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ホワイトカラーではないブルーカラーからの視点

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第88回【メノン】ゴルギアスの弟子メノン 前編

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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対話篇『メノン』

今回からは、プラトンが書いた対話篇のメノンを読み解いていきます。
この『メノン』は、入門書的な位置づけで書かれたものなので、本来であれば最初に取り扱ったほうが良かったのかもしれませんが…
描かれている時代的には、対話篇のゴルギアスプロタゴラスの後を想定して書かれているようで、この対話篇の中にもゴルギアスプロタゴラスの名前が登場したりします。

名前だけではなく、彼らと話し合ったテーマや、その結末を踏まえた上での討論が行われていたりもするので、この『メノン』を後から取り扱うことにしました。
前に取り扱った『プロタゴラス』や『ゴルギアス』で討論した内容も出てくるので、復習がてら、聞いていただけると理解が深まって良いと思います。

この対話編も今までと同じ様に、私が読んで重要だと思った部分をピックアップしして、その部分について考察する形式となっています。
対話篇の全体を知りたい方は、本を購入して読まれることをお勧めします。

少年との対話

まず最初に、今回取り扱うメノンと、前回までのプロタゴラスゴルギアスとの対話篇の違いですが… 前に紹介した両者は、お金をもらって他人にものを教える教師という職業という点で共通していました。
教えている対象としては、プロタゴラスがアレテーを教えていたのに対して、ゴルギアスは弁論術で、一般市民から観ると似通ったものですが、深く追求していくと『全く別のもの』といったものでしたが…
今回の『メノン』では、対話相手は教師ではありませんし、ソクラテスよりも年上の賢者でもありません。

タイトルにもなっているメノンは、ゴルギアスの元で弁論術を学んだ青年で、ソクラテスよりもかなり年下の子供です。
対話篇のプロタゴラスゴルギアスに登場したソクラテスは、議論の際に相手が矛盾したことを言うと厳しい追求をしていましたが、今回は子供相手ということで、一緒に寄り添って考えるスタンスを取っています。
よく、ソクラテスの人物紹介で、大物政治家や賢者と呼ばれる人には果敢に立ち向かっていき、若者に対しては『共に考えていこう』という人物だったと評価されることが多いですが…

それは、この『メノン』や、また別の機会に取扱う『テアイテトス』といった対話篇で描かれているソクラテスの態度が影響していると思われます。
これらの作品では対話相手が子供で、無知である事が前提の子供との対話を通して、同じ様にアレテーについて考えたことがない一般市民でも、ソクラテスの主張を理解できるような書かれ方をしています。
子供が相手なので、先程も言った通り、大人相手のような厳しすぎる追求はせずに、子供が自分の意見を言いやすいような雰囲気を演出しているので、ソクラテスは大人には厳しいが若者には優しいというイメージが付いたのでしょう。

ということで、前置きが長くなってしまいましたが、本題に入っていきます。

野心に燃えるメノン

対話篇の冒頭部分では、裕福な家に生まれたメノンという青年が、ソクラテスの元へとやってきて『アレテーとは何か』と尋ねてくるところから始まります。
一見すると、物を知らない青年が、多くの賢者と対話を行っているソクラテスに教えを請いにやってきたようにも思えてしまいますが、実際には事情が違っていて、ソクラテスに対してマウントを取る為にわざわざやって来たんです。

というのも、先程も少しだけ話しましたが、このメノンという青年は裕福な家に生まれているので、その父親は子供に最高の教育を行って優れた人間にしようと、ゴルギアスの元へ送り出して、教育を受けさせています。
メノンという青年は、このゴルギアスの下でアレテーを学んで身につけたと思いこんでいるので、その知識を、有名なソクラテスに見せびらかしに行こうという魂胆でやってくるんです。

ソクラテスという人物は、自分では『アレテーを知らない』と言ってはいますが、数多くの賢者と論戦を行い、相手を黙らせている人物です。
自分自身が無知だと主張しているにも関わらず、賢者として皆から認められている人たちと論戦を交わして互角以上戦いを見せている奇妙な存在の為、喜劇作家や風刺を行うことで有名なアリストファネスによって題材として取り上げられたりもしています。
この取り上げ方も、優秀な人物としてではなく、賢者に絡む詭弁化の代表として演劇などで表現されていて、知名度もかなり高い人物だったようです。

メノンは、その知名度の高い詭弁化に挑戦して打ち勝ち、自分の名前を売ろうという野心を秘めてやって来たという感じです。

アレテーとは何か

メノンはソクラテスに対して、『アレテーとはどのようなものですか。』と尋ねます。 彼の戦略としては、ソクラテスが間違ったことをいえば指摘して、自分がソクラテスに教えてやることで、勝つというプランだったのでしょう。
これに対してソクラテスは『私はアレテーがどのようなものかは知らない。』と告白します。
メノンとしては、何か答えれもらわないと予定が狂うので『では、貴方がアレテーを知らないという事実を言いふらしても良いのか?』と煽ります。

でも、知らないものは知らないので、この挑発には乗らず、更に追加で『私自身は知らないし、アレテーを知っているという人物に会ったことすら無い。』と付け加えます。
メノンは、ソクラテスが自分の師匠であるゴルギアスと面会していることを知っていたので、この答えに少し狼狽えます。
何故なら自分は、ゴルギアスからアレテーを教えてもらったと思い込んでいるわけですが、ソクラテスの言い分が正しいとするなら、師匠のゴルギアスはアレテーを知らないことになるし、その教えを受けた自分もアレテーを知らないことになるからです。

この事実が受け入れられないメノンは、ソクラテスと対話を行うことで、自分はアレテーを知っているということを証明しようとします。

対話のテーマとなるのは、当然ですが『アレテーとは何か』です。
しかし、ソクラテスは先程も言った通り『アレテーがどのようなものかは知らない』と主張しているので、アレテーの事を知っていると主張しているメノンが、持論を展開する事で対話が始まります。

メノンによるアレテーの定義

メノンが主張するアレテーとは複数あり、成人男性のアレテーとは、国家公共のために尽力し、その為に必要な人間関係を構築すること。
自分と同じ様な考え方を持つ人物は友人として大切にして、自分と違った考えを持つ人間に対しては厳しく接するのが、成人男性に宿るべきアレテーだと主張します。
この考えは、対話篇のゴルギアスに登場したカリクレスの考え方と同じですよね。 彼も、国家公共のために尽くして、その組織の中で出世することが一番重要だと主張していました。

次に女性のアレテーは、外に出ている男性に変わって家庭を支えることで、家庭の主である主人に尽くすことになります。
ダイバーシティが叫ばれている今の世の中では、古い考えとして改めなければならないという空気になってきてはいますが、つい最近まで、良い女性とはこの様な女性像だと思われていましたよね。
この他にも、子供や老人や奴隷など、それぞれの立場や年齢に対応したアレテーが存在するとメノンは主張します。

この部分に関する考えもカリクレスと似たようなことをいっていますよね、カリクレスは、子供は子供らしく有るべきだし、大人は大人らしく有るべきだと主張していました。
子供は大人よりも劣っているべきだし、劣っている子供が一生懸命に勉強して、それでも大人にかなわない様子を見ていると可愛らしいと思うが、優秀すぎて大人びたしゃべり方をする子供は、観ていて不愉快になる。
また、大人になっても基礎教養を身に着けておらず、子供のようなしゃべり方をする大人を観るのも不愉快になるので、そんな奴はぶん殴ってやれば良いと言っていました。

これは言い換えるなら、子供は子供らしく。大人は大人らしくと言っているのと同じで、理想とする子ども像や大人像が有ることが前提の主張です。

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第87回【ゴルギアス】まとめ③ 後編

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周囲の人達

最終目的地である幸福とは、人にとって良い事だと思われますが、では次に、何を持って善しとするのかというのが、問題になってきます。
カリクレスにとっての幸福が、生きている間に自分がどれ程の欲望を満たすことが出来るのかに注目しているのに対し、ソクラテスが重視するのは、世の中の秩序です。
欲望か秩序か、人間に幸福をもたらしてくれるのは、どちらなのかを考えてみましょう。

まず欲望について、わかりやすくするために極端に考えていくと、個人個人がそれぞれ自分の欲望を満たす為に、『多少の不正を行っても構わない』と自由に振る舞ってしまえば、社会はカオスな状態になってしまいます。
国を収める為の分かりやすい秩序として法律がありますが、皆が、自分の利益の為に法律を無視すれば、そこは国ではなく無法地帯となってしまいます。
カリクレスやポロスをはじめとした弁論家の弟子たちは、政治の場でのし上がって権力を手に入れたいと思って弁論術を習っているわけですが…

政治というのは国という組織の中の役割でしか無いわけですから、無法地帯となった場所に政治の権力なんてないことになります。
自分が政治的に上の立場になったとしても、秩序がなければ、下のものに命令を下したとしても、部下は自分自身の欲望を満たすのに必死になって、上司の命令を聞かないでしょう。
政治的な権力というのは、秩序という前提の上で成り立っているのであって、秩序が無くなってしまえば政治的権力も無くなってしまいますが、ポロス達は、政治的に上の立場になって、率先して秩序を破壊しようと主張しています。

また、対話篇の中では、個人の利益を優先する為には上司に取り入る必要があって、上司に気に入られるためには、上司と同じ様な属性だと思われなければならないとしています。
自分の上司が、自分ひとりの利益を追求するために不正を犯して、無実の罪で他人を訴えて命や財産を奪う人間なら、それを肯定するようなイエスマンにならなければ、気に入られて出世する事はありません。
自分自身がその様な人間でなかったとしても、権力を求めようと思うのなら、上司に合わせて不正を肯定するような人間を演じなければなりませんが、そんな立ち振舞を見て近寄ってくる人間も、同じ様に不正を肯定するような人達ばかりとなります。

類は友を呼ぶと言いますが、自分自身が持っていると思い込んでいる権力が、秩序の上に成り立っている砂上の楼閣ということに気が付かない様な人間の周りに集まってくるのは、同じ様な無知な人間ばかりです。
無知で、不正を行い、他人の命や財産を奪っても問題がないと平然と言ってのける人達に囲まれる人生というのは、果たして、幸せなのでしょうか。
おそらくですが、この様な集まりでは水面下では足の引っ張り合いが行われている為に、誰も信用できず、常に緊張した生活を送る必要があると思います。 それが、幸せな生活なんでしょうか。

幸福とは環境

一方でソクラテスが主張するのは、秩序を重視する価値観です。 不正は駄目なものだとされ、不正を行おうとしている人は注意されるし、不正で蓄財をしたとしても軽蔑される。
秩序を守るとは、社会を維持する事を重視するということなので、社会に貢献するような事をすれば尊敬されるし、皆から褒められるような社会です。
この様な社会では、人々は不正を行わずに、むしろ積極的に社会に貢献しようとするので、社会秩序は維持されるし、その共同体に参加する人達は良い人たちが多くなります。

良い人たちに囲まれているということは、近隣住民と信頼関係も築きやすいことになりますし、自分が窮地に追い込まれた際には助けてもらえる可能性も高いので、共同体の中では安心して暮らすことが出来ます。
カリクレスはソクラテスに対して、『正論を言い続けると皆から嫌われて、陥れられるぞ!』と脅しますが、本当に秩序が機能していれば、そんな心配もなくなります。 その心配をしなければならないのは、秩序が保たれていないからです。
この2つの社会を比べた場合、どちらのほうが暮らしやすいのかというと、秩序が重視される社会のほうが暮らしやすいと感じないでしょうか。

ソクラテスは、この様に秩序を重視した社会を作るべきだと主張しますが、この秩序を作るのに必要なのが、『善悪を正しく見極める技術』になります。
他人の行動を咎めようとする場合、自分の考えが正しくて、相手が間違っているということを確信していなければ、相手の行動にとやかくいう事は出来ません。
他人の行動を正し、社会全体を善い方向へと導こうと思う場合、何が正しくて何が悪いのかを正しく認識する為の絶対的な基準が必要で、その基準に辿り着く為の法則や技術が重要になってきます。

絶対的な正解は見つかっていない

そして、この対話篇を読み解く上で一番重要な事は、それらの技術や法則や絶対的な基準は、まだ見つかっていない為に、誰も知らないという事です。
前に扱ったプロタゴラスでもそうですし、今回のゴルギアスでもそうですが、絶対的に良い、優れているとされているアレテーと言う存在を、誰も明確に定義できていません。
ということは、明確なゴールも定まっていないということになるので、眼の前に選択肢を提示されたとしても、正解を見極める術はないということです。 何故なら、向かうべき方向が定まっていないからです。

また、この、ソクラテスの答弁が『善悪を見極める技術は、まだ発見されていない』ということを前提にしているという事を忘れてしまうと、大変な誤解を生んでしまったりします。
どの部分で誤解してしまうのかというと、人が悪い行動をした際には、それを見つけて、行動を正すために罰を与えるのは良い行為だという部分です。

ソクラテスは、不正を行うのと不正の被害者になるのとでは、不正を行う方が醜くくて悪い状態だとし、そして、その不正はバレないよりもバレた方が本人の為だと言います。
不正がバレた際には、不正を行ったことを後悔し、二度と行わないような罰を受けるのが本人の救済につながるし、矯正が不可能な程に魂が歪みきっているのであれば、他の者の見せしめとして、酷い苦痛を与えるべきだと主張しています。
何度も言いますが、この話は、絶対的な善と、それを見極める技術が発見されたとしたら、この様になるのが良いと主張しているだけで、発見されていない時には、善悪とは何かというのを考え続けなければなりません。

正義の固定

しかし、絶対的な善が発見されたと誤解されてしまったとすれば、自分たちの意見に背く人間を拷問にかけたり殺すことが、良い行動だと誤解されてしまいます。
例えば、漫画でいうとベルセルクという中世ヨーロッパをベースにしたファンタジー作品がありますが、この世界には、大きな勢力を持っている宗教が存在します。
この宗教は、自分の命も顧みずに宗教組織に全てを捧げる人間は肯定されますが、教義に少しでも疑問を持ったり反抗する人間は。捉えられて拷問にかけられますし、時には殺されたりもします。

その拷問はエゲツなく、焼きごてを当てたり、ハンマーで手足を砕いて車輪に固定したりとするわけですが、刑の執行は、聖職者が行います。
神に仕える聖職者が、何故、この様なひどい拷問を平然と行うのかというと、神という絶対的な『善』に対して疑問を持ったり反抗するのは悪なので、本人たちの為を思って、悪を浄化する為に拷問という良い行為を行っていると思い込んでいるからです。
これは、漫画のようなフィクションの世界だけでなく、実際問題として、この様な行為を行っていた宗教団体は過去の歴史に存在しましたし、今も、一部の過激な宗教組織がテロなどを通じて行っていたりします。

宗教だけに限らず、これは現在の国という枠組みでも行われていたりします。
人権上の問題から、酷い拷問は表面上はされなくなっているようですが、法律という『善』とされているものに逆らうものは、罰金や刑務所に入れられるといった行為を強制させられますし、死刑が廃止になっていない国では見せしめの為に殺されます。
この現状は、多くの人が『法律に逆らったんだから酷い目にあっても仕方がない』とか『秩序を乱したんだから当然だ』として肯定するかもしれませんが、それは、法律が本当に『善』であるということが大前提となります。

もし仮に、法律に不備があったり、そもそも間違っていたりする場合は、その法律に従って刑を執行しているものが、不当な扱いをしているということにもなります。
ソクラテスが『見つけなければならない』と言った、善悪を正しく見極める技術というのは、ソクラテスの死後2500年程経った現在でも、まだ見つかってはいません。 これから先、見つかるかどうかもわかりません。
だからこそ、考え続けることが重要だと訴えているわけですが、宗教の教義や国の法律が『絶対的な善』だと信じ込んでしまえば、その時点で思考停止してしまい、どんな酷い仕打ちであっても、良いことだと肯定されてしまいます。

ソクラテスは、『無知の知』という言葉でも有名ですが、争いやイザコザは『善い』という定義を知っていると思い込む事ところから始まります。
何を持って善しとするのかは分からず、善悪を見極める技術を人類は持っていないと認識するところから始めることが重要だということでしょうね。

ということで、今回でゴルギアスは終わります。 次回からは、メノンを読み解いていこうと思います。

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第87回【ゴルギアス】まとめ③ 前編

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今回も、ゴルギアスを読んだ上での、まとめ・考察回となっています。
ゴルギアスを読まれたことがない方や、このコンテンツのゴルギアス回を聴いていない方は、そちらから聞かれることをおすすめします。

善悪を正しく見極める技術

前回は、カリクレスとソクラテスがそれぞれ主張する『幸福な人生』の違いについて語っていきました。
ソクラテスが、人生の岐路に立った際には、自分の感情や欲望によって答えを選ぶのではなく、善悪を見極める為の法則に当てはめて出てきた答えを機械的に実行していくべきだと主張し…
それに対してカリクレスが、欲望は人が行動する為の原動力になるし、その欲望を満たすことで、達成感や満足感を得ることが出来て、幸福になれると主張し、意見は対立したままの平行線で終わりました。

ソクラテスは、欲望の赴くままに行動した場合は、判断を誤る場合が多いので、結果として悪い方向へと進んでしまうと言い…
カリクレスは、欲望や、それが満たされた時の満足感というのが生きている証なので、それが無くなってしまえば、人は生きているとは言えない。 道端に転がっている石のように、何の意味もないと主張し…
両者の意見は、相容れる事がないようにも思えます。

しかし、両者の主張の前提となっているものをみると、そもそも、そこから食い違っているように思えます。
というのも、ソクラテスは、その法則に当てはめれば正しい答えが出るような技術が既にあることを前提として話していて、カリクレスは、そんな法則はなく、先の事が分からないことを前提に話しています。
では、ソクラテスの言う通りに、善悪を正しく見極めるような技術が既に存在するのかと言うと、そんな物は存在しません。

存在しないからこそ、ソクラテスギリシャ中の賢者に声をかけて、アレテーへと到達する方法を探しているわけですから。
では何故、ソクラテスは存在しないような技術を前提にした話をしたのかというと、善悪を正しく見極める技術というのは、それ程までに重要な技術で、それを見つけ出すことが出来れば、人の生活や考え方は一変してしまう。
それほどまでに重要なものなんだから、それを見つけ出すための努力をしようと訴えたいのかもしれません。

人は正しい道を進むもの

ではもし、善悪を正しく見極める技術があったと仮定した場合、世間一般の感覚と近いカリクレスは、どの様な人生を歩むのが良いと思うのでしょうか。
例えば、自分の進んでいる道が二手に分かれた場合、カリクレスは、先のことは分からないんだから、今、自分が抱えている欲望に素直になって、後悔のないように、進みたい方向へ進めば良いと言っているわけですが…
確実に右に進んだら成功すると確定していたとしたら、それでも、左に進んでみたいからと左に進むんでしょうか。

左に進むと、一瞬だけ心地よい状態になるけれども、その後で地獄を見る。 一方で、右は一見すると険しいけれども、それを乗り越えると、それまでの苦労が消し飛ぶほどの良い状態が待っていると確実にわかっている状態の場合。
カリクレスは、それでも左の道を選ぶのか。 これを聞かれている皆さんもそうだと思いますが、確実に正解だという道が確定しているのであれば、迷うこと無く、正しい道を選ぶと思います。
人生ではじめての登山をする場合、自分でルートを考えて山登りなんかしませんよね。 標識に沿って登山道を登ると思います。

その道を進むことで、確実に良い状態になれる事が確定していて、それ以外の道を選ぶと損をする事がわかっている状態で、敢えて損をする道を選ぶ人間はいないはずです。
カリクレスが、自分の欲望に素直になれと言っているのは、そういう法則が見つからないことを前提に議論していて、もし、ソクラテスが主張するような善悪を正しく見極めるような技術というものが存在すれば、態度は変わるはずです。
もし、『そんな法則があったとしても、その法則に則って動くのは楽しくないから、そんな法則は知らなくて良い。』とカリクレスが反論したとすれば、カリクレスはただのギャンブラーです。

いや、ギャンブラーでも、自分が勝つために統計をとったり、マネーマネジメントというベットの仕方などのあらゆるテクニックを学ぼうとするわけですから… それ以下の存在と言えます。
先程の登山の例でいえば、登山道の入口で無料で手に入る地図が置かれているのに、『自分で判断しないと、登頂した時の喜びが薄れる。』といって山に入った結果、遭難したとしたら、その人物は馬鹿にされますよね

幸福への最短距離

しかし、カリクレスは優秀とされる人物なので、勝つか負けるか分からない勝負事に人生をかけるような愚かなことはしません。
それは、カリクレスのこれまでの態度を観ていると、良くわかります。

この対話編に登場するカリクレスの態度としては、弁論術を学ぶ事で口先の技術を手に入れたら、その能力を使って権力を持っている人間に近づいて媚びることで、御機嫌を取って気に入られて、自分だけは出世街道に乗れると主張しています。
例え、自分が仕えている権力者が、私利私欲のために不正を犯して、無実の市民の命や財産を奪うような劣った人間であったとしても、その人間の前では地面に頭を擦り付けて御機嫌を取り続ければ、自分も、その様な権力が手に入れられる。
その力さえ手に入れてしまえば、どんな欲望も満たすことができる力を手に入れることが出来るんだから、幸福になれると主張しているのですが…

例え、権力を手に入れたいという目標の為であったとしても、優秀な人間が劣った人間に媚びへつらうのは、苦痛でしか無いと思われます。 その行動で満足感も満たされないでしょうし、楽しいとも思わないでしょう。
にも関わらず、カリクレスがこの方法を推奨しているのは、将来的には『自分が善い』と思っている状態になれると信じ込んでいるからです。
カリクレスが取っている行動は、目先の損得に騙されること無く、善いと思われる目標に向かって最短距離を進むという行動と言えます。

友人を幸福にしたいと思うカリクレス

またカリクレスは、自分が善いと思っている道を、ソクラテスも同じ様に歩むように勧めています。
カリクレスが考える幸福とは、分かりやすく極端に言ってしまえば、自分が快楽を感じられるのであれば、例え他人に迷惑をかけて不幸にしたとしても、自分だけは幸福になれるという考え方です。
つまり、人生の中で自分がどの様に感じるのかが重要で、自分の行動が客観的に見て悪いとか、そういった事は考えずに、今現在やこれから先の未来で、自分に不都合が生じないかとか、快楽を追求し続けることが出来るといった事を優先して考えるので…

この部分だけを観るなら、考え方としては、相対主義的な考え方です。

相対主義的な考え方で言えば、人の幸せは人それぞれなので、他人を支配したいという権力欲を持つ人間もいれば、他人との心のつながりを重要視する人間もいます。
人の価値観はそれぞれ違うので、他人から強制されるものではないはずですし、自分の行動は客観と主観で価値観が変わります。
この理屈でいえば、カリクレスはソクラテスの考える幸福論に賛成はできなくても、反対は出来ないはずです。 何故なら、ソクラテスが考える幸福はソクラテスが定義すべきだからで、カリクレスが決めることではないからです。

ソクラテスが、『人の幸福は、人生の長さでは測ることが出来ず、質によって判断するしか無い。 では、質の良い人生とは何かというと、人々を良い方向へと導く為に尽力する事だ。』と主張して…
この人生をまっとうするためなら、不正を受けて殺されたとしても本望だと考えているのであれば、その考えは尊重すべきなのが、相対主義者です。
しかしカリクレスは、ソクラテスの考える幸福論に反対し、『何も悪いことせずに正しいことをしていても、不正を受けて悪者に殺されてしまえば、不幸になるじゃないか。』と一生懸命説得しようとします。

人は『善い方向』へと誘導したくなる

つまりカリクレスは、自分が考える『良い人生』をソクラテスにも歩ませたいと思い、他人であるソクラテスを必死に説得しているんです。
この行動は、ソクラテスと同じ絶対主義的な考え方が混じっています。

これまでのカリクレスの行動をまとめると、目先に転がっているメリットやデメリットには目もくれず、時には苦痛にも耐える覚悟をして、幸福な良い人生という目標を目指して一直線に進んで行く。
そして、自分の知り合いが不幸な道に入り込もうとしている場合は、進もうとしている道が間違っていることを指摘して、他人を自分が考える『善い』道へと誘導する。
現にカリクレスは、社交性を身に着けてコネクションを作っていけば、幸福な人生を歩む事が出来るよと、ソクラテスに対して丁寧にレクチャーしています。

この行動は、『ソクラテスが主張する、人々を良い方向へと導くことこそが幸福につながる道だ。』という言葉通りの行動と言えます。
突き詰めていくと、ソクラテスとカリクレスで決定的に違うのは、先程も言った通り、『善悪を見極める技術』は存在するのかしないのかという部分になります。
もし、ソクラテスの主張通りに、『善悪を正しく見極める技術』は、まだ見つかっていないだけで、この世の法則として存在するのであれば、この世で一番重要なのは、その法則を見つけ出すことになります。

仮に、その様な技術が見つかったとしたら、ソクラテスの主張に反対し続けているカリクレスも、ソクラテスと同じ行動を取ることでしょう。 何故なら、カリクレス自身も、最終目的地を幸福に据えているんですから。

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第86回【ゴルギアス】まとめ② 後編

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人生の歩み方

そのカリクレスが行っている基本的な主張としては、欲望が無い人生には意味があるのかという事です。
ソクラテスの主張というのは、物事の判断材料を直感や感情に委ねてしまうと、ほぼ確実に判断を誤ってしまうので、そういったあやふやな物に判断を委ねずに、確固たる絶対的な基準に判断を任せるべきだと主張しているわけです。
その絶対的な基準というのは、人間のように揺れ動いているものの中には宿っておらず、人間とは別に法則として存在している。 だから、その法則、この対話篇の中では技術と呼んでいますが、判断は技術的に行うべきだと言っているわけです。

カリクレスは知識や知恵を持つ人物なので、ソクラテスの主張は理屈では分かるけれども、ソクラテスが主張するような人生というのは、人の生きる道である人生と呼ぶのかと疑問を持っているわけです。
というのも、ソクラテスの言う通りの世の中になってしまえば、人間というのは考える必要がなくなります。
価値基準を自分以外の絶対的な法則として持っているわけですから、何か困ったことがあれば、自分で考えずに法則に当てはめれば、自ずと答えが出ることになります。

どんな問題が立ちはだかろうとも、自分で判断すること無く、条件を法則に当てはめた結果、出てきた答えを実行していくだけの存在。
果たしてこれが、人が生きる道なのかということです。
この考えを究極的に発展させていくと、人間には自由意志というものは必要なく、この世を動かすシステムの歯車として無心で回り続けていれば善いことになります。

攻略本を読みながらの人生

そんな人生を歩むぐらいなら、例え間違った道になるとしても、自分自身で考えて行動し、仮に間違っていたら全力で後悔し、正解を選べたとしたら全力で喜ぶ。
それこそが、人としての幸せであり人生なんじゃないかというのが、カリクレスの意見でしょう。

もっと具体的に例を交えて考えてみると、仮に、人工知能の研究が更に進んで、常にAIが絶対的な正解を教えてくれるような未来が来たとします。
ソクラテスの主張をそのまま鵜呑みにするのなら、未完成で無知な人間が、無い知恵を振り絞って必死に考えるよりも、絶対的な正解を出してくれるAIのいう通りに動いた方が良いことになります。
AIの支持に従うというのが想像しにくい方は、親が敷いたレールの上を無心で歩き続ける子供を想像してもらうと、分かりやすいかもしれませんね。

親というのは、絶対に正しいというわけではなく、時には感情に支配されて無茶苦茶なことを言ったりしますが、自分のことしか考えないサイコパスでもない限り、基本的には子供の為を思って様々な事を言います。
『宿題をしろ』だとか『勉強をしろ』とか、『ゲームは1日1時間でやめろ』とか、子供に対してイチイチ小言を言ってきます。
これがエスカレートした親などは、『高校は、この学校に行け』とか、『大学はここに入って好成績を出して、この企業に入れ』といった事まで指定してくるでしょう。

ソクラテスの言い分に従うのであれば、親は客観的な目で子供を観て、良い方向に誘導しようとしているのだから、子供は感情に流されずに、親の言うことに反発せずに素直に聞けと言うことになります。
誤解のないように何度も言いますが、このケースの場合は、親が善悪を見極める技術を身に着けている優れた人間であることが前提です。
親の方がダメ親で、善悪を見極める技術も身に着けておらず、自分のことしか考えないサイコパスで、感情に流されて指示だけだしてくるようなヤツだった場合というのは、当てはまりませんからね。

そうではなく、もし、親が善悪を見極める技術を持っていて、その技術を使って子供を善い方向へと導こうとしている場合、子供は一つも文句を言わずに命令を聞き続けるべきで、そうすることで善い方向へと進んでいけると主張してるわけです。
この理屈というのは、確かに、その通りといえばその通りで、絶対的に正しいとされる意見があるのであれば、自分が考えること無く、それを盲信していれば良いということになります。

幸福とは満足感

一方でカリクレスは、『そんな人生が楽しいといえるのか?』と疑問を投げかけているわけです。
ソクラテスが提唱する人生というのは、言ってしまえば、自分以外のものが敷いたレールの上を脱線せずに進み続けるだけの人生です。
そのレールの最終目的地が『幸福』であるのなら、そのレールを踏み外さない限り、確実に『幸福』な状態にたどり着けることになります。

しかし、そのようにして到達したところは、本当に幸福と呼べるものなのでしょうか。
カリクレスに言わせれば、『自分がそうしたい!』と欲望を抱いて、その欲望を満たす為に行動を起こし、結果として成功した時に達成感や満足感が得られて幸福を感じるのであって、それこそが人生だと主張しているように思えます。
判断の基準を自分の外側に置いて自分の感情を一切無視する生活は、道端に転がっている小石と何ら変わらない人生であって、そんなものには何の意味もないと、何度も繰り返します。

カリクレスのこの主張に関しては、納得される方も多いと思います。
他人を観て羨ましく思ったり、自分に足りないものに気がついた時に、自分に無いものを手に入れたいと思う欲望によって、人間は行動する原動力を得ます。
そして、自分に足りないものを手に入れる為には、どうすれば良いのか、どの行動が効率が良いのかを試行錯誤して手に入れる行為が、まるでゲームのように楽しく、結果として手に入れることに成功した時は、達成感や満足感を得て幸せになれる。

これこそが人生で、この環境の中で成功する事こそが幸福だと主張します。
ソクラテスが言うように、自分の欲望を捨ててシステムの一部になってしまえば、確かに、大きな失敗はしないかもしれないけれども、思いがけないような成功をすることもないでしょう。
ゴールも、それにつながる経路も全て予め決まっているわけですから、予定通りの道を通って予定通りのゴールを迎えます。 決められた道を辿ったという達成感は得るかもしれませんが、それが幸福なのかと問われれば、返答に困ってしまいます。

幸福に自由は必要か

この2つの人生を他のものに例えて考えてみるのなら、ソクラテスが提唱する人生がマラソンを走らされるような人生なのに対し、カリクレスの提唱する人生は、地図の無い無人島を探検するような楽しさがあります。
自分が興味のある方向へ行ってみて、思いもよらない絶景が広がっていたら、それに感動する。 しかしその一方で、間違って危険な道に迷い込んでしまう事もある。
道を自分で切り開いて行かなければならないために、それに伴う困難もありますが、困難を乗り越えた先には、思いもよらない物が手に入れることができる可能性もある。

何が手に入るのかが分からないということは、選択によっては何でも手に入れることができる可能性が広がっているという観方も出来るわけで、この世界は可能性で満ちているようにも感じられます。
一方で、ソクラテスが提示する人生は、ゴールも経路も予め決められているわけですから、予想外のものを発見できる楽しみや、自分の力で到達したという満足感は得られないのかもしれません。

また、カリクレスとソクラテスの対話篇では、2人の討論する際の温度差も書き分けられています。
カリクレスが、人の感情に訴えるような話し方で勧めていくのに対して、ソクラテスは、どこか機械的な話し方をしています。
これは、言わばAIと人間の会話のような構造になっているとも読み取れるので、人間味あふれる言葉で訴えるカリクレスの意見に耳を傾けたくなります。

似通った両者の意見

それだけでなく、ソクラテスの主張は結論だけを聴いたとしても理解しにくい主張です。 おそらく、プラトンは敢えてソクラテスの主張を分かりにくく突拍子もない様に紹介して、読者の注意をひこうとしてると思うのですが…
その解説も、読む人によっては理解しにくい形で書かれているので、カリクレスの意見を支持してしまうという人も結構多いと思います。
ソクラテスの主張を分かりにくく、そして、世間一般の感覚と近いカリクレスの主張を感情に訴える形で分かりやすく描き、プラトンは二人の対話を対立する構造のように演出しているわけですが…

この二人の意見というのは、実際にはそれ程かけ離れているわけではなく、割と近い考え方だったりするんです。
ただ、議論の前提条件が違うために、二人の意見がまるで対立しているように感じてしまうんだと思います。
ただ、このあたりの考察について今回語ると長くなってしまうので、続きはまた、次回に話していこうと思います。

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第86回【ゴルギアス】まとめ② 前編

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前回は、ポロスの幸福論が間違っているとして、ソクラテスが説得を試みるところまで話しました。 今回は、その続きから話していきます。

ポロスの幸福論

ポロスの主張としては、快楽を満たすという満足感こそが幸福の源で、幸福になりたいと思うのであれば、幸福を満たせるだけの力を手に入れるべきだと言います。
その権力が絶対的なもので、仮に不正を犯したとしても、捕まることがないほどの権力を手に入れることができれば最高で、そうなったとしたら、好き放題出来る。
金が欲しいと思えば他人から奪い取れるし、気に入らない人物が現れれば、適当な罪をでっち上げて裁判にかけて、その裁判にも圧力をかけて国外追放や死刑にしてしまえば良い。

欲しいものを自由に手に入れることが出来て、気に入らないものは排除したり叩き潰したり出来る地位こそが、人を幸せにしてくれると信じ込んでいます。
しかしソクラテスに言わせれば、お金を手に入れるのも、それを手に入れることを可能にする権力も、目的ではなく手段に過ぎません。 他人からお金を奪い取るには権力という手段が必要になります。
では、お金は何のために必要なのでしょうか。 お金は、紙や金属に数字が書かれただけのものですが、それを大量に集める事に何の意味があるのでしょうか。

お金自身も手段にしか過ぎず、お金は何かしらの物と交換することによって、その真価を発揮します。 ただ貯め込んでいたとしても、何の意味もありません。
つまり権力を使って手に入れたお金も、何かしらのものを手に入れる為の手段でしか無いということです。
権力もお金も、最終的に欲しいものを手に入れる為の手段でしかありませんが、その手段を目的化してしまうと、本来の目標を見失ってしまいます。 現にポロスは、お金を得ることに熱心で、それを使って何をしたいのかを何一つ言っていません。

独りよがりの幸福

ポロスは、最終的には幸福を手に入れたいと思っていて、その為には不正を行うことも辞さないと主張しますが、幸福とは不正を行って手に入れることが出来るようなものなのでしょうか。
ソクラテスは、逆らえないような権力や武力を背景にして他人の命や財産を奪う行為は、盗賊と同じ行為だと主張しますが、盗賊の人生は幸福な人生なのでしょうか。

しかしポロスは、『他の国には、王様が奴隷と関係を持って生まれた子供なのに、他の王位継承権を持つ人間を不正な手段で全て殺したことによって、王になった者がいる。』と主張して、ソクラテスの意見を頑なに聞き入れません。
奴隷として生まれた子供は、何の不正も犯さずに普通に暮らしていれば、一生を奴隷の子供として蔑まされて生きるはずだったのに、不正を犯したことによって一国の主に成れたんだから、不正行為で幸福は手に入れられるんじゃないのかと主張します。

このポロスの意見に賛同する方は、今の世の中でも少なくない割合でおられると思います、」しかし、この様な形で権力を手に入れた人間は、本当に幸福を手に入れているのでしょうか。
現在の会社組織でも、口先の技術を使って上司に取り入ったり、他人を陥れたりして出世して、権力を手に入れる人間というのは少なからず存在します。
その様な人間は善悪の区別がつかない為に、高い地位を手に入れると、それを利用してパワハラやセクハラを行うということもするでしょう。 だって、そうすることで優越感や満足感を感じますし、それを持って幸福だとしているんですから。

でも、冷静になって考えると、そんな人間が出世できる組織ってのは、当然ですが、優秀な人材が辞めていきますので、組織として持たないですよね。
また、会社内で出世して権力を手に入れて、それを自分の力だと勘違いして威張り散らしている人間は、定年などで会社という枠組みから排除されてしまうと、誰からも見向きされません。
だって、会社内の人達がその人の言うことを聞いていたのは、会社内での権力があったからで、その人自身の力ではなく会社の力に依存していたわけです。 その会社から弾き出されるなり、会社が潰れるなりした場合は、誰も相手にしてくれません。

安心できる生活

何故なら、その人物は不正行為を行って他人を蹴落としたり、口先だけの技術で実力以上の評価をされていた人なので、人間的魅力はゼロです。
人間として何の魅力もない人物に関わろうとする人は、余程の物好きでもない限りは存在しません。 世の中から無視されて、孤独な人生を歩むことになります。
これは、ポロスが例として出した王様も同じです。 王位継承権を持つものを皆殺しにして王座に着いたのであれば、その王様は常に、『自分も他の人間によって暗殺されるかもしれない。』という恐怖と共に生きなければなりません。

もし、この奴隷出身の王様が、独裁者となって好き勝手し放題の人生を歩めば、それによって国民は苦しめられることになるわけですから、あっという間に王政は国民によって打倒されるでしょうし…
仮にクーデターが起こっても、味方してくれる人間はいなくなります。 つまり、無能な王として自分自身も排除されてしまうということです。

王様が殺されないようにする為には、身内の暗殺によって成り上がったことを正当化する必要が出てきます。 つまり、国や国民にとって良い政治を行う必要があり、善い王として振る舞う必要が出てくるわけです。
善い王として振る舞おうと思うと、当然のことですが、ポロスがいうように他人の財産や命を自由に奪うなんてことは出来ません。 そんな事をしてしまえば、暴君として自分自身の命を危険に晒してしまうことになります。
自分のことよりも国民のことを優先し、国民から支持されるような王にならなければならないので、知識や知恵を付ける必要もあるでしょうし、優秀な人間からの信頼も勝ち取らなければなりません。

どちらにしても、ポロスの主張するような『欲望を満たし続ける幸福な生活』は出来そうもありません。
でも、ポロスに限らず、現代でも出世欲にまみれた人間などは、浅はかな考えの為にこの事に気が付かず、自ら、破滅の道を全力疾走していきます。

客観的に観る不正の加害者と被害者

次にソクラテスは、不正を行う者と不正の被害にあう者を比べると、不正を行う者の方が不幸だし、不正がバレる場合とバレない場合を比べるなら、不正がバレ無い方が不幸だと主張します。
この意見に、ポロスはますます混乱していきます。 何故なら、ポロスにとっては不正を行って金銭を手に入れて、それがバレなければ最高だと考えているからです。
簡単にいえば、オレオレ詐欺を行って多額のカネを手に入れて、それが警察にバレ無いのであれば最高で、オレオレ詐欺は金儲けの手段として最高だと言ってるのと同じです。

何度も言いますが、ポロスの意見は基本的には浅はかなんですが、ポロスの意見を理解できるという方は、かなり多いと思います。
ただ、ポロスの意見は突き詰めると危険なので、ここでは、何故ダメなのかというのを説明していきます。

まず、『不正を行う者』と『不正の被害に遭う者』とを比べた場合で不幸なのは、『不正の被害に遭う者』ではなく『不正を行う者』だという点ですが、ポロスが理解できないのは、この関係性を『その瞬間』だけ切り取って観ているからかもしれません。
自分が不正を行うのと、自分が不正の被害に遭うのとでは、被害に遭う事の方が嫌だと思う方も多いと思います。 しかし、もっと引いた目で、この関係性を観てみるとどうでしょうか。

不正を行う者の末路

例えば、アナタが『不正を行う人』と『不正の被害に遭っている人』を観た場合、不正を行っている人と仲良くなりたいと思うかというと、多くの人が、関わり合いになりたくないと思うはずです。
一方で、不正の被害に遭っている人に対しては同情し、助けたいという気持ちが沸き上がってきたりもします。
この二人が、数十年に及ぶ人生を歩んでいくと、不正を行って平然としている人間には、その人間性に惹かれて寄ってくる人はおらず、不正をして手に入れた権力や金に引き寄せられる人しか集まってきません。

一方で不正の被害に遭う人には、自分を救おうしてくれる人達が集まってくることになります。 この両者を比べた場合、どちらが幸せといえるのでしょうか。
不正を平然と行うものは、その対価として手に入れた権力や財産が無くなると同時に、自分の周りから人はいなくなりますが、不正の被害に遭っている人は、そうではありませんよね。何故なら、集まってくる人は助けようとしてくれる善人達なんですから。
不正を行う者に集まってくるのは、不正を悪だと思わないような無知なものや悪人だけで、逆に、不正行為の被害に遭う者の周りに集まってくるのは善人ばかりだとすると…

善人に囲まれて暮らす一生と、悪人に囲まれて暮らす一生とでは、どちらが幸せなんでしょうか。
この事は、この次に登場するカリクレスとの対話でも、引き続き話されます。
このカリクレスとソクラテスの対話ですが、カリクレスの主張は一見するとポロスと同じような事を繰り返しているだけのようにも思えますが、カリクレスの主張のほうが、より突っ込んだ深い内容となっています。

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第85回【ゴルギアス】まとめ① 後編

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善い快楽・悪い快楽

その国で一番の権力さえ手に入れてしまえば、欲しいと思ったものを手に入れることが出来るし、自分が気に入らないものを不正な手段によって国外追放にしたり、更には死刑にすることだって出来てしまう。
そして、その様に自由に振る舞ったとしても、一番の権力者であれば、その事を問題視して咎めてくるものも居ない。
人生の大半を快楽の追求のみに専念することが出来るようになり、充実した人生が送れると思いこんでいます。

ポロスは、この様な人生こそが幸せだと思い込んでいて、幸せになりたいが為にゴルギアスの元で弁論術を学んでいるので、ソクラテスの主張が理解できないというよりも、したくない様子です。
このあたりの議論は、快楽に身を任せる事が悪だという前提で話が進んでいますが、では果たして本当に快楽に身を委ねることは悪なのかというと、必ずしもそうとは言えないけれども… ソクラテスは悪だとしておきたい様子です。

何故そうなのかというと、この問題は『ゴルギアス』の中では議論されてはいませんが、前回取り扱った『プロタゴラス』の中では、少しだけ議論されていて、ソクラテスがその様な態度をとってるからです。
ソクラテスは、プロタゴラスに対して『快いと思う状態や快楽そのものは、悪なのだろうか。』という質問をし…
この質問に対してプロタゴラスは、『国家公共の為になる事を行うことに快楽を感じる人は、快楽に身を委ねたとしても悪には染まらない』と答えています。

善悪の基準

この、国家公共の為になる行為とは、国家や自分が住む地域に貢献するような行動をとって、その行動によって皆から感謝される事に快楽を得るような人間は、その快楽を満たすために行動していれば悪人にはならず、皆から重宝される善人になるって事です。
困っている人を助けて、その際に感謝されることで満足感が満たされる。 その満足感を得たいという欲望から、良い行為を重ねて地域や国家に貢献する人は、善い人と言えます。

その一方で、自分だけが金持ちになりたいという欲望を叶えるために、不正を行って詐欺を働くとか、無尽蔵の食欲に従って、毎日のように暴飲暴食を繰り返すといった行為を行う人間は、良い人間とは言えないでしょう。
不正を行って他人の金を騙し取るような人間は、その行為を繰り返していけば罪悪感も徐々に薄れ、犯罪をすることに慣れていって魂が悪に染まっていくでしょう。
暴飲暴食を繰り返す人間は、他人にはそれ程、迷惑をかけないかもしれませんが、自分自身の肉体はまるまると太って、柔軟性や持久力は失われて劣った肉体へと変わるでしょうし、食べ過ぎによって病気になることもあるでしょう。

他人に迷惑をかけない欲望であっても、自分自身が劣った者になるという意味では、体は悪い方向へと進んでいく為、この様な欲望に身を委ねるという行為は、褒められた行為とは言えないでしょう。
相対主義者であるプロタゴラスは、快楽にも、人を善い方向へと満ちびく快楽もあれば、悪い方向へと誘う快楽もあるので、快楽そのものが善いものか悪いものかという質問には、一概には答えられないとしました。
そして、同じものであったとしても、捉え方によって善にも悪にもなるとして、様々な例を出して説明をしました。

相対主義的価値観

例えば、ある種の植物は毒を持っていて、それを食べると人は死んでしまうような植物や果物があったとします。
その植物は人間にとっては悪い存在ですが、その植物を研究することによって、致死量に届かない程の少量を取ることによって、人をしに至らしめる病気を治す薬になるとわかったとすれば、その植物は人間にとって悪い存在とは言えなくなり…
大量に食べると体に悪いものだけれども、少量だけ取るなら薬になり、人間にとって役立つものとなります。

これは、大抵の食べ物にも当てはまることで、人間は食べ物を食べないと死んでしまいますが、食べ過ぎれば病気になるので、食事は適量を摂ることが重要になります。
この食事を取り上げて、『食事は善いものか悪いものか』と質問をされたとしても、簡単には答えが出せないし、状況によって変わるとしか言えないと主張しました。

この返答を聴いたソクラテスは、プロタゴラスの話が長いと難癖をつけてソクラテスメソッドを提案し、そのルールの元で話し合いをしようと持ちかけ、話をはぐらかしたような感じになりました。
この反応を観て、ソクラテスが逃げたような印象を持つ方も多いと思います。 プロタゴラスの話には一理ありますし、何でもかんでも絶対主義で解決できるというわけでもないでしょうからね。

しかしその後、議論は別のテーマをはさみつつ、最終的には、快楽というのは行動の結果であって、それを目的にしてはならないという話になりました。
人間の進む道は、複数に分岐していて、それらの道には、無数の、そして様々な大きさのメリットやデメリットが転がっている。
幸福な人生を歩むとは、人生が終わる時に、メリットからデメリットを差し引いた際に最大量のメリットが残っている状態が、幸福だということになったんでしたよね。

権力は善いものなのか

その、幸福へと続く正解の道に到達するために必要なのは、快楽を得たいと思う欲望なのか、それとも、メリットとデメリットを正しく見極めるための技術なのかという話になった際に『必要なのは感情に流されずに判断できる技術だ』という事になりました。
つまり、『プロタゴラス』の対話編を読み解く限りでは、快楽は絶対的に悪というわけではないけれども、快楽そのものを目標に置いてしまうと、大抵の人間は道を誤ってしまうという結論に行き着きました。

この話をそのまま、ポロスが求める幸福に当てはめると、ポロスは、欲望を満たすために好き勝手に振る舞い、時には欲望の為に不正を働いたとしても、それを咎められることがないような権力者の地位につくというのが幸福だと思っています。
快楽に善悪があるのかどうかは、プロタゴラスとの対話でも明確な答えは出ませんでしたが、ソフィストであるプロタゴラスは、『国家公共のためになる行動を取る事が快楽につながるなら、善い快楽』としていましたが…
ポロスは、欲望のためなら不正を犯しても良いし、それが咎められることがないのなら、なおのこと良いとまで言ってしまってます。

このポロスの考え方は、完全に欲望に支配されている考え方ですので、ソクラテスが考える『人を幸福に導くのは、人の感情ではなく技術だ』という考え方に反したものとなっています。
そこでソクラテスはわかりやすい形で、ポロスの意見が間違っていることを伝えます。

力の使い方

権力という力でもって他人の資産や命を奪うというのは、自分に逆らえない状態を作って脅すのと同じなので、武力を背景に弱者を脅して金品や命を奪う行為と同じだし、さらにいえば、ナイフをチラつかせてカツアゲしている人間と変わらない。
そしてソクラテスは『ポロス、君は、弁論家の弟子になって弁論術の修行をして、カツアゲをしたいのか?』といった感じの質問します。
ソクラテスに言わせれば、力というのは良い方向に向かう時にだけ使う言葉で、自分が悪い方向へと堕落していく時に使う言葉ではないからです。

様々な便利な道具を手に入れて、それを使いこなす知恵を手に入れたとしても、その使い方を間違って破滅の方向へと進んでいくのであれば、そんな道具は無い方がマシです。
ソクラテスは、快楽やそれを手に入れる為の権力などは、幸福という結果を手に入れる為の手段でしか無く、快楽や権力そのものを目的に据えてしまうと、道を誤ってしまうと主張します。

この辺のやり取りというのは、多くの方が、理屈では分かるけれども、感情的には理解できないと思われる方も多いと思います。
この対話編を書いているプラトンも同じ様に思ったのか、この部分の説明は特に丁寧に行っていて、ポロスという人物を相当なわからず屋に仕立て上げて、ソクラテスを通して何度も説明しています。
ということで、このコンテンツでももう少し、この部分の説明をしていこうと思うのですが、結構な時間になってきましたので、続きは次回にしたいと思います。

【ネタバレ感想】NieR Replicant (ニーアレプリカント)

先日、テレビ番組『勇者ああああ』を観ていたところ、おすすめゲームとして【ニーア・レプリカント】が紹介されていたため、試しに購入してプレイしてみました。
今回は、その感想を書いていきます。


注意として最初に言っておきますが、この感想ブログはネタバレを含みます。
私はネタバレ記事を読むことでプレイしてみたいと思う作品があるため、今回の記事はそういった価値観を持つ人に向けて書いています。
まだ未プレイで、ネタバレを嫌う方は、プレイしてから読まれることをおすすめします。
ネタバレは【ニーア レプリカント】だけでなく、続編の【ニーア オートマタ】にも及ぶため、ご注意ください。

ニーア オートマタとの関連

この作品は、【ニーア オートマタ】の世界が出来上がるきっかけとなる物語です。
ニーアオートマタの世界では、創造主を失った機械生命体とレプリカントが争う世界が描かれています。

地球を侵略するために攻め込んでいる機械生命体側の創造主がエイリアンで、そのエイリアンに対抗するために人間に作り出されたのが、ニーアオートマタの主人公が属しているヨルハ部隊。
機械生命体とオートマタ達はそれぞれの創造主のために戦争をしているわけですが、その戦争があまりに長く続きすぎ、決着が付く前に両者の創造主は絶滅してしまいます。
しかし、相手を殲滅する目的のために作られた両者は、創造主たちが絶滅したからといって争いをやめられない。

ヨルハ部隊側は、自分たちの存在を無意味にしないためにも、人間は存在していると嘘の情報を流し、目標を存続させることでレプリカントたちの士気を保っているという物語でしたが、ニーア レプリカントでは、その人間が絶滅した出来事が描かれています。

あらすじ

物語は最初、廃墟となっている新宿から始まります。
主人公と思われる人物と、病気のヨナという妹がスーパーらしきところに避難しているのですが、そこにマモノと呼ばれるものが大量に湧き出し、生きている2人に襲いかかります。
これを退治すると、何故か時代が1000年以上流れ、若返った主人公と妹のヨナが中世の世界で暮らしています。

そこで主人公は万屋的な事をして生計を立てているのですが、この世界でもマモノが存在し、マモノの勢力は徐々に強くなってしまいます。
そして、今まで安全だった主人公の住む街を襲うまでになり、その際に、マモノの王らしき魔王が現れ、妹のヨナを攫ってしまいます。
妹思いの主人公は、妹を連れ戻すために自身を鍛え、魔王を見つけ出す旅に出るという、妹が姫に変われば王道的なRPG何じゃないかと思えるほどストレートなストーリーです。

この王道ストーリーが、何故、人類の滅亡につながるのか。。
それは、物語を1周しただけではわかりません。
ニーアオートマタの時もそうでしたが、ニーアレプリカントも1周では物語が理解でず、2周することで物語が保管され、全体の話がわかるようになります。

ネタバレ設定

最初の時点で、何故、新宿が廃墟となっているのかというと、ドラッグオンドラグーンという作品のエンディングが関係しているようです。
私は未プレイでyoutubeでエンディングを見たのですが、それによると、ドラッグオンドラグーンの世界での主人公のドラゴンとラスボスが、何らかのゲートを通って現代の東京に現れ、そこでラストバトルを行ったことにより、東京が被害を受けたようです。

www.youtube.com

このエンディングにより、人間の間で体が塩になるという伝染病が流行り、人類は絶滅の危機に陥ります。
この病気は治せず伝染病は広がるばかりなので、人類は生き延びるために事態を先延ばしにする方法を考えて実施します。
それが、ゲシュタルト計画と呼ばれるもので、人間の魂と肉体を分離することで生き延びる計画です。 魂を分離する理由は、伝染病は肉体にしか感染せず、魂までは影響を受けないからです。

しかし魂は、太陽光に当たると死んでしまう程に不安定なもので、長期間魂だけでいると暴走してしまう。
そこで、魂の入れ物としてレプリカントを作り、それを管理するためにオートマタを作ったわけです。
このレプリカント管理用のオートマタがポポルとデポルで、ニーアオートマタにも過去に大罪を犯したモデルとして登場します。

人間の計画としては、レプリカントに世界を正常化させるための仕事をプログラムし、それをオートマタで管理し、世界が正常化した後に魂をレプリカントに入れることで復活するというものだったのですが・・・
人間にも予想外だったのが、レプリカントを人間に寄せて作りすぎたために、レプリカント自体に自我が生まれてしまう。
レプリカントは本来であれば人間の魂を受け入れるはずの器でしか無かったのに、レプリカントが自我を持ってしまったことで、レプリカントは自分の中に入ってくる人間を拒絶するようになり、人間の魂に乗っ取られたレプリカントはマモノ付きとして殺されるようになってしまった。

当然、人間の魂もマモノと認識され、レプリカント達はマモノ狩りと称して人間狩りを行うようになる。

ここで何故、こんな悲劇が起こったのかというと、1つはレプリカントと人間の魂は言葉を通して意思の疎通が出来ない事。もう1つは、レプリカント側が自分たちのことを人間だと思いこんでいること。
レプリカントは自分を人間だと思っているので、自分の体を乗っ取るマモノを悪魔のようなものだと思い、防衛的に攻撃し、好戦的な人間はマモノ狩りを行う。

しかし人間が分からしてみれば、レプリカントは意思を持たない器として作った人造の人形としか思っていないので、道具扱いしかしない。
互いに意思疎通が出来ないため、闘う以外の選択肢がない状態となる。

結果として主人公は、人間の王を殺してしまう。
これにより、人間のゲシュタルト計画は崩壊し、分離した魂をレプリカントに戻すことが出来ずに絶滅の道を辿ってしまうという話。

感想

既にニーアオートマタをプレイしていたせいか、物語で最初に与えられる設定を信じきれず、疑いながらプレイしていた割には楽しめた作品。
1周目で15時間ほどでクリアーでき、2周めは途中から始まるため、フリークエストを無視すれば数時間でクリアーできるため、手軽に遊べて楽しめた印象。
ただ、3周目以降は作業で面倒くさい感じ。その点、ニーアオートマタは3周しても楽しめる工夫がされていて、正当進化していたんだなと

ただ、ニーアオートマタがもっと深いテーマを取り扱っていたように思えるため、少しの足りない印象を受けてしまった。
最初にこちらを楽しんでいたら、もっと違った印象になっていただろうし、ニーアオートマタも別の意味で楽しめたかもしれないと思え、もったいない感じはした。
まだ両作品をプレイしていない方は、こちらからプレイしてみた方が楽しめると思います。

来年ぐらいにリメイク版も出るようですしね。
www.jp.square-enix.com

あと、ニーアオートマタの時もそうでしたが、音楽が素晴らしかった。
操作性という点では他のアクションゲームに比べて良いとは言えないのに、音楽で差別化されていて独特の世界観に浸れる感じは、他のゲームではなかなか味わえない感じ。
最近音楽を購入していないが、サントラが欲しくなってしまった。。

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第85回【ゴルギアス】まとめ 前編 ①

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弁論家とは

第67回~85回までの18回で、プラトンが書いた『ゴルギアス』を読み解いていきました。 かなり長くなってしまったので、今回から、3回ほどに分けて、内容の振り返りを行なっていきます。
ゴルギアスの前に取り扱ったのが『プロタゴラス』でしたが、プロタゴラスの職業がアテレーを他人に教えるソフィストだったのに対し、今回の対話相手となるゴルギアスの職業は弁論家でした。
この対話編は、ゴルギアスに対して職業を聴くというところから始まるのですが、何故、そんな根本的なところから尋ねるのかというと、ギリシャの一般市民にとっては、ソフィストも弁論家も同じ様なものだと捉えられていたからかもしれません。

ソフィストは、アテレーという、それが宿ることで優れた存在になると言われているものを研究し、それを生徒に教えることで生徒を優れた存在にする職業で、弁論家は、それを身につけることで、自分を優れた存在へと演出する技術です。
アテレーの存在をよく分かっていない一般人の目から観れば、相手が本当に優れた人物なのか、それとも、優秀さを演出しているだけなのかは、見破ることが出来ません。
そんな一般人から見れば、ソフィストも弁論家も同じ様にしか観えないので、両者の違いというのを冒頭部分でさぐって明確にしようとしたのかもしれません。

ただ、この対話編に限らず哲学全般にいえることですが、弁論家とソフィストの違いを明確にしようとして深く考えていけばいくほど、両者にさほど違いがないように思えてくるのが、面白さの一つとなっていますよね。
プロタゴラスの例でいえば、プロタゴラスは優れた人間になるためだからといって、生徒が嫌がる分野の勉強をムリヤリさせることはしないと断言していますし、ゴルギアスでいうなら、弁論術に専門知識は一切必要がないと言います。
両者とも、優秀になるための必須の科目はないと断言してるわけですが、最終的には、人生において成功する事を約束しています。

ゴルギアス・ポロス・カリクレス

では、人生において成功する為に必要なことは何なのかというと、結局は『アテレーを宿す事』という事になり、その議論になると、『アテレーとは、教えられるようなものなのか。』という疑問に行き着いてしまいます。
成功するためには、優れた人になる必要があるけれども、何を持って『優れた人』というのかは、分からない。 この部分が、2つの作品に共通している部分だと思います。

ゴルギアス』単体の話に移ると、前回のプロタゴラスが、ほぼプロタゴラスとの1対1の対話だったのに対し、今回のゴルギアスでは3人の登場人物が代わる代わる出てきて、ソクラテスと対話を行います。
一人はタイトルにもなっているゴルギアスで、次に弟子のポロス。 そして最期は、対話の場となる家を提供している政治家のカリクレスです。
なぜ、3人も登場させる必要があったのかというと、弁論術を使う側の3人の意見が違っているからです。

3人に共通している点としては、弁論術を使うことによって、注目を浴びて出世が出来るという点だけのように思えます。
意見の違いとして一番大きいのは、弁論術の教師であるゴルギアスが、弁論術は強力な武器になりうる技術だけれども、それ故に、悪用すれば不正が行えてしまうと主張していますが…
一方でカリクレスは、自分の幸福のためなら、不正を行うのも仕方がないことだと割り切った考え方をしています。

プロタゴラスとの差

冒頭の話に少し戻すと、ソフィストと弁論家の違いを挙げるとするならば、弁論家が用いる弁論術というのは、便利な道具である為に、使う人間次第で善くも悪くもなってしまうといわれています。
一方で、ソフィストが研究するアテレーは、それを宿すことで優れた存在となるものですが、優れているという状態の中には『善』であるという状態も含まれているので、悪と対立するという立場が明確になっています。
この為、ソクラテスは、ソフィストの技術と弁論術は似たような技術では有るけれども、『善』というものに対して真摯に向き合っているソフィストの方がマシだと主張しています。

なので、前回取り扱ったプロタゴラスとの対話篇では、結構な論戦を繰り広げている感じにはなっていますが、ソクラテスにとってプロタゴラスは、尊敬すべき人の1人となっていたりもしますし、事あるごとに名前が出てきます。
とはいっても、この対話篇自体が弟子のプラトンが書いた対話篇という作品なので、何処までがソクラテスの本当の意見で、何処からがプラトンの意見かというのは分からなかったりはするんですが…
少なくともプラトンは、プロタゴラスという人物を尊敬している一方で、彼が支持している相対主義を崩そうと頑張っていることが伝わってきます。

『善い』人間が悪を成すのか

話をゴルギアスに戻すと、ゴルギアスの教える弁論術は、自分の意見を良い優れたものとして演出して説得を生み出すものですが、良い様に演出をしようと思うと、何が良いのかというのを知っていなければなりません。
ものまね芸人が対象となる人物のことを知らなければ『ものまね』が出来ないように、何が良いのかを知らない状態では、演出することが出来ないというわけです。
そこでソクラテスは、弁論術を学ぶ生徒は、既にアテレーを身に着けているのか、それとも、弁論家が教えるのかといった質問をします。

この質問も、選択肢があるようで、実は1択の質問です。 なぜなら、既にアテレーを宿して優れた人間であるのなら、その人物は皆から求められて充実した人生を送っているので、新たに弁論術を学ぶ必要はないからです。
弁論術を学ぼうと門を叩く人間は、今現在の自分に不満を持っているから出世をしたいと思い、その為に弁論術を学びに来るわけですから、新規で入ってくる弟子はアテレーは宿していません。
この質問に対してゴルギアスは、『アテレーを宿していない人間が弁論術を習いに来た場合は、アテレーを教える。』と回答するのですが、これが、先程の自身の発言と矛盾してしまいます

先程の発言とは、『弁論術は強力な武器になりうるので、使い方によっては悪用することも出来る。』という発言です。 アテレーを宿したものは『善』を宿しているわけですから、悪の道に進むことはありません。
にも関わらず、弁論術を悪用するというのは、教師である弁論家が、アテレーを正しく教えることが出来ていないという事になり、ゴルギアスは、教師として未熟だという事実を突きつけられてしまいます

技術と迎合

そこに割って入ったのが、弟子のポロスです。 彼は、尊敬する師匠が負けてしまうのが耐えられなかったのか、ソクラテスを『人の揚げ足を取る卑怯なやつだ!』として、乱入してきます。
そして今度はソクラテスに対して、『アナタが思う弁論術とは何なのか』と質問してきます。
この質問に対してソクラテスは、『弁論術は技術とは言えないようなもので、迎合でしかない。 醜いものだ。』と、更に煽った答えをしてきます。

ここで、技術と迎合という言葉が出てくるわけですが、この言葉の説明をすると、技術というのは扱う対象の研究を行うことで、それに対して熟知していて、対処法が決まっているもののことです。
自分の感情や、その場の雰囲気によって態度や答えが変わるものではなく、自分以外のところに確固たる基準があって、その基準に沿って機械的に行っていくものが技術です。
具体例を出すと、医者が持つ医学の知識や医術などがこれに当たります。 医者は、患者の態度によって対処法を変えようとは思いません。 体を善い方向へと治すという目標に向かって行動するだけです。

一方で迎合には、確固たる基準といったものは存在しません。 その場の雰囲気や、相手の反応を見ながら対応を変化させるものです。
具体例を出すと、料理などがこれに当たります。 料理には、確固たる基準というものが存在せずに、食べる人間の好みによって対応を変化させます。
辛いものが苦手だという人と、好だという人に対する料理の味付けは変わりますし、料理の食材選びや調理方法そのものも、食べる人の好みによって変わってきます。

そして、技術と迎合で決定的に違うのが、技術は『善い』とされているゴールに向かってブレることなく進んでいくのに対して、迎合は、目先の快楽に向かって進んでいくという点です。

快楽を追求する迎合

医術や建築技術のような技術の場合は、『人間を健康な体にする』であるとか、『倒壊しない優れた建物を立てる』といった確固たる目的があって、ブレることはありません。
例えば、建築現場で大工が『こんな多くの柱を立てるのは面倒くさいから、柱の量を減らしてくれ。』と設計士に訴えたとしても、その柱がなければ強度が保てなければ、設計士はその要望を絶対に聞き入れないでしょう。

提案したのが大工ではなく、自分の雇い主であったとしても結果は同じで、強度も満たせない中途半端な建築は出来ないと突っぱねるのが、建築技術を正しく収めたものの取る行動です。
医者も同じで、患者がどれだけ『注射はやめて。』だとか『痛い治療はしない欲しい』と訴えたとしても、それをしなければ直せないのであれば、患者を説得して正しい処置を行うのが医者です。

しかし、迎合に分類される料理は違います。 料理は、基本的には食べる人間の価値観が第一であって、好き嫌いの多い子供に対して親が無理やり食べさせると言った場合を除いて、料理人は食べる人の価値観に合う料理を出そうとします。
稀に、自分の価値観を客に押し付けるような、ガンコ親父がやっている店があったりしますが、その店が成立するのは料理が美味しい場合のみで、不味ければ廃業に追い込まれます。
では、美味しい料理というのは絶対的な価値観としてあるのかといえば、そんなものは無く、その料理を気にっている人がその地域内で多いのか少ないのかといったことしかありません。

この様に、技術が常に善い方向へ目指すのに対して、迎合は快楽しか目指しません。 そして弁論術は、快楽のみを追求する迎合であって、技術ではないと、ソクラテスは言ってるわけです。
そして、自分自身に沸き起こる欲望に忠実に従って生きた場合は、大抵の場合は、人は悪い方向へと進んでしまうと主張します。
現に、ポロスが追い求めているものは、絶対的な権力です。 それも、仮に不正をしても誰にも捕まえられないような権力を欲しています。

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第84回【ゴルギアス】子供の裁判 後編

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
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子供の王国

この例を、裁判という閉じた空間だけに留めずに、もっと広い世界を想定した場合。例えば、子供の裁判ではなく、子供の王国を想定した場合で考えてみると、どうでしょうか。
その王国には子供しか住んでおらず、王様も政治家も警察官も全て無知な子供で、アナタだけが知識を持つ大人だという状況を想定して、考えてみましょう。
アナタは、自分の命を生きながらえさせる為だけに、そして、国の中で大きな権限を持ち、自由に欲望を満たせる状態になる為に、無知な子供の王様のご機嫌取りを行うのでしょうか。 それが、人として正しい道なんでしょうか。

子供である王様や国民が、自らの無知ゆえに間違った方向へ進もうとしている事がわかったとしても、子供の王様の機嫌を損なうからと、正しいことを言わずに自分の中で押し殺すべきなんでしょうか。
アナタは自分の知識によって、国がこのまま進んで行くと破滅しか待ってない事が分かっていたとしても、王様に逆らうと自分が殺されてしまう可能性が有るからと、自分の人生の長さだけを気にして、その間違いを放置すべきなんでしょうか。
自分が所属する共同体や、そこに携わる人達がどの様になろうが関心を持たずに、処刑されずに寿命を全うすることや、生きている間にどれだけの快楽が味わえるのかだけに関心を持ち、それのみを優先して生きていくべきなんでしょうか。

それとも、その国に住む自分の大切な人の事を考えて、自分が理不尽な目にあってしまう可能性があったとしても、国や国民の為を思って、国を善い方向へと導くための意見を進言すべきなんでしょうか。
無知な子供からすれば、アナタが主張する『快楽を求める行為を抑制し、時には辛い思いをしなければならない』ような意見は、理解されないですし、大人のアナタは、無知な子供たちによってバカにされたりもするでしょう。
それでも国の為を思って、自分の知識や技術をフル活用して、正しい行いを伝えるべきなんでしょうか。

秩序の維持

ソクラテスはこの疑問に対して、『もし、この国のことを大切に思っているのであれば、そして、そこに住む子供たちを可愛いと思っているのであれば、例え理解されなかったとしても、正論を言うべきだ。』と答えます。
子供たちは無知であるが故に、傷を追った場所を、熱した針で縫い合わせるといった、更に傷口を痛めつけるような行動を、理解することは出来ません。
また、欲望を抑えなければならない理由や、今現在『やりたくない』と思っている行為を『自ら進んでやらなければならない場合もある』ということを、理解することも難しいでしょう。

子供たちは無知であるが故に欲望に対して素直で、欲望に従った行動を取りがちです。 しかし、欲望に流される生き方は、大抵の場合は、人や共同体そのものを悪い方向へと向かわせてしまいます。 
欲望に従って食べ物を大量に食べたいと思えば、食べ物の対価としてのお金が必要になりますが、そのお金を稼ぐために労働はしたくないという欲望に従えば、不正に手を染める必要が出てきます。
不正で手に入れたお金によって大量に食べ物を購入して、好き勝手に食べ続ければ、その体はドンドンと太っていき、成人病や足腰に不具合等が出てくるでしょう。

人々の幸福を本当に願うのあれば、彼らを肉体的にも精神的にも優れた存在にして、社会に秩序をもたらす必要があります。
それを実現する為にも、愚かな者に迎合するのではなく、正しい知識と技術を使って、人々を正しい方向へと導くべきです。 例えその結果、愚かな者から恨みをかって自分が死ぬことになったとしても、そうする事が重要だとソクラテスは主張します。

堕落するなら死んだほうがマシ

この話を聞いたカリクレスは、『仮にその様に行動して、本当に死んでしまったとしても、その人物は立派に生きたことになるんだろうか?』と、ソクラテスに尋ねると、ソクラテスは『その生き方こそが立派な生き方だ。』と即答します。
そして、『この世で最も恐れなければならないことは、悪に続く道だと分かっている道に自ら突き進んでいき、不正を行う事で、それこそが避けなければならない事だ』と念を押します。

仮に、子供の裁判官や国王の説得に失敗した場合、最悪の状態を想定したとしても、自分が死ぬ程度のことしか起こりません。
そして、物の道理が分かっている者は、自分が死ぬという行為をそこまで重要視せずに受け入れます。 自分の死に対して恐怖を抱き、受け入れることが出来ない人間は、生や死について深く考えたことがない人間です。
何故なら、人は絶対に死ぬからです。 人は絶対に死ぬからこそ、人の価値は寿命の長さで決まるのではなく、その質によって決まるのです。 この基準でいうなら、みっともない行動をとって長生きするぐらいなら、死んだほうがマシと言う事になります。

では何故ソクラテスは、この様な主張までして、自分が不正に手を染めることを恐れるのかというと、人の人生は死ぬことで終わらないと考えているからです。
そしてこの事を、神話を引用して説明しだします。

神々の裁き

ソクラテスによると、この世界は元々、神々と人間とが共存していた世界でした。 そして人々は、生きている間に神々によって善悪を裁かれていました。
しかし、生きている人間を裁くというのは、神々の能力を持ってしても至難の業で、適切な判決を下すことは相当に難しかったようです。
それは何故かというと、裁かれるものがこの世に生きていて存在していると、この世で手に入れたあらゆるものを利用して、自分の罪を軽くしようとしてくるからです。

様々な汚い手を使い、不正を行うことで手に入れた金や人脈を駆使し、自分の弁護をしてくれる口が上手い弁論家を雇い、有利な証言をしてくれる人間を金で買うなど、あらゆる手を使って善人を装おうとします。
ギリシャ神話に登場する神は、一神教の神のような絶対者ではないので、人間側が金や権力を駆使して演出をしてくると、その演出に惑わされて判断を鈍らせてしまいます。
この様な状態を快く思わない神々は、人間が生きている状態で裁くのを止めて、人間が死んでから裁くようにしました。

人は死ぬと、生前に持っていた権力や財産や肉体などの全てを現世に残して、魂だけで、あの世に旅立ちます。 この状態であれば、金や権力によって自分を養護してくれる人間を買収することが出来ませんから、公正な判断がしやすいというわけです。
では神々は、何を基準に善悪を見極めるのかというと、魂の痕跡によってです。

魂の痕跡

例えば人間の肉体は、暴飲暴食を重ねていれば肥え太り、何らかの失敗をして怪我をすれば傷になり、その傷が深ければ深いほど、肉体には消えることのない傷跡が残されます。
この様に、人間の肉体というのは、今までどのようにして生きてきたのかという痕跡が刻み込まれていて、肉体を観ただけで、そのものが歩んできた人生をある程度は見通すことが出来ます。

これは魂にも当てはまることで、快楽のみを追求して、それを貪っていた魂は醜く肥え太る。 何らかの原因で精神的なショックを受ければ、それは魂へのダメージとして傷になり、その傷が大きければ傷跡として残ります。
魂は、その人間が生きている間の意思決定や行動に関わるものを全て痕跡として残しているので、魂の形を観ることで、大まかな見当は付けられるということです。
不正行為は、魂を最も醜く歪ませる行為で、不正をし続けることによって、魂は醜い形へと変化していき、その様な魂が裁かれる際は、罪人として裁かれる。

罪人は、現世の刑務所と同じ様に、苦痛によって罪を清められ、罪が浄化された後に開放されるけれども、修復不可能なまでに歪みきった魂は、他のものの見せしめとなる為に、永遠の責め苦を味わうことになってしまう。
ソクラテスは、この話を信じていると言って、そして、『人は他人から良い人と思われるのではなく、実際に良い人にならなければならない。』と主張します。

『人を堕落させる快楽や、その快楽を相手に与えることで支持を取り付ける迎合は良いものとはいえず、もし、弁論術を身に着けたのであれば、それは正しいことに使用しなければならない。
常に『善』に目標を定めることによって、生きている間も、そして死んでからも、人は幸福でい続けることが出来る。
もし、この理屈が理解できるものがいるのであれば、一緒に善を追求する道を進もう。 そして、理解できないものにも、共に道を進めるように尽力しよう』 このようにして、この対話篇は締めくくられます。

ゴルギアスの読み解きは、18回の長い期間に渡ったので、次回は、これをまとめた上で、考察などをしていこうと思います。

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第84回【ゴルギアス】子供の裁判 前編

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今回の内容も、プラトンが書いた対話篇の『ゴルギアス』を、私自身が読み解いた上で、解説する内容となっています。
本を朗読しているわけではなく、重要だと思うテーマの部分に絞って解説していく内容となっているので、対話篇のすべての内容を知りたい方は、本を購入して読まれることをおすすめします。

優れた政治家

前回の話を少し振り返ると、弁論家が行う演説には2種類あり、1つは聞く人に迎合した快楽のみを追求するもので、もう1つが、堕落した人間が聴くと耳が痛いが、その演説を聞くと悪い人間も良い方に矯正される演説でした。
これを政治家が行う演説に当て嵌めた場合、聞き心地の良い快楽のみを追求した演説を行う政治家は、先のことを考えない悪い政治家で、優れた良い政治家とは、国民に対して厳しいことをいうけれども、その演説によって国民を正しい方向へと導く政治家です。
この事を前提とした上で、ソクラテスはカリクレスに対して『今までの歴史上で、優れた政治家と呼べるものを、誰か知っていますか?』と質問した所、ペリクレスをはじめとした数人の人物の名前が挙げられました。

ですがペリクレスは、最終的には国民の手によって公金の使い込みの容疑をかけられて、死刑になりかけている人物です。
もし仮に、ペリクレスの演説が素晴らしく、堕落した悪い人間が聴くと耳が痛いような内容だけれども、聴き続けることで善い人間へと矯正出来るような演説であれば、国民は自分たちを善い存在にしてくれた人間を陥れようとはしないはずです。
しかし実際には、ペリクレスは国民の手によって犯罪の容疑をかけられて裁判にかけられているという事実があります。

この事実から分かることは、仮に本当にペリクレスの演説が優れていて、国民を良い方向へと導いたのであれば、その善い国民から『不正行為を行った』と訴えられて吊るし上げられたペリクレスは、悪人ということになり…
ペリクレス自身は無罪で悪い存在ではなく、国民のほうが間違っているとするならば、カリクレスの演説は国民を良い方向へと導けなかったことを意味しているので、善い政治家ではなかったということになります。
ペリクレスが国民の手によって犯罪者として訴えられたという事実は、どう転んだとしても、ペリクレスが優れた人物ではなかったことを意味します。

善導者の仕事

しかしソクラテスは、ペリクレスは優れた指導者ではなかったが、国の忠実な召使いだったと主張します。
国や国民が求めているものを、将来の悪影響も考えずに提供し続けた結果、それなりの期間、国民からの支持を得る事には成功しましたが…
先のことを考えていない為に国の運営が破綻してしまえば、その反動で政治家自身が責められて追い詰められてしまう。 政治家に対する敵意が暴走して、指導者を犯罪者として訴えるまで発展してしまったという事です。

ですが、仮に無実の罪で訴えられることになったとしても、政治家はそれに対して文句を言う権利はありません。
何故なら、政治家やその代表の指導者は、国や国民を善い方向へと導くと言って、その地位について権力を振りかざしているわけですから、それが上手くいかなかった場合は、政治家自身がその責任を取るべきだというわけです。
これは政治家だけでなく、同じ様に人を善い方向へと導くと言って生徒や金を集めているソフィスト達にもいえることです。 生徒を善い方向へと導くと言って、結果として授業料を踏み倒されても、自業自得というわけです。

目指すべきは善導者か迎合家か

ここまで説明した後に、ソクラテスはカリクレスに『国を良い方向へと導くために尽力すべきなのか、迎合家になるべきなのか』と尋ねた所、カリクレスは迎合家になることを勧めてきます。
何故、カリクレスが迎合家になることを勧めてきたのかというと、これまでの議論の前提は、優秀な人間は対話することによって、人を良い方向へと導けることが前提になっていたからですが…
もしそうでないのなら、他人を良い方向へと導こうとする行為によって、恨みをかってしまう可能性があるからです。

当時の古代ギリシャでも今現在の世界でもそうですが、他人に迷惑をかけている人に注意をして正しいことを教えた場合、その人物は、正しいことを教えてくれた人間に感謝するのかといえば、必ずしもそうとは限りません。
結構多くの人が、逆ギレして突っかかってくるでしょう。 その結果として、余計に騒ぎが大きくなったり、犯罪に巻き込まれるというケースも少なくありません。
世の中の大半の人間は、善いとはどの様な状態のことなのかとか、人生の目的とは何なのかという、人が生きていく上で最も重要なことを考えることもなく、興味すら持っていません。

その様な人達に、どれほど必死になって善い方向へと導こうと頑張ったところで、多くの人たちは迷惑にしか思いませんし、正しい事を言う人間を変人扱いして、ひどい場合には無実の罪で訴えて殺そうとしてきます。
カリクレスはソクラテスの事を優秀な人物だと認めており、何も考えていない劣った民衆に対して世話を焼いた結果、殺されてしまうの可能性があるとするなら、そんな事には耐えられません。
相手のことを思って、正しい道へと導くために尽力した結果、不幸な最期を迎えてしまう可能性があるのなら…
劣った民衆など捨て置いて、自分だけが良い暮らしを出来るように頑張るほうが、面白おかしく楽しい人生を送れるし、ソクラテス自身にとって良い事ではないかとして、迎合家になることを勧めます。

またこの指摘は、ソクラテスが行った『ペリクレスは、民衆に吊るし上げられたから優れた人物ではない。』といったものの反論にもなっています。
アテレーというものが持って生まれた才能のようなもので、他人に言葉を通して伝えることが出来ないものであるのなら、どれほど優れた人であったとしても、演説によって他人を善い方向へと導くことは出来ません。
つまり、カリクレスが優秀だとしたペリクレスも、ソクラテスが主張するような無能な人ではなく、そもそも言葉によって人を善い方向へと導くことが不可能である為に、無知で劣った民衆によって陥れられたとも考えられます。

子供の裁判

ですがソクラテスは、自分だけが快楽を追求するような人生には意味がなく、共同体を良い方向へ導くことこそが善の道で、例え死ぬことになったとしても、その事に尽力することが重要だとして『子供の裁判』の例を挙げて説明します。
子供の裁判とは、自分以外の関係者が全て子供という、子供だけで行われる裁判の事です。 実際にはこの様な裁判はあるわけではありませんが、物事を分かりやすく考えるために、頭の中で作り出した空想上の裁判です。
この裁判は、裁判長も弁護士も陪審員も検事も全て子供が行っており、その中で無実の罪で捕まった自分だけが大人だという設定です。

大人であるアナタは医学を学んだ医者という設定とします。貴方は、怪我をした子供が運ばれてきた際に、適切な処理として、傷口をしみる消毒液で消毒して止血し、傷口を縫い合わせる為の針を消毒の為に火で炙って、それを使って傷口を縫い合わせました。
他にも、足に壊死している部分があったので、子供の命を最優先に考えて、足を切除する決断をして、処置を行いました。
結果として、怪我をして死にかけていた子供は助かったのですが、その子供は、医者であるアナタを犯罪者として訴えました。

訴えた子供の言い分としては、『怪我をして痛い思いをしている僕は、医者に対して、痛いのを何とかして欲しいと一生懸命お願いしたのに、あの医者は、痛い傷口が更に痛くなるような薬をかけてきました。
そして、火で炙った熱い針を突き刺して、裁縫遊びのようなことをし始めました。
また、僕は陸上クラブに入っていて、次の試合を楽しみにしていたのに、あの医者は、大切な僕の足を切って、二度と走れない状態にしてしまいました。

あの人は、人が苦しんでいる時に、医者だと名乗って助けてくれるような口ぶりで近づき、実際には助けようともせず、更に痛ぶるような人間です。
あんなサイコパスが、善人のふりをして平然と街を歩ける状態は、非常に危険な状態と言えます。 みなさんも、いつ、僕のような被害にあうかもわかりません。
僕のような被害者が二度と現れないためにも、あんな人間は殺してしまうべきではないでしょうか。』 …といった感じで、子供の陪審員と裁判長に対して訴えかけます。

優先すべきは正義か寿命か

訴えられている自分以外、この裁判に関わっている人間の全ては子供なので、当然のことながら、医術の心得や高度な知識は持ち合わせていません。
壊死した足を、何故、切り離す必要があったのかや、傷口を何故、縫い合わせなければならなかったのか。 そして、傷を縫い合わせる針を、何故、火で炙らなければならなかったのかといった知識は持っていません。
被害者である少年は、無知であるが故に、医者が行った処置が正しいことを理解できないので、自分は理不尽な扱いを受けたと思いこんでいます。

そして被害者とされる少年は、自分がどれだけ理不尽な目にあってしまったのか、そして、怖い思いや痛い思いをし、足を切断されたことで生きる希望まで失ってしまた事を、裁判に関わっている人たちに向けて訴えます。
何度も言っています様に、裁判に関わっている人間は、加害者として訴えられているアナタ以外の全員が、正しい知識を持たない無知な子供です。
裁判官や陪審員や検察、下手をしたら、大人であるアナタを弁護する立場の弁護士ですら、被害を受けたという被害者の子供の涙ながらの主張に心を打たれて、大人であるアナタの取った行動を非難し、サイコパス扱いするかもしれません。

この様な状態を想像してもらった際に、加害者とされているアナタは、どの様な行動を取るのが良いのでしょうか。
サイコパスだと罵られようが、自分がとった行動の正当性を訴えて、何故、けが人に対してあの様な処置が必要だったのかを丁寧に説明すべきなんでしょうか。
それとも、自分が助かりたい一心で、被害者とされている少年に土下座して『自分が悪かった! もう二度と、こんな真似はしないから、どうか許して欲しい。』と許しを懇願すべきなんでしょうか。

そして、運良く執行猶予が付いて、再び医者の仕事に戻れた際には、二度と訴えられないように、無知な子供には理解が出来ないような苦痛をともうなう治療は一切せずに、痛みを取り去るだとか、快楽を与えるだけの治療に専念すべきなんでしょうか。
患者が薬が苦いといえば、苦い薬は出さずに砂糖を薬だと偽って偽薬を出し、プラシーボ効果で病気が治ることを祈り、体の一部が壊死した患者が運び込まれてきても、切断せずに麻酔で痛みだけ取り除いて放置する。
この様な感じで、常に患者の顔色をうかがい、患者が求めていることだけを行うような、そんな処置をし続けることが、医者として正しい行為なのでしょうか。

それとも、例え殺されることになったとしても、無知な子どもたちに対して自分の知識や技術の正しさを主張して、子供たちが辛かったという治療は、子供たちを良くする為に行った必要な行為だということを説明し続けるべきなんでしょうか。

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第83回【ゴルギアス】人は迎合家を目指すべきか 後編

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目指すべきは善導者か召使いか

ソクラテスはここまで説明した後に、カリクレスに対して、『私が本当にこの国の事を考える場合、国を良い方向に導くために尽力すべきなのか、それとも、国の召使いになるべきなのか、どちらが良いだろうか?』と尋ねます。
ここまで丁寧な説明をしたわけですから、答えは自ずとわかりますよね。 国の召使いになって、国民の意見に迎合して快楽のみを追求するような政治を行えば、いずれは国は破綻して、その責任を取らされることになってしまいます。
それを避けて、国が末永く発展することを望むのであれば、例え、国民が耳が痛いといって耳を塞いでしまう様な事であっても、根気強く言い続けて、国民を優れた善い存在にする必要が出てきます。

しかしカリクレスは、この質問に対して『国の召使いになるべきだ』と答えます。
これまでの話の流れからすると、当然のように『国を良い方向へと導くべきだ。』という答えが返ってきそうなのに、それでもカリクレスは、頑なに態度を変えません。
この態度には、さすがのソクラテスも驚きが隠せずに、『私に迎合家になれというのか?』と確認をとりますが、カリクレスは『そうだ。』と肯定します。

これは、カリクレスにこれまでの話を理解する能力がないからでしょうか。それとも、前と同じ様に、自分がこれまで訴えかけてきた主張と整合性を取るために、敢えて、自分でも思っていないような事を主張しているのでしょうか。
答えはどちらも間違っていて、カリクレスがソクラテスに『迎合家になれ』と勧めたのは、ソクラテス自身の為を思っての答えでした。

友達思いのカリクレス

というのも、人間というものは、自分の間違いを指摘される事を極端に嫌います。 みんなが、自分の行動が正しいと思い込んでいる為に、その間違いを指摘すると相手は恥をかかされたと機嫌を損ね、下手をすると喧嘩になったりもします。
これは、古代ギリシャの人達だけがそうだというのではなく、現在の日本に住む私達も理解しやすいことだと思います。 人の間違いを正すという行為は、トラブルの元だったりもしますよね。
この様な環境で、人を良い方向へと導くために、聴く人にとって苦痛になるような演説を行えば、その人は確実に多くの人から恨まれてしまうでしょう。

民衆を正しい道へと導こうと頑張れば頑張るほど、その人は多くの民衆から逆恨みされることになって、最悪の場合は、罪をでっち上げられて、死刑にされてしまう可能性があるからです。
カリクレスは、ソクラテスと意見が合わずに対立し続けているように思われている方も多いかもしれませんが、カリクレスと対話を始めた冒頭の部分でも触れていますが、カリクレスはソクラテスの事を、非常に大切に思っています。
何故なら、ソクラテスはカリクレスが信仰する力や知恵を持っている優秀な人物だからです。

ソクラテスという人間

カリクレスは、散々、力こそが全てで、力が正義だと主張してきました。そして、大人になっても哲学をやっているような人間は、ぶんなぐってやるべきだとも主張していました。
そんなカリクレスが、何故、哲学に没頭しているソクラテスに対して、そこまで好意を持っているのかというと、ソクラテスは、カリクレスが信仰する力を持っている人物だからです。 ここで言う力というのは権力ではなく、単純な個人としての武力です。
ソクラテスは哲学者で、理屈を捏ね繰り回すガリ勉タイプを想像しておられる方も多いかもしれませんが、実際には、3回戦場に赴いて、3回とも生還している戦士です。
しかもその内の1回は負け戦の撤退戦で、敵が本陣を逃さない為に追いかけてくるのを阻止し、本陣が逃げる為の時間稼ぎをする殿の部隊に配属されます。

殿は、本陣が撤退している為に戦力が足りず、その一方で、本陣を追いかける敵は相当な戦力を注ぎ込んでくるわけですから、本陣が逃げるための時間稼ぎの部隊というのは、トカゲの尻尾切りのような存在です。
そこに所属する部隊の兵士は命を失う可能性が高いので、兵士はご飯も喉を通らない程に追い込まれるのですが…
その中でソクラテスだけが、全く恐怖することも怯えることもなく、普段と同じ様にご飯を食べて休息を取り、堂々と敵を迎え撃って生きて返ってきた人物なんです。

それ程の武力と勇気を持ち、尚且、ギリシャでもトップと言われているプロタゴラスや有名な弁論家のゴルギアスと、議論で対等に渡りあえる程の知恵を持っているソクラテスを、カリクレスは高く評価していて、大切に思っているんです。
その大切な友人が、自分自身で努力することもない悪い民衆を善い方向へと導こうと頑張った結果、その民衆に逆恨みされて殺されてしまうのが耐えられないんです。
それなら、自分自身で良い方向を目指そうと思ってすらいない民衆のことなんて捨て置いて、自分自身の幸福を追求したほうが善いのではないかという思いから、迎合家になる事を勧めるんです。

徳は教える事が出来るのか

既に気づかれている方も多いと思うのですが、対話篇のこの部分のやり取りで面白いのが、仮に指導者が国民の為を思って、国や国民を良い方向へと導くために尽力したとしても、国民は逆恨みして指導者を殺そうとする点です。
ソクラテスの先程の考察では、ペリクレスは最終的には国民に吊るし上げられたから、指導者としては優れていないという話でしたが、このやり取りでは、仮に指導者が優れた人物であっても、悪い国民によって殺される可能性が指摘されています。
つまりカリクレスは、ソクラテスの事を心配して指摘しているだけではなく、ソクラテスの考察に対しても反論しているわけです。

そして、この反論に対する有効な反論を、ソクラテスは持ち合わせていません。

というのも、この話は、前にプロタゴラスとの間で議論になった、『アテレーとは教えることが出来るのか』という問題が関係していて、その答えが出ない限りは、答えようがないからです。
仮に、アテレーと言うものが他人に教えることが出来るものであるのなら、善い優れた指導者が全国民に対してアテレーを教えれば、国民は善い優れた存在に成れるでしょう。
優れた存在へと変わった国民は善悪の区別がつくため、自分たちを良い存在ヘと導いてくれた指導者に感謝し、吊るし上げられることはありません。

ですが、もし、アテレーが教えることが出来ないようなものであるのなら、指導者がどれほど頑張ったとしても、国民は指導者が何をしたいのかが理解できず、国民を優れた存在へと導くことは出来ません。
国民が良い存在へとなることがなく、悪いままであるのなら、国民にとって耳の痛いことしか言わない指導者は、国民からすれば邪魔な存在だと思われてしまい、最終的には罪をでっち上げられて吊るし上げられる可能性も否定できません。

ということは、カリクレスとソクラテスの議論の争点というのは、アテレーが他人に教えられる可能性があるものなのか、それとも、アテレーは教えることが出来ないものなのかという事になります。

相容れない両者

カリクレスは、アテレーは他人に教えることは出来ないと思い込んでいるので、他人を正しい方向へと導くことは不可能だし、そんな事に尽力しても逆恨みされてしまうだけだと主張しているわけです。
逆恨みされた結果、優秀なソクラテスが馬鹿な国民によって殺されてしまうなんて事になってしまうのは、それこそバカらしいことなので、彼らのことは放っておいて、自分の幸福を追求したほうが良いと、ソクラテスを説得しようとしているわけです。

しかしソクラテスは、人が生まれてきた目的は長生きすることではなく、大切なのはどの様に生きたかなので、『何歳まで生きることが出来るのか。』なんて事に興味を持ってはいません。
また、大した人間でもないのに、生まれが良いだけでそれなりの地位に就いている人間に頭を下げてまで、快楽を手に入れる行為を幸せだとも思っていません。
ソクラテスにとって関心があるのは、人間が作り上げた社会を守るために必要な秩序をもたらすことで、それにはどの様な行動が必要なのかという点のみです。

それを追い求めた結果、自分が死ぬことになったとしても、自分の人生は社会が善い方向へと向かう為に使われたのだから、それはそれで良い人生だと思っていますし、それこそが人の幸福だと思っています。
この様に、ソクラテスとカリクレスが考えている、幸せや人生の目的といった前提が違っているので、両者の意見は平行線をたどるのですが…
ソクラテスは説得を諦めずに、カリクレスに自分の考えを理解してもらう為に、『子供の裁判』という例え話を使って、説明しようとします。 …が、その話はまた次回にしていこうと思います。

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第83回【ゴルギアス】人は迎合家を目指すべきか 前編

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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前回はこちら
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目次

今回の内容も、プラトンが書いた対話篇の『ゴルギアス』を、私自身が読み解いた上で、解説する内容となっています。
本を朗読しているわけではなく、重要だと思うテーマの部分に絞って解説していく内容となっているので、対話篇のすべての内容を知りたい方は、本を購入して読まれることをおすすめします。

前回までの簡単な振り返り

前回の内容を簡単に振り返ると、ソクラテスは、不正の被害にあうものよりも、不正を行う者のほうが不幸で哀れだと主張をしますが、それがカリクレスは理解が出来ません。
その理屈では、『いじめられっ子』よりも『いじめっ子』の方が不幸で可愛そうだという事になってしまいますが、普通に考えれば、どう考えても、理不尽なイジメの被害にあっている人間の方が不幸に思えてしまいます。
このカリクレスの考え方は、世間一般と近い感覚だと思われますが、ソクラテスは、順序立てて考えれば理解ができるとして、『善悪とは何なのか』『優れているとはどの様なことなのか』を、もう一度、一から考えていきます。

その為に、カリクレスが優秀な人物だと主張したペリクレスについて考えていきました。
カリクレスは、ペリクレスは国や国民を良い方向へと導き、アテナイを優れた良い国にした素晴らしい指導者だと主張しますが、彼は本当に優れた人物だったのでしょうか。
そして彼は本当に、国や国民を良い方向へと導いたのでしょうか。

ソクラテスが順序立てて考えていった結果、ペリクレスは優れた指導者などではなかったことが分かってしまいました。
では何故、カリクレスはペリクレスのことを優れた指導者だと勘違いしてしまったのでしょうか。 それは、ペリクレスが国の忠実な召使いだったからです。
国や国民が求めているというだけの理由で、先のことも考えずに、求めているものを与える姿は、指導者というよりも、国という主人の命令に忠実に従う召使いと同じということです。

国の忠実な召使いは良い指導者ではない

では、国や国民が求めているものを与える指導者は優秀ではないのかというと… 優秀ではないんです。
ゴルギアスという対話篇の中でソクラテスがずっと言い続けていることは、人が判断を下す際に必要なのは、確固たる技術であって、迎合ではないということです。
人は感情に任せて決断していくと、判断を誤ることが多々あります。 では、間違った判断を下さずに正しい決断を行うためには何が必要なのかというと、基準です。

その基準に照らし合わせた判断は、国民が望むものばかりではないでしょうが、その国民を納得させた上で国を良い方向へ導くのが、指導者の仕事です。
例えば、国を長期間安定的に運営していくためには、飢饉などの何らかのアクシデントが起こったときの為に、食料やエネルギーの備蓄が必要になってくるでしょう。
そして実際に飢饉が起こった場合は、その備蓄を徐々に放出していくわけですが、国民が望む量をそのまま放出してしまえば、備蓄分だけでは乗り切ることが出来ずに、国民が全滅してしまう可能性もあります。

国民のことを考えるのであれば、国民から不満が出たとしても、先のことも考えて徐々に放出すべきです。

行動を決断する感情以外の基準

この他にも、経済を発展させるためには、公共事業を行って仕事を作ってしまうのが、一番手っ取り早いことです。
ですが、公共事業の原資は国民の税金であるため、何も考えずに工事を大量発注してしまえば、不要な建物の建設費や、それを維持するメンテナンス費用が、国民の負担としてのしかかってきます。
メンテナンス費用や国の借金返済の為に、新規の投資ができなくなれば、公共事業による仕事の供給は止まってしまい、経済は悪化しますが、借金やメンテナンス費用が消えるわけではないので、税金は増える可能性があります。

仕事がなくなって景気が悪くなっているのに、増税をしなければならない可能性を生んでしまう様な、公共事業の乱発による散財は出来る限り止めるべきで、絶対に必要なものや、採算がとれるものだけに絞って行うべきですが…
将来の破滅よりも、今現在の国民の支持が欲しい政治家は、先のことを考えることなく、国民が求めるがままに金を散財します。

これは、ドラッグ中毒の主人を持つ召使いが、主人の言われるがままにドラッグの買い付けに行って、主人が破滅すると分かっていながら麻薬を差し出すのと同じ行為です。
指導者は国民を扇動すべき立場なので、国民が後先考えずに快楽のみを求めたとしても、それを拒否して、正しい道へと導くのが、優れた指導者のはずです。
その役割を放棄して、国民が求めているというだけで、国民に迎合した政治を行う政治家は、国が悪い方向へと進んだ際にはその責任を取らされることになります。

指導者とソフィストの共通点

もし仮に、政治家が国民を良い方向へと導くために尽力し、その結果として、本当に国民が善く優れた国民に変わったとしたら、優れた国民は自分たちをその様に導いてくれた指導者に感謝するはずで、吊るし上げるんなんてことはしません。
しかし、カリクレスが優れた人物だとして挙げたペリクレスは、最終的には国民から吊るし上げられている為、この人物が優れた人物というのには、無理があると考えられます。

そしてこの問題は、同じ様に人を立派な良い人間にすると謳って生徒を集めている、ソフィストにも共通する問題です。
ソフィストは、人を優れた人間にすると言って生徒を集めて、生徒からの授業料で生活している職業の人達ですが、このソフィスト達の悩みのタネの一つが、授業料の踏み倒しらしいんです。
生徒として学びに来た当初は、『ちゃんと授業料を支払うから』と言っていたのにも関わらず、いざ、授業を終えると、授業料を踏み倒して逃げてしまう。

ソフィストにとって、自分が行う授業というのは商品と同じなので、授業料の踏み倒しというのは、商品を盗まれたのと同じと言えます。
しかし、ソクラテスに言わせれば、授業料の踏み倒しでソフィストが文句をいうのは、筋違いじゃないのかと主張します。
つまり、このケースで悪いのは、ソフィストたちであって、授業料を踏み倒した生徒ではないという事です。 何故なら、ソフィスト達の方が、生徒を優秀にするという約束を破っているからです。

『善』を教える教師

もし仮に、ピアノをうまく引けるように導いてあげますよと謳って、生徒を集めて授業を行って、その授業料を支払うことなく逃げるものがいたとすれば、それは、授業料を踏み倒した人間が悪い事になります。
同じ様に、定食屋に入って料理を注文して、料理を平らげた後に、料金を支払わずに逃げたとすれば、それは食い逃げですし犯罪です。

この様に、ピアノ教室や定食屋では、カネを払わない方が悪いですし、その様な行為を行う者は客ではなく犯罪者です。
ここで、先ほどのソフィストの授業ではソフィストの方が悪いと言っていたのに、何故、ピアノ教室や定食屋の場合は客の方が悪いのか?と不思議に思われる方もいらっしゃるかもしれませんが…
結論からいってしまうと、扱っている商品が違うからです。

ピアノ教室が教えているのは、ピアノの演奏方法だけですし、定食屋が提供しているのは、食べ物だけです。
ピアノの演奏方法や食べ物の提供している側は、それらを通して、人を良い方向へ導くだとか、人の精神を鍛え直して、人を優れた存在に生まれ変わらせるなんてことは、一言も言ってないわけです。
しかし、ソフィストは違います。 ソフィストは、自分が行う授業を通して、生徒を良い優れた方向へと導いてあげるといって生徒を集めて、生徒から金をとっている職業です。

その生徒が、ソフィストの授業を受けた結果、授業料を踏み倒して逃げるという、犯罪行為を犯してしまうような人間になったのであれば、授業を行ったソフィストの授業に問題がある事になりますよね。
ソフィストに、本当に人を正しい方向へと導く能力があるのであれば、授業料を踏み倒す目的で授業を受けた人間を改心させて、授業料をきっちりと支払うような人間に変えなければ、ソフィストの宣伝は嘘ということになります。
人を良い方向へと導くと公言して、何の意味もない授業を散々行った結果、授業料を踏み倒されたとしても、それは無意味な授業を行ったソフィストが悪いのであって、授業料を踏み倒した側が悪いのではないという事です。

つまり、国や国民を良い方向へと導くと公言して、実際に国を運営した指導者が、その国民の手によって吊るし上げられたとしたならば、それは指導者が悪いのであって、国民が悪いわけではないということです。

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第82回【ゴルギアス】人が欲するものを与えるのは良い事なのか 後編

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善導者

ペリクレスは、対ペルシャ用に作ったデロス同盟の参加国が積み立てていた軍事費用を横領して、アテナイの為だけにパルテノン神殿を作ります。
また、ペリクレスは妻との間に2人の子供をもうけますが、高い金を払って教育を施したのに、子供の教育に失敗した為、2人の息子はグレて、将軍である親の名前を使って借金をして遊び回るといった事までしています。
そして最終的には、ペリクレス自身が公金使い込みの容疑をかけられて死刑になりかけています。 もう一度言いますが、この様な人間が、歴史に残る立派な人間といえるのでしょうか。

例えば、ペットとして犬を購入したり貰ってきた飼い主が、子犬の間に躾をしてもらおうと施設に入れたとします。
調教師は生まれたばかりの大人しい子犬を預かって、一定期間 調教して飼い主に戻した所、その子犬は飼い主を見るなり、噛み殺す勢いで襲いかかってきたとしましょう。
犬を迎えに行った飼い主は、子犬を調教師に預けて良かったと思うでしょうか。 子犬は、調教師の手によって立派で優秀な犬になったと思うでしょうか。

では、この例の犬と調教師を、ペリクレスと国民に当て嵌めて考えてみましょう。
ペリクレスは、国の指導者として数多くの演説を行って、市民はその演説に耳を傾けています。 前にも言いましたが、善い指導者とは、国民に対して耳障りの善いことだけを言わずに、時には耳の痛いことも言って、国民の精神を善い方へ導く指導者です。
これを、犬と調教師の関係に当てはまれば、ペリクレスが演説によって国民を調教するとも言い変えることができます。

では、ペリクレスの演説を聞き続けた結果、国民はどの様な行動を起こしたのでしょうか。
結果は先ほども言いましたが、ペリクレスに公金の使い込みの容疑をかけて、死刑判決を下そうとします。
つまりペリクレスは、自分自身が国民を良い方向へと導こうと思って演説を行い、それを聞き続けた国民の手によって、殺されかけているわけです。

良い方向へと導けなかった善道者

仮にカリクレスの言う通り、ペリクレスが立派な優れた人であるとするなら、この結果はかなり矛盾していることになります。
もし、ペリクレスの演説を聞き続けた国民の精神が善い方向へと修正されて、国民が立派で優れた国民になったとするならば、立派で優れた国民によって吊るし上げられたペリクレスは、悪人ということになります。

逆に、悪いとされている国民が、ペリクレスの演説を聞き続けても全く態度を変えずに、悪い状態を維持し続けていたとすると、ペリクレスの演説は、国民を良い方向へと導くのに全く役に立っていないことになります。
ペリクレスの演説が人を良い方向に導くためには何の訳にも立ってない、にも関わらず、ペリクレスの演説は国民に人気があり、ペリクレス自身も国民からの支持を一時的に得ていたということは…
ペリクレスの演説は、国民にとって耳障りの良いだけの演説だったということになり、彼の弁論術は国民を良い方向へと導く為の技術ではなく、耳障りが良いという快楽のみを追求した迎合でしか無いことを意味します。

結果を見ると一目瞭然ですが、ペリクレスはカリクレスのいうような、優れた立派な人ではないという事になります。
だからといって、悪人というわけでもないのでしょうけれどもね。
前にもソクラテス自身が考察しましたが、人は、善人か悪人かのどちらかに分けられるようなものではなく、『善い』という概念が宿っている時に善人になり、『悪い』という概念が宿っている時に悪くなるものです。

生きている間中、ずっと良い状態を維持し続ける人間はおらず、大抵の人間は善と悪の間を揺れ動いている存在です。 ペリクレスも、一般人と同じ様に、その様な存在だったというだけでしょう。
そして彼が身に着けていた弁論術は、聞く人を正しい方向へと導いてくれるような技術ではなく、人気を得るために国民に迎合した演説でしかなかったということです。

ペリクレスは国の忠実な召使い

これにより、カリクレスは自分が生きている間に出会った人物だけでなく、過去に遡って偉人とされている人を含めたとしても、優れた政治家を知らないという事になってしまいました。
ただソクラテスがいうには、ペリクレスは優れた政治家ではないけれども、国にとっては善い召使いではあったと言います。
これはどういう事かというと、カリクレスが善い指導者と思い込んでいたのは、国を良い方向へと導いていくような指導者ではなく、国の動向に注意をはらいながら、国が求めているものを与えているだけの召使いだということです。

国の動向を観て、国が求めているものを提供するのは、善いことではないかと思われる方も多いかもしれません。
しかし、国が求めているものが、国が良くなる為に本当に必要なものなのか、それとも不必要なものなのかを考えることなく、国が求めるがままに差し出すことは、善い事だとは言いません。

これまでも散々、言ってきましたが、相手が求めるものを何も考えずに与えるというのは、相手の快楽のみを満たそうとする迎合的な考えです。
国の動向を観ながら、相手が求めるものを何も考えずに差し出すというのは、指導者が主導権を握って国を運営しているというよりも、国の召使いになって仕えている状態とも言えます。

つまりペリクレスは、国や国民を良い方向へと導いたわけではなく、国や国民が求めていそうな事。 そして、実行することで国民に支持されて、人気が得られるような事をやっていたということです。
国や国民が求める快楽を満たしていただけなので、都合が悪くなれば国民からは見放されて非難されますし、彼が導いた国はスパルタに敗北してしまいました。

借金経済

これは、現代の政治などにも当てはめることが出来ます。例えば田中角栄という政治家は、日本列島改造論というのを打ち出して、日本中に高速道路などを張り巡らせて交通と通信をより便利にし、日本全体を活発にしようとしました。
これまでは全てが都市部に集中している状態だったものを、交通の便を良くし、工場などを地方に誘致することで、都市一極集中だった流れを逆流させて、地方を活気づかせようという目的で始められた計画のようでした。
実現する為には莫大な資金が必要ですが、交通網や通信網が整備された暁には、それを上回る利益がでて、それによって税収が増えると試算されて、借金によってそれが実行されることになります。

この計画は、実行された当初は実際に経済効果も大きかったと思われます。
高速道路や通信設備の建築費用だけでもかなりの経済効果があるでしょうから、GDPを押し上げるには十分な効果があったでしょう。
そして、実際に高速道路や通信網が整備された地域では、その道路や通信設備が使われることによって、経済発展したんだと思います。

例えば、都心から高速道路で1時間程度の安い土地に工場を立てて、田舎町の工場から都心に物を運ぶというモデルを作ってしまえば、工場が誘致された地方では労働者が求められますし、土地が安くて仕事があれば、人は移り住んでくる事でしょう。
人が流入してくれば、その人達を相手にする商売も盛り上がってきます。 食料品や生活雑貨の販売や、ストレス発散の為の娯楽施設なども建てられるでしょう。
このような事が日本各地で行われれば、高速道路の建築費以上に経済が盛り上がることになるわけですから、国や国民にとって良い事だと思われます。

政策の選別

ですが、このインフラ整備というのは、無闇矢鱈と行って善いものではありません。
というのも、高速道路や通信網というのは、一度作ってしまえば永久に利益を生み続けるものではなく、老朽化するために、定期的にメンテナンスを行う必要があるからです。
当然ですが、メンテナンスには費用がかかりますが、その補修工事には、経済を爆発的に発展させる効果はありません。

何もないところに道路を作るという行為は、利便性の高い地域を作り出すという事につながる為に、その土地が有効活用されれば、経済発展に大いに貢献します。
しかし、作った道路をメンテナンスするという行為には、経済を発展させる効果はありません。 何なら、一時的に車線や道路そのものを封鎖しなければならないわけですから、経済効果としてはマイナスになる可能性もあります。
ですが、だからといってメンテナンスを行わなければ、大きな事故などにつながってしまうわけですから、しないわけにはいきません。

交通網や通信網は、作った瞬間は爆発的に経済効果を高める資産としての効果がありますが、一度作ってしまえば、後は定期的に発生するメンテナンス費用を支払い続けなければならない負債へと変化します。
もし、政治の目的を、国が良い方向に向かうためと定めているのであれば、都市計画をしっかりと立てて、経済効果が高く、メンテナンス費用を払い続けても採算が合うような道路や橋を選んで作ることが重要となってくるわけです。

召使いが主人を滅ぼす

しかし政治家の目的が、地元に道路を敷いて、自分の名前をもっと広めたいといった売名行為や、建設会社との癒着、または、道路建設予定地の近くの土地を予め購入しておいて、転売して儲けると言った自身の利益を得る為だったりすると、どうでしょうか。
予算やメンテナンス費用を一切考えていない民衆の意見を政策に取り入れて、手段でしか無い道路建設自体を目的に据えてしまっていたりすると、話がおかしな方向へと進んでいきます。
国のことではなく、自分自身の事しか考えていない政治家は、どう考えても採算が取れないインフラを、地元民が欲しがっているからという理由だけで、整備しようとします。

その結果として、インフラ維持に多額の費用が必要になり、国の借金は返済されて減るどころか、増えていくことになります。
これは、ペリクレスが政治を行った古代ギリシャでも同じで、アテナイを敵から守るために街の周りに防壁を張り巡らせたり、文化の象徴としてのパルテノン神殿を建てたりと、国民の支持が得られるようなことをドンドンしていきますが…
結果として、建設費や維持費が足りなくなって、そのツケが国民へと回ってしまい、それに腹を立てた国民によって、指導者が訴えられてしまったということです。

ソクラテスは、ここまで説明した後に、カリクレスに対して『私は、国を良い方向へと導くために頑張るべきなのか、それとも、国の召使いになるべきなのか、どちらが良いのだろうか。』と尋ねます。
この問いに対してカリクレスは、ここまでの話の流れを読まずに『国の召使いになれ』とソクラテスに対して勧めます。
では何故、カリクレスはこの様な事を主張するのでしょうか。 この事については、次回、話していこうと思います。

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今回の内容も、プラトンが書いた対話篇の『ゴルギアス』を、私自身が読み解いた上で、解説する内容となっています。
本を朗読しているわけではなく、重要だと思うテーマの部分に絞って解説していく内容となっているので、対話篇のすべての内容を知りたい方は、本を購入して読まれることをおすすめします。

人生の意味

前回の話を簡単に振り返ると、カリクレスに促されてソクラテスが一人で考えを整理していくと、不正の被害にあうよりも、不正を行う方が不幸だという流れになり、それに対してカリクレスが納得ができないと食いつきました。
カリクレスの考えとしては、不正を行える力を持つ事が不幸なことだとは思えないし、その力を自分の欲望を実現するために自由に振るうことも悪いことだとは思っていません。
また、『いじめられっ子』と『いじめっ子』では、より可哀想で不幸なのは『いじめられっ子』のように思えるのに、ソクラテスの理屈だと『いじめっ子』の方が不幸で哀れだということになってしまい、その部分にどうしても納得がいきません。

これに対してソクラテスは、そう考えてしまうのは、人生の目的が分かっていないだらだと指摘します。
多くの人たちは、出来るだけ長生きして、その人生の中でより多くの快楽を味わうことこそが幸せだと信じ込んでいますが、ソクラテスに言わせれば、そんなものは本当の幸せではありません。
人はいくら頑張ったとしても永遠に生きることは出来ずに、いずれ死んでしまいます。 人生とはいずれ終わるものなので、それが多少長かったとしても、それは幸せではありません。

では、何を持って幸せかどうかを判断するのかといえば、人生の中身です。 人は、人生をどれほど長く行きたかではなく、どの様に良く生きたかによって判断されるべきです。
カリクレス達は、弁論術を使って権力者に取り入ることで欲望を満たして満足感を得ることも、長生きすることも出来ると言いますが、不正を犯すような悪い権力者に頭を下げてご機嫌伺いをする人生が、はたして、良い人生なのでしょうか。
権力者にゴマをすって、自分よりも下だと思い込んでいる人間に横柄な態度を取る人間が、皆が憧れる立派な人間なのでしょうか。

人の価値

人は、技術を身に着けて社会の為に働いてさえいれば、どんな仕事であれ、社会の役に立っていることに変わりはなく、そこに上下関係は存在しません。
例えば医者は、病人やけが人を治療することが出来るために、人の命を救うという意味では分かりやすい職業と言えます。 医者になる為には相当な知識が必要ですし、みんなが成れるというわけではありません。
だからといって、医者が一番偉くて、その他の職業は劣っている。つまり上下関係があるのかといえば、そんな事はないという事です。

少し考えてみればわかりますが、国民の全てが努力をして医者になったとして、その国は繁栄するのかといえば、しません。
国民の全てが医者になってしまえば、誰が生きていくために絶対に必要な食料を作るのでしょうか。 雨風を防げる建物を作るのでしょうか。 外気から体温を守るための服はどうするのでしょうか。
人の命を守っているという点では、技術を使う全ての職業が、それぞれ別々の方法で『人の命の延命』を行っているので、職業間で上下関係はないということです。

善い指導者

では、どの様な形で社会に関わることが、『善い』とされることなのでしょうか。
例えば、カリクレスの様に政治家として良い人生を歩みたいと思う場合、独裁者と同じ様な力を手に入れるために、自分自身の意見を今の政治体制や国のトップの意見に摺り合わせて迎合し、時の権力者に気に入られるように振る舞うべきなのか。
それとも、自分自身が独裁者になる為に、国民の意見に耳を傾けて、国民の意見と自分の意見をシンクロさせるような生き方が良いのでしょうか。

これを聞かれている方の多くは、権力者や指導者ではないと思いますので、自分たちの意見に耳を傾けてくれる人が良いと思われるかもしれません。
しかし、これらはどちらを選んだとしても、良いとは言え無いのではないでしょうか。

自分より上の立場の人間に媚びたり、国民に対して迎合するといった、自分の意見を他人に委ねてしまうような生き方は、良い生き方と言えるのでしょうか。本当に、自分自身や国民を幸福に導くことが出来るのでしょうか。
これまでにも言ってきましたが、ソクラテスに言わせれば、迎合によって幸福に辿り着くことは出来ません。 何故なら迎合とは、良い方向ではなく、快楽のみを追求する行動だからです。

政治家とは

善い政治家として、国民を本当に善い方向へと導こうと思うのであれば、快楽を基準に行動するのではなく、時には国民にとって耳をそむけたくなる様な事であったとしても、あえて主張して実行し、国民を善い方向へと導かなければなりません。
また、政治家という職業につく基準を他の仕事と同じ様に、過去の実績を並べあげて、その仕事にふさわしい人物かどうかを判断すべきです。
例えば現代の社会で高待遇を求めて転職をする場合は、履歴書に過去の実績を書いた上で、自分にはどの程度の力があるのかを面接で訴えて、それらの情報を元に、採用不採用を企業側が判断します。

これと同じ様に政治家も、政治家になる前に、自分の言動によってどれほどの数の人間を善い方向へと導いたのかという実績を掲げて、それを元に、政治家として相応しいのか相応しくないのかを判断すべきです。
ソクラテスは、多くの人を正しい方向へと導いた実績のある人間だけが、政治家として立候補すべきで、何の実績もない人間が立候補すべきではないと主張します。

この意見には、納得できる部分が多いです。
ソクラテスが生きていた時代もそうですし、今現在の日本でもそうですが、政治家の多くは、実績ではなく生まれた家柄によって、その地位を得ています。
有名政治家の子供であれば、親が引退すると同時に、地盤・カバン・看板を受け継いで、実質、その議席を貰えますし、日本のような政党政治の場合は、親の力によって政党でそれなりの地位に付くことも出来るでしょう。
考慮されるのは、何処の家の子供として生まれたかで、実績は特に考慮されません。 政治家の家の子供でない一般人が立候補して当選し、政党の要職に着こうと思ったら、二世議員とは比べ物にならない程の努力が必要になります。

これは、ソクラテスと対話をしているカリクレスにも当てはまることで、カリクレスが政治家としてそれなりの地位に付いているのは、本人が政治家を志す前に国家公共の為になるようなことをしたわけでもなく、人々を正しい方向へと導いたからでもありません。
善い家柄の子供として生まれたからです。 その家柄に生まれたからこそ、地位の高い人達との人脈を生まれながらにして持っていますし、弁論術を学ぶことで、更に上に行けるような環境にいることが出来ているんです。
仮にカリクレスが、市民権も持たない奴隷の子供として生まれていたら、ゴルギアスと知り合いになることもないでしょうし、ソクラテスと対話することもなかったでしょう。 奴隷として主人に買われ、指示された仕事をする事になっていたでしょう。

ペリクレスは本当に優れた指導者なのか

そんなカリクレスはソクラテスから、アナタの知っている中で優れた政治家がいるなら教えて欲しいと質問された際に、ペリクレスの名前を挙げて称賛しました。 では彼には、人を正しい方向へと導いた実績があるのでしょうか。
彼がアテナイの指導者の地位に付く前には、アテナイの国民の精神は非常に悪い状態で、その為に素行も悪く、治安も最悪のもので、国内は犯罪者で溢れかえっているような状態だったけれども…
ペリクレスが指導者になって、悪い国民にとっては耳の痛い様な演説を始めると、国民の精神は徐々に善い方向へと導かれ、健全な精神によって秩序を守る立派な良い人間へと変わっていき、国そのものが善い方向へと向かっていったのでしょうか。

ペリクレスという人物は、将軍職を除く全ての国の役職を抽選制にして、抽選に当たった市民を公務員にして給料を払うことで、抽選に当たった人達が金の心配をせずに公務に専念できる環境を作り上げました。
このシステムにより、ペリクレスは政治が腐敗しにくい状況を作り上げて歴史的にも評価されている人物ですが、一方で、楽な公務員という立場に給料を払ったことで、国民が怠け者になったという批判も受けています。
この様な指摘を受けるペリクレスは、本当に優れた指導者といえるのでしょうか。 カリクレスは、この指摘に対しては『そんな事をいうのは、スパルタの人間だけだ』と突っぱねます。

何故、スパルタの人間がこのような事をいうのかというと、簡単に言うと、仲が悪かったからです。 この当時のギリシャは、アテナイ率いるデロス同盟と、スパルタ率いるペロポネソス同盟に、大きく二分されていました。
デロス同盟は元々は、対ペルシャに備えた同盟ですが、アテナイデロス同盟の覇権を握って、それを足がかりにしてギリシャ全土の覇者になろうとするのを、スパルタ率いるペロポネソス同盟が反発するという形で、最終的には戦争にまで発展するんです。
アテナイ人は、スパルタ人のことを脳筋だとし、スパルタはアテナイ人の事を、頭でっかちの おしゃべり好きとして、互いにバカにしあってたりしたようです。

スパルタとアテナイは、そんな関係にあったので、優れた立派な人物であるペリクレスをバカにするような人間は、スパルタ人ぐらいだし、彼らの意見は参考にならないと言いたかったのでしょう。
では、カリクレスの言う通り、実際にペリクレスは優れた立派な人物だったのでしょうか。 それは、彼の人生を客観的に見てみればわかります。

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第81回【ゴルギアス】幸福という絶対的な価値観 後編

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武器職人の仕事

他の職業に焦点を当てると、武器職人なんて職業もあります。
この時代では、隣国のペルシャが攻め込んできたり、アテナイとスパルタとの間で内戦が起こったりと、争いが絶えない時代でした。
この様な戦争の時代では、質の良い優れた武器や防具というのは、それを装備する者の命を守る上で欠かせないものです。

鋭い武器によって早い段階で相手を再起不能にできれば、それだけ、自分が命を落とすリスクを抑えられるでしょうし、相手が怖気づいて向かってこなくなる可能性も高くなります。
優れた防具を身に着けておけば、相手の攻撃を防いだり、致命傷を受ける可能性も抑えられますから、優れた防具を揃えることは重要なことになります。

ソクラテス達が生きていた昔の時代でもそうですが、現代でも武器や防衛のための技術というのは、私達の生活に大きく関わっています。
その存在自体が良いか悪いかは置いておいて、核兵器の登場によって大国同士の武力衝突は減りましたし、兵器をただ持っているというだけで、外交に大きな影響を与えています。
強い軍事力を持つ国は、そもそも攻め込まれる危険性を減らせるので、私達の命にも関わって来る問題です。

この様な観点から見た場合、武具職人や兵器産業は、それを使用する人たちだけでなく、それを保有する国に属する人の命を守っているとも言い換えることが出きて、その恩恵に預かっている人数は計り知れないものとなります。
ただ、武器や兵器は相手に攻め込む事も可能にするので、命を守っている人数と奪っている人数はどちらが多いのかという話もありますが…
少なくとも侵略戦争をしたがる指導者がこの世にい続ける限りは、防衛のための兵器というのは必要な存在で、それによって守られている人達は相当な数が存在します。

食糧生産という仕事

兵器開発は人の命も奪うため、命を救う職業という主張に納得できない人もいらっしゃるかもしれませんので、他の例も挙げてみると、もっと根本的な、多くの人の命を救う職業として、農業を始めとした食糧生産というものがあります。
人は食料を定期時に取らないと活動できませんし、長期間 食料をとななければ死んでしまいますので、安定的な食糧生産を行う事が多くの人を救うのに役立っているというのは理解しやすいと思います。
これらの職業に携わる人達も、船渡しをしている人達と同じで、自分たちの仕事を必要以上に持ち上げたり、他人に対して恩着せがましい態度をとったりはしません。 決して多くはない金額を、対価として受け取るだけです。

その一方で弁論家は、どうでしょう。いくら優秀だと言われている人であったとしても、生涯のうちに救える人の命は限られています。
弁論家が人の命を救う場面というのは、死刑判決を受ける可能性がある人を弁護して、その罪を軽減させたときだけです。
それも、無能な権力者によって無実の罪をでっち上げられて、死刑判決が下されそうなときだけに限定されます。 死に値するような罪を犯した者の救済は含まれません。

何故、死に値するような罪を犯したものは救済に含まれないのかというと、ソクラテスに言わせるなら、それは罪を償う機会を奪う行為になるからです。
前にも言いましたが、ソクラテスの主張としては、不正を行うことは最も悪いことで、不正に手を染めたものは最大の不幸におちいってしまいます。
その最大の不幸に向かおうとしている、または不幸になっている人間を助ける為に必要なのは、不正を暴いて裁きにかけて、必要であれば刑罰を課す事で、それによって人は、自分自身の中にある悪い要素を浄化できると考えています。

つまり、自分の命を持ってしか償えないような大きな不正や犯罪行為を行ってしまったものは、その裁きを受け入れることが正しいことで、その人自身のために成るという考え方です。
その人間を、嘘をついてまで弁護して、刑を不当なまでに軽くしてしまう行為は、それこそが不正行為に当たるため、その様な行為を行ってしまった弁護士・弁論家は不幸になってしまいます。
このようにして考えていくと、弁論家である弁護士が助けることが出来る命というのは、不正を行うような悪い独裁者が、ワガママによって無実の罪をでっち上げて人を死刑にする場合に限られます。

人を救えない弁論家

では弁論家は、その様な無実の罪で訴えられた可哀相な人達を助け出すことが出来るのかというと、カリクレス達が思い描く弁論家には不可能です。
何故なら、カリクレス達が目指す弁論家とは、権力に屈して、独裁者の意見に話を合わせて機嫌をとることで、彼らのお気に入りになって出世したりだとか、独裁者の名前をチラつかせて自分もワガママを押し通す力を身に付けている者のことです。
そんな彼らが、権力者に逆らって被害者を救うなんてことを行うはずがありませんよね。

となると、カリクレス達が立派で凄いものだという弁論術を身に着けた弁論家には、人を助ける能力がないことになります。 つまり、人にとって何の役にも立っていないとも考えられます。
にも関わらず、実際の弁論家達はどの様な振る舞いをしているのかというと、食糧生産者や武具職人達のことを、農民だとか兵器屋といって、まるで汚いものでも見るかの様に軽蔑して見下していたりします。
誤解のないように言っておきますと、これは、今現在の弁護士の人達がみんな、その様な人だと言っているわけではありません。 古代ギリシャでは、労働は奴隷が行うもので、働く人たちが尊敬されていなかった時代だということも関係しています。

とはいっても、今現在でも、現場で働く人ブルーカラーの人達を見下すホワイトカラーの人達は結構いたりしますので、意識が大きく変わっているとは言えないかもしれませんけれどもね。
話を戻すと、ソクラテスと対話しているカリクレス自身も、生まれた家柄が良かったのと、口先の弁論術によって政治家としてしてそれなりの地位につくことが出来た人物なので、現場で働く職人たちを軽視しています。
ソクラテスは、仮にカリクレスに娘がいたとして、その娘が先ほどの職人たちと恋に落ちて結婚したいと言い出したら、カリクレスは猛烈な勢いで反対するだろう指摘します。

人間の価値

何故、農民や武具職人たちとの結婚に反対するのかというと、カリクレスは自分が着いている政治家という職業が崇高なものだと思い込んでいますし、崇高な職業についている自分や、その家族が立派な人間だと思いこんでいます。
だから、現場で汗水たらして働く彼らとは身分が違うと考えていますし、彼らと自分の娘は立場的に釣り合わないと信じ込んでいるからです。

確かにカリクレスは、世間一般の多くの人が、彼は良い家柄の生まれだと認めるような人物ですが、では、良い家柄って何なんでしょうか。何をもって良いとしているのでしょうか。
家柄というのは人を分類してラベリングしているだけに過ぎないのですが、家柄の様なその人物に貼られているレッテルを1枚ずつ全て剥がしていくと、最期に残るのは、人間本来としての価値となります。
人間そのものが持つ価値を判断するのは難しいですが、客観的に見た際に、その人間の価値をはかるのは、その人間が社会にどれほど貢献しているのかというところに行き着きます。

そして、よくよく考えてみれば、技術を使って仕事を行っている実業家の全てが、何らかの形で人々の命を延命させる事で、社会に貢献しています。

食糧生産者や医者は分かりやすいですが、先ほど上げた武具職人もそうですし、建築家なども含みます。 雨や風を防げる安全な建物は、病気を遠ざけて人の健康を維持させる事ができるので、彼等がいなければ安全な暮らしはできません。
エンターテイメントの分野やスポーツ選手といった、技術ではない迎合に属するものはこれには含みませんが、技術を使うあらゆる職業が人の命を延命させるという点で人の役に立っていますし、人が社会を作るので、社会に貢献しているといえます。
しかし、どれだけ命を延命させたとしても、いずれは限界が来てしまいます。 人はどれだけ努力をしても技術を注ぎ込んでも、永遠には生きられません。

いずれ、絶対に命が尽きてしまうのであれば、人の価値というのは、単純な寿命の長さで判断されるべきではなく、その人生の中で何をしてきたのかという『中身』で判断されるべきです。

人の善し悪しの判断

ソクラテスは、身分が高い家に生まれたとか、他人の安全を保つとか、生きていく上で絶対に必要なものを生産しているといった事は、良い人生かどうかを判断する材料からは切り離して考えないといけないと主張します。
特に、身分が高い良い家柄に生まれるというのは、本人の努力ではどうにも出来ないことで、運でしかありませんし、仮に、その程度のことで人の善悪が決まってしまうのであれば、人は生まれた瞬間から善人か悪人に分けられてしまいます。
生まれた瞬間に悪人に成るといった考え方が暴走してしまうと、その子供が生まれる前に、親や血筋ごと絶やしてしまえば良いという考えになり、いずれは民族浄化といった行動に発展してしまいます。

人の善し悪しに生まれが関係ないのなら、社会に対してどれほどの貢献をしているのかで測るべきというのも間違いです。
人が何かしらの技術でもって社会に貢献しているのであれば、それは回り回って人々の命を守っているのと同じなので、仕事内容に上下関係はありません。
では、人の善悪はどの様に判断されるべきなのでしょうか。 人は、どの様に生きていくべきなのでしょうか。 この話はまた、次回にしていこうと思います。