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ホワイトカラーではないブルーカラーからの視点

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第76回【ゴルギアス】負けた奴が悪 後編

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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目次

欲望の力

カリクレスの主張は、一見するとメチャクチャなようにも思えますが、小賢しい理屈を並べて相手を論破しようとする意見ではなく、自分の本心に忠実な言葉であるために、聞く人の心を響かせます。
その為、このカリクレスの主張を理解できる人は多いのではないでしょうか。
人は、幸福になるために生まれてきたといっても過言ではないでしょう。 この世が地獄で、この世界は刑罰を科せられるためだけにあると思ってるような人以外は、皆、幸せになることを目標に生きていると思います。

カリクレスが考える幸せとは、満足感です。 そして、満足感を得るために必要になるのが、欲望です。 お腹が空いている時に美味しいご飯を食べると、お腹が満たされて幸せな気持ちになる。
前から憧れていたオシャレな服を買って、それを着ることで周りの皆から注目を集めることで、満足感を得る。 そして、みんなを支配する権力者を目指して、実際に権力を手に入れる。
物であったり立場であったり、権力などの力を欲しいと思う欲望が先にあって、それを得るために行動を起こして、実際に獲得できた時に満足感を得る。 その満足感の中に幸せがあり、それを追求するのが人の人生だという主張は、納得する人が多いでしょう。

特にいま現在は、資本主義を採用する国が多いですが、資本主義とは欲望を原動力にした経済システムなので、資本主義社会を発展させるために一番必要なのは、技術などではなくて欲望です。
人々の欲望が高まれば高まるほど、人々はより多くのものを欲しいと思うため、多くのものが販売されるようになりますが、販売するためには多くの商品を用意しなければならないので、生産活動が活発になります。
ものを生産する為には、沢山の労働者や生産するための設備が必要ですが、皆が労働者を求めれば、労働市場の需要と供給のバランスによって労働者の給料が引き上げられますし、生産設備の拡張のために土地や建物や機械が販売されれば、更に需要が膨らみます。

みんなの欲望が高まれば高まる程、資本主義経済に参加している人達の給料をはじめとした職場環境は改善していきますし、労働者の給料が高くなれば、労働者達は更に多くのものが買えるようになる為、給料の増加に応じて欲望をスケールアップさせていきます。
人々が欲望を持ち、それを満たすために経済活動を行い、経済活動が活発になることによって労働者の給料が上がり、より多くのものが買えるようになることによって、欲望はスケールアップしていく。
この繰り返しによって、資本主義経済はどんどん膨張していきますし、その経済活動に参加している人達は、より大きな欲望を生み出して叶えていくことで、満足感を得続ける事が出来る。

結果として、経済システムに参加している人達の多くが幸せになるというのが、資本主義の基本的な考え方です。

相対的な幸福

資本主義とは、カリクレスの主張する通りの経済システムなので、このシステムの下で暮らしている人達は、カリクレスの主張をすんなり受け入れることが出来ると思います。
何故なら、仮に、ソクラテスのいう通りに、みんなが足るを知り、欲望を抑えて生きようとした場合、みんなが物を買わないわけですから、経済は冷え込みます。

物が売れないということは、企業は沢山の労働者を雇って生産能力を確保する必要がない上に、利益も出ない状態なので、給料が下げられたりと労働環境は悪化していきます。
まぁ、給料が下がったとしても、人々は欲望は抱かないので、当面の間は生活に困ることはないのでしょうけれども、この状態が行き過ぎてしまった場合は、多くの企業は倒産に追い込まれて、多くの人の収入源が断たれることになります。
こうなると、多くの人が生活保護で生きていくことになりますが、大半の人間が生活保護を受けた場合、財源が無くなってしまうために、国はいずれ崩壊してしまうでしょう。

国が崩壊し、収入が完全に絶たれてしまうと、その日を食いつなぐ事すら困難になりますが、この様な状態が幸せだといえるのでしょうか。
足るを知り、物欲を捨て去った結果、訪れる人生が、その日を食いつなぐことすら困難な人生であるのなら、その様な人生に意味はあるのかと思ってしまうカリクレスの主張は、かなり説得力があります。

では、説得力があるからカリクレスの主張は正しいのかというと、必ずしもそうではありません。 というのも、カリクレスの主張する幸せという価値観は、相対主義的な価値観だからです。
カリクレスは、欲望を満たすことが良い事だとしていますが、そこにタブーを設けてはいません。

仮に、親友の彼女を見て『あの女が欲しい』という欲望が生まれた場合、カリクレスの主張では、親友から彼女を奪って満足感を得ることが良いとされます。
もし、彼女を奪い取れなかった場合は、自分にそれだけの実力がなかったから自分が悪いということになり、奪い取ることに成功した場合は、親友に彼女をつなぎとめておく実力がなかったから悪い。
正義や悪というのは、この世に存在する人の数だけ存在して、その人達の行動の結果によって、善悪が決定するという考え方です。

負けた奴が悪

カリクレスが主張するには、ペルシャの支配者であるクルセクルスがスパルタに攻め込んできた際に、レオニダスは300人の兵士しか用意できずに、負けてしまったのは、レオニダスの力がなかったせいで、彼が悪いという事になります。
ギリシャでオリンピックが開催されていて、その祭り中に争い事が禁止だからといって、神のお告げを聞く神託管が口を出してきたとしても、レオニダスの権力が絶対的なものであれば、神託官は反対しなかったはず。
その反対をねじ伏せることが出来ず、結果として大軍を前に300人という少数で立ち向かわなければならなかったのは、彼に力がなかっただけなので、彼が悪い。

逆に、ペルシャ全土を支配し、大群を率いてギリシャまで遠征してこれたクルセクルスには、それだけの力があったということだから、彼が正義だという考え方です。つまり、負けた方が悪という事です。
では、クルセクルスが絶対的な正義なのかというと、そうではなく、クルセクルス自身も、後にギリシャに敗北しているために、彼は悪とされます。
また個人としても、最終的には側近であるアルタバノスに暗殺される為、側近すら従わせる力がなかったものとして、悪とされます。

欲望を抱き、その欲望を満たすことができれば幸福で、その行動そのものが正義だけれども、欲望を抱いても満たせなかった場合は、不幸になる為に悪となる。
世界はこの様な仕組みになっているから、幸せになりたいのであれば、欲望を満たすための力を持たなければならない。 そしてその為には、権力者に近寄って気に入られるような社交術が必要となるというのが、カリクレスの意見です。

ですがソクラテスは、このカリクレスの主張に納得が出来ず、様々な例え話を駆使して、納得がいかないことをカリクレスに伝えますが…
その話はまた、次回にしていこうと思います。

【Podcast原稿】第76回【ゴルギアス】負けた奴が悪 前編

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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前回はこちら
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今回の内容も、プラトンが書いた対話篇の『ゴルギアス』を、私自身が読み解いた上で、解説する内容となっています。
本を朗読しているわけではなく、重要だと思うテーマの部分に絞って解説していく内容となっているので、対話篇のすべての内容を知りたい方は、本を購入して読まれることをおすすめします。

少数と多数の力

前回を簡単に振り返ると、ゴルギアスの弟子のポロスが、不本意な形でソクラテスに言い負けてしまったので、その議論を横で聞いていたカリクレスが乱入してきました。
カリクレスによると、人間の思考には、本能的な考え方と社会的な考え方の2つがあり、その2つの考えは反対の結果を生むことが有ると言います。
ソクラテスは、それを利用する事で、ポロスが本能的な考えで答えたことを社会的な考えの結果だと意図的に取り違えて受け取って、ポロスが矛盾していると演出したと難癖をつけます。

そして、人が幸せを目指すのであれば、人間社会を維持するための社会的な考え方ではなく、自分の欲望に従って生きる本能的な考えを追求するほうが良いと主張しました。

それに対してソクラテスは、1人の権力者の力よりも、団結した大勢の大衆の力の方が大きいのではないかと指摘します。
もし、団結した大衆の力が1人の権力者の力を上回るのなら、団結した民衆は非力な権力者から、欲望に任せて財産を奪い取って、それを皆で分け合っても良いことになってしまいます。
カリクレスの言葉を借りるのであれば、それこそが正義だし、その道の先に幸福が有る事になってしまいます。

そして実際問題として、権力者は大衆に対して気を使って、法律を作る際には、富が再分配されるように配慮しているので、結果として、社会秩序を維持することが正義となり、幸福に繋がる道なんじゃないのかと主張します。

しかしカリクレスは、この主張に納得しません。 カリクレスが主張する『力』とは、喧嘩の際に使う単純な筋力などではないからです。
では、カリクレスが主張する力とは、どの様なものなのでしょうか。 それは、『立派さ』です。

立派さとは何なのか

ここで再び、『立派さ』という様な曖昧な言葉が出てきました。
一番最初の対戦相手であるゴルギアスも、その次に割って入った弟子のポロスも、そして今回のカリクレスも、いざ、弁論術によって得られる力の正体を聞くと、抽象的すぎる表現で逃げようとします。
しかし立派さというだけでは、抽象的過ぎて力の意味が理解できません。 カリクレスが否定した筋力だって、立派か立派でないかで言えば立派なものですからね。 立派とは何なのか、何を習得すれば立派な状態になるのか、謎は全く解明されません。

カリクレスが主張する力の内容が全く判らないので、ソクラテスは『力があるとは、思慮が有ることですか。』と質問をすると、カリクレスはこれに同意してくれます。力の謎を解く糸口が見つかったので、ソクラテスはここから力の解明を行うことにします。
カリクレスによると、力を持つ者は他人から財産や命を奪っても良いとのことでしたが、その力が『思慮』なのであれば、思慮深いものは他人から財産や命を奪ってもよいということになってしまいますが、それで良いのかと確認すると、コクリと頷きます。

しかし、この返答は矛盾があるようにも思えます。 思慮深い人とは、周りの環境も踏まえた上で、深く考えて気遣いが出来る様な人物のことを指すと思うのですが…
思慮深い人が、他人が自分よりも劣っているというだけで、自分の欲望に身を任せて他人の財産や命を奪おうとするのでしょうか。 それとも、カリクレスが主張する思慮とは、単純に知識を多く持っている状態のことなのでしょうか。
この事を確かめるために、ソクラテスは例を出して、思慮深い人間は弱者を押しのけて、ものを独占しても良いのかどうかを探ります。

まず、何処かの地域で大規模な災害があって、地域住民が学校の体育館などの指定避難所に非難してきたという状態を想像してみてください。そこには幸いにも、非常事態に備えて数週間分の食料が備蓄されているとします。
避難所には、さまざまな人達が非難して来ましたが、その中にたった一人だけ栄養士がいて、避難民の中で彼だけが、食べ物に関するずば抜けた知識を持っていたとします。
この栄養士は、食べ物に関する知識を持っているという理由で、避難所に有る食べ物を独占してもよいのでしょうか。それとも、その知識を生かして、その場にいる皆に適切な量を分配するほうが良いのでしょうか。

この例え話を聞いたカリクレスは、『私が言っている知識とは、そういう知識ではないでしょ』と怒り出します。
『じゃぁ、どの様な知識なんですか?』と尋ねると、国を運営する為に必要な知識で、その知識を持っていると、政治家として出世も出来るし指導的立場にも付くことが出来て、権力を得ることが出来ると言います。
そして、知識だけではなく、勇気も持ち合わせていなければならないと、新たに条件を追加してきます。

都合が悪くなると意見を変える人たち

しかしこの態度に、今度はソクラテスが気分を悪くします。 というのもカリクレスは、ソクラテスが何かを言った際に、自分の思い通りの答えでなければ、『いや、そういう意味じゃない』といった感じで、その都度、条件を変えてきます。
こういう人って、現在の社会でも結構いて、Twitterなどでタイムラインを眺めていると、そういう人に対する苦言のようなものが流れてきたりもしますよね。

例えば、デザイナーがクライアントの意見を聞いてデザインを行って製品を提出したら、『そうじゃないんだよ。』と否定して、作り直しをさせるって事がありますよね。
まぁ、他人同士なので意思の疎通が1度で出来るわけはないので、細かい修正などであれば問題は無いんでしょうが、要求が徐々にエスカレートしてきて、最初の要望とは全く違った内容に変わっていくと、最初の意見の摺り合わせは何だったんだとなりますよね。
そして、その条件も聞き入れて、修正をしてデザインを提出すると、そこでまた、全く違った追加の要望を入れられたりすると、『考えがまとまってから依頼しろよ。』って思いますよね。 それと同じ様な状況と思ってもらって良いです。

カリクレスは、最初は力があるものが優れたものだといって、その次は、知識を持つものだといい、次は、その知識は国家運営のための知識で、知識に加えて勇気もないといけないと、ソクラテスが質問をするたびに答えを変えます。
ソクラテスが何かを発言するたびに答えを変えられるのでは議論にならないので、カリクレスが主張する、他人の命や財産を自由に奪っても良いとされる『優れた者』の定義を教えて欲しいと詰め寄ります。
そして、カリクレスが思い描く『優れた者』とは、他人だけではなく、自分自身も支配することが出来るのか。つまり、行き過ぎた欲望を理性によって抑えられるような人間なのかと質問をします。

欲望を抑える力

この質問に対してカリクレスは、当然のように否定します。 当然といえば当然ですよね。
カリクレスは、権力さえ手に入れてしまえば、他人の命や財産を自由に奪ってもよいし、その力が強大であれば、他国に侵略しても良いといっていたわけですから、欲望を抑え込むなんてことに同意はしませんよね。
彼の主張は一貫して、欲望に身を委ねて、欲望の赴くままに欲して奪い続けて、満足感を得続けることこそが、幸福へと続く道だといっていました。

カリクレスがいうには、力のある人間は欲望を抑える必要などはないし、『抑えろ』と忠告してくる人間は、自分には欲望を満たすだけの能力がなく、満たしたくても満たせない状況だから、嫉妬して、他人に抑えろと言っているだけだそうです。
力を持たない劣った人間は、優れた人間の能力に嫉妬しているから、力を持って自由に振る舞う事を、まるで悪い事のように主張すると言います。 出る杭は打たれるって感じですかね。
力を持つものは極一部で、大半の人間が力を持たない嫉妬しか出来ないようなやつだから、自由に振る舞ったり、富を分配せずに独り占めすることを悪い事のように吹聴し、その思想を学校などで子供に教え込むことで、一般常識化してしまったと主張します。

子ども達は幼い頃から、負け組が考え出した価値観を教え込まれるし、世の中の大半の人間が負け組だということは、その子供の周りの大人も負け組となるので、学校で教わった知識は正しい知識だと思い込まされます。
この様な環境で、仮に、才能に恵まれた子供が生まれたとしても、その子供は、本来なら満たすことが出来る欲望を我慢させられてしまうけれども、それは本来の在り方ではなく、やりたい事をやらせてもらえない奴隷の人生と同じだと訴えます。
力や才能を持つものは、自分には欲望を満たす力があるのだから、それを我慢する必要はなく、本能の赴くままに欲望を満たすべきだし、それを我慢することでストレスがたまるのは、それこそが不幸だと言います。

欲望を満たす能力のない劣った人間に足を引っ張られて不幸になるのはバカバカしいので、欲望を抑え込むなんて無駄なことはやめたほうが良い。
力や才能があるのなら、その能力は自分が満足感を得る為だけに使って自由奔放に贅沢に生きるべきで、それこそが幸福であり正義であり、アレテーだと言います。
人生の幸福は、欲望を満たすという行動の中だけにあり、欲望を抑制することでその人生を放棄するのは、生きている意味を無くしてしまう。

何も欲しいと思わず、欲望を満たす満足感も得ることのない、凪のような人生は、道端に転がっている小石のような人生で、その様な一切 起伏のない人生を送ることに、何の意味があるのかと訴えます。
『足るを知る』という言葉がありますが、そのようにして手に入れられるものも手に入れようとせずに、欲望を抑え込んで生きることに意味はあるんでしょうか。
幸福とは、欲望を満たした後に訪れる満足感の中にある。 その幸福の源泉とも言える欲望を抑え込んでしまって、幸福が訪れることがないような人生には、意味もない。

何の喜びも得られない人生は、道端に転がっている小石の様な人生であって、喜ぶことも悲しむこともない、そんな感情の起伏が一切ない人生を送ることに何の意味があるのかと訴えます。

【原稿】第75回【ゴルギアス】勉強は社会に出ると無意味になるのか 後編

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勉強は社会に出ると無意味になるのか

このカリクレスの主張は、今現在でも同じことを言う人達が沢山いますよね。
『三角法やピタゴラスの定理が、社会に出て一体何の役に立つのか?』とか、『学校で習う大半のことは、社会に出て使うことはない。』とか、哲学をしている人に対して『答えが無いことを考えて意味あるの?』という人たちは大勢います。
では、この人達はどのような態度をとれといっているのかといえば、『上司に気に入られて、同期の中で一番に出世する方法』だとか、『社会で役に立つコネの作りかた』など、世渡りの方法を学べと言ってくるわけです。

カリクレスを始めとして、何故彼らは、このような主張をするのでしょうか。 カリクレスに言わせれば、他人がそのような態度をとることが心地よいからです。
例えば、子供が言葉をうまく扱えずに、間違った言葉遣いをしたり、それを治すために一生懸命勉強する姿というのは、観ていて癒やされるし微笑ましい光景だから、子供はそのような行動を取るべきだと主張します。
子供がもし、ハキハキと自分の思っていることを正しい言葉遣いで話たりすると、そんな大人びた喋り方をする子供は可愛くないし、観ていて嫌な気持ちになるから、子供は子供らしく、大人よりも明らかに劣った状態で、大人に追いつくために努力してるぐらいが丁度よい。

一方で、大人になっても言葉遣いがなっていないようなものは、ぶん殴ってやりたくなると言います。
つまりカリクレスは、子供には子供の態度があって、子供のうちからしっかりとした言葉遣いをしたり、目上の者に気に入られる為にお世辞を言うなどの処世術を身に着けているものは気持ち悪いし、子供らしくない。
逆に、成人しているのに、目上の者に対して媚びへつらうことをせずに、勉強にうつつを抜かすような人間は、大人な態度とは言えないので、これもまた、観ていて不快になると言ってるわけです。

このような考えはカリクレスに限ったことではなく、プライドが高く、自分が支配者層にいるだとか、他人よりも優れていると思いこんでいる人が多く持っている考えだと思います。
要は、基本的に他人を見下したいんです。 子供がしっかりとしていると、自分の立場を揺るがす存在になる可能性がありますし、大人になっても勉強している人は、学問という点に置いては逆立ちしても勝つことが出来ません。
自分が絶対に勝てない物を持っている者の存在は、それだけでプライドが傷つけられるものですが、その人間が処世術を身に着けていて、自分に対して頭を下げてくれれば、自分のプライドも守られて精神的に満足することが出来ますが…

その者が、自分が居座っている立場に憧れも持たず、その地位にいる自分に対して敬意も払わなければ、その人間に対して憎悪にも似た感情を抱いたしまいます。
だから、大人になったら勉強はやめて、権力に対して頭を下げる人になるべきだし、それを拒否する人間は、口で言ってもわからないのなら、暴力でもって懲らしめるべきだと言ってるわけです。
先程も少し言いましたが、この意見は、カリクレス個人としての意見というよりも、人を支配する権力者層の多くの考えです。 権力者は、自分は勉強はしないのに、自分が無知だと思われるのを恐れているんです。

知識よりも社交術

カリクレスの前に対話を行ったポロスやゴルギアスもいっていましたが、権力者になる為には知識は必要がありません。 何故なら、知識を持つものを支配してしまえば、その人間が持つ能力は支配者のものとして扱えるからです。
では、その権力を手に入れるために必要なのは何かといえば、自分の主張が正しいことのように勘違いさせる演出を行える、弁論術という口先の技術です。
無知なものに対して口先の技術で説得したり、権力者に取り入ったりすることで、人からの信頼を勝ち取ったり人脈を築いたりしていくわけです。 この過程で知識は必要がありません。

むしろ、言葉の演出の矛盾に気がついてしまうような知識のあるものは、邪魔な存在と言えます。 口先一つで成功するためには、自分の周りの人間は全員、無知でなければなりません。
そして実際問題として、この方法で権力が握れているという事実があります。 しかし、このようなシステムで生まれた権力者は、例外なく無知なので、アテレーを宿した卓越した人間とは言えません。
その為、不正も行います。 そして、ソクラテスのように、目上の人間に対して媚びへつらうわけでもなく、信念を持って正論を主張し続ける人間は、無知な権力者からは嫌われます。

無知な権力者は、無知だけれども権力だけは持っているので、不正を行って罪をでっち上げて、ソクラテスのような耳が痛い正論を言う人間を逮捕して有罪にして、死刑にして殺してしまうことも可能です。
ソクラテスが哲学に没頭せずに、社交術を身に着けて人脈を広げていれば、裁判の場で有利な証言をしてくれる承認もたくさん現れるだろうし、権力者にコネを持つものが助けてくれたりもするかもしれません。
でもそれを行わずに、役にも立たない知識だけを追い求めていると、権力者によって殺されてしまうぞと、カリクレスは言います。

親友思いのカリクレス

注意して欲しいのは、これは単純なカリクレスによるソクラテスに対しての脅しではありません。 カリクレスは、ソクラテスを大切に思っているが故に、忠告をしているんです。
ソクラテスのような態度を無知な権力者に向けて行ってしまうと、その権力者は無知な為に、ソクラテスの命を奪うという決断を簡単に下してしまいます。
そうはなって欲しくないから、ソクラテスに対して態度を改めるように忠告しているんです。

この話を聞いて、ソクラテスは大喜びをします。 何故ならソクラテスは、真理に到達するために必要なのは、知識と好意と率直さを持つものとの対話だと思っていて、目の前のカリクレスは、その全てを持っているように思えたからです。
ソクラテスはまず、カリクレスがどの様な考えを持っているのかを聞き出します。

欲望に忠実に生きることが幸福につながる

カリクレスの主張としては、知識や社会秩序の維持などの後天的に刷り込まれた常識などは軽視して、人間が生まれながらに備えている直感や本能などを優先させたほうが良いし、それに従う事こそが、幸福への道。
もし、大量の富を稼ぎ出すことが出来るのであれば、自分の本能に従って、できるだけ多くの富を独占できるように考えて行動すべきだし、独り占めできるのであれば、それに越した事は無い。
仮に、自分よりも力も知恵も持たない人間が財産を保有していることが分かれば、自分の欲望に従って、その人間の財産を奪うべきだと考えます。

この、『欲望に忠実に生きる』という考えを前提にすれば、ペルシャ全土を支配できたダレイオスがギリシャに攻め込んできた理由も説明ができます。
ペルシャの大軍勢を支配して指揮する力があるのだから、その力でもってギリシャも征服して、より広大な土地を支配下に置きたいと考えるのは、当然の行動と言えます。
人間は次から次へと欲でてきますが、その欲を満たし続けて満足感を得ることで幸福になれるというのが、カリクレスの考えです。

逆から考えると、幸せになるためには欲望を満たして満足感を得なければならず、欲望を満たすためにはそれなりの力が必要ということになります。
人の最終目標が幸せになる事で、幸せになるためにはアテレーを宿した優れた卓越した存在にならなければならないとするのなら、優れた状態というのは力がある状態だと言い変えることも出来る事になります。

『力が強い』とは

しかし、この説明にソクラテスは疑問を抱いてしまいます。 例えば、力強いとされている人間1人と、ひ弱な人間100人が殴り合いの喧嘩をする場合を考えると、どちらが勝つでしょうか。
1人の力がどれほど優れていたとしても、非力な人間100人が一斉に殴りかかってきたら、それに勝てる人間はほぼ居ないでしょう。 それでも勝つことが出来るというのであれば、1対1万人ならどうでしょうか。
グラップラー刃牙に出てくる範馬勇次郎という人物は、人間は同時に4方向からしか襲ってこれないから、4方向の敵を同時に倒せる技術と力があれば、スタミナがつづく前提であれば全人類を相手にしても勝てるといってましたが…

そんな事が出来るのは漫画のキャラクターだけで、実際には数で押されれば少数は負けてしまいます。
これは金銭や財産でも同じで、この地球上で1番の金持ちがどれほど金持ちだからといって、その1人が持つ資産と、その人物以外の70億人の資産の合計を比べた場合は、その他70億人の財産の方が確実に多いです。
少数の者と大多数の者を比べた場合、全ての面に置いて、大多数の者の総合力のほうが上回ることになり、先ほどの理屈に当てはめれば、大多数のもののほうが優れた存在ということになってしまいます。

カリクレスは前に、法律は大多数の弱者の事を考慮して作られていて、その法律の考えが浸透することで、『独り占めは良くないことで、分配することが良いことだ』という価値観が定着したと言っていましたが…
その大多数の弱者の総合力は、少数の権力者や資産家を上回っている為、法律は強者である大多数の市民の為に作られているという事になってしまいます。

強者によって作られている法律

カリクレスは、力を持つ権力者は、その力を欲望の赴くままに自由に使って、力の無いものから金銭を奪っても良いと言っていましたが、力を持たないとされる市民が団結して一つの勢力になれば、権力者達の力を上回ってしまいます。
この団結した市民たちが、少数の権力者や資産家に対して、欲望の赴くままに自由に力を行使して、彼らから金品を奪い取って、それを市民たちで分け合ったとしたら、その行動は分配になるのでは無いでしょうか。
国の中では、大人数で団結した市民こそが最強の存在なのだから、その団結した市民が、少数の権力者や資産家から、命や金品を奪うというのは、先ほどのカリクレスの主張からすれば良いことだし、幸福につながる行為になります。

カリクレスが対話に乱入してくる際に、ソクラテスは本能的な考え方と社会的な考え方を意図的に取り違えることで、相手の意見が矛盾しているように仕向けているとして批判していましたが…
ソクラテスがカリクレスが主張する『力こそが正義』という考え方で、一つ一つ整理していくと、結局は同じような法律ができてしまうという結論になってしまいました。

しかしカリクレスは、この理屈に対して反発します。 カリクレスが主張する力とは、喧嘩で使うような単純な力ではなかったからです。
では、何を持って『力』と呼ぶのでしょうか。 それについては、また次回に話していこうと思います。

【原稿】第75回【ゴルギアス】勉強は社会に出ると無意味になるのか 前編

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
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今回の内容も、プラトンが書いた対話篇の『ゴルギアス』を、私自身が読み解いた上で、解説する内容となっています。
本を朗読しているわけではなく、重要だと思うテーマの部分に絞って解説していく内容となっているので、対話篇のすべての内容を知りたい方は、本を購入して読まれることをおすすめします。

不正を犯すのは魂の病気

前回の話では、不正を行うのと行われるのとでは、不正を行うほうが悪く、不正がバレるのとばれないのとでは、不正がバレた方が良いという事がわかりました。
不正を行うという行為は下劣で醜いもので、その下劣で醜い行動で無実のものを巻き込んで被害に遭わせるというのは、更に醜い行為で悪いものです。
そのような不正を働く人間というのは、魂が病気になっているので、一刻も早く治す必要があるので、出来るだけ早く不正を暴いて、裁判で罪の重さを明らかにし、刑罰をくだして真っ当な人間にしてあげるのが、その人のために成るという話でした。

逆に、敵を陥れたいのであれば、敵に甘い言葉を囁いて不正を行わせる必要があるし、その不正がバレ無いように全力で偽装する必要があるし…
万が一バレた場合は、裁判の場で有る事無い事をでっち上げて敵をかばい、刑罰を出来るだけ少なくするようにしなければならないというのが、ソクラテスの言い分でした。

しかし、この意見に対して対話を見学していたカリクレスが物言いを付けます。 何故ならソクラテスの主張は、世間一般の常識から言えば、真逆の主張になるからです。
一般的な感覚からすれば、敵を陥れる為に、不正を犯して有る事無い事をでっち上げて無実の敵を逮捕させて、裁判の場では不利な証言を行って重罪にして、重い刑罰を与えるのが、敵に対する態度のはずです。
ですが、ソクラテスの意見は、この一般的な価値観とは真逆です。まるで、友達に取るような態度を敵に対して取れと言っています。

これらの意見を横で聞いていたカリクレスは、『それでは世間の一般常識とは真逆になってしまう。』と反論しだします。
そしてこの後、ポロスに変わってカリクレスとの対話に移ります。

相対主義と絶対主義

カリクレスは、普通の感覚であれば、権力を握ってそれを振りかざして理不尽な行為を行うのと、その被害にあうのとでは、どちらが嫌かといえば、被害にあうほうが嫌なのに決まっていると主張します。
ポロスもそうですし、このカリクレスも、そして、これを聞かれている多くの方も同じように思われると思いますが… では何故、順を追って一つ一つ考えていくとソクラテスの言っていることが分かるのに、全体としてみると納得ができないのか。
それは、カリクレスやポロスや多くの人が相対主義なのに対し、ソクラテスは絶対主義だからです。 この主義の違いによって、意見が受け入れにくい状態になっています。

相対主義者が考える、善悪の基準は人の立場によって変わる一方で、ソクラテスの主張する絶対主義では、善悪の基準は1つしかありません。
善悪の基準が人の立場によって変わるのであれば、権力者の理不尽に耐えなければならない状態も悪いといえますし、不正を行って、捕まれば悪いけれども捕まらなければ良いといった感じで、状況に応じて善悪の基準を変えることが出来ます。
しかし、ソクラテスの主張する絶対主義では、善悪の基準は固定されます。 一方を良いとした場合は、反対側にあるもう一方は自動的に悪いとされます。

相対主義では、権力を振りかざして不正を行って理不尽を押し付けて、権力者が捕まった場合、捕まった権力者が悪いとされますが、反対側の理不尽を押し付けられた被害者も被害を受けたから悪い状態といえてしまいます。
何故、このようなことになるのかといえば、権力を持つ側の視点と被害を受ける側の視点の2つの観点から物事を考えるので、視点ごとに価値観が生まれてしまいます。
しかしソクラテスが主張する絶対主義では、価値観は1つしか無いため、不正を押し付ける側を悪い側だとした場合は、押し付けられた側は自動的に悪い状態ではないことになってしまいます。

『本能的な考え』と『社会的な考え』

カリクレスとの対話に話を戻すと、ポロスがソクラテスとの対話に負けてしまった理由は、人には『本能的な考え』と『社会的な考え』の、反発する2つの考え方があるからだと言います。
本能的な考えとは、『他人を支配出来るような巨大な力がほしい』とか『美味しいものを食べたい』とか『人の注目を浴びたい』とか『恐怖や痛い思いをしたくない』など、人が生きていると自然に抱く本能的な考えのことです。
社会的な考えとは、人間社会をうまい具合に持続するために必要な秩序に則った考え方のことです。 人がそれぞれの欲望だけに従って生きてしまうと社会は簡単に壊れてしまうので、社会を持続させるために後から取り入れた考え方です。

そして、秩序を守るために作られる法律は、皆が納得できるように論理的に作られているわけですが、人が本来持つ本能と論理の世界には隔たりがあります。
何故なら社会を維持する為の法律には、権力者の横暴や必要以上の権力の集中を食い止めるという役割もあるために、大多数の力も資産も持たない人間のことを考慮して作られているからです。
富や権力を持つ一部の人だけを優遇するような社会を前提に法律を作ってしまうと、大多数の市民の同意が得られないために、法律は守られることはなく、社会を安定的に維持する事はできません。

その為、権力が一部に集中しすぎないように、そして、富が一部に集中しすぎないように、権力や富は分散させるような法律が作られることになります。
このようにしなければ、国民は反乱を起こしてしまうでしょうから、社会を継続的に維持することが出来ません。
法律がこのような価値観のもとに制定されて運用されると、大多数の一般市民は、稼いだ富を分配する人間が良い人で、独り占めする人間が悪い人だという価値観に染まっていきます。

国の大多数の人間は富も権力も持たない市民なので、大多数の人間が、独り占めが悪で分配する人間が良い人だと思い込めば、国としての価値観もその様に染まっていきます。
しかし、人間の本能としては、稼いだ金は独り占めしたいし、手柄を立てたら一人の功績にしたい。 権力を握ったら、より大きな権力が欲しくなるし、全てを思い通りに動かす独裁者になりたいと思う。
この様に、人間が本来持つ本能的な考えと、社会を安定的に維持する考え方との間には隔たりがあって、価値観が逆転してしまいます。 カリクレスは、ソクラテスはこの2つの考え方を利用してポロスをハメたと言いがかりをつけます。

議論そっちのけで人格否定?

ソクラテスが行ったことは問いかけを行って、ポロスが本能的に答えた答えを社会的な考え方として取り扱う。 しかし先ほども言いましたが、本能的な考えと社会的な考えは、答えが正反対になる事があります。
この特徴を利用して、ポロスの答えが矛盾しているように演出をして討論に勝った卑怯者だと罵ります。

…ただ… ソクラテスは新たな人物が乱入するたびに、『恥ずべき行為』だとか『卑怯者』呼ばわりされているわけですが…
そもそも、ソクラテスが戦っている相手というのが、ギリシャの中でもトップレベルの弁論家や、その弟子だったりするわけです。
弁論家は、人を説得することが仕事なんですから、自分が培った口先の技術を使って、自分の意見を正論のように飾り立てて、ソクラテスを説得してしまえばよいだけです。

それが出来ずに、逆にソクラテスに説得されてしまって、その言い訳が『卑怯者!』っていうのは、色んな意味で弁論家として終わってる感じもするんですけれどもね。

またカリクレスは、ソクラテスがいい年をして哲学にのめり込んでいるのも否定します。ここでいう哲学とは、学問全般の勉強のことだと思っても大丈夫でしょう。
彼の主張としては、哲学というのは成人をむかえる前の子供が打ち込むものであって、大人になれば、お金の稼ぎ方であるとか権力を手に入れる方法など、社会で成功する方法を考えるべきだと主張します。

第74回【ゴルギアス】不正行為の加害者と被害者、哀れなのは何方か 後編

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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前回はこちら
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醜い行為は悪い行為

つまり、美しいとされる肉体は、それぞれの地域の価値観に置いて卓越した肉体だと思われているもので、その肉体は、観るものに快楽を与えるため、目を奪うものでもある。
その真逆に位置するのが醜いという価値観で、劣った肉体は機能的に劣っていて、筋力も持久力も柔軟性もなく生命力も感じられない身体で、観るものを不快にする肉体です。
ここで、結局、見た目じゃないかと思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、厳密には見た目ではなく、その肉体が卓越しているかどうかなので、単純な見た目ではありません。

つまり、美しいものが何故、美しいのかというと、他のものと比べて何らかの点で優れた卓越した部分があるから、第三者から美しいと認識されるので、美しいものは良いものだし優れたものだといえるわけです。
美しいものは、優れて卓越した良いものだし、醜いものは、劣っていて悪いものだから醜いと認識されるんです。
この理屈を、先ほどの『不正を行うのと受けるのとでは、どちらが醜いのか』という質問と『不正を行うのと受けるのとでは、どちらが悪く害があるのか』という質問に当てはめて考えてみましょう。

この質問は、違う種類の2つの質問のように思えますが、違う部分はどちらが『醜いか』と『悪く害があるか』という点だけで、この2つは先ほどの理屈でいうと同じものだとわかったので、実質的には同じ質問だったということがわかります。
ソクラテスに言わせれば、『表現の違う同じ質問を投げかけたのに、何故、答えが違ってしまうのか』という事で、実は2つの質問は同じものだったと説明したわけです。

不正の加害者は被害者より醜く悪い

表現の違う2つの同じ質問をした事によって、ポロスの意見は2つに割れてしまったわけですが、では、不正を行う方と受ける方とでは、どちらが悪くて害があるのでしょうか。
この事について考えていくには、次のテーマである『不正を行っている場合、それがバレた方が良いのか、バレない方が良いのか。』について考えて行くことが近道になるので、まず、そちらから考えていくことにします。

誰かが誰かにアクションを起こす場合、行為を『行う方』と『行われる方』が存在します。 何かを『する方』と『される方』が関わる行為は、全く同じものになります。
例えば、誰かを殴るという行為を例に挙げると、殴る人間が行う殴るという行為と、受け手である殴られる行為は、拳の大きさやスピードや破壊力は、同じです。
殴るほうが弱く殴れば、殴られる方は弱く殴られて、強く殴れば、強く殴られます。

数値を使った別の例でいうと、誰かが100万円を貸すという行為を行った場合、貸すためには借り手が必要なので、借りる人が存在することになり、100万円貸すためには100万円を借りる人が必要になります。
この場合、貸し手が100万を貸したのに、借り手が1000万を借りた事になるといったことはありません。 貸し手が貸した金額と借り手が借りた金額は同じになります。

この理屈を、先ほどの『不正を行うものと不正を行われるものと、どちらが悪く害があるものか。』という話に当てはめてみましょう。
誰かに対して不正を行うということは、不正を行われる人間がいるということになります。 そして、行うものと行われるものが関わるものは同じものという事になります。この場合でいうと、不正という事になりますね。
そして、当然のことですが、不正というのは悪くて醜いものです。

では、悪くて醜い不正を、他人に対して無理やり押し付ける場合は、どちらが悪くて醜いのでしょうか。
もっと分かりやすくいうなら、何の罪もない人間に、一方的に汚物を投げつけるという行為は、投げつける人間が悪くて醜くてどうかしているのか、それとも、投げつけられたほうが悪くて醜いのかということです。
この質問に対してポロスは、『悪くて醜いものを他人に押し付ける側』の方が、悪いし醜いと答えます。

不正はバレない方が良いのか

では同じ様に、不正を行っている場合に、バレた方が良いのか、それとも、バレずに逃げ切るほうが良いのかについて考えていきます。
不正がバレるためには、誰かが不正を見破って暴く必要があるわけですが、不正を暴くという行為そのものは、良いことなのでしょうか、それとも、悪いことなのでしょうか。

人は社会を作ることで共存しているわけですが、人が共存するために必要なのが秩序で、その秩序を生み出すために作られたのが法律です。
その法律を自分の利益のためだけに破ることが不正ですが、その不正が横行してしまうと、人間社会は崩壊してしまいますし、人は生きていくことが出来ません。その不正を明らかにする行為は、良い行為といえるでしょう。
では、刑罰の方はどうなんでしょうか。 不正などの罪を犯したものに対して、何故、刑罰が与えられるのかというと、犯した罪の重さを身をもって感じることで、次も同じような過ちを犯さないようにするためです。

自分が悪いことをしたということを再確認して反省する機会を与えることで、人間を良い方向へ導こうとするものが刑罰なので、刑罰も良いものと考えられます。
前に、人間は魂と肉体の2つに分けて考えられるという話をしましたが、不正を行い、それがバレないように願う状態というのは、魂が病気に犯されて悪くなっている状態とも考えられます。
理解しやすいように、肉体が病気や怪我をして悪くなっている状態に例えて考えると、病気や怪我をして身体を悪くしてしまった際に行うことは、医者にかかることです。

医者は、病気を治すために薬を調合してくれたり、傷を治すために傷口を縫ってくれたりしますが、その治療は、患者にとっては苦痛を伴う場合もあります。
医者が調合する薬は苦くて、飲むのが苦痛な場合もありますし、傷口を縫うのは痛いかもしれません。 しかし、医者は患者の身体を治す為に治療を行っているわけで、その治療は、身体にとっては良い事のはずです。
しかし、それを理解できない子供のような無知な人間は、医者が行う苦痛を伴う行為を嫌がって、時には医者と反発したりもします。

ですが、病気の状態を放っておいて良いはずはなく、何の処置もせずに放置しておくと、病気や怪我は更に悪化して、取り返しのつかない事態を招いたりもします。
これは、肉体に限らず魂も同じだというのが、ソクラテスの考えです。
自分の欲望を満たしたり楽をする為だけに不正を行うというのは、魂が悪い病気の状態になっているのと同じなので、身体の怪我や病気がそうであるように、悪いと分かったら出来るだけ早く対処すべきだと主張します。

不正を犯す悪い魂には治療が必要

悪い体を治す際には、診断をして治療をするように、悪い魂を治療する場合には、どのような不正を働いたのかを裁判で明らかにして、罪の重さに応じた刑罰を与えることで、罪が浄化されて良い魂へと矯正されると考えます。
つまり、不正がバレるというのは、不正を行った者が悪いことが発覚することで、体の例で言うなら、診断がされた状態。そして、刑罰が下されるというのは治療が行われた状態なので、不正がバレるというのは当人にとっては良いことだということになります。

また、この理屈でいうなら、弁論術というものが討論の場に置いて、口先によってその場を支配して、相手を陥れる事で自分にとって良い状態を作り出す技術であるなら、相手が不正を行うように誘導しなければならないことになります。
そして、相手が不正を行ったとしても、それがバレ無いようにするべきだし、刑罰が下される際には、敵を全力で弁護することで、刑罰を軽くしてやるべきだと主張します。
そうすることによって討論相手は、不正を行って魂が悪い状態になったにも関わらず、正確な診断がされず、治療もされていない状態を作り出すことが出来て、相手を不幸にする事が出来るからです。

しかし、この理屈を横で聞いていたカリクレスが議論に割って入って、『その理屈はおかしい。』と主張します。 もし、ソクラテスの主張が正しいのであれば、私達の生活は全て真逆になってしまうと反発します。
そしてこれ以降、ソクラテスとカリクレスの間で討論が行われるのですが、その話はまた、次回にしようと思います。

中小企業診断士の勉強 5日目 規模の経済

この連載は、私が独学で中小企業診断士の受験勉強をしている際の記録です。
人に教える事を目標に勉強すると学習が早まるという噂を聞き、ブログで不特定多数の人にレクチャーするという体で書いています。
今勉強中の内容である為、書いている内容が間違っている可能性もあるので、受験生の方は鵜呑みにはせずに、テキストを確認することをお勧めします。




前回はこちら
kimniy8.hatenablog.com

目次

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前回は、外部環境の驚異について書いていったわけですが、今回は、それに対抗する為の戦略を、より詳しく書いていきます。

vs新規参入

その市場が成熟期に入っている場合、新規参入者は、将来の同業他社・ライバルとなる為に、非常に脅威となる。
では、その驚異を取り除くためには何が必要なのかというと、参入障壁を高くしてしまうという方法がある。
新規参入者が市場に入ってこようと思っても二の足を踏んでしまう状況さえ作ってしまえば、安易な新規参入はなくなり、将来のライバルが減るということになる。

では、どの様に参入障壁を高くするのかというと、まずは、規模の経済を追求することになる。
規模の経済とは、製品を大量生産することによって、製品1つあたりのコストを下げるという戦略です。
何故下がるのかというと、生産数を倍にしたからと言って、必ずしも生産コストは倍にはならないからです。

規模の経済

数字的なものは、財務会計の科目や簿記の分野になるのですが、簡単に説明すると、製品を作る製造コストは変動費と固定費に分割されます。
変動費は、その製品を作るために必要な素材や水道光熱費といったもので、このコストは、製品の生産数が倍になればコストも倍になり、生産数に比例して上昇していくことになります。
一方で、生産数に左右されず、毎月一定額しか計上されないコストがあります。

例えば、製造機械の償却費や家賃。 製造に直接関係がない経理や総務の給料などは、製品の生産数に関係がなく、毎月一定額が発生します。
もっと細かく分けるのであれば、水道光熱費は基本料金部分は固定費となり、製造に関わる人件費も基本給は固定費となります。(業務の増加による残業は変動費
つまり、製造数が少なく、職人の手待ち時間が多くなると、1つの製品に対する人件費などが上昇する感じで、生産数が少ないほどに固定費は割高となります。
逆に、生産数が増えるほどに製品1つあてりの固定費は低くなるため、コストが下げられることになります。

人件費という点でいえば、経験曲線効果というものも存在します。
漢字で書くと分かりにくいですが、簡単にいえば、配位手間もない新人が製品を作るよりも、その道10年のベテランが作った方が、同じ1時間でも作れる個数はベテランの法が多いよね!という話です。
この経験曲線効果は、製品の累計製造数に関係して上昇していき、ある一定レベルまで上昇すると止まります。
職歴1年で作業が倍早くなったから、2年で4倍、3年で8倍早くなるなんてことは有りません。 人の体なので、速さには限界があります。

主にコストの低下を重視するこの戦略は、コストリーダーシップ戦略とも呼ばれる。

規模の経済の注意点

間違えやすいのは、規模の経済は低コスト戦略であって、低価格戦略ではないということ。
コストが低く抑えることが出来るため、価格を低くしてシェアを取る戦略が取れるけれども、必ずしも、低価格戦略をしなければならないというわけではない。
低コストで製造して適正価格で販売をすれば、それだけ粗利が稼げることになる為、その利益をプロモーションなどに再投資することで、製品や自社の知名度を上げるという戦略も取ることが出来るし、生産体制の増強に資金を回せば、さらなるコストカットにもつながる。
この辺りのことは、後に学ぶマーケティングの項目で詳しく触れられている。

この他にも、多数の事業を抱えている場合は、他の事業に投資するという選択肢もある。
この場合、どの事業に投資するのかを決めるのにPPM(プロダクト・ポートフォリオ・マネージメント)を使用したりする。

差別化戦略

規模の経済を追求するというのは実現可能であれば有効な手段だけれども、全ての企業が取れる戦略ではない。
大量のものを生産するとなると、それなりの生産設備を保有していなければならないし、まだ生産体制が整っていないのであれば、設備投資によって生産体制を増強しなければならない。
どちらにしても、巨大な資本を持っていたりサプライチェーンを構築していることが前提となるので、採用できる企業は限られている。

そこで、独自の価値を追求して製品をブランド化することで、参入障壁を高めるという戦略が、差別化戦略
この商品といえばこれ!といった感じの状況を作り出してしまえば、他企業が後から新規参入をしてきたとしても、簡単にはシェアが奪われることはない。
参入企業側からしてみれば、参入したけれども思ったようにシェアが奪えないということになれば、湾入するのを躊躇することになる為、結果として参入障壁が上がる。

スマートフォン市場でいえば、Appleが取っているような戦略が、これに当たるのだろう。
後にマーケティングの分野で学ぶ、ブランド戦略に通ずる戦略。
見た目や機能・アフターサービスや知名度などで差別化を図ることで、生き残りや勝ち抜きを目指す戦略。

この他にも、集中戦略というものもある。
集中戦略は、幅広く多くの層に販売するのではなく、市場を細分化し、特定の層に向けて販売を行う手法。
どの様に細分化し、分類していくのかという細かい手法については、マーケティング分野で取り扱う。

この集中戦略と差別化戦略は、一部、重なる部分もあるが、全く同じというわけではない。

各戦略のリスク

低コスト戦略の場合は、他社が同じ戦略を行なってきた場合に、価格競争に巻き込まれる可能性が高くなる。
市場が拡大傾向のときは、その動きは少ないかもしれないが、衰退期に入って市場が縮小していった際には、特に、価格の切り下げ競争に突入せざるを得なくなり、稼ぎづらくなる。
価格競争が起きて一番ダメージを受けるのは、巨額の投資を行い、市場シェアを多くとっているリーダー的な立ち位置の会社となる。
(売上は、価格と販売数の積なので、販売数が大きい企業ほど、価格の影響を受けやすい。)

差別化戦略を採用した際のリスクとして一番大きいのは、模倣。
差別化して売上が伸びているということは、その商品に顧客が惹きつけられている理由があるからだけれども、その部分を模倣されてしまえば、シェアを奪われることになる。
特に、分かりやすい特徴で差別化を図っている場合は、誰の目から見ても商品の魅力ポイントが分かる為、簡単に模倣されてしまう。
その為、模倣困難性を高めて、簡単には模倣されにくい性質にする必要がある。

集中戦略のリスクは、模倣や新規参入ということになる。
集中戦略は、他の企業が入り込まないような、一見すると採算が合わないような市場に入り込み、事業を行うわけだけれども、他社がその市場の魅力に気がついて新規参入してきたとすると、かなりの脅威となる。
仮に、大きな資本が入り込んできたとすれば、あっという間に製品や戦略が模倣されて、市場シェアを奪われる可能性すらある。

中小企業診断士の勉強 4日目 ポーターの競争戦略論

この連載は、私が独学で中小企業診断士の受験勉強をしている際の記録です。
人に教える事を目標に勉強すると学習が早まるという噂を聞き、ブログで不特定多数の人にレクチャーするという体で書いています。
今勉強中の内容である為、書いている内容が間違っている可能性もあるので、受験生の方は鵜呑みにはせずに、テキストを確認することをお勧めします。




前回はこちら
kimniy8.hatenablog.com

目次

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前回の更新から随分と時間が経ってしまいました。
言い訳をすると、日々、勉強をしていなかったわけではありません。毎日、時間を作っては勉強をしていたのですが、勉強の仕方として、1科目ずつ完成させていくスタイルでは勉強を行なっていません。
何回も復習することを前提にして、数日単位で勉強する科目を変えています。

その為、他の科目。例えば、財務会計の科目を勉強中に企業経営理論のブログを書く気持ちにはなれず、期間が空いてしまいました。
ですが、再び企業経営理論の復習期間に戻ってきた為、再び、執筆を開始します。
今後、似たような理由で更新期間が悪可能性もありますが、予め、ご了承ください。

ポーターの競争戦略論

前回までの投稿で、企業にはまず、企業が存在する目的としての企業理念が必要で、それを元にして、企業ドメインや事業ドメインが作られて、経営戦略が練られるという話をしていきました。
その戦略の練り方ですが、大きく分けて2つ存在します。
1つは、企業の強みを分析して、それを生かした戦略造りをするという方法で、前回に紹介したコアコンピタンスなどがそれに当たります。 似たような用語としてはケイパビリティなどがあります。

そして、もう1つのアプローチ方法が、外部の環境を意識したアプローチ方法で、それが、企業のポジショニングを意識したポーターの競争戦略論になります。
(注意: どちらかが正解で、もう一方が間違っているというわけではない。)

内部環境と外部環境の違いをもう少し詳しく書くと、内部環境というのは、抱えている人材や設備は、他社に比べてどの点で優れているのかと言ったことを分析し、他社にできないものを社会に提供することで、事業を継続していこうという考えです。
既に大きな生産設備を抱えていたり、専門分野に詳しい社員を抱えている。または、育成方法が確立しているといった感じで、他社が真似しようと思っても簡単に真似できないような強みがあるのであれば、それを最大限に利用して事業展開をすれば、競争を優位に進めることができます。

一方で、外部環境に焦点を当てる戦略というのは、自分の市場でのポジショニングを確認して、その中で生き抜く戦略を考えていく方法です。
例えば、自分の会社が何らかのものを生産して販売することを目的として存在している製造業だとします。
多くの製造業は、素材を1から自分で集めて製品を作り、それを顧客一人一人に販売するなんてことは行なっていません。

素材の調達は、素材の調達や開発を専門で行っている会社に発注し、販売は、流通システムに乗せることで手間を省いています。
このように、一つの製品を製造して市場に流す場合でも、資源の調達から販売までで、自社以外の多くの会社が関わってくることになります。
この、自社以外の環境が、外部環境です。

業界構造の分析(5フォースモデル)

自社を取り囲む環境には、5つの注意しなければならない要因があります。
1つは、一番身近で分かりやすい、同業他社の存在です。
似たような商品を作って販売する同業他社の動向は、絶えず注意が必要で、彼らを意識した戦略は常に求められます。

では、その他の4つは何なのかというと、新規参入・供給業者・買い手・代替品です。

ひとつひとつ見ていきましょう。

新規参入

まず、新規参入ですが、これはそのままで、新たなライバルの登場です。
自分たちが関わってくる市場に、新たに参入してくるライバル企業で、将来の同業他社となる存在です。

これが、どの割合で乱入してくるのかというのは、その業界自体の参入障壁の高さが重要になってきます。
仮に、国が規制などをしていて、新たに事業参入するのが非常に難しい業界であれば、新規参入の事はほぼ考えなくても良いでしょう。
例えばテレビ業界などは、新たに電波帯域を借りて新たにテレビ局を作るというのは難しいため、参入障壁としては非常に高い為、この分野における新規参入に気を使う必要はありません。

一方で飲食店などは、数百万の軍資金が有れば誰でも開業が可能である為、参入障壁は非常に高いといえます。

代替品

自分たちが関わっている市場の参入障壁が非常に高いからといって、安泰なのかといえば、必ずしもそうとは言えません。
先程、例を上げたテレビ局は、参入障壁が非常に高い業界といえますが、テレビに代わる代替品が存在し、そこにシェアが奪われる形になっている為、代替品による驚異にさらされている状態と言えます。

具体的には、ネットの登場により、従来の電波が必要ない状態で番組を配信することが可能になってしまいました。
また、最新のテレビにはネット接続機能が付いているため、わざわざPCを立ち上げなくとも、大きな画面でネット配信のNetflixyoutubeを観ることが可能になりました。
新たに登場したネット配信は、テレビのように番組表に沿って放送をしなければならないなんてことはなく、視聴者が好きなタイミングで好きな番組を何度でも繰り返し観ることが可能である為、機能的には従来の放送を上回っています。

この代替品の登場により、テレビ局は更なる競争力の強化を求められることになります。

買い手と供給業者

買い手と供給業者は、主に製造業で関係してくる重要な要素です。
まず買い手についてですが、製造業が作った製品は、何らかの龍柱システムに乗せることで消費者に行き渡ることになります。
販売を全て自社で行う事も可能ですが、その場合は、販売店の運営費などを自社で負担する必要も出てくる為、コストが非常に大きくなり、そのコストを削ってしまうと、本来顧客になるはずの人の手に渡らないという機会損失が発生してしまう可能性があります。

ですが、これを流通システムに乗せることによって、コストを大幅に抑えることが出来る上に、機会損失も回避することが出来るようになります。
具体的には、日用品を作っているメーカーが商品を売る場合、スーパーマーケットやドラッグストア・コンビニなどに卸せば、販売店舗が一気に数万点になる上に、各企業が持つ運送システムに乗っかることが出来るため、非常に効率が良くなります。
ですが、この買い手である流注業者の力が強くなり過ぎれば、それは新たな脅威となります。

例えば、製品を主にコンビニ向けに展開していて、自社の売上割合の9割がコンビニ販売になっていた場合、コンビニ側が無理な値下げを要求してきた際に、その要求を飲まなければならない事態に追い込まれることになります。
最近の実際にあった例でいえば、ネット販売を主力にしていた企業は、Amazon楽天の無理なコスト上乗せを飲まざるを得ない状況に追い込まれていたりと、問題になっていますよね。
この様に、買い手の力が強すぎると、相手の交渉力が強くなりすぎてしまうために、驚異となります。

供給業者は、これの逆です。
製造業が製品を作る際に、特定の材料が絶対にいるとしましょう。 その材料を製造している業者が世界に1つしかない場合、製品を作る場合にはその会社から材料を買うことを強制されている状態と同じになる為、供給業者の力が非常に強くなってしまいます。
この状況で、供給業者が無理な値上げ要求をしてきたとしても、それを飲まざるをえないので、驚異となります。

外部環境の生存戦略

外部環境を主軸にした戦略とは、これらの驚異に対処する為の戦略となります。
内部環境を主軸にした場合と比べると、後退しているようなイメージもありますが、実際の戦略には責の姿勢もあったりする為、必ずしも後ろ向きというわけではありません。
例えば、外部環境で生き抜くために内部環境の分析を行なって、自社の強みを探って伸ばすなどです。

第74回【ゴルギアス】不正行為の加害者と被害者、哀れなのは何方か 前編

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
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前回はこちら
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今回の内容も、プラトンが書いた対話篇の『ゴルギアス』を、私自身が読み解いた上で、解説する内容となっています。
本を朗読しているわけではなく、重要だと思うテーマの部分に絞って解説していく内容となっているので、対話篇のすべての内容を知りたい方は、本を購入して読まれることをおすすめします。

不正行為で幸福は手に入るのか

前回は、人の行動は目的と手段に分けることが出来て、行動の善悪は目的の善悪によって左右されるという話をしました。
手段そのものは、良いものでも悪いものでもなく、その手段を達成する目的が良い目的なのであれば、良い目的を達成するための手段も正当化され、このようにして行われた行動は幸福につながる。
その一方で、悪い目的のためにとられる手段は不正であり、不正を働くことこそが不幸へと繋がる道なので全力で避けるべきだとういのが、ソクラテスの主張でした。

しかしポロスは、この意見に納得することが出来ません。 何故なら、不正を行いながら幸福と呼べる人生を謳歌している人間を知っているからです。
では、不正を行いながら、幸福と呼べる人生を歩んでいる人物とは、どのような人物なのでしょうか。 ポロスによると、その人物はマケドニアの王様のようです。 マケドニアといえば、アレクサンダー大王を生んだ国で有名ですよね。
このマケドニアの王は、王様と奴隷との間に生まれた子供で、王位継承権は低く、本来であれば、奴隷の子として惨めな一生を送る予定だった人物です。

しかしこの人物は、自分の親戚や兄弟を次々に暗殺していき、最終的には王位継承権を手に入れて、一国の王にまで登りつめます。
古代に限らず、中世などでも玉座を争って身内同士の殺し合いが行われるというのは珍しい事ではありませんが、人の命を奪ってまで地位を手に入れようとする行為は、いつの時代でも褒められたものではありません。
また、ポロスが例に上げたこの人物は、真っ向から勝負を挑んでライバルを倒していったのではなく、騙し討や暗殺によって人を殺めて、その地位を手に入れました。

奴隷の身分だったものが、殺人という最大の不正行為を繰り返すことによって到達したのは、不幸な現実ではなく、その国で一番偉いとされる王様の地位。
王様は、自分の命令一つでどのようなことでも実行できてしまう権力を持つ上に、それ以上に偉い人間がいないわけですから、誰からも裁かれることもない。もっとも幸福な地位につく事に成功しました。
ソクラテスの主張では、不正を行えば不幸になるはずなのに、このマケドニアの王は、数多くの不正を行った結果、国で一番の権力を手に入れて、不正を裁かれることのないような地位につくことが出来ています。

行動だけで善悪はわからない

この王様は、不幸なのでしょうか。それとも、幸福なのでしょうか。
ソクラテスは、この質問に答えることが出来ません。 何故なら、例として挙げられたマケドニアの王については、名前程度しか知らないからです。
ポロスからの一方的な話を聞いただけでは、その人物が何故、そのような行動をとったのかが分かりませんし、彼が行ったことが不正行為なのか正当な行為なのかも分かりません。

前回からも言っている通り、ソクラテスの主張としては、目的が善であるなら、その行動は善になり、その逆なら悪になるというものです。
ポロスの言う通り、罪もないライバルたちの命を、自分が王になりたいという欲望のみで奪っていったとしたなら、その行為は不正な行為で、彼の人生は不幸なものとなりますが、そうでなかったとしたらどうでしょう。
彼以外の全てのライバルが、王になれる器ではなく、私利私欲の為だけに動くような人物で、その者たちが王に成れば民が苦しむと思い、多くの市民のために行動を起こしたのであれば、事情は変わってきます。

不正は刑罰によって浄化される

ポロスの一方的な話だけでは、そのどちらなのかを見極めることが出来ないので、わからないと答えます。
しかし、仮に彼が不正を働いていたとしても、逮捕されて裁きを受け入れれば幸福になれると、ソクラテスは主張します。

この意見に、ポロスはまたしても理解することが出来ません。 何故なら、不正を行って絶対的な権力を手に入れたとしても、逮捕されて投獄されてしまえば元も子もないからです。
前回、ソクラテスはポロスに対して、私利私欲に走って、ワガママに暴走して不正を働く権力者には憧れるのに、銀行強盗に憧れないのはなぜかと聞きました。
権力者でも銀行強盗でも、不正を行うという点では同じで、不正を行って手に入れるものも同じなら、この2つは同じものと考えられるのに、何故、一方には憧れて、もう一方には憧れないのかと問いかけましたが…

今回の議論で、ポロスが何故、権力者にだけ憧れるのかがわかりますよね。 その国で一番の権力者になれば、自分を捕まえて裁く人間は誰も居ないからです。
つまりポロスは、不正を行うことは悪いことだとは思っておらず、それがバレて逮捕されることが悪いことで、不幸な事だと思っているわけです。
このポロスの感覚に共感する人は、現在でも多いと思います。 スピード違反や駐車禁止が見つかって罰金を請求されることは、運が悪いことだとか、万引きをして捕まらなければ得をしたと思う人間は結構いると思います。

ポロスの価値観では、犯罪や違反を行うことそのものは悪いことではなく、むしろ、それらが見つからなければルールを守っている人間を出し抜けるのだから、効率が良いとすら考えているのでしょう。
しかし、それらが見つかってしまえば、せっかく得をしたことが帳消しになるどころか、刑罰や罰金によって、不正を行うことで得たプラスが消し飛んでマイナスになってしまうので、不幸だと考えているわけです。
一方でソクラテスは、不正や違反そのものが悪い事だと考えているので、ポロスと意見が合わないわけです。 しかしソクラテスは、順序立てて考えていけば、同じ考えになるとして、物事を1つ1つ分解して考えていきます。

不正を犯すのか被害に遭うのか

物事を順序だ立てて一つ一つ考えるために、ソクラテスはまず、前提条件を確かめる為にポロスに質問をします。
まず、不正を行うのか、それとも、他人の行った不正の被害を受けるのか、どちらが悪く、害のある出来事かをポロスに対して質問し、ポロスは、不正の被害に会うほうが悪い行動で、害がある行動だと答えます。
このポロスの考えは、今までの彼の発言と一致していますよね。

次にソクラテスは、より醜い行動は、不正を行うことなのか、それとも、不正の被害にあうことなのか、どちらかを聞き、これに対してポロスは、不正を行う方が醜い行動だと答えます。
この答えを聞いたソクラテスは、より醜い行動が不正を行うという行動なら、悪くて害がある行動も、不正を行う方にならないとおかしいと言い出します。
このソクラテスの発言にポロスは困惑しますが、ソクラテスは、ポロスが先ほどの発言を受け入れられないのは、美しい事と良い事は同じではないし、醜い事と悪い事は同じではないと考えているからだと指摘します。

美しさとは

そして、『美しさ』と『良い事』が、『醜さ』と『悪い事』がそれぞれ同じである事を、説明しだします。
この説明に入る前に、誤解のないように言っておきますと、このゴルギアスに限らず、ソクラテスが『美しさ』というテーマで語る時の『美しさ』とは、多くの人が想像するような造形美のような見た目の美しさではありません。
『美しさ』を、見た目の美しさだけだと勘違いしてしまうと、今後の議論が誤解によって全て意味のないものになってしまうので、注意してください。

ソクラテスは、『美しい』という事と『良い事』は同じことだと主張してしますが、芸能人やモデルのように、外見の美しさが優れているものが、良いものだし卓越した素晴らしいものだとは言っていません。
では、ソクラテスが語る『美しさ』とは何なのかというと、アテレーを宿しているかどうかです。
例えばソクラテスは他の作品で、ギリシャ内でもっとも美しい人物を聞かれた際に、前に取り上げたソフィストプロタゴラスの名前を挙げています。

プロタゴラスは、ソクラテスよりもかなり年上で、ソクラテスからみればお爺さんのような存在ですが、何故、そんなプロタゴラスギリシャ全土でトップレベルに美しいのかというと、彼が豊富な知識を持っているからです。
プロタゴラスは豊富な知識を持ち、多くの人が彼の知識を頼って尋ねてくるし、宿すことで優れた存在になれると言われているアテレーを研究し、実際に出来るかどうかは置いておいて、他人にアテレーを教えている人物です。
多くの人が、彼の演説を聴くために大金を払い、耳を傾ける存在です。 プロタゴラスのことを多くの人が賢者だと認め、彼を優れた人物だと評価する人が大勢いるので、彼をアテレーを宿したものだとして、美しい人だと言っています。

良いことは美しく悪いことは醜い

話を戻して、美しさや醜さについて考えてみると、そもそも人が見て美しいというのは、どういうものなのでしょうか。
例えば、人間の肉体を見て美しいと思う場合。 先程の話ではないですが、見た目であるプロポーションが美しいと感じる場合、冷静になって考えると、身体の比率に美しさが宿っているわけではありませんよね。
特定のプロポーションを見て美しいと感じるのは、その比率や造形に美しさが宿っているのではなく、そのプロポーションの肉体には、何らかの点において優れた点があるからです。

肉体において優れているとは、筋力が有るとか持久力が有るとか、柔軟性に優れているなど、肉体の能力的に優れている事なのですが、これらの全てを満たした肉体というのは、優れた造形になってしまいますよね。
機能美と言えばよいのでしょうか。 瞬発力や持久力や柔軟性を兼ね備えた肉体というのは、余計な脂肪や大き過ぎる筋肉はついていないですし、機能的に優れたプロポーションをしています。
そのプロポーションの事を美しいと言っているだけで、単純にウエストの絶対値が細いだけの体を見ても美しいとは言いませんよね。

このプロポーションも、地域や環境によって、美しいと感じる価値観が変わってきます。食糧難で食べ物がない地域で、みんながやせ細った人しか居ない地域では、脂肪がついたまるまると太った人を見て美しいと感じる地域もあるでしょう。
地域や環境によって、人が美しいという価値観は変わりますが、その美しいとされている人を観ていると、心地よく、目を奪われてじっとみてしまったりもします。
この様に、人が美しいと感じる肉体は、絶対的なプロポーションではなく、それぞれの地域の価値観で機能的だと思われたものが美しいと思われています。 そして当然ですが、その逆が醜いということになります。

【Podcast原稿】第73回【ゴルギアス】目的は全てに優先される 後編

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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前回はこちら
kimniy8.hatenablog.com

目次

哀れなのは被害者か加害者か

ポロスはソクラテスに対し、『あんたは、正当な理由もなしに理不尽にも他人の命や財産を奪うような人間は、哀れんでやるべきだというが… 本当に哀れんでやるべきなのは、被害者の方なんじゃァないか?』と詰め寄ります。
このポロスの主張も、一般的な感覚としては非常によくわかります。 被害者に何の落ち度もない、通り魔殺人事件に巻き込まれた場合、一番可愛そうで哀れなのは犯人ではなく、被害者であるはずです。
今現在でも、悲惨な事件が起こった際に人権派の弁護士などが、『事件を起こした加害者の方も、ある意味では被害者なんです。』といった感じの主張をする事がありますが、そのような意見はネット民たちによって非難されて、時には炎上しますよね。

この様に、一般的な感覚でいえば、不正を行う加害者側よりも、不正を行われる被害者の方こそが哀れで可愛そうな存在だと考える人が、多いと思います。
権力者のワガママによって、罪をでっち上げられて裁きを受けたり、難癖をつけられて全財産を没収されるような出来事は、加害者である権力者よりも、被害者のほうが可愛そうだと考えるポロスの主張は、理解しやすいですよね。
しかしソクラテスは、不正を働く権力者の方が可愛そうな存在で、哀れみをかけてやるべきだと主張しますし、不正を行うぐらいなら、不正を受けるほうがマシだとも主張します。

これは、自分が高い地位に登りつめて、権力を手に入れて、自分の欲望に従って権力を振り回して不正を行うぐらいなら、暴君が行う不正によって殺されたほうがマシだと言っているのと同じです。
人の上に立って、秩序を無視して自由に振る舞うよりも、他人の不正によって殺されたほうがマシだという理屈ですが、ポロスはますます理解することが出来ません。
命を失うというのは、生きている人間にとって最大の損失ですし、それが他人のワガママで言いがかりによって奪われるという行為は、到底受け入れることが出来ないからです。

では何故、ソクラテスは一般的な感覚では理解できないような、このような理屈を主張するのでしょうか。
それは、ソクラテスが考える最大の不幸な状態は、不正を犯すことだからです。 ソクラテスは、人生の目標は幸福に設定すべきだと考えています。 その目標の真逆に位置するのが、不幸です。
目指すべきゴールは幸福であるはずなのに、力を行使した結果が不幸になってしまうのであれば、それは哀れなことだし、そのような力を持つ独裁者になる事が哀れであるなら、独裁者にはなるべきではないというのが、ソクラテスの考えです。

犯罪者は憧れの対象になるか

しかしこれでも、ポロスは納得ができません。 だって、独裁者になれば皆が自分に跪きますし、命令を聞いてくれます。 誰もがそのような地位に収まりたいと思うのに、それが哀れなっことだと言うのが理解できません。
そこでソクラテスは、ポロスに対してこんな例え話をします。

まず、武器などを一切持たずに、多くの人が集会所に集まっている場合を想像してみてください。 集会は、政治的な集会でも町内会でも何でも良いですが、とにかく、武装をせずに人が一箇所に集まる状況を想定します。
そこに唯一、一人だけ武器を隠し持った人間が、その集会に参加したとします。
武器を隠し持った人間は、集会所で話されている内容をしばらく聞いた後、議論の結果が自分の思い通りにならなかった事に腹を立てて、議長の首筋に武器を当てて、その場にいる全員を脅したとします。

この武器を持つ人間は、この集会の中で唯一、武力という力を持つ人間で、その場を支配して自分の思い通りの要求を出すことが出来ます。歯向かう人間が出てきたら、みせしめの為に命を奪うことも躊躇しません。
このような状況は、権力者が武力を背景にして、力を持たない人間に対して不正を行って、無理な要求を突きつけている状況と同じですが、ポロスは、このような人間に憧れるのでしょうか。

別の例でいえば、誰も武装していない銀行に、武器を持って押し入って金を奪う銀行強盗を思い出してもらっても良いでしょう。
銀行強盗達は、人の命を簡単に奪える強力な武器で一般市民を威嚇して、その脅威をチラつかせる事で不正を行って、他人の金を自分のものにしようとします。
ポロスの話では、権力者は自分のワガママによって、他人の資産を奪って自分のものに出来る力があり、誰もが憧れると言っていましたが、では、銀行強盗に憧れるのでしょうか。

この問いかけに対してポロスは、そのような犯罪者たちには憧れないと主張します。では何故、憧れないのでしょうか。
ポロスは今まで散々、権力者に対するあこがれを熱く語っていました。 気に入らない相手を、自分の命令一つで逮捕して拘束し、死刑を言い渡して命を奪う力や、資産家に難癖をつけて財産を奪ってしまえる、そんな権力が欲しいと主張していました。
武器で威嚇して、恐怖によって相手を自分の思い通りに動かす行為も、他人の財産を奪って自分のものにする銀行強盗も、やってる事は権力者と同じですし、手に入れることができるものも権力者と同じです。

手段そのものに善悪はあるのか

不正を働く権力者が行っていることは、銀行強盗などの犯罪に手を染める犯罪者の行動と全く同じなのですが、では何故、権力者には憧れて、犯罪者には憧れないのでしょうか。
権力者のワガママとは違い、犯罪者が行う行為は、行為そのものが悪だからでしょうか。 確かに、犯罪は悪い行為ですが、では、犯罪者が目的を達成するために行った行動そのものは、悪い行動なのでしょうか。

例えば、現実世界では そうそう無いことですが、ドラマや漫画の世界などで起こりそうな事として、人々が多く集まったり、利用する駅などの施設の何処かに爆弾が仕掛けられていることを、一般人である主人公の少年が知ってしまうという展開があります。
警察官でも大人でもない一般人の少年が、駅の真ん中で唐突に『爆弾が仕掛けられてるから逃げろ』と警告したとして、それを聞き入れる人々は少なく、避難が行われない。
このような状況で、被害を最小限にしようと思った少年が、誰かの首筋にガラス片などの何らかの武器などをあてがって騒ぎを起こして、取り敢えず非難をさせるといったストーリーがあります。

この少年が行った手段は、先ほどの犯罪者と全く同じで、武器を持たない人たちに対して自分だけが武器を持つことで脅迫するといった行動です。
では、この少年が行ったことは不正であって、褒められたものではないのでしょうか。 少年は、不正を行わずにみんなに対して呼びかけるだけにとどめておいて、聞き入れない人間は爆発に巻き込まれて死んだほうが良かったのでしょうか。
少年が選んだ手段は、武器を持たない人達に対して武器を使って脅し、恐怖によって自分の思い通りの行動を取らせるという、先ほど例を挙げた犯罪者が取った手段と全く同じ行動です。 

手口が犯罪者と同じだから、この少年の行ったことも不正だし、この少年は憎むべき犯罪者として逮捕されるべきなのでしょうか。
多くの人が、前に例を出した犯罪者たちと、今回例に出した少年は同じではないと思うはずです。では何故、同じ手段を選んでいるのにも関わらず、片方は悪で、もう片方はそうとは言えないのでしょうか。
冷静になって、ゆっくり考えてみるとわかりますが、目的を達成するための手段としての行動そのものは、良いとも悪いとも言えないものです。

目的は全てに優先される

では、一連の行動の善悪を決めるのは何なんでしょうか。 行われた行動は、何を基準にして善悪が決められるのでしょうか。その境界に、ビシッ!と境界線を引くことは可能なのだろうか。
ポロスは、この投げかけに対して答えることは出来ずに、その答えをソクラテスに求めます。
これにたいしてソクラテスは、目的を設定する際の基準で分かれると答えます。 つまり、正義を元にして目的を定めた場合は、その目的のための手段もひっくるめて良い行動となるわけです。

逆に、自分だけの欲望を満たしたいといった悪い考えによって生まれた目的は、それを達成する手段も含めて悪い行動だと言えます。
つまり、権力者が行っていることも犯罪者が行っていることも、その目的が悪によって設定されていれば、それによって起こされる手段は不正であって、悪い行動であるということです。
悪い目的を叶えるための手段は、それを行ったものを不幸に導き、良い目的を叶えるための手段は、それを実行したものを幸福へと導いてくれる。

人は、不正を行わずに、正義を前提とした目標を建てて、それを目指して進んでいくべきで、堂々と不正を行えるからという理由で権力者を目指すのは間違っていると主張します。
しかし、この話もまた、ポロスには納得できません。 何故ならポロスは、不正を行いながら幸福な人生を謳歌している人間を知っているからです。
それは、どのような人なのか。 その話はまた、次回にしていこうと思います。

中小企業診断士の勉強 3日目 コアコンピタンスと戦略

この連載は、私が独学で中小企業診断士の受験勉強をしている際の記録です。
人に教える事を目標に勉強すると学習が早まるという噂を聞き、ブログで不特定多数の人にレクチャーするという体で書いています。
今勉強中の内容である為、書いている内容が間違っている可能性もあるので、受験生の方は鵜呑みにはせずに、テキストを確認することをお勧めします。

前回はこちら
kimniy8.hatenablog.com

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事業ドメイン

前回は、経営理念を企業ドメインに落とし込んで、会社の方向性を決めるという事を書いていきました。
企業が小さい場合は、企業ドメインだけを元にして、営業を行っていけば良いんでしょうけれども、会社がある程度大きくなっていくと、企業が行う仕事の幅が広がっていきます。
そうなった際には、企業ドメインの下に事業ドメインを置いて、各事業部ごとにドメインを設定していきます。

企業ドメインで企業の大枠を決めて、事業ドメインで事業の方向性を決めていくという感じで考えれば良いのかもしれない。
企業が複数の事業部を抱える場合は、事業ドメインが複数あっても構わず、それぞれの事業部ごとに方向性を決めて事業をしていけば良いが、企業ドメインの下に位置する為、それに反するようなドメインはダメ。
このドメインに従って事業を行うために、企業が集めた人・物・金をどのように配分していくのが、経営判断ということになる。

コアコンピタンス

企業は、事業を行うことで経済活動を行なって、お金を稼いでいくわけですが、他の会社も同じように事業を行なっているので、そこで勝ち残ろうと思うと、勝ち抜くための戦略というものが必要になってきます。
その戦略を建てるために必要になるのが、コアコンピタンスやケイパビリティと言われているもので、簡単な言葉に直すと『強み』になります。
自分が抱えている社員のスキルは、どのようなものがあるのか。 自分が関わっている市場に対して、他社が出来ないどのようなアプローチが出来るのか。

貼り付けている関係図には、事業ドメインの下にコアコンピタンスが来てますが、この当たりは並列的な考え方で、事業ドメインを作ってからコアコンピタンスを考えるわけではなく、コアコンピタンスがあるから事業が起こるとも考えられる。
自社の強みを事業化し、他社との競争に勝ち残るために、新たなスキルを持つ社員を引き入れたり、独自の製品を生み出すための設備投資を行うなどして、更に自社の強みを強化していく。

自社の強みを再認識し、足りない能力を補い続けることで、持続的な競争優位性を保ち続けることが出来る。

戦略

コアコンピタンスの項目でも書きましたが、企業が競争に勝ち残り続けるためには、その事業領域での競争優位性を保ち続けなければなりません。
その為に必要になってくるのが、戦略です。

戦略は、大きく分けると3つ程あり、一つは企業の独自性を保つこと。
つまりは、他社から自社の製品やサービスを模倣されないようにする事で、マーケットのシェアを維持し続ける事です。
いくら、革新的なアイデアを思いつき、事業化出来て大成功することが出来ても、その事業が誰でも真似できるような事業であれば、直ぐに真似されてシェアを奪われてしまいます。

事業を持続的に継続し、儲けを出し続けようとする場合、その事業が模倣されないようにすべきですし、どのように対策をしても模倣されるようなものであるのなら、その事業に多額の投資をすべきでは無いでしょう。
どの事業に力を注ぐのか、注がないのかを考える場合は、その事業の模倣困難性を見極める必要がありませう。

2つ目は、マーケティング戦略
市場のシェアをどのように奪っていくのか、顧客にどのような値段で販売していくのか。 市場における製品の位置づけをどのようにするのかといった事を考えるのが、マーケティング戦略

もう1つは、研究開発。
製品やサービスを改良し続けて、常に顧客ニーズを満たすようなものにしていったり、新たな製品を生み出すことで、別の事業につなげていく事で社会との関わりを増やしていくと行った方法があります。

この3つの戦略は、どれか1つ行うというものではなく、同時並行して行なっていくもので、どれが欠けてもダメなものだと思われます。
関係図では、二次元の図に落とし込むためにバラバラに書いてはいますが、この辺りの事は繋がりがある為に、それぞれを関連付けて考えるほうが良いんだと思います。

中小企業診断士の勉強 2日目 経営理念 ドメイン

この連載は、私が独学で中小企業診断士の受験勉強をしている際の記録です。
人に教える事を目標に勉強すると学習が早まるという噂を聞き、ブログで不特定多数の人にレクチャーするという体で書いています。
今勉強中の内容である為、書いている内容が間違っている可能性もあるので、受験生の方は鵜呑みにはせずに、テキストを確認することをお勧めします。

前回はこちら
kimniy8.hatenablog.com

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経営理念

会社というものは、市場から人・物・金を集めてきて、何らかの活動を行うことで経済に参加するもののことを指す。
ここで重要になってくるのが、経営理念

経営理念とは、会社を会社足らしめているもので、これがなければ会社という概念は存在できない。
企業経営に置いて一番重要というよりも、なければ会社そのものの存在理由が問われるもので、会社・企業は経営理念が全てのスタートとなる。

具体的には、『どのような製品を提供するのか。』『製品を通して、社会とどのように関わっていくのか。』といったものから、もっと抽象的に、『社会をどのように変えていきたいのか。』といった事で、これがない企業は、存在理由がない。
例えば、八百屋は地域住民に野菜を提供することが存在意義だし、建設会社は建物の建設を通して社会に関わっている。
エンターテイメント企業は、人々に娯楽を与え、世の中を楽しく面白いものにしようと働きかける為に存在している。

ドメイン

『この企業は何のために存在しているのか』という経営理念をベースにして生まれるのが、ドメインという概念。
それなりの規模の企業は、ドメインを設定することで経営戦略を練る事になる。
では、この、ドメインとは何なのかというと、企業の方向性を指し示すものと考えればよいのかもしれない。
ドメインの設定によって方向性がハッキリする為、企業がどの分野に対して人・物・金を投入するのかが明確になる。

ドメインには、物理的定義機能的定義が存在し、定義としては機能的定義の方が広いイメージ。
物理的定義されたドメインとは、企業が提供している商品をベースにした経営方針。
例えば、テレビゲームを開発して提供している会社があった場合、この企業がドメインを物理的定義するとすれば、『テレビゲームの開発販売』が物理的定義されたドメインとなる。
物理的定義されたドメインは誰にでも理解しやすく、共有がしやすい。 社員が理解しやすいことはもちろん、顧客に対しても、『この企業は何をしている企業なのか』というのが分かりやすい。

一方で機能的定義は、実物がないものをドメインとして定義する為、抽象的ではあるけれども、広範囲の定義をすることが出来る。
先程のテレビゲームを開発販売している会社を例に出せば、エンターテイメント企業という事にしてしまえば、事業範囲はかなり広がる。
ドメインを物理的に決めた場合は、企業はゲームを研究開発して販売する事に注力することになるが、エンターテイメントと定義すれば、ゲームのアニメ化をしたりラノベ化するといった、ゲーム以外の分野にも進出することが出来る。

双方のメリット・デメリット

ドメインを物理的定義した場合のメリットとしては、先程も書いたが、実物がすでにある為に、企業の提供しているものや進むべき方向性が分かりやすい。
サプリメント会社はサプリを作って販売することが企業の進むべき方向ということなので、研究開発すべき製品も、それを売る相手もハッキリしている為、社員が会社の方向性で悩むこともないし、社外の人に自社を説明するのも簡単になる。
デメリットとしては、ドメインの範囲が狭すぎる為に、事業拡大がしづらい。 自社が取り扱っている特定分野の製品の市場が伸びている間は良いが、市場の成長が止まると会社の成長も止まってしまい、市場が衰退すると会社まで衰退することになる。

一方で機能的に定義した場合は、定義が抽象的であるが為に、様々な方向へと多角化することが出来、また、方向転換も容易にできるようになる。
しかし、会社が何を本業にしているのかというのが内外に簡単に説明することが出来ない事にもなる。
社内で自社の方向性の解釈が変わるということは、方向性のすり合わせに時間がかかるし、社員の方向性がバラバラということは、その集合体である会社の方向性もブレる可能性がある。
会社の進むべき方向性があやふやという状況は、ドメインを設定している意味が無くなる為、広すぎるドメインには意味がないことになる。

何故ドメインを設定するのか

何故、ドメインを設定するのかというと、企業の方向性を決め、その市場で勝つための戦略を練るため。
自分たちが携わっている市場に、どのような製品を投入すればよいのか、どのような市場を新規開拓するのかを決定するのは、設定されたドメインに沿って決めることになる。
ドメインが設定されていない場合、どのような商品をどの市場に投入するのかというのがブレブレになり、それぞれの社員が自分勝手な意見を述べるようになる為、社内コンセンサスを得ることも難しくなる。

社員の向いている方向性を揃え、収益拡大の為に一丸となる為には、ドメインの設定が必要になり、その設定は狭すぎても広すぎても企業の成長を阻害することになる。

中小企業診断士の勉強 1日目 まず、何から勉強するか

私は、ここ最近、中小企業診断士という国家資格を取るために勉強をしています。
これは、どういった資格なのかというと、簡単にいえば、日本で唯一の経営コンサルタントの国家資格です。
環境的に、手に職をつけないと駄目な状況に追い込まれてしまった為、1から勉強しているという感じです。
1から勉強するといっても、資格予備校に通うわけでも家庭教師をつけるわけでもありません。 勉強そのものは独学で行なっていきますので、同じように独学で頑張っておられる方は、参考にしていただければ幸いです。

この勉強なんですが、1次試験がマークシートということもあり、やる事はひたすら、テキストに書かれている事を理解、もしくは暗記するだけなのですが…
ただテキストを眺めているだけでは、勉強が進んでいるのかが全くわからない。

どうしたものかと考えていたところ、『勉強というのは、誰かに教えることで効率が上がる』という言葉を思い出した為、ブログ内に新しいカテゴリーを作り、学んだことを他人にレクチャーするというスタンスで連載を始めようと思いました。
ということで、今回はその連載の第1回目となります。
連載回数についての表記は、タイトルで『○日目』と表記して更新しますので、最初の回から連続して読まれることをお勧めします。

中小企業診断士の勉強は、資格を取る気がない人であっても、ビジネスに役に立つということで自己啓発目的で勉強をしている人も多い資格なので、資格を目指さない人にも読んでもらえると幸いです。

企業経営理論

中小企業診断士の1次試験は7科目あるわけですが、どれから勉強を始めても良いというわけではなく、効率よく勉強する為には、順番があるようです。
では、何から勉強すればよいのか。 多くの方が推薦する1番最初にやるべき勉強というのは、『企業経営理論』です。
扇の要のような科目で、その他の科目と密接に関わり合いがある為に、この科目を1番に勉強すべきと推す人が多いようです。


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この企業経営理論ですが、テキストを読むと、必要な情報が箇条書きで書いてあって、イマイチわかりにくい…
私は、先程紹介したスピードテキストと、それよりももう少し難易度が低いテキストである『みんなが欲しかった!中小企業診断士の教科書 上』を1回ずつ読み込んだのですが…



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2回読んでも、各項目のつながりがよく分からない。
ということで、自分の頭を整理する為に、どんな感じのつながりになっているのかを図にしてみました。
それが、こちら。


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自分の頭を整理する為に書いた為、この図が正しいかどうかは、私の認識が正しいかどうかにかかっています。
間違っていても責任は取りませんので、あしからず。

次回からは、この図の読み解き方を少しずつ紹介していこうと思います。

【Podcast原稿】第73回【ゴルギアス】目的は全てに優先される 前編

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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前回はこちら

目次

今回の内容も、プラトンが書いた対話篇の『ゴルギアス』を、私自身が読み解いた上で、解説する内容となっています。
本を朗読しているわけではなく、重要だと思うテーマの部分に絞って解説していく内容となっているので、対話篇のすべての内容を知りたい方は、本を購入して読まれることをおすすめします。

人を正しい方向へ導くものだけを『力』と呼ぶ

前回は、ソクラテスに弁論術は技術にも達していない迎合でしかなく、低俗なものだと言われたポロスが、弁論術で出世した者は、権力を手に入れて好き勝手しているじゃないかと反論。
それに対してソクラテスが、善悪の見極めも出来ない無知なものが、自分の地位を利用して欲望に従って自由に振る舞ったとしても、それは力があるとは言わないと主張します。

人が起こす行動には目的と、それを実現するための手段があるけれども、目的を見失って、進むべき方向がわからないものは、欲望に流されて悪い方向へ進んでしまう。
自分の思いのままに行動できる人間が、目標を見失った状態で悪い方向へ向かってしまえる力は、力とは呼ばない。力とは、良い方向へ向かう時に使う言葉だと反論します。

力にもいろいろありますが、その1つに、継続するための力として、継続力というものがあります。 継続力を持つことは良いとされていますが、これが悪いことに対して使われる場合は、力と呼ぶのでしょうか。
例えば、無知であるが故に、その行為の行き着く先が良いことなのか悪いことなのかを判断する能力がない人間がいたとして、その人物が、アルコールやパチンコにはまり込んでしまったとします。
この人物は、自分の欲望のおもむくままに、昼間っから酒を呑んで、開店と同時にパチンコ屋に入って大金をすり続けているとしましょう。

酒もパチンコも、毎日欠かすことなく行い続ける この人物に対して、『酒を呑み続ける継続力がある。』とか『パチスロに通い続ける力がある。』というのでしょうか。
この人物は、自分を良い方向に導くために、パチンコに大金を投じているわけでも、酒を呑み続けているわけでもありません。欲望に押し流されて悪い方向へ向かっているだけです。
このような力を継続力とは呼ばない様に、ソクラテスは、自分を悪い方向へ導く事柄を実行できる力を力とは呼ばないと力強く否定します。

皆、楽をして自由に振る舞える権力を欲しがる

ソクラテスの主張は筋が通っていて、理論としても分かりやすく、彼の話を聞いていると納得してしまいそうになります。
しかしポロスは、納得ができません。 確かに、理論的にいえばソクラテスの意見が正しいのかもしれない。 不正に手を染めることは、自分を幸福に導くのではなく、不幸に身を投じてしまう行為なのかもしれない。
でも、みんな、思い通りに自由に振る舞える身分に憧れるじゃないか!と。 権力欲は皆が持っているものだし、手に入れられるものなら手に入れたいと思っている。

誰だって、人を思い通りに支配したいと思うし、自分の価値観を他人に押し付けて生きて行きたいと思っている。誰だって、楽をして優雅な生活を送りたいと思ってるし、やりたい事だけやって生きて行きたいと思っているんじゃないのか?
このポロスの主張は、私たち一般の感覚に近く、多くの人が理解しやすい感情だと思います。 誰だって、今の自分を変える努力もせずに、認められたいし崇められたいと思っているから、『なろう系』のラノベ原作のアニメが流行ったりするわけです。

ラノベ原作のアニメは、大抵は一般人と呼ばれる、現状でスポットライトを浴びてい無い人達が、現在の知識を持った状態で、中世ファンタジーなどの世界に異世界転生をしてしまうという設定で物語が始まります。
技術の進んでいない中世ファンタジーの世界では、大抵、技術が古いがゆえの問題を数多く抱えているのですが、主人公は現代の知識をフル活用して、世界の難問を解決していく事で、その世界の住民から尊敬されるという話です。
この手の話の共通点は、今の自分にそれ程価値がなかったとしても、世界のほうが変わることで、自分の価値が他人によって見出されることです。

この手の話は量産されすぎて、最近では、主人公が努力して報われる話なども出てきてますけれども、基本は、日常的に身に着けた、誰でも持っているような技術や知識が、世界の方が変わってしまうことで、貴重になるという話です。
こういった話が受け入れられやすい状態というのは、言い換えれば、新たな努力しなくても、世界の価値観が変わる事で認められたいと思う人が多いということです。
『認められたい。』だとか『自分の影響力を拡大したい』だとか『注目を集めたい』というのは、まとめれば、権力が欲しいという事と同じです。

これを実現するためには、少数の人しか持たない世界最高峰レベルの高い技術。 専門知識と言ったものを持っていれば、現代でもその分野では有名になれるでしょうし、崇められるでしょう。
でも、そんな努力はしたくない。出来ることなら、口先の技術だけで登りつめたいし、上の立場になれば、自分の欲望のままに力をふるいたいと思うのは、当然のことじゃないのかと、ポロスは言ってるわけです。
そして、口先の技術だけで権力を手に入れて、その地位によって大勢の人間を自分の思いどりに動かせる力を持つ者に対して、憧れるだろ?とポロスはソクラテスに対して聞きます。

『力』そのものは目的ではない

しかしソクラテスは、これに対して毅然とした態度で『羨ましくない!』と一蹴するんです。そして、人から命や財産を奪いとるのは権力者の当然の権利だと、平然と言ってのける連中に対しては、羨望ではなく、哀れんでやるべきだと主張します。
ですがポロスは、力を持つものを憐れむ理由が分かりません。 例えば、権力者のワガママによる行動ではなく、理由がある場合ではどうなんだろうか。
仮に、自分の身内が不当にも何者かによって命が奪われるという理不尽な出来事に巻き込まれたとして、その犯人を捜索して見つけ出し、逮捕して裁くというのは、力を持たなければ出来ることではありません。

一般人でも、警察に言うといった国家の力を頼るという方法で似たようなことは出来ますが、一般人には力がないために、警察に命令して動かすことは出来ずに、お願いして動いてもらうことしか出来ません。
力関係的には警察のほうが上ということになるので、捜査に対する力の入れ具合は、警察によって決められます。 しかし、警察を動かせる権力者であれば、警察に全力を出させることが可能になるでしょう。
地位の高い権力者であれば、自分の受けた理不尽に対して仕返しをする事が出来るし、泣き寝入りしなくても良い、このような力も、羨ましくないのかとソクラテスに尋ねます。

これに対してもソクラテスは、羨ましくはないと答えます。 何故なら、理不尽に対して仕返しをすると言う行為は、目的ではなく手段でしか無いからです。
ソクラテスは、権力者が権力を振るうのに正当な理由がある場合は、憐れむ必要はないけれども、別にその行動を見て羨ましいとは思いません。何故なら、彼らは手段をこうじているだけで、目的を達成したわけではないからです。

つまり、ソクラテスが羨ましいと思うのは、目的を達成したものを見た時だけという事なのでしょう。
受験に合格する為に、頑張って勉強をしている人を見て、同じ受験生が羨ましいと思う事はありません。受験生が羨ましいと思うのは、志望校に合格した人間を見たときです。
ソクラテスが目指しているのは、幸福に向かうことで、幸福に向かうために、その方法を模索しているので、幸福を手に入れたものを見た時には、羨ましいと思うのでしょう。

ポロスは、権力者になること、そのものが幸福だと主張し、それに対してソクラテスは、権力者になることは幸福になるための手段でしか無いと主張しているので、この様に食い違いが発生してします。
でも、ポロスはどうしても納得がいきません。 確かに、物事を細切れにして一つ一つ吟味していくと、ソクラテスの主張は正しくて、それに対して容易に反対できるものではありません。
しかし、細切れにした事実を統合して出来上がった結論には、納得ができません。

【Podcast原稿】第72回【ゴルギアス】『力』の本当の意味 後編

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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目次

『手段』と『目的』

そこでソクラテスは、ポロスに理解をしてもらうために、少し話題を変えて、こんな質問を投げかけます。
『人々が、目標に向かって努力をしている場合、努力している本人が本当にやりたい事は、今現在取り組んでいる作業なのか、それとも目標を達成する事か、どちらでしょうか。』
これは例えば、受験生が志願校に受かるために受験勉強を一生懸命している場合、この受験生が心の底から本当に望んでいることは、勉強を続けることなのか、それとも大学に受かることなのか、どちらかなのかという事です。

誰でも、目的を達成する為に手段を行うので、これは考えるまでもなく、目標の達成が優先されるべきです。 手段が目的化するのは、極力避けるべきですよね。
受験勉強のように、目標と手段が比較的分かりやすい場合は、手段と目的を混同する場合は少ないでしょうから、手段が目的化するということは、あまりないでしょう。
まぁ、受験がきっかけで勉強が好きになってということもあるでしょうけれども、この場合は、受験をパスして大学に行った後に行うことは勉強なので、勉強をするという手段が目的化したとしても、問題はないでしょう。やることは同じですからね。

でも、これが複数人の人間が一つの目標に向かって動く仕事などの場合は、手段の目的化が問題になったりもしますよね。
利益を伸ばす為に、社内の情報共有が重要だからと言う理由で、上司に対して報告書を出さなければならないという手段を生み出したとして、その後、IT技術の進歩によって情報共有が簡単になった場合は、その手段は必要がなくなります。
しかし大きな企業で、報告書を書くのが仕事、読むのが仕事といった人がいた場合、この人達の仕事はITの進歩によって無くなってしまい、その人の社内での存在価値が薄くなってしまいます。

こういった場合、本来であれば仕事がなくなったんだから、他の人手がない部署に移動したり社員数を減らしたりといったことが、会社の利益の増加につながるわけですが…
この人達が、職場環境を変えたくないし、仕事も失いたくないと思った場合、効率的なITの導入を様々な手を使って妨害したり、本来は報告が必要のないようなことまで報告させたりして、自分たちの存在価値を高めようとすることもあるでしょう。
この場合会社は、余計な仕事を増やし、新たに増えた仕事の為に人員を確保する必要があるので、本来の目的である利益の増加は達成できずに、逆に利益を圧迫する要因になったりします。

人が行動を起こす場合に重要視しなければならないのは目標の達成であって、手段を行うことではありません。手段のほうが目的化してしまうと、本来の目的を見失ってしまって、最悪の場合、目的とは違った方向に向かってしまう危険性すらあります。
これは仕事に限定された話ではなく、人生においても同じです。 人生において最終目的を明確にして置かなければ、目指すべき方向も分かりませんし、手段を目的だと勘違いしてしまい、見当違いの方向へ進んでしまうかもしれません。

人間の最終目標

では、人間の最終目標とは何なのでしょうか。 最終目標は、人間がもっとも望んでいることと言い変えることができると思いますが、人がもっとも望んでいることは、幸福であることです。
人間は幸福な状態であるために、健康であったりだとか、使い切れないほどの金銭や、誰もが尊敬するような知識、そして多くの人から認められる人望を求めます。
逆に、これらとは真逆のものは、拒絶しようとします。 病気であったり、明日の暮らしも不透明になる貧乏であったり、皆からバカにされる無知、そして皆から失望されて除け者にされることを嫌がります。

何故なら、その様な状態は不幸であり、人が求める幸福とは真逆の存在だからです。
人は、幸福にないたいが為に、自分の状態を良い状態にしようと思って、その努力をしようと思います。
身体が悪くなれば医者にかかり、頑丈な体を手に入れるために運動をする。 貧乏にならない為に働いて、馬鹿にされない為に知識を吸収する。 そして皆から求められるような振る舞いを行う。

決して、トレーニングするために生まれたわけでもなければ、勉強するために生まれたわけでもないし、皆から利用されるためだけに生きているわけではありません。
レーニングをするのも勉強をするのも、人から信頼を勝ち取るのも、全て、自分が幸福になるという目標の為の手段でしかありません。

この理屈を、先ほどの権力者の話に当てはめてみると、どうなるでしょうか。
ポロスの主張では、権力者は自分の気に入らない人間を自由に捕まえて有罪にすることが出来るし、その気になれば死刑にして殺すことだって出来てしまいます。
自分が持っていない珍しいものや、多額の資産を持っている人間に対しては、その財産を没収して自分のものにしてしまうことだって出来る。 このような、誰もが羨む能力を持っているから、権力者は幸せだというのが、ポロスの意見でした。

しかし権力者は、気に入らないものを捕まえて殺してしまいたいから、権力を手に入れようと頑張ったのでしょうか。 人の財産を自由に奪いたいから、力を身に着けたのでしょうか。
最終目的が、気に入らない人間を殺すことなのであれば、死刑を執行してしまえば、その人物は権力にしがみつく必要がなくなってしまいます。
それだけでなく、単純に人の命や財産を奪いたいだけなのであれば、わざわざ国でトップレベルの地位を目指すよりも、強盗などの犯罪を行う方がハードルが低いようにすら思えます。

権力者も人の子ですから、目指している目標は幸福であるはずです。
では権力者とは、人の命や財産を奪うことが楽しくて楽しくて、そのような行動の中に幸福を見出してしまうようなサイコパスの人達なんでしょうか。
おそらくそんな事はなく、権力者が自分の権力を不正に乱用して、人から何かを奪うという行動では幸せにはなれず、そのような行動をとって欲望を満たしたとしても、得られる満足感はたかが知れているでしょう。

手段の目的化を避けなければならない

先ほど漫画の『デスノート』という作品を例に出しましたが、あの作品の主人公は死神の力を使って自由に人間を殺す力を手に入れましたが、主人公の目的は、人を殺すことだったんでしょうか。
そのノートに名前を書き込んで人を殺していくという作業によって、幸福になれたのでしょうか。 その行動そのものが、幸福に直結していたのでしょうか。
そんな事はないですよね。 主人公の夜神ライトの最終目標は、恐怖によって他人の行動を抑制して、真面目で優しい人間だけの世界を作り出すことでした。

古代でも現在でも同じですが、権力者が行える権力の行使というのは手段であって、権力の行使そのものが目的ではありません。
権力は目的を達成するための手段でしかなく、その手段を使って、目的を達成するというのが権力者の本来の目的のはずです。
裁判にかけて人をさばく場合は、自分の目的の達成の為に邪魔になる人間を裁く。 財産を没収する場合も同じで、最終目的を達成するために行う手段が、権力の行使です。

では、権力者の最終目的は何なのでしょうか。 どんな目的を達成するために、人の命や財産を奪うのでしょうか。
例えば、私腹を肥やす為だとか、自分が行う不正に対して、それを止めるように口やかましく注意をしてくる人間を黙らせる為といった、目的が悪いものであるのなら、権力を使って実行に移してしまうと、悪が達成されてしまうことになります。
悪い目的に向かって、権力という手段を使って突き進むわけですから、その人間は悪い方向に突き進んでいくことになりますが、前に話した通り、悪い方向に進む力は『力』とは呼びません。

苦労をして、国のトップにまで駆け上がった上で行った事が、その辺にいる盗賊と同じであれば、世間一般の評価は『盗賊』でしかありませんからね。誰も盗賊を見て、立派で卓越した人なんて思いません。
世間の評価が、国の指導者から盗賊に変わってしまうような力は、力とは呼ばないということです。
しかし、最終目的が自由気ままに行動する事で、その行動の結果として自分自身が悪いものになってしまったとしても、その人物が自分の思い通りに行動していることには違いがないことになります。

力の使い方を間違えば不幸になる

冒頭部分で、『弁論家達は、自分の為になることは何一つしてはいないけれども、自分たちにとって一番良いと思い込んでいる事は進んで行っている。』というソクラテスの意見を紹介しましたが、彼が主張していることはこのことです。
権力者が無知であるが故に、善悪の区別がつかずに、どのような行動を取ればよいのか、逆に、とっては駄目なのかというのがわからないまま、自分の欲望に従って悪い方向に突き進むことは、権力者の主観でみれば、良いことのように見えるでしょう。
感情に任せて、人の命や財産を自由に奪えるというのは、優越感を刺激されて、一時的には心地よい状態になれるかもしれません。

しかし、進んでいる方向が悪い方向であるなら、その行動の結果として、権力者は悪くなってしまって、誰からも優れた卓越した人間とは認められずに、盗賊と同じ様に、蔑んだ目で見られることになります。
その道を突き進むことは、本来の目的である幸福とは逆の方向に突き進んでいるのと同じことになるので、権力者の権力が大きければ大きいほど、速いスピードで幸せな状態から遠ざかることになります。
結果的に、幸福な状態から離れて不幸に向かって全力疾走していることになるわけですが、その全力疾走できる能力は、力と呼べるものなのでしょうか。

冒頭でも言いましたが、ソクラテスは、そのようなものは力とは呼ばないと否定します。
このソクラテスの主張は、論理的に正しいですし、順序立てて考えていけば、誰でも理解することは出来ると思います。
しかしこの説明でも、ポロスは納得ができません。 ソクラテスに対し、『権力欲はないのか?』と食らいつきます。 これに対する反論は、次回に話していこうと思います。

【Podcast原稿】第72回【ゴルギアス】『力』の本当の意味 前編

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今回の内容も、プラトンが書いた対話篇の『ゴルギアス』を、私自身が読み解いた上で、解説する内容となっています。
本を朗読しているわけではなく、重要だと思うテーマの部分に絞って解説していく内容となっているので、対話篇のすべての内容を知りたい方は、本を購入して読まれることをおすすめします。

納得ができないポロス

前回の話を振り返ると、人間の身体は魂と肉体の2つに分けられて、その2つにはそれぞれ、技術と迎合が存在する。
技術は常に身体や魂を良い状態に向かわせるものだけれども、迎合は、良さではなく快楽や堕落を追求するもので、良いものとは言えない。
人間が良い優れた状態になろうとするのなら、本来であれば、迎合は無視して技術の習得を目指すべきだけれども、迎合は技術に偽装をしているので、日頃からよく注意をしていないと見極めが難しいという話をしていました。

そしてソクラテスは、その話に説得力を持たせるために、人間は何故、肉体と魂に分類できるのかという話を秩序と混沌を例にして話しました。
この世界が存在するにも認識するにも必要なのは秩序で、魂に秩序を宿すために必要な技術が司法と立法。 弁論術はその技術に偽装している迎合に過ぎないというのがソクラテスの意見でした。

しかしポロスは、この意見に納得ができません。 というのも、理論の世界ではなく現実の世の中を見てみると、弁論術によって無知な市民を説得したり、権力者にゴマすりをした人間が出世して、権力を手に入れているからです。
権力を手に入れた彼らは、自分の気に入らない者に対して罪をでっち上げて逮捕して命を奪ったり国外追放をしたり、財産を奪ったりと好き放題しています。
弁論術が、人を良い状態に導く『技術』ではなく迎合でしか無いのであれば、弁論術を駆使した彼らは何故、市民より上の支配者層に上り詰めることが出来たのかの説明がつきません。

良い方向へと向かうものだけが『力』

しかしソクラテスは、その様な支配者が振るう権力は力ではないと断言します。
何故なら、権力者が振るうとされている絶大な力と呼ばれれいるものは、その力を振りかざしている権力者本人の為になっていないからです。
力というのは、それを行使する事によって自分に何らかの利益があるモノの事であって、力を使うことで自分にマイナスにしかならないのであれば、それは力とは呼ばず、欠点になってしまいます。

ただソクラテスは、弁論家達は、自分の為になることは何一つしてはいないけれども、自分たちにとって一番良いと思いこんでいる事は進んで行っていると主張します。

しかし、ポロスはこの意見も納得ができません。 というのも、自分たちにとって一番良いことが出来るということは幸せなことですし、幸せを手に入れる能力こそが力であり、支配者の権力だと思っているからです。
古代ギリシャでは、労働は奴隷に押し付けられていましたが、この奴隷には自由がありませんし、欲しいと思うものを自由に手に入れることもできません。 欲しいものが手に入れられないという点に置いては、一般市民も同じでしょう。
でも権力者は、その力を持っている。 その気になれば、気に入らない金持ちに罪をでっち上げて裁判にかけ、財産を自分のものにしてしまうことだって出来てしまう。これを力と呼ばずして、何を力と呼ぶのかと

これを聞かれている多くの方も、このポロスの主張には納得してしまうと思います。
しかし、ポロスが力だと主張するものは、ソクラテスに言わせれば、『それは彼らが好きでやりたいと思っている事であって、それ自体が彼らを最善の道へ導くことはない。』と主張します。

欲望と幸福

ここで、ポロスとソクラテスの意見が食い違うのは、そもそも、幸福の捉え方が違うからです。
ポロスが考える人間の幸せとは、夢を実現するとか、欲しいものを手に入れるだとか、人から認められたり、高い地位に就いたりして満足感を得るといった、欲望を満たす行為と言えます。
幸せをこの様に考える方というのは多いと思いますが、ソクラテスは幸せをその様な状態とは捉えていません。

というのも、自分の欲望を満たすという行為は、自分の利益になるかもしれませんが、誰かの損失に繋がる可能性もあるからです。
誰かが得をして誰かが損をするという構造は、人間社会に対してマイナスの感情を発生させてしまう事になり、そのマイナスの感情は回り回って自分を不幸にしてしまう可能性があります。
またソクラテスは、欲望を満たすことそのものが、人にとって良いことであるとも考えていません。 プロタゴラスとの対話でも、快楽そのものは人間にとって良いものなのかという問いかけをしていましたよね。

ソクラテスは、欲望を満たすという行為そのものが人にとって良い行動とは思っていないために、権力者が欲望を満たすために行動して、満足感を得る行動が幸せにつながるとは思っていません。
人を良い方向に導くのは、快楽ではなく、別のものだと主張しているわけですね。
という事で、これから先の議論は、人を幸せにする為に必要なのは何なのかというのを意識しながら聞いてもらうと、良いかもしれません。

力は手段でしかない

ポロスとの対話に戻ると、ソクラテスは、権力者が行っていることは、自分の欲望を満たす為に行っていることだけれども、その行為そのものは彼らを良い方向に導いているわけではないので、力を持っている意味がないと主張します。
例えば、権力者が無知であるが故に、自分の進むべき道が分からない状態におちいっているとします。 幸せになれる場所が何処かにあることは分かっているけれども、その方向が分からない。
この様な状態で、手の届く範囲に快楽が転がっていたとします。 権力者は、権力があるが故にその快楽を手にする力を振るえるわけですが、実はそれが罠で、その快楽の方向へ進むと不幸になってしまう場合を想定してみてください。

この状態であれば、権力者は快楽を手にできる力を持っていない方が、悪い方向へ進まないだけ良いと言えます。
力がなければ、道を誤ることもなかったのに、力があったからこそ、間違った道に進んでしまうという場合、権力者が持つ力というのは、本当に力なのでしょうか。
破滅の方向に全力疾走できる力を持っているぐらいなら、その力を持たない方が幸せに近づける可能性があるとは考えられないでしょうか。

力というのは、幸せになる為に使うものであって、不幸になるために使うものは力とは呼べない。 であるなら、権力者が力を持つと主張するのであれば、権力者は善悪の区別がつく人間だということを証明しなければならない事になります。
この証明が出来ないのであれば、権力者が無知であるが故に、自分を優れた存在にする為には何をすればよいのかわからない状態のまま、自分の欲望を満たすためだけに好き勝手している可能性を払拭する事はできない。
そして、最善の道を見失っている状態で好き勝手な行動をしている人間は、力を持っているとは言わないと主張します。

ですが、ポロスはこの主張に納得ができません。 誰にも命令されず、逆に立場の弱い人間に命令して好き勝手出来る立場は心地よいし、その状態を持続できれば幸せだと思っているからです。
ムカついた相手がいれば、権力を利用して仕返しをしたり、自分が考える正義に反する事をする人間が現れたら、自分の基準で裁いてしまう。
この様な力を持つ人間を権力者と呼びますが、ポロス自身も含めて誰もが、この様な権力者に憧れます。 現代でも、デスノートの様な漫画が流行りましたよね。 

デスノートは、名前を書くだけで、契約した死神を動かして、自分が手を下さなくても、相手を思いのままに殺すことが出来るノートですが、この力は、古代や中世の権力者の力と同じとも考えられます。
誰もが自分基準の正義を持っていて、その正義に反する行動をした人間を悪とみなしています。そして、人はその様な人間を成敗したいと思い、その様な力が手に入るのであれば、手に入れたいと思っています。
ポロスの主張は、別に特別な意見ではなく、多くの人間が考えている事だと思いますが、それ故に、ポロスはソクラテスの主張が理解できません。
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