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ホワイトカラーではないブルーカラーからの視点

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第79回【ゴルギアス】『良い快楽』と『悪い快楽』の見極め 後編

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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『善い』弁論家はいるのか

しかしその場合は、聞き手に寄り添って、聞きやすい事しか言わないような弁論家は技術を持たない迎合家で、技術を持つ弁論家というのは、例え聞き手が苦痛に思って耳をふさぎたいと思うような事であっても、聞き手のためを思っていう。
そして最終的には、聞き手を良い方向へと導いていくような、そんな弁論家なだけを、技術を持つ弁論家と呼ぶ事にすると主張し、カリクレスから同意を得ます。
その後、ソクラテスはカリクレスに対して、『今までに、言葉を聞くだけで人を良い方向に導けるような、技術を持つ弁論家に会った事があるのか』とたずねます。

この問いかけに対してカリクレスは、出会ったことがないと答えます。 当然ですけれども、カリクレスが答えた時には、その隣には弁論術を人に教えて生活をしているゴルギアスも、その弟子であるポロスもいます。
その彼らの目の前で、『人を善い方向へと導く弁論家には出会ったことがない。』とカリクレスが答えたということは、少なくともカリクレスは、ゴルギアスやポロスたちを迎合しているだけの人とみなしていると言えます。
対話が進めば進むほど、弁論術というものは金を払ってでも学んでおくべきものなのかどうかが怪しくなっていきますよね。

さて、カリクレスの答えでは、人々を善い方向へと導く存在はいるけれども、その存在には会ったことがないという事になってしまいましたが、出会ったことがないにも関わらず、核心を持って『いる』と言えるのは不思議な気がします。
そこでソクラテスは質問の範囲をもっと広げて、自分自身が出会っったことがなくてもよいし、自分が生まれる前にいた人でも良いから、名前を知っていたら教えて欲しいと聞くと…
カリクレスは、アテナイギリシャの中でトップの海軍国家にして、ペルシャを撃退したテミストクレスや民主制を導入してパルテノン神殿を作ったペリクレスなどの名前を上げます。

善導者の弁論家?

これは、日本でいうとどの様な人に当たるんでしょうかね。 日本列島改造論を掲げて、日本中に新幹線やら高速道路網を作り上げて行き来をしやすくすると同時に、経済成長をさせた田中角栄とかが、これに当たるのでしょうか。
まぁ、最終的には田中角栄汚職問題で逮捕されるんですが、それをいうなら、ペリクレスも対ペルシャのために複数のポリスで作り上げたデロス同盟の運営費を横領してますので、似たようなものといえるでしょう。

テミストクレスペリクレスといった名前を聞いたソクラテスは、『確かに彼らは、カリクレスが主張するような善の道を歩んでいるんだろう。』と答えます。
カリクレスが主張する善の道とは、膨れ上がる一方の欲望を抑え込む事もなく満たし続け、その結果として、大き過ぎる欲望を持つことになり、それを満たすために動き続ける道のことです。
しかし先ほどの話では、満たそうとする欲望や、それを満たした後に訪れる快楽には善悪があって、その善悪は専門技術がなければ見極めることが出来ないという話でした。

では、先ほど名前が上がったテミストクレスペリクレスは、善悪を見極める専門技術を持っていて、その技術を使って、自分が抱いている欲望が良いものなのか、それとも悪いものなのか、その仕訳を行っているというのでしょうか。
そもそも、善悪を仕分ける専門的な技術とはどのようなものなのでしょうか。 全くの謎のままです。
ソクラテスはその部分について突っ込んで聞きますが、カリクレスは面倒くさくなったのか投げやり気味に、『アナタが頑張って探せば見つかるんじゃない?』と言い放ちます。

善悪を見極める技術

カリクレスは、専門知識がどのようなものかを知らないのか、それとも答えたくないのかは分かりませんが、教えてくれそうにはないので、ソクラテスは順を追って考えていくことにします。
繰り返しになりますが、カリクレスは仕分ける力のことを専門『技術』と呼んでいるため、技術であるのならば、適当に仕分けているわけではなく、目標に向かって一定のルールのもとに仕分けているはずです。
シェフが気まぐれでサラダを作るのと違って、建築家は、その場のフィーリングで建物を立てたりはせずに、建築技術を学んだ上で設計図を作り、その設計図を元に手順に従って家を立てていきます。

完成形という目標も立てずに、素人のスケッチを元にした思いつきで作った建物がすぐに倒壊してしまうように、何の法則性もなく、その場の感覚のみで適当に行うことは技術ではないですし、そんなもので善悪の仕分けができるはずがありません。
これは魂の問題も同じで、どの欲望は抑えるべきで、どの欲望は満たすべきかというのを思いつきで判断したとしても、魂を善い方向へと導くことは出来ないでしょう。
特に自分の欲望を仕分けする場合は、何らかのガイドラインに沿う形で判断していかなければ、欲望に負けて自分を甘やかしてしまう方向に行きがちです。

では、そのガイドラインや法則といったものは、どのようなものになるのでしょうか。
前に人の体は肉体と魂に分けられるとうい話をしましたが、体の場合は、病気などで身体が悪くなったら医者に行き、平常時には能力を向上させるためにトレーニングをすることで、『健康な身体』を手に入れることが可能でした。
身体が良い状態であるとか優れた状態になった際には、先程も言ったように『健康な』といった言葉が身体の前に付いて、健康な体となりますが、では、魂が正しい方向に導かれて優れた状態になった場合は、どの様な言葉が頭につくのでしょうか。

善とは秩序に則った意思決定

ソクラテスによると、『法にかなった』という言葉が頭に付き、『法にかなった魂』こそが、優れた良い魂と呼ぶようです。 では、法にかなったとはどの様な意味なのでしょうか。
これは、簡単に言えば、何らかの決断を行う際には、感情によって物事を決断するのではなく、自分の感情以外の部分に判断基準を持っていて、それに従って決定すべきだということです。

多くの人が行動する際の基準としているのが、感情だと思います。 しかし、感情によって行うべき行動を決めてしまうと、間違ってしまうことが多いです。
その為、自分の感情以外の部分に判断基準を置いて、自分が何らかの決断をしなければならない時には、その基準に照らし合わせて行動を取るべきだということです。
ただ、この主張はいうのは簡単なのですが、感情を持つ人間には、なかなか受け入れがたいことです。 少し分かりにくいと思うので、いくつか例を出して説明していきます。

例えば、大きな決断として、人に裁きを下すという決断があります。 人の行動を有罪か無罪かで分ける、このシステムのことを『裁判』と言いますが、この裁判で、裁判官の下す決断が、感情や気まぐれによって行われるのは、困りますよね。
裁判官個人や、傍聴人の気持ちといった、感情以外の部分に判断基準がなければ、裁判というシステムは成り立ちませんし、何らかの理由で自分が裁判にかけられた際にも、困ってしまいます。
その為、裁判では、個人の感情以外の『法律』といった部分に判断基準を置いて、法の下で裁きを下します。

秩序と混沌

その他の例でいうと、アトラスというメーカーから出ているゲームのシリーズに、『女神転生』というものがあります。
このゲームは、ドラクエのようなRPGというジャンルのゲームなのですが、主人公たちが選んだ選択肢によって、自分たちの属性が変化します。
属性は、『LAW』『NEWTRAL』『CHAOS』の3つで、『LAW』はロースクールの『LAW』なので秩序を表し、この属性は『天使』や神が力を貸してくれます。
『CHAOS』は全てが乱雑な混沌を表し、悪魔が味方に。そして、その中間に位置するのが『NEWTRAL』になります。

ゲームを勧めていく中で、主人公たちは様々な選択に迫られますが、その選択した答えによって、属性が変わっていきます。
例えば『植物状態の、絶対に目を覚まさない最愛の人がいたらどうするのか。』といった感じの質問が投げかけられて…
答えは2通りで『自分の人生を犠牲にして、世話をし続ける』というのと『自然のままの最期を迎えさせる』というものです。

法に照らして考えるのであれば、寝たきりの人間を放置して死に追いやってしまうことは犯罪なので、世話をし続ける選択を選ぶと『秩序』を選択したことになります。
しかし、寝たきりの恋人の身になってみれば、どうでしょうか。 自分は絶対に目を覚まさないことが確定しているのであれば、恋人には、目覚めることのない自分の体の世話で一生を潰すよりも、自由に人生を楽しんで欲しいと思うのではないでしょうか。
その様に想像を働かせて、恋人を自然のまま死なせてしまうと、属性としては『CHAOS』『混沌』となります。

幸福と自由意志

先程も言いましたが、このゲームでは、秩序を選ぶと神様が、そして混沌を選ぶと悪魔が味方してくれますが… この関係性というのは、キリスト教の聖書でからも読み解くことが出来ますよね。
神は最初、自分たちが作り出したシステムの中に人間を置き、その楽園の中、で何不自由のない生活をさせました。
しかし、悪魔が化けた蛇によってそそのかされた人間は、知恵の実を食べてしまい、自分自身の頭で考えて行動をする自由意志を手に入れてしまいました。

この事に激怒した神は、人間を楽園から追放し、それによって人間は苦労するというのが、キリスト教の創世記で語られていますが…
ソクラテスの主張している事は、極端に言えば、自由意志を放棄して、神が定めたであろう秩序を探し出し、その法則を判断基準として無条件で従って行けと言っているようなものです。

そうする事で、秩序の象徴である神が作った楽園の中で暮らしていくことが出来て、幸福と成れると言っているわけですが…
それに対するカリクレスは、『自由意志を放棄して、無条件に秩序に従うような人生が、人間の人生と言えるのか?』と反発しているわけです。
カリクレスとソクラテスは、理想とする方向性が全く違うため、カリクレスは説得を諦めたのか、ソクラテス一人で考えてくれと投げやりな態度を取り、ソクラテス不本意ながら、一人で考えることになるのですが、この話はまた次回にしていこうと思います。

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第79回【ゴルギアス】『良い快楽』と『悪い快楽』の見極め 前編

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今回の内容も、プラトンが書いた対話篇の『ゴルギアス』を、私自身が読み解いた上で、解説する内容となっています。
本を朗読しているわけではなく、重要だと思うテーマの部分に絞って解説していく内容となっているので、対話篇のすべての内容を知りたい方は、本を購入して読まれることをおすすめします。

欲望と幸福の関係

前回の話を振り返ると、ソクラテスは率直さを失ったカリクレスに対して、別の質問をぶつけることで考えを深めていこうとしました。
まず、概念には真逆のものが存在することを確認し合い、その後、欲望と幸せの関係性について質問し、一緒に考えることにしました。

カリクレスの今までの主張では、欲望に支配されている状態があり、その状態を何らかのアクションを起こすことによって解消することで、満足感が得られて、幸福になれるとのことでした。
最初に確認しあった、概念には反対ものが有るというのを、この主張に当てはめてみると、欲望が満たされることで解消すると幸福になれるので、欲望と満足感は逆の概念であるとも考えられます。
また、満足感がえられて幸福になれるということは、幸福と満足感は同じようなものと考えられるので、満足感の逆が欲望であるなら、欲望は不幸とも言い変えることができてしまいます。

では、実際にそうなのかどうかを考えていくと、欲望と満足感は真逆の性質を持つものではないという事がわかりました。
何故なら、冷たいコーヒーが同時に熱いコーヒーになれないように、真逆の概念は同時に宿ることは出来ませんが、欲望を満たす心地よい状態と欲望は一つの行動に同時に宿っているからです。
水は、喉が渇いている時に飲むと心地よいですが、すでに水で満たされている時に飲んでも美味しいとは思わないように、心地よいと思う状態になるには、欲望という存在が必要不可欠です。

この考察によって、欲望と、それを満たしているときに感じられる快楽や、その後の満足感の関係というのは、カリクレスが考えている程、単純なものでは無いことが分かってきました。

良い快楽と悪い快楽

この結果を受けたカリクレスは、『快楽の中にも、良い快楽と悪い快楽があって、それを見極めるには専門知識が必要だ』と言い出します。
ソクラテスの質問によって、また、新たな条件が登場してしまいました。 しかしソクラテスにとっては、嘘をつかれて率直さを無くしてしまうよりも、思うことを言ってくれる方が良かったのでしょう。
それに、カリクレスの言いたいことも分かるような気がします。 快楽が得られるからと、完全に依存してしまうほど酒やドラッグにはまり込んでしまうのは、素人が考えても悪そうだということがわかります。

では快楽が全て悪いものなのかと言うとそうでもなく、快楽を目指して行動することで、自分自身が良いと思われる方向に成長できる場合もあるでしょう。
カリクレスによると、それらを分けるのには専門家の技術が必要だということでしたが…
この『技術』という言葉については、前にポロスとの対話の中で既に考えたので、その考え方を応用して、良い快楽と悪い快楽について考えてみることにします。

技術と迎合

その前に、ポロスと行った技術についての話を軽く復習しておくと、人に役立つと思われている技術にも、良いものと悪いものとの2つがあるという話でした。
良いものの事を技術と呼んで、悪いもののことは、自らを偽装することで技術になりすましているだけの迎合と呼びましたね。
両者の違いは、技術にはきっちりとした法則のようなものがあり、目標に対してのアプローチが決まっているもののことで、医者の技術などがこれに当たります。

一方で迎合は、快楽であるとか心地よさを一番に考えます。 技術が良い目標に向かって進むのと対象的に、特に目標を定めることなく、何も考えずに単純に心地よい方向へと流れていくのが迎合です。
迎合は、目標を善い方向へと定めているわけではないので、時には人を悪い方向へと向かわせてしまうものなのですが、迎合の質の悪いところは、技術のフリをして、自分自身も技術であるかのように振る舞うことです。
例えば料理法は、身体に良い食材や料理といった切り口で、さも、体のことを考えているかのような口ぶりで近寄ってきますが、料理法が実際に目指しているのは料理の美味しさです。

料理が美味しくなるのであれば、塩も多少多めに振りますし、相性の悪い食材とも合わせます。 料理が最終的に目指しているのは、食べた時の快楽ですが、実際に私達が見聞きする際には、技術を装って近寄ってきます。
誤解のないように言っておくと、別に美味しい料理が悪いと言っているわけではありません。 食べる側からしてみれば、まずい料理よりも美味しい料理のほうが良いに決まってますからね。
ただ、料理法の目的というのは、人の体を健康に戻すとか優れた状態にすると言ったものではなく、一番の目標は美味しさだということです。 その為、身体を悪い方向へと持っていく可能性も有るということです

快楽の善悪を見極める

この技術と迎合の話を、快楽を振り分ける方法に当てはめてみましょう。
いきなりジャッジが難しいものから考えるよりも、簡単なものから考えるほうが分かりやすいと思うので、エンターテイメントの分野で考えてみます。
このエンターテイメントという分野は、そこに入る全てのものが迎合と考えても良いでしょう。

例えば映画の場合は、マイノリティージェンダー銃社会や医療問題、資本主義の欠点などの社会問題を取り上げたりするような、啓蒙活動のような作品も存在します。
監督でいえば、マイケル・ムーアさんなんかが有名ですよね。 この方の作品には、普段意識せずに生きているとわからないことだけれども、私達の生活に密接に関わっている重要な事がテーマになっていたりします。
見る人によっては、耳に痛い内容になっていることもあるでしょう。 一見すると、この様なメッセージ性の高い映画は、観る人を良い方向へ導くように思えるので、迎合ではないようにも思えます。

しかし、たとえメッセージ性が高い内容であったとしても、映画というジャンルで作品を発表する以上、これは迎合となります。何故なら、映画では、利益が出る程度の興行収入を得られなければ、次はないからです。
観た人が口コミで作品の良さを伝えていって、観客動員数が増えて興行収入を増やしたりだとか、映画評論家やブロガーなどに認められて高評価を受けて、次回作を期待されると言ったことがなければ、映画監督という職業は続けられないでしょう。
映画監督が、今後も自分自身が発信したいメッセージを伝える活動をしていきたいと思う場合、何よりも考えなければならないことは、観客にウケるかどうかです。

いくら、人々を良い方向へ導こうとしたところで、全く観客にウケない映画を作り続ければ、観客動員も見込めないですし、スポンサーもつきません。
自分が活動をしていくためには、何よりも観客にウケるかどうかを考えなければならないので、映画は迎合と考えられます。
映画が迎合であれば、同じ様に脚本を演じる舞台もそうですし、ミュージカルなども同じ迎合と考えても良いでしょう。

技術と迎合の境界線

ミュージカルは、単純に脚本を演じるだけではなく、途中でダンスや音楽が入ってきますが、では音楽は、技術でしょうか、迎合でしょうか。
音楽は、楽譜がありますしテンポも決まっていますし、どのリズムでどの部分の歌詞を歌うのかも決まっています。 しかし、決められたテンポで決められた音符を追っていくだけであれば、機械でも出来てしまいます。初音ミクなんかがそうですよね。
人間が演奏して歌うことに価値をもたせるのであれば、決められた枠の中で個性を出す必要がありますが、この個性の出し方も、客にウケるかどうかが重要になってきます。

歌う際に音や間を外したとしても、それが聞き手によって心地よければ観客に受け入れられますし、ライブの引き合いや音楽の売上にも良い影響を与えるでしょう。
逆に、聞いていることが苦痛な音楽であれば、誰も曲を買うことはないでしょうし、ステージに呼びたいという人も出てこないでしょう。
上手に歌って成功するためには、観客がどの様なものを求めているのかを探りながら提供していく必要があるので、音楽も迎合といえるでしょう。

音楽からテンポとメロディーを取り去って、歌詞だけを残すと、それは詩。ポエムとなります。
詩を作って人々に公開する詩人たちは、人の感情や様々な理論や世の中の出来事を詩に書き綴りますが、この詩人たちが書き綴る詩(ポエム)は、迎合なのでしょうか、技術なのでしょうか。
前に取り扱ったプロタゴラスとの対話篇でも、シモニデスの詩の解釈を巡ってプロタゴラスソクラテスは舌戦を繰り広げましたが、賢者ですらも解釈を巡って討論をする程の難解な詩であっても、迎合と呼ぶのでしょうか。

この詩は、その作品を聞いて感動した人が、口伝えで周りに広めていくので、市民たちの心を動かした作品のみが、より広い地域に長い間、語り継がれることになります。
聞く人の心に残らないような作品は、どれだけ良い事を言っていたとしても世間に広がっていかないので、世間に作品と名前が知れ渡るような詩人になろうと思ったら、多くの人に感動してもらわなければなりません。
となると、どの様な内容の詩を作れば、多くの市民が感動するのかを考えながら作品を作らなければならないので、迎合と言えます。

弁論術は迎合か

詩というのは、エンターテイメントよりな歌に比べると、メッセージ性が強い分野といえますけれども、では、更にメッセージ性を強めた、弁論家による街頭演説は技術なのでしょうか。それとも迎合なのでしょうか。
街頭演説は、日本でも駅前などで行われていますし、選挙前ともなると、いたるところで行われます。 街頭演説は、お金をとって披露するものではありませんし、詩人の作品のように後世に語り継がれるわけでもありませんが…
歌や詩と同じ部分があるとするならば、聞き手が聞いていたいと思うような演説をしなければならないということです。

街頭演説というのは、会場を用意するわけでもなく、交通量が多い道路などでおもむろに演説を始めます。
道路を行き交う人達は、街頭演説を聞くためにやってきたわけではなく、何らかの用事で目的地に行くために道路を通行しているわけですが、その人達の足を止めて演説に耳を傾けてもらおうと思う場合、聞き手が興味を持っている話をしなければなりません。
また、人が道路を通行するタイミングはバラバラなので、どの部分を切り取って聞いたとしても興味を持てるような話題や話し方をしなければなりません。

この様に気を使ってする街頭演説は、技術なのでしょうか。それとも、迎合なのでしょうか。
この質問に対してカリクレスは、『確かに、ソクラテスの指摘する通り、聞き手に関心を持ってもらう為に演説内容を考える人間もいるが、聞き手のためを思って耳の痛いことを話す人間もいる。』と答える。
カリクレスの答えを言い換えると、『人による』といっているのと同じですが…ソクラテスは、このカリクレスの回答を受け入れることにします。

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維持し続ける辛さ

例えば、ボクシングのチャンピョンを目指して頑張っている時は、目標となる人間が存在するので、その人物に勝つイメージを持ちながら練習することで、目標に近づいている実感が得られると思います。
しかし、目標となる人物を倒してしまって、自分がチャンピョンになってしまったとしたら、次は自分が挑戦者から狙われる側になります。
チャンピョンの座を守るためには、これまで以上に必死になって自分自身を鍛え続けなければなりませんが、行われる試合は新たなステージに立つための戦いではなく、防衛戦です。

厳しい鍛錬によって、チャンピョンの座を長年守り続けたとしても、人は時間と共に老化する動物なので、いずれは努力の甲斐もなく、負ける時が来るでしょう。
この時に年老いたチャンピョンは、負けたことを悔しがって、再び挑戦者としてチャンピョンに立ち向かっていくのでしょうか。
それとも、やっと重責から開放されて、普通の人間に戻れると安心するんでしょうか。

チャンピョンの座を維持し続けるというのは、精神的にも肉体的にもかなりの負担がかかります。その状態を、幸福な状態と呼ぶのかというと… 不幸ではないけれども、手放しで幸福だとも言えない状態なのではないでしょうか。
この様な感じで、欲望と幸福の関係は、片方だけで存在できるものではなく、両方が同時に宿らなければ存在できないものなので、反対の性質とは言えません。
目標が達成されて欲望が無くなってしまうと、幸福も遠ざかってしまうものと考えられなくもありません。

勇気について

では次に、勇気について考えていきます。 カリクレスの主張では、政治など知識に加えて勇気を持ち合わせていなければ支配者の資格はないそうなので、カリクレスの考える勇気とはどのようなものかを考えていきます。
例えば、勇気のある者と無い者が同じ戦場に駆り出されたとします。 戦場で戦っていると、こちらの勢力のほうが強く、敵は追い込まれたことによって撤退を決めて逃げていったとします。
この時に、喜ぶのは勇気のない人間でしょうか、それとも、勇気がある人間でしょうか。
ついでに、これと全く逆のケースでも考えてみましょう。 敵とぶつかりあった時に、相手のほうが勢いがあって押されてしまった場合、その状態に恐怖するのは、勇気のある者でしょうか、それとも勇気がない者でしょうか。

おそらくですが、この2つの状態を思い浮かべた際に、相手が撤退して喜ぶのは臆病者の方ですし、相手のほうが強く、負け戦になると思った時により大きな恐怖を抱くのも、臆病者の方でしょう。
勇気がある者の態度は、この臆病者の全く逆というのが、多くの人が考える、臆病者と勇気ある者の行動の差なのではないでしょうか。

まぁ、勇気ある者が臆病者と全く逆とはいっても、勇気あるものでも強敵に攻め込まれると、多少なりとも恐怖は感じるでしょう。
戦場で不利な状況に立たされるというのは、自分が死ぬかもしれないという状態ともいえるわけですから、その状態を楽しんだり幸福だと感じる人間は、相当少ないでしょう。
その為、臆病者と勇気ある者は、共に、敵が撤退している状況を見ると安心して喜ぶでしょうし、敵がものすごい勢いで攻め込んできたら恐怖するとは思いますが、喜びや恐怖の度合いでいうと、臆病者の方が、より喜んで、恐怖するということです。

この状況を、もう少し別の表現でいうのであれば、臆病者の方が、敵が逃げた際にはより大きく喜びますし、強敵が攻め込んできた時には、より大きな恐怖を感じるということで…
逆に勇気があるものは、敵が逃げていく際にはそれ程喜ばずに、強敵が大勢で攻め込んできたときにも、それ程恐怖を感じないということになります。

矛盾するカリクレスの主張

カリクレスは、支配者になるためには勇気が必要だと主張していたので、臆病者と勇気がある者とではどちらが良いのかといえば、勇気ある者の方が良いといっていると思われるんですが…
このカリクレスの主張というのは、今までのカリクレスの主張と矛盾するものですよね。

少し前の話を思い出して欲しいんですが、カリクレスは、大きな欲望を抱いて、欲望を満たすための行動を起こし、それを達成する事によって得られる満足感が幸福に導くと主張していましたよね。
それと同時に、膨れ上がる欲望を抑え込んで、何も欲することなく、それ故に感情の起伏がないような人生は、道端に転がっている石のような人生だとも言っていました。

では、先ほどの勇気についての臆病者と勇気ある者との態度を、これまでのカリクレスの主張に当てはめてみると、どうなるでしょうか。
臆病者というのは、痛い思いをしたくないとか、死にたくないという願望。 これは、無傷で生き残りたいという欲望と言い変えることが出来ると思うのですが、その欲望が非常に強い人たちのことです。
生き残りたいから、敵が逃げていったら大喜びするし、強敵が攻め込んできたら、死にたくないからと恐怖するわけですよね。

臆病者は無傷で生き残りたいという欲望が非常に強いので、それが達成されそうな状況になると、全力で喜びます。

その一方で、勇気ある者はどうなんでしょうか。 勇気ある者は、名誉の為であるとか国の為であるとか、理由はいろいろとあるでしょうけれども、それらの為に自分の命を捨てることを惜しいとは思いません。
つまり、自分が無傷で生き残りたいという欲望を、名誉であるとか国といったものを理由にして抑え込んでいる状態とも言えます。その為、自分が窮地に立たされたとしても、それ程恐怖は感じませんし、敵が逃げていったとしても、それ程は喜んだりしません。
人が生きる死ぬというのは、その人の人生で一番重要なことだとも思えるのですが、それにすら動じない勇気ある者の真理状態というのは、カリクレスに言わせれば、感情の起伏がない、道端に転がっている石の様な人生と言えます。

勇気ある者は節制を身に着けている

先程も言いましたが、カリクレスの元々の主張というのは、欲望を満たすことが幸福に近づく方法なので、欲望を満たす度に膨れ上がる欲望は抑制するのではなく、そのままにしておくべきだという主張でした。
しかし、『勇気も必要だ』と後付したことによって、その主張が矛盾してしまいました。 何故なら、勇気ある者は『生き残りたい』という、人間であれば多くの人が持っている欲望を抑え込んでいる人達だからです。
幸せになるためには、欲望を抑え込まずに満たせるだけの力が必要で、その力は支配者になることによって手に入れることが出来るけれども、支配者になるためには、欲望を抑え込まなければならないというのは、かなり矛盾してますよね。

最初の、欲望は抑え込む必要がなく、欲望を満たし続けることこそが幸福につながる道だという主張だけであれば…
『生き残りたい』という欲望を抑制することなく、敵が逃げたら全力で喜び、攻め込んできたら絶望するという臆病者のほうが、幸せには近い事になります。
では、臆病者の方が優れた生き方なのかというと、そうではありません。 何故ならカリクレスは、勇気も必要だと後から付け加えてしまったからです。

後付されてしまった勇気という存在によって、『生き残りたい』という強い欲望を持っている人間は、支配者としてふさわしくないとされてしまいした。
では、欲望を抑えることをせずに、膨張する欲望を放置し続けるような人間が、『生き残りたい』という強い欲望を抑え込む勇気を宿すことが可能なのでしょうか。

勇気を持つものは幸福になれるのか

カリクレスが、抑制しなくても良いとしている欲望というのは、『生き残りたい』という欲望と比べてしまうと、正直な所、取るに足らないような事ばかりです。
他人を自分の思い通りに動かすことであったり、他人が持っている金が欲しいといった感じの欲望で、世間一般で善人と呼ばれている人達は、端から望まないような低俗な望みです。
その一方で、勇気を持つものが抑制している欲望は『傷つきたくない』であったり『生き残りたい』といった、痛みや自分の死を避けようとする本能的な反応です。

これを欲望と呼ぶ場合、人が持つ中で最も大きな欲望が、『傷つきたくない』とか『死にたくない』といった欲望だと思われますが…
ソクラテスが抱いた疑問は、人前で威張りたいだとか、他人の金が欲しいとか言ってる人が、『死にたくない』という最大級の欲望を抑制できるような精神を持っているのかという疑問です。

この疑問を投げかけられたカリクレスは、再び、新たな別の条件を追加することで、自身の考えを正当化しようとするのですが、その話はまた、次回にしようと思います。

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今回の内容も、プラトンが書いた対話篇の『ゴルギアス』を、私自身が読み解いた上で、解説する内容となっています。
本を朗読しているわけではなく、重要だと思うテーマの部分に絞って解説していく内容となっているので、対話篇のすべての内容を知りたい方は、本を購入して読まれることをおすすめします。

人生に節制は必要か

前回の話を振り返ると、ソクラテスがカリクレスに対して『あなた達が目指す支配者というものは、自分自身も理性の支配下に置いて、欲望を抑制する事が出来るのか』と聞いたところ…
カリクレスは『欲望を満たしていくことこそが幸福に近づく道なので、欲望を抑制するなんて事はバカバカしい行為だ』と一蹴し、欲望も抱かずに、それを満たすために行動も起こさない人生は、一切の感情の起伏がなく意味がないと言います。

それに対してソクラテスが、樽に入った液体の話と、皮膚病にかかった人間の例え話をして、本当に、欲望を満たすためだけに行動するのが幸せにつながる道なのかと尋ねます。
カリクレスは、この例え話、特に皮膚病にかかって肌を掻きむしるほうが良いのか、それとも、皮膚に異常がない状態で、掻きたいとも何とも思わない人生か、どちらが幸せなのかと聞かれた際に、自分の理論と整合性を取るために、本心とは違った答えをします。
この答えを聞いたソクラテスは、がっかりしてしまいます。 というのも、カリクレスと議論をしようと思ったきっかけは、カリクレスに知識とソクラテスに対する好意と率直さを兼ね備えていたからです。

ですが、自分の理論と矛盾しないように、本心とは違った答えをしてしまったカリクレスの行動に失望し、再び率直さを取り戻してもらう為に、別の質問をすることにしました。

対となる概念

ソクラテスはまず、概念には真逆のものが存在することをカリクレスに確認します。 前に『プロタゴラス』との対話編を取り扱った際に、概念は単独では存在できないという話をしましたが、概念は真逆の概念と対となって生まれます。
熱いという概念には冷たいという真逆の概念があります。 熱いという概念が宿ったものを熱いと呼び、冷たいという概念が宿ったものを冷たいと呼ぶ場合、この『熱い』と『冷たい』という概念は真逆のものなので、同時に宿ることはありません。
例えば、目の前にコップがあって、その中にコーヒーが入っているとします。 そのコーヒーが、熱くありながら冷たい状態を維持するというのは、不可能ですよね。

同じ様に、美しいものが同時に醜い存在になることは出来ませんし、強いものが同時に弱くはなれません。
人間の場合は、強い肉体を持っている場合でも、精神的に弱い人というのはいるじゃないかと思う人もいらっしゃるかもしれませんが、この場合は、肉体と精神は別物と考えます。
強い肉体が同時に弱くあることは出来ませんし、弱い精神が同時に強くなることはありません。 

この強弱は、あくまで同時には宿らないと言ってるだけなので、普段は気弱な人間が勇気を出して一時的に強くなることは出来ますが、強くなった状態は弱い状態とは言えません。
冷たいコーヒーをレンジでチンすると暖かくできますが、暖められたコーヒーは冷たいとは言えませんよね。 これと同じ様に、一つのものが正反対に変わることはあっても、正反対の概念を同時には宿せないということです。

欲望と幸福は逆の概念?

この前提をカリクレスに確認をして、次に、欲望と幸せについて考えます。
カリクレスのこれまでの主張によると、欲望に支配されている状態から、行動を起こしたことで満たされて満足感がえられた状態になると、幸福に近づくことができるということでした。
では、欲望に支配されている状態と、目標が達成されて満足感が得られた状態というのは、真逆の状態なのでしょうか。

仮に、欲望と満足感が一つの概念の対になる存在で、真逆の存在であるとした場合、満足感が満たされている状態と幸福な状態とが同じとするなら、欲望を抱いている状態というのは、不幸な状態であったり悪い状態言い変えることができます。
では本当に、欲望とは悪い状態で満足感は良い状態で、この2つは真逆の対となる存在なのでしょうか。
先ほど同意した前提では、対となる2つの真逆の概念は、同時に宿ることはありませんでした。冷たい状態を維持しながら熱い状態になることは、出来ませんでしたよね。

この前提に立てば、欲望を抱きながら心地よい状態や幸福感は得られないことになります。 マイナスの感情である欲望は、満たされることによって満足感へと変わるので、2つの状態が同時に宿ることはないはずです。
では、本当にそうなるのかどうか、身近な例を当て嵌めて考えてみましょう。

欲望と幸福の関係性

生活の中で頻繁に起こる、喉が渇いたから水を飲むという行動で、欲望と幸福の関係を考えていきます。
水を飲んで美味しいと思うのは、喉が渇いていて『水を飲みたい』という欲望に支配されている時です。 喉が渇いていれば乾いているほど、何の変哲もない水であったとしても美味しく感じられますし、飲んでいる間は心地よく幸せな状態になります。
しかし、この水が美味しいと感じるのは、喉が渇いているときだけですよね。 ものすごく喉が渇いている時に、コップ1杯の水を飲むと美味しく感じますが、ある程度 喉の渇きが抑えられた状態で2杯めの水を飲んでも、1杯目程の感動はないでしょう。

2杯目を飲んで、お腹がタプタプの状態になって、喉が渇いている状態が完全に解消されて満たされた後に、3杯目の水を出されて飲むことを強要されたら、その行為は苦痛に感じるかもしれません。
水を飲むという例で考えた場合、欲望が最も大きい状態の時に、欲望を満たす行為を行うと心地よいと感じますが、ある程度満たされている状態で水を飲んでも、快楽はあまり感じません。
そして、完全に欲望が満たされた状態で更に水をのむことを強要されると、快楽どころか、むしろ苦痛を感じてしまいます。

このことから分かることは、欲望と快楽や心地よさの関係というのは真逆の関係ではなく、むしろ、それらは欲望に依存している関係で、欲望が無くなってしまうと快楽も無くなってしまう関係だということがわかります。
対となる反対の概念は、一方の概念が完全になくなった後にしか存在できませんが、欲望と幸福の関係でいえば、欲望がなくなれば幸福もなくなるので、欲望と幸福は共存している関係と言えます。

満たされないという充実感

これは、水を飲むという特定の行動に限ったわけではありませんよね。
私達の生活を振り返ってみると、何かを達成したいと一生懸命頑張っている時が一番面白く、目的が達成された後は、楽しい日々が過ぎ去ってしまったと思ってしまうことが結構あります。
うる星やつらというアニメの映画で、『ビューティフル・ドリーマー』という作品がありますが、その中には、文化祭の前日の慌ただしい準備がループして永遠に続くという演出がありましたが…

文化祭という目標の為に準備という作業を行っているのに、実際に文化祭当日を迎えてしまうと、後は終わりに向けて寂しさがこみ上げてくる。
それなら、文化祭前日という、もう少しで目標に到達できそうなところを無自覚にループし続けるほうが幸せなんじゃないかとも思えてしまいますよね。
もっと身近な例でいうなら、旅行などの非日常的な事を行う場合、実際の旅行よりも、旅行を想像しながら準備している時が一番楽しい状況という感じでしょうか。

追うか追われるか

目標を達成したいという思いと、その為に実際に行動を行っている状態が一番充実している状態で、いざ目標が達成されてしまうと、満足感による幸福で満たされるというよりも、『こんなもんか』という感想になってしまう事が多いように思います。
その他の例でいうなら、1番手と2番手なら2番手のほうが良いとかでしょうかね。 2番手の場合は、1番手の背中を常に置い続けることに集中すればよいわけですから、やることも決まってますから努力し甲斐があります。
何かの競技の場合を想像してもらうと分かりやすいかもしれませんが、2番手以下は目標が分かりやすいですし、目標と自分の位置にどれほどの差があるというのも分かりやすいです。

頑張ったことによってトップとの差が縮まれば、それを体感することも出来るでしょうし、差を縮めるという行為そのものが面白くなり、ゲーム感覚で楽しめるといった事もあるでしょう。
しかし、努力が実ってしまって、自分がトップになったらどうでしょう。 トップを目指して頑張っていたわけですから、最初は嬉しいと思うでしょうし、満足感や優越感も感じられると思いますが…
そのうち、自分の立場というものを理解してくるようになると、状況は変わってきます。

自分が2番手であれば、トップの人間を追い抜かすことを目標に据えて頑張るだけで良いので、トップの人間のやっていることよりもハードな事をやるとか、やっていないようなことを取り入れて頑張ればよいだけです。
しかし、自分がトップになってしまえば、今度は自分が追われる番となってしまいます。 自分が一番なので比べる目標も無くなるため、努力をどれだけすれば良いのかも分かりません。
眼の前に誰も居ない状況で追われる立場で、尚且、迫り来る挑戦者に負けてはいけない状態というのは、精神的にはかなりキツイ状態でしょう。

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第77回【ゴルギアス】幸福とは満足感のことなのか 後編

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
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嘘つきなカリクレス

しかしソクラテスは、このカリクレスの態度が気に入りません。
というのも、第75回を思い出して欲しいのですが、ソクラテスはカリクレスが対話に参加してくれたことに対して大喜びしていました。その理由というのが、カリクレスが持っている知識と率直さと、ソクラテスに対する好意です。
ソクラテスは、自分ひとりでは真理にたどり着けないと考えていますが、知識と好意と率直さを持つ人間との対話を通してなら、真理に到達できるかもしれないと考えていたから、カリクレスが議論に参加してくれたことに対して喜びました。

何故、一人では真理に到達できないのに、二人で議論をすれば真理に近づけるのかというと、自分が持っていない観点を他人は持っているからです。
人間は、どれだけ優秀な人間であったとしても、自分ひとりで到達できるところというのは限られてきます。 自分が持たない観点からの意見を取り入れることで、より信頼度の高い真理が得られる可能性が出てきます。
では、対話相手は誰でも良いのかというと、そうではありません。 目先の議論に勝つことだけを考えているような人間と話したところで、何の意味もありません。

何故意味がないのかというのは、前にも話した手段と目的の話が関係してきます。手段というのは、目的を達成するために行われる行為であって、一番重要なのは目的の達成です。
最終的な目的を、真理に到達できることに設定した場合、もし、その目的が達成されるのであれば、手段でしか無い目先の議論の勝敗などは、どうでも良いことです。
自分が今まで考えてきたことが実は根本的な部分で間違っていて、その結果として、自分の考えが真理から遠のいていたとすれば、その間違いには出来るだけ早く気がつくほうが、自分の為になるでしょう。

対話相手が、自分と同じ様に真理の追求に目標を定めている場合は、こちらの意見が正しいと思った場合は受け入れてくれて、間違っていると思う部分に関しては指摘してくれます。
互いに同じ目標に向かって納得の行くまで討論し合えば、互いに間違っている部分を修正しあう事で、正しい方向へと進めるかもしれません。
お互いの知識が不足しているために、互いが相手の意見を正しい方向へと修正できない場合もあるでしょうけれども、それでも、一人で考え続けているよりかは、遥かに真理に到達できる可能性は高まるでしょう。

討論に勝つ意味

しかし相手が、正しく目標を設定しておらず、真理への到達なんてどうでも良いと考えていて、目先の議論に勝つことだけを目標にして対話に挑んでいる場合は、話が変わってきます。
議論の勝敗にしか目が行っていない相手は、こちらが正しいことを主張したとしても、議論に勝つ為だけにそれを受け入れず、主張を曲解したり、揚げ足を取ったりして議論を妨害してきます。
議論に負けないために話の軸を本質から外したり、全く関係のない話をして煙に巻いたりと、勝つためには何でもしてくる為、この様な人達とは話しても全く意味がありません。

では、真理の追求に役に立つ人と立たない人をどの様に見分ければよいのでしょうか。 ソクラテスに言わせれば、知識と好意と率直さを兼ね備えた者こそが議論するのにふさわしい人間ということになります。
一つ一つ理由を考えていくと、まず、知識がなければ、対話内容が正しいのか間違っているのかの判断が付きません。 特に西洋哲学のように、物事を論理建てて考えていく分野では、何も知らない人が直感に頼った場合、間違うことが多いです。
この、ゴルギアスの対話篇自体が、正にその様な構造になっていますよね。 ソクラテスと対話する人々は、自分自身が気持ちが良いとか心地よいと思う行動は、自分にとって良い事であるはずと決めてかかっています。

自分自身が心地よいと思うことであっても、自分の為にならない事は山ほどあるのに、その部分に目を向けようとはせずに、出世して高い地位につくことができれば、無条件で幸せになれると思いこんでいます。
しかし、彼らが思い描いている幸福な状態というのは、思い込みによる妄想でしかありません。彼らは、幸福がどのようなものかについて深く考えたことがないので、欲しいものを手に入れた満足感と幸福を混同しています。
その為、お金や権力などの全てのものが手に入れることができる支配者の立場を欲して、それを手に入れることができれば、最高の満足感が得られて、最高に幸福な状態になれると思い込んでいます。

本当に、満足感と幸福感が同じものであれば良いですが、仮に、満足感と幸福が全く違ったものである場合、彼らは目的のものを手に入れたとしても、幸福になれることはありません。
もし彼らが、普段から理論立てて幸福とは何かを考えているのであれば、他人から指摘されたり、自分自身で理論の矛盾に気がつくなどの理由で、自分の主張が間違っていることが分かるかもしれません。
しかし、何の根拠もない直感を元に考えた場合は、そもそもしっかりとした理論がないので、その考えに矛盾をはらんでいる事に気が付きません。

その為、自分が思い描いていた幸せが本当に幸せな状態なのかを確かめるためには、自分が最も欲しいと思っていたものを、実際に手に入れてみて実感してみないと分かりません。
しかし、国でトップレベルの権力者になるという夢は、かなりの努力をしたとしても、皆が実現することは不可能です。
多くの人が、自分が欲しいと思いこんでいるものを手に入れることが出来ないということは、自分が思い描く幸福が本当の幸福かどうかを確かめない状態で、ただ闇雲に主張してるだけになってしまいます。

この様な人と話すことに意味はないでしょうから、対話相手は、ただ闇雲に自分の妄想を叫んでいるだけの人ではなく、しっかりと論理建てて考える人でなければならないという事になります。
そして、論理建てて物事を考えるために必要なのが、多くの知識です。 特に、ソクラテスが取り扱うような、幸福であるとか知識や勇気は、多くのものに当て嵌めて考えられるものなので、幅広い知識が必要となります。

論戦と対話

次に好意ですが、対話を通して真理を追求するというのは、一種の共同作業なので、相手のことを大切に好ましく思う感情がなければならないでしょう。
相手がこちらを嫌っている状態であれば、協力関係が得られないので、共に目的地にたどり着けるかどうかが怪しくなってきます。
相手を嫌いというところまで行かなくても、好きだという気持ちがなく、相手との距離感が空いた状態では、相手が間違った道を進もうとしていた際に止めることは難しいでしょう。

最後に率直さですが、知識があって、対話相手のことを大切に思っていたとしても、相手の感情を傷つけないようにと忖度して嘘を付いてしまうと、対話が台無しになってしまいます。
相手が自信満々に披露した主張であっても、同意できなければ同意できないというべきですし、逆に相手に、こちらの主張に矛盾がある事を突きつけられた場合は、『理論的に破綻してようとも、自分はその様に感じてしまう』と本心を伝えるべきです。
何故なら、自分がそう強く思い込んでいるのには、何らかの理由があるはずだからで、自分一人では理由がわからなくても、それを相手に話すことで、答えやヒントを見つけられるかもしれないからです。

その為、対話に置いては自分の心に嘘をつかずに率直に意見を言わなければならないのですが… カリクレスは、過去の自分の発言と整合性を取るという理由で、自分の気持に嘘をついて答えてしまった為、率直さが失われてしまいました。
先ほどからも言っている通り、その様な人間と議論を重ねたところで、真理に到達することは出来ません。 また、ソクラテスは、対話相手が窮地に立たされる度に他の人間が乱入してきて、卑怯者呼ばわりされてきました。
このまま議論を進めたとしても、また、別の人が乱入してきて、『カリクレスは不本意なことを言わされた。 そう仕向けたアナタは卑怯者だ。』と言われるでしょう。

このままでは、難癖をつけられる上に、真理にも到達できなくなってしまうため、ソクラテスはカリクレスに率直さを取り戻してもらおうと、別の質問をすることにします。
それについては、次回に話していこうと思います。

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第77回【ゴルギアス】幸福とは満足感のことなのか 前編

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今回の内容も、プラトンが書いた対話篇の『ゴルギアス』を、私自身が読み解いた上で、解説する内容となっています。
本を朗読しているわけではなく、重要だと思うテーマの部分に絞って解説していく内容となっているので、対話篇のすべての内容を知りたい方は、本を購入して読まれることをおすすめします。

欲望が生きる原動力

前回の話を簡単に振り返ると、カリクレスが、欲望の重要性について語った回でした。
欲望を抱き、それを満たすために行動を起こして 実際に欲望が満たされれば、欲望が満たされたという満足感によって人は幸福になる。
人が抱く欲望は、人間を幸福へと導いてくれるものなんだから、その欲望は抑え込んでは駄目で、むしろ、人が幸せになる為には、より多くの、そして大きな欲望を抱かなければならない。

そして、その欲望を満たすために努力をするなりして力を得て、その力でもって欲望を満たすというのは、人生のあるべき姿だと主張します。
幸せの源泉となるのが欲望なので、それを抑え込んで無欲になってしまうと、人は何も感じなくなってしまう。 何も欲しいと思わないし、何かを手に入れても満足感を得ることもない。
満足感を得られないのであれば、幸福になれることもないので、その様な人生は道端に転がっている小石のような人生と同じで、無意味だと言います。

確かにカリクレスの言う通り、人は何かを欲しいと思うことで、それを手に入れる努力をしますし、努力が実って欲しいと思っていたものを手に入れることができれば、満足感や達成感を得られて、幸せな気持ちになります。
仮に欲しいものが手に入れられなかったとしても、その努力によって少しは前進できているので、悔しさをバネにして努力をすれば、いずれは欲しいものが手に入れることもできるかもしれません。
この様な人生は面白いですし、生きている意味を感じさせてくれます。

しかし、本当にカリクレスの主張する通り、欲望を満たすことが幸福で、欲望がない人生というのは意味がないものなのでしょうか。

欲望の思考実験

疑問に思ったソクラテスは、例え話を始めます。
まず、2人の人間がいて… 便宜上、2人はAさんBさんとしておきましょうか。その2人の前にはそれぞれ、液体が入っている樽があるとします。 その樽の大きさが欲望で、樽が液体で満たされている状態が、満足できている良い状態だとします。
樽の中を満たしている液体は、簡単に入手することは出来ずに、手に入れる為には、それなりの努力や苦労が必要で、能力の低い人には手に入れることが難しい様な、貴重なものだとします。

この状態で、Aさんの樽だけに穴が空いていて、樽の中に入った貴重な液体が流れ出している状態だとします。
樽の大きさは欲望の大きさで、樽が液体で満たされている事を満足した状態だとしているので… 穴が空いていて液体が常に漏れ出ていて、樽に満たされていないスペースがある状態というのは、欲望が満たされていない状態と言い変えることができます。
Aさんが満足感を得るためには、常に、樽から流れ出た分の液体を補充し続ける必要がありますが、先程も言った通り、液体は貴重なもので、満たすためには努力をする必要がありますし、頑張っても液体を見つけられるかどうかは分かりません。

一方でBさんの樽はというと、穴どころか傷すら付いておらず、当然のように、液体が漏れ出るなんてこともありません。

AさんとBさんの状態を比べてみると、Aさんの方は、欲望という名の樽から貴重な液体が漏れ続けている状態なので、満足感を得るためには、常に、貴重な液体を見つけ出してきて、樽に注ぎ続ける必要があります。
液体を注いで樽を満たすことで、一時的には満足感を得ることは出来ますが、樽には穴が空いている為に、その満足感は一瞬で終わってしまい、再び、流れ出た水を補給するために、液体を探しに行かなければなりません。
貴重な液体を見つけ出せずに時間だけが過ぎていくと、樽の中の液体はドンドン流れ出ていき、樽の空きスペースはドンドンを増えていくことになります。

樽の空きスペースはそのまま、満たされていない欲望の大きさとなる為に、Aさんは常に急かされるように液体を探し続けます。
一方でBさんの樽は、穴が空いているわけではないので、欲望という名の樽を1度満たしてしまえば、それが減ることはありません。 常に満たされている状態であるため、Aさんのように必死に貴重な液体を探し続ける必要がありません。
この2人を比べた場合は、一体どちらの人生が幸福なのでしょうか。

欲望の思考実験 2

この質問に対してカリクレスは、Aの人生の方が良いと即答します。 やるべき事があって、常に動き続ける事こそが人生で、何もせずに樽の前で座っているBの人生は、生きているとは言えないと言います。
カリクレスのこの返答は、今までの主張と一貫しているように思えます。 しかし、これを聞かれている方の中には、この例え話を聞いて、動き続ける人生よりも見守る人生の方が楽で良いと思う方も出てきたのではないでしょうか。

次にソクラテスは例を変えて、アトピーや蕁麻疹になった人を例に挙げます。 これらの人達は、肌に異常がない人達とは違って、常に肌を掻きむしりたいという思いを抱いています。
そういった意味では、アトピーや蕁麻疹などの人達は、そうではない人達と比べて『肌を掻きむしりたい』という欲望を持っていることとなります。
蕁麻疹になった人達は、肌を掻くと気持ちよくなれますし、掻くのを止めると、掻きむしりたい衝動に駆られます。 掻いても掻いても痒さが収まることはなく、むしろ悪化してしまう可能性もありますが…

先ほどの話を踏まえて考えると、蕁麻疹を発症した人には『掻きむしりたい』という欲望が生まれ、それを満たす為に掻きむしると、その間だけは心地よい状態になります。
ですが、一度掻きむしったからといって収まるのかというとそうではなく、掻くのを止めてしまうと、掻く前よりも強く、掻きたいという衝動に襲われてしまう事もあるでしょう。
これは、欲望を満たしてしまうと、更に大きな事を実現したいという、欲望が生まれる構造と同じです。

幸福に欲望は必要か

会社で出世した人間は、更に上のポジションを目指しますし、欲しかったバッグを手に入れた人は、更に上のブランドのバッグや、バッグに似合う服や靴が欲しくなるでしょう。
頑張って年収を上げた人が、更に上の年収を目指す様に、欲望は満たせば満たすほどに膨張していきます。 同じ様に、蕁麻疹になったり、蚊に腕を噛まれたりした場合、その部分を掻きむしりたい衝動に襲われます。
そして、一度掻いてしまうと、掻き続けなければ収まらないようになってしまいます。

一方で、健康的な肌を持っている人は、肌を掻きむしりたいとは思わず、肌に対しては何も注意を払わず、何も異常がないので考えることすらしません。
これまでのカリクレスの主張では、何も感じずに心も動かされず、それ故に行動も起こさない人生は、道端に転がっている石のような人生でしかなく、生きている意味がないと主張していましたが…
この例でも同じ様に、健康的な肌でいるよりも、蕁麻疹になったり蚊に刺されたり皮膚病にかかるほうが、幸せだと主張するのでしょうか。

この質問に対してカリクレスは、本心では、健康的な肌を維持して肌のことで何も悩まない人生のほうが良いと思いつつも、それでは今までの主張と矛盾しているからと、皮膚病になる方が幸せだと答えます。

欲望を満たせるものは力があるのか

この皮膚病の例え話と、それに対するカリクレスの答えを聞く前であれば、カリクレスの主張を受け入れるという人は、結構、沢山おられたと思います。
特に日本は自己責任論が好きな お国柄なので、力がない人間は悪で、強者こそが正しいという理論がもてはやされる傾向にあります。
結構前ですが、大成功をおさめたお笑い芸人が、金持ちは多額の税金を収めてるんだから、選挙で投じれる票が貧乏人と同じ様に1票というのはおかしいんじゃないかと堂々といってましたが、それが大した問題にならない国だったりします。

カリクレスは、力を持つ人間は自由に振る舞うべきだし、それに対する文句というのは、能力がない人間のヒガミでしか無いと主張しますが、似たような事を言っている成功者と呼ばれている人は大勢居ますよね。
そして、その人達は口々に、『自分は努力したから成功した。』と言い放ちますが、これは逆にいえば、成功していない人間は努力していない人間だといっているのと同じです。
成功していない、貧しい人間は努力を怠った怠け者なんだから、酷い目にあっても自業自得で、哀れみなんて掛ける必要もないという理屈は、結構耳にします。

しかし、実際には、成功や失敗というのは、運によるところが大半ですよね。
親が元々金持ちであるとか、友達に恵まれるとか、生まれた時代や国が良かったとか、運動の才能や外見の良さを備えて生まれてきたとか…そういった、本人の努力ではどうしようもない部分で恵まれている人間が、成功をおさめています。
仮に、日本で成功しているとされている人が、最貧国の独裁国家に貧乏人の子として生まれたとして、その人は同じ様に成功できるんでしょうか。 この世には、努力しても報われない環境というのは確実に存在します。

強者の理論

そして、カリクレスが言っていることは、自分が高い地位を手に入れることができる位置にいる成功者だから言えることであって、自分が転落人生を歩んでいる時には口に出せない主張です。
また、力を持っている人が、力を持っている人間は何をやっても良いんだと主張するのは、単に自分に甘いだけのようにも思えます。
欲望に流されて生きていくことが良いし、欲望は大きくなればなるほど良く、欲望を満たし続けることが幸福に繋がる道と言いますが…

では、投与するだけで最高の幸せを感じることが出来るけれども、ものすごく依存性が高いドラッグがあったとして、そのドラッグを定期的に購入できる金持ちは、そのドラッグを使用し続けることが、幸福につながる道なんでしょうか。
とても値段が高く、打つ度に体はボロボロになっていくけれども、そのドラッグを使用すれば、体や精神の痛みは全て吹き飛んで、普通に生きているだけでは絶対に味わえないような快楽を得られる薬で…
依存性が高く、一度でも使用してしまうと、そのドラッグを再び使うことしか考えられなくなる程、薬に対して強い欲求が出るドラッグの場合、それを打てば、一時的にはとてつもない快楽を得られるでしょう。

この様なドラッグがある場合、ドラッグを継続的に買うことが出来る金持ちは、このドラッグを使用し続けることで幸せに到達できるというのでしょうか。
カリクレスは、自分の主張と矛盾しないようにという理由だけで、健康的な身体よりも皮膚病にかかる方が幸せだと主張したので、おそらく、このドラッグの例でも、過去の発言と整合性を取るために、薬物中毒になる方が幸せだと答えるのでしょう。

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欲望の力

カリクレスの主張は、一見するとメチャクチャなようにも思えますが、小賢しい理屈を並べて相手を論破しようとする意見ではなく、自分の本心に忠実な言葉であるために、聞く人の心を響かせます。
その為、このカリクレスの主張を理解できる人は多いのではないでしょうか。
人は、幸福になるために生まれてきたといっても過言ではないでしょう。 この世が地獄で、この世界は刑罰を科せられるためだけにあると思ってるような人以外は、皆、幸せになることを目標に生きていると思います。

カリクレスが考える幸せとは、満足感です。 そして、満足感を得るために必要になるのが、欲望です。 お腹が空いている時に美味しいご飯を食べると、お腹が満たされて幸せな気持ちになる。
前から憧れていたオシャレな服を買って、それを着ることで周りの皆から注目を集めることで、満足感を得る。 そして、みんなを支配する権力者を目指して、実際に権力を手に入れる。
物であったり立場であったり、権力などの力を欲しいと思う欲望が先にあって、それを得るために行動を起こして、実際に獲得できた時に満足感を得る。 その満足感の中に幸せがあり、それを追求するのが人の人生だという主張は、納得する人が多いでしょう。

特にいま現在は、資本主義を採用する国が多いですが、資本主義とは欲望を原動力にした経済システムなので、資本主義社会を発展させるために一番必要なのは、技術などではなくて欲望です。
人々の欲望が高まれば高まるほど、人々はより多くのものを欲しいと思うため、多くのものが販売されるようになりますが、販売するためには多くの商品を用意しなければならないので、生産活動が活発になります。
ものを生産する為には、沢山の労働者や生産するための設備が必要ですが、皆が労働者を求めれば、労働市場の需要と供給のバランスによって労働者の給料が引き上げられますし、生産設備の拡張のために土地や建物や機械が販売されれば、更に需要が膨らみます。

みんなの欲望が高まれば高まる程、資本主義経済に参加している人達の給料をはじめとした職場環境は改善していきますし、労働者の給料が高くなれば、労働者達は更に多くのものが買えるようになる為、給料の増加に応じて欲望をスケールアップさせていきます。
人々が欲望を持ち、それを満たすために経済活動を行い、経済活動が活発になることによって労働者の給料が上がり、より多くのものが買えるようになることによって、欲望はスケールアップしていく。
この繰り返しによって、資本主義経済はどんどん膨張していきますし、その経済活動に参加している人達は、より大きな欲望を生み出して叶えていくことで、満足感を得続ける事が出来る。

結果として、経済システムに参加している人達の多くが幸せになるというのが、資本主義の基本的な考え方です。

相対的な幸福

資本主義とは、カリクレスの主張する通りの経済システムなので、このシステムの下で暮らしている人達は、カリクレスの主張をすんなり受け入れることが出来ると思います。
何故なら、仮に、ソクラテスのいう通りに、みんなが足るを知り、欲望を抑えて生きようとした場合、みんなが物を買わないわけですから、経済は冷え込みます。

物が売れないということは、企業は沢山の労働者を雇って生産能力を確保する必要がない上に、利益も出ない状態なので、給料が下げられたりと労働環境は悪化していきます。
まぁ、給料が下がったとしても、人々は欲望は抱かないので、当面の間は生活に困ることはないのでしょうけれども、この状態が行き過ぎてしまった場合は、多くの企業は倒産に追い込まれて、多くの人の収入源が断たれることになります。
こうなると、多くの人が生活保護で生きていくことになりますが、大半の人間が生活保護を受けた場合、財源が無くなってしまうために、国はいずれ崩壊してしまうでしょう。

国が崩壊し、収入が完全に絶たれてしまうと、その日を食いつなぐ事すら困難になりますが、この様な状態が幸せだといえるのでしょうか。
足るを知り、物欲を捨て去った結果、訪れる人生が、その日を食いつなぐことすら困難な人生であるのなら、その様な人生に意味はあるのかと思ってしまうカリクレスの主張は、かなり説得力があります。

では、説得力があるからカリクレスの主張は正しいのかというと、必ずしもそうではありません。 というのも、カリクレスの主張する幸せという価値観は、相対主義的な価値観だからです。
カリクレスは、欲望を満たすことが良い事だとしていますが、そこにタブーを設けてはいません。

仮に、親友の彼女を見て『あの女が欲しい』という欲望が生まれた場合、カリクレスの主張では、親友から彼女を奪って満足感を得ることが良いとされます。
もし、彼女を奪い取れなかった場合は、自分にそれだけの実力がなかったから自分が悪いということになり、奪い取ることに成功した場合は、親友に彼女をつなぎとめておく実力がなかったから悪い。
正義や悪というのは、この世に存在する人の数だけ存在して、その人達の行動の結果によって、善悪が決定するという考え方です。

負けた奴が悪

カリクレスが主張するには、ペルシャの支配者であるクルセクルスがスパルタに攻め込んできた際に、レオニダスは300人の兵士しか用意できずに、負けてしまったのは、レオニダスの力がなかったせいで、彼が悪いという事になります。
ギリシャでオリンピックが開催されていて、その祭り中に争い事が禁止だからといって、神のお告げを聞く神託管が口を出してきたとしても、レオニダスの権力が絶対的なものであれば、神託官は反対しなかったはず。
その反対をねじ伏せることが出来ず、結果として大軍を前に300人という少数で立ち向かわなければならなかったのは、彼に力がなかっただけなので、彼が悪い。

逆に、ペルシャ全土を支配し、大群を率いてギリシャまで遠征してこれたクルセクルスには、それだけの力があったということだから、彼が正義だという考え方です。つまり、負けた方が悪という事です。
では、クルセクルスが絶対的な正義なのかというと、そうではなく、クルセクルス自身も、後にギリシャに敗北しているために、彼は悪とされます。
また個人としても、最終的には側近であるアルタバノスに暗殺される為、側近すら従わせる力がなかったものとして、悪とされます。

欲望を抱き、その欲望を満たすことができれば幸福で、その行動そのものが正義だけれども、欲望を抱いても満たせなかった場合は、不幸になる為に悪となる。
世界はこの様な仕組みになっているから、幸せになりたいのであれば、欲望を満たすための力を持たなければならない。 そしてその為には、権力者に近寄って気に入られるような社交術が必要となるというのが、カリクレスの意見です。

ですがソクラテスは、このカリクレスの主張に納得が出来ず、様々な例え話を駆使して、納得がいかないことをカリクレスに伝えますが…
その話はまた、次回にしていこうと思います。

【Podcast原稿】第76回【ゴルギアス】負けた奴が悪 前編

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今回の内容も、プラトンが書いた対話篇の『ゴルギアス』を、私自身が読み解いた上で、解説する内容となっています。
本を朗読しているわけではなく、重要だと思うテーマの部分に絞って解説していく内容となっているので、対話篇のすべての内容を知りたい方は、本を購入して読まれることをおすすめします。

少数と多数の力

前回を簡単に振り返ると、ゴルギアスの弟子のポロスが、不本意な形でソクラテスに言い負けてしまったので、その議論を横で聞いていたカリクレスが乱入してきました。
カリクレスによると、人間の思考には、本能的な考え方と社会的な考え方の2つがあり、その2つの考えは反対の結果を生むことが有ると言います。
ソクラテスは、それを利用する事で、ポロスが本能的な考えで答えたことを社会的な考えの結果だと意図的に取り違えて受け取って、ポロスが矛盾していると演出したと難癖をつけます。

そして、人が幸せを目指すのであれば、人間社会を維持するための社会的な考え方ではなく、自分の欲望に従って生きる本能的な考えを追求するほうが良いと主張しました。

それに対してソクラテスは、1人の権力者の力よりも、団結した大勢の大衆の力の方が大きいのではないかと指摘します。
もし、団結した大衆の力が1人の権力者の力を上回るのなら、団結した民衆は非力な権力者から、欲望に任せて財産を奪い取って、それを皆で分け合っても良いことになってしまいます。
カリクレスの言葉を借りるのであれば、それこそが正義だし、その道の先に幸福が有る事になってしまいます。

そして実際問題として、権力者は大衆に対して気を使って、法律を作る際には、富が再分配されるように配慮しているので、結果として、社会秩序を維持することが正義となり、幸福に繋がる道なんじゃないのかと主張します。

しかしカリクレスは、この主張に納得しません。 カリクレスが主張する『力』とは、喧嘩の際に使う単純な筋力などではないからです。
では、カリクレスが主張する力とは、どの様なものなのでしょうか。 それは、『立派さ』です。

立派さとは何なのか

ここで再び、『立派さ』という様な曖昧な言葉が出てきました。
一番最初の対戦相手であるゴルギアスも、その次に割って入った弟子のポロスも、そして今回のカリクレスも、いざ、弁論術によって得られる力の正体を聞くと、抽象的すぎる表現で逃げようとします。
しかし立派さというだけでは、抽象的過ぎて力の意味が理解できません。 カリクレスが否定した筋力だって、立派か立派でないかで言えば立派なものですからね。 立派とは何なのか、何を習得すれば立派な状態になるのか、謎は全く解明されません。

カリクレスが主張する力の内容が全く判らないので、ソクラテスは『力があるとは、思慮が有ることですか。』と質問をすると、カリクレスはこれに同意してくれます。力の謎を解く糸口が見つかったので、ソクラテスはここから力の解明を行うことにします。
カリクレスによると、力を持つ者は他人から財産や命を奪っても良いとのことでしたが、その力が『思慮』なのであれば、思慮深いものは他人から財産や命を奪ってもよいということになってしまいますが、それで良いのかと確認すると、コクリと頷きます。

しかし、この返答は矛盾があるようにも思えます。 思慮深い人とは、周りの環境も踏まえた上で、深く考えて気遣いが出来る様な人物のことを指すと思うのですが…
思慮深い人が、他人が自分よりも劣っているというだけで、自分の欲望に身を任せて他人の財産や命を奪おうとするのでしょうか。 それとも、カリクレスが主張する思慮とは、単純に知識を多く持っている状態のことなのでしょうか。
この事を確かめるために、ソクラテスは例を出して、思慮深い人間は弱者を押しのけて、ものを独占しても良いのかどうかを探ります。

まず、何処かの地域で大規模な災害があって、地域住民が学校の体育館などの指定避難所に非難してきたという状態を想像してみてください。そこには幸いにも、非常事態に備えて数週間分の食料が備蓄されているとします。
避難所には、さまざまな人達が非難して来ましたが、その中にたった一人だけ栄養士がいて、避難民の中で彼だけが、食べ物に関するずば抜けた知識を持っていたとします。
この栄養士は、食べ物に関する知識を持っているという理由で、避難所に有る食べ物を独占してもよいのでしょうか。それとも、その知識を生かして、その場にいる皆に適切な量を分配するほうが良いのでしょうか。

この例え話を聞いたカリクレスは、『私が言っている知識とは、そういう知識ではないでしょ』と怒り出します。
『じゃぁ、どの様な知識なんですか?』と尋ねると、国を運営する為に必要な知識で、その知識を持っていると、政治家として出世も出来るし指導的立場にも付くことが出来て、権力を得ることが出来ると言います。
そして、知識だけではなく、勇気も持ち合わせていなければならないと、新たに条件を追加してきます。

都合が悪くなると意見を変える人たち

しかしこの態度に、今度はソクラテスが気分を悪くします。 というのもカリクレスは、ソクラテスが何かを言った際に、自分の思い通りの答えでなければ、『いや、そういう意味じゃない』といった感じで、その都度、条件を変えてきます。
こういう人って、現在の社会でも結構いて、Twitterなどでタイムラインを眺めていると、そういう人に対する苦言のようなものが流れてきたりもしますよね。

例えば、デザイナーがクライアントの意見を聞いてデザインを行って製品を提出したら、『そうじゃないんだよ。』と否定して、作り直しをさせるって事がありますよね。
まぁ、他人同士なので意思の疎通が1度で出来るわけはないので、細かい修正などであれば問題は無いんでしょうが、要求が徐々にエスカレートしてきて、最初の要望とは全く違った内容に変わっていくと、最初の意見の摺り合わせは何だったんだとなりますよね。
そして、その条件も聞き入れて、修正をしてデザインを提出すると、そこでまた、全く違った追加の要望を入れられたりすると、『考えがまとまってから依頼しろよ。』って思いますよね。 それと同じ様な状況と思ってもらって良いです。

カリクレスは、最初は力があるものが優れたものだといって、その次は、知識を持つものだといい、次は、その知識は国家運営のための知識で、知識に加えて勇気もないといけないと、ソクラテスが質問をするたびに答えを変えます。
ソクラテスが何かを発言するたびに答えを変えられるのでは議論にならないので、カリクレスが主張する、他人の命や財産を自由に奪っても良いとされる『優れた者』の定義を教えて欲しいと詰め寄ります。
そして、カリクレスが思い描く『優れた者』とは、他人だけではなく、自分自身も支配することが出来るのか。つまり、行き過ぎた欲望を理性によって抑えられるような人間なのかと質問をします。

欲望を抑える力

この質問に対してカリクレスは、当然のように否定します。 当然といえば当然ですよね。
カリクレスは、権力さえ手に入れてしまえば、他人の命や財産を自由に奪ってもよいし、その力が強大であれば、他国に侵略しても良いといっていたわけですから、欲望を抑え込むなんてことに同意はしませんよね。
彼の主張は一貫して、欲望に身を委ねて、欲望の赴くままに欲して奪い続けて、満足感を得続けることこそが、幸福へと続く道だといっていました。

カリクレスがいうには、力のある人間は欲望を抑える必要などはないし、『抑えろ』と忠告してくる人間は、自分には欲望を満たすだけの能力がなく、満たしたくても満たせない状況だから、嫉妬して、他人に抑えろと言っているだけだそうです。
力を持たない劣った人間は、優れた人間の能力に嫉妬しているから、力を持って自由に振る舞う事を、まるで悪い事のように主張すると言います。 出る杭は打たれるって感じですかね。
力を持つものは極一部で、大半の人間が力を持たない嫉妬しか出来ないようなやつだから、自由に振る舞ったり、富を分配せずに独り占めすることを悪い事のように吹聴し、その思想を学校などで子供に教え込むことで、一般常識化してしまったと主張します。

子ども達は幼い頃から、負け組が考え出した価値観を教え込まれるし、世の中の大半の人間が負け組だということは、その子供の周りの大人も負け組となるので、学校で教わった知識は正しい知識だと思い込まされます。
この様な環境で、仮に、才能に恵まれた子供が生まれたとしても、その子供は、本来なら満たすことが出来る欲望を我慢させられてしまうけれども、それは本来の在り方ではなく、やりたい事をやらせてもらえない奴隷の人生と同じだと訴えます。
力や才能を持つものは、自分には欲望を満たす力があるのだから、それを我慢する必要はなく、本能の赴くままに欲望を満たすべきだし、それを我慢することでストレスがたまるのは、それこそが不幸だと言います。

欲望を満たす能力のない劣った人間に足を引っ張られて不幸になるのはバカバカしいので、欲望を抑え込むなんて無駄なことはやめたほうが良い。
力や才能があるのなら、その能力は自分が満足感を得る為だけに使って自由奔放に贅沢に生きるべきで、それこそが幸福であり正義であり、アレテーだと言います。
人生の幸福は、欲望を満たすという行動の中だけにあり、欲望を抑制することでその人生を放棄するのは、生きている意味を無くしてしまう。

何も欲しいと思わず、欲望を満たす満足感も得ることのない、凪のような人生は、道端に転がっている小石のような人生で、その様な一切 起伏のない人生を送ることに、何の意味があるのかと訴えます。
『足るを知る』という言葉がありますが、そのようにして手に入れられるものも手に入れようとせずに、欲望を抑え込んで生きることに意味はあるんでしょうか。
幸福とは、欲望を満たした後に訪れる満足感の中にある。 その幸福の源泉とも言える欲望を抑え込んでしまって、幸福が訪れることがないような人生には、意味もない。

何の喜びも得られない人生は、道端に転がっている小石の様な人生であって、喜ぶことも悲しむこともない、そんな感情の起伏が一切ない人生を送ることに何の意味があるのかと訴えます。

【原稿】第75回【ゴルギアス】勉強は社会に出ると無意味になるのか 後編

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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勉強は社会に出ると無意味になるのか

このカリクレスの主張は、今現在でも同じことを言う人達が沢山いますよね。
『三角法やピタゴラスの定理が、社会に出て一体何の役に立つのか?』とか、『学校で習う大半のことは、社会に出て使うことはない。』とか、哲学をしている人に対して『答えが無いことを考えて意味あるの?』という人たちは大勢います。
では、この人達はどのような態度をとれといっているのかといえば、『上司に気に入られて、同期の中で一番に出世する方法』だとか、『社会で役に立つコネの作りかた』など、世渡りの方法を学べと言ってくるわけです。

カリクレスを始めとして、何故彼らは、このような主張をするのでしょうか。 カリクレスに言わせれば、他人がそのような態度をとることが心地よいからです。
例えば、子供が言葉をうまく扱えずに、間違った言葉遣いをしたり、それを治すために一生懸命勉強する姿というのは、観ていて癒やされるし微笑ましい光景だから、子供はそのような行動を取るべきだと主張します。
子供がもし、ハキハキと自分の思っていることを正しい言葉遣いで話たりすると、そんな大人びた喋り方をする子供は可愛くないし、観ていて嫌な気持ちになるから、子供は子供らしく、大人よりも明らかに劣った状態で、大人に追いつくために努力してるぐらいが丁度よい。

一方で、大人になっても言葉遣いがなっていないようなものは、ぶん殴ってやりたくなると言います。
つまりカリクレスは、子供には子供の態度があって、子供のうちからしっかりとした言葉遣いをしたり、目上の者に気に入られる為にお世辞を言うなどの処世術を身に着けているものは気持ち悪いし、子供らしくない。
逆に、成人しているのに、目上の者に対して媚びへつらうことをせずに、勉強にうつつを抜かすような人間は、大人な態度とは言えないので、これもまた、観ていて不快になると言ってるわけです。

このような考えはカリクレスに限ったことではなく、プライドが高く、自分が支配者層にいるだとか、他人よりも優れていると思いこんでいる人が多く持っている考えだと思います。
要は、基本的に他人を見下したいんです。 子供がしっかりとしていると、自分の立場を揺るがす存在になる可能性がありますし、大人になっても勉強している人は、学問という点に置いては逆立ちしても勝つことが出来ません。
自分が絶対に勝てない物を持っている者の存在は、それだけでプライドが傷つけられるものですが、その人間が処世術を身に着けていて、自分に対して頭を下げてくれれば、自分のプライドも守られて精神的に満足することが出来ますが…

その者が、自分が居座っている立場に憧れも持たず、その地位にいる自分に対して敬意も払わなければ、その人間に対して憎悪にも似た感情を抱いたしまいます。
だから、大人になったら勉強はやめて、権力に対して頭を下げる人になるべきだし、それを拒否する人間は、口で言ってもわからないのなら、暴力でもって懲らしめるべきだと言ってるわけです。
先程も少し言いましたが、この意見は、カリクレス個人としての意見というよりも、人を支配する権力者層の多くの考えです。 権力者は、自分は勉強はしないのに、自分が無知だと思われるのを恐れているんです。

知識よりも社交術

カリクレスの前に対話を行ったポロスやゴルギアスもいっていましたが、権力者になる為には知識は必要がありません。 何故なら、知識を持つものを支配してしまえば、その人間が持つ能力は支配者のものとして扱えるからです。
では、その権力を手に入れるために必要なのは何かといえば、自分の主張が正しいことのように勘違いさせる演出を行える、弁論術という口先の技術です。
無知なものに対して口先の技術で説得したり、権力者に取り入ったりすることで、人からの信頼を勝ち取ったり人脈を築いたりしていくわけです。 この過程で知識は必要がありません。

むしろ、言葉の演出の矛盾に気がついてしまうような知識のあるものは、邪魔な存在と言えます。 口先一つで成功するためには、自分の周りの人間は全員、無知でなければなりません。
そして実際問題として、この方法で権力が握れているという事実があります。 しかし、このようなシステムで生まれた権力者は、例外なく無知なので、アテレーを宿した卓越した人間とは言えません。
その為、不正も行います。 そして、ソクラテスのように、目上の人間に対して媚びへつらうわけでもなく、信念を持って正論を主張し続ける人間は、無知な権力者からは嫌われます。

無知な権力者は、無知だけれども権力だけは持っているので、不正を行って罪をでっち上げて、ソクラテスのような耳が痛い正論を言う人間を逮捕して有罪にして、死刑にして殺してしまうことも可能です。
ソクラテスが哲学に没頭せずに、社交術を身に着けて人脈を広げていれば、裁判の場で有利な証言をしてくれる承認もたくさん現れるだろうし、権力者にコネを持つものが助けてくれたりもするかもしれません。
でもそれを行わずに、役にも立たない知識だけを追い求めていると、権力者によって殺されてしまうぞと、カリクレスは言います。

親友思いのカリクレス

注意して欲しいのは、これは単純なカリクレスによるソクラテスに対しての脅しではありません。 カリクレスは、ソクラテスを大切に思っているが故に、忠告をしているんです。
ソクラテスのような態度を無知な権力者に向けて行ってしまうと、その権力者は無知な為に、ソクラテスの命を奪うという決断を簡単に下してしまいます。
そうはなって欲しくないから、ソクラテスに対して態度を改めるように忠告しているんです。

この話を聞いて、ソクラテスは大喜びをします。 何故ならソクラテスは、真理に到達するために必要なのは、知識と好意と率直さを持つものとの対話だと思っていて、目の前のカリクレスは、その全てを持っているように思えたからです。
ソクラテスはまず、カリクレスがどの様な考えを持っているのかを聞き出します。

欲望に忠実に生きることが幸福につながる

カリクレスの主張としては、知識や社会秩序の維持などの後天的に刷り込まれた常識などは軽視して、人間が生まれながらに備えている直感や本能などを優先させたほうが良いし、それに従う事こそが、幸福への道。
もし、大量の富を稼ぎ出すことが出来るのであれば、自分の本能に従って、できるだけ多くの富を独占できるように考えて行動すべきだし、独り占めできるのであれば、それに越した事は無い。
仮に、自分よりも力も知恵も持たない人間が財産を保有していることが分かれば、自分の欲望に従って、その人間の財産を奪うべきだと考えます。

この、『欲望に忠実に生きる』という考えを前提にすれば、ペルシャ全土を支配できたダレイオスがギリシャに攻め込んできた理由も説明ができます。
ペルシャの大軍勢を支配して指揮する力があるのだから、その力でもってギリシャも征服して、より広大な土地を支配下に置きたいと考えるのは、当然の行動と言えます。
人間は次から次へと欲でてきますが、その欲を満たし続けて満足感を得ることで幸福になれるというのが、カリクレスの考えです。

逆から考えると、幸せになるためには欲望を満たして満足感を得なければならず、欲望を満たすためにはそれなりの力が必要ということになります。
人の最終目標が幸せになる事で、幸せになるためにはアテレーを宿した優れた卓越した存在にならなければならないとするのなら、優れた状態というのは力がある状態だと言い変えることも出来る事になります。

『力が強い』とは

しかし、この説明にソクラテスは疑問を抱いてしまいます。 例えば、力強いとされている人間1人と、ひ弱な人間100人が殴り合いの喧嘩をする場合を考えると、どちらが勝つでしょうか。
1人の力がどれほど優れていたとしても、非力な人間100人が一斉に殴りかかってきたら、それに勝てる人間はほぼ居ないでしょう。 それでも勝つことが出来るというのであれば、1対1万人ならどうでしょうか。
グラップラー刃牙に出てくる範馬勇次郎という人物は、人間は同時に4方向からしか襲ってこれないから、4方向の敵を同時に倒せる技術と力があれば、スタミナがつづく前提であれば全人類を相手にしても勝てるといってましたが…

そんな事が出来るのは漫画のキャラクターだけで、実際には数で押されれば少数は負けてしまいます。
これは金銭や財産でも同じで、この地球上で1番の金持ちがどれほど金持ちだからといって、その1人が持つ資産と、その人物以外の70億人の資産の合計を比べた場合は、その他70億人の財産の方が確実に多いです。
少数の者と大多数の者を比べた場合、全ての面に置いて、大多数の者の総合力のほうが上回ることになり、先ほどの理屈に当てはめれば、大多数のもののほうが優れた存在ということになってしまいます。

カリクレスは前に、法律は大多数の弱者の事を考慮して作られていて、その法律の考えが浸透することで、『独り占めは良くないことで、分配することが良いことだ』という価値観が定着したと言っていましたが…
その大多数の弱者の総合力は、少数の権力者や資産家を上回っている為、法律は強者である大多数の市民の為に作られているという事になってしまいます。

強者によって作られている法律

カリクレスは、力を持つ権力者は、その力を欲望の赴くままに自由に使って、力の無いものから金銭を奪っても良いと言っていましたが、力を持たないとされる市民が団結して一つの勢力になれば、権力者達の力を上回ってしまいます。
この団結した市民たちが、少数の権力者や資産家に対して、欲望の赴くままに自由に力を行使して、彼らから金品を奪い取って、それを市民たちで分け合ったとしたら、その行動は分配になるのでは無いでしょうか。
国の中では、大人数で団結した市民こそが最強の存在なのだから、その団結した市民が、少数の権力者や資産家から、命や金品を奪うというのは、先ほどのカリクレスの主張からすれば良いことだし、幸福につながる行為になります。

カリクレスが対話に乱入してくる際に、ソクラテスは本能的な考え方と社会的な考え方を意図的に取り違えることで、相手の意見が矛盾しているように仕向けているとして批判していましたが…
ソクラテスがカリクレスが主張する『力こそが正義』という考え方で、一つ一つ整理していくと、結局は同じような法律ができてしまうという結論になってしまいました。

しかしカリクレスは、この理屈に対して反発します。 カリクレスが主張する力とは、喧嘩で使うような単純な力ではなかったからです。
では、何を持って『力』と呼ぶのでしょうか。 それについては、また次回に話していこうと思います。

【原稿】第75回【ゴルギアス】勉強は社会に出ると無意味になるのか 前編

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前回はこちら
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今回の内容も、プラトンが書いた対話篇の『ゴルギアス』を、私自身が読み解いた上で、解説する内容となっています。
本を朗読しているわけではなく、重要だと思うテーマの部分に絞って解説していく内容となっているので、対話篇のすべての内容を知りたい方は、本を購入して読まれることをおすすめします。

不正を犯すのは魂の病気

前回の話では、不正を行うのと行われるのとでは、不正を行うほうが悪く、不正がバレるのとばれないのとでは、不正がバレた方が良いという事がわかりました。
不正を行うという行為は下劣で醜いもので、その下劣で醜い行動で無実のものを巻き込んで被害に遭わせるというのは、更に醜い行為で悪いものです。
そのような不正を働く人間というのは、魂が病気になっているので、一刻も早く治す必要があるので、出来るだけ早く不正を暴いて、裁判で罪の重さを明らかにし、刑罰をくだして真っ当な人間にしてあげるのが、その人のために成るという話でした。

逆に、敵を陥れたいのであれば、敵に甘い言葉を囁いて不正を行わせる必要があるし、その不正がバレ無いように全力で偽装する必要があるし…
万が一バレた場合は、裁判の場で有る事無い事をでっち上げて敵をかばい、刑罰を出来るだけ少なくするようにしなければならないというのが、ソクラテスの言い分でした。

しかし、この意見に対して対話を見学していたカリクレスが物言いを付けます。 何故ならソクラテスの主張は、世間一般の常識から言えば、真逆の主張になるからです。
一般的な感覚からすれば、敵を陥れる為に、不正を犯して有る事無い事をでっち上げて無実の敵を逮捕させて、裁判の場では不利な証言を行って重罪にして、重い刑罰を与えるのが、敵に対する態度のはずです。
ですが、ソクラテスの意見は、この一般的な価値観とは真逆です。まるで、友達に取るような態度を敵に対して取れと言っています。

これらの意見を横で聞いていたカリクレスは、『それでは世間の一般常識とは真逆になってしまう。』と反論しだします。
そしてこの後、ポロスに変わってカリクレスとの対話に移ります。

相対主義と絶対主義

カリクレスは、普通の感覚であれば、権力を握ってそれを振りかざして理不尽な行為を行うのと、その被害にあうのとでは、どちらが嫌かといえば、被害にあうほうが嫌なのに決まっていると主張します。
ポロスもそうですし、このカリクレスも、そして、これを聞かれている多くの方も同じように思われると思いますが… では何故、順を追って一つ一つ考えていくとソクラテスの言っていることが分かるのに、全体としてみると納得ができないのか。
それは、カリクレスやポロスや多くの人が相対主義なのに対し、ソクラテスは絶対主義だからです。 この主義の違いによって、意見が受け入れにくい状態になっています。

相対主義者が考える、善悪の基準は人の立場によって変わる一方で、ソクラテスの主張する絶対主義では、善悪の基準は1つしかありません。
善悪の基準が人の立場によって変わるのであれば、権力者の理不尽に耐えなければならない状態も悪いといえますし、不正を行って、捕まれば悪いけれども捕まらなければ良いといった感じで、状況に応じて善悪の基準を変えることが出来ます。
しかし、ソクラテスの主張する絶対主義では、善悪の基準は固定されます。 一方を良いとした場合は、反対側にあるもう一方は自動的に悪いとされます。

相対主義では、権力を振りかざして不正を行って理不尽を押し付けて、権力者が捕まった場合、捕まった権力者が悪いとされますが、反対側の理不尽を押し付けられた被害者も被害を受けたから悪い状態といえてしまいます。
何故、このようなことになるのかといえば、権力を持つ側の視点と被害を受ける側の視点の2つの観点から物事を考えるので、視点ごとに価値観が生まれてしまいます。
しかしソクラテスが主張する絶対主義では、価値観は1つしか無いため、不正を押し付ける側を悪い側だとした場合は、押し付けられた側は自動的に悪い状態ではないことになってしまいます。

『本能的な考え』と『社会的な考え』

カリクレスとの対話に話を戻すと、ポロスがソクラテスとの対話に負けてしまった理由は、人には『本能的な考え』と『社会的な考え』の、反発する2つの考え方があるからだと言います。
本能的な考えとは、『他人を支配出来るような巨大な力がほしい』とか『美味しいものを食べたい』とか『人の注目を浴びたい』とか『恐怖や痛い思いをしたくない』など、人が生きていると自然に抱く本能的な考えのことです。
社会的な考えとは、人間社会をうまい具合に持続するために必要な秩序に則った考え方のことです。 人がそれぞれの欲望だけに従って生きてしまうと社会は簡単に壊れてしまうので、社会を持続させるために後から取り入れた考え方です。

そして、秩序を守るために作られる法律は、皆が納得できるように論理的に作られているわけですが、人が本来持つ本能と論理の世界には隔たりがあります。
何故なら社会を維持する為の法律には、権力者の横暴や必要以上の権力の集中を食い止めるという役割もあるために、大多数の力も資産も持たない人間のことを考慮して作られているからです。
富や権力を持つ一部の人だけを優遇するような社会を前提に法律を作ってしまうと、大多数の市民の同意が得られないために、法律は守られることはなく、社会を安定的に維持する事はできません。

その為、権力が一部に集中しすぎないように、そして、富が一部に集中しすぎないように、権力や富は分散させるような法律が作られることになります。
このようにしなければ、国民は反乱を起こしてしまうでしょうから、社会を継続的に維持することが出来ません。
法律がこのような価値観のもとに制定されて運用されると、大多数の一般市民は、稼いだ富を分配する人間が良い人で、独り占めする人間が悪い人だという価値観に染まっていきます。

国の大多数の人間は富も権力も持たない市民なので、大多数の人間が、独り占めが悪で分配する人間が良い人だと思い込めば、国としての価値観もその様に染まっていきます。
しかし、人間の本能としては、稼いだ金は独り占めしたいし、手柄を立てたら一人の功績にしたい。 権力を握ったら、より大きな権力が欲しくなるし、全てを思い通りに動かす独裁者になりたいと思う。
この様に、人間が本来持つ本能的な考えと、社会を安定的に維持する考え方との間には隔たりがあって、価値観が逆転してしまいます。 カリクレスは、ソクラテスはこの2つの考え方を利用してポロスをハメたと言いがかりをつけます。

議論そっちのけで人格否定?

ソクラテスが行ったことは問いかけを行って、ポロスが本能的に答えた答えを社会的な考え方として取り扱う。 しかし先ほども言いましたが、本能的な考えと社会的な考えは、答えが正反対になる事があります。
この特徴を利用して、ポロスの答えが矛盾しているように演出をして討論に勝った卑怯者だと罵ります。

…ただ… ソクラテスは新たな人物が乱入するたびに、『恥ずべき行為』だとか『卑怯者』呼ばわりされているわけですが…
そもそも、ソクラテスが戦っている相手というのが、ギリシャの中でもトップレベルの弁論家や、その弟子だったりするわけです。
弁論家は、人を説得することが仕事なんですから、自分が培った口先の技術を使って、自分の意見を正論のように飾り立てて、ソクラテスを説得してしまえばよいだけです。

それが出来ずに、逆にソクラテスに説得されてしまって、その言い訳が『卑怯者!』っていうのは、色んな意味で弁論家として終わってる感じもするんですけれどもね。

またカリクレスは、ソクラテスがいい年をして哲学にのめり込んでいるのも否定します。ここでいう哲学とは、学問全般の勉強のことだと思っても大丈夫でしょう。
彼の主張としては、哲学というのは成人をむかえる前の子供が打ち込むものであって、大人になれば、お金の稼ぎ方であるとか権力を手に入れる方法など、社会で成功する方法を考えるべきだと主張します。

第74回【ゴルギアス】不正行為の加害者と被害者、哀れなのは何方か 後編

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醜い行為は悪い行為

つまり、美しいとされる肉体は、それぞれの地域の価値観に置いて卓越した肉体だと思われているもので、その肉体は、観るものに快楽を与えるため、目を奪うものでもある。
その真逆に位置するのが醜いという価値観で、劣った肉体は機能的に劣っていて、筋力も持久力も柔軟性もなく生命力も感じられない身体で、観るものを不快にする肉体です。
ここで、結局、見た目じゃないかと思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、厳密には見た目ではなく、その肉体が卓越しているかどうかなので、単純な見た目ではありません。

つまり、美しいものが何故、美しいのかというと、他のものと比べて何らかの点で優れた卓越した部分があるから、第三者から美しいと認識されるので、美しいものは良いものだし優れたものだといえるわけです。
美しいものは、優れて卓越した良いものだし、醜いものは、劣っていて悪いものだから醜いと認識されるんです。
この理屈を、先ほどの『不正を行うのと受けるのとでは、どちらが醜いのか』という質問と『不正を行うのと受けるのとでは、どちらが悪く害があるのか』という質問に当てはめて考えてみましょう。

この質問は、違う種類の2つの質問のように思えますが、違う部分はどちらが『醜いか』と『悪く害があるか』という点だけで、この2つは先ほどの理屈でいうと同じものだとわかったので、実質的には同じ質問だったということがわかります。
ソクラテスに言わせれば、『表現の違う同じ質問を投げかけたのに、何故、答えが違ってしまうのか』という事で、実は2つの質問は同じものだったと説明したわけです。

不正の加害者は被害者より醜く悪い

表現の違う2つの同じ質問をした事によって、ポロスの意見は2つに割れてしまったわけですが、では、不正を行う方と受ける方とでは、どちらが悪くて害があるのでしょうか。
この事について考えていくには、次のテーマである『不正を行っている場合、それがバレた方が良いのか、バレない方が良いのか。』について考えて行くことが近道になるので、まず、そちらから考えていくことにします。

誰かが誰かにアクションを起こす場合、行為を『行う方』と『行われる方』が存在します。 何かを『する方』と『される方』が関わる行為は、全く同じものになります。
例えば、誰かを殴るという行為を例に挙げると、殴る人間が行う殴るという行為と、受け手である殴られる行為は、拳の大きさやスピードや破壊力は、同じです。
殴るほうが弱く殴れば、殴られる方は弱く殴られて、強く殴れば、強く殴られます。

数値を使った別の例でいうと、誰かが100万円を貸すという行為を行った場合、貸すためには借り手が必要なので、借りる人が存在することになり、100万円貸すためには100万円を借りる人が必要になります。
この場合、貸し手が100万を貸したのに、借り手が1000万を借りた事になるといったことはありません。 貸し手が貸した金額と借り手が借りた金額は同じになります。

この理屈を、先ほどの『不正を行うものと不正を行われるものと、どちらが悪く害があるものか。』という話に当てはめてみましょう。
誰かに対して不正を行うということは、不正を行われる人間がいるということになります。 そして、行うものと行われるものが関わるものは同じものという事になります。この場合でいうと、不正という事になりますね。
そして、当然のことですが、不正というのは悪くて醜いものです。

では、悪くて醜い不正を、他人に対して無理やり押し付ける場合は、どちらが悪くて醜いのでしょうか。
もっと分かりやすくいうなら、何の罪もない人間に、一方的に汚物を投げつけるという行為は、投げつける人間が悪くて醜くてどうかしているのか、それとも、投げつけられたほうが悪くて醜いのかということです。
この質問に対してポロスは、『悪くて醜いものを他人に押し付ける側』の方が、悪いし醜いと答えます。

不正はバレない方が良いのか

では同じ様に、不正を行っている場合に、バレた方が良いのか、それとも、バレずに逃げ切るほうが良いのかについて考えていきます。
不正がバレるためには、誰かが不正を見破って暴く必要があるわけですが、不正を暴くという行為そのものは、良いことなのでしょうか、それとも、悪いことなのでしょうか。

人は社会を作ることで共存しているわけですが、人が共存するために必要なのが秩序で、その秩序を生み出すために作られたのが法律です。
その法律を自分の利益のためだけに破ることが不正ですが、その不正が横行してしまうと、人間社会は崩壊してしまいますし、人は生きていくことが出来ません。その不正を明らかにする行為は、良い行為といえるでしょう。
では、刑罰の方はどうなんでしょうか。 不正などの罪を犯したものに対して、何故、刑罰が与えられるのかというと、犯した罪の重さを身をもって感じることで、次も同じような過ちを犯さないようにするためです。

自分が悪いことをしたということを再確認して反省する機会を与えることで、人間を良い方向へ導こうとするものが刑罰なので、刑罰も良いものと考えられます。
前に、人間は魂と肉体の2つに分けて考えられるという話をしましたが、不正を行い、それがバレないように願う状態というのは、魂が病気に犯されて悪くなっている状態とも考えられます。
理解しやすいように、肉体が病気や怪我をして悪くなっている状態に例えて考えると、病気や怪我をして身体を悪くしてしまった際に行うことは、医者にかかることです。

医者は、病気を治すために薬を調合してくれたり、傷を治すために傷口を縫ってくれたりしますが、その治療は、患者にとっては苦痛を伴う場合もあります。
医者が調合する薬は苦くて、飲むのが苦痛な場合もありますし、傷口を縫うのは痛いかもしれません。 しかし、医者は患者の身体を治す為に治療を行っているわけで、その治療は、身体にとっては良い事のはずです。
しかし、それを理解できない子供のような無知な人間は、医者が行う苦痛を伴う行為を嫌がって、時には医者と反発したりもします。

ですが、病気の状態を放っておいて良いはずはなく、何の処置もせずに放置しておくと、病気や怪我は更に悪化して、取り返しのつかない事態を招いたりもします。
これは、肉体に限らず魂も同じだというのが、ソクラテスの考えです。
自分の欲望を満たしたり楽をする為だけに不正を行うというのは、魂が悪い病気の状態になっているのと同じなので、身体の怪我や病気がそうであるように、悪いと分かったら出来るだけ早く対処すべきだと主張します。

不正を犯す悪い魂には治療が必要

悪い体を治す際には、診断をして治療をするように、悪い魂を治療する場合には、どのような不正を働いたのかを裁判で明らかにして、罪の重さに応じた刑罰を与えることで、罪が浄化されて良い魂へと矯正されると考えます。
つまり、不正がバレるというのは、不正を行った者が悪いことが発覚することで、体の例で言うなら、診断がされた状態。そして、刑罰が下されるというのは治療が行われた状態なので、不正がバレるというのは当人にとっては良いことだということになります。

また、この理屈でいうなら、弁論術というものが討論の場に置いて、口先によってその場を支配して、相手を陥れる事で自分にとって良い状態を作り出す技術であるなら、相手が不正を行うように誘導しなければならないことになります。
そして、相手が不正を行ったとしても、それがバレ無いようにするべきだし、刑罰が下される際には、敵を全力で弁護することで、刑罰を軽くしてやるべきだと主張します。
そうすることによって討論相手は、不正を行って魂が悪い状態になったにも関わらず、正確な診断がされず、治療もされていない状態を作り出すことが出来て、相手を不幸にする事が出来るからです。

しかし、この理屈を横で聞いていたカリクレスが議論に割って入って、『その理屈はおかしい。』と主張します。 もし、ソクラテスの主張が正しいのであれば、私達の生活は全て真逆になってしまうと反発します。
そしてこれ以降、ソクラテスとカリクレスの間で討論が行われるのですが、その話はまた、次回にしようと思います。

中小企業診断士の勉強 5日目 規模の経済

この連載は、私が独学で中小企業診断士の受験勉強をしている際の記録です。
人に教える事を目標に勉強すると学習が早まるという噂を聞き、ブログで不特定多数の人にレクチャーするという体で書いています。
今勉強中の内容である為、書いている内容が間違っている可能性もあるので、受験生の方は鵜呑みにはせずに、テキストを確認することをお勧めします。




前回はこちら
kimniy8.hatenablog.com

目次

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前回は、外部環境の驚異について書いていったわけですが、今回は、それに対抗する為の戦略を、より詳しく書いていきます。

vs新規参入

その市場が成熟期に入っている場合、新規参入者は、将来の同業他社・ライバルとなる為に、非常に脅威となる。
では、その驚異を取り除くためには何が必要なのかというと、参入障壁を高くしてしまうという方法がある。
新規参入者が市場に入ってこようと思っても二の足を踏んでしまう状況さえ作ってしまえば、安易な新規参入はなくなり、将来のライバルが減るということになる。

では、どの様に参入障壁を高くするのかというと、まずは、規模の経済を追求することになる。
規模の経済とは、製品を大量生産することによって、製品1つあたりのコストを下げるという戦略です。
何故下がるのかというと、生産数を倍にしたからと言って、必ずしも生産コストは倍にはならないからです。

規模の経済

数字的なものは、財務会計の科目や簿記の分野になるのですが、簡単に説明すると、製品を作る製造コストは変動費と固定費に分割されます。
変動費は、その製品を作るために必要な素材や水道光熱費といったもので、このコストは、製品の生産数が倍になればコストも倍になり、生産数に比例して上昇していくことになります。
一方で、生産数に左右されず、毎月一定額しか計上されないコストがあります。

例えば、製造機械の償却費や家賃。 製造に直接関係がない経理や総務の給料などは、製品の生産数に関係がなく、毎月一定額が発生します。
もっと細かく分けるのであれば、水道光熱費は基本料金部分は固定費となり、製造に関わる人件費も基本給は固定費となります。(業務の増加による残業は変動費
つまり、製造数が少なく、職人の手待ち時間が多くなると、1つの製品に対する人件費などが上昇する感じで、生産数が少ないほどに固定費は割高となります。
逆に、生産数が増えるほどに製品1つあてりの固定費は低くなるため、コストが下げられることになります。

人件費という点でいえば、経験曲線効果というものも存在します。
漢字で書くと分かりにくいですが、簡単にいえば、配位手間もない新人が製品を作るよりも、その道10年のベテランが作った方が、同じ1時間でも作れる個数はベテランの法が多いよね!という話です。
この経験曲線効果は、製品の累計製造数に関係して上昇していき、ある一定レベルまで上昇すると止まります。
職歴1年で作業が倍早くなったから、2年で4倍、3年で8倍早くなるなんてことは有りません。 人の体なので、速さには限界があります。

主にコストの低下を重視するこの戦略は、コストリーダーシップ戦略とも呼ばれる。

規模の経済の注意点

間違えやすいのは、規模の経済は低コスト戦略であって、低価格戦略ではないということ。
コストが低く抑えることが出来るため、価格を低くしてシェアを取る戦略が取れるけれども、必ずしも、低価格戦略をしなければならないというわけではない。
低コストで製造して適正価格で販売をすれば、それだけ粗利が稼げることになる為、その利益をプロモーションなどに再投資することで、製品や自社の知名度を上げるという戦略も取ることが出来るし、生産体制の増強に資金を回せば、さらなるコストカットにもつながる。
この辺りのことは、後に学ぶマーケティングの項目で詳しく触れられている。

この他にも、多数の事業を抱えている場合は、他の事業に投資するという選択肢もある。
この場合、どの事業に投資するのかを決めるのにPPM(プロダクト・ポートフォリオ・マネージメント)を使用したりする。

差別化戦略

規模の経済を追求するというのは実現可能であれば有効な手段だけれども、全ての企業が取れる戦略ではない。
大量のものを生産するとなると、それなりの生産設備を保有していなければならないし、まだ生産体制が整っていないのであれば、設備投資によって生産体制を増強しなければならない。
どちらにしても、巨大な資本を持っていたりサプライチェーンを構築していることが前提となるので、採用できる企業は限られている。

そこで、独自の価値を追求して製品をブランド化することで、参入障壁を高めるという戦略が、差別化戦略
この商品といえばこれ!といった感じの状況を作り出してしまえば、他企業が後から新規参入をしてきたとしても、簡単にはシェアが奪われることはない。
参入企業側からしてみれば、参入したけれども思ったようにシェアが奪えないということになれば、湾入するのを躊躇することになる為、結果として参入障壁が上がる。

スマートフォン市場でいえば、Appleが取っているような戦略が、これに当たるのだろう。
後にマーケティングの分野で学ぶ、ブランド戦略に通ずる戦略。
見た目や機能・アフターサービスや知名度などで差別化を図ることで、生き残りや勝ち抜きを目指す戦略。

この他にも、集中戦略というものもある。
集中戦略は、幅広く多くの層に販売するのではなく、市場を細分化し、特定の層に向けて販売を行う手法。
どの様に細分化し、分類していくのかという細かい手法については、マーケティング分野で取り扱う。

この集中戦略と差別化戦略は、一部、重なる部分もあるが、全く同じというわけではない。

各戦略のリスク

低コスト戦略の場合は、他社が同じ戦略を行なってきた場合に、価格競争に巻き込まれる可能性が高くなる。
市場が拡大傾向のときは、その動きは少ないかもしれないが、衰退期に入って市場が縮小していった際には、特に、価格の切り下げ競争に突入せざるを得なくなり、稼ぎづらくなる。
価格競争が起きて一番ダメージを受けるのは、巨額の投資を行い、市場シェアを多くとっているリーダー的な立ち位置の会社となる。
(売上は、価格と販売数の積なので、販売数が大きい企業ほど、価格の影響を受けやすい。)

差別化戦略を採用した際のリスクとして一番大きいのは、模倣。
差別化して売上が伸びているということは、その商品に顧客が惹きつけられている理由があるからだけれども、その部分を模倣されてしまえば、シェアを奪われることになる。
特に、分かりやすい特徴で差別化を図っている場合は、誰の目から見ても商品の魅力ポイントが分かる為、簡単に模倣されてしまう。
その為、模倣困難性を高めて、簡単には模倣されにくい性質にする必要がある。

集中戦略のリスクは、模倣や新規参入ということになる。
集中戦略は、他の企業が入り込まないような、一見すると採算が合わないような市場に入り込み、事業を行うわけだけれども、他社がその市場の魅力に気がついて新規参入してきたとすると、かなりの脅威となる。
仮に、大きな資本が入り込んできたとすれば、あっという間に製品や戦略が模倣されて、市場シェアを奪われる可能性すらある。

中小企業診断士の勉強 4日目 ポーターの競争戦略論

この連載は、私が独学で中小企業診断士の受験勉強をしている際の記録です。
人に教える事を目標に勉強すると学習が早まるという噂を聞き、ブログで不特定多数の人にレクチャーするという体で書いています。
今勉強中の内容である為、書いている内容が間違っている可能性もあるので、受験生の方は鵜呑みにはせずに、テキストを確認することをお勧めします。




前回はこちら
kimniy8.hatenablog.com

目次

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前回の更新から随分と時間が経ってしまいました。
言い訳をすると、日々、勉強をしていなかったわけではありません。毎日、時間を作っては勉強をしていたのですが、勉強の仕方として、1科目ずつ完成させていくスタイルでは勉強を行なっていません。
何回も復習することを前提にして、数日単位で勉強する科目を変えています。

その為、他の科目。例えば、財務会計の科目を勉強中に企業経営理論のブログを書く気持ちにはなれず、期間が空いてしまいました。
ですが、再び企業経営理論の復習期間に戻ってきた為、再び、執筆を開始します。
今後、似たような理由で更新期間が悪可能性もありますが、予め、ご了承ください。

ポーターの競争戦略論

前回までの投稿で、企業にはまず、企業が存在する目的としての企業理念が必要で、それを元にして、企業ドメインや事業ドメインが作られて、経営戦略が練られるという話をしていきました。
その戦略の練り方ですが、大きく分けて2つ存在します。
1つは、企業の強みを分析して、それを生かした戦略造りをするという方法で、前回に紹介したコアコンピタンスなどがそれに当たります。 似たような用語としてはケイパビリティなどがあります。

そして、もう1つのアプローチ方法が、外部の環境を意識したアプローチ方法で、それが、企業のポジショニングを意識したポーターの競争戦略論になります。
(注意: どちらかが正解で、もう一方が間違っているというわけではない。)

内部環境と外部環境の違いをもう少し詳しく書くと、内部環境というのは、抱えている人材や設備は、他社に比べてどの点で優れているのかと言ったことを分析し、他社にできないものを社会に提供することで、事業を継続していこうという考えです。
既に大きな生産設備を抱えていたり、専門分野に詳しい社員を抱えている。または、育成方法が確立しているといった感じで、他社が真似しようと思っても簡単に真似できないような強みがあるのであれば、それを最大限に利用して事業展開をすれば、競争を優位に進めることができます。

一方で、外部環境に焦点を当てる戦略というのは、自分の市場でのポジショニングを確認して、その中で生き抜く戦略を考えていく方法です。
例えば、自分の会社が何らかのものを生産して販売することを目的として存在している製造業だとします。
多くの製造業は、素材を1から自分で集めて製品を作り、それを顧客一人一人に販売するなんてことは行なっていません。

素材の調達は、素材の調達や開発を専門で行っている会社に発注し、販売は、流通システムに乗せることで手間を省いています。
このように、一つの製品を製造して市場に流す場合でも、資源の調達から販売までで、自社以外の多くの会社が関わってくることになります。
この、自社以外の環境が、外部環境です。

業界構造の分析(5フォースモデル)

自社を取り囲む環境には、5つの注意しなければならない要因があります。
1つは、一番身近で分かりやすい、同業他社の存在です。
似たような商品を作って販売する同業他社の動向は、絶えず注意が必要で、彼らを意識した戦略は常に求められます。

では、その他の4つは何なのかというと、新規参入・供給業者・買い手・代替品です。

ひとつひとつ見ていきましょう。

新規参入

まず、新規参入ですが、これはそのままで、新たなライバルの登場です。
自分たちが関わってくる市場に、新たに参入してくるライバル企業で、将来の同業他社となる存在です。

これが、どの割合で乱入してくるのかというのは、その業界自体の参入障壁の高さが重要になってきます。
仮に、国が規制などをしていて、新たに事業参入するのが非常に難しい業界であれば、新規参入の事はほぼ考えなくても良いでしょう。
例えばテレビ業界などは、新たに電波帯域を借りて新たにテレビ局を作るというのは難しいため、参入障壁としては非常に高い為、この分野における新規参入に気を使う必要はありません。

一方で飲食店などは、数百万の軍資金が有れば誰でも開業が可能である為、参入障壁は非常に高いといえます。

代替品

自分たちが関わっている市場の参入障壁が非常に高いからといって、安泰なのかといえば、必ずしもそうとは言えません。
先程、例を上げたテレビ局は、参入障壁が非常に高い業界といえますが、テレビに代わる代替品が存在し、そこにシェアが奪われる形になっている為、代替品による驚異にさらされている状態と言えます。

具体的には、ネットの登場により、従来の電波が必要ない状態で番組を配信することが可能になってしまいました。
また、最新のテレビにはネット接続機能が付いているため、わざわざPCを立ち上げなくとも、大きな画面でネット配信のNetflixyoutubeを観ることが可能になりました。
新たに登場したネット配信は、テレビのように番組表に沿って放送をしなければならないなんてことはなく、視聴者が好きなタイミングで好きな番組を何度でも繰り返し観ることが可能である為、機能的には従来の放送を上回っています。

この代替品の登場により、テレビ局は更なる競争力の強化を求められることになります。

買い手と供給業者

買い手と供給業者は、主に製造業で関係してくる重要な要素です。
まず買い手についてですが、製造業が作った製品は、何らかの龍柱システムに乗せることで消費者に行き渡ることになります。
販売を全て自社で行う事も可能ですが、その場合は、販売店の運営費などを自社で負担する必要も出てくる為、コストが非常に大きくなり、そのコストを削ってしまうと、本来顧客になるはずの人の手に渡らないという機会損失が発生してしまう可能性があります。

ですが、これを流通システムに乗せることによって、コストを大幅に抑えることが出来る上に、機会損失も回避することが出来るようになります。
具体的には、日用品を作っているメーカーが商品を売る場合、スーパーマーケットやドラッグストア・コンビニなどに卸せば、販売店舗が一気に数万点になる上に、各企業が持つ運送システムに乗っかることが出来るため、非常に効率が良くなります。
ですが、この買い手である流注業者の力が強くなり過ぎれば、それは新たな脅威となります。

例えば、製品を主にコンビニ向けに展開していて、自社の売上割合の9割がコンビニ販売になっていた場合、コンビニ側が無理な値下げを要求してきた際に、その要求を飲まなければならない事態に追い込まれることになります。
最近の実際にあった例でいえば、ネット販売を主力にしていた企業は、Amazon楽天の無理なコスト上乗せを飲まざるを得ない状況に追い込まれていたりと、問題になっていますよね。
この様に、買い手の力が強すぎると、相手の交渉力が強くなりすぎてしまうために、驚異となります。

供給業者は、これの逆です。
製造業が製品を作る際に、特定の材料が絶対にいるとしましょう。 その材料を製造している業者が世界に1つしかない場合、製品を作る場合にはその会社から材料を買うことを強制されている状態と同じになる為、供給業者の力が非常に強くなってしまいます。
この状況で、供給業者が無理な値上げ要求をしてきたとしても、それを飲まざるをえないので、驚異となります。

外部環境の生存戦略

外部環境を主軸にした戦略とは、これらの驚異に対処する為の戦略となります。
内部環境を主軸にした場合と比べると、後退しているようなイメージもありますが、実際の戦略には責の姿勢もあったりする為、必ずしも後ろ向きというわけではありません。
例えば、外部環境で生き抜くために内部環境の分析を行なって、自社の強みを探って伸ばすなどです。

第74回【ゴルギアス】不正行為の加害者と被害者、哀れなのは何方か 前編

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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前回はこちら
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今回の内容も、プラトンが書いた対話篇の『ゴルギアス』を、私自身が読み解いた上で、解説する内容となっています。
本を朗読しているわけではなく、重要だと思うテーマの部分に絞って解説していく内容となっているので、対話篇のすべての内容を知りたい方は、本を購入して読まれることをおすすめします。

不正行為で幸福は手に入るのか

前回は、人の行動は目的と手段に分けることが出来て、行動の善悪は目的の善悪によって左右されるという話をしました。
手段そのものは、良いものでも悪いものでもなく、その手段を達成する目的が良い目的なのであれば、良い目的を達成するための手段も正当化され、このようにして行われた行動は幸福につながる。
その一方で、悪い目的のためにとられる手段は不正であり、不正を働くことこそが不幸へと繋がる道なので全力で避けるべきだとういのが、ソクラテスの主張でした。

しかしポロスは、この意見に納得することが出来ません。 何故なら、不正を行いながら幸福と呼べる人生を謳歌している人間を知っているからです。
では、不正を行いながら、幸福と呼べる人生を歩んでいる人物とは、どのような人物なのでしょうか。 ポロスによると、その人物はマケドニアの王様のようです。 マケドニアといえば、アレクサンダー大王を生んだ国で有名ですよね。
このマケドニアの王は、王様と奴隷との間に生まれた子供で、王位継承権は低く、本来であれば、奴隷の子として惨めな一生を送る予定だった人物です。

しかしこの人物は、自分の親戚や兄弟を次々に暗殺していき、最終的には王位継承権を手に入れて、一国の王にまで登りつめます。
古代に限らず、中世などでも玉座を争って身内同士の殺し合いが行われるというのは珍しい事ではありませんが、人の命を奪ってまで地位を手に入れようとする行為は、いつの時代でも褒められたものではありません。
また、ポロスが例に上げたこの人物は、真っ向から勝負を挑んでライバルを倒していったのではなく、騙し討や暗殺によって人を殺めて、その地位を手に入れました。

奴隷の身分だったものが、殺人という最大の不正行為を繰り返すことによって到達したのは、不幸な現実ではなく、その国で一番偉いとされる王様の地位。
王様は、自分の命令一つでどのようなことでも実行できてしまう権力を持つ上に、それ以上に偉い人間がいないわけですから、誰からも裁かれることもない。もっとも幸福な地位につく事に成功しました。
ソクラテスの主張では、不正を行えば不幸になるはずなのに、このマケドニアの王は、数多くの不正を行った結果、国で一番の権力を手に入れて、不正を裁かれることのないような地位につくことが出来ています。

行動だけで善悪はわからない

この王様は、不幸なのでしょうか。それとも、幸福なのでしょうか。
ソクラテスは、この質問に答えることが出来ません。 何故なら、例として挙げられたマケドニアの王については、名前程度しか知らないからです。
ポロスからの一方的な話を聞いただけでは、その人物が何故、そのような行動をとったのかが分かりませんし、彼が行ったことが不正行為なのか正当な行為なのかも分かりません。

前回からも言っている通り、ソクラテスの主張としては、目的が善であるなら、その行動は善になり、その逆なら悪になるというものです。
ポロスの言う通り、罪もないライバルたちの命を、自分が王になりたいという欲望のみで奪っていったとしたなら、その行為は不正な行為で、彼の人生は不幸なものとなりますが、そうでなかったとしたらどうでしょう。
彼以外の全てのライバルが、王になれる器ではなく、私利私欲の為だけに動くような人物で、その者たちが王に成れば民が苦しむと思い、多くの市民のために行動を起こしたのであれば、事情は変わってきます。

不正は刑罰によって浄化される

ポロスの一方的な話だけでは、そのどちらなのかを見極めることが出来ないので、わからないと答えます。
しかし、仮に彼が不正を働いていたとしても、逮捕されて裁きを受け入れれば幸福になれると、ソクラテスは主張します。

この意見に、ポロスはまたしても理解することが出来ません。 何故なら、不正を行って絶対的な権力を手に入れたとしても、逮捕されて投獄されてしまえば元も子もないからです。
前回、ソクラテスはポロスに対して、私利私欲に走って、ワガママに暴走して不正を働く権力者には憧れるのに、銀行強盗に憧れないのはなぜかと聞きました。
権力者でも銀行強盗でも、不正を行うという点では同じで、不正を行って手に入れるものも同じなら、この2つは同じものと考えられるのに、何故、一方には憧れて、もう一方には憧れないのかと問いかけましたが…

今回の議論で、ポロスが何故、権力者にだけ憧れるのかがわかりますよね。 その国で一番の権力者になれば、自分を捕まえて裁く人間は誰も居ないからです。
つまりポロスは、不正を行うことは悪いことだとは思っておらず、それがバレて逮捕されることが悪いことで、不幸な事だと思っているわけです。
このポロスの感覚に共感する人は、現在でも多いと思います。 スピード違反や駐車禁止が見つかって罰金を請求されることは、運が悪いことだとか、万引きをして捕まらなければ得をしたと思う人間は結構いると思います。

ポロスの価値観では、犯罪や違反を行うことそのものは悪いことではなく、むしろ、それらが見つからなければルールを守っている人間を出し抜けるのだから、効率が良いとすら考えているのでしょう。
しかし、それらが見つかってしまえば、せっかく得をしたことが帳消しになるどころか、刑罰や罰金によって、不正を行うことで得たプラスが消し飛んでマイナスになってしまうので、不幸だと考えているわけです。
一方でソクラテスは、不正や違反そのものが悪い事だと考えているので、ポロスと意見が合わないわけです。 しかしソクラテスは、順序立てて考えていけば、同じ考えになるとして、物事を1つ1つ分解して考えていきます。

不正を犯すのか被害に遭うのか

物事を順序だ立てて一つ一つ考えるために、ソクラテスはまず、前提条件を確かめる為にポロスに質問をします。
まず、不正を行うのか、それとも、他人の行った不正の被害を受けるのか、どちらが悪く、害のある出来事かをポロスに対して質問し、ポロスは、不正の被害に会うほうが悪い行動で、害がある行動だと答えます。
このポロスの考えは、今までの彼の発言と一致していますよね。

次にソクラテスは、より醜い行動は、不正を行うことなのか、それとも、不正の被害にあうことなのか、どちらかを聞き、これに対してポロスは、不正を行う方が醜い行動だと答えます。
この答えを聞いたソクラテスは、より醜い行動が不正を行うという行動なら、悪くて害がある行動も、不正を行う方にならないとおかしいと言い出します。
このソクラテスの発言にポロスは困惑しますが、ソクラテスは、ポロスが先ほどの発言を受け入れられないのは、美しい事と良い事は同じではないし、醜い事と悪い事は同じではないと考えているからだと指摘します。

美しさとは

そして、『美しさ』と『良い事』が、『醜さ』と『悪い事』がそれぞれ同じである事を、説明しだします。
この説明に入る前に、誤解のないように言っておきますと、このゴルギアスに限らず、ソクラテスが『美しさ』というテーマで語る時の『美しさ』とは、多くの人が想像するような造形美のような見た目の美しさではありません。
『美しさ』を、見た目の美しさだけだと勘違いしてしまうと、今後の議論が誤解によって全て意味のないものになってしまうので、注意してください。

ソクラテスは、『美しい』という事と『良い事』は同じことだと主張してしますが、芸能人やモデルのように、外見の美しさが優れているものが、良いものだし卓越した素晴らしいものだとは言っていません。
では、ソクラテスが語る『美しさ』とは何なのかというと、アテレーを宿しているかどうかです。
例えばソクラテスは他の作品で、ギリシャ内でもっとも美しい人物を聞かれた際に、前に取り上げたソフィストプロタゴラスの名前を挙げています。

プロタゴラスは、ソクラテスよりもかなり年上で、ソクラテスからみればお爺さんのような存在ですが、何故、そんなプロタゴラスギリシャ全土でトップレベルに美しいのかというと、彼が豊富な知識を持っているからです。
プロタゴラスは豊富な知識を持ち、多くの人が彼の知識を頼って尋ねてくるし、宿すことで優れた存在になれると言われているアテレーを研究し、実際に出来るかどうかは置いておいて、他人にアテレーを教えている人物です。
多くの人が、彼の演説を聴くために大金を払い、耳を傾ける存在です。 プロタゴラスのことを多くの人が賢者だと認め、彼を優れた人物だと評価する人が大勢いるので、彼をアテレーを宿したものだとして、美しい人だと言っています。

良いことは美しく悪いことは醜い

話を戻して、美しさや醜さについて考えてみると、そもそも人が見て美しいというのは、どういうものなのでしょうか。
例えば、人間の肉体を見て美しいと思う場合。 先程の話ではないですが、見た目であるプロポーションが美しいと感じる場合、冷静になって考えると、身体の比率に美しさが宿っているわけではありませんよね。
特定のプロポーションを見て美しいと感じるのは、その比率や造形に美しさが宿っているのではなく、そのプロポーションの肉体には、何らかの点において優れた点があるからです。

肉体において優れているとは、筋力が有るとか持久力が有るとか、柔軟性に優れているなど、肉体の能力的に優れている事なのですが、これらの全てを満たした肉体というのは、優れた造形になってしまいますよね。
機能美と言えばよいのでしょうか。 瞬発力や持久力や柔軟性を兼ね備えた肉体というのは、余計な脂肪や大き過ぎる筋肉はついていないですし、機能的に優れたプロポーションをしています。
そのプロポーションの事を美しいと言っているだけで、単純にウエストの絶対値が細いだけの体を見ても美しいとは言いませんよね。

このプロポーションも、地域や環境によって、美しいと感じる価値観が変わってきます。食糧難で食べ物がない地域で、みんながやせ細った人しか居ない地域では、脂肪がついたまるまると太った人を見て美しいと感じる地域もあるでしょう。
地域や環境によって、人が美しいという価値観は変わりますが、その美しいとされている人を観ていると、心地よく、目を奪われてじっとみてしまったりもします。
この様に、人が美しいと感じる肉体は、絶対的なプロポーションではなく、それぞれの地域の価値観で機能的だと思われたものが美しいと思われています。 そして当然ですが、その逆が醜いということになります。

【Podcast原稿】第73回【ゴルギアス】目的は全てに優先される 後編

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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哀れなのは被害者か加害者か

ポロスはソクラテスに対し、『あんたは、正当な理由もなしに理不尽にも他人の命や財産を奪うような人間は、哀れんでやるべきだというが… 本当に哀れんでやるべきなのは、被害者の方なんじゃァないか?』と詰め寄ります。
このポロスの主張も、一般的な感覚としては非常によくわかります。 被害者に何の落ち度もない、通り魔殺人事件に巻き込まれた場合、一番可愛そうで哀れなのは犯人ではなく、被害者であるはずです。
今現在でも、悲惨な事件が起こった際に人権派の弁護士などが、『事件を起こした加害者の方も、ある意味では被害者なんです。』といった感じの主張をする事がありますが、そのような意見はネット民たちによって非難されて、時には炎上しますよね。

この様に、一般的な感覚でいえば、不正を行う加害者側よりも、不正を行われる被害者の方こそが哀れで可愛そうな存在だと考える人が、多いと思います。
権力者のワガママによって、罪をでっち上げられて裁きを受けたり、難癖をつけられて全財産を没収されるような出来事は、加害者である権力者よりも、被害者のほうが可愛そうだと考えるポロスの主張は、理解しやすいですよね。
しかしソクラテスは、不正を働く権力者の方が可愛そうな存在で、哀れみをかけてやるべきだと主張しますし、不正を行うぐらいなら、不正を受けるほうがマシだとも主張します。

これは、自分が高い地位に登りつめて、権力を手に入れて、自分の欲望に従って権力を振り回して不正を行うぐらいなら、暴君が行う不正によって殺されたほうがマシだと言っているのと同じです。
人の上に立って、秩序を無視して自由に振る舞うよりも、他人の不正によって殺されたほうがマシだという理屈ですが、ポロスはますます理解することが出来ません。
命を失うというのは、生きている人間にとって最大の損失ですし、それが他人のワガママで言いがかりによって奪われるという行為は、到底受け入れることが出来ないからです。

では何故、ソクラテスは一般的な感覚では理解できないような、このような理屈を主張するのでしょうか。
それは、ソクラテスが考える最大の不幸な状態は、不正を犯すことだからです。 ソクラテスは、人生の目標は幸福に設定すべきだと考えています。 その目標の真逆に位置するのが、不幸です。
目指すべきゴールは幸福であるはずなのに、力を行使した結果が不幸になってしまうのであれば、それは哀れなことだし、そのような力を持つ独裁者になる事が哀れであるなら、独裁者にはなるべきではないというのが、ソクラテスの考えです。

犯罪者は憧れの対象になるか

しかしこれでも、ポロスは納得ができません。 だって、独裁者になれば皆が自分に跪きますし、命令を聞いてくれます。 誰もがそのような地位に収まりたいと思うのに、それが哀れなっことだと言うのが理解できません。
そこでソクラテスは、ポロスに対してこんな例え話をします。

まず、武器などを一切持たずに、多くの人が集会所に集まっている場合を想像してみてください。 集会は、政治的な集会でも町内会でも何でも良いですが、とにかく、武装をせずに人が一箇所に集まる状況を想定します。
そこに唯一、一人だけ武器を隠し持った人間が、その集会に参加したとします。
武器を隠し持った人間は、集会所で話されている内容をしばらく聞いた後、議論の結果が自分の思い通りにならなかった事に腹を立てて、議長の首筋に武器を当てて、その場にいる全員を脅したとします。

この武器を持つ人間は、この集会の中で唯一、武力という力を持つ人間で、その場を支配して自分の思い通りの要求を出すことが出来ます。歯向かう人間が出てきたら、みせしめの為に命を奪うことも躊躇しません。
このような状況は、権力者が武力を背景にして、力を持たない人間に対して不正を行って、無理な要求を突きつけている状況と同じですが、ポロスは、このような人間に憧れるのでしょうか。

別の例でいえば、誰も武装していない銀行に、武器を持って押し入って金を奪う銀行強盗を思い出してもらっても良いでしょう。
銀行強盗達は、人の命を簡単に奪える強力な武器で一般市民を威嚇して、その脅威をチラつかせる事で不正を行って、他人の金を自分のものにしようとします。
ポロスの話では、権力者は自分のワガママによって、他人の資産を奪って自分のものに出来る力があり、誰もが憧れると言っていましたが、では、銀行強盗に憧れるのでしょうか。

この問いかけに対してポロスは、そのような犯罪者たちには憧れないと主張します。では何故、憧れないのでしょうか。
ポロスは今まで散々、権力者に対するあこがれを熱く語っていました。 気に入らない相手を、自分の命令一つで逮捕して拘束し、死刑を言い渡して命を奪う力や、資産家に難癖をつけて財産を奪ってしまえる、そんな権力が欲しいと主張していました。
武器で威嚇して、恐怖によって相手を自分の思い通りに動かす行為も、他人の財産を奪って自分のものにする銀行強盗も、やってる事は権力者と同じですし、手に入れることができるものも権力者と同じです。

手段そのものに善悪はあるのか

不正を働く権力者が行っていることは、銀行強盗などの犯罪に手を染める犯罪者の行動と全く同じなのですが、では何故、権力者には憧れて、犯罪者には憧れないのでしょうか。
権力者のワガママとは違い、犯罪者が行う行為は、行為そのものが悪だからでしょうか。 確かに、犯罪は悪い行為ですが、では、犯罪者が目的を達成するために行った行動そのものは、悪い行動なのでしょうか。

例えば、現実世界では そうそう無いことですが、ドラマや漫画の世界などで起こりそうな事として、人々が多く集まったり、利用する駅などの施設の何処かに爆弾が仕掛けられていることを、一般人である主人公の少年が知ってしまうという展開があります。
警察官でも大人でもない一般人の少年が、駅の真ん中で唐突に『爆弾が仕掛けられてるから逃げろ』と警告したとして、それを聞き入れる人々は少なく、避難が行われない。
このような状況で、被害を最小限にしようと思った少年が、誰かの首筋にガラス片などの何らかの武器などをあてがって騒ぎを起こして、取り敢えず非難をさせるといったストーリーがあります。

この少年が行った手段は、先ほどの犯罪者と全く同じで、武器を持たない人たちに対して自分だけが武器を持つことで脅迫するといった行動です。
では、この少年が行ったことは不正であって、褒められたものではないのでしょうか。 少年は、不正を行わずにみんなに対して呼びかけるだけにとどめておいて、聞き入れない人間は爆発に巻き込まれて死んだほうが良かったのでしょうか。
少年が選んだ手段は、武器を持たない人達に対して武器を使って脅し、恐怖によって自分の思い通りの行動を取らせるという、先ほど例を挙げた犯罪者が取った手段と全く同じ行動です。 

手口が犯罪者と同じだから、この少年の行ったことも不正だし、この少年は憎むべき犯罪者として逮捕されるべきなのでしょうか。
多くの人が、前に例を出した犯罪者たちと、今回例に出した少年は同じではないと思うはずです。では何故、同じ手段を選んでいるのにも関わらず、片方は悪で、もう片方はそうとは言えないのでしょうか。
冷静になって、ゆっくり考えてみるとわかりますが、目的を達成するための手段としての行動そのものは、良いとも悪いとも言えないものです。

目的は全てに優先される

では、一連の行動の善悪を決めるのは何なんでしょうか。 行われた行動は、何を基準にして善悪が決められるのでしょうか。その境界に、ビシッ!と境界線を引くことは可能なのだろうか。
ポロスは、この投げかけに対して答えることは出来ずに、その答えをソクラテスに求めます。
これにたいしてソクラテスは、目的を設定する際の基準で分かれると答えます。 つまり、正義を元にして目的を定めた場合は、その目的のための手段もひっくるめて良い行動となるわけです。

逆に、自分だけの欲望を満たしたいといった悪い考えによって生まれた目的は、それを達成する手段も含めて悪い行動だと言えます。
つまり、権力者が行っていることも犯罪者が行っていることも、その目的が悪によって設定されていれば、それによって起こされる手段は不正であって、悪い行動であるということです。
悪い目的を叶えるための手段は、それを行ったものを不幸に導き、良い目的を叶えるための手段は、それを実行したものを幸福へと導いてくれる。

人は、不正を行わずに、正義を前提とした目標を建てて、それを目指して進んでいくべきで、堂々と不正を行えるからという理由で権力者を目指すのは間違っていると主張します。
しかし、この話もまた、ポロスには納得できません。 何故ならポロスは、不正を行いながら幸福な人生を謳歌している人間を知っているからです。
それは、どのような人なのか。 その話はまた、次回にしていこうと思います。