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ホワイトカラーではないブルーカラーからの視点

プラトン著『ゴルギアス』の私的解釈 その13 『善を目指して死ぬなら本望』

このエントリーは、私自身がPodcast配信のために哲学を勉強する過程で読んだ本を、現代風に分かりやすく要約し、私自身の解釈を加えたものです。
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目次

国に迎合する召使い

ソクラテスの主張により、本当に善い政治家とは国民や独裁者に迎合するのではなく、国民を良い方向へ導く為に時には厳しい態度を取る人間だということ。
そして、その意味合いにおいては過去の人物を含めたとしても、立派だといえる政治家は居ないことが分かった。

この主張にカリクレスは渋々納得するが、様々な偉業を成し遂げてきた彼らが立派ではないとはどうしても思えないともらす。
これに対してソクラテスは、彼らは立派な政治家とはいえなかったが、国の召使いとしてはよく働いたのではないかと主張する。 つまり独裁者は、権力を振るっているのではなく国に迎合していたと言うこと。

過去の偉大な指導者達の最終目的は善ではなく、国のご機嫌を伺う召使いである為、国が快いと思う事を進めてやらせるが、間違った方向に進もうとした際に、厳しい態度で軌道修正はしない。
これは、暴飲暴食がやめれない意思の弱い人間に対して、欲望を抑制させる事をせずに、美味しい食べ物をさらに進めている行為と同じ。
結果として、国はぶくぶくと膨れ上がり、むくれて病気になってしまう。 そのツケを払わされる国民が激怒し、指導者達を吊るし上げる。

これは近代の日本でも同じ。 地方から出てきた政治家は、地方の要望という形で橋や道路などの建設を国に求めるが、その政治家達は国を良い方向に導くために国に対して要望を出しているわけではない。
その道路や橋を使う一部の人達や、その建設に携わる会社の役員たちに迎合して国に対して要望を出しているだけで、本当に国のためになるのかと言うことは全く考えない。
国の計画はそのようにして決められていき、実際に役に立つかどうかのデータを集める役人は、政治家に迎合した形で数値を都合の良いように書き換えて、経済効果を算出する。

何もないところに道路を通すと、確かに最初のうちは経済効果が生まれて地域は発展するが、その流れは長続きしない。
ある程度の発展を遂げると経済活動は停滞し、それ異常伸びなくなる一方で、橋や道路は老朽化して、修繕費がかかるようになる。この修繕費は投資ではない為、これによる経済拡大効果はほぼ無いといっても良い。
甘い都市計画では効率の良い経済発展は行えないが、作った道路や橋を壊してしまう好意は経済を減速させてしまう効果があるので、作ったものは気軽に壊すことは出来ない。

欲望に支配されたツケ

結果として、捏造された見通しを元に作られたインフラは、経済にそれ程貢献しない一方で莫大な修繕費を消費する金食い虫となってしまう。
この様なインフラは日本全国に膨大に存在する為、ただ維持するだけで莫大なカネがかかり、国の財政は圧迫されてしまうことになる。
しかし、現状維持だけでは経済拡大は見込めないので、政治家達は国際を発行して借金をして資金を作り、再び甘い見通しを元に新たにインフラや事業計画を建てて金をつぎ込み、新たに修繕費が必要なインフラを生み出していく。

国は返済不可能な膨大な借金を背負い込むことになり、税収だけではやり繰りができなくなり、社会保障費を削ると行った直接国民に負担がかかるような行為を矯正してくる。
また、国が国際を発行して借金した金は、最終的には国民が借金額に見合った税金を収めることでしか解消しないので、無責任な計画で散財した政治家のツケは全て、国民に返ってくることになる。
肥満症の人間に好きなだけ食べ物を与えると、更に脂肪がついて病気が悪化してしまうが、同じ様に、国の経済を拡大させようと無理な計画で公共工事を行った場合は、国も病気になってしまう。

政治家がやっていることは、国や国民を善い方向へと導く行為ではなく、単に国に迎合して相手が求める快楽を与えているだけで、正しい目標を定めて先導するということは行っていない。
麻薬中毒患者に対して、『相手が求めている』というだけで麻薬を与え続けているのと同じ行為で、善い方向へと導いているわけではない。
何も考えずに、求められているからという理由で快楽を与え続けているだけなので、この様な政治家が関わった国や国民は悪い方向へと進んでしまい、結果として国民の手によって仕返しされてしまう。

もし仮に政治家が、国民を善い方向へと導く適切なゴールを定め、国民を正しく先導できていたなら、全ての国民は善人になっているはずで、そんな彼らが先導者を吊るし上げるなんてことはしない。

人を善い方向へと導く職業とは

この問題は、同じ様に人を立派な善い人にすると主張している、ソフィスト達にも共通する問題。
例えば、人を良い方向に導くなんてことを言っていないような職業の場合は、客に不正を行われた場合には、文句を言う権利があるだろう。
大工が客の要望に答えて家を立てたり、定食屋の調理人が注文された料理を出すという行動は、人の役に立つ行動だが、その行動そのものは人を良い方向に導くわけではない。

定食屋のオヤジの料理を食べたからといって、腹は膨れるかもしれないが、連続殺人犯の極悪人が善人になることはない。
その為、悪い人間が客として紛れ込んで、サービスだけ受けて食い逃げをするということもあるだろう。 この場合、定食屋のオヤジには文句を言う権利がある。

しかし、人間を教育して善い立派な人間にすると行っているソフィストは、同じ様な文句を言う権利があるのだろうか。
ソフィストの元に劣った人間が入ってきて、『私を立派な人間にしてくれ』と依頼し、ちゃんと教育を施したにも関わらず、その客は教育だけを受けて料金を踏み倒して逃げた場合。
そもそもソフィストがしっかりとした教育を行って立派な善人に仕上げていれば、その善人は料金を踏み倒すなんて不正は行わない。不正を行ったということは、その人間の教育には失敗しているので、料金を受け取る資格が無い。

目指すべきは善の指導者か迎合家か

ソクラテスはここまで説明をした後に、カリクレスに対して『私が本当にこの国の事を考える場合、国を良い方向に導くために尽力すべきなのか、それとも、国の召使いになるべきなのか、どちらが良いだろう。』と聞く。
これに対してカリクレスは、『国の召使いになれ』と進め、ソクラテスは『私に迎合家になれというのか!』と驚いた様子を見せる。

カリクレスがソクラテスに迎合家になれと進めたのは、これまでの議論を理解していないからではなく、ソクラテスのことが心配だから。
ソクラテスの主張は正論だが、この世の中には聞くのに苦痛を伴う正論に対して嫌悪感を示す人間が少なくなく、ソクラテスの様な態度を続けた場合は、恨みを買って無実の罪で裁かれてしまうだろう。
命を危険にさらしてまで、善に導く先導者を目指さなくとも、みんなの機嫌を伺い、多くのものから気に入られるように振る舞うべきだと主張する。

カリクレスは純粋にソクラテスを心配して忠告しているが、ソクラテスは単純に長く生きることが幸福だとは考えていないので、この考えを受け入れない。
そして、子供の裁判を例に出して、自分の意見の正しさを伝えようとする。

子供相手の裁判

まず、自分以外の人間は全て子供しか居ない状態の裁判を想像する。
検察官も被害者も裁判官も陪審員も傍聴人も全て子供で、自分だけが大人だという裁判の状態を頭に思い浮かべる。

被害者とされる少年は自分が怪我をした際に、あの大人によって傷口に酷くしみる薬を塗られた上に、ただでさえ痛い傷口を、針と糸で更に痛めつけたと証言する。
その話を聞いた検察官は、大人である自分を、傷を負って苦しんでいる子供を更に痛めつけるサイコパスだと主張し、傍聴席にいる子どもたちに向かって大人である私の危険性を説く。
傍聴席の子供は検事の主張にすっかりと説得され、裁判官も私を極悪な犯罪者だと思うようになり、弁護士ですらも、『何故、そんな酷いことをしたんですか?』と問い詰めてきたとする。

その時に、私はどの様に答えればよいのだろうか。 子どもたちに迎合して、『今後はそんな酷いことは絶対にしないから、助けてください。』と懇願するのが正しい道なのだろうか。
それとも、『私は、傷を追った少年に対して適切な治療をしただけだ。 彼のためを思ってやった事なんだ。』と説明するほうが良いのだろうか。
仮にその様に説得をしたとしても、被害者や検事は、『痛めた場所を更に痛めつける様な行為の、どこが治療なんだ! 私のためを思うなら、痛みだけ消すべきなのに、更に痛めつけてどうするんだ!』と責め立てるだろう。

その場には私以外は全員子供なので、検事や被害者の主張する稚拙な説明に納得してしまい、『治療には痛みを伴う。』という私の正論は無視されるだろう。
そうなった時、その場で唯一の大人である私の使命は、例え、子どもたちが口うるさく思ったとしても、正しく教育することであって、迎合して御機嫌を取ることではないのではないだろうか。
例え、私の理屈が受け入れられることがなく、逆に反感を買って死刑になってしまうとしても、その子どもたちの事を本当に可愛いと思うのであれば、正しいことを伝えるべきなのではないだろうか。

この例え話を聞いたカリクレスは、その様に死んでしまったとしても、その人は立派に生きたといえるのだろうかと質問をする。

善を目指して死ぬなら本望

ソクラテスは、その生き方こそが立派な生き方だと即答する。 悪だと思っている道に自ら突き進み、不正を行うことこそが、もっとも恐れなければならないことなのだと。
善を追求するものが、子供の裁判官を説得できなかったとしても、訪れる多く見積もっても死ぬ程度。 そして死ぬという行為は、余程のわからず屋でない限り、怖いとは思わない。
不正を行う恐怖に比べたら、死ぬことなどは大したことがない。

そして、その理由を神話を用いて説明する。

神々による裁判

人類が生まれてすぐの、ゼウスがこの世を治めて間もない時代。神々と人間は共存していて、人間は生きている時に、善悪を試されて神々によって裁かれていた。
しかし、生きている状態では、いかに神々であっても人々を見抜くのが難しい。
何故なら、裕福なものや見た目の美しさを備えて生まれてきたものは、それらによって装飾れてている為に、豪華に見えてしまう。

またこれらの人には、彼らの持つ富や美しさに引かれて多くの人が集まってきて、彼らに気に入られる一心で有利な証言をする。
逆に、貧困であったり醜いものは、関わり合いになっても徳がないので、誰も良い証言をしないという逆の状態になってしまう。
その様な状態で、その人間が立派であるかそうでないかを見極めるのは、至難の業となる。

その為、神々は、人が死んで、魂の状態になってから裁くことにした。

魂の状態であれば、装飾品や肉体といった物質は死後の世界に持ち込めないので、神の判断を惑わせる事は無い。
また、暴飲暴食を繰り返してきた人間の体が太ったり、逆に節制してトレーニングを行ったものの身体が美しいように、魂にも、これまで生きてきた間に行ってきた痕跡が残る。
不正を働いたものの魂は醜くゆがみむ。 神は、そのありのままの魂の形を見る事で、その人間の善悪を判断して裁きを与える。

裁きによる刑は、魂が重ねた不正の度合いによって決まり、償いが可能であれば、適切な苦痛を伴った後に、魂は矯正される。
しかし、多くの不正を行って矯正が不可能なほどに歪んだ魂は、他の者の魂を強制するために使用される。 つまり、他の魂が不正を起こさないように、みせしめの為に永遠に苦痛を受け続ける。
大部分の権力者は、その権力によって自分の欲望を満たせる為、欲望を抑えるという行為を行わない。 結果、不正は行われ続けて、魂は修復不可能な状態までゆがみきってしまい、みせしめの為に死後に苦痛を味わい続ける。

カリクレスよ。私はこの話を信じているのだよ。

自分自身の為にも世界を『善』へと導く

人は、何よりもまず、良い人と他人から思われるよりも、実際に良い人であらねばならない。(誰も観ていなくてもお天道さまが観ている? 何よりも自分が観ている)
もし人が、何らかの点で悪い状態であるなら、その魂は治療を受けなければならない。つまり、裁きを受けて懲らしめられなければならない。それによって悪に傾いた魂は善い方向へと導かれる。
快楽のみを追求する迎合は、出来るだけ自分から遠ざけなければならない。 弁論術も、迎合の手段ではなく、人を正しい道に導くために使われなければならない。

常に目的を善に据えて行動することで、人間は生きている間も、そして死んでからも、幸福であり続けることが出来る。
これがもし理解できたのであれば、カリクレスよ。共に、善を追求する道を進もう。

そして出来ることなら、他の者達もそうするように勧めよう。

参考書籍

プラトン著『ゴルギアス』の私的解釈 その12 『人は何のために生きるのか?』

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人は何の為に生きるのか

カリクレスは、不正を受けて被害に遭う者よりも不正を行う者のほうが不幸だという理屈がどうしても理解が出来ない。
ドラえもん』でいうなら、ジャイアンに暴力を振るわれる のび太よりも、のび太に対して暴力を振るうジャイアンの方が不幸で哀れというのはおかしい。どう考えても、のび太の方が哀れだとしか思えない。

これに対してソクラテスは、普通に考えれば被害者のほうが可愛そうだと思ってしまうかもしれないが、ものの道理が理解できている人間にとっては、そうではないと反論する。
ただ単純に長生きをしたいだとか、異性の興味を引いたり散財したりと快楽を優先する人生を歩みたいのであれば、時の権力者に頭を下げてご機嫌伺いをしながら生きていくというのも良いかもしれない。
そうする事で権力者のお気に入りになれば、その影響力を利用して自分も強大な力の恩恵に預かれるかもしれない。

独裁者の機嫌を損なわなければ、無意味な事で死刑になったりもしないし、財産を奪われることもない。
しかし、それは本当に良い人生を歩んでいることになるのだろうか。

ソクラテスが何故、この様な疑問を抱くのかというと、それは彼が絶対主義者だから。
弁論家やソフィスト達が支持する相対主義であれば、自分が良いと思う人生を歩んだと思えば、その人の人生は『その人の中では』正義となるし、自分が満足したと思えばそれで良い。
しかしソクラテスの価値観は相対主義ではなく絶対主義なので、本人が良いと思って納得していても、その人生を客観的に見た時に、本当に良い人生だったのかが他人の目を通しても評価されてしまう。

愚かな独裁者に頭を下げ続けることで生きながらえる人生は、客観的に観た時に、良い人生と呼べるのだろうか。

人生の最終目的は長生き?

また、単純に長生きしたい事が目的なのであれば、弁論術に限らず、多くの技術が自分の命を守るために役立つのではないだろうか。
例えば、海沿いを歩いている時に、フラついたり何かに躓いたりして海に落ちた場合は、泳ぐという技術が自分の命を助けることになる。
どんなに権力があっても、どれ程の強さがあったとしても、泳げないものが海に落ちれば死んでしまう可能性がある。 泳ぐ技術は、自分自身を危険から助けてくれる大切な技術といえる。
泳げる利点はそれだけではなく、泳ぐ技術があれば、水を挟んだ反対側に行くことも出来る。

泳ぐよりももっと良い技術として、船を操縦する航海術がある。
航海術を身につければ、自分自身だけでなく泳げない人間でも海の向こう側に渡す事が出来るし、誰かが溺れていたら船をだして助けに行くことも出来る。
この技術を高めれば高めるほど事故の可能性は減らせるので、この技術を極めることは、多くの人間の命を守る事に繋がるといっても良い。

しかし、この技術を身に着けた熟練の航海士は、自分たちの職業を偉大な職業だと主張して、他の職業のものにマウントをとったりはしない。
彼らは決して高くないお金を運賃としてもらうだけで、弁論家や弁論術を身に着けた弁護士のように、客に対して恩を売ったりする事はないし、必要以上の称賛も求めない。
この事は航海士に限らず、他の多くの職業にも当てはまる。

例えば、ソクラテスが生きた時代のアテナイは、スパルタとの内戦によって常に戦争が起こる危険性があった。
アテナイはスパルタのように職業軍人を育てているわけではないので、いつ、徴兵されて戦争に狩り出されるかは分からない。
この様な状況下での兵器職人は、国民の命を預かる職業といっても過言ではないかもしれない。

防具が粗悪品であれば、敵の攻撃は防げないだろうし、武器がナマクラなら敵を倒せない。
敵をいつまでたっても倒せないのであれば敵の数は減らないので、こちらの陣営は振りな状況に追いやられて、アテナイの国民の多くが傷つき亡くなってしまう危険性がある。
また、そもそも武器や防具がなければ、敵の兵士に好き放題やられてしまい、蹂躙されてしまうだろう。

その様な状態を防ぐためにも、武器や防具を作る職人は絶対に必要だし、彼らは多くの国民を自分たちの技術を駆使して守っているともいえる。
一方で弁論術を極めた弁護士は、その一生をかけて、一体何人の人間の命を救うことが出来るだろうか。 弁護士が人の命を救う機会は、死刑宣告を受ける可能性が高いときしか無い。
多くの人を生きながらえさせるという一点において、武器や防具を作る職人と弁護士を比べた場合は、武具職人達のほうが効率よく人を守っているといえるのではないだろうか。

その他の職業として、狩人や酪農家や農業をしている人間はどうだろう。
彼らは、人間が生きていく上で絶対に必要な食糧生産を行っている。 彼らが仕事を放棄すれば、国民の大部分が食料を手に入れる術を失ってしまい、餓死するだろう。
食糧生産者は、先ほどの武具職人たちの様に戦争がなければ必要とされない職業ではない。 食料は、戦乱の世の中であれ平和な世の中であれ、絶対に必要なもの。それを生産する彼らは、国そのものを支えているといっても過言ではないだろう。

職人は傲慢ではないが 弁論家は…

しかし食糧生産者や武具職人たちは、自分たちの職業を必要以上に持ち上げたりはしない。 決して多くはない金額を受け取るだけで、その事を自慢したりもしない。
彼らが、自分の職業や生産物を必要以上に持ち上げて崇高なものだと威張ったりしないのは、自分が技術を注ぎ込んで作ったものが、人間を善い方向に導くようなものではない事を知っているから。

一方で地位のある弁論家は、そんな彼らを兵器屋だとか農民といって、汚いものでも見るかのように軽蔑して見下すだろう。
仮にカリクレスに娘がいたとして、娘が彼らと付き合って結婚すると言い出したら、猛烈な勢いで反対するだろう。 何故なら弁論家達は、自分の職業が崇高なものだと思い込み、自分自身も立派なものだと思いこんでいるから。

確かにカリクレスは、世間一般からみれば良い家柄に生まれている。 しかし、この『良い』家柄とは何を持って善しとしているのだろうか。
家柄などのその人に貼られているラベルを剥がしていき、その人物が身に着けている技術のみで判断する場合、その職業が実業だった場合は、どの様な職業だったとしても人の命を延命させるという点で優れた職業といえる。
(技術を使うのは実業だけで、虚業が行っているのは迎合)

しかし、どれだけ命を延命させたとしても、いずれは限界が来る。 人は永遠には生きられない。
人の人生の善し悪しは、生きた長さではなく、その内容によって判断されなければならない。

良い人生を生きるとは

身分が高い家系に生まれたとか、他人の安全を保つとか、生きていく上で絶対に必要なものを生産しているというのは、良い人生を判断する材料からは切り離して考えなければならない。
生まれは自分でコントロールすることが出来ないし、生まれによって良し悪しが決まるのであれば、人間は生まれた瞬間に善悪が決定することになってしまう。
また、人が技術でもって何かしらの仕事をしているのであれば、その人は人間社会の一員として何かしらの役に立つ事をやっている事になるので、そこに上下関係は発生しない。

では、どのようにして生きるのが良い人生を歩むということなのだろうか。
例えば政治家として良い人生を歩む場合、独裁者と同じ様な力を手に入れるために、現状の政治体制と意見を合わせて、時の権力者に気に入れられるように努力する生き方が正しいのだろうか。
それとも、自分自身が独裁者になる為に、国民の意見の方に耳を傾けて、自分の意見と国民の意見をシンクロさせるような生き方が正しいのだろうか。

その様に振る舞うことが、本当に自分自身を、そして国民を幸福へと導くのだろうか。
誰かに迎合するという方法では、良い方向に導くことなどは出来はしない。
政治家として、本当に国民を良い方向へ導こうと思うのであれば、時には国民にとって耳をそむけたくなるような嫌なことであったとしても、国民に聞かせる事で良い方向へ導かなければならない。

また、仕事に対する向き合い方としては、過去の実績を並べあげて、その仕事をするのにふさわしいかを考えて行うべき。
例えば、今よりも高待遇を求めて転職をする場合は、履歴書に過去の実績を書いた上で、自分がその会社にふさわしいと思って初めて、エントリーをする。
これと同じ様に政治家も、政治家になる前に、自分自身が発する言葉によってどれほどの人間を正しい方向へ導いたかで判断すべき。 多くの人を正しい道へと導いた実績を持つものだけが立候補すべき。

本当に優れた人物は存在するのか

カリクレスは以前、ペリクレスを優れた政治家として称賛したが、彼は、アテナイの人々を正しい道へと導いたのだろうか。
彼が指導者の地位に付く前のアテナイ市民は今よりも劣悪な状態だったけれども、彼が指導者になって国民に演説を始めた途端に、国民は徐々に良い方向へと進み出し、最終的に立派な人間になったのだろうか。
カリクレスは、将軍職を除く全ての国の役職を抽選制にして、彼らを公務員ということにして給料を支払ったが、その事によって国民は怠け者になり、仕事をせずにおしゃべりばかりをするようになってしまったという批判もある。

この意見に対しカリクレスは、『それは敵であるスパルタ人が言っているだけだ』として跳ね除ける。
しかしペリクレスは、最終的には公金の使い込みによって告発を受けて裁判にかけられて、死刑になりかけている。 彼の偉業とされているパルテノン神殿も、デロス同盟が対ペルシャの防衛費として貯め込んでいた金を使い込んで作った。
彼は本当に、立派な善い人と呼べるような人物なのだろうか。

例えば、ペットとして犬を購入した飼い主が、子犬の間に躾をしておこうと、躾を代行してくれる業者に犬を託したとする。
その躾代行業者は、おとなしい子犬を預かって、飼い主が気に入る善い犬になる為に一生懸命に躾けた結果、その犬は調教師を殺す勢いで噛み付くように育ったとしたら、その調教は成功したといえるのだろうか。
犬を迎えに行った飼い主は、調教師に襲いかかる自分の犬を見て、立派な犬に育ってよかったと思うだろうか。

この例の調教師をペリクレス、子犬をアテナイ市民に当てはめると、ペリクレスと市民との関係が分かりやすい。
ペリクレスが民衆を扇動した結果、その民衆は先導してきたペリクレスを死刑にしようとしたのだから、ペリクレスの思惑通りに進んでいないことは誰の目から見ても分かる。
仮に、ペリクレスの指導が正しいもので、ペリクレスの指導の結果としてアテナイ市民は全員が良い人間になったのだとしたら、その善人に吊るし上げられるペリクレスは、悪人ということになる。

この様に考えていくと、大抵の独裁者の末路というのは、裁判にかけられて国を追われたりしている為、カリクレスが挙げてきた指導者に立派な人はいないことになる。
(つづく)
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参考書籍

プラトン著『ゴルギアス』の私的解釈 その11 『不正から距離を取るにはどうすれば良いのだろうか』

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欲望の善悪を見分ける技術

カリクレスは、欲望やそれに伴う快楽にも善悪が存在し、その見極めには専門の技術が必要だと主張する。
ソクラテスは、人間を良い方向に導く技術を身に着けた弁論家であれば、その善悪を見極める技術を習得しているかもしれないと思いカリクレスに聞いた所、ペリクレステミストクレス等、歴史的な偉人がそれに当たると答えた。
そこでソクラテスは、名前の上がった彼らの功績を吟味して、善悪を見極める技術を解き明かそうとする。

まず、善悪を見極める技術が迎合のような経験ではなく『技術』であるのであれば、その技術には法則性がある事になる。
その為、行き当たりばったりで対策を行うのではなく、向かうべき目標をきっちりと定めた上で、順序立てて決まった手順をふむはず。
建築家が完成品を想像しながら作業を行うように、医者が病気を見定める為に必要な情報を集めるために診察を行うように、善悪を見極めるためには決められた手順で作業を行うはず。

目標も決めずに、素人のスケッチを元にして思いつきで作った建物がすぐに倒壊してしまうように、行き当たりばったりの思いつきで行動したとしても、善悪の判断がつくはずがない。
魂の問題も同じで、目標を適当に設定して思いつきで行動をしていったとしても、魂を良い方向に導けるはずがない。 そこには何らかの法則性があるはず。

では、その法則とは何なんだろうか。
体の場合は、上手く整えられた状態の体のことを、健康だとか健やかなといった呼び方で呼ぶ。
同じ様に、よく整えられた魂は何と呼ぶのかというと、『法にかなった。』という名前がついている。
女神転生でもそうだが、法とはLAW(ロウ)で、秩序を重視し、その逆はカオスで混沌となる。 魂が上手く調整されている状態は秩序を守ることによって生まれ、秩序によって正義や節制の徳目が魂に宿る。

病気になった身体に、美味しいからという理由でステーキを与えたとしても、それによって病気が回復する見込みは薄い。ちゃんと医者に診察して薬を出してもらうべき。
同じ様に、悪い状態に陥った魂に快楽を与えたとしても、それが魂を改善させるのに役立つ可能性は低い。 ドラッグ中毒の人間に快楽を感じられるからとドラッグを与え続けたとしても改善はしない。
魂を良い方向に導くためには、悪い快楽を抑制する必要がある。

ソクラテスの考察

ここまで聞いたカリクレスは『欲望を抑える必要はない』と、ソクラテスを説得するのを諦めるようになる。
そして、まだ続けたいというのであれば、これ以降は一人で問答を続けて答えを出してくれと言いだす。
ソクラテスは、誰にも求められていないのに持論を演説するなんてことはしたくないと主張するが、黙って聞いていたゴルギアスが続きを聞きたいを言い出すので、なんとか一人で進めることにする。

一人で話すにあたり、ソクラテスは今までの議論を振り返ってまとめることにする。

まず、善と快楽は同じものではない。 カリクレスも認めている通り、快楽の中にも善悪が存在するから。
快楽は善のためにされるべきもので、その逆ではない。 善は目的に据えるものであって、善悪もわからない快楽を目標に据えてしまえば目標を見失ってしまう。
快楽とはそれが宿った時に心地よくなることで、『善い』とはそれが宿った時に善人でいられるもの。 常に良いとされる絶対的な良い人間は存在せず、良い事をしている人間が良い人間。

良さとは、規律と秩序による技術によって生まれるもので、偶然の産物ではない。 独裁者の思いつきによって良さが変わるなんて事はない。
思いつきによる欲望を満たしていく方法によって良い方向に向かうことは出来ず、悪い欲望を抑えて秩序を守る者に良さが備わる。

まとめると良い人間とは、自分の中に生まれる悪い欲望を抑え込むという技術、つまり秩序を持ち、それを守る人間のこと。
自分の欲望を上手く抑制できる秩序ある人間は、他人に接する時には正しい態度を取るし、神々を前にした時には敬う態度を取る。
善悪を正しく理解して秩序ある人物は勇気を備えている。追求してはならない事は追求せず、避けてはならない事は避けない。

人を良い方向へ導く方法

良い人というのは何事もよく行う為に、その人生は幸せなものとなるが、自分の欲望を抑えることが出来ない悪い人間は、不幸となる。
人は不幸にならないためにも、湧き出る欲望を抑えて不正を起こさないようにしなければならない。
万が一、不正を行ってしまったとしたら、それが自分自身や身内の者であったとしても、そのものに裁きを受けさせなければならない。何故なら、受けることは良いことだから。

無限に沸き起こる欲望に身を任せて、他人の命や財産を奪うような人生は、盗賊の人生と同じで、決して幸せになることはできない。
何故なら、人間は1人で生きているわけではなく、それぞれが繋がりを持つことによって社会を構築して生きていく社会的動物だから。
欲望に従って人のものまで奪う人間は誰からも愛される事は無く、人間社会の中で生きていくことは出来ずに、はじき出されてしまう。

人間社会の中で生き抜くために必要なのは他人から愛されることで、その友愛を勝ち取るためには、自分の中にある悪い欲望を抑え込んで秩序を保ち続けなければならない。
基本となるのは秩序なので、この世の総体である宇宙のことを『コスモス(秩序)』と呼んでいる。 力のある少数の者が独占するのではなく、秩序による平等こそが正義となる。
弁論術が、人の魂を良い方向へ導く技術だというのであれば、親しいものが罪を犯した際には、そのものに進んで裁きを受けさせるために技術を駆使して説得しなければならない。

例え、聞き手である親友が親族が耳をふさいだとしても、魂を良い方向へ導く為に説得し続けなければ、人を善に導く技術とは言えない。
このような事を適切に行えるような弁論家は、その身にアレテーを宿していなければならない。

また、不正を行うものと不正を受けるものを比べた場合は、不正を行うものが醜い存在で、それ故に不幸となる。
この世で一番の害悪は、不正を行うことであり、それよりも悪いことが有るとすれば、その害悪が誰の手によっても裁かれない事。
不正を働くという、人の道を踏み外した際に、誰も助けてくれない状況こそが最悪。 それに比べれば、不正を受ける害悪のほうが、まだマシ。

不正から距離を置く方法

不正を行うのも不正を行われるのも両方が不幸なので、幸福になる為には、この2つから距離を取る必要が出てくる。
では、不正を行われないようにするにはどの様にすればよいのだろうか。 ソクラテスの演説を聞いていたカリクレスに対して質問をすると、彼は力だと答える。
なら、不正を行うのをやめたい場合には、力が必要なのだろうか。それとも、意志の力だけでも達成できるようなものなのだろうか。

ポロスとの会話の中では、不正を行うものは意図的に望んで行うのではなく、自分でも気が付かない内に不正に手を染めているという話になったが、無意識に手を染めてしまう不正を止めるには、何が必要なのだろうか。
力だろうか、意思だろうか。 自分でも気がついていないのだから、これらが役に立つとは思えない。
気が付かない不正に対しては、自分の立ち位置を客観的に図ることが出来る物差しの様な尺度が必要で、それは確固たる技術ということになる。

不正を行わず不幸にならない為には…

ではこれらだけで、不正と自分の距離を離してかかわらないようにする事が出来るのかといえば、そんな事はないだろう。自分に力をつけたとしても、それ以上の力のある人間がこちら側に不正を仕掛けてくるということも十分に考えられる。
この心配を解消する為には、自分がその周辺で一番の実力者になるか、一番の実力者を味方に引き入れる必要がある。 つまり、虎の威を借る狐。 スネ夫に対するジャイアン
一番の権力者を味方に引き入れるためには、その権力者と似たような存在にならなければならない。 つまり、類は友を呼ぶ。 仲良くなるのは似た者同士。

権力者と一般市民との間で知識や常識がかけ離れすぎていれば、お互いに理解することは難しくなる。
仮に指導者が慾望を抑えるすべを知らず、ワガママで自由気ままに振る舞っていたとして、国民に節度や知恵があり優秀だった場合は、国民は指導者の横暴を許すことが出来ないだろう。
逆に、王が優れた人物で国民の方があらゆる点において劣っていたとすれば、王は国民を見下して、これもまた距離を縮めることは難しくなってしまう。

では、独裁者と親しくなれる人間はどの様な人間か。 独裁者が白いものを黒いといえば賛同し、馬の事を鹿だと言ったら、『そのとおり!』と言えるような忖度できる人間という事になる。
何故、独裁者が愚か者という前提になっているのかというと、そもそも、アレテーを宿しているような卓越した独裁者であれば、不正を行うことも不正を許すこともない。
そもそも不正を心配しなければならない状態というのが、その独裁者がアレテーを宿していない劣った人間と言うことを証明しているから。

国の指導者に媚びへつらい、不正を働くような劣った独裁者のお気に入りになることが出来れば、その独裁者の威光によって守られることになる為、その国の中では不正を受ける確率がかなり低下する。
では、もう一度振り返って、自分が不正を行う場合について考えた場合はどうだろうか。
自分が秩序を守る正しい人間であれば、意志の力によって不正を行うことを防げるかもしれないが、劣った指導者にしっぽを振り、その人物と似たような人物になる努力をしてきた人間に、自分を律することが出来るだろうか。

劣ったものに媚びへつらって、自分も似たような存在になろうとする人間は、その者も劣った指導者と同じ様に劣った人間になるはず。
であるなら、独裁者に気に入られる努力というのは、自分が不正を受ける可能性が減る一方で、自分が不正に手を染めてしまう可能性は上昇してしまうのではないだろうか。
不正に手を染めて、その行為について誰も咎めてくれないというのは人間にとって最大の不幸だが、劣った独裁者のマネをすることで、最大の不幸になる可能性を増やしているともいえる。

不幸の定義の違い

この主張に対して黙って聞いていたカリクレスが異論を唱える。
最大の権力者に隷属する事で似たような力を得ることが出来るなら、自分に敵対するものは死刑することが出来る力を手に出来るのだから、それは不幸なことではないだろうと。
この意見に対してソクラテスは、権力者や、それに付き従う自分の判断が間違っている場合は、善良な市民を殺してしまう可能性をはらんでいることを指摘するが、カリクレスは、それこそが最大の不幸ではないのかと主張する。

何も不正や罪を犯していない人間が、冤罪によって、また、時の権力者の思いつきによって殺されるのであれば、その被害者こそが最大の不幸を受けるのではないかと。
カリクレスは、ソクラテスの主張する『不正を働く者、そしてその人物に付き従っている者』が最大の不幸をを受けるという点について納得ができない。
(つづく)
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参考書籍

プラトン著『ゴルギアス』の私的解釈 その10 『臆病者は幸福なのか』

このエントリーは、私自身がPodcast配信のために哲学を勉強する過程で読んだ本を、現代風に分かりやすく要約し、私自身の解釈を加えたものです。
Podcastはこちら

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前回の振り返り

カリクレスは、自分から湧き出る欲望は抑える必要はなく、その欲望を満たし続ければ良い。そうする事で、幸福へと到達できるし、そうする事が正義だと主張します。
一方でソクラテスは、本当にそうなのか疑問に思う。例えば皮膚病にかかっている人間は、常に肌を掻きむしりたいという欲望があって、それを実行することで簡単に欲望が満たせる状態にあるが…
皮膚病にかかった彼は幸せなのだろうかと質問をし、カリクレスは、自身の発言の一貫性を守るために、しぶしぶ、皮膚病になる方が幸せだと主張する。

しかしこの態度が、ソクラテスは面白くない。
前回のゴルギアスとの対話の時も、ゴルギアスがその様な態度に出て本心を話さなかったせいで、弟子のポロスによって卑怯者呼ばわりされた。
其のポロスとの対話の時も、ポロスが本心で納得できない状態なのに納得した状況で乱入されて、カリクレスによって卑怯者呼ばわりされた。

今回もまた、カリクレスは本心とは違う形の答えに対して、同意しようとしている。これでは先の2回と同じ結末を繰り返すだけなので、本心で思っていないことには同意しないことを進める。
これは単純に同じことの繰り返しを避ける為だけではなく、ソクラテス自身が、求める真理に到達できなくなるから。
カリクレスが試金石として機能するためには、知恵を好意と率直さが必要だったが、そこから率直さが抜け落ちてしまうと、試金石としての意味がなくなる。

そこでソクラテスは、カリクレスに率直さを取り戻してもらう為に、別の質問をすることにする。

欲望が満たせない状態は不幸なのか

まず、概念には真逆のものが存在することを確認する。
例えば、熱いという概念には冷たいという真逆の概念が存在する。 眼の前のコップの注がれている水が、熱い状態でありながら冷たい状態でいられることはありえない。
同じ様に、強さや美しさも同じで、美しくありながら見にくい状態であることは出来ないし、強くありながら同時に弱くあることは出来ない。強い人間でも弱い部分はあるが、それは、力や身体が強い一方で精神的に弱いなど、部分が別の場合のみ。

この事実をカリクレスと共に確認し、次に、欲望と幸せについて考える。
カリクレスの主張によると、欲望の状態が何らかの手段によって解決することが出来れば幸せに近づくそうだが、では、欲望がある状態と幸せな状態は、真逆の概念なのかを考えてみる。
仮に真逆の概念だとした場合。 欲望の反対にある幸せは良い事と言い変えることが出来るので、その逆の位置にある欲望は悪いことと言い変えることが出来る。

先ほどの前提にたてば、真逆の概念は同時に宿ることはなかった。 つまり、良い状態であると同時に悪い状態であることはなかった。
では、欲望と幸せの関係性で観てみよう。 のどが渇いている時は、水に対する欲望が高まっているといえる。この時に水を飲むと喉が癒やされて快感を得るが、この時、水に対する欲望は完全に消えているだろうか。
水を飲んで美味しいと思うのは、喉が渇いているときだけで、水を飲むという行為そのものが快楽につながるわけでも幸福につながるわけでもない。

仮に水を飲みすぎてお腹がタプタプになっている状態で、更に水をのむのは快楽どころか苦痛を伴う。
では、水が美味しいと思うのはどの状態なのかを考えると、水に飢えている状態のときのみという事になる。つまり、水を飲みたいという欲望と快楽は共存していて、一方が現れれば一方が消えるという関係ではない。
水をのむ場合、飢えている状態で飲む1口目が一番快楽を得られて、欲望が満たされていくに連れて、快楽の方も薄れていく。 つまり、快楽は慾望に依存する関係に合って、慾望がなければ快楽も存在しない。

反対の概念のものは同時に宿ることは不可能にも関わらず、慾望と快楽の関係でいえば、同時に宿ることがあるどころか、欲望がなければ快楽も感じない関係性となっている。
ということは、慾望と快楽は、善と悪のような反対の概念ではないということになる。

勇気ある人間とは

カリクレスの主張では、政治などの知識に加えて勇気を持ち合わせていなければ支配者の資格はないそうなので、では次に、勇気について考えてみる。
例えば戦場で、交戦中の敵が撤退を始めた場合について考えてみる。 この場合、喜ぶのは臆病な人間の方か、勇気がある人間の方かどちらだろうか。
これとは全く逆のケースで、こちらが不利な状態の時に、相手がここぞとばかりに攻め込んできた場合、その状況に恐れおののくのは、臆病な人間か、それとも勇気ある人間か、どちらだろう。

他人の主観に成り代わることは出来ないので、憶測することしか出来ないが、おそらく、臆病者であれ勇気ある者であれ、戦争の中に突入していくという状況は、恐怖を感じる度合いに強弱はあるかもしれないが、両方が恐怖を感じるだろう。
たとえ勇気を持つものであったとしても、もしかしたら死ぬかもしれないという状況に突入していくのに、何の緊張感もない人間はいない。
これが臆病者であれば尚更で、臆病者は、死にたくない、傷つきたくないという思いがより強く現れて、より強い恐怖を感じるだろう

これとは逆に、敵が戦闘から逃げていく状態は、自分が死ぬかもしれないという状況から抜け出れるわけだから、かかっていたストレスが無くなることによって、開放感を得ることが出来るだろう。
この時の恐怖と開放感による快楽は、先ほどの慾望と快楽と同じ様な形に成っていて、戦闘状態によるストレスが高ければ高いほど、それがなくなった時の開放感は強いことになる。
つまり勇気のある人間は、戦闘状態に入る時にはわずかに緊張する程度なので、敵が撤退しても其の緊張緩む程度の印象しか受けないが、敵が攻め込んできた時に絶望していた臆病者は、敵が撤退する時には極度のストレス状態から開放されるので、とてつもない開放感と快楽を得ることになる。

臆病者は幸福なのか

カリクレスは、権力者などの支配者は、より多くの慾望を抱き、それを満たす事で満足感を得て、満足感を積み重なえることで幸福に成る。
幸福になる為には、より多くの欲望が必要になる為、欲望を抑えるという行為は幸福から遠ざかっていく行為なので、節制などは必要がない、欲望が薄いものは満たされた際の快楽も薄い為、生きている意味が無いという主張だった。

しかし、戦場という場面において勇気を持つ勇者と臆病者を比べてみると、臆病者は敵が襲ってきた時に絶望するほど怖がり、敵が撤退を始めると極度のストレス状態から開放されて大喜びする。
一方で勇者は、敵が襲ってきた時にさほど恐怖を覚えずに少し緊張する程度なので、敵が逃げても緊張が解けるだけで、喜びはそれ程大きなものではない。
恐怖というのは、自分の命や身体に傷をつけたくない、奪われたくない、助かりたいという慾望ともいえるが、その慾望が、そして開放された時の快楽が大きいのは臆病者の方。

より多くの欲望を抱き、それを満たすことによる快楽を重ねることが幸福への道というのであれば、臆病者こそが、大きな慾望と達成された時の快楽を受け取っていることに成る。
では、勇者と臆病者とでは、臆病者のほうが優れている事になるのだろうか。 また、より大きな欲望と達成する力を持つ人間が、同時に勇気を持つことは可能なのだろうか。

良い快楽と悪い快楽

この質問を投げかけられたカリクレスは、快楽の中にも善悪が存在すると言い出す。
そして、欲望やそれに伴う快楽の善悪を見極める為には、専門家による技術が必要になると付け加える。
また、新たな条件が追加されてしまった。

では、快楽を善悪に分ける専門的な技術とは何なんだろうか。
技術という言葉が出てきたので、先ほどポロスとの間で行った、迎合と技術の違いというのをヒントに考えてみることにする。
迎合と技術の違いとは何かというと、身体についての技術は医術がそれにあたり、迎合は料理法ということになる。

医術は患者の意見に関わらず、身体について最善の事を行う為に技術と呼べるが、料理法には正解がなく、食べる者の好みによって作り方や分量が変わる為に、迎合ということになる。
勇気であるとか、支配欲やそれに伴う満足感は精神的な分野である魂の管轄なので、この理論を、人間の魂の方にも当て嵌めてみて、分かりやすいものから仕分けをしていくことにする。

技術と迎合の仕分け

分かりやすい分野として、エンターテイメントの分野がある。 この分野に属しているものは全て、迎合と考えてもよいだろう。
例えば映画は、お金を払って見に来てくれた観客を満足させなければならない。 一方で、見に来てくれた客を良い方向に導く義務はない。
世の中を良い方向にしたいという思いから、映画の中にメッセージを込めて制作することは有っても、その映画が全体として面白く感じなければ、作品としては意味がない。

観客を良い方向に導きたいが為に、妙に説教臭くなったり、観ていることが苦痛に感じたりする映画には次がない。
1回で打ち切られると今後の活動ができなくなるので、製作者は、観客に気に入られるように迎合して作らなければならない。
これは漫画でも小説でも全て同じで、観客に見て感じて判断してもらうものは、観客がどの様に受け取るのかを考えた上で、迎合して作らなければならない。

では、音楽はどうだろうか。
音楽も同じで、聞き手が心地よいと思う音楽が良い音楽で、その音楽に絶対的なものは存在しない。音楽を奏でるものは、観客の反応を見ながら間や強さを調整する。
一定のテンポで楽譜通りに奏でることが良い音楽ではなく、聞き手の反応を見ながら、つまり聞き手に迎合しながら演奏するのが良い音楽かといえる。
その間や、観客が何を求めているのかは、技術ではない。 その為に、理論に落とし込めないし他人に言葉で伝えることもテキストに書き残すことも出来ない。 場数を踏んで経験を重ねるしか無い。

この音楽には、単に1つの楽器で演奏するものもあれば、複数の楽器で演奏するもの、そして、ヴォーカルを入れるものが存在する。しかし、この全ての音楽が、技術ではなく迎合といってよいだろ。
何故なら、聞き手が苦痛に思い、二度と聞きたくないと思いながらも、聴くと人間の魂を確実に良い方向に持っていく音楽など無いから。

この様に考えていくと、歌が入った極というのも迎合に振り分けることが出来る事が出来るということが分かる。
では、歌付きの曲から、リズムとメロディーを取るとどうなるのだろうか。 歌からそれらを取ると、詩だけが残ることになる。
詩(ポエム)は、人の感情や様々な理論も書き残したりするが、これも迎合なのだろうか。 この詩もやはり、その詩を読んだ人間が感動するものしか後世に語り継がれることはないので、読む人間を意識して作られたもの、つまり迎合と考えるべきだろう。

詩は、聴いた人間にとってためになる事や良い方向に導く内容のものもあるが、最終的には聞き手がどの様に思うのかが重要視されている為に迎合というのであれば、弁論家が行う街頭演説はどうなのだろうか。
街頭演説は、立ち止まって聞いてもらう為に聞き手の心を掴む必要がある。 聞き手の心をつかむ必要があるのであれば、聞き手が何を望んでいるのかを考えながら話す必要がある為、迎合に当たるのではないか。
これに対してカリクレスは、確かに、聞き手の望むものだけに関心を寄せて話す人間はいるが、聞き手を良い方向に導く人間もいるとして、一概にはどちらかに決めることは出来ないと主張する。

弁論術は技術か迎合か

ソクラテスはこの回答を受け入れて、街頭演説には、聞き手を良い方向に導く技術を持つものと、迎合しかしていない2種類が存在することを良しとする。
だがこの場合、聞き手が苦痛になってでも話すことを止めず、最終的に聞き手を良い方向に導く事が出来るものだけを立派な弁論家だとする。

ここでソクラテスはカリクレスに対し、『聞き手の事を思い、彼らが良い状態になる為に苦痛な言葉を投げかけ、彼らが耳を塞いでも語ることを止めずに良い方向に導こうとしている演説歌を知っているか?』と問いかけ、カリクレスは『知らない。』と答える。(ゴルギアスは?)
では、もう少し範囲を広くして、今現在現存していないかこの人も含めるとどうかと問いかけると、カリクレスはテミストクレスペリクレスの名前を挙げる。

ソクラテスは彼らの名前を聞いて、確かに、カリクレスの主張する善の形。すなわち、増大し続ける欲望をそのままにして、その欲望を満たす事を卓越性と呼ぶのであれば、その事に専念していた人物という意味では、当てはまるかもしれないと答える。
しかしその話は、欲望にも善悪があり、良いとされている欲望のみを満たそうとするものが卓越した人だったという結末だったはずで、欲望の善悪を見極める為には、特定の技術が必要だったという結果になった。
では、先ほど名前を上げた誰が、慾望の善悪を見極める技術を持ち、実行しているのだろうか。 カリクレスは議論が面倒くさくなり始めたのか投げやりに、『上手く探せば見つかるんじゃない?』という。
(つづく)
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参考書籍

プラトン著『ゴルギアス』の私的解釈 その9 『足るを知る事は不幸なのか』

このエントリーは、私自身がPodcast配信のために哲学を勉強する過程で読んだ本を、現代風に分かりやすく要約し、私自身の解釈を加えたものです。
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本能か秩序か

カリクレスは、人間が作り出す社会性によって生まれた常識ではなく、人間に備わっている本能に従うことこそが正義で、欲望を満たし続けることで幸福になる。
力を持つものは、その力を奮って手に入れたいものを手に入れればよいし、自分より弱い人間からは奪い取れば良いと。
強いものは多くを求め、必要とあらば弱者から奪い取ることこそが正義なので、侵略戦争は起こると主張していた。

それに対してソクラテスは、1人の権力者の力よりも、大勢の大衆の力のほうが大きいのではないか。であるならば、大勢の大衆は少数の大富豪から財産を奪う権利があるし、そうする事が正義ということになる。
一般大衆は、多くの富を貯め込んでいる富豪から財産を奪い取り、皆で再分配する事が正義ということになり、これは、人間が作り出した社会の法律と同じ事になる。
なら、法律で定めている様に、大多数のものが支持する再分配こそが正義なのではないかと切り返す。

しかしカリクレスは、自分が言っている力とは、単純な筋力や身体の頑丈さなどでは無いと主張。 では、どの様な力の事を言っているのかという質問に対して、『立派さ』と答える。

立派な人とはどんな人のことなのか

ここで再び、『立派さ』という様な言葉が登場する。
一番最初の対話相手であるゴルギアスも、その次に割って入ったポロスも、そして今回のカリクレスも、いざ、弁論術によって得られる力の正体を聴くと、『立派なもの』という抽象的過ぎる表現で答える。
しかしこれでは、抽象的過ぎて分からない。 立派な状態とはどの様な状態なのか。 何を習得すれば立派になれるのか。 謎は全く解明されない。

ソクラテスは、立派な人とはどの様な人なのかを探るために、『立派な人』というのは思慮深い人たちのことかと聞き、『そうだ』という返答を得る。
では、思慮深い人たちというのは、思慮のない人たちから搾取してもよいのかと聴き直すと、これもまた『そうだ』と返ってくる。

だが、この返答は矛盾があるように思える。 思慮深いとは、周りの環境も踏まえて深く考えて気遣いができるという意味合いがある。
深く考えて周りに気遣いできる人間が、自分より劣っているというだけで弱者から搾取するのだろうか。 それとも、カリクレスがいう思慮深いとは、単純に多くの知識を持っていることなのだろうか。
同じ様に考えたのか、ソクラテスも例を出して、思慮深い人間は弱者を押しのけて物を独占してよいのかを考えてみる。

例えば、何処かの地域で災害があって、地域住民が学校の体育館に非難してきたとする。
幸いにも、学校には災害に備えて数週間はやり過ごせる備蓄された食料があったとしよう。
そしてその場には、ただ一人だけ栄養士がいて、被災者の中で彼だけが、食べ物に関する飛び抜けた知識を持っていたとする。

この栄養士は、被災者の中で飛び抜けて知識を持っているという理由で、備蓄された食料を独り占めしてもよいのだろうか。
それとも、自分が持つ栄養士としての知識を生かして、みんなに適切な量を分配すべきなのだろうか。

立派な人とは国家運営に関する知識を持つもの?

この例え話を聞いたカリクレスは怒り出し、自分が言っている知識とは、そういった知識のことではないと言い出す。
では、どの様な知識がいるのだろうかと訪ねると、国家公共についての知識だと答える。
つまり、国を運営する上で必要な知識を備えることが重要で、そのようなものは出世して大物政治家になったり指導者になったりして、絶大な権力を手に入れることができるという事のようだ。

そして、知識だけではなく、勇気も持ち合わせていなければ駄目だと、必要なスキルを追加する。
しかし、この態度にソクラテスが物言いを付ける。 カリクレスは、ソクラテスが確認を取る度に答えを変える。
最初は、力のあるものだといっておきながら、その次は知識があるものだと言い出し、最後は、その知識は政治的な知識で、その上、勇気も持っていなければならないと…

確認を取る度に答えが変わるのでは、まともな議論が出来ないので、『他人の命や財産を奪っても許される強い人間』の定義を教えて欲しいと詰め寄る。(会社でこういう上司がいると困る)
カリクレスの主張では、国家公共の知識について詳しくて、政治運営できる能力が有って、勇気を持ち合わせているものが他人や国を支配する資格があるとのことだったが…
では、その資格がある支配者は、自分自身も支配することが出来るのかと質問をする。 つまり、自分自身の欲望や衝動を理性によって抑えることが出来るような人間なのかと質問をする。

立派な人は欲望を抑える必要はない

カリクレスは当然のように、この質問を否定する。
彼の主張では、力がある指導者で、その人物が治める国にも力があるのであれば、その指導者は自分の国よりも力を持たない国に対して侵略戦争をしても良いといっていた。
また、自分の欲望の赴くままに他人を陥れてもよいし、その人物の財産を横取りしても良いとすらいっていた。 この様な行動を取る人間が、自分を律して欲望を支配できているはずがない。

カリクレスは、力のある人間は欲望を抑える必要などはないし、『抑えろ』と忠告する人間は、自分には欲望を満たすだけの力が無く、満たしたくても満たせないから、嫉妬しているだけ。
力を持たないものは、他人の能力に嫉妬しているから、力を持って自由に振る舞う事を、まるで悪い事のように主張する。
大半の人間が力を持たない嫉妬しか出来ない奴らだから、自由に振る舞ったり富を分配せずに貯め込む事を悪いことだと吹聴し、その主張をあたかも正論のように学校などで教えて、常識のようにしてしまった。

力のない大多数の人間によって社会の常識が塗り替えられてしまったので、才能のある人間は、本来なら満たせる欲望を満たさずに我慢させられるという、まるで奴隷のような生活を強いられている。
力のある人間は、欲望を満たせる力を持っているのだから、その力を自由に使って欲望を満たすべき。それを無理やり抑え込んでしまえば、欲望を満たせないというストレスによって不幸になってしまう。
そんな理由で不幸になるのはバカバカしいので、欲望を満たせる力があれば、自由奔放に贅沢な生活を送るべき。 それこそがアレテーであり、幸福であり、正義だ。

負けたヤツが悪

足るを知り、手に入れられるものも手に入れずに、欲望を抑えて生きることに意味はあるのだろうか。
幸福は欲望を満たすという行動の中だけにあり、それを放棄するというのであれば、その人生には何の意味もない。
何の喜びも得られない人生は、道端に転がっている小石のような人生。 感情の起伏が一切ない人生に、一体何の意味があるのだろうか。

この様に、ソクラテスとカリクレスで意見が大きく異なってしまうのは、ソクラテスの考え方が絶対主義で、この世には絶対的な正義や良い事が有ると思って理論を組み立てているのに対し、カリクレスの思想は相対主義だから。
正義や善は、その人の立場ごとにそれぞれあって、その人間が起こした行動の結果によって善悪が判断される。

漫画、ジョジョの奇妙な冒険の第3部で、後に味方となる花京院典明という人物が、最初は敵対する人間として出てきますが、彼は、善悪についてこの様に語っています。
『「悪」?「悪」とは敗者のこと 「正義」とは「勝者」のこと 生き残った者のことだ 過程は問題じゃあない 負けたやつが「悪」なのだ』
彼はその後、主人公である承太郎に倒されてしまい、結局、自分自身の理論によって自分自身が悪人となる。

同じ様に、カリクレスの主張では、ペルシャの大群がギリシャに攻め込んでくるのは、その大群を指揮する能力の有るクルセクルスにとってみれば、ギリシャの土地を我がものとしたいという欲望に従って行動できているので、良い事になる。
クルセクルスが力の無い王であるなら、それ程の大群を動かすことは出来ない為、それ程の強大な武力を自分の思い通りに出来るという点で、自分より弱いものを従わせる資格があるということになります。

それに対して、防衛戦を300人という少数で立ち向かわなければならなかったスパルタの王、レオニダスは、その力がなかった為に、悪という事になるす。
では、ペルシャの王であるクルセクルスは、絶対的な善なのかというと、そうではない。
彼はその後、国を安定して運営することができなくなり、側近のアルタバノスに暗殺されますが、暗殺された事で彼は悪となり、暗殺したものが正義の鉄槌を下したということになる。

欲望に動かされ続ける人生は幸せなのか

カリクレスの主張では、欲望を満たすことが幸福で、欲望を満たし続けることが良い人生だということになっていた。しかし、この主張では、人間の幸せというのは欲望に依存していることになる。
ソクラテスは、『例えば、A・Bの2人の人間がいて、それぞれの男の前には樽が有るとする。 樽の容量そのものを欲望として、欲望を満たす行為を、その樽に貴重な水を入れる行為に置き換えて考える。
この条件で、Aの樽は傷一つ無く、液体を注いだら注いだ分だけ樽に溜め込まれるとする。その一方で、Bの樽には穴が空いていて、貴重な水を注いでも注いでも外に漏れ出てしまう状態だとする。

Bの人間は、樽に穴が空いている事によって、貴重な液体を注いでも注いでも穴から抜け出てしまう状況に追い込まれる。 樽の空き容量の大きさは、そのまま欲望の大きさにつながる為、Bは漏れ出た液体を常に補充し続けなければならない。
その一方でAの人間は、樽に穴が空いていない為、一度樽を一杯にしてしまえば、もう頑張る必要がなく、満たされた樽を見守るだけで良いことになる。 このAとBは、どちらが幸せなのだろうか。
この質問に対してカリクレスは、Bさんだと即答する。 欲望を満たす為に常に動き続け、その中で喜怒哀楽を感じることこそが人生であり、何も行動しないAの人生は生きているとは言えないと。

次にソクラテスは例を変えて、アトピーや蕁麻疹になった人を例に挙げる。 これらの人たちは、肌に異常がない人たちとは違って、常に皮膚を掻きむしりたいという思いを抱いている。
そういった意味では、この様な症状を持たない人間よりも欲望がある事になる。 彼らは、その欲望を満たす為に常に肌をかきむしる事で幸福に至ることが出来るのだろうか。
先程と同じ理屈を当てはめるのであれば、皮膚病にかかっていない人生は、皮膚を掻きむしりたいという欲望がない人生で、当然、掻きむしった時の気持ちよさも感じることが出来ない。

その様な欲望もそれを達成した時の快楽もない人生は、カリクレスの言葉を借りれば『道端に転がっている意思のような人生』で、生きている意味がなく、死んでいるのと同じ事になる。
この例え話の場合は、皮膚病にかかる人生か、それともかからない人生か、どちらの方が幸福になれる人生なのだろうか。
この質問に対してカリクレスは、本心では病気にならないほうが良いと思いながらも、そうしてしまうと先ほどの自分の主張に矛盾が出てしまう為に、皮膚病にかかる方が良いと主張する。

先ほどまでのカリクレスの主張には、一定の理解を示す人もそれなりの割合でいたかもしれない。
特に日本は自己責任論が声高に叫ばれる国なので、力がない人間は悪で、強者こそが正義という主張がもてはやされる傾向にあるので、カリクレスの欲望を満たす力があるのなら、それを満たすことが幸福につながるし正義だというのは、受け入れやすいと思う。
学校で落ちこぼれるのは、学校程度の勉強についていけない頭が悪い人間が悪いし、それが理由で良い会社に就職できずに低賃金なのは、本人の努力不足だと言われ、その理論が一定の支持を勝ち取れる。

力があるのであれば、その力を使って何をしてもよいし、無限に沸き起こる欲望を満たし続けていれば、それだけで幸福になれる。 不幸になるやつは努力不足なんだから、努力してから出直してこい。
この意見は本当に正しいのだろうか。 力がある人間であれば何をしてもよいのであれば、ドラッグを湯水のように買うことが出来る資産を持つ人間は、継続的にドラッグを買って摂取し続けてよいのだろうか。
大抵のドラッグには中毒性があり、継続的に摂取するとドラッグの刺激に対して依存してしまう。 依存状態になれば、常にドラッグを求める欲望が生まれることになり、ドラッグを摂取し続けている限りは幸福ということになる。

しかしこの状態は、幸福なのだろうか。
(つづく)
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参考書籍

マイケル・ムーア監督『世界侵略のススメ』 基本アメリカdisの内容だけど日本人こそが観るべき映画かも

先日ですが、なんとなくNetflixを検索していると、マイケル・ムーア監督の『世界侵略のススメ』という作品を見つけたので観てみました。
この監督の作品は、『キャピタリズム』と『ボーリング・フォー・コロンバイン』を観たことが
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ありその時は興味深く観れたたということもあって、見つけてすぐに見始めた次第です。



(画像はamazonリンクです)


今回はこの映画の、ネタバレ感想を書いていきますので、内容を知りたくない方は、先に観ることをおすすめします。

マイケル・ムーアによる世界侵略

この作品は、世界中の戦争に介入し、様々なところに兵士を派遣したり無人機で空爆を繰り返しまくっているにも関わらず、自国に必要なものを何一つ手に入れることができていないアメリカ軍が、マイケル・ムーアに意見を聞くために招集するところから始まります。

アメリカといえば、世界の警察を気取って様々な地域に軍事介入をする!という名目で、様々な地域に軍事介入をして、石油利権などの金になりそうなタネを掻っ攫っていくという戦略を撮っていますが、それがイマイチうまくいっていない国だったりします。
大した利権が奪えないのに、軍事費だけは嵩んでいって、税金の6割が軍事費に消えていくという財政状態。
この状態にしびれを切らしたアメリカ軍トップが、マイケル・ムーアに意見を求めるのですが、そこで出された提案というのが、『取り敢えずアメリカ軍の兵士に休暇を出して、そのかわりに、私が1人で侵略に行ってくる。』というものでした。

物凄い予算と人員をかけても出来なかった世界侵略を、マイケル・ムーアたった1人で出来るのか。
様々な国を渡り歩く彼の行動を追っていくのが、この映画の大まかなあらすじとなっています。

世界侵略の定義とは

この作品は、たった一人で世界を侵略しようとするマイケル・ムーアに密着したドキュメンタリー映画ですが、では、彼が定義する世界侵略とは何なのでしょうか。
先程も書きましたが、アメリカが様々な国に対して軍事介入するのは、自国の利益になる為の様々な利権を手に入れるためです。
最近では、中国にIT投資を控えろと圧力をかけて、聞き入れられなければ関税を引き上げると脅しをかけたりしていますが、自分たちに追いつこうとしている国を蹴落として、他国にある利点を武力で奪うのが、アメリカの行動です。

この行為を侵略として、もっと単純化していくと、他国の優れたところを自国に持ち帰るというのが、侵略ということになります。
他国にある石油を自分のものにしようとするなら、その利権を手に入れなければなりませんし、豊かな農地を手に入れようと思えば、武力で土地を勝ち取らなければなりません。
その為に宣戦布告をし、他国を敵と認定して攻め込んでいくのが侵略戦争です。

しかし、今回マイケル・ムーア氏が行おうとしている侵略は、得ようとしているものが石油や土地のような実物資産ではなく、他国が持つアイデアです。
アメリカよりも優れたアイデアを持ち、それを実践し、実際に効果を上げているアイデアを聞き出してアメリカに持ち帰り、それを実践することでアメリカという国を優れた国にしようというのが、マイケル・ムーア流の侵略です。

相対的にひどい状態のアメリ

この映画では、マイケル・ムーア氏が様々な国を訪れて、その国の優れているという制度をインタビューしにいくのですが、当然ですが、『アメリカではどうなのか』といった対比映像が出てくるのですが…
そのアメリカの状態が、かなり酷い。 発展途上国なんじゃないかと思うぐらいに遅れている印象を受けました。
これは、映画の演出としてその様に取っているということもあるとは思いますが、それを差し引いたとしても酷い状態でした。

特に、差別問題や薬物問題を取り扱った部分が酷く、アメリカの闇の深さを感じさせるような演出となっていました。
具体的には、ポルトガルでは薬物自体が非合法ではなく、所持していても使用していても罪に問われる事は無い。
一方でアメリカはというと、国として積極的に厳しく取り締まり、所持や使用を行うと逮捕されてしまい、懲役刑となってしまう。

一見すると、薬物中毒者が取り締まられることなく街を歩き、誰でも買って使用できるような状態になっているポルトガルの方が危険で、アメリカのほうが安全のような気がする。
しかし実際には真逆で、ドラッグが合法になった事でドラッグに手を出してしまった人が、初期の段階で身近な人に相談をしたり、病院を訪れて依存症を治そうとしたりするため、依存症患者自体が激減しました。

一方でアメリカはというと、いろんな薬物を違法薬物に指定して刑罰を課すことで、誰にも相談できない状態を作り、結果として依存症患者は誰にも相談することが出来ずに、そのストレスから更に薬物にはまり込んでしまう。
結果として依存症患者が増えるだけでなく、後戻りできないほどに重症化してしまうという状態になってしまう。
この他にも、非合法であるがゆえに取り扱えるのが闇市場だけになり、反社会勢力の資金源になって、彼らを肥え太らせているという状態にもなってしまう。

ではアメリカは何故、この様な意味のないドラッグの厳罰化をしているのでしょうか。
それは、アメリカでドラッグの厳罰化が始まった時期に関係します。 この時期は、白人達によってアフリカから拉致されてきた黒人奴隷たちが、自らの公民権を主張して運動し始めた時期とかぶります。
白人社会のアメリカとしては、彼らが鬱陶しく、僅かな権力の移譲もしたくなかった為、ドラッグを禁止薬物に指定することで、簡単に荷物検査や逮捕を行えるようにして、大量の黒人を逮捕した上に刑務所に入れる事を可能にしました。

これを読まれる方は、ドラッグの非合法化は全国民に対して行われるので、黒人が捕まるのは、黒人だけがドラッグを使っていたからと思われるかもしれませんが…
実際には、黒人が多く住む地域でだけパトロールを強化して、偶然にも白人の薬物使用者に遭遇したとしても見逃して、黒人だけを逮捕するという行為を行っていたのです。
黒人を逮捕して大量に刑務所に送って、刑務所に単純労働を発注すれば、激安で作業を行うことが出来る。

公民権を訴える黒人を一掃するだけでなく、刑務所に入れて管理することで、再び奴隷にする事が出来るということで、一斉検挙が行われたそうです。
他の人が書かれた本などにも似たような記述があるので、これはマイケル・ムーア氏の妄想というだけではないのでしょう。

厳罰化によって悪化する世の中

この映画を観ると、先ほど紹介したドラッグの軒でもそうですが、厳罰化によって自体が好転することはそれほどないように思えます。
例えば、世界一の学力を誇るフィンランドでは、統一試験を禁止して宿題をなしにし、子供には子供らしく遊ぶことを進めているそうです。
アメリカだけでなく日本もですが、これとは真逆の方向に全力で突っ走ってますよね。

何故、統一試験が駄目なのかというと、統一試験での高得点を目標に据えると、授業の大半がテスト対策に成るからです。
道徳や哲学や美術や音楽など、生活を豊かにするために必要な授業は削られて、テスト対策のための暗記作業だけを行うようになり、結果として総合的な学力が下がってしまうようです。

他には、刑務所での受刑者の扱いなどです。
ヨーロッパでは死刑廃止の国が多いですが、その中でも再犯率が低い国の刑務所では、受刑者が人間らしい扱いを受けています。
各個人に部屋が与えられて、その鍵は自分自身で管理する。 部屋にシャワーやトイレも付いていて、ゲーム機までも持ち込める。
施設には趣味を楽しんだり技術を高めるスペースが沢山あり、知識を得るための充実した図書館まで整備されています。

一方で日本はというと、罪も確定していないゴーン氏は冷暖房どころか何もない狭い部屋に数ヶ月間監禁されるという状態。
で、どちらが再犯率が低いのかというと、ヨーロッパだったりするわけです。

何故かというと、人間は社会的な動物なので一人で行きていくことは出来ないので、社会に馴染む必要があるわけですが、日本のように受刑者でもなく容疑がかけられただけの人でも人権が剥奪されてモノのように扱われてしまうと、人を信じることができなくなります。
人を信じきれない人間が社会に馴染めるのかというと、当然ながら馴染めないので、社会からはじき出されてしまうことになります。
こうした人は社会に対して何の思い入れも無くなるだけでなく、負の感情を持つ為、再び社会に対して牙をむきます。

一方でヨーロッパのように、犯罪者であっても人間扱いしてもらうと、人を信じることや社会の重要性を身をもって感じることが出来るため、自分も社会に対して貢献しようという思いが湧いてくるのでしょう。
貢献したいと思っている社会をぶち壊すような人間は少ないので、再犯率が低下する傾向にあるのかもしれません。

日本人こそ観て欲しい

この作品の中では、他の国に対して相対的にアメリカの酷さを描いているので、アメリカの酷さが目立ちますが、日本人にこそ観て欲しいし、観た上で自分の国の状態を見直して欲しいと思いました。
何故なら、作品の中で酷いと言われているアメリカの状態よりも悪いと思われる部分が、今の日本には多くあるように思えるからです。

この映画に登場する国の多くが、自分個人の降伏だけを追求するよりも、社会全体を良い方向にする方が、回り回って自分たちのためになるという考え方が基本となっています。
しかし日本はどうでしょうか。 日本で辛い生活を余儀なくされている人たちに対して投げかけられる言葉は、『自業自得』です。
自己責任論の日本では、強者こそが善で、弱者は切り捨てるべきだという考え方が多いように思えます。

稼いでいる大企業は善だけれども、その大企業に安月給で使われている人間は自業自得で悪という考え方を声高に叫ぶと拍手喝采されるのが日本だったりします。
ただ、経済というのは大多数の弱者の消費行動に支えられている為、強者だけを持ち上げる考えは、いずれ破綻してしまうように思えます。
破綻してからでは遅いので、今からでも意識改革をするためにも、この作品は見ておくべきなんじゃないかなと思いました。

プラトン著『ゴルギアス』の私的解釈 その8 『欲望を満たし続けることで幸福になれるのか』

このエントリーは、私自身がPodcast配信のために哲学を勉強する過程で読んだ本を、現代風に分かりやすく要約し、私自身の解釈を加えたものです。
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カリクレスの乱入

ソクラテスが吟味した所、不正を働くのと不正をされるのとでは、不正を働くほうが醜く悪いこと。
そして、不正がバレた方が良いのか、それとも、不正がばれない方が良いのかを比べた場合は、不正がばれない方が良いことが分かった。

しかしこの理屈に納得できないカリクレスが、議論に乱入してくる。彼も、納得は全てに優先するという考え方なのだろう。
カリクレスの主張としては、ソクラテスの主張が正しいとするならば、私達の普通の感覚とは真逆になってしまうというもの。

普通の人間であれば、権力を振りかざして理不尽な行動を相手に取るのと、その被害を受けるのとでは、被害を受ける法が嫌に決まっている。
同じ様に、仮に自分が自分の環境を有利にするために不正を働いたとしたら、それがバレない方が良いに決まっている。
皆がそう考えているし、そう思うことが当然だが、ソクラテスの主張はその本能や直感に反するもので、受け入れることが出来ない。

では何故、ポロスとの対話を続けた末に、受け入れることが出来ないような結果になってしまったのは何故なのか。
カリクレスによると、それは、人間が考えたり判断を下すは、『自然本来の法則』と『法律習慣上の法則』の2つの考え方があるからだという。
自然本来の法則とは、人間が本来自然に持っている感情や直感的な考えと言ってもよいだろう。 一方で法律習慣上の法則は、知識や経験によって、後から身につけることが出来る理性的な考え。

『本能』と『社会性』

そして、人の直感と論理の世界には隔たりがある。何故なら法律は、大多数の権力も富も持たない市民やそれ以下の者を考慮して作っている。
何故なら、富や権力を持つ支配者層と市民やそれ以下の者の人数を比べた場合、圧倒的に権力者の人数は少ない。
圧倒的に少数の者を優遇するような法律は常識を作ってしまえば、圧倒的多数の者が反乱を企てる可能性も出てくる。

その為、富を必要以上に貯め込む事は悪だとされ、一方で、溜め込んだ富を再分配して分ける行動は良い行動だとされる。
しかしこれは、自然本来の法則には反する事で、人間は、他人に分前なんてやりたくないし、独り占め出来るものならしたいと思うのが当然。
この様に、経験則による社会の常識や論理の世界というのは、人間の直感と反することがよくある。

ソクラテスは、この2つの法則が反することを利用して、ポロスが人間の直感的な感情で答えた事を社会の法則として捉えて、相手の主張を曲解している。
その様な口先の技術で相手をやり込めるのは、恥ずべき行為だと主張する。
ソクラテスは乱入される度に、『恥ずべき行為』だとか『卑怯者』呼ばわりされているが、前にも書いたが、相手は口先の技術だけで他人を支配してやろうと目論む弁論家である。

その弁論家が口喧嘩で負けて『卑怯者』と罵るのは、もう、色んな意味で完敗のような気がする。

おとなになって勉強するのは無駄なこと?

またカリクレスは、ソクラテスがいい年をして哲学にのめり込んでいるのも否定する。
カリクレスによると、哲学というものは社会に出るまでの未成年が行うべきものであって、大人になれば、そんな者にうつつを抜かさずに社会経験を積むべきだという。
哲学は頭の体操として幼年期に行うのは喜ばしいことだし、大いにやればよい。しかし大人になったら、出世するための処世術を身に着けるべき。

このカリクレスの主張は、今現在でも、多くの大人たちによって主張されている。
『三角法やピタゴラスの定理が、社会に出て一体何の役に立つのか?』『社会に出れば、釣り銭の計算をする為の最低限の知識があれば良い。』『学校で勉強することの大半は、社会に出れば無意味た。』
この様な話は、色んな人から度々耳にする。 その一方で、『上司に気に入られて、同期の中で一番に出世する方法』だとか、『社会で役に立つコネの作りかた』なんてものが有難がられたりする。

カリクレスは例を出して説明する、子供が一生懸命片言で話していると、大人はその様子を見て可愛らしいと思って、微笑むだろう。
しかし、小さい子供の内に、やたらとしっかりした受け答えをする子供を観ると、違和感を感じるし、奴隷の子何じゃないかとすら思ってしまう。
逆に、大人になっても片言で喋っているような奴を見かけると、ぶん殴ってやりたくなる。

この例は、子供は子供らしく振る舞うことこそが正しくて、子供らしい振る舞いというのが、座学で一生懸命学ぶ事と言いたいのだろう。
一方で子供にも関わらず、社会で生き抜く処世術を身に着けようとする子供は生意気で、子供らしい振る舞いではない。そんな生意気な子供を見ても、可愛らしいとすら思わない。
逆に、大の大人が、まだ勉強にのめり込んで、社会で生き抜く処世術を身に着けていなければ、そいつは社会人失格となる。

社会人になってもまだ、哲学なんかに没頭している人間は、ぶん殴ってやれば良いと言っている。
カリクレスは、1ページ程の短い間隔の間に2回も『ぶん殴ってやれば良い。』と言っているので、相当、腹立たしく思っているのだろう。

理屈をこねても現実は変わらない

ソクラテスがどの様に主張しようと、今現在、権力者が実権を握って、彼らが好きに権力を振るう事が出来る事実は揺るがない。
彼らはその気にさえなれば何時だって、罪をでっち上げてソクラテスを裁判にかけることが可能。
一方でソクラテスは、今まで哲学に没頭して社会経験を積んでこなかたのだから、社会的な地位もないし、政治的な太いパイプも持っていない。その様な状態で、どうやって自分を弁護するというのだ。

社会的地位もなく、社会に何の訳にも立っていない哲学者のソクラテスを庇うものはいないし、その様な経歴では、誰も説得できないだろう。
結局、ソクラテスは自分自身を弁護することすら出来ずに、極刑を言い渡されて死ぬだろう。

もし、その様な結末を望まないのであれば、今すぐにでも意味のない勉強やバカ話は止めて、世渡り上手になる為に処世術を身につけるべきだ。
そして、富や権力を手に入れる為に努力するべきだと主張する。

カリクレスは何故、この様な事を言ってソクラテスを非難するのかというと、ソクラテスのことを友達として大切に思っているから。
大切に思っているからこそ、ソクラテスには幸せになって欲しいし、その為にも、富や権力を手に入れる技術を習得して欲しいという思いがあったからだろう。

真理への到達に必要なもの

この批判を聞いて、ソクラテスは大喜びをする。 カリクレス、君こそが、私を真理に導いてくれる試金石になるかもしれないと。
人の魂の価値を測るのに必要なのは、知識と好意と率直さだが、カリクレスは、この全てを備えている。
もし、試金石であるカリクレスの考えと自分の考えが一致することが出来れば、自分の主張は真理に到達したと証明できるだろう。

そして今度は、カリクレスとの対話が始まる。
カリクレスの主張としては、知識などの後天的に手に入れた常識などは軽視して、人間が自然に備えている直感や本能を優先した方が良いし、その行動こそが正義。
もし、大量の富を稼ぎ出すことが出来れば、自分の本能に従って自分ができるだけ多く手に入れようと画策すべきだし、独り占めできるものなら独り占めすべきという弱肉強食の考え。

当然のように、自分よりも力のない人間が財産を保有していたりすれば、力のあるものは欲望に従って、それを奪おうと考える。
この考えに沿って考えれば、力を持つペルシャの権力者ががギリシャの土地や財産を狙って攻め込んできた理由もわかる。
人間からは欲望が生み出され、その欲望を満たすことによって満足感を得て幸福になる。 つまり、欲望を満たし続ける状態が幸福な状態といえる。

カリクレスによると、力を持つ人間が力を行使する事は正義であり、その正義によって欲望を満たし続けるのは幸福への道となるようだ。
では、力のある状態は、優れた状態と言い変えることが出来るのだろうか。
力を持つとは、優れていることなのだろうか。 このソクラテスの質問に対してカリクレスは、言い変えることができると答える。

権力者と民衆はどちらが強いのか

では、力がある1人の人間と、そこまで力を持たない10人の集団が喧嘩をした場合は、どちらが強く力がある状態といえるのだろうか。
どれ程、1人の人間が力を持っているとしても、1人が保つ力の上限はたかがしれている。 10人の人間を相手にして無双できる人間はそうそういないだろう。
それでも力を持つ1人が勝てるというのであれば、1人 対 1万人の軍勢で考えても良いかもしれない。 1人で1万人を倒せる人間は、漫画の中ぐらいにしか登場しない。

金銭や財産も同じで、この地球上で一番の金持ちよりも、その他の70億人の財産の合計値の方が資産の量は確実に多い。
カリクレスは先程、優れたものが多く持つのが当然だし、優れた力のあるものは力の無いものから欲望に任せて奪い取るのが正義と主張していた。
それと同時に、権力を持つものは人数が少ないから、大多数の市民や平民以下の人間に合わせて法律が作られているとも主張している。

しかし先ほどの話に当てはめると、大多数の人間の力を足し合わせれば、大衆の力は権力者よりも力が強くなり、富の量も上回る。
カリクレスの言葉を借りれば、法律というのは弱者のために作られているそうだが、そうではなく、強者のために作られているのではないか。
強者は、力で持って弱者の命や財産を欲望のままに奪って良く、それが正義だというのであれば、権力者よりも力の大きな大衆は、弱者である権力者から財産を奪って、皆で分けることは正義ではないのか。

カリクレスはソクラテスに対し、自然の法則と法律習慣上の考えを混同して曲解したと非難したが、この両者の考えは同じではないのか。

この投げかけにカリクレスは、自分が主張している力とは、身体の頑丈さだとか筋力だとか、そういったものではないと主張する。
まともな教育も受けていない奴隷や、取るに足らない一般市民が持っている筋力や体力が、人を支配するという事において、どれほどの意味があるのか。
確かに、数の上では彼らのほうが多いし、肉体労働を引き受けている彼らを足し合わせれば、単純な筋力や物量という面では権力者を圧倒するだろう。

だが、そんな取るに足らない頭数だけを揃えた人間を寄せ集めたからといって、それがそのまま法律になるわけがない。
法律を考えて制定するのは、あくまでも権力を持った人間で、彼らは支配している多数の人間にフラストレーションが貯まらないように少し気を使って作っているに過ぎないと答える。

ソクラテスは、カリクレスが主張する力というのが単純な筋力ではない事に薄々気がついていたとして、では、『力』とは何を持って力と呼び、何が備わって入れば優れていることになるのかと質問をする。


参考書籍

プラトン著『ゴルギアス』の私的解釈 その7 『不正で幸福になれるのか』

このエントリーは、私自身がPodcast配信のために哲学を勉強する過程で読んだ本を、現代風に分かりやすく要約し、私自身の解釈を加えたものです。
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不正を行いながら幸せになれた人

前回までの話では、行動の善悪は目的の善悪によって左右され、目的の善悪は正義の有無によって決まることがソクラテスによって語られた。
ソクラテスによれば、目的が正義によって決められていれば手段も正当なものとなり、その様な一連の行動は人を良い状態へと導き、幸福になれるという考え方だった。

しかしポロスは、この意見にも納得ができない。 何故なら、不正を行いながら幸福と呼べる人生を謳歌している人間を知っているからだ。
この人物は、マケドニアの王。 この王は王族と奴隷との間に生まれた子供で、王位継承権が有るもののかなり下で、普通であれば、惨めな人生を送っていた人物だった。
だが、ライバルとなる王位継承権を持つ人間を次々に騙し討にして暗殺していき、全て排除した後に、自分が王として君臨した。

本来であれば、奴隷の子として惨めな人生を送るはずだった人間は、殺人を犯すという最大の不正を行い続けることによって、国家の長となることが出来、富と権力を手に入れた。
ソクラテスの主張では、不正を働くものの目的は悪いものなので、不正を行い続けた王は不幸になっていなければならないはずなのに、この人物は幸福になっている。
このエピソードは、ソクラテスの主張に反するのではないだろうか。それともソクラテスは、この人物が不幸とでもいうのだろうかと質問する。

しかしソクラテスは、この問いに対して答えられない。
何故ならソクラテスは、この人物の名前を聞いたことがある程度で、実際にあって話したことがなく、面識がない状態だったからだ。
ポロスからの一方的な話を聞いたところで、その人物の心の中まで見通すことなど出来はしない。また、人を外側から見ただけでは、アレテーをどの様に捉えているのかは分からない。

しかし、仮にその者が不正を働いていたとしても、捕まって裁きを受ければ幸福にはなれると主張する。

不正を行う者と被害を受ける者はどちらが害があるか

ポロスはこの点にも納得ができない。 せっかく不正を行って成功して絶対的な権力を得たのにも関わらず、不正がバレて捕まってしまえば元も子もないじゃないかと。
これまでのポロスの意見をまとめてみると、『人を支配できる権力が欲しい。』『不正を行うよりも、行われる方が不幸だし哀れだ。』『不正を行ってバレなければ良いば、バレて裁きを受けるのは悪いことだ。』
…となり、かなり一般人の感覚に近く、その一方でソクラテスの意見はというと、その逆の主張をしているというのが分かる。

しかしソクラテスは、『順序立てて考えていけば、ポロスも他のモノたちも、自分と同じ様な考えになる』と断言する。

そして順序立てて考えるために、ポロスと議論に際しての前提条件を確かめ合う為に、ポロスに質問をする。
まず、不正を行うのと受ける方では、どちらが悪く害があるのかを確認し、不正を受ける方が害がある事を確認する。(ポロスは不正を受ける方が哀れだと主張していたから)
次に、より醜いのは不正を行う方なのか、受ける方か何方かを確認し、不正を行う方が醜い事を確認する。

この質問を受けてソクラテスは、より醜いのが不正を行うほうなのであれば、悪いのは不正を行うほうだと言い出す。
ポロスは到底、受け入れられない。しかしソクラテスは、ポロスが受け入れられないのは、美しい事と良い事は同じではないし、醜い事と悪い事は同じではないと考えているからだと指摘する。
そして、美しさ=良さ と 醜さ=悪さについて説明しだす。 (注意して欲しいのは、美しさや醜さは、単純な造形の差だけではないということ。)

美しいとはどの様な常態か

まず、美しさや醜さについて考えてみる。

そもそも人が美しいと思うのは、何らかの点において優れているものの事を美しいと表現している。
例えば人間の身体を例に取れば、より重いものが持てるだとか、柔軟性が有るとか、そういったものを美しいと表現している。
プロポーションや造形美にも美しさは有るが、それは身体の機能に裏付けられた造形美であり、力強く持久力と柔軟性が有る肉体のプロポーションを美しいと表現している。

食糧不足で細い人間しかいない地域では、太っている事が魅力的だとされる場合もある。 プロポーションそのものに絶対的な美の基準はなく、卓越性を宿したものが美しいと表現される。
そして、美しいと感じるものを見続けるのは、心地よいことであり、言い換えるなら快感ともいえる。 
当然、この逆が醜いとされるもので、力もなく、柔軟性もなく、持久力もない肉体は美しくない肉体とされる。

つまり、美しい肉体とは卓越した肉体で、観るものに快楽を与えるものの事であり、醜い肉体とは真逆の存在で、害があり、苦痛を伴うもの言い変えることが出来る。

ポロスは、不正を行うのと受けるのとでは、どちらが醜いのかと聴いた際に『不正を行う方が醜い』と答えたが、先ほどの話に当てはめるなら、醜いとされた不正を行うほうが悪い事になる。
では、不正を行うという行為は、どの点において悪いのだろうか。 害が有る点についてなのか、不快だからか、それとも両方なのか。
不正を行う行為は他人に害悪を撒き散らす行為なので、この行為は害悪が有る点で醜い行為といえる。

不正はバレた方が幸せなのか

ソクラテスは、この議論を開始する前に前提条件を確認したが、その際の質問は、不正を行うのと受けるのは、どちらが害悪が有るのかというものと、どちらが醜いのかという質問だった。
しかしこの質問は、聞き方を変えているだけで、質問内容はほぼ同じだったことが分かる。 にも関わらず答えが変わるのが、そもそもおかしい。
では、この両者を比べた場合に、どちらが害悪が大きいのか。 他人に不正をして害悪を振りまく方が害悪が大きいのか、それとも、その被害に合う方が害悪が大きいのだろうか。

これを考えるには、次のテーマと合わせて考えるほうが分かりやすいかもしれない。
次のテーマは、『不正を行っている場合、バレた方が良いのかバレない方が良いのか。』

物事には、行為を『行う方』と『行われる方』が存在する。 『する方』と『される方』が取り扱うものは全く同じもので、両者の天秤は釣り合っている。
例えば、殴るという不正行為を例に挙げると、殴る人間がいれば、殴られる人間が存在する。 この『殴る力』は全く同じものとなる。
分かりやすく数値で説明すると、100万円を貸した人間がいるということは、100万円を借りる人間がいるということ。 貸した金額が100万円なのに、借りてる金額が10万円ということはない。
100万貸したら、借りては100万借りていることになる。 この両者の金額は絶対に釣り合う。

これを先程の、『不正を行うものと不正を行われるものは、どちらが悪く害のある行動なのか』という例に当てはめると、不正を行う方と行われる方の『不正』は同じもので、同じ悪という事になる。
不正を受ける方が悪いというのであれば、不正を行う側は、受けている方と同じ大きさの悪を他人に押し付けている事になる。
では、悪を押し付ける行為と悪を押し付けられる行為では、どちらの方が醜いのだろうか。 この質問にポロスは『押し付ける方だ』と答えているので、醜く悪く害のある行為は、不正を働く方ということになる。

次に、不正を行っている場合に、バレた方が良いのか悪いのか。
この問題も先程と同じで、一つの物事を『行う方』と『行われる方』に分けて考えてみる。

不正がバレるということは、不正を暴く側がいるわけだけれども、では、不正を暴くことは良いことなのか悪いことなのか。 当然、不正を暴く事は良い事といえる。
つまり、不正を暴かれるという行為は、不正を暴くという良い行為を押し付けられているのと同じという事になる。
裁きによる刑罰も同じで、不正が行われない正当な裁きが下されて刑罰が執行されるのは良い事で、これを押し付けられる告発された側は、良い行いをされたという事になる。

別の表現をすると、人間を身体と魂に分けるとすると、不正を行って悪い状態というのは、魂が悪に染まって悪い状態といえる。
この魂の悪い状態を身体に例えると、身体が悪い菌に侵されて病気になっている状態ともいえる。 この状態で、治療を受けずに放置しておくことは、患者にとって良いことなのだろうか。
当然のことだが、身体が悪い状態で放置しておけば、病気はさらに悪化して取り返しの付かないことになる。 魂も同じで、早い段階で不正を取り除くという治療を行って処置しなければ、手遅れになってしまう。

では、不正を取り除いて魂を浄化するにはどうすればよいのか。
それは、不正が暴かれて、正当な裁きが行われて刑罰が執行されること。裁きと刑罰は、人に善悪を教えて身をもって学習させるために行うのだから、正当に裁かれることで魂は浄化される。
しかし、大抵の人間は、不正がバレて刑罰が執行されるのを恐れる。 これは、歯磨きも定期検診も怠ってきた人間が、虫歯になって歯が傷みだしているのに、『歯医者が怖い』といっているのと同じ。

眼の前の恐怖に目が奪われて、それを放置した際の最悪の状況を想定できていないだけ。 治療は早く行えば行うほど、危険性は低くなる。

相手を憎むのであれば不正を正さずに弁護すべき

もし、弁論術というのが、言論の場を支配して相手を陥れて、自分が良い状況を作り出す術だというのであれば、弁論術の今の使われ方は間違っている。
相手を陥れたいというのであれば、相手が不正を働くように誘導しなければならないし、こちらの思惑通りに不正を働いたとすれば、その不正がバレないように、その場をコントロールしなければならない。
それに失敗して、もし、相手の不正がバレて相手が裁きにかけられた場合は、弁論術を駆使して出来るだけ刑が軽くなるように働きかけなければならない。

何故なら、相手にとって悪い状態というのは、不正を働く事そのものだし、最も恐れなければならない事は、不正を働いたことによって汚れて悪くなってしまった魂が、浄化されない事。
弁論家にとっての相手が、対話すべき仲間ではなく、打ち負かすべき的なのであれば、敵が最も困る手段を講じなければならない。
それなら、相手が不正を働くように、そしてそれがバレないように、バレたとしても刑が執行されないように全力を尽くさなければならない。

こうする事によって、敵は最大の不幸に見舞われることになる。

ソクラテスが何故、普通の価値観と真逆のことを言ったのかというと、それは、ポロスやゴルギアスの態度だろう。
ソクラテスは一貫して、対話相手というのは真理を見つけるための仲間であって、敵ではない。 お互いが協力し合って、間違っている部分や誤解している部分は指摘し合って、一つの真実を見つけるべきだと主張してきた。
しかし、弁論家やその弟子たちがやってきた事というのは、相手を陥れる事で有利な状況を作り出す事。

この様な態度は、対話相手を仲間だと思わずに、言論による闘争の敵とみなしているから行うとしか考えられない。
弁論家が、論争相手を敵だとみなして攻撃するのであれば、弁論家は、相手の不幸を最大にする方法を選んで実行しなければならない。
であるならば、相手が不正を働くように進めなければならないし、その不正がバレないようにしなければならないし、バレた際には刑が執行されないように努力しなければならない。

これを横で聞いていたカリクレスが、この議論に割って入る。
『その理屈が正しいというのであれば、私達の生活は全て真逆になってしまう』と。
(つづく)
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参考書籍

プラトン著『ゴルギアス』の私的解釈 その6 『力とは何なのか』

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弁論家が持つ力は力ではない

ソクラテスは弁論術は迎合だとして技術には入らないような低俗なものとするが、一方で現実世界では、弁論術を極めた人間が政治的権力を握り、絶大な力を奮っている事実がある。
この矛盾はどうしたものなのか。彼らが振りかざしているのは力ではないのか。ポロスはソクラテスの主張に納得ができない。

これに対してソクラテスは、弁論術によってのし上がった人間が振りかざしているものは、力ではないと断言する。
何故なら、権力者が振るう絶大な力と呼ばれているものは、それを振りかざしている当の本人の為になっていないから。
『力がある』という状態を、それを使用することによって自分自身に何らかのプラスをもたらすものと定義するなら、自分にとって何のプラスにもならない事しかしてない弁論家たちは力がないのと同じ。

ただ弁論家達は、自分の為になることは何一つしてはいないが、自分たちにとって一番良いと思っている事は、進んで行っていると主張する。

だが、ポロスはこの反論も理解が出来ない。
ソクラテスは、権力者は自分にとって一番良いと思っている事を実行できていると主張している。自由のない奴隷はもちろん、ギリシャに住む一般市民ですら、自分の一番良いと思っていることを簡単には実行することが出来ない。
好きな時に好きなものを食べるとか、ムカついた奴を、ただそれだけの理由で処罰することなんて絶対にできない。 それが出来る権力者は、力があるのではないかと。

しかしソクラテスに言わせれば、それは彼らが好きでやりたい事であって、それ自体が最善の道ではない。
そして、最善を目指さない行動というのは、それが自分自身がやりたい事であったとしても、その行動自体に意味はないという事。
意味がない行動を行える権利を行使するというのは、力があるということなのだろうか。

思い通りに行動する事が良い事とは限らない

別の表現をすれば、権力者が無知であるが故に、どちらの方向が自分の為になる『善』の道で、どの方向に行けば、自分の為にならない『悪』の道かを見定めることが出来ないとする。
この環境で、権力者が『悪』に向かう間違った道を目標に定めて、自分の持てる力を総動員して破滅の道に向かうのは、力を行使したといえるのだろうか。

例えば、よく観察して考えれば、絶対に負けるギャンブルが有ったとする。
そのギャンブルに、無知であるが故に持てる力を全て使って全財産を賭けて負ける行為は、力がある行為といえるのだろうか。
破滅の方向に向かって全力疾走できる力を持つよりも、そんな力を持たない方が人は幸せになれる。 人の最終目的が幸せになることであれば、無知な人間の力は害にしか成ってないので、力があるとは言わない。

それでもまだ、権力者に力があるというのであれば、権力者は皆、最善の道を見極められるだけの知恵を持った人間だということを証明しなければならない。
この証明が出来ないのであれば、権力者が知性を欠きながら、最善の道を見失っている状態で好き勝手に行動しているだけだという可能性は消えない。
そして、最善の道を知らない状態で好き勝手に振る舞うことは、力があるとは言わない。

しかしポロスは、この説明にどうも納得ができない。
ムカついた相手に権力で仕返しするとか、人を自分の思い通りに動かして自分の欲を満たすという行為は、皆が憧れる力。
その力を持つものが権力者と呼ばれて、自分はそれになりたいと思っている。 その行為そのものを否定されても、いまいちピンと来ない。

大切なのは手段か目的か

ソクラテスの意見にポロスが納得できないでいるので、次は、ソクラテスの方がポロスに質問する形で話を進める。

人々が普段、達成しようと臨んで行動している事は、行っている行為そのものか、それとも、最終目標として据えているものなのだろうか。
例えば、受験勉強をしている学生は、ただ勉強がしたいから勉強を行っているのだろうか。それとも、受験に受かりたいから、嫌な勉強を無理して頑張っているのだろうか。
病気で医者に行って診察を受け、苦い薬を貰って飲んでいる人は、苦い薬を呑みたいから飲んでいるのだろうか。それとも、病気を直したいから、苦いのを我慢して飲んでいるのだろうか。

これは考えるまでもない事で、目的を達成したいから手段を講じるのであって、手段そのものが目的になるはずがないし、なってはいけない。

では、人間の最終目的とは何だろうか。 人間は、健康でありたいとか富や知識や人望がある状態になりたいと思っている。
何故、この様な状態になりたいのかというと、これらの状態が良い状態で、良い状態である事が幸福だと思っているから。
逆に、これらの状態とは真逆の状態。つまり、病気で貧乏で無知で誰からも相手にされない状態は悪い状態なので、その様な状態にはなりたくないと思っている。何故ならこの状態は不幸だから。

人間は、幸福になりたいが為に自分の状態を良い状態にしようと思い、良い状態にする為に、働いたり、勉強したり、運動したり、コミュニケーションを取ったりする。
決して、働いたり、勉強したり、運動する為に生まれてきたわけでも、生きているわけでもない。

人を良い方向に導くものだけを『力』と呼ぶ

この理屈を、先ほどの権力者の行動に当てはめてみよう。
ポロスの主張では権力者は、気に障った者を死刑にしたり、他人の財産を奪い取るという行為が自由に行えるから権力があり、憧れる対象と行っていた。
しかし、権力者の最終目的とは、人の命や財産を自由に奪うことなのだろうか。 そうすることが楽しく、その行為そのものが幸福をもたらすのだろうか。それとも、その行為は手段でしかないのだろうか。

人の命や財産を、ただいたずらに奪うことが楽しくて仕方がないなんていうのはサイコパスだけで、大抵の人間は、その行為そのものが幸せにつながるなんて思っていないだろう。
とすると、ポロスが主張していた権力者の力を行使して行っていたものは、手段に過ぎない事になる。
これが手段であるのならば、目的は別にあると考えるべきで、その目的を達成するために手段がくだされたというのが正しい手順だろう。

では、権力者の最終目的は何なのか。 何の目的を達成する為に、人の命や財産を奪うのか。
もし仮に、この目的が『悪』であるのであれば、達成することによって自分を悪い状態にしてしまう『その権力』は『力』と呼べるようなものではない。
しかし、最終目的が自分を悪い状態にするものであったとしても、その権力者は、自分の思い通りの行動をとっていることには違いない。

例えるなら、その行為の行き着く先が良いことか悪いことかを判断する能力がない、アルコールやパチンコ中毒者が、その行為を継続し続ける様子は、継続できる力があるとは言わない。
しかし、その中毒者が、自分の欲望に負けて、快楽を求めて自分の意志で実行している事には変わりがないということ。
だが、この中毒者は、自分が望んでいることをしているわけではない。 何故なら、依存症である自分の状態が良いとは思っておらず、より良い状態になれるものならなりたいと思っているから。

これと同じ様に、善悪の区別もつかない人間が、ただ闇雲に権力を振り回したとしても、それを力とは言わない。
力を振るうとは、良い行動を行う時に使われる言葉だから。

納得は全てに優先する

ソクラテスの主張は、論理的に正しいし、つけ入る好きはない様に思う。それでもポロスは納得できずに、感情に訴える。『権力欲はないのか?』
誰だって、人を思い通りに支配したいと思うし、楽をして優雅な生活をしたいと思うはず。 権力欲は本能的なもので、誰にでも備わっているようなものではないのか?と
このポロスの気持は、私も含めて一般的な感覚に近く、非常に理解できるもの。 誰だって、何の努力もなく偉くなりたいし崇められたいと思っているから、なろう系のラノベが次々とアニメ化される。

しかし、これに対してソクラテスは毅然とした態度で『羨ましくない。』と一蹴。 むしろ、人から命や財産を奪って当然と思うような連中は、哀れんでやるべきだと主張する。
ポロスは、命や財産を奪われる人間には、例えば身内を殺されたというような、それ相応の理由がある場合でも、仕返しできる権力を羨ましくはないのかと聴くが、ソクラテスはそれも否定する。
何故なら、裁きを行って刑を執行するのは目的ではなく、手段でしかないから。 だから、正当な理由で裁きを行った場合は、判断を下したものを憐れむ必要はないが、羨ましく思う理由もないと。

ここでも、ソクラテスの主張は筋が通っているし、反論してソクラテスの意見を覆すのはかなり難しいだろう。
しかしポロスは、感情的に納得ができない。 SBRのジャイロも言っている。『納得は全てに優先するぜ!』と
ソクラテスさん。 あんたは、正当な理由もなしに理不尽にも他人の命や財産を奪うような人間は、哀れんでやるべきだというが、本当に可愛そうで憐れむべき対象は、理不尽を押し付けられたほうじゃァないんですか?』

このポロスの主張も、一般的な感覚で考えると非常によく分かる。 ひ弱な人間が複数人の不良に囲まれ、恐喝されてカツアゲされたとした場合、哀れなのはカツアゲをされた方だというのが普通の感覚だろう。
しかしソクラテスは、カツアゲした方こそが憐れむ対象だと主張している。これには納得ができない。

だがソクラテスは、その価値観には理解を示さない。 権力者になって、不正な理由で他人を死刑にするぐらいなら、自分が不正な理由で死刑にされる方がなんぼかマシだと。
何故なら、最大の不幸は不正を犯す事だから。 そして、正当な理由なしに人の命を奪えるような独裁者にもなりたくないと主張する。

犯罪者に憧れる人間はいるだろうか

これでも納得できないポロスに対して、ソクラテスは例を出して説明をしだす。

武器を持たずに話し合いに来た人たちが集会所に集まっていたとして、そこに唯一、武器を忍ばせた人間が入ってきて、その武器でもって、他人を従わせたとした場合を想像してみる。
この場合、武器を持つ人間は、恐怖によって絶対的な力を行使することが出来るので、その中で、一番の権力者といえる。
武器でもって脅すことで他の人間に命令して、様々な不正を行うことが出来る。 ポロスは、この例の中に出てくる武器を持ったものになりたいというのか?と

ポロスは、その様な人間にはなりたくないと答える。 理由は、その様な不正は、いずれ捕まって、罰を受けるからと。

しかし冷静に考えると、この行動そのものが悪とは言えない。 何故なら、その行動は手段であって目的ではないからだ。
もし仮に、この行動の目的が、その場にいる人間全員の命を守るためだとか、そういった正当な理由が有ったとしたら、事が終わった後に捕まるということもないだろう。
では目的の善悪は、どの様に決めるのだろうか。 その境界線を、ビシッ!と引くことは可能なのだろうか。

ポロスはこの質問に答えることが出来ずに、その答えをソクラテスに求める。
ソクラテスは、目的の設定をする際に、何を基準にするのかというので善悪が分かれると主張する。正義にしたがって目的を定めていれば善だが、その逆であれば悪。
(つづく)
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参考書籍

プラトン著『ゴルギアス』の私的解釈 その5 『弁論術も迎合でしかない』

このエントリーは、私自身がPodcast配信のために哲学を勉強する過程で読んだ本を、現代風に分かりやすく要約し、私自身の解釈を加えたものです。
Podcastはこちら

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レーニング技術と化粧法

身体をメンテナンスする技術には、医術とトレーニングがあり、医術に擬態して技術のようになりすましているのは料理法だった。
では、トレーニングの方には、どの様な迎合が技術としてなりすましているのかというと、化粧法。

人間は、規則正しい生活を送って適切な量の食事を取り、適切な運動を行うことによって、健康で美しい肉体を手に入れることが出来る。
特に、身体のプロポーションを良くして機能的にも見た目にも良くしようと思うのであれば、、トレーニングは欠かせないということになる。
しかしこのトレーニングも、ただ単純にやれば良いというわけではない。 ダンベルなどの器具を使い、適切な重量と回数で負荷を欠けなければ、効率よくカラダを鍛えることは出来ない。

重量が軽すぎるものを使ってトレーニングを行っても効果は薄いし、回数が少なすぎても駄目。
逆に、扱う重量が大きすぎたり、間違ったフォームで行ってしまうと、効率が下がるだけではなく怪我もしてしまうかもしれない。
その為、トレーニングを行うためには専門の知識が必要となる。 この知識や実践は最善を目指す為の技術であり、迎合するものではない。

しかし、このトレーニング技術には、化粧法という迎合が潜んでいる。
例えば、よく血液が循環した健康的な顔色を手に入れようと思うのであれば、本来であれば、人は体をメンテナンスして健康を維持しなければならない。
だが、顔に化粧を施すことで、目の下のクマを隠したり顔全体を明るい色に変えることが可能になる。

面倒くさいトレーニングなどは一切しなくても、顔色を健康的に見せるだけであれば、ファンデーションを塗ればそれでよい。
体型も同じで、裸になってしまうと醜いプロポーションがバレてしまうというのであれば、服を着込んで身体のプロポーションを隠してしまえば良い。
着る服の形や色を、自分にとって似合うものに調整することで、その人物の外見を美しく装飾して誤魔化すことが出来る。

洗練されたデザインのきらびやかな服を着れば、誰しもが、服の方に目が奪われて、その下に醜い身体が収まっているなどということは想像しなくなる。
その上で、服から出ている顔や手などを化粧によって誤魔化してしまうことで、外見だけは美しさを装うことが出来る。

迎合である化粧法では根本解決はしない

しかしこの方法も、前に説明をした料理のように、最善に向かう道ではない。
目の下にクマが出来ているのは何かしらの体の不調が有るからで、それを根本的に解決する事こそが善に向かう道であるはず。
腹に脂肪が溜まってくるのは、日頃の生活態度が悪いことが体に現れている証拠なので、日頃の生活を見直すことが最善のはず。

しかし、この様な根本的な解決を一切せずに誤魔化す化粧術は、最善の道を目指すものではないので、技術とは言えない。
また化粧の方も、迎合にありがちな『確固たる答えがないもの』だったりする。

料理の場合は、食べる人間によって味付けを変える為に、絶対的なレシピがないのと同じ様に、化粧も、自分が他人にどの様に見られているのかというのを想定して、その方法を変える。
流行によって化粧の方法が変わるように、絶対的な正解は存在しない。 今現在でありえないという化粧法だったとしても、未来で価値観が変わってしまえば、化粧の方法も同じ様に変わる。
平安時代の日本人の化粧の正解と、今現在の女子高生の中での化粧の存在は全く違うし、そこまで昔ではなくても、少し前にはガングロという顔を真っ黒師にして目の部分だけを白く化粧をするのが流行っていた。

化粧で重要なのは、他人が自分をどの様に見ているのかということで、他人が考える美しさを自分の体で体現する必要がある。
これは、着飾る為の衣装は装飾品も同じで、それを付けることで、自分がどの様に見られるのかというのが最優先される。
人は、他人から見て自分が美しいと判断される事に満足感や優越感を感じるものなので、これらの化粧法は快楽だけを求めた迎合であるといえる。

しかし、トレーニング方法には基本的には流行り廃りはない。
人間の構造の解明が進むことによって、より良い方向に改善していくことは有っても、好きな子が自分を見ているからという理由でトレーニングメニューが根本的に変わることはない。

弁論術も迎合でしかない

この様に、身体の技術である医術には料理法という迎合が潜んでいて、体育術・トレーニングには化粧法という迎合が潜んでいる。
同様に、魂の技術である政治術の立法と司法にも、それぞれ迎合が技術に擬態した形で潜んでいる。
立法に潜んでいる迎合がソフィストの達の術で、司法に潜んでいるのが弁論術に当てはまる。

弁論術とは、魂の技術である司法に擬態し、自らも技術だと言い張っているだけの迎合に過ぎない。

そして、ソフィスト達の行っている事と弁論術は、共に魂の技術の擬態である為、この事を詳しく考えたこともない一般人は、両者の違いが分からない。
詳しく考えたことがないという意味合いでは、弁論家やソフィストですらも、自分たちが行っている事をよく理解していない。

(以下の話は、人間には魂や身体といった区別がないという反論に対する反論を先に主張している?)
もし、これまで語ってきたような区別がないとするのなら。 つまり、人間の肉体には精神が宿っておらず、肉体は肉体のみで欲望を満たすという行動を勝手に行っているのであれば、この世は混沌の世界となっているだろう。
アナクサゴラスの説によると、この世の中は複数の種類のスペルマタと呼ばれる極小の粒子によって作られているとされている。
宇宙誕生の際には、様々なスペルマタは混ざり合って混沌とした状態になっていたが、そこに理性が宿ることによって、混沌の中に秩序が生まれて様々な物が誕生し、今現在の世界が生まれたとしている。

この節は、大昔に語られていた神話というわけではなく、科学が進んだ今現在でも、似たような考え方があったりする。

秩序と混沌

時間が何故、一方方向に進み続けているのかというのは、よく分かっていない。
力学的には、時間が巻き戻ったとしても矛盾はないのに、何故、時間が一方方向に進み続けるのか。 それを見極める方法として、エントロピーの増大というものが有る。
エントロピーとは乱雑さを表すもので、エントロピーが増大するとは、乱雑になっていくということ。

この、エントロピーが小さい状態を秩序がある状態と呼び、エントロピーが大きい状態を無秩序な状態とよぶ。 無秩序は、混沌やカオスと言い変えることができるかもしれない。
例えば、バケツいっぱいの水の中に、牛乳を1滴たらしたとすると、時間経過と共にその牛乳はバケツの水と混ざり合い、バケツ一杯の薄い牛乳が出来上がる。
白い牛乳という秩序のある状態が同じ液体である水の中に入ってしまうと、その秩序は保つことが出来ずに、秩序は崩壊して時間と共に拡散し、いずれは均一のものになってしまう。

別の例でいえば、熱もこれに当てはまる。
例えば、マグカップに入れた熱々のコーヒーが有ったとして、これを飲まずに数時間放置していれば、そのコーヒーは冷めてしまう。
何故、コーヒーは冷めてしまうのかというと、コーヒーの熱はマグカップに伝わり温まったマグカップの熱は、その外側の空気に伝達することで、コーヒーの熱が部屋全体に拡散していったから。

時間経過と共にコーヒーは部屋の温度と同じレベルにまで下がり続け、逆に、部屋の温度はわずかながら上昇することになり、いずれは、コーヒーと室内温度は同じになる。
熱がコーヒーという一箇所に集まっていた状態を秩序ある状態とするならば、冷めていってる過程はエントロピーが増大して熱が拡散している状態といえる。
ここでも、秩序ある状態から無秩序の状態に一方方向に突き進んでいる。

熱が拡散して均一になる法則は、熱力学第二法則というようだが、これを究極レベルで考えると、宇宙は熱的な死を迎えてしまう。(ノヴァ教授が憎む。)
逆にいえば、秩序が宿る事で、この世界は均一ではない状態を維持することが出来る。その秩序をもたらすのが理性であり魂ということなのだろう。
人間には精神や魂が宿り、その魂が理性によって身体を制御している事で、人としての秩序を保っているという事。

その魂が存在しないということは、理性も存在しようがなく、秩序も生まれないので、人間は混沌の一部となっているはず。
しかし、そうは成っておらず、人間には確固たる自我が存在する為、人間には秩序を生み出す理性があり、理性が宿る魂がある。
今感じる『私』という主観があり、その主観が身体を制御している。

しかし弁論術は実際に役に立っている

この話を聞いたポロスは、当然のことながら納得ができない。
ポロスの見立てでは、有名な権力者は皆、弁論術の使い手で、彼らは弁論術によって周りの人間を説得することで、自分の力を示してきたと思いこんでいた。
そして自分も出世できるような優れた人間になる為に、弁論家であるゴルギアスの元に弟子入りしたのにも関わらず、その技術が技術とすら呼ばない迎合のような下らないものだと否定されてしまった。

しかし実際には、権力者である彼らは、口先の技術によって巨大な権力を得て、その権力によって一般市民が持たないような絶大な権力を持っている。
誰かを死刑にしようと思えば、適当な罪をでっち上げて裁判所に連れていき、弁論術によって裁判官を説得してしまえば、気に入らない人間を死刑に出来る。同じ様な方法で、財産を奪えるかもしれない。
彼らは絶対的な力で、明らかに民衆を支配する力を持っているのに、それが市民に対する迎合というのは、どうにも納得できない。

しかしソクラテスは、それは力とは呼ばないとして否定する。
(つづく)
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参考書籍

プラトン著『ゴルギアス』の私的解釈 その4 『技術と迎合』

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技術と迎合

ソクラテスは事前に、勝つことが目的ではなく、真実を見つけ出す為の対話をしようと確認していたのにも関わらず、ゴルギアスが窮地に立たされると、弟子のポロスが怒りに任せて乱入してくる。
この行動に対してソクラテスは、事前に定めたルールであるソクラテス問答法に従うのであれあ、ポロスも議論に加われば良いと対話に誘い、これに同意したポロスは参加する。

ソクラテスは今まで散々、『弁論術とはなんですか』という質問をゴルギアスに対して続け、返答を得ても納得しなかった為、ポロスは、ソクラテスが考える弁論術とはどの様な技術かを聞き出そうとする。
しかしソクラテスは『弁論術とは技術ではない』と意外な答えを出す。 では、技術で無いなら何なのかというと、一種の経験で、迎合を作り出すものだと主張する。

技術と迎合の違い

経験であり、迎合を作り出すものとは何なのか。 ソクラテスによると、料理のようなものらしい。
料理が技術ではなく迎合だという主張を聴くと、もしかすると、料理を作ることを生業とされている方は気に障るかもしれない。

料理は、包丁などの様々な料理器具を使う技術であったり、食材をどの様に加工すれば良いかという知識が必要なので、料理は技術だと主張される方も少なからずいらっしゃるだろう。
では何故、ソクラテスは料理のことを技術ではなく、経験であり迎合だと主張したのだろうか。

ソクラテスにとっての技術というのは、対象のことを知り尽くし、決まった道筋を通って答えを導き出すもの。例えば、技術にどの様なものが含まれるのかというと、医術や建築技術などがそれに当たることになる。
例えば医術の場合は、人間の体というのを熟知して、身体の状態に合わせた処置の方法は決まっている。 風を引いた際の対処法や怪我をした際の治療法は、人それぞれに法則があるわけではない。
同じ様に医学の知識を持つ医者が10人いたとして、1人の患者を診た際の対処法は1つしか無い。

建築技術もこれと同じで、構造物を作る為には一定の法則に沿って作らなければならない。
どれだけ奇抜な建物に住みたいからといって、重力や材質の強度を無視した形で建築は行えない。 それを無視して作ったとしても、その建物は崩壊してしまうだろう
顧客の要望を組み込んだ形で図面を引くことは出来るが、それでも、建築的に譲れない部分は絶対に出てくるので、その法則を一番に優先しなければならない。

つまり、医者にしても建築にしても、顧客の要望を聴くことは出来るが、絶対に譲れない部分というのが存在する。
そして、絶対に譲れない部分を見つける為には、医者の場合は人体、建築の場合は材料や建築物などの知識が不可欠で、その知識を前提に技術が磨かれることになる。

快楽のみを追求する迎合

その一方で料理はどうだろうか。 確かに、料理も食材や調理道具に対する知識も技術も必要だが、完成する料理に一貫性はない。
例えば家で料理を作る場合、最も優先するのは食べる人間の好みであり、料理に絶対に守らなければならない原則というのは存在しない。
うどんを茹ですぎると伸びるが、では、伸びた『うどん』は万人が嫌いかと言えばそうではなく、伸びたぐらいが好みだという人間も存在する。

伸びた『うどん』が好みだと主張する人に対して『うどん』を作る場合、固めに茹でるか伸びるまで茹でるかは、食べる人に左右される。
味付けにしても同じで、塩をかけすぎるのは間違いとは一概にいえない。 多くの人にとっては塩をかけすぎた料理は失敗作だが、塩っ辛い者が大好きな人にとっては、塩をかけすぎるのは正解となる。
唐辛子も同じで、辛いのが苦手な人にとっては不必要なものだが、辛いのが大好きな人は、どんな料理にも唐辛子をかける。

料理というのは、食べる人間の好みによって正解が変わる為、美味しい料理を作ろうと思う場合は、相手の好みに合わせて作る必要がある。
ということは、一番重要視するのは相手の好みということになる為、料理は食べる人に忖度して迎合して作らなければならない。

これが、先ほど技術として挙げた医者の場合はどうだろうか。 風をひいいた人間に薬を処方しなければならないが、患者は苦い薬を飲むのを嫌がるなと分かったとしても、この行動は変わらない。
建築にしても、客が柱を取れという要望を出したとしても、構造的に無理であれば、その要望は叶えられない。
しかし料理の場合は違う。 客が塩を多めにしてといえば多めにするし、焼き加減を変えろといわれればその様に変える。

ソクラテスは、この料理法のようなものを技術とは呼ばずに一種の経験であり迎合だと主張する。 そして弁論術も、この迎合にあたり、立派なものなどではなく醜いものだと一刀両断する。
では何故、迎合は立派なものではなく醜いものなのか。 先に答えを書いてしまうと、技術は善に向かうためのモノだが、迎合は快楽に向かう為のものだから。
これだけでは抽象的すぎるので、具体例を書いていく。

役に立つ技術に偽装する迎合

まず、人間は大きく分けると2つの部分の分けられる。『精神(魂)』と『肉体』。 そしてこの2つには、良い状態と悪い状態が有る。
魂における悪い状態とは、精神的に追い詰められている状態で、精神病や鬱の状態と考えて良いかもしれない。 肉体における悪とは、怪我や病気がそれに当たる。良い状態とは、その逆と考えてよいだろう。
また身体や魂は善悪だけではなく、実際には悪い状態だけれども良い状態だと錯覚している状態が存在する。 これは、実際には怪我や病気に侵されている状態だけれども、本人がそれに気が付かず、元気だと思いこんでいる状態のこと。
(連日のトレーニングで膝を壊したとしても、無視してランニングを続けて体が温まってくると、治ったような錯覚に陥る。)

そして、『魂』と『身体』は、それぞれ『技術』と『迎合』の2種類に分けられる。
魂における技術とは政治術の事であり、身体についての技術とは、体のメンテナンスを行う技術の事。
魂の技術である政治術は更に『司法』と『立法』、身体の技術は『医者』と『トレーニングコーチ』のそれぞれ2つに分けられる。

そして迎合とは、自分自身は技術ではないのに、それぞれの技術に偽装することで、まるで自分自身も技術であるかのように振る舞っている存在といえるもの。
その為、注意深く観察していないと技術と勘違いしてしまうものだけれど、実際には技術ではなく、迎合でしか無い。
見分ける方法としては、最終的な目的を観ると分かりやすい。 先程も書いたが、技術は最善を目指し、迎合は快楽のみを追求する。

つまり、その行動に善を追求する要素がなければ、それは迎合といえる。
迎合にとって善を目ざすというのはどうでも良いことで、その時々の状況で一番心地良い事を選んで実行しようとする。
向かう方向が、最善と快楽という違う方向を向いているというだけでは理解し難いので、例を上げて説明してみることにする。

先程挙げた、技術ではなく迎合に属する料理法は、医術に偽装する形で技術のフリをしている。
例えば、納豆を食べると体に良いとか野菜が良いなど、食べる事で体を健康にすることが出来る食材が有ると主張し、その食材を使った料理を提案する。
しかし料理人は、その料理を毎日食べた場合と食べなかった場合でデータを取って、どれ程、身体が改善されたかという実験などは行わない。

技術は人が嫌がることも強制する

また、その食材自体は身体に良い効果をもたらすかもしれないが、そこに調味料を入れた場合はどうなのか。他の食材と組み合わせた場合に効果に違いが出るのかといった事を調べたりもしない。
そして、その料理を食べた人間が『味が薄い』といえば、普段より多めに塩を振る。
塩分過多は身体にとっては害悪だけれども、料理人は美味しい料理を追求する為、食べる人の健康よりも食べている間の快楽を最優先する。

食べると絶対に身体が良くなるけれどもクソ不味い料理が有ったとしても、料理人はそんな物を客に食わせることはない。

しかし、これが医者だとどうだろうか。
患者の足の一部が壊死していて、切り離さなければ患者の命が危ないと思えば、医者は足を切断するという決断を下すだろう。
仮に患者が陸上選手で、『足を切り離すことだけは、止めてください!』と懇願したとしても、医者は患者に迎合すること無く、足を切断するだろう。何故なら、そうすることが患者の身体にとって最善の方法だから。

病気の患者を治すためには、飲むのが苦痛なほどの苦い薬を飲む必要があると思えば、患者が子供であったとしても、その薬を処方するでしょう。
医者が考えているのは、患者をどうやって救うことが出来るのかというだけで、患者の身体にとって最善のことをしようとする。そしてその方法は、大抵の場合は決まっている。
2人の医者がいたとして、知識レベルが同程度で患者に対する病気の見立てが同じであれば、2人が下す治療法は同じようなものになる。

迎合は善悪を考えずに人が好むことしかしない

しかし料理法の場合は、食べる人間に合わせる形でレシピが変わる。 何故かというと、最優先していることが食べる人間の満足度、つまり快楽だから。
常に最善を目指す『技術』と、相手の顔色をうかがいながら対応を変える『迎合』は全く違ったものとなる。

この様に、技術と迎合は全く違った目的を持つものだけれども、迎合の質が悪いのは、自らを技術に偽装して技術の一部であるかのように振る舞うこと。
この性質の為、知識を持たない一般人では技術と迎合の見分けがつかずに、迎合と技術を混同してしまう。
混同するだけならまだしも、迎合の技術である料理法のほうが優れていると錯覚すらしてしまうことも有る。

例えば、料理人と医者が無知な一般大衆や子供たちの前で、どちらが優れているかのプレゼン大会を開催したとした場合、医者はその勝負に勝てるのだろうか。
料理人が『人間は欲望を満たすことで快楽を得ています。 そして、その欲望というのは、人間が生きていく上で、そして世代をつないでいく上で絶対に必要なものが、欲望となって現れるんです。
だから、食べ物を食べるとか、寝るといった体を保つのに絶対に必要なことをすれば、人間の体は快楽を得られるように出来ている。
同じ様に、寿命を持つ人間は未来永劫、生きていくことが不可能なので、自分の遺伝子を残すためには子供を作らなければならない。 当然のように、子供を作る行為には快楽が伴う。

これを料理に当て嵌めて考えてみてください。
人間は、料理を食べた際に何らかの味を感じますが、先ほどの話を料理に当てはめれば、自分の体にとって必要なものを食べれば、身体は快楽を得るはずです。
快楽を感じる料理とは、当然のことですが、美味しい料理のことです。

ですから、自分が美味しいと思う料理を好きなだけ食べることが、貴方の身体にとっては一番大切なことなのです。
もし、特定の栄養素を取りすぎた場合は、体のほうが勝手に拒絶反応を示して、同じ料理を食べても美味しく感じなくなるはずです。』と、この様に演説したとしよう。
この後に医者が、いくら正論を述べたとしても、人々の心は掴めないだろ。

何故なら無知な民衆は、正しいことではなく、信じたいことを信じるから。

これは、朝食にりんごを1個食べるだとか、バナナを食べると健康的に痩せるというダイエット法や、炭水化物を取らなければ、タンパク質や脂肪分はどれだけ食べても大丈夫という健康法が流行っていることを見ても分かる。
人は、確実に効果がある正しいダイエット法ではなく、効果はないかもしれないけれども楽な方法を信じて行動する。
何故なら、誰だって辛いことはしたくないし、心地よい状態でいたいと思うから。
(つづく)
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プラトン著『ゴルギアス』の私的解釈 その3 『弁論術とアレテー』

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弁論術を悪用してはいけない

ゴルギアスによると、弁論術というのは、人と人が討論することによって争う場面では常に有効な手段となる。
その為、政治家などの議論が主体の職業に付く人間が身に着けて置く方が良いのはもちろんだが、職を選ぶことはなく、どの様な職業の人間でも役に立つと主張している。
その一方で、弁論術は人を支配する事が出来る強力な力なので、使い方を間違えば、危険なことも招いてしまう恐れがある。
その為、ゴルギアスは、この技術の取扱には非常に気を配るべきだと主張する。

対話と論争

この意見に対してソクラテスは反論をしたいと思うが、ゴルギアスが気を悪くしてしまって、喧嘩腰の論争になってしまわないかを心配し、ソクラテスは、自分のこの対話におけるスタンスをはっきりさせようとする。
まず議論には、大きく分けると2つの議論の方法がある。 1つは、議論の結果を度外視して、相手を言い負かすことのみに重点を置いた方法。
そしてもう一つは、議論の結果を最重要視して、目の前の対話相手と闘うことはなく、むしろ協力し合って、一緒に答えを見つけ出そうとするもの。

目的を度外視した論争は、自分の答えを否定されたり疑われたりすると、自分自身も同じ様な目にあったと思い込んで怒ってしまう者が勝負に拘る事によって起こってしまう。
この論争では、最終目標を見定めないために、目の前の相手を否定することに熱心になり、自分の主張すら忘れてしまい、論争の結果、何も得られない。

その一方で、協力し合って一つの目的を探す道は、成功することで、思いもよらなかった考えに到達する可能性がある。
この様なスタンスで議論する場合は、自分の意見が否定されたとしても怒る必要はない。 何故なら、対話相手は自分を間違った道から助け出そうとしてくれているから。
ソクラテスが求めているのはこの様な論争で、自分ひとりでは到達できない真理にたどり着きたいだけなので、自分は議論の勝敗には興味が無いということをハッキリと伝える。

そして、ゴルギアスも同じ様な気持ちで対話に臨んでいるかを確かめる。
もしゴルギアスが、真実などどうでも良くて、目の前の論争の勝敗だけに拘るのであれば、不毛な議論に突入することは確実なので、この対話をやめようと。

目的は勝敗か真実か

この論争と対話というのは、今現在でも混同されて利用されていたりするが、単純な事のようでかなり重要な事柄。
例えば、裁判の目的は、本来であれば『真実の追求』のハズなので、検事と弁護士は協力しあわなければ真実には到達することが出来ない。
しかし、テレビドラマや報道などでよく見る構図は、検察と弁護士が敵対していたりする。

何故、その様な状況になってしまうのかというと、裁判官が、どちらの主張を聞き入れるのかというのが最終目的のゲームになってしまっているから。
こういう構図になると、相手の有利になるような証言に対して言いがかりをつけたり、有効な証言を捏造するのが効果的になってしまう。
だが当然のことだけれども、相手の足をひっぱるだとか偽の証言を作るという行動は真実から遠ざかる行動なので、それらの競い合いによって真実が明らかになる事は絶対に無い。

真実を追い求めたいと思う場合に必要なのは、最終目標を正しく定めて、その方向に向かうこと。
このスタンスを貫けば、仮に、相手がこちらの主張に反対をした場合に、腹をたてるということはなくなる。何故なら相手は、自分の間違いを正そうとして声を上げてくれているのだから。

ソクラテスは、真実から遠ざかってしまう論争に発展するのであれば、不毛な時間を過ごすことになる為、議論を中断しよう。
しかし、ゴルギアス側にソクラテスと同じ様に心理を探求したいという思いがあるのであれば、対話を続けようと提案する。

弁論術とは何なのか

ゴルギアスから、同じ気持ちだという意味合いで同意を得たので、ソクラテスは今までの流れを一度整理する事にする。
まず、ゴルギアスが教えているという弁論術は、天から与えられた生まれながらにして持つ才能などではなく、一種の技術である為に、学ぶことで誰にでも身につけることが出来る。
そして、弁論術を身に着けた人間は、物事をよく知らない民衆を相手にしたプレゼンの場合に限り、専門知識や技術を持つ専門家よりも民衆を説得する力を発揮できる。

何故、聞き手が素人だけに限定されるのかというと、聞き手にその道のプロが混ざってしまうと、いくら話し方の技術が優れていたとしても、知識的なボロが出てしまって、説得が出来ないから。
逆にいえば、相手が素人であるなら、専門的な知識は必要なく、それっぽい事を匂わせるだけで良いことになる。 科学方面から散々、批判的な事がいわれている『水素水』がいまだに販売されているのも、素人相手の商売だから。
弁論家は様々な専門知識を身につける必要がなく、専門知識を持っているような立ち振舞をして演技をするだけで、無知な民衆を説得することが出来る。

この様に弁論術は、非常に使い勝手がよく、どんな立場の人間が身に着けても役立つ、非常に有効で強力が技術だけれども、強力であるが故に、その扱いは慎重にしなければならない。
指を軽く曲げるだけで命を奪える鉄砲のように、見境なく誰彼構わずに弁論術を利用して攻撃してはいけない。
しかし、強力な技術の誘惑に負けて、不正なことに対して弁論術を使うものが現れたとしても、それは不正を行った本人が悪いのであって、教師は悪くない。

弁論家とアレテー

しかし、ここで一つの疑問が生まれる。 それは、弁論家はアレテーをどのようにして宿すのかという事。
『アレテーとは何か』という疑問に対しては、ハッキリとした答えは出ていないけれども、アレテーを宿した状態がどの様な常態かは分かっている。それは、卓越した優れた人になる。
弁論術の技術とは、言葉の組み立て方や演技によって、自分自身や、自分の主張を卓越した凄いものだと演出する技術なわけだが、演出する為には『卓越した存在』を理解していなければならない。

演技を専門とする俳優は、求めに応じて、威厳のある人や貧しい人、魅力的な人や劣悪な人などを演じ分けるが、演じる人間そのものが、威厳や魅力や劣悪な状態を理解していなければ、演技はできない。
これと同じで、卓越した人間を演じきるためには、卓越した存在である、アレテーを宿した状態の人間がどのようなものかを性格に知らなければ、具体的な想像は出来ない。
逆にいえば、卓越した人間を演じることが出来る人間というのは、何を宿せば卓越した存在に見えるのかを熟知しているものである為、アレテーとは何かを知っているということ。

弁論家になる為には、専門的な知識は必要がないかもしれないが、『卓越した存在は何を備えているか』というのは知っている必要がある。
仮に、アレテーというものを理解していない人間が弁論家の元に弟子入りしてきた場合、その弁論家は、アレテーを教えるのだろか。それとも、アレテーを既に知っているものだけに入門を許すのかと尋ねる。
それとも、弁論術の教師はアレテーについては知らないが、アレテーを身に着けている演技を弟子の前で行うのか。これに対してゴルギアスは、入門をしてきた人間にはアレテーを教えると主張する。

卓越した人間は不正を犯すのか

ここで新たに、弁論術の教師はアレテーの教師でもあることが、明らかになる。
しかし、この主張によって、先程のゴルギアスの主張に矛盾点が生まれてしまう。
矛盾点が何かというと、弁論術を習ったものが不正に手を染める可能性を示したこと。

先程ゴルギアスは、弁論術を習いに来たものには全て、アレテーを教えるという事を主張していたが、アレテーを身に着けたものが何故、不正に手を染めるのだろうか。
アレテーとは、それを身につけることで卓越した人間になれるという代物。アレテーを身に着けたものは、正義を理解して勇気と欲望を抑え込む節制と理性を生む知恵を兼ね備えている人間。
正義を理解して、自分の欲望を理性で抑え込む術を持つ人間が、何故、不正を働くのだろうか。 不正を働くような人間の精神に、アレテーは宿っているのだろうか。

弁論家が教えるのは、アレテーではなく、アレテーを宿した雰囲気というのなら、矛盾はしていないことになる。
例えばジョジョの奇妙な冒険に出てくるディオの様に、生まれついての悪党でゲロ以下の匂いがプンプン人間でも、人前だけでは品のある演技をする事は出来る。
はじめから人を騙すことが前提の詐欺師であっても、お金をだまし取るためにはターゲットから信頼を勝ち取らなくてはならないので、不正を働かないような紳士を演じきったりする。

この様な人物たちは、品であったり誠実さを身に着けているわけではないけれども、品や誠実さを持つ人間を観察することによって、上辺だけをコピーして演じきる技術は持っている。
弁論家も同じ様に、アレテーを自身に宿しているわけではないが、アレテーを宿している人物を観察することで、演技だけ出来るようになっているのなら、理解は出来る。
これを考慮し、現にソクラテスは、弁論家はアレテーを身に着けてはいないが、弟子の前ではアレテーを宿しているフリをしているのか?と質問をしている。

にも関わらずゴルギアスは、入門してきた人間にはアレテーを教えると主張している。 アレテーを教えるという事は、自分自身もアレテーを身に着けていて、それを弟子に教えるということ。
弟子にアレテーを伝えるということは、アレテーは才能ではなく、教えることが出来ると主張しているのと同じことで、弁論家はソフィストと何ら変わらないことになる。

もし、本当にアレテーを他人に教えることが可能であるなら、その教えを受けた人間は皆が憧れるような正義と勇気を宿した卓越した人間になるはず。
正義を宿した人間が不正に手を染めることは絶対に無いので、仮に、弟子が不正に手を染めてしまったとしたら、師匠である弁論家はアレテーを正しく伝えられていない事になってしまう。
教えるべきものを正しく教えていないのであれば、それは師匠としてどうなんだという事にもなってしまい、ゴルギアスの説はどちらにしても駄目という事になってしまう。

墓穴を掘ったゴルギアス

ゴルギアスの論理は破綻してしまい、自分が間違っていることを認めなければ先へ進めない状態になってしまった。
しかしここで、ゴルギアスの弟子のポロスが助っ人に入り、以後、ソクラテスとポロスの間で討論が行われることになる。

ポロスの主張によると、ゴルギアスは場の雰囲気を読んで、ソクラテスに合わせて気にいるような答えを選んであげたまで。弁論家がアレテーを身に着けているとは、ゴルギアスは本心では思っていない。
そんな事もわからないままに、揚げ足を取って矛盾点を挙げて攻め立てるのは、卑怯なやり方だと避難する。
しかし、この理屈も少しおかしいような気がする。

というのもゴルギアスは、他人に弁論術を教えてお金を稼いでいる弁論術の教師として名を馳せている人物。
弁論術とは簡単に表現してしまえば、話の流れを完全に支配して自分の有利な方向に向かわせる話術のことです。
仮に、ソクラテスが話を誘導することでゴルギアスに墓穴を掘らせるように持っていったのであれば、その流れを断ち切って、自分が有利な方向に持っていけば良いだけです。

そのための技術こそが、弁論術のはずなのだから。

にも関わらず、ソクラテスの誘導に引っかかって口を滑らせて、自ら墓穴をほってしまうというのは、弁論術の専門家としてどうなのでしょうか。
弁論家でもないソクラテスに討論で負けた上に、卑怯だと罵るのは、ストVのプロの選手が、ド素人のガチャプレイに負けて言い訳しているのと同じで、恥の上塗りのような気がしないでもない。
ただ、この反論をゴルギアス自身が主張していれば救いようがないが、ゴルギアスよりも劣る弟子が主張しているのと、尊敬している師匠が陥れられたと思い込んで感情に任せて言ってしまったのかもしれない。
(つづく)
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参考書籍

プラトン著『ゴルギアス』の私的解釈 その2『人を支配する技術』

このエントリーは、私自身がPodcast配信のために哲学を勉強する過程で読んだ本を、現代風に分かりやすく要約し、私自身の解釈を加えたものです。
Podcastはこちら

前回はこちら
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他人を説得する技術

ソクラテスの追求によって、ゴルギアスが教えている技術が、『他人を説得する技術』であることがわかった。
では、何について説得するのかというと、何が正しくて何が不正なのかという点について説得する技術のことらしい。

ソフィスト達が唱える相対主義では、人々の正義と正義がぶつかり合ってしまう事が多々ある。
その際に、自分の主張こそが正義であり、それに反対する相手の主張は悪だと説得することが出来てしまえば、自分の意見を正しいこととして、押し通すことが出来る。
他人が自分の為に尽くすのが正義だという独りよがりの正義も、それを押し通す説得術がありさえすれば、正義になり得るということでしょう。

この技術を極めれば、相手を自分の思い通りに動かすことが出来るし、警察が自分を捕まえて裁判にかけたとしても、自分こそが正義だと裁判官を説得できる為、罪に問われる事は無い。
それ以前に、捕まえに来た警察官の行動を不当なものだとし、正義は自分にある事を主張して相手を説得できれば、そもそも捕まることすら無い。
他人を自由に支配し、その上、自分は何にも縛られること無く自由に振る舞えるわけだから、弁論術は最高の技術というわけです。

この主張を聞いたソクラテスは、その説得術について吟味していくことにする。
まず、いきなり本丸に攻め込むのではなく、前提条件を確認し合う作業に入る。

説得術を吟味するための前提条件

ソクラテスはまず、『学んでしまっている』と『信じ込んでいる』という状態が存在するかどうかをゴルギアスに確認し、同意を得る。
学んでしまっているとは、学校での勉強や、社会経験などを通して、特定の何かを既に学んだ状態のこと。 算数でいうのなら、掛け算を勉強しようとしているものは、足し算は既に学んでしまっている。
信じ込んでいるというのは、それが正しい事だと信じ込んでいることで、宗教などに限った話などではないし、実際に学んだかどうかも問題ではない。

次に、『学んでしまっている』事と『信じ込んでいる』事は、同じことなのかどうかを確認し、この2つは違う事柄であることを確認する。
学んでしまっている事が正しい事だと信じ込む事はあるだろうが、学んだ事が間違いではないかと思うことも有るし、学んでいないのに信じ込んでいるだけの状態もありうるからでしょう。

次に、信念には偽物と本物が存在するかという質問をし、『ある』という答えを聞き出し、同様に知識には偽物と本物が有るかを質問し、『無い』と聞き出す。
信念とは、正しいと信じる気持ちであるけれども、正しいと信じた対象が間違っていて悪だということも十分にありえる。
一方で知識はどうかというと、知識とは既に発見されたて検証されて、正しいとされた法則のことなので、間違った知識は『正しい』という前提条件を満たさないので、知識ではない事になる。

ソクラテスは、信念に真偽があり、知識には無いとするなら、信念と知識は違うものとなるが、それで良いかと質問し、ゴルギアスに同意を得る。
前提条件をまとめると、『学んでしまっている状態』と『信じ込んでいる状態』がある。そして、この2つは同じものではない。
信念には偽物と本物があり、知識には真偽はない。

説得された状態とは?

前提条件が揃ったところで、説得について考えてみる。
『学んでしまっている状態』と『信じ込んでいる状態』は、共に、説得されてしまった状態と捉えることが出来る。
何故なら、『学んでしまっている』と自覚している状態は、知識を他人から授けられたことを自覚している状態ともいえるから。
前提条件によると、知識には真偽はないのだから、学んでしまっている状態の人間は、正しい知識を授けられたと自覚している状態ともいえる。

一方で、信じ込んでいる状態は、相手が話したものが、知識と呼べるものなのか、それともでっち上げなのかは分からないけれども、相手の主張することを信じ込んでいる状態といえる。
先程の前提条件では、信念には偽物と本物が有るということだったが、信じている対象が偽物であれ本物であれ、信じ込んでいる状態というのは、相手によって説得させられた状態といえる。
つまり、『学んでしまっている状態』と『信じ込んでいる状態』は、説得されている状態という点においては、共通している。

では、ゴルギアスが提供している弁論術は、聞き手を『学んでしまった状態』にするのか、『信じ込んでいる状態』にするのか、どちらの状態に説得するのだろうか。
この質問に対してゴルギアスは、『相手に信じ込ませる説得術だ』と答える。

これまでの対話をまとめると、ゴルギアスが提供する技術とは、相手を説得する技術であって、聞き手に知識を与えるための技術ではないことが分かる。
政治や法廷の場で、相手をうまく誘導して自分の思い通りに事が運ぶようにする技術だけれども、決して、正しい知識が必要なわけではない。
相手は正しい知識によって説得させられるのではなく、議論の演出の仕方によって、正しいのではないかと説得させられるだけということ。

説得に専門知識は必要がないのか

しかしソクラテスは、ここで一つの疑問を持つ。
ゴルギアスは、弁論術について『何が正しくて何が不正なのかという点について説得すること』と説明していたが、一方で、専門的な知識については教えないともいっていた。
議論の対象となっている事柄の正義や不正について相手を説き伏せるのに、その対象の知識は必要ないのだろうか。

例えば、何らかの公共事業で大型建築物を建てる場合で考えると、この計画を円滑に進めるための話し合いには、建築の知識が必須となるのではないだろうか。
建築計画を作成して実行する為の議論を、建築の経験や知識はないが、弁論術の心得だけはある政治家だけで話し合ったとして、その計画はうまくいくのだろうか。
これは考えるまでもなく分かることで、この議論に必要なのは説得の術ではなく、建築家が持つ知識と経験であり、彼ら抜きではこの事業の成功はありえません。
何の専門的知識も持たず、自分の価値観として持っている正義や不正を相手に信じ込ませることしか出来ない弁論家は、この議論において、何を提案できるのだろうか。

この疑問に対してゴルギアスは、待ってましたとばかりに持論を披露する。
確かに、計画を練ったり進捗状況を見守ったり、実際に作業を行うのは、建築の知識や経験が豊富な建築関係者だろう。
しかし、その公共事業を行うと決めてその人間に命令を出すのは、その時に政治的権力を持っている権力者なのではないだろうか。

権力者は、医術の心得も建築技術も知識も持たないが、その事業を行うという決定を下すことが出来る。
アテナイで建築された港や城壁も、実際に知識人や専門家に命令を下したのはテミストクレスであり、テミストクレスが何故その様な決断を下したのかというと、ペリクレスが助言したからだ。
実質的には、ペリクレスの意思によって公共事業が行われているのであって、建築の知識を持つ、現場で働く作業員の意思ではない。

このやり取りは、よく小中学生が『ひっかけクイズ』として行ったりもします。
出題者が、『大阪城を建てたのは誰?』と質問し、回答者が『豊臣秀吉』と答えると、『正解は大工さん。』と答える一連のやり取りと似た部分がある。
そもそも、城を建てられる大工がいなければ城が建築されることはないのだけれども、大工がいたとしても、命令をして賃金を払う人間がいなければ、これもまた、城が建つことはない。

ソクラテスは、建築に重要なのは建築についての知識だと主張するが、プロタゴラスは、建築の知識を持つものを自分の思い通りに動かせるのであれば、その知識は必要がないと主張する。
ゴルギアスは弁論術は人を支配する能力が有るといっていたのはこの事で、専門家を自由に思い通りに動かせるなら、自分自身で勉強する必要はないということ。

まとめると、大きな権力を握るのにも、その力を振るうのにも、専門的な知識は必要なく、それらの知識は自分以外の誰かが身に着けていればそれで良いということ。
何故なら、権力さえ握ってしまえば、専門知識を身に着けた専門家を自分の思い通りに自由自在に操れるのだから、いざという時は専門家に命令するだけで、事を運ぶことが出来てしまう。
また、権力がなかったとしても、その専門家を個人的に説得して味方に引き入れてしまえば、その力を自分の為に利用することが出来る。

時に弁論術は専門知識よりも役に立つ

しかしソクラテスは、弁論術の具体的な正体をつかめずにいる。
(指導者が命令して事が動くことにしても、指導者が、『この様な建物を立てたいから作れ』と命令して、専門家が、強度計算的に無理なので、計画を変えてくださいといえば、指導者は専門家の意見を聞き入れなければならない。)
(建築家同士がお互いのプランを競い合う状況にしても、どの建築が一番良い建築なのか。 その場所に建てるのにふさわしい建築なのかという議論はおざなりになってしまう。)

この態度にしびれを切らしたゴルギアスは、ソクラテスを説得する為に昔の自分の経験を語り出す。

ゴルギアスは昔、怪我や病気を負ったものが医者に掛かっているにも関わらず、患者が医者の言うことを聞かないという現場に遭遇したことが有る。
医者は、患者のためを思って良かれと思って、苦い薬を調合したり、傷口を焼くといった治療行為を提案するが、身体についての知識が無い庶民は医者の治療法が理解できずに、その苦痛を伴う治療を受けようとしない。
しかし、医学の知識は全く無いけれども、弁論術は身に着けているゴルギアスが患者を説得した所、患者は医者の言うことを聴くようになり、治療を受けることを了承した。

医者は、弁論術を身に着けていない為に患者を説得することが出来ずに、危うく、患者を見殺しにしてしまうところだった。
しかし、医術を全く身につけていないゴルギアスが説得に成功し、結果として、患者の命を救うことが出来た。治療を拒否する患者の前では医者は無力だが、弁論家は、十分に力を発揮することが出来る。

それだけではなく、何らかの国の事業で、医者が必要になるというケースも有るだろう。
その事業の参加者として選ばれれば、国の中で名前を売ることが出来て有名になれるとした場合、他の医者に比べて自分がどれ程その事業に向いているのかを、事業の責任者にアピールする必要がある。
この時、医学について無知な事業の責任者を説得するには、医学の知識ではなく、弁論術が有効となる。

弁論術は強力な武器になる為 悪用を避けなければならない

この様に弁論術は、討論の場のあらゆる場面において有効な技術であり手段となる。しかし、有効過ぎるが故に、その取扱は慎重に行わなければならない。
ボクシングや空手の技術を悪用すれば、他人を簡単に傷つけることが出来るように、弁論術が相手を説得して信頼を勝ち取れる技術という事は、その技術を悪用すれば、他人を陥れることも容易にできてしまう。
この様に、使い方によっては非常に危険な武器にもなる技術だから、弁論術を身に着けたものは、その使い方には、非常に注意を払わなければならない。

だが、使う者が人間である以上、自分自身の我慢が足りないなどの理由で、その力を自分の欲望を満たす為に使って不正を働くものもいるかも知れない。
しかし、その様な状態になったからといって、その弁論術を教えた教師の方を責めてはならないとゴルギアスは主張する。
弁論術を生徒に授けた教師の方は、生徒一人ひとりが良い人間かという事は分からない。 仮に、生徒の1人が不正を働いたからといって、それを事前に知ることは出来ないだろう。
不正を行うものは、不正を行った当の本人が悪いのだから、責められるのはその人間であって、教師の方ではないということ。

この主張は、今でいうと銃問題と似ているのかもしれない。銃は本来、力の弱いものが自分よりも強いものに対して抵抗する為に存在する。
アメリカで銃犯罪が多いにも関わらず、銃の所持が認められたままなのは、国が暴走した際の対抗策を民衆側が確保しておくためだし、銃があることで、力の弱い人間が自分よりも身体が大きく力の強い男に襲われた場合も、対抗できる。
もし銃がなければ、弱い立場に有るものは強いものに蹂躙され続ける危険性すら有る。 だから、銃そのものの存在は悪いとはいえなく、良い面も有るといえる。

しかし、その銃を使って、無実の人間を一方的に攻撃する犯罪も存在する。この様な犯罪は、銃がなければ起こらなかった犯罪ともいえるが、銃そのものを悪としてしまえば、銃の良い面まで失ってしまうことになる。
こうして、銃の所持を肯定する人間から生まれた言い訳が、銃を使って犯罪を犯す者が悪いのであって、銃が悪いわけではいという言い訳。
この銃を、弁論術に言い換えると、同じ様な理論となる。


参考書籍

プラトン著『ゴルギアス』の私的解釈 その1

このエントリーは、私自身がPodcast配信のために哲学を勉強する過程で読んだ本を、現代風に分かりやすく要約し、私自身の解釈を加えたものです。
Podcastはこちら

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序章

この対話編は、遠征してきたゴルギアスが街の広場で演説をするという噂を聞きつけたソクラテスとカイレポンが、その演説を見に行くところから始まる。
しかし、カイレポンが まごついた せいか、ソクラテス達が広場に到着した時には、既にゴルギアスの演説は終わってしまっていた。
呆然と立ち尽くす二人でしたが、そんな二人を発見したのが、ソクラテスの友人のカリクレス。

カリクレスは事情を聴くと、『ゴルギアスさんは、この地域に滞在中は私の家で寝泊まりしているので、会いたいのであれば、家に来ればよいよ。』と言ってくれる。
この言葉に甘える形で、二人はゴルギアスに会いに行くというところから始まる。

弁論術とは何ですか?

ソクラテスが、わざわざ足を運んでまで広場に赴いたのは、ゴルギアスが他人に教えている弁論術に興味があったから。
しかしソクラテスは自分で質問をするのに気が引けたのか、カイレポンに『ゴルギアスは、何の職業をしている人ですか?』と聞いてもらう。
当然、ソクラテスゴルギアスが弁論術の教師であることは知っている。 ソクラテスが聞きたかったことは、その教えている弁論術とは、どの様な技術のことなのかということ。
だが弟子達の1人であるポロスが、『先生は、先程の広場の演説で疲れているので、私が変わりに答えましょう』と割って入る。

ソクラテスは、答えさえ知れればそれで良かったので、代わりにポロスにその質問に答えてもらうことにする。
ポロスによると、『人々の技術は全て、経験を積み重ねることによって発展発達してきたが、このゴルギアスは、その中でももっとも優れた技術を身に着けている。』と自信満々に答える。
だが、この答えを聞いたソクラテスは、意味を理解することが出来ない。 何故ならポロスは、質問に答えているようで、実のところ何も言ってはおらず、『凄いことを教えている!』と言っているに過ぎないから。

この様な返答をする人って、現代でも結構見かけますよね。
怪しげな商売をしている人たちや、不正を指摘された政治家などが行う答弁と同じで、重要なことは何一つ答えずに、何となくすごそうな雰囲気だけを醸し出して、相手に勘違いさせるという方法です。
例えば占い師などは、何一つ具体的なことはいわずに、抽象的なことばかりをいって、相手に都合の良い勘違いをさせたりもします。

ソクラテスはポロスに対して、『貴方は私の質問に答える気がなく、弁論術の技術を使って有耶無耶にしようとしているんじゃないですか?』と不信感を抱く。
例えば、医者に対して、『あなたの仕事はなんですか?』と聞いた場合、医者は、『怪我や病気の治療をしたり、健康状態を維持するための助言をする仕事ですよ。』と仕事内容を答えてくれるでしょう。
同じ様にデザイナーに対して質問をしても、『私はデザインをすることでお金を貰っています。 依頼があるのは、本の表紙のデザインが多いので、今はそれ専門でやってますね。』と答えてくれるだろう。

複数人の大工に質問をしたら、『私は宮大工で、主に神社仏閣の建築や修繕をやっている。』だとか、『私は型枠大工で、鉄筋コンクリートの建物を作る作業の一部をやっている。』といった具合に、答えてくれる。
大工やデザイナーなどの漠然とした職業の質問をしたとしても、突っ込んだ質問をすれば、自分が従事しているそれぞれの専門の仕事内容を答えてくれるでしょう。
振り返って、ポロスはソクラテスの質問になんと答えたのかというと、『凄い技術を教えている。』といっただけ。 これは、答えになっているのでしょうか。

この事を告げると、ポロスは『ゴルギアスは弁論術を教えていて、職業は弁論家』だと答えます。
弟子の失態に耐えられなくなったのか、それとも、道場破りに乱入された道場の師匠のように、弟子との対話を観て相手の実力がわかったのか、真打ちのゴルギアスが登場し、ゴルギアスソクラテスとで対話が始まる。
以降は、ゴルギアスソクラテスによる対話へと移行する。

ゴルギアス vs  ソクラテス

ソクラテスは、対話の前に事前にルールを決めようと言い出す。
弁論術を極めて、その上、他人に教えることでお金まで取っているゴルギアスを相手に対話をするわけですから、弁論家ではないソクラテスがルール無しで対話を行った場合は、不本意な形で丸め込まれてしまう可能性がある。
ソクラテスは、質問者は質問を短く簡潔にまとめ、回答者が短い言葉で答える。質問者が行う質問内容の中に理解できない部分があれば、回答者が質問側に回り、攻守逆転するというソクラテス問答法での対話を提案する。

弁論家は、言葉を扱う専門家なのだから、素人の質問に対しても短くわかり易い言葉で答えて欲しいという要望を出した形ともいえます。そしてゴルギアスは、これを了承する。
このルールを決めた後で、ソクラテスは再び、先程ポロスに対して行った質問をゴルギアスに対してブツケます。『あなたの職業は何ですか?』と。

弁論家は、弁論術と称して生徒に対して言葉の扱い方を教えるわけだが、では、どの様なジャンルの、何についての言葉を教えるのだろうか。
例えば、それを聴くだけで、健康を維持したり身体について詳しくなるような言葉を教えてくれるのだろうか。それとも、聴くだけで音楽について詳しくなったり、楽器を奏でることが出来るようになる言葉なのだろうか。
ゴルギアスは、弁論術を身に着けたとしても、医学に詳しくなるわけでも音楽に詳しくなるわけでもない。 弁論術という技術の範囲には、その様なものは、入っていないと答える。

そこでソクラテスは『人々に話をする能力を授けているのでしょうか?』と質問をすると、ゴルギアスはこれに同意する。

弁論術と他の学問との違いは何だろう

普通に考えれば分かりそうなものだが、では何故、ソクラテスはこの様な質問をしたのだろうか。
そもそも、人のコミュニケーションの大半は言葉によって行われるため、全ての教育が言葉を介して行われる。であるなら、全ての職業が言葉を扱っている職業だし、専門知識について話せるようになる為の勉強といえる。
つまり、殆どの職業における勉強は、その専門分野の事柄について話せるようになる勉強ともいえる。 では、弁論術は他の学問と何が違うのかという、明確な差を知りたかったのでしょう。

これに対してゴルギアスは、他の技術は言葉だけでなく、実際に手を動かして技術を習得するが、弁論術は言葉だけで全てが完結すると答える。
確かに、画家にしても大工にしても医師にしても、本を読んだり話を聞くだけでなれるものではなく、実際に手を動かして何度も反復練習するという作業をしなければ技術は身につかない。
誰だって、本を読んだだけで医者を名乗る人物に手術をしてもらおうなどとは、絶対に思わないだろう。

しかし、ソクラテスはこれだけでは不十分だと答える。 何故なら、言葉だけで完結する職業は、弁論術に限らないからです。
確かに、画家や彫刻家や大工などの職業は、実際に手を動かすという作業を行わなければならない。 しかし、学校の教師などはどうだろうか。
例えば数学の教師は、教科書と言葉だけで生徒に対して数学の知識を伝えるのではないだろうか。 国語や社会の教師も同じで、特別な技術を身につける為に手を動かさなければならないということはない。

ソクラテス自身は、数学の教師と弁論家が違うものを扱っていることは理解しているが、その明確な差を、弁論家であるゴルギアスに明らかにして欲しいと主張する。
手を動かさない、単純に言葉だけで伝えられる他の学問と弁論術には、どの様な違いが有るのだろうか。弁論家は、言葉によって何を生徒に伝えるのか。

この質問に対してゴルギアスは、『人間が関心を持つ者の中で一番重要で、一番優れているものだ』と答える。
しかしこの回答は、ゴルギアスの弟子であるポロスが最初に答えた答えである『弁論術とは凄い技術のことです。』といった答えと根本的には変わらない。
具体的に何が重要で、どの点で一番優れているのか。 そもそも、人間が一番求めているものとは何なのか。 何一つ分からない。

一番優れていて 人間が一番に求める技術

そこでソクラテスは、世間一般で大衆が関心を持ち求めているものを3つ挙げる。1番目は『医者の技術』2番めは『健やかで優れた肉体』3つ目は『正しい方法で手に入れた財産』
医者の技術は、怪我や病気をして弱って悪くなった身体を治すことが出来る技術。
2番めの健やかな身体を手に入れる事により、人は健康な状態を維持できるし、能力的に優れていれば、様々なことに挑戦できるし、戦争に行った際も生き残れる可能性が高くなる。
3つ目の正しい方法、つまり、人を騙したりと不正を行わずに、正攻法で手に入れた財産は、誰に気兼ねすることもなく自由に使えるお金という事になり、1番目と2番目を金の力によって手に入れることが出来る。

この説明だけだと、湯水のように金が使える実業家が一番良いようにも思われるが、何故、これが3番めなのかというと、金を稼ぐというのは技術だけれども、金を使えるというのは技術でも何でも無いからだろう。
お金があるからといって、怪我や病気をした際に、いつでも優秀な医者を雇えるわけではない。 今現在は、ネットなどが発達している為、金をかければなんとか出来る範囲も増えてきて入るが…
古代ギリシャであるこの時代は、必要な時に医者をすぐに呼びつけることが物理的に無理。 その為、いざという時には、医者を兼ねで雇える能力よりも、医術の知識を持っている方が役に立つ。

これらの技術を職業に当てはめると、1番目は医者だし、2番目はトレーニングジムなどに所属しているコーチということになり、3番目は実業家ということになる。
ゴルギアスの主張では、人間が一番関心を持っていて、優れたものが弁論術ということだったので、当然、弁論術はこれらの技術よりも優れている事になるわけだが、では、どの点で優れているのだろうか。

ゴルギアスは、弁論術を学ぶものは様々な束縛から解き放って自由にすることが出来、その上、他人を支配することが出来ると主張する。
弁論術によって他人を説得し、自分の思い通りに動かすことが出来る能力を得ることが出来る。

弁論術とは人を支配する技術

先程、ソクラテスが挙げた医者や実業家などの人たちも、弁論術によって相手を説得してしまえば、相手を自分の好きなようにコントロールすることが出来る。
警察や裁判官や政治家といったものが相手だったとしても、弁論術さえ使ってしまえば、自分の意見を押し通して説得することが出来る。 弁論術を収めるものは、相手が誰であれ束縛されること無く、自由に振る舞える。
他の技術を習得したものを、説得によって自分の奴隷にすることが出来、その上、自分自身はいかなる権力からも束縛されることがない弁論術は、人が目指すべき最高の技術というわけです。

このゴルギアスの主張により、やっと、弁論術の本当の力を知ることが出来ます。
それは、『相手を説得する技術』のことです。

では、具体的には、何についての説得をするのでしょうか。
例えば医者の場合は、怪我や病気を治すという事以外に、人間の健康管理には何が必要なのかを語ることが出来て、それによって他人を説得することが可能です。
医者にも色々あり、身体について詳しい医者もいれば、人間の精神、心について詳しい人も存在し、この医者も同様に、この分野において他人を説得することが出来る知識と技術を持っています。

では、ゴルギアスが主張する弁論術の能力である『説得』は、何についての説得なのでしょうか。

この疑問に対してゴルギアスは、法廷や政治などの集会などの場で使うことが出来る説得術で、主に、何が正しくて何が不正なのかといった事について説得する技術だと答えます。
(つづく)
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参考書籍

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第52回 ソクラテスが生きた時代(2) 後編

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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youtubeでも音声を公開しています。興味の有る方は、チャンネル登録お願い致します。
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前回はこちら
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人類の文明発祥の地

この場所には、チグリス・ユーフラテス川や、エジプトのナイル川などが有り、定期的に川が反乱する事を活かして、かなり早い段階で農作物を育てるという文化が生まれるんです。
動物を追いかけて狩りをするとか、その辺に成っている木の実や果物をとって食べる狩猟採集生活の場合は、一箇所に定住しないので、人口も増えませんし、文化も生まれにくいんです。
何故、人口も増えないし文化も生まれないのかというと、わかりやすく極端な例で考えてみますと…

10人の部族と1000人からなる部族があった場合、10人分の食事を狩猟と採集で賄うのは、それほど難しいことではないでしょうが、1000人分の食料を確保するのは難しいですよね。
1000人の胃袋を満たす為に動物を狩り続けると、その一体の動物が絶滅してしまう可能性もありますし、移動しながら生活をする場合でも、取り尽くした獣が再び繁殖して狩りが可能になるまでには数年かかるでしょうから…
それを考慮すると、とてつもなく広大な範囲を移動し続けなければならない事になってしまいます。

どちらの方が有利で生き残りやすいのかというと、少数の方が有利ですし、常に動き続けるというハードな生活では、長生きする事も難しいですよね。
結果として、狩猟採集生活では少数で生活するということになるのですが、少数で生活すると、発明品というのも生まれにくいんです。
何故かというと、これは今現在の私達の生活を観ても同じなのですが、例えば、何か問題があった際に、それを解決できるようなものを発明しようとした場合、ピンポイントで狙いすましたように目的のものを作れることってのは、少ないんです。

大抵の場合は、研究が行き詰まったり、よくわからない失敗作が生まれたりするわけですが…
多くの場合は、その失敗経験や、それによって生まれた失敗作を他の人間が観た時に、その失敗を別のアイデアとして活かすことで、思ってもいなかったものが生み出されるんです。

例えば、この例は失敗作から新たなものが生まれたというのには当てはまらなんですけれども…
私は緑内障にかかっているのですが、その進行を止める薬には、毛が伸びるという副作用があります。 その為、目薬をさした後は顔を洗わなければ、まつ毛がどんどん伸びてしまうのですが、この副作用に注目すれば、毛生え薬が出来たりします。
この様な感じで、特定の問題を解消する為にアクションを起こした結果、思ってもみないモノが生み出されるわけですが、その活用方法は、生み出した本人には分からなかったりするのですが…
それを他の人が観た場合に、活用方法が分かったり、その失敗がヒントに成って、、全く別のものが生まれるというケースは、かなり多いんです。

この様に、アクションを起こして生み出したものが、他の人間のアイデアを刺激して、別のものを生み出すわけですから、発明を周りで見ている人が多ければ多い程、多くのものが生み出される可能性が高くなりますし、シナジー効果も高まります。
つまり、互いに刺激し合いやすくなるということですね。
文化というのは発明の連続なわけですから、文化を生み出して発展させる為には、限られた範囲内にできるだけ多くの人間が存在していることが重要になってきます。
先程も言いましたが、狩猟採集生活では、人口を増やすことが困難なので、文化も生まれにくいわけですが、農耕の発明によって、人間が一箇所に定住することが可能になるんです。

肥沃な三日月地帯

その、農耕が始まった一番最初の場所というのが、メソポタミアの『肥沃な三日月地帯』と呼ばれる場所だったんです。
今の地図での場所をもう一度いいますと、イラン・イラク・シリア・エジプトにまたがる地域で、アラビア半島を、上側が膨らんでいる三日月状の形をしたもので蓋をするようなイメージを思い浮かべてもらえれば良いです。
この地域は、先程も少し言いましたが、ナイル川チグリス・ユーフラテス川が定期的に反乱して、農作物の養分になるものを運んできてくれる為、農耕をするのに適した土地でした。

また、それだけではなく、人間の食べ物となる植物や利用しやすい動物が多かった事も、関係しているようです。
植物というのは、かなりの種類があるわけですが、人間は、それらを全て食料にする事は出来ませんよね。 例えば、牛が食べるような草を、人間が同じ様に食べられるのかというと、食べられません。
多くの植物が生えているような土地だったとしても、人間が食べられるような植物が多く生息していなければ、人はその土地に定着しようとは思わないのですが、この『肥沃な三日月地帯』には、かなりの種類の人間が食べられる植物が生息していたようです。

また、この地域は、地形も農耕をするのに有利に働いたようです。
南の方は砂漠地帯なのですが、北の方には山岳地帯が有り、標高が高くなっていく地形になっているようです。 標高が100メートル高くなると気温が1度下がるなんて言われていますが…
標高が徐々に高くなる事で、同じ様に種を撒いたとしても、標高の高いところほど収穫が遅く、刈り取り時期がズレていくらしいので、収穫できる期間が長くなる様なんですね。
収穫時期が短いと、その短い期間にピンポイントで台風などの災害が来たりして被害が出ると、食料が獲得できませんが、収穫時期が長くなると、それだけ、安定して食料が得られる様になる為、生活の安定性が増します。

その他には、生息している動物も関係していたようです。 例えば、馬や牛といった、今でも家畜として利用されている動物がいますけれども、あの動物は、他の動物で代用できるのかというと、そうでもないそうなんです。
例えば、乗り物として使える馬ですが、他の動物で代用できるのかというと、そうでもないようなんです。
馬に似た形をしている動物にシマウマがいますが、シマウマは馬の代わりにはならないようです。 というのもシマウマは、種としての特徴として、気性が荒いそうなんです。

馬の中にも気性の荒い個体はいますが、馬の中で気性が荒いものと、シマウマの中で比較的温和な性格のものを比べた場合、シマウマの方が気性が荒かったりするそうなんです。
その為、騎乗動物として扱えないようなんです。 牛も同じで、あの様な体格の動物なら、どんな動物でも、農作業の手伝いなどが出来るのか。
例えば、水牛やサイやカバのような動物でも、同じ様に農作業の手伝いをさせられるのかというと、そんな事は無いようです。
人間が利用しやすく、扱いやすい性格などの特性を備えている動物が沢山いるというのも、人間がその地域に定着しやすくする要因の一つのようです。

ここら辺の詳しい考察については、ジャレッド・ダイアモンドという方が書かれている『銃・病原菌・鉄』という本に書かれていますので、興味のある方は読んでみてください。
今回は、人間の文明に地形や生態系がどの様に関係していたのかだけを取り出して話しましたが、この他にも、病原菌や鉄の発明がどの様な影響を与えたのかを考察されているので、勉強になりますし、面白いです。

話を戻すと、この様な感じで、人間が定着しやすい環境が整い過ぎていたのが『肥沃な三日月地帯』で、この土地ではシューメール文明や楔形文字などの多くの文化が生み出されましたし、また、この土地の覇権を狙った勢力同士の戦争が数多く繰り広げられました。
その最終的な覇者となったのが、当時のペルシャ帝国だったわけです。 
ギリシャの文化も、大本は、エジプトで生まれた面積の計算法や、イオニア地方で生まれた哲学が発展したものに過ぎないので、ペルシャ川から見れば、属国という扱いだたのかもしれません。
ペルシャは、力関係を再認識させる為に、ギリシャに対して何度も戦争を仕掛け、ギリシャはその侵攻に対して迎え撃つ事になります。

ギリシャも一枚岩ではない

これだけを聴くと、ギリシャは外敵、主にペルシャから頻繁に攻め込まれていて、ギリシャはその度に団結していたという印象を持たれる方も多いかもしれませんが… 実際には、そんな事もなかったようです。
というのも、ギリシャという地域は、それぞれの都市国家であるポリスが独自で自治をするという形式だったのですが、統治の仕方が、それぞれのポリスでかなり違ったんです。

その為、ギリシャ内で、ポリス同士の覇権争いからの戦争も起こっていたりもしたので、短い間隔で戦争が繰り広げられていたようです。
これからメインで話すことになるソクラテスも、議論好きの学者というイメージを持たれている方も多いかもしれませんが、3回程、戦争に行ってますし、皆が怯えて縮こまっている中で、堂々とした態度でシンガリを努めて無事に生還してきたという武勇伝を持っていたりもするんですが…
このあたりの事は、次回に話したいと思います。

次回
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