くと、元ゼウスの妻のティティスと人間のペレウスが結婚式を開いた際に、ほとんどの神々が式に招待されたにも関わらず、争いの神であるエリスだけが招待されないという出来事がありました。

めでたい席なので、不和と争いの象徴である彼女を呼びたくなかったんでしょう。 すると彼女は、『一番美しいものに、この黄金のリンゴをあげる。』と書き置きと共に黄金のリンゴを神々のもとへ送りました。
すると、女神の中でも力を持っているヘラとアテナとアフロディーテの3人が、私こそが一番美しいのだから、リンゴを貰う資格があると主張し、一歩も譲る事無く、争いに発展してしまいました。
ゼウスは、リンゴを誰にあげるのかが決められずにいたところに、偶然、パリスが現れたというわけです。

パリスの審判

ゼウスは、誰にリンゴを渡すのかをパリスの判断に委ねるとしました。
それを聴いた3人の女神は、口々に、自分を選べば、素晴らしいものを与えると交渉してきます。
ヘラは、アジア全土を支配する能力を、アテナは、戦いにおける勝利と、それに伴う知識を、そしてアフロディーテは、この世で一番美しい女性との結婚を約束したところ、パリスは迷うこと無くアフロディーテにリンゴを手渡します。

その後、パリスはトロイアの王子ということがトロイアの王族にバレて、王族は過去にパリスを殺そうとした負い目から、彼を国に受け入れることになります。
羊飼いとして暮らしてきた為、内政などの知識がないからか、パリスはスパルタに大使として派遣されることになるのですが、そこで、この世で一番美しいとされる女性と知り合うことになります。
その女性は、スパルタの王妃ヘレネです。 パリスは、アフロディーテの祝福によって彼女を射止め、王の許可も得ずにトロイアに連れ帰ります。

この行為に激怒したスパルタ王は、ギリシアで権力を持っていた兄のアガメムノンに相談に行き、結果、ギリシアトロイアの戦争になります。
この戦争で、ギリシア側には2人の英雄が参加していたとされ、一人がオデュッセウスで、もう一人がアキレスです。
アキレスは、親友のパトロクロスと共に戦争に参加し、かなりの成果を上げて、報酬や奴隷を獲得するのですが、その奴隷を、アガメムノンに奪われてしまいます。

英雄アキレス

戦利品を奪われたということで、完全にやる気を無くしたアキレスは、出陣せずに引きこもり、アキレスが率いる軍の士気も下がっていきます。
そこでオデュッセウスが、親友のパトロクロスにアキレスの防具をつけてアキレスに成りすますというアイデアを伝え、パトロクロスが実践します。
士気を取り戻したアキレスの軍ですが、トロイア側はパトロクロスの事をアキレスだと思い込んでいるので、必死になって彼の首を狙い、結果としてそれに成功します。

大親友のパトロクロスが自分の身代わりになって殺されてしまったことで、アキレスは激しい憎悪をトロイア軍に向けることになるのですが、子供思いのアキレウスの母親は、事前に予言を残していました。
それが、『親友のパトロクロスの仇討ちを行えば、お前自身も、その時に死んでしまう。』というものでした。 アキレスはそれを思い出すのですが、大親友の仇をとらずに生きながらえる事の方が恥だと考え、仇討に向かって死んでしまうという話です。

ソクラテスは自身の行動を、このアキレスの行動に重ね合わせることで、正当化しようといます。
自分はあくまでも神々の意思で動いただけで、その結果として、自称賢者が無知だと判明して恨んでいるが、彼等から恨まれるのが怖いからと言って、彼等を賢者扱いして崇めるなんてことは出来ないし、その方が恥だという事でしょう。

せっかくなので、トロイア戦争についての話を最後まですると、トロイア軍はギリシアと真っ向から戦う兵力がなくなり、籠城戦を決め込みます。
それに対してギリシア軍は、補給路をすべて経って、兵糧攻めを行うのですが、アキレスという英雄の1人を失ったという事で、責の一手を欠いてしまい、ギリシアへ撤退していきます。
この際に、海が荒れないようにと巨大な木馬を作り、そこにありったけの食料を詰めて『神への貢物』として置いていきます。

何故、こんな事をするのかというと、ギリシアは進軍する際に、海が荒れすぎていて渡れないという状態に追い込まれ、仕方なく、アガメムノンは自分の娘を神々への生贄として捧げて、海を渡ってきたからです。
娘は1人しかいない為、帰るときにはその代わりとなる食料を木馬に詰めて、神々の献上品にしたというわけです。

トロイの木馬

兵糧攻めをされていたトロイアは、その木馬を自分たちの場内に引き入れて、勝利の宴を開くのですが、実はこれはギリシア側の罠で、その木馬には数人の兵士が紛れ込んでいて、宴で盛り上がっているときを見計らって門まで行き、開門してしまいます。
すると、逃げたと見せかけてトロイアに潜伏していた大量のギリシア兵がなだれ込んできて、トロイアは滅亡してしまいます。

アキレスについてもう少し掘り下げると、アキレスは、この物語の発端となった、ティティスとペレウスの間に生まれた子供です。
この夫妻の結婚式にエリスが呼ばれなかったとして、黄金のリンゴを1つだけ送りつけてパリスの審判が開かれる事になったので、彼の誕生のキッカケが死ぬキッカケと作ってしまったともいえます。

このアキレスの母親のティティスですが、息子の死の予言をして忠告するほどに子供を愛していたので、出来ることは全て行っていました。
その1つが、アキレスの体の無敵化です。 あの世に流れているステュクス川というのがあり、そこに生きている赤ん坊を付けると、水が触れた部分が傷つかなくなるという話があり、ティティスは子供の為を思ってその川に赤子のアキレスを浸します。
その際に、息ができるように仰向けにして、出来るだけ体全身をつけようとした為、両足首の裏側の部分を流されないように必死に握りしめて水に浸した為、その部分だけが水に濡れずに、アキレスの唯一の弱点となります。
それが、アキレス腱です。

その他のうんちくとしては、ギリシアが籠城を破るために作った木馬に因んだ名前がつけられたコンピューターウイルスに、トロイの木馬なんてのもあります。
かなり脱線してしまいましたが、次回は、改めてソクラテスの弁明の続きについて語っていきます。

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第106回【ソクラテスの弁明】神と神霊 前編

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前回はこちら
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目次

今回も前回と同じ様に、プラトンが書いた『ソクラテスの弁明』の読み解きを行っていきます。
著作権の関係から、本を朗読するわけではなく、私が読んで重要だと思った部分を取り上げて考察する形式になっていますので、興味のある方は、ご自身で本を読まれることをお勧めします。

憎まれて好かれるソクラテス

前回の内容を簡単に振り返ると、ソクラテスは、裁判を起こすことになったメレトスや、その後ろ盾となっているアニュトスやリュコンから恨まれていたわけですが、彼等だけが、ソクラテスに悪い印象を持っているわけではありませんでした。
その理由としては、アニュトスが積極的にソクラテスの不正を訴えていたということもありますが、ソクラテスの活動によって、恥をかかされた賢者や職人たちもアニュトス達に賛同したからです。
それなりに発言力の高い人達がソクラテスの不正を訴えたので、少なくない割合の市民たちも、同じ様な認識を共有することになりました。

しかしその一方で、『ソクラテスこそが、真の賢者だ。』という認識も広がります。
何故かというと、ソクラテスは賢者と討論を行って、打ち負かし続けた事で賢者からは嫌われたのですが、その際の討論は、誰でも見物できる場所で行われていました。
ソクラテスが賢者に対して対話で打ち勝つところを目撃した人達の一部は、『賢者に勝った彼こそが、賢者なのでは?』と思い、ソクラテスのもとで学ぶことを求めました。

彼らから言い寄られたソクラテスには、教えるものなど何もなかったわけですが、共に真理を追求する仲間として、行動をともにすることを拒否しませんでした。
こうして、賢者と対話を重ねる度に、ソクラテスの周りには人が集まりだし、その仲間の一部は、幾度となく見物したソクラテスの会話術を模倣して、自らも賢者に挑んでいきます。
しかし、ソクラテスの弟子に討論で負けた賢者たちの方は、師匠に当たるソクラテスを恨むようになり、アニュトスの活動に参加していくという流れで、双方の陣営の人数が増えていく。

このようにして、ソクラテスは多くの人達に慕われる一方で、多くの人たちから嫌われることになりました。
この環境を背景にして、メレトス達がソクラテスが不正を働いているとして裁判で訴えます。

身近なものを悪人に変えるメリット

では、そのメレトスは、どの様な罪状で訴えたのかというと『ソクラテスは、青年に良からぬことを吹き込んで堕落させ、国家で定めた神々を信仰せずに、独自のダイモニア(半神)を信仰している。』として裁判を起こしました。
ソクラテスは、この主張に対して、一つ一つ反論していくことにします。
まず最初は、『青年に良からぬことを吹き込んで堕落させ』という部分について反論を行ないます。

ソクラテスは裁判に出席していたメレトスに、『善人に囲まれて暮らすのと、悪人に囲まれて暮らす人生と、どちらが良いのか』という質問を投げかけ、『善人と暮らす人生だ。』という答えを得ます。
その上で、『君は私が、青年を悪人になるように教育しているというが、それは、私がワザとやっているというのか、それとも、私が意図せずに、青年が悪人となってしまったのか。』と尋ね、『わざとだ』という返答を得ます。
この返答を聴いたソクラテスは『身近にいるものを悪人に変えるという活動をして、何の得があるのか?』と聞き返します。

この一連のやり取りによって、メレトスが、この部分については何も考えずに、ソクラテスを罪人にしたい一心で訴えたことが分かったというのが、前回でした。

神を信じないソクラテス

次にソクラテスは、『国家で定めた神々を信仰せずに、独自のダイモニア(半神)を信仰している。』という部分について追求します。
メレトスは、ソクラテスが神々を信仰しない一方で、ダイモニア、これは半分神様の半神や神霊といった訳がされるものですが、そのダイモニアを信仰していると主張しますが…
ソクラテスは神を信じていないとして責め立てているのか、それとも、神の存在は信じているけれども、国が定めたものとは違う神を信じていると主張しているのか、どちらなのかとメレトスに確かめます。

ソクラテスは過去に『空に浮かぶ太陽や月は神々ではなく、別の何かだ。』と高らかに宣言したとでも言うのでしょうか。
これを受けてメレトスは、聴衆にアピールするように『ソクラテスは神々を信じてはいない。 太陽はアポロンではなく、灼熱する岩だというし、月はアルテミスではなく、ただの土だと主張している!』と返答します。
ですがこの理論というのは、ソクラテスが活動するより前にあったアナクサゴラスの主張です。

アナクサゴラスは、太陽はアポロンの化身ではなく灼熱する岩で、月はアルテミスではなく土の塊だと主張し、神々を信仰していないとして国外追放された人物です。
この人物はソクラテスの師匠に当たる人物だった為、ソクラテスも同じ様に考えているのだろうとメレトスは推測し、その様に主張したのでしょう。
ですが、ソクラテスは、師匠の説を盲信して、その様な主張を皆の前で主張したわけではないので、これに対しては堂々と、この様に反論します。

引っ込みがつかないメレトス

『君は、ここにいるアテナイ人たちを馬鹿にしているのか? 太陽が灼熱する岩だと答えたのは私ではなく、アナクサゴラスではないか。
アナクサゴラスが唱えた説は有名で、どこの店に行っても、僅かな金で彼の書いた本が買える。 一般常識と言って良いレベルの有名な話だが、君はその説を、アナクサゴラスではなく私が考え出したと、本当にそう思っているのか?
そんな話をでっち上げてまで、君は私が神々を信じていないことにしたいのか?』

これに対して、引っ込みのつかなくなったメレトスは『その通りだ。 君は神を信じていない。』と肯定します。
この反論も前と同じ様に、ソクラテスが神々を信じていない不敬な輩としておかなければ、罪に問えない可能性が有る為、無理矢理にでもそうしておきたいという思いが、この様な返答をさせたのでしょう。

これを聴いたソクラテスは、『メレトス、君は、自らの言葉の演出によって、裁判官が馬鹿げた冗談を信じるかどうかを試すといった遊びでもしているのか?』と指摘します。
というのも、メレトスの訴えには、明らかな矛盾があり、それは誰の目から見ても明らかなようにみえるのに、彼はその事を隠して、自分の主張が正しい事の様に言いふらしているからです。
では、その矛盾点はどこかというと、『ソクラテスは神の存在を信じていない一方で、ダイモニアの存在は信じている』という点です。

ダイモニア

ダイモニアとはどの様な存在か、プラトンが書いた饗宴という作品の説明によると、人間と神との間の存在のようです。
人間と神は、生きている次元が違うので、直接コンタクトをとる事は出来無いとされています。 ソクラテスの親友のカイレフォンが神の声を聴くために、わざわざデルフォイまで足を運んだのも、自分には神の声を聴く能力がないためです。
この時代のギリシアの人々は、大半が神々を信仰していたようですが、その人々は、信仰心があったとしても、直接は神の声を聴くことは出来ませんでした。

その為、神の声を聴く特別な能力が有るものが巫女となり、人々の代わりに神託を受け取って伝えるという役割を負っていました。
しかし、この巫女も、直接、神々の言葉を聞いているわけではなく、神と人間との間を橋渡しするメッセンジャー的な役割を持つものを介してやり取りをしていました。
その間を取り持つものが、ダイモニアと呼ばれる存在で、半分神の半神や、神霊と訳されるものです。

つまりダイモニアとは、次元の違う神々と人間とを繋ぐ為に存在しているものなので、神々という存在なくしては語れない存在です。
ソクラテスは、この矛盾を、様々な例え話をすることで聴衆に説明します。

【Podcast #カミバコラジオ 原稿】第21回【経営】学問と現実 

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前回はこちら
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目次

参入障壁は安全圏を作り出す

第18回で参入障壁のことについて話し、19回、20回ではネットワーク外部性について話していきました。
参入障壁とネットワーク外部性について簡単におさらいすると、参入障壁とは、自分たちの市場に新規参入を入れないために作る、防御壁のようなものです。
他の事業者が参入してくる際のハードルを上げて、参入自体を諦めさせることができれば、自分たちの市場を荒らされること無く確保できる様になる為、競争が激化しなくなります。

競争が激化しないということは、元からその市場にいた人たちは、特に経営努力をしなかったとしても、安定的に収益を得ることが出来るため、経営が安定的になります。
余談になりますが、高い参入障壁を築き上げ、競争しなくても安定的に収益を得られるようになった事業者は、事なかれ主義になることが多く、新しいことを嫌い、外部環境に鈍感になる傾向があります。
鉄壁の参入障壁が有るから問題ないと考えての行動だとは思いますが、参入障壁で防げるのは新規参入だけで、代替品の脅威は防ぐことが出来ないため、仮に代替品がメインストリームになった場合は、驚異に対して対抗できません。

この様な状態のことを、『茹でガエル現象』と言ったりします。居心地の良いぬるま湯に浸かり続けていたら、いつの間にか外部環境の変化でお湯の温度が上昇してきているのに、カエルは変温動物なので気が付かない…
その結果として、ぬるま湯が沸騰しても気が付かず、茹でられて死んでしまうということです。

ネットワーク外部性は市場を開放する

一方でネットワーク外部性は、自分たちの市場に新規参入を積極的に引き入れて、それによって市場にある商品や参加する人たちの多様性を上げて、利便性を高めることでネットワークを広げていき、市場を成長させていくという考え方です。
例えば、SNSで言えば、ユーザー数が増えれば増えるほど、サーバーの管理やシステムのメンテナンスなどのコストは増えていきますが、無課金の一般ユーザーをできるだけ多く確保しようと必死になります。
何故かといえば、ユーザーが書き込む近況報告や主張そのものが、コンテンツとなり、更に多くの人を引きつけることが出来るからです。 多くの人の目が1つのプラットフォームに集まれば、例えば、そこに広告市場が生まれたりします。

パソコンのパーツ市場であれば、いろんな企業が参入できるようにと、接続部分の端子の情報はブラックボックスにしていません。
これにより、新規参入者はUSBやHDMIといった端子でデバイスの出入力を出来るようにするだけで、デバイスをパソコンに取り付けることが可能となります。
何故、こんな事をしているのかというと、そうした方が様々なデバイスが新規参入によって登場し、それによってパソコンがより便利になるからです。

パソコンが便利になって普及すれば、パソコンを構成するのに最低限必要になるパーツは確実に売上を増します。
つまり、マザーボードやCPUやメモリは、パソコン市場が拡大すればするだけ、確実に売上を伸ばすということです。
具体的には、パソコンには印刷できるプリンターを簡単に取り付けられたほうが良いし、VR機器や3Dプリンターといったものも、取り付けられた方が良いわけです。

市場開放により多様性が生まれる

パソコンを使う人全員がプリンターやVRゴーグルや3Dプリンターを必要としないかもしれませんが、様々なものを取り付けられるというだけで、ベースとなるパソコンが売れます。
また、様々なパーツを組み合わせるだけでパソコンが完成するということは、誰でも簡単にパソコンメーカーになれるということです。
日本ではパソコン販売でマウスコンピュータやドスパラなどが有名ですが、彼らはパソコンを1から研究開発して作っているわけではなく、それぞれの会社が作ったパーツを取り寄せて組み立てているだけです。

もちろん、どの部品を組み合わせればコストパフォマンスが高いかや、相性問題、壊れた際の修理の体制などは必要ですが、1からパーツを製造するための大掛かりの開発施設などは必要ありません。
こういった組み立て販売業者が増えて、彼らの支店があちこちにできれば、購入や修理が簡単に出来るためユーザーの利便性は上がり、パソコンは更に便利なものとなります。
この様に、参入障壁を作るのではなく、ネットワークを作って広げていくことで、市場そのものを成長させていこうという考え方のベースになっているのが、ネットワーク外部性です。

学問て何?

この両者の概念ですが、一見すると正反対で、両者は対立した考え方のようにも思えてしまいます。
ですが、現実の世界をみると、そうでもなかったりしています。 現実の世界では、ネットワーク外部性を使って市場を拡大していきつつも、狭い範囲で参入障壁を作っていたりもします。
理論の世界では相反しているのに、現実の世界では相反する考え方が同居しているのは、何故なんでしょうか。

それは、そもそも学問というものは、現実の世界の出来事をそのまま受け入れて、その都度、観察して分析して理論を構築しているわけではないからです。
学問とは科学的に考える事全般を指しますが、科学的に考えるとは、大雑把に言えば、物事を分解して、複雑なものをシンプルにして考えていくことです。
そして、シンプルにした構造がどの様になっているのかや、それぞれの働きがどうなっているのかを、実験によって確かめていきます。

科学の実験でいえば、複数回の実験を行って統計を取る場合、前提条件を毎回整えて同じにしなければ、そのデータの信用力は担保できません。
そのために科学者たちは、実験環境を同じ様に整えます。仮に、毎回のように実験環境が変わってしまえば、その実験結果は再現性が無いため、価値のないものになります。
前提条件を整えて、物事の構造や働きについての法則性が分かれば、それを論文にして知識として積み上げていくのが、科学的なアプローチです。

学問は物事をシンプルにして考える

では、今取り扱っている経営学や経済学などはどうかというと、毎回同じ様な環境を整えることは出来ません。何故なら、全く同じ様な経済状態になることはありませんし、その様な状態を作ることも不可能だからです。
ではどのようにして、学問として発展させていっているかというと、経済学や経営学では、物事を分解していって、それと同時に単純化していき、シンプルなモデルケースを作ります。
そして、そのモデルケースの中で、特定の数値がこの様に上昇すれば、この数値に影響がでる…といった具合に、思考実験を行っていきます。

このことは、経済学の方を勉強すれば分かりやすいのです。経済学で学ぶモデルケースは、現実に有る様々な要素を排除していき、かなり限定的な環境を作り出してシンプルにした上で、物事を考えていきます。
例えば、海外取引が無い鎖国状態であるとか、経済成長率は一定であるとか、現実世界では起こりにくい状態をモデルケースとしておいて、そこに数式などを当てはめて、理論を構築したりします。
しかし、現実の世界ではその様な環境はなく、人々の行動もシンプルで分かりやすくはないため、理論の世界のことをそのまま現実に当てはめると、理論と現実でギャップが生まれたりします。

これは経営学にもあてはまります。 私が勉強した企業経営理論では、経済学ほど数式も出てきませんし、経済学に比べれば現実に落とし込みやすいですが、それでもギャップは生まれます。
企業経営理論も他の学問と同じ様に、経営というあやふやなものを分解し、シンプルにして構造を解析していくわけですが、現実の経営はそんなにシンプルではなく、様々な要因が重なり合って複雑になっています。
その複雑なものに、シンプルなものを無理やり当てはめても、上手く当てはまらなかったりします。

ノーベル経済学賞受賞者が運用失敗

このコンテンツでは、一貫して、経営学を学んだとしても、確実に成功できるわけではないと言い続けていますが、それには、この構造が絡んでいます。
テキストで理論だけを勉強したとしても、それを複雑な現実社会に当てはめるためには、理論と現実を融合させていくという経験を積み重ねていく必要があります。
そして、理論と現実を上手く融合させることに成功したとしても、結果が出るかどうかは、また別の話です。何故なら、当たり前のことですが、現実は理論通りには進んでいかないからです。

その昔、ロングタームキャピタルマネジメントというヘッジファンドがありました。ヘッジファンドというのは、大雑把に説明すれば、自分の代わりにお金を運用してくれる会社のことです。
このロングタームキャピタルマネジメント、略してLTCMというヘッジファンドですが、ノーベル経済学賞を受賞した教授を始めとして経済界の大物を集めて、完璧な理論で運用するといった感じの触れ込みで、世界中から金を集めて運用をはじめました。
結果、どうなったのかというと、はじめの4年間こそプラスの収益でしたが、その後のアジア通貨危機を受けて破産しています。

アジア通貨危機のような歴史的な出来事が起こって、全体的に相場が下がったんだから、仕方がないのでは?と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、ヘッジファンドとは、普通の投資信託のように特定の銘柄を買うだけのファンドではありません。
ヘッジファンドのヘッジは、保険的な意味合いがあり、相場が下がったとしても上昇するような商品を組み込むことで、安全性も追求しつつ利益を狙っていくものです。
その為、相場が下がったから損したというのは言い訳にはなりません。 下がると分かっていたのなら、空売りをするなり、相場が下落した際に上昇する商品を買っておけばよかっただけです。

しかし実際には、LTCMは実際の経済の動きに対応できず、様々な要因が重なったことで、破綻しています。では、理論を勉強することは意味がないのかというと、そうでもありません。

学問は必要ないのか

古代の哲学者ソクラテスは、物事を判断する際には、自分の感情から切り離された基準を持つべきだと主張しています。
経営というのは意思決定の連続ですが、その決定を感情に任せて行っていては、意思決定に一貫性がなくなりますし、失敗した場合は次に活かせませんし、成功しても再現性がなくなります。

論理建てて物事を考えて、それを意思決定に反映させるというのは経営の基本となります。その為には、世の中に出回っている理論を勉強しておくというのは良いことです。
ただ、理論を盲信してしまうのは問題だといっているわけです。 机上の空論としては正しい理論でも、それを現実に当てはめた場合は、上手く噛み合わないケースも多々出てきます。
その際に、自分が選んで当てはめた1つ理論を盲信せずに、別のアプローチも考えていく姿勢が大切だと思います。

今回は、理論を現実に当てはめた場合に不具合が出る可能性について話してきましたが、次回は、戦略の重要性について、もう少し突っ込んで考えていこうと思います。

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第105回【ソクラテスの弁明】調教師 後編

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目次

善に導く者

まず、『青年に良からぬことを吹き込んで堕落させた』という点について考えていくのですが、この件についてのソクラテスの一方的な弁明というのは、既に先程、行われました。
ソクラテスは、青年には何も教えていませんが、彼と賢者が行う対話を幾度となく見続けた青年が、その手法を丸パクリする形で賢者に挑んでいっただけです
ただ、今回は目の前に訴えた張本人であるメレトスがいるので、彼に対して質問をしていくことで、この訴えが事実かどうかを確かめていきます。

メレトスの主張では、ソクラテスが青年に積極的に関わったことによって、彼らは悪い道へと引きずり込まれたとしていますが、では逆に、関わり合いになることで青年を良い方向へと導ける人物というのはいるのでしょうか。
この問いかけに対してメレトスは、『国の法律だ』と答えます。 ただこの答えは、ソクラテスが『どの様な人物か?』と聞いたにも関わらず、人ですら無いシステムで答えているので、答えになっていません。
ソクラテスはその部分を指摘した上で、もう一度尋ねると、メレトスは『ここにいる裁判官全員だ』と答えます。

メレトスが最初に上げた『国の法律』というのは、秩序を意味しますし次に挙げた『裁判官』というのも、その秩序を守る為に存在する役割です。
今までに読み解いてきたプラトンの対話編によると、秩序が人を良い方向に導くというのはソクラテス自身も考えていたことなので、おかしな理屈とも思えません。
しかし、秩序を担っているのは裁判官たちだけではありません。 法律を作るのは政治家ですし、政治家自身も、法に則って仕事をこなしている人達ですが、政治家には人を良い方向へと導く力がないのでしょうか。

当時のアテナイは、今現在のように専門の勉強をして資格をとった人間が裁判官になるわけではなく、選挙に勝ったものが政治家になるわけでもなく、すべての公職は『くじ引き』によって決められていました。
政治家も裁判官も、くじ引きで当たった人がなっているに過ぎませんが、では、くじ引きを引く権利があが、当たりを引けなかった、その他大勢の大衆には、人を良い方向へと導く力はないのでしょうか。
メレトスは、『人を良い方向へと導ける人間だけが、くじで当たりを引き当てた』とでもいうのでしょうか。

この問いかけに対してメレトスは、裁判官はもちろん、政治家も、その他一般大衆も、全員が青年を良い方向へと導くことが出来ると主張します。
つまりメレトスの主張をまとめると、このアテナイでは、ソクラテスだけが青年を悪い方向へと導き、彼以外の全市民が、青年を良い方向へと導けると言っているわけです。
このメレトスの返答は、ソクラテス憎しという思いから訴えたにしても、あまりに雑すぎる返答といえ、如何に、何も考えずに罪をでっち上げたのかというのがよく伝わってきます。

調教師

これを聴いたソクラテスも、『それは、普通に考えておかしいのでは?』といい、例え話を出して、彼がどれほどおかしなことを言っているのかを説明します。
例えば、農作業で使う牛や乗り物としての馬には、躾を行って仕事を覚えさせる調教師という職業があります。
この調教師という仕事は誰でもなる事が出来て、どんな人間でも動物を思い通りに躾けることが出来るのでしょうか、それとも、動物に思い通りにいうことを聞かせることが出来る一流の調教師は少数しかいないのでしょうか。

現実を見てみればわかりますが、調教師という職業がある時点で、動物を思い通りに操って躾けることが出来る人間は、才能や技術を身に着けた少数の限られた人間だけです。
もし、全員が動物を思い通りに躾けることが出来るのであれば、調教師なんて職業は存在せず、皆、自分の家畜は自分たちで見事に調教するでしょう。

では次に、家畜の調教は優秀な1人の人間が責任を持って最初から最後までやり通すほうが良いのでしょうか。 それとも、全ての国民で『ああでもない、こうでもない。』と色んな言いながら、育てるほうが優秀な家畜に躾けることが出来るのでしょうか。
これも考えるまでもありませんが、優秀な1人の調教師に任せるほうが良いです。 日本にも、『船頭多くして船山に登る』なんて諺がありますが、それぞれの人間が思い思いのことをぶつけても、上手くいくはずがありません。
これらの事は、動物の調教だけに当てはまることではなく、人間の教育に関しても当てはまる事だと思われます。

もし、ソクラテスを除く全ての人間が人々を良い方向へと導ける力があるのであれば、そもそも、アテナイという土地は善人しかいないことになり、裁判所も必要なければ法律も必要ありません。
この一連の問答により、メレトスが、今までの人生で青年の教育については、何の興味もなかったし、考えたことすら無かったことが分かってしまいました。

人を悪い道へと導く

ソクラテスは次に、『青年を悪の道に引きずり込む』という部分について掘り下げます。
まず『善人』というのは、接する人に良い事を行って幸福にしてくれる存在だと思われます。 逆に悪人は、身近な人を不快にして、接し続けることで相手を不幸に陥れる存在と考えられます。
もし、善人か悪人か、どちらかと一緒に暮らさなければならない状態を選択しなければならないとしたら、何方と一緒にいたいと考えるでしょうか。

この様な質問をメレトスにぶつけると、彼は、『善人と親しくなりたいに決まっている。』と答えます。 これは、彼だけが特別な考えを持っているわけではなく、大抵の人は、善人と一緒に暮らす道を選ぶのではないでしょうか。
これを踏まえた上でソクラテスは、『君は、私が青年たちに良からぬことを吹き込んで悪人に変えているというけれども、それは、わざと行っているのか。
それとも、私自身が望んでいないにも関わらず、知らず知らずのうちに、弟子たちに悪い教育を施して悪人にしてしまったのか、どちらなのか?』と尋ねます。

ソクラテスを悪人に仕立て上げたいメレトスは、この質問に対し『当然、わざとやったに決まっている!』と答えますが…
この返答によって、またも、メレトスが何も考えなしに答えていることが露見してしまいました。

悪人との暮らし

先程ソクラテスは、『善人と一緒に暮らすほうが良いのか、それとも、悪人と過ごすほうが良いのか。 どちらが良いか。』という質問を行い、これに対してメレトスは、『善人と暮らすほうが良いに決まっている』と答えています。
これはメレトスだけの意見ではなく、全ての人が、同じ様に思うでしょう。 当然のことながら、ソクラテスもその様に思います。
では何故、ソクラテスは、わざわざ無垢な青年を連れてきて、一緒にいるのが嫌だと皆が言う悪人に育て上げて、生活を共にしているのでしょうか。

ソクラテスが、青年を連れてきて悪人に仕立て上げ、その者を自分が嫌いな勢力のものへ送り続けていたというのなら、まだ話はわかります。
しかし実際には、ソクラテスの仲間たちは、ソクラテスと行動を共にしています。 この様な状況で仲間を悪人に仕立て上げた場合、彼は悪人に囲まれながら暮らさなければならない為、損しかありません。
何故そんな、自らが不幸になるための努力を必死にしなければならないのでしょうか。

どうせ努力するのであれば、一緒に暮らす人達を良い方向へと導くための努力をするのではないでしょうか。
そうすれば、ソクラテスは善人に囲まれて日々の生活を送れることになりますし、その様な生活は幸福な人生とも思えるので、努力のしがいがあります。

ただ、人の教育というのは難しい為、人との接し方を間違えてしまった為に、自分でも意図せずに相手が悪人になってしまうケースというのもあります。
ソクラテスは、自身でも認めている通り、無知な存在です。 彼は人生を通して、人を優れた卓越した存在へとするアレテーの存在や、それを構成するものについて考え続けましたが、結局は分からずじまいでした。
その為、ソクラテスが人を良い方向へと導こうと頑張ったとしても、仲間が悪人になってしまうというケースは無いとは言い切れません。

ですから、先程、ソクラテスがメレトスに対して行った質問では、『私は、ワザと悪人に仕立て上げる為に青年に教育をしたのか、それとも、私自身に悪意はなく、知らず知らずのうちに青年が悪人になってしまったのか、どちらなのか?』と聞いていました。
これに対してメレトスは、ソクラテスを悪人にしたい一心で、『ワザとに決まっている。』と断言しました。
メレトスからすれば、『ソクラテスには自覚がなかった』としてしまうと、ソクラテスに罪がなかった事になってしまう可能性があるからです。

このメレトスの発言は、根拠のない明らかな嘘だとしか考えられません。
次にソクラテスは、『国家で定めた神々を信仰せずに、独自のダイモニアを信仰している。』という部分について追求するのですが、その話はまた、次回に行っていきます。

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第105回【ソクラテスの弁明】調教師 前編

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目次

今回も前回と同じ様に、プラトンが書いた『ソクラテスの弁明』の読み解きを行っていきます。
著作権の関係から、本を朗読するわけではなく、私が読んで重要だと思った部分を取り上げて考察する形式になっていますので、興味のある方は、ご自身で本を読まれることをお勧めします。

賢者を求めて

前回までの話を簡単に振り返ると、ソクラテスは、政治家のアニュトスと弁論家のリュコンを後ろ盾にしたメレトスによって訴えられます。
訴えの内容としては言いがかりに近いものなのですが、この者達は、そう思われないためにも、事前の準備を入念に行ってきました。
具体的には、アニュトスなどの発言力が有る者達が、そこら中で、『ソクラテスは科学に没頭するあまり、神を信じずに軽視している。 そしてその教えを青年に伝えて、授業料と称して金を巻き上げている』と言いふらしました。

ただ、アニュトス一人がこんな事を言いふらしたとしても、信じる人は限定されていたでしょう。しかし、彼には、多くの味方がいました。 それが、賢者と呼ばれていた人達や職人、吟遊詩人達です。
何故、この人達がアニュトスに力を貸すようになったのかというと、ソクラテスによって恥をかかされた経験があるからです。

ソクラテスは、人が幸福になる方法や、優れた人間になる方法、人を良い方向に導く方法などを、日々、研究していましたが、その答えどころか緒すら見つからない状態でした。
彼の苦悩を身近で観ていたカイレフォンは、少しでもソクラテスの助けになればと、デルフォイの神託を受けに行った所、『この国で一番賢いのはソクラテスだ』という神託を受けてしまいました。
これによって、更に思い悩んだのがソクラテスです。 自分は、何の答えも見つけ出していないし、その方法すらつかめていない無知なものなのに、そんな自分が『一番賢い』と言われても理解が出来ません。

彼は、『きっと、神でも間違うことが有るのだろう。』と思い、その神託が間違っていることを証明する為に、賢者と呼ばれている様々な人に会いに行き、対話することによって、自分よりも賢い人を探し始めました。

恥をかかされる賢者たち

彼は、弟子を多く抱える賢者に会いに行っては、『私は無知なので、知恵を授けて欲しい』と言って、自分が研究対象にしてきたアレテーについて、賢者に訪ねます。
対話篇のプロタゴラスなどを読むに、彼は教えを請うときには、人払いをして2人きりで対話をするほうが良いのか、それとも弟子の前で対話をするほうが良いのかを訪ねていましたが、多くの者が、弟子の前での対話を望みました。

何故なら、ソクラテスという名はそこそこ売れていたようなので、多くの賢者たちが、有名人の彼に教えを授けることで、自分に泊をつけようと考えていて、その証人として弟子にその現場を見せつけようと考えたのでしょう。
しかし対話を進めていくと、全ての賢者が、最も根本的なことである『正義』や『勇気』についてすら知らないことが判明してしまいました。
結果として賢者たちは、弟子の目の前で自分が無知だと暴露された事になり、この営業妨害にも似た行為に腹を経て、彼に罵声を浴びせて追い返しました。

ソクラテスが全ての賢者に声をかけ、その者達が無知であることが証明されてしまうと、彼は次に、吟遊詩人や職人といった人達にも質問を投げかけていき、彼等の無知を証明してしまいます。
結果としてソクラテスは、多くの賢者と職人、吟遊詩人を敵に回し、彼等から恨まれる事になってしまったというのが前回までの流れでした。

ソクラテスの仲間

この様にソクラテスは多くの敵を作ってしまったのですが、その一方で、ソクラテスたちの対話をそばで聞いていた聴衆の中から、『多くの賢者や専門家たちを言い負かしたソクラテスこそが、真の賢者ではないのか。』という者が現れ始めます。
そして、その中には、ソクラテスの弟子になりたいというもの出てきました。 彼自身には、教えるものは何もないですが、傍にいたいという人を追い返すこともないので、ソクラテスは彼らを同行させていたようです。
彼は、弟子志願者の同行は許しましたが、彼ら自身に教えること自体はないので、弟子…というか仲間たちは、賢者とソクラテスが対話する際には同行し、その対話内容を聞き続けました。

そうした活動を長期間続けていると、ソクラテスと行動を共にしていた青年たちは、ソクラテスの話し方や考え方を吸収し、『自分たちにも同じような事が出来るのではないか?』と思うようになり、真似をするものが現れ始めます。
この青年たちが、賢者に論戦を挑んでいった理由は不明ですが、おそらく、ソクラテスとは違った理由で論戦を挑んでいったものと思われます。
というのも、青年たちがソクラテスに付き従っているのは、彼等がソクラテスの事を『賢者を言い負かすことが出来るほどの賢者だ』と思っているからですが、実際のソクラテスは、彼自身が主張している通り無知な存在です。

この部分で、弟子とソクラテスとの間に大きなギャップがあります。
その為、弟子たちの中には、自分自身の無知を解消するために賢者たちに挑んでいったわけではなく、ソクラテスの使う話術を模倣すれば、自分も賢者を言い負かして有名になれるのではないかと思いこんで、実践している者もいたはずです。
ともかく、ソクラテスと行動を共にした青年が、同じ様に賢者に対して論戦を挑んで言い負かすという事態が繰り返されることになりました。

恨まれるソクラテス

これによって賢者たちは、ますます、ソクラテスに恨みを抱くようになります。
何故なら、賢者たちから見れば、ソクラテスの教えを受けたものが道場破りのようにやってきては、営業妨害をして返っていくという状態が繰り返されているからです。
実行している青年たちに対しても恨みを抱いていたでしょうが、その青年たちを指導する立場に有るソクラテスに対して、より深い憎しみを抱くようになっていきました。

この様な経緯で、ソクラテスは賢者だと持て囃される一方で、憎まれるような存在となっていきました。
ソクラテスを憎んでいる賢者側としては、彼やその弟子に当たる人物に負けたから憎んでいるというのは口が裂けてもいえないので、自分が敵対してる理由に正当性を与えようとして、ソクラテスを罪人に仕立て上げたんでしょう。
その罪状が『自然や物理について論理的に考えて研究し、神々を信仰しようとしない。 また、よく分からない理屈を使って間違ったことを正当化しようとする。』といったものでした。

ソクラテス達に論破されて恥をかかされた者達は、自らのプライドを守り、尚且、ソクラテスに復習する為に、アニュトス達が掲げた尤もらしい理由に飛びつきます。
結果として、アニュトスは政治家の代表として、リュコンは弁論家の代表として、そしてメレトスは、吟遊詩人の代表となり、今回の裁判が開かれることになったというわけです。

反論

前回、ソクラテスは、自身を非難する人達を、アニュトスをはじめとした、積極的に行動を起こしてソクラテスを破滅させようとする人達と、ソクラテスのことはよく知らないけれども、なんとなく批判している人達に分けました。
後者については、これまでの説明で理解が出来ると思います。 要するに、一部の賢者と呼ばれる人達が恨みをつのらせて、自分の立場を守るために『ソクラテスは悪者だ』と言いふらし、それに事情をよく知らない人達が便乗したというわけです。

次に、実際に訴えるという行動を起こしてまでソクラテスの失脚を願った人たちに対して、反論していくことにします。
今回、実際に訴えたメレトスの主張をみてみると『ソクラテスは、青年に良からぬことを吹き込んで堕落させ、国家で定めた神々を信仰せずに、独自のダイモニアを信仰している。』といい、訴えを起こしています。
ダイモニアというのは、神と人間をつなぐメッセンジャー的な役割である精霊といった、ギリシャ神話の神々と認められていない存在と理解してもらって良いと思います。

では、この訴えを分解し、一つ一つ、それが真実かどうかを見ていきます。

【Podcast #カミバコラジオ 原稿】第20回【経営】『直接的外部性』と『間接的外部性』

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ネットワーク外部性とは

前回は、ネットワーク外部性について話していきましたが、それだけでは話しきれなかったため、今回も、そのネットワーク外部性と、その延長線上に有るプラットフォームビジネスについて話していきます。
ネットワーク外部性を簡単に復習すると、そのネットワークに加入するものが多くなればなるほど、そのネットワークに関わる人達が有利になる仕組みです。
ここでネットワークという言葉が出てきましたが、ここで言うネットワークというのは、マルチやネズミ講まがいの商売をしている人たちが頻繁に口にしているネットワークビジネスとは関係がないので、注意してください。

このネットワーク外部性ですが、「直接的外部性」と「間接的外部性」の2つに分けることが出来ます。
まず、『直接的外部生』についてですが、これはネットワークに加入している人数が多くなれば多くなるほど、ユーザーの利便性が上昇する性質について説明したものです。
よく例として挙げられるのが、電話です。

ネットワーク外部性の『ある』『なし』

電話は、どこにいても連絡が取れるため、非常に便利なツールと言えますが、もし、加入者が自分1人だけだった場合を考えてみると、どうでしょうか。その電話は、使いやすくなるでしょうか。
例えば自動車の場合。 道路が今と同じ様に敷かれている状態で、自分が所有する以外の車が全て消滅したら、自分が持つ、車の価値は非常に大きくなるでしょう。
何故なら、この世に車が1台しかないわけですから、信号機も必要ないですし、渋滞なんかも起こるはずがありません。

道路は自分用になりますから、自分の車以外の車が消えた世界では、自分の車の使い勝手は非常に良くなりますし、周りの人間が車を持っていなければ、車を所有している事に対する価値も相対的に上がるでしょう。
では、電話も同じ様に、自分が持つ1台の電話以外、全ての電話がこの世から消え去ったとすれば、先程の車のときと同じ様に、利便性や所有している事についての価値は上昇するでしょうか。
少し考えればわかりますが、自分しか電話を持っていない状態になれば、その電話の価値はなくなります。

何故なら、電話というのは『かける側』と『受ける側』の最低2台が必要になる機械だからです。
自分一人だけ電話を持っていても、その電話の呼出音が鳴ることもありませんし、こちらからかけるべき相手もいないわけですから、電話という道具は無意味なものとなります。
しかし、自分の他にもう1人が電話を持ったとすれば、1台しかなかった時には価値がなかったものに、価値が生まれます。

参加者が多くなるほど効用が増える

何故なら、『電話というツールを使って通信できる相手』という存在が誕生したからです。 2台の電話には、特定の固定された相手と連絡を取れるツールという価値が生まれます。
これがもし、電話を持つ人間が10人に増えたとすれば、電話の価値はどうでしょうか。 2台しかなかった時は、特定の相手としか連絡を取ることが出来なかったのに、10台に増えれば連絡を取れる相手が9人に増えます。
電話を持つ人間が1億人に増えれば、通話サービスというのは非常に便利なサービスへと変わるでしょう。

この様に、ネットワークに参加する人間が増えれば増えるほど、そのネットワーク加入者の効用が上がるのが、直接的外部性です。
ここで新たに登場した『効用』という言葉ですが、これは経済学で使用される言葉で、意味としては効用が増えれば増えるほど、幸せな気持ちになれるようなモノ。幸福度と考えてもらえれば良いです。
では、電話以外にこの様な直接的外部性が働くサービスは存在するのかというと、存在します。 

ネットワークなくしてSNSは成り立たない

例えば、SNSなんかがそれに当たるでしょう。
facebookツイッターは、自分1人しか加入者がいなければ、全く面白くありませんし、投稿する意味がありません。何故なら、投稿したところで誰も利用していないわけですから。
しかし、数百万人、数億人と人数が増えるにつれて、SNSのサービスはどんどん価値有るものに変化していき、そのネットワークに加入している人達の効用も上昇します。

『間接的外部性』とは

次に、『間接的外部性』です。 これは、補完材の供給が増えることによって、ユーザーの効用が向上することを指します。
簡単に言い直せば、前回に紹介した様な、ビデオ機器とビデオソフトや、ゲーム機とソフトの関係のようなものです。ビデオにしてもゲームにしても、そのハード単体を所有していたとしても、消費者の効用は上がりません。
では、どうすれば消費者の幸福度である効用は上昇するのかといえば、多種多様なソフトが誕生することです。

そうすることで、様々な人のニーズに答えることが出来るようになり、多くの人の欲望を満たすことが出来るため、結果として、ハード所有者の効用は上昇します。

『直接的外部性』と『間接的外部性』

この、『直接的外部性』と『間接的外部性』ですが、完全に切り離されて独立した状態で存在するわけではありません。
つまり、TwitterなどのSNSは『直接的外部性』だけで、ゲーム機などは『関節外部性』だけで成立しているわけでは無いということです。

2つの要素は混在している

今存在している多くのサービスは、直接的外部性と間接的外部性が混在する形で存在しているのですが、それらのサービスを分解していくと、2つの要素に分けられるということです。
例えば、ここ最近のゲーム機でいえば、大半のハードに通信機能が付いていて、ネット経由で遠隔地に住む人と一緒にゲームを楽しめたりします。
ゲームによっては、100人で最後の一人になるまで殺し合うバトルロイヤルゲームなんかがあったりもします。

その他にも、VRchatの様に、仮想空間内にダイブして、そこにいる人達とコミュニケーションを取るだけのコンテンツがあったりもします。
一方でTwitterも、1億人が登録してアカウントを作ったとしても、誰もツイートせず、みんなが特定の人とDMだけでやり取りをしていたとすれば、その魅力はほぼ無くなってしまうでしょう。
Twitterの魅力は、見ず知らずの人達が自分の思い思いの気持ちを、誰にでも見える形で適当にツイートしていて、世界中の誰もが、それを見ることが出来ることです。

この場合、ユーザーがツイートをするという行為そのものが、Twitterというハードのソフトになります。

製品づくりにも関連している『ネットワーク外部性

この他の例で言えば、パソコン市場なども、これに当てはまります。
ゲーミングパソコンに興味があったり、自分で作ってしまう人たちにとってはお馴染みかもしれませんが、パソコンというのは、複数個の部品が組み合わさっているだけの機械だったりします。
もう少し具体的にいえば、マザーボード・CPU・メモリ・ストレージ・電源・ケース・グラフィックボード、これらを組み合わせたものが、パソコンです。

このパソコンですが、部品は自分で自由に組み替えられたりします。 何故、組み替えられるのかというと、メーカーの枠を超えて、端子などの接続部分を共通のものにしているからです。
もちろん、部品同士の世代が違いすぎれば組み合わせることが出来ないということもありますが、そこに注意を払えば、自分で好きなパーツを組み合わせてパソコンを作ることが出来ます。
自分で作業を行うのが辛いという人は、BTOサービスを使えば、部品を選ぶだけで工場で組み立ててくれて、家まで配達してくれます。

何故、この様に様々なメーカーの違う部品を組みこむことが出来るのでしょうか。
パソコン部品メーカーからすれば、自社の製品としか組み合わせることが出来ない部品を作れば、パソコンの中身を自分の会社の製品だけで独占することが出来ます。
しかし、パソコン部品メーカーはそんなことはせず、他社でも端子をつなぎ合わせれば接続できるような設計にしています。

何故、そうしているのかといえば、その方が結果として、部品のシェアが伸ばせるから、その様な戦略をとっているんです。
自社の部品しかつなぎ合わせることが出来ないような製品を作ってしまうと、一見すると、自社の部品で独占できるような気がしてしまいますが、実際にはユーザーの利便性が下がってしまいます。

『モジュール型』に対する『インテグラル型』

パソコンや通信機器周りでいえば、Appleが、自社製品しか使えないような戦略をとっていますが、ユーザー目線でいえば、利便性が高いかと言われれば、なかなか高いとは言い切れないと思います。

例えばiPhoneの場合、充電ケーブル一つとっても、ライトニングケーブルを別で購入しなければなりませんが、windowsやアンドロイド製品の大半は、USBで接続できます。
Appleのようにブランド力が強く、信者と言われている人たちから絶対的な信頼を勝ち取っている場合は、信者の人たちはアップル製品で身を固めているため、不便さは感じないと思います。
しかし、Appleの様なブランド力は、作ろうと思ってもなかなか作れるものではありません。

それなら、参入障壁を低くして、端子の形さえ合わせれば、他社製品であっても組み合わせることが出来るようにしておけば、ユーザー側の利便性は向上します。
また、様々なメーカーが参入するということは、その市場が多様化します。その結果として、ネットワーク外部性が働くことになり、ユーザーの効用は上昇します。

この様に、参入障壁を無くすことで市場を活性化させ、結果として供給側、需要側双方の効用が上がる事をネットワーク外部性といい、これをビジネスに利用したプラットフォーマーという存在がいるわけですが…
では、前に話したネットワーク外部性と参入障壁は、相容れないものなのかというと、そういうわけでもなかったりします。
ということで次回は、ネットワーク内での参入障壁について考えていこうと思います。

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第104回【ソクラテスの弁明】無知の知 後編

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賢者を求めて

各地方で賢者だと言われてきた人達は、最初は、わざわざ訪ねてきてくれたソクラテスを丁寧に扱って、質問にも答えてくれていました。
しかし、これまでに読み解いてきた対話篇の内容を思い出してもらえればわかりますが、ソクラテスは、『私は無知なので、知識を授けてください。』と言って教えを授かりに言っているのに、相手の言っていることを信用しません。

厳密には、相手の意見を鵜呑みにせずに、疑問に思った点を質問するなど、相手の答えが本当に正しいのかを吟味する作業を行います。
その結果、話の内容はドンドンと根本的な内容へと変わっていき、最終的には『アテレーとは何か。』という、人を良い方向へと導く根本的なものへの質問へと変わっていきます。
そして、アテレーを構成しているであろう『美しさ』や『正義』『勇気』にまで話がおよぶと、その質問に対しては誰一人として、正確な意味を答えてはくれませんでした。

更に驚くべきことは、ソクラテスがアテレーについてや、それを構成している『正義』や『勇気』について質問するまでは、賢者と呼ばれていた人達は、それらを知っている気になっていた事です。
彼等は、真理を知るためには絶対に知っていないといけない、最も根本的な事を、実際には知らないのに知っていると思い込んでいて、そんな曖昧な知識で、真理やアテレーを理解していると思い込んでいました。
根本的な事を知らないのに、最終的な答えがわかると主張するのは、かなり、おかしな事です。 

豹変する自称賢者たち

数学や物理などの学問に置き換えるとわかりやすいと思いますが、物事を理解するには、順序というものがあり基礎を知らずして複雑なものが理解できるはずがありません。

例えば、足し算という概念を知らないものは掛け算という概念を理解することが出来ませんし、これらが分からないものには、方程式を理解することは出来ません。
そして、単純な計算ができない人には、物理を理解することは難しいでしょう。 この様に、物事を理解する為には、その前提となる知識が必要不可欠なわけです。
では、ソクラテスが求めていた真理や、幸福な人生を送る為に必要なことは何かというと、宿すことで卓越した優れた者になれるアテレーであったり、それを構成している『正義』や『節制』といった徳目の理解です。

この、根本的なことが理解できていなければ、卓越した人にもなれないし、幸福にも到達することも出来ないし、この世の真理を理解することも出来ないと、ソクラテスは思っています。
そういう思いで対話に望んだのに、賢者と呼ばれている人々の全てが、これらの根本的なことを理解していないことがわかりました。
このようにして、賢者が基本的な事柄について分からない事が暴露されてしまうと、賢者たちの態度は一変し、ソクラテスを罵倒したり追い返すという行動に出ました。

ソクラテスを迎えた賢者は、自分が有名なソクラテスに教えを授けるところを多くの人に見て欲しいという思いから、弟子たちの前で対話をする事が多かったようです。
その弟子たちや聴衆の前で恥をかかされただけでなく、自分が知りもしないことを偉そうに教えていたということを暴露された為、顔に泥を塗られたと思い、罵倒や追い返すという報復に出たのでしょう。
賢者たちが、その様な行動をとる一方で、賢者の弟子や一般人は、自分が何を知らないのかを熟知していました。 この点に置いては、賢者よりも一般人たちの方が正しい認識が出来ているようにも思えたそうです。

存在しないものを語る人達

ソクラテスは、多くの賢者たちに会いに行って、同じ様な行動をとって、罵倒されて追い返されるという一連の流れを繰り返し続けますが、結局、アテレーについてや真理を知る賢者には出会えませんでした。
それでも諦めきれない彼は、賢者と呼ばれて崇拝されている者たちだけでなく、優れているとされている人達ならジャンルの違う人達でも良いとして、様々な人達に会いに行きます。
例えば、優れた詩人や、その詩を沢山読んで評論している人達や、音楽家や彫刻家といった、ソフィストや賢者と呼ばれてはいないけれども、その分野においてトップレベルの人達なら、何かを知っているかもしれないという思いから、会いに行くことにします。

しかしここでも、意外なことが起こりました。 意外というよりも、賢者にアテレーや真理について聞いたときと同じような事が起こったんです。
例えば、吟遊詩人が歌う沢山の詩を、日々、聞き続けたり収集している、いわゆる詩の評論家やマニアと呼ばれる人達に話を聞きにいった所、彼らは、おそらく詩を作った本人ですら考えていなかった事柄までスラスラと言い始めたんです。

現代でいうなら、ガンダムというアニメ作品がありますが、この設定や登場人物の心理や、彼等が取る行動の意味について、原作者の富野さんよりも詳しく話すマニアの人達っていますよね。
『あのキャラクターが、あの場面でこの様な行動をとったのは、こんな理由があったからだ!』といった感じで、ものすごく細かい設定について熱く語るマニアの人達は少なくないですが、実際には作者はそこまで考えて作ってなかったりします。
では、このマニアの人達が想像する設定とは、どこから来たものなんでしょうか?

例えば、モブキャラクターの心理状態といった、細かすぎる設定について熱く語るマニアがいますが、作者がそこまでの設定を考えていない場合、当然のことながら、その作品内には、そのような事が読み取れる演出はされていない事になります。
では、そのマニアの人達は、どこから、モブキャラの心理状態といった細かすぎる設定を読み取ったのでしょうか。 もう一度言いますが、作った側はそこまで考えていないので、その事が感じ取れるような演出はされてはいません。
作者自身も考えておらず、作品そのものにも、情報がちりばめられていないのにも関わらず、マニアがそこに『何か』を感じたというのは、考えようによっては、神からの神託を受けると言った超常的な事が起こっているのと同じです。

前回取り扱ったメノンでも言っていましたが、神からのお告げで何かを閃くというのは、その物事を知っているという状態とは言えません。
彼等が存在すると主張する『詳細過ぎる設定』は、どこかから発信された電波を受け取って、その内容を受信して、自身の口を通して代弁しているに過ぎないわけです。
詩のマニアが、実際に存在しない事柄を有ると思い込んで主張するというのは、賢者が、知りもしないことを知っていると思い込んでアテレーについて熱弁しているのと同じです。

優れた技術を持つ者たち

ソクラテスは次に、優れた技術を持つと言われている職人の元へ意見を聞きに行きました。
彼等は、日々の生活の中で哲学に接する機会は少ないでし、アテレーや幸福について研究しているわけではないですが、優れた彫刻家や画家、演奏家などは、『美しい』という概念について詳しいように思えます。
演奏家は、美しいメロディーを理解していないと、観客に受ける音楽を演奏できないでしょうし、彫刻家は、美しい肉体を彫刻で表現できなければ、仕事を得られないでしょう。

この様な様々な職人たちの話に耳を傾ければ、自分の知らない事を理解できそうな気がします。
という事で、早速、ソクラテスは腕の良い職人たちの元を訪れて、自分が知らないことを色々と聞き出してみました。
その結果、実際に手を動かして仕事をしている職人は、確かに、勉強しかしていないソクラテスが知らない事を、沢山知っていて、様々なことを教えてはくれましたが、肝心の、アテレーや真理につながるような知識は得られませんでした。

これらの活動によってソクラテスが分かった事は、本当の意味で賢者と呼べる存在は、神のような概念上の存在だけで、その下に位置する私達人間が持っている知識などは、神の知識に比べれはほんの僅かなものでしか無いということでした。
人間の中でも一番の賢者と呼ばれる人物ですら、殆ど知識を持っていないんだから、人間の中で一番の賢者と愚か者の知識の差なんてものは、微々たるもので、どんぐりの背比べにしか過ぎない。
神が巫女の口を通して『人間の中で、ソクラテスが一番賢い』と敢えて主張したのは、この国でソクラテスだけが無知を自覚し、『人間が持つ知識なんてたかが知れている』と気がついたから『一番マシだ』としただけなのかもしれないと主張します。

この活動が災いして、ソクラテスは多くの賢者と呼ばれてきた人達や職人や詩の愛好家から恨まれる事になりました。
しかし、先ほども言った通り、彼は誰でも見物できるところで対話を行っていた為、その対話を見ている人達の一部が、ソクラテスを『賢者を言い負かした真の賢者』と思うようになり、評価が二分してしまったと主張します。
この後、ソクラテスは、この裁判を起こしたメレトスと質疑応答をするのですが、その話はまた、次回にしていきます。

【Podcast #カミバコラジオ 原稿】第19回【経営】ネットワーク外部性

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前回はこちら
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目次

参入障壁とは

前回は、参入障壁について話していきました。
参入障壁とは、その業界・市場に入る為のハードルの高さのことです。 これが高ければ高いほど、その業界には進出しづらくななります。
企業は自分たちを取り囲む外部環境の一つである新規参入を牽制して自分たちの利益を守るために、この参入障壁を築き、市場を荒らされるのを防ごうとします。

参入障壁を築くためには、前提条件が必要になります。
その条件は、『規模の経済性が働くか』『商品の差別化が出来るか』『投資金額の大きさ』『取引先を変更する際のコストの大きさ』『流通チャネルの確保の難易度』『政府や自治体による参入の制限や規制は有るのか』と言ったものになります。
規模の経済が働くということは、多額の設備投資によって生産コストを引き下げることが出来るわけですから、利益を生みやすい構造を作り出すことが出来ます。

様々な参入障壁

安いコストで生産できる場合、ある程度の販売価格の低下も受け入れることが出来るわけですし、リベートや一定販売ごとの割引といった他の価格戦略も取ることができるようになります。
これが多額の設備投資によって実現する場合、新規参入者がこれに対抗しようとする場合、同額以上の設備投資額が必要になるわけですから、この設備投資額の大きさは参入障壁になりえます。
また、安いコストで製造できるにもかかわらず、値引きせずに売れる場合は、利益率が上昇することになります。その利益の一部を商品を改良するための研究開発に使えば、商品を差別化させることも可能となります。

『取引先を変更する際のコストの大きさ』というのは、前回は説明することが出来ませんでしたが、スイッチングコストのことです。
例えば、iPhoneユーザーがアンドロイドに変更しようと思うと、いろんなアプリやデータの引き継ぎが面倒くさくなります。PCも同じで、windowsmac間の以降は、面倒くさかったりします。
この面倒臭さ具合のことをスイッチングコストといい、切り替えが面倒くさい商品やサービスの場合は、最初にシェアを取ってしまえば、それは参入障壁になりえます。

トップのシェアを取る場合、実物を伴う商品の場合は販売網などが重要になってきますが、この販売網を握って排他的にしてしまうというのも、戦略の一つです。
流通網の主導権を自社で握って排他的なものにしてしまえば、新規参入者は流通チャネルの確保が難しくなるため、これも参入障壁となります。
この様に、企業は自分の縄張りを守るために、様々な戦略で持って参入障壁を築き上げようとします。

ですが、全ての市場がこの様な排他的な市場ではなく、中には、その市場に他社に参入して貰うために、できるだけ参入障壁を設けずに、宣伝をしたり勧誘をしたりする市場もあります。

基本的に市場は排他的

前回の放送では、この様な行動を取るほとんどの企業や人物は詐欺師だといった発言をしました。何故、その様な発言をしたのかといいますと…
多くの市場では、新たに業者を引き入れたとしても、損しか無いからです。 製品価格は、市場の需要と供給で決まるのに、供給業者を呼び込んでライバルが増えてしまえば、競争は激化してしまいます。

競争が激化した場合、大抵は価格競争に突入することになります。 価格競争になって商品単価が下がれば、売上は減少します。何故なら、売上は商品単価に販売数をかけ合わせたものだからです。
市場規模が決まっている場合、販売数を増やすためには他社から顧客を奪い必要があるわけですが、そのためには更に競争が激化するため、市場は血で血を洗うレッドオーシャンになってしまいます
その様な状態を歓迎する人はいないので、わざわざ新規参入を引き入れようとする人たちは詐欺師として警戒したほうが良いといったわけですが…

ネットワーク外部性

まれに、他人を引き入れることで儲けが出てしまうような環境が生まれます。 その様な環境では、新規参入を引き入れることが自社の利益になります。この様な状態のことを、『ネットワーク外部性』が働くなんて言ったりします。
このネットワーク外部性を学ぶ上でのわかり易い例としては、VHSとベータのビデオ戦争があります。
最近の若い方は知らないかもしれませんが、今でこそ動画用のメディアはDVD・ブルーレイ、またはストリーミング再生といったものが主流になってきましたが、それより前はビデオカセットというものを使っていました。

VHSという規格がメインだったのですが、そのビデオカセットが出始めの頃は、VHSとベータという2つの方式でのシェア争いが起こっていました。その争いを制したのがVHSだったので、ビデオカセットといえばVHSになったわけです。
では何故、VHSが派遣を握れたのでしょうか。 価格が安かったからなのか。それとも、VHSの方が高品質だったからなのでしょうか。
結果から言うと、これらの要因は全く関係がありません。 何故なら、品質の面でいえば、ソニーが開発したベータ方式のほうが良かったという評価のほうが多かったからです。

では何故、VHSの方が派遣を握れたのかというと、ネットワーク外部性が関係してきます。ネットワーク外部性とは、新規参入が多くなれば多くなるほど、プラスの経済性が生まれるというものです。

VHSで言うなら、VHSというハードだけがあったとしても、それだけでは何の魅力もありませんし、市場も生まれません。VHSの規格で商品を販売するソフトメーカーが参入して初めて、市場が誕生します。
そのソフトメーカーが多ければ多いほど、そして、発売されるソフトが多様であれば有るほど、そのハードは魅力的になり、結果として市場シェアを握ることが出来ます

市場参加者が多いほど市場は盛り上がる

市場シェアの大部分を抑えて、市場を支配してしまえば、そのハードでソフトを出していたソフトメーカーも潤うことになります。
何故なら、分母が大きくなるからです。 自分たちが発表したソフトが、全体の1%ぐらいしか買ってくれない場合、ハードが1万台しか売れていないのか、1億台売れているのかで、売上は1万倍変わってきます。
こうなってくると、正の循環が回り始めます。 最初の頃に参入したソフトメーカーが頑張ってハードの市場シェアを伸ばせば、新規参入を考えているソフトメーカーは、最大のシェアを握っているハードでソフトを出そうとします。

そうすると、ソフトメーカーが増えたことでソフトの多様化が起こり、様々なニーズに答えられるようになっていくため、そのハードの利便性が上昇します。
ハードの利便性が上昇すると、そのハードの魅力が更に高まるわけですから、多くの消費者がそのハードを買い求めることになり、ハードの所有者が更に増えて、ソフトメーカーにとっての市場規模が大きくなります。
こうなるとハードの魅力が更に上昇し、更に多くの新規参入が起こり、さらに大量のソフトがそのハードで発売され、ソフトの多様化が加速することになります。

この様な正の循環を起こすために、ハードメーカーはソフトメーカーの参入を促し、ソフトメーカーも、その市場に新規参入を呼び込もうとします。

キラーコンテンツ

この一連の流れは、ネットフリックスがオリジナルで作ったドラマである『全裸監督』でも、触れられていたりします。
何故なら、ビデオ市場にとってアダルトビデオというのはキラーコンテンツだからです。キラーコンテンツとは、そのコンテンツが発売されることによって、ハードの売上が劇的に上がるコンテンツのことです。

その様なコンテンツ、またはコンテンツを作れるソフトメーカーを呼び込むためにも、ハードメーカーはソフトを制作して参入するための障壁はできるだけ下げようとしますし、同じくソフトメーカーも、新規参入を潰そうとはしません。
何故なら、他のソフトメーカーを潰してソフト市場を独占した場合、そのハードはソフトの多様性を失ってしまい、ハードの魅力を下げることに繋がるからです。
ハードの魅力が下がってしまえばハードの売上は下がりますし、市場規模そのものが縮小してしまうため、結果として、市場独占の意味がなくなります。

ゲーム機市場

この様なネットワーク外部性を伴う産業は、ビデオ産業だけに限りません。
例えば、身近なところでいうとゲーム産業などがあります。 今の家庭用ゲームといえば、任天堂ソニーマイクロソフトが争っていますが、これも単に、3社だけの争いではありません。
また、ゲーム機の性能や値段の優劣やコスパで決まるわけでもありません。

もし、ゲーム機のシェアがハードの性能だけで決まるのであれば、任天堂の戦略では他の2社には絶対に勝てません。
何故なら、任天堂の出すハードの性能は低く、コスパ的にも良くはないからです。 性能面だけで言うのなら、PlayStation5や最新のXboxの方が遥かに良いですし、コスパも良いでしょう。
ですが、実際問題として市場を支配したのは、次世代機と言われている中では一番性能の低い任天堂のSwitchです。

重要なのはソフトの多様性

重要なのは、そのハードがだすソフトであるコンテンツです。 キラーコンテンツと呼ばれて話題になるものをモノを、どれだけ独占して発売できるのかが重要になってきます。
任天堂の場合は、自社コンテンツがキラーコンテンツとなっているため、自家発電的なイメージもありますが… 大抵の市場では、どんな物が売れるかなんて事前には分かりません。
その為、出来るだけ多くのソフトメーカーを引き入れて、自社のハードでの多様性を広げようとします。

これは、ネットサービスでいえばプラットフォームサービスと言われているものも同じです。
有名なところでいえば、ネットフリックスやアップルミュージック、Amazonのプライムビデオなどの月定額のサービスの事をプラットフォーム事業なんて言ったりしますが、これもソフトの多様性によって集客力が変わってきたりします。
プラットフォームサービスでいえば、ソフトだけでなく、ユーザー間のネットワークなども絡んできたりするのですが… そのあたりのことも含めて、もう少し詳しいことは次回に話して行こうと思います。