だぶるばいせっぷす 新館

ホワイトカラーではないブルーカラーからの視点

家事は自分たちで行わなければならないのだろうか? 家事労働放棄でまわる経済

ここ最近、特に思うようになったのですが…
家事って、各家庭で行わなければならないものなのでしょうか?
という事で今回は、家事のアウトソーシングについて考えてみようと思います。

家事をやっている暇もない現代社

私は現在40歳で、バブル期というものを社会人としては体験はしていないのですが、子供の頃や学生の時代を考えると、今よりも、専業主婦というのが当たり前だったように思えます。
『男が社会に出て稼ぎ、女性が家庭を守る』というのが当然だった社会。これは逆でも全く問題はないのですが、ともかく、家族の中で1人が外に働きに出るだけで、家計収入としては全く問題がない社会でした。
言い換えれば、それだけ安定していたという事です。初任給こそ現在とさほど変わらない様な金額かもしれませんが、年功序列で終身雇用で、毎年昇給するのがが当然の社会だった為、20代で結婚して子供を生んでも、その子供が高校・大学に行く頃には収入も順調に上昇しているので、家計的な心配もなかった時代だったように思えます。

当時でも、共働き夫婦というのは存在しましたが、生活が苦しいからというよりも、『二人して働いて、相当稼いでいるな!』なんていわれていた時代ですし、ダブルインカム・ノーキッズで『若い時代に稼いでおこう!』なんて話もされていた時代でした。
しかし時代は流れ、今現在では、初任給はそのままに、その後の昇給が殆ど無く、終身雇用も崩れ、『二人して働いて収入がっぽり!』の状態から、『二人で働かないと最低限の生活が出来ない状態』になりつつ有ります。

当然ですよね。 一昔前と比べても、中央値で見れば給料は激減しているわけで、それで昔と同じ様な生活をしようと思えば、収入を増やすためにも、共働きにならなければならない。
kimniy8.hatenablog.com
総理は、『1億総活躍社会!』なんていってますが、裏を返せば、今まで家で家事労働をしていた人や、退職を迎えた老人も働かないと暮らしていけない様な状態へと、追い込まれてしまいっている状態です。

家事労働によって生まれる軋轢

家事労働をしていた人間が、『小遣いを増やしたいからパートする』という状態から、『働かないと普通の生活が出来ない状態』に変化してきているので、当然、気持ち的な余裕も無くなる。
また、パートではなくフルタイムで働く人も増えてきている為、必然的に、家にいる時間も減少している。
そんな中で今までと同じ様に家事を行おうと思うと、1人では無理という事になり、家事を分担しなければならないということになる。

結果として、外でも働いて家でも働くという状態になる。 また、家で家事労働を分担してやる場合、互いの家事労働のクオリティの方にも目がいってしまう。
例えば、女性が手を抜かずに料理を作っている一方で、旦那の掃除が荒くて隅々まで掃除が出来ていないとなれば、その部分に目がいってしまう。
『私は、ちゃんとやっているのに、旦那はサボっている』(当然ながら、逆もありうる)という状態になれば、軋轢も生じてしまうでしょう。

家事は自分たちで行わなければならないのだろうか?

ここまで考えて思うことは、『はたして、家事って自分たちで行わなければならないのか?』という事です。
東南アジアの国々、例えばタイなどでは、そもそも家では料理をつくることは無いようです。
家事労働の中でも代表格である料理をやらずに、どうやって食べていっているのかというと、外食です。

テレビ旅番組などを観ると、東南アジアの風物詩のように屋台が映し出されて、色んな種類の食材が売られている映像などが流れますが、調理されたものを購入したり外食するのが基本で、食材を購入してきて、家で作るという行為その物を行わないようです。
外食が基本で、家では調理を行わないという事は、家に『キッチン』が必要ないということにも繋がります。その為、タイでは賃貸や販売用の家でも、最初からキッチンが作られていないという家も多いようです。

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家事のアウトソーシングで省かれる無駄

先程、料理を作らないで良いから、キッチンが必要ないという話をしましたが、これは、他の事でも同じです。
例えば、疲れを取るために入る風呂ですが、風呂を清潔に保つためには、定期的に掃除をしなければならないわけですが、これがかなりの重労働です。
掃除を怠れば、そこら中に石鹸カスや垢で汚れますし、換気を怠れば、カビだらけになってしまいます。

しかし、家で風呂に入るという行為を放棄して、毎日、風呂屋に行くという選択をしたとしましょう。
すると、その選択をするだけで、風呂掃除から開放されるだけでなく、風呂そのものが家から必要なくなる為、その空間を別の用途で使用することが出来るようになります。
現代では、風呂屋というものが減少傾向ですが、その代わり、スポーツジムが大量に増殖している状態です。 スポーツジムには風呂やサウナが併設されている場合が殆どで、尚且、風呂やと違って月額料金なので、月額利用料さえ払ってしまえば、一ヶ月の間は入り放題になります。
スポーツジムで体を動かし、プールで泳ぎ、その上、サウナや風呂に入れる施設が1万円前後で利用できる時代。 家族全員で入ると、家族割引などが適応される施設も有るので、日々の風呂掃除などを考えると、十分、検討に値する施設と言えます
これは、一人暮らしの賃貸の場合、更に有効です。 賃貸で物件を借りる際に、敢えて、風呂なし物件を借りて近所のスポーツジムと契約すると、風呂有り物件と同じ様な金額で、サウナとプールとスポーツジムが付いてくる事になります。

金銭面的にはどうなんだろう

『食事は全部、外食で済ませる』『風呂は外に入りに行く』と生活習慣を変えるだけで、料理と風呂掃除から開放されるということを書いてきましたが、金銭面的にはどうなんでしょうか。
これは、今現在の環境で言えば、家で自分で料理を作って、家で風呂に入る方が、安上がりという事になるでしょう。現状のままでは、私が考えたことは、金持ちだけが出来る生活という事です。

しかし、これを全国民が行ったとしたら、どうでしょうか。
風呂屋の料金が微妙に高く、毎日はいると1万円を超える値段になってしまうのは、燃料費の高騰という事も有るでしょうが、根本的には、家風呂が定着し、風呂屋の客が減少したのを埋める為の値上げと考えるのが妥当でしょう。
今でも、湯を沸かすのに重油を使わず、解体屋から木材を譲ってもらって、それを燃やしている風呂屋も多い為、燃料費だけで、昔と比べて料金が倍近くに上昇したとは考えられません。 客の減少が大きな理由でしょう。
値上げの根本原因が客離れであるのなら、全国民が施設を利用することで需要が増えれば、値段は下がる可能性が高いでしょう。

これは、飲食店も同じだと思われます。
例えば、町内60人が住んでいる町内にに1件の飲食店が有ったとして、町内の人が毎日、同じ町内の飲食店に行くとした場合、その飲食店は最低限の売上が確保される為、効率化を行うことが出来ます。
同じ人が毎日来る事が前提であれば、月に定額を支払う事で、朝昼晩の食事を一ヶ月提供するなんてサービスも出来るかもしれません。

全員が料理を作らないと決断する事で、今現在の支出とほぼ変わりがない金額で、料理を外注する事も可能になるかもしれません。

家事のアウトソーシングは他にも波及する

家事のアウトソーシングによって効率化するのは、家庭内の手間だけではなく、社会全体も、より効率良くなる可能性が有ります。
例えば飲食店の例でいえば、今までは、各家庭が食材を購入して料理し、ゴミを各家庭で出していたわけですが、全員が飲食店に食べに行くとなると、基本的に生ゴミは家庭から出なくなります。
また、ゴミの量全般が激減するでしょうから、ゴミ収集車の巡回回数を減らすことが可能です。

その一方で、飲食店からのゴミの量は増えるわけですが、この量は、各家庭が各自で料理を作った際に出るゴミの量よりも、確実に減るでしょう。
家庭の場合は、安いからという理由で購入したけれども、存在を忘れて冷蔵庫の中で腐って発見されるなんて事は結構よく有ることですが、プロが事業として行う場合は、その様な事は激減します。

また、料理を飲食店が一手に引き受ける事で、食材の流通の仕方も変わるでしょう。
今現在は、スーパーが不特定多数の人に向けて販売する為に商品を仕入れているわけですが、誰がどれ位購入するか分からない状態で、販売機会を減らさないような仕入れを行う為、基本的は余るように仕入れます。
余った部分は廃棄されるわけですが、一般人が料理をしないと決断すれば、販売ロスの様なムダはなくなります。 ここで誤解しないで欲しいのは、食品ゴミがゼロになるといっているわけではありません。 各家庭が各自で食材を購入し、料理をした際に出るゴミの総量よりも、飲食店が家庭の代わりに料理を作った際に出るゴミの総量の方が少なくなるという話です。

人手不足問題の解消

ここで、『今話題の人手不足問題は大丈夫か?』と思う人も出てくるでしょう。 日本の飲食店はブラックが多く、なかなか人が集まらないという話は、結構聞きますからね。
この問題を考えるには、『何故、飲食店はブラックなのか』を考える必要があると思います。結果からいえば、飲食店は供給過多だからです。

料理をつくって提供する店の場合、余程、工夫しない限りは、店をまわすのに最低限の人数のスタッフが必要になりますが、そのスタッフに十分な給料を払えない程に売上が低いから、低い時給しか提示できない。
時給は低いけれども拘束時間は長いので、当然のように応募が少なく人手不足にはなるが、そもそも売上がない為、時給をあげることが出来ないというのが、根本的な問題でしょう

しかし、国民全員が毎日外食するとなれば、需要が激増します。
そうすると、供給過多の飲食店は一気に供給不足の状態になる為、業績が回復する店も続出するでしょう。
業績が回復すれば、労働に見合った給料を提示できるようになる為、人手不足も解消しますし、雇う人数を増やせば、シフトを細かく区切ることが可能になる為、長時間の拘束もなくなります。
また、この分野での人手不足が解消し、最低賃金の水準が徐々に上がれば、それは他の業態にも派生するでしょうから、一気に、様々な問題が解決する可能性も秘めています。

まとめ

この様に、家事のアウトソーシングをする事で、家庭内では、単純に家事労働から開放されて時間敵余裕が出来るだけでなく、家からキッチンやお風呂場といったスペースが排除でき、スペースを有効活用できるという利点が有ります。
また、食品の流通やゴミ問題なども効率化され、地球環境にとっても好ましい状態になるかもしれません。
それに加えて、大量の需要を生み出すことが可能になり、その需要によって、経済を再浮上させる可能性も有ります。

こうして考えると、家事は各自で行わなければならないという価値観そのものを、変える時期に来ているのかもしれませんね。

ジュリー騒動を受けて アーティストのライブについて考えてみる

ここ数日(2018年10月末)、ジュリーのコンサートドタキャン問題で結構騒がれていますね。
騒動を簡単にまとめると、70歳記念ツアーの一つが『さいたまスーパーアリーナ』で行われる予定だったのですが、それが当日になって中止になったという騒動。
中止になった理由も、体調不良などの理由ではなく、観客が9000人の予定だったのに、7000人しか集まらなかったという理由で中止を決定したという話。

この話を受けて、『せっかく客が来てくれているんだから、その客のためにもやるべき!』という多くの意見がネットなどで発信され、『ワガママ』とか『老害』などの誹謗中傷で盛り上がる状態になってしまいました。

私がこの話を初めて聞いた時の第一印象も、『このツアーの為に、地方から来ている人もいるのにな…』といったものだったのですが、理由を聴いて、中止の決定に納得してしまいました。
という事で今回は、その納得した理由を書いていこうと思います。

ライブとは何なのか

まず、『せっかく客が来てくれているんだから、その客の為にも開演すべきだ!』という方は、ライブというものを、どの様に捉えているのでしょうか。
ライブとは、歌手が歌を歌い、それを客が聴きに行くというだけのイベントなのでしょうか。

ライブが単純に、お金と引き換えに歌手の歌声だけを提供する為のサービスであるのなら、歌手はそのサービス業に従事する労働者という事になります。
既に、ライブ観覧の引換券であるチケットは販売済なのですから、その消費者のために、サービスを提供するというのは当然のことでしょう。

しかしライブとは、そもそも、その様なものなのでしょうか?
この騒動の問題を考えるために、まずは、ライブとは何なのかという根本的な部分から考えていきます

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ライブ中止の知らせを受けて怒った人は、アーティストのライブというのを商品として捉えていて、商品の代金を先払いしているにも関わらず、商品の提供がキャンセルされたという感じの理屈で怒っているのでしょう。
もし仮に、アーティストであるジュリー側もこの様に考えていたのであれば、コンサートの中止には至っていなかったと思います。
では何故、中止になったのかというと、アーティストとしてのジュリーは、ライブを歌声を提供するだけのサービス商品とは捉えていなかったからでしょう。

では、どの様に捉えていたのかというと、一種の空間演出と捉えていて、その空間演出に必要なのが、大半の客席が埋まっているという状態だったのでしょう。
ほぼ、全ての席が観客で埋まり、その熱気の中で歌うという、ライブ会場全体の空間そのものの演出、その演出を体験してもらうことがライブだと捉えていたが、観客の入りが少なかった為、演出に不可欠な材料が欠けた状態で当日になってしまった。
このままでは、お客さんに体験してもらいたいと思っていた空間そのものが作れないので、中止にしたのでしょう。

今回の件では、『プロとしてありえない!』といった批判もありますが、ライブというのが空間そのものの演出と考えるのであれば、不完全なものを提供して料金を取るほうがプロとしてどうかしているとも考えられます。

例えば、開店前から行列ができるような人気のラーメン屋が有ったとして、そこの店主がスープ作りを失敗してしまった場合を考えてみましょう。
開店時間が迫り、スープを1から作り直す時間も無い場合に、勇気を持って臨時休業にするのか、それとも、不味いと分かっていながら、出来損ないのスープを使った不完全なラーメンを提供するのか。どちらが、プロなのでしょうか。
店主が臨時休業を選んだとして、『せっかく来てくれて開店前から並んでいるお客さんが可愛そう! 私なら、ラーメン提供するのに! ラーメン屋って、そんなに偉いものなの?』なんて批判が出来るでしょうか?

誰に責任がるのか問題

今回の件では、ジュリーが矢面に立って批判され続けているのですが、本当に問題が有るのは、イベント企画運営会社や沢田さんの事務所の社員の方だと思います。
そもそも今回のライブですが、沢田さん自身が『さいたまスーパーアリーナでやりたい!』って言ったのでしょうか?
もし自分が会場を選んで、その会場を埋められなかったからと言ってキャンセルしたのならワガママかも知れません。しかし、本人以外の人達が、より多くのお金を儲ける為に、本人の要望を無視する形で大きな会場を予約したとしたらどうでしょう。

1万人が収容できる会場と、4万人近い人間が収容できる会場のレンタル費用が、それほど変わらないのであれば、イベント企画会社は、より多くの人数を収容できる会場を押さえた方が、チケット販売の伸びしろがある為、大きく儲けられる可能性が出てきます。
自分たちの利益を優先して、アーティスト本人の『客席が埋まった状態にして欲しい』という要望を軽視したのであれば、イベンターが悪いのであって、本人は悪くないですよね。

また、沢田さんが所属する事務所も、ライブを入れすぎのような気がします。
スケジュールを観てみると、だいたい3日に一回のペースでライブの予定が入っている状況で、年間で100近い公演を行っています。
http://www.co-colo.com/live/2018tour/2018tour.html
こんなペースでやっていて、4万人近い会場を借りる方がどうかしていると思いますし、アーティストを酷使しすぎだとも思います。
このペースについては、事務所の方針なのか、沢田さんの希望で行われているかがわからないので、余り責めることは出来ませんけれどもね。

誰が批判しているのか

この事は、当事者である現地に観に行ったファンには、ある程度伝わっている為か、ファンからの苦情というのはそれほど耳にしません。
これは、メディアがジュリー支持だから、その様なインタビューだけ取っているという可能性もありますが、Twitterなどでも、私が観ている範囲では、ファンからの苦情というものは目にしませんでした。

まぁ、50年近くに渡ってファンをやっている人にとっては、沢田研二さんという方は、こだわりが強い事も当然の様に承知しているでしょうし、ドタキャンは今回が初めての出来事ではなく、同じ理由で前にも一回ドタキャンしているので、ドタキャンで文句を言って離れる人は、とっくの昔に離れていっているのでしょう。
批判をする人は『ファンの為にもやるべきだろう!』といって怒ってるわけですが、その迷惑を被ったはずの当事者のファンは、納得している人が大半という状態になっている。

では、誰が文句を言ったり批判をしたりしているのかというと、沢田研二さんを特に追いかけていなかった人や、今回の件で初めて知ったような人や、思い出した人達が、ライブのチケットを購入したわけでもないのに、よくわからない正義感から怒りを露わにしているだけなんですよね。
その正義感も、身近にいる人が被害にあったからと言ったことではなく、正義感あふれる意見をTwitterに書く事で良い人アピールしたいといっただけなのでしょう。

この騒動を改めて振り返ってみると、そもそもファンでもなく、自分達に対して興味がなかった人達が、自身の善人アピールの為だけに、この出来事を利用されているという状態にしか感じないんですよね。

アートと資本主義

少し前のことですが、バンクシーというアーティストが、自分の作品がオークションで競り落とされた直後に、事前に作品内に仕込んでいたシュレッダーで作品を裁断するという事がありました。
その事を受けて、私自身が思った事をブログに書いてみたのですが…
kimniy8.hatenablog.com

私自身の文章を書く能力が低いということも有ってか、誤解をされて受け止められている方も少なからずおられるようなので、もう一度、この事について書いていこうと思います。

伝えたかったことはアーティスト批判ではないという事

前に書いた投稿では、主語を明確にしていなかった為か、アーティストを含む美術界全般を批判しているような受け止め方をされた方も、少なくない人数でおられる事でしょうが…
私が批判したかったのは、自分の気持などを作品に込めて発表しているアーティスト・クリエイターの方々ではなく、出来上がった商品を、金を生み出す道具のように扱っている人達の事です。

例えば、前回、デュシャンの名前を出して、『便器に名前をつけただけで美術品になった』という形で紹介しましたが、これは、デュシャンという人物を批判する為に出したわけではありません。
この作品を通して、問題提起をしたかったというのは批判しませんし、この作品を通して、物事を考える切っ掛けになったという人も多いでしょう。その事について批判はしませんし、やったことに対しては、『凄いな』とも思います。

このデュシャンが市販の便器にサインをしたことで出来た『泉』という作品は、本人が伝えたかったメッセージというのも有るでしょうし、評論家による解釈というのも有るでしょうが、単純に、その行動そのものが考えさせられるものです。
私が『泉』というアートの存在を知った際に感じたことは、『アートとは何なのか?』という素朴な問題提議です。
名の通ったアーティストが、既成品として作られた便器を指さして、『私が、これをアートと認めたからアートだ』と言いだし、便器にサインをして、アートとして主張し、そのプレゼンが通って、実際に賞をとる。
そして、美術館には『既成品として作られた便器』が飾れれる。

では、『既成品として作られた便器』そのものは、サインが付けられた以外に変化したのかというと、そうではない。
便器が置かれる場所が、美術館の展示室かトイレかといった変化は有ったでしょうが、『既成品として作られた便器』そのものの存在が変化したわけではない。
しかし、実際にプレゼンをして賞を取ったことで、その便器の価値は確実に変わっているわけで、それによって、それを見る人達の目も変わる。
では、『何が変わったのか?』といった、哲学的な問いを感じました。

また、その他にも、『プレゼンがしっかりしていて、アートの中にメッセージが込められていれば、お前たちは便器ですらも美術品として扱うんだろう?』といった、ちょっとした嫌味も感じ取れましたし、美術館という『美しいもの』や『技工が素晴らしいもの』などを飾る場に、糞尿を受け止めるだけの目的で作られた『既成品の便器』を敢えて選んだのも、皮肉が効いていて良いと思いました。

この解釈が正しいのかどうかは分かりませんが、とにかく、一つの作品を通して、これだけの問いを投げかけられたのだから、その『泉』と名付けられたアートは、意味のあるものだと思いますし、価値も有るものだと思います。

バンクシーの絵の裁断問題も、根本的な部分は、この『泉』と同じで、単純ないたずらではなく、現状の美術界に対するアンチテーゼとしての行動だったんだと思います。
資本家は、美術に興味があるフリをして、自身の財産の保全の為に安全資産として、また、長期的に儲けるために、オークションを通して美術品という名の資産を購入するわけですが、その資産家に対して、『このアートは、オークションで競り落とされた瞬間に裁断される事で完成する。資産家が多額の資産を投じて購入した「モノ」が無くなる感情も含めて作品だ。』とした際に、その資産家は、また、美術をお金に変えてしまうシステムは、どの様な反応をするのだろう? といった皮肉が込められていたのだと思います。
私のように資産を持たず、美術をお金を増やすシステムとしか観ていないような人に対して『モヤッ』とした感情を持つ人間は、絵が裁断されていくあの映像を観て、スカッと&爽やかな笑いがこみ上げてきましたが、あのパフォーマンスそのものがメッセージであり、アートだと主張されれば、それはそれで納得しますし、その行動には価値があると思います。

では、前回書いた投稿で、私が何を批判したかったのかというと、それらのメッセージをお金に変換してしまうシステムに対してです。

美術と資本主義

上記で紹介した投稿では、冒頭部分で、
『今回の件では、誰も損をしていない。
むしろ、絵がシュレッダーで破壊されたことによって、1点ものになった事で、むしろ価値が上昇した。
関わった全員がハッピーになる演出で、流石、バンクシーって感じですね。』
と笑顔でインタビューに答えた、美術評論家の映像を観て、『モヤッ』としたと書きましたが、私が批判しているのは、こんな発言を笑顔でしてしまう、事象美術評論家の人たちの事です。
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バンクシーのあの裁断事件は、オークションであったり、そのオークションを成立させる為に、必要以上にアートを価値有るものと祭り上げて、金額を釣り上げているシステムや、それに関わる人達に対する批判のメッセージも含まれていたと思います。
自分たちが批判されている、もっと言えば、喧嘩を売られているにも関わらず、笑顔で『更に価値が上がってラッキー!』なんて言えるのは、そこに込められているメッセージが理解できていないか、そもそもメッセージなんてどうでも良くて、そのアートが生み出す金額にしか興味が無いかのどちらかとしか思えないんです。

仮に、あの絵の購入者であったりオークション主催者が、バンクシーに対して怒りを露わにするといった行動を取っていれば、少なくとも私は、この様な『モヤッ』とした気持ちは沸き起こって来なかったのかもしれません。
しかし、美術関係者の多くの人が『裁断されたことで、むしろ価値が上がった!』といってしまった。
これは、オークションという場を利用した新たな表現方法が生まれたから、価値が上昇したのか。 それとも、オークションで落札されたものが『無価値』になってしまうと、今後のオークション運営に支障をきたすから、逆に価値が上がったことにして、購入者の資産を守ったのか。

笑顔で『裁断されて逆に価値が上がって、誰も損してない!』と言い切る美術評論家の映像を見た私の目には、アートに込められたメッセージが凄いからというよりも、オークションという制度を守りたいから、そう答えざるを得なかたようにしか見えず、『モヤッ』とした感情を抱いてしまったのです。
少なくとも、バンクシーは資本家を、より、肥え太らせる耐えにパフォーマンスを行ったわけではなく、現状のシステムに疑問を呈する為に行動を起こしたのだと思うのですが、それすらも、資産の価値を保証する為の物語に利用されている点が、何か、納得がいかないのです。

1500万メリット

この私の『モヤッ』とした気持ちを代弁してくれているような映像作品が有るので、私の気持ちを、より具体的に分かってもらう為に紹介します。その作品とは、海外ドラマ『ブラックミラー』の『1500万メリット』というエピソードです。以後、ネタバレを含みますので、まだ見ていない方で、これから見る予定が有る方は注意してください。
ブラックミラーは、SF版の世にも奇妙な物語のようなドラマで、1話完結で独自の世界を観せてくれるのですが、『1500万メリット』は、完全管理社会の話です。

『1500万メリット』の世界では、殆どの人々は、電力を発生させるために行きています。 電力を作る方法は、自転車型の発電機で、1日で決まった量以上の電力を作ることを強制されます。
ただ、この義務にはリターンもあり、生み出した電力をポイントにして、通貨のように使用することが出来ます。 自転車型の発電機にはモニターが付いている為、見たい動画チャンネルやゲームなどをポイントを消費して購入する事が出来ます。
そして、そのポイントを数千万レベルで貯めると、動画チャンネルの出演者に成る事ができるかもしれないオーディションの挑戦権を購入することが出来ます。
動画チャンネルを持てれば、視聴者数に応じてポイントが貰える為、もう、自転車を漕ぐ必要もなく、自由な暮らしをする事ができるという世界。

そんな世界で主人公の青年は、ポイントを特に使うこともなく、ただ貯めていたのですが、同じ様に発電作業をしている女性に好意をもつようになり、その女性の夢である、歌手になって自分のチャンネルを持ちたいという夢を応援する為に、自分のポイントを託します。
その女性は、オーディションで得意の歌を披露し、高評価を得たのですが、オーディションの主催者側から、『君の歌は素晴らしいが、歌手は十分過ぎるほど足りている。ポルノ女優であれば、空きがあるよ。』と言われ、周りの観客の空気感が生み出す圧力に押され、ポルノ女優になってしまいます。

主人公の青年は、それを機に、このシステムに疑問を持つようになり、今度は自分でオーディションを受ける為に、再び数千万のポイントを貯めます。
そして、ダンスを披露すると嘘をついてオーディション会場に行き、その会場で、自身の首筋に武器であるガラスの破片を当てて、少しでも邪魔が入りそうになると自殺できるような状態にで、システムに対する不満をぶち撒けます。
オーディションを否定し、完全管理システムを否定し、命をかけて、『現状はおかしい!』と訴えます。

すると、オーディションの主催者側が、こう言います。
『君のメッセージは良くわかった。 君の言葉は、心に突き刺さる!人を動かす! どうだ? 君のそのメッセージを伝える動画チャンネルを持たないか?』

命をかけたメッセージでさえも、お金を得る為のパフォーマンスにされてしまう。システムを否定しているのに、そのシステムに取り込まれてしまう…
この『モヤッ』とした感じ、分かってもらえるでしょうか。

他の分野でも同じ様な事が

これは、美術界に限ったことでは無く、似たようなケースは他のジャンルでも起こっている事です。例えば最近で言えば、ウィスキー市場がそう。
お酒の中でも、ビールやワインは、なんとなく消費者との距離が近いからか、消費量もそれなりにある一方で、ウィスキーというのは、それらと比べると、少し敬遠されがちのお酒です。
このままではシェアも増やせないし、このまま衰退していくと、ウィスキーという文化そのものが無くなってしまうかもしれない。

何とか、ウィスキーというお酒を身近にする為に、メーカーは、ビールと似た感じで呑みやすいハイボールを押し、それをCMで流す。 CMの内容も、若い人に訴求するような感じの作りにし、できるだけ多くの人に楽しんでもらえるように工夫しています。
またCMだけでなく、飲食店などと協力しキャンペーンなどを行ったり、できるだけ多くの人に楽しんでもらえるように、値段を安価に抑えたりと、様々な工夫をしています。

しかし、そんな最中、ウィスキーブームが来てしまいました。 このブームによって、ウィスキーの価格は暴投し、その暴投を見て、転売ヤーが市場のお酒を買い占め、更なる供給不足に陥ってしまいました。
そうなってくると困るのは、メーカーと飲食店です。
今まで、より多くの人に楽しんでもらう為に、努力してきたのに、資産家が自身の資産を増やす為に買い占めを行ったことにより、本当に呑んで欲しい消費者の元へ届くことはなく、転売ヤーの倉庫の中で眠っているという状況になりました。
市場に出ている量そのものも減少し、市場価格も上がっている為、店で出す場合の単価も上昇し、結果的にウィスキーは、庶民の手には届かない呑み物へと変わっていってしまいました。

こうなると、メーカーとタッグを組んで、ウィスキーをメインで出していた飲食店は、ウリとなる商品をウィスキーから他のものに変えざるをえず、結果として、ウィスキーを楽しむ文化というのは衰退していく事になります。

これは、アートも同じだと思います。
アーティストの多くは、例え庶民であっても、アートと触れ合う機会が増えたほうが良いと思っているでしょうし、例え資産家でなくとも、家に絵画やオブジェなどのアートが2~3個ぐらいあるのが普通といった状態になっていった方が、アートの裾野も広がって、良いと考えているのではないでしょうか。
しかし、資産家が一部のアートを数十億という値段で落札し続ける状況をテレビ画面を通して見せられ続けると、『アートって、庶民には関係が無いものなんだね。 金持ちの道楽だ。』と思う人が増えてしまうように思えます。

そもそもアートは、資産家の資産を増やす為の錬金素材ではなく、生活や心を豊かにしてくれるもののはずで、もっと身近であるべきものだと思います。
しかし、オークションを始めとした何にでも金額を付けてお金に変えてしまうシステムによって、価格は釣り上げられ、価格が上昇するという状況を資本家に利用され、庶民からはどんどんと遠い存在へとかけ離れて行ってしまっているように思います。

この様な現状を、表現を発信する側のアーティストは、求めているのでしょうか?

資本主義である以上、アーティストの作品は売れないと、作家の生活は成り立ちませんので、値段が付くことそのものに全面的に反対をしているわけではないのです。
ただ、一部の資産家の資産保全の為だけに、アーティストのメッセージや作品が利用され、錬金素材になってしまい、結果として、アートが庶民からどんどんと離れてしまっている現状に、『モヤッ』としてしまったのです。

もし、前回の投稿を読まれた方の中に、アーティストの方がいて、気分を害されたのであれば、謝ります。
前回の投稿は主語が大きすぎるために、美術界全般を批判しているように思えるので、その様に誤解されてしまったとしても仕方のない事だと思います。
ただ、前回、私が本当に批判したかった事は、何でもお金に変えてしまうシステムと、それを利用して資産を効率よく増やそうと考えている一部の資産家であって、作品を制作しているアーティストそのものではないという事を理解していただけたらなと思います。

【アニメ・ネタバレ感想】『天元突破グレンラガン』 重いテーマをノリと勢いで走り抜くようなスポ根ロボットモノ 

この間、映画系のネットラジオにゲスト出演する事になりました。
wataradi.seesaa.net
今回は、その際に取り扱った2007年に放映されたアニメ、『天元突破グレンラガン』の紹介をしようと思います

『ネタバレあり』の簡単なあらすじ

一番最初は宇宙大戦のような雰囲気で始まるが、その直後にシーンが変わり、モグラのように地中の中で暮らす人類が映し出される。
穴を横に掘り進めることで町の拡大を目指す村長は、村人に指示を出して穴を掘らせる毎日。 穴掘り名人である主人公のシモンも、そんな一人で、毎日、穴掘りに精を出すが、そんな作業中に大きな顔型のロボットと小さくキレイなドリルを発見する。

一方、地中の生活に嫌気が差していた、シモンの兄貴分のカミナは、天井の岩盤の向こう側に有るといわれている地上を目指し、穴掘り名人である弟分のシモンを連れて地上を目指すが、村長に阻止されるという日々を過ごしていた。
そんなある日、いつものようにカミナ達が騒ぎを起こしていると、天井の岩盤をぶち破って、大きな顔の形をしたロボット『ガンメン』と、それと戦う少女が落ちてくる。
事情が分からないなりに、空から落ちてきたヨーコと共闘。シモンが見つけた小型の『ガンメン』を駆使して、何とか勝利し、その勢いで地上に飛び出す2人。

今まで見たことがないような風景にテンションが上がる2人だが、すぐに、地上がユートピアでは無く、ガンメンに乗る獣人が支配する殺伐とした場所だということがわかる。
獣人達は、地上に上がってきた人間を始末する役割を負って迫ってくる。 技術力や単純な身体能力で圧倒される人類だが、『気合』で対抗するカミナ達人類。
その気合に呼応するように、他の人類も気合で頑張り、獣人たちを押しのけて、ついに、ガンメン達を送り出している基地まで辿り着く。

基地までたどり着いてみると、ガンメン達を送り出していた基地は、獣人の四天王が支配する巨大ガンメンだったことが判明。
カミナとシモンは、巨大ガンメンの乗っ取り計画を実行し、7日かけてようやく、基地の奪取に成功する。 カミナという大きすぎる犠牲を払って…

巨大ガンメン『大グレン』を手に入れ、生活は今までと比べて飛躍的に改善したが、カミナという存在が大きすぎるリーダーを失って、意気消沈するグレン団。
そこに、容赦なく襲いかかる四天王達。 この戦いの最中、シモンは『ニア』という一人の少女と出会う。
獣人の対象である螺旋王の娘『ニア』は、父親によって捨てられ、それをシモンが助ける形になったのだが、このニアが、カミナを失って心に大きな穴を開けたシモンの心の隙間を埋めていく。

そして、四天王の全てを打ち破る頃には、カミナの死を受けいれて乗り越え、グレン団のリーダーとなったシモンの姿があった。
リーダーとなったシモンは、グレン団を率いて螺旋王の元へと行き、7日かけて王都を陥落させ、螺旋王を打ち取る。
討ち取られた螺旋王は、『地上が100万匹の猿で埋め尽くされた時、月は地獄の使者となって襲ってくる』という予言を残し。壮絶な最後を迎える。

螺旋王を退けた人類は、王都に人類の町を作り、7年かけて発展させ、地上での生活を謳歌している。
しかし、順風満帆家といえばそうではなく、グレン団の中枢部分の人間は、軍人としては優れていたが、政治家としては優れておらず、革命後に建国された政府の中で軋轢が。
知略派のロシウは、武闘派の革命軍幹部を聖剣の中心から外し、その代表であるシモンを裁判にかけて死刑判決を下し、ロシウが新政府代表に就く。

そんな状態の時に、地上の人類の数が100万人を超えてしまい、ヒロインのニアがアンチスパイラルのメッセンジャーとして覚醒する。
アンチスパイラルとは、進化の果にある破滅を避けようとする思想を持つ者。 たった7年で、穴ぐら生活から宇宙を目指せるほどの科学力を身に着けた螺旋族を監視し、必要とあらば、滅ぼそうとしていた者。
穴ぐら生活では螺旋力が発揮されず進化もしなかった人類が、進化の可能性がある地上に100万人出てきた事がトリガーとなり、人類に襲いかかる。

こんな事もあろうかと、意味深な予言を残したロージェノムの肉体を回収し、遺伝子情報を解析して生体コンピューター化していたロシウは、対抗策を探り、人類を救う方法を必死に探る中で、数十万人の人間と食料を積み込むことができる巨大戦艦が存在することが判明。
そしてロシウは、この巨大戦艦『アークグレン』を地球からの脱出艇とし、『可能な限りの人類を救済する』という確固たる意思の元、例え少数の犠牲を出したとしても、常に最大人数の命を助ける決断を瞬時に下してゆく。

一方、死刑判決を受けたシモンは、刑が執行されないままに、ライバルであるヴィラルと共に地下牢獄に放置されていた。それを助け出す、元革命軍幹部たち。
地球のピンチが迫るという事で、元は敵対していた好敵手のヴィラルと手を結び、グレンラガンに乗り込む2人。

時を同じくして、地球を脱出した大勢の市民が乗り込んでいるアークグレンだが、そこに、宇宙空間で待ち伏せしていたアンチスパイラル襲いかかる。
アンチスパイラル側の圧倒的な戦力に、アークグレンに乗る市民を絶望が襲うが、そこに駆けつけた、グレンラガンを始めとした革命軍幹部が、それを払拭する。
しかし、敵も最大戦力を投入して、これに対抗。 追い詰められたシモンは、グレンラガンをドリル型に変形し、アークグレンと合体。 アークグレンラガンとなって、アンチスパイラルを殲滅する。

地球に一時的な平穏が戻るが、アンチスパイラルの本体を倒したわけではなく、脅威が去ったとは言い切れないので、地球をロシウに任せ、敵の本陣に攻め込むことを決意する、シモン達。
天も次元も突破して、多次元世界迷宮をも超え、ついに、アンチスパイラルのテリトリーにまで到達し。両者はついに、激突する。

ギャップの面白さ

この作品の面白さは、なんといっても、そのギャップだと思います。
突き抜けて明るく勢いのある部分と、暗く悲しい部分が交互に繰り返される構造になっていて、繰り返されることで、両者がより強調されています。
反対のものをぶつけるというのは他の部分でも行われていて、例えば、挿入される音楽が、ラップとオペラを融合させたような音楽であったり、敵の雑兵を3Dで表現し、一方で味方のロボットを2Dで表現したりしている。

グレンラガンの攻撃や防御方法、移動方法も、一見するとメチャクチャに見えるが、実際には、量子論などで理論の補強がしてあり、大雑把な演出に細かい気配りと、ギャップのある演出となっている。

もっと大きなところで言えば、物語全体を通して『おふざけ感』が漂っていたりするのですが、メインとなっているテーマそのものは、かなり重いものだったりします。
ここ最近の映画で言えば、インフィニティウォーであったり、少し昔なら、ウォッチメンに通ずるテーマを、子供でも楽しんで観られるアニメにまで落とし込んでいたりするところに、凄さを感じます。

メインテーマ

この作品に登場する敵は、単純な『悪』ではなく、その行動の全てに理由があったりします。その理由というのが、歯向かってくる主人公たちを守る為。
最初に敵の大将として登場する螺旋王は、アンチスパイラルから人類を守るために、全ての人類を地下に押し込めてアンチスパイラルの索敵に引っかからないようにしていますし、アンチスパイラルは、進化のはてに訪れるスパイラルネメシスを防ぐ為に、進化の可能性を閉じ込めます。

では、科学力・武力共に最強のアンチスパイラルが恐れる、『スパイラルネメシス』とは何なのかというと、進化の果に訪れる宇宙の崩壊です。
人類を含め、体の中に螺旋構造を持つ種族である螺旋族は、その性質上、無限の進化を続けて無限のものを生み出すことが可能になるのですが、1人の螺旋族が生み出す質量は最終的には銀河に匹敵するようになり、それらの質量が結合してしまうことで、宇宙は巨大なブラックホールとなってしまい、結果的には全てがブラックホールに飲み込まれて宇宙自体がなくなってしまうというもの。
螺旋族は、1回転すれば前に進むドリルのように進化する構造のため、その衝動は抑えられない。 その為、アンチスパイラルは外側からの圧力で、螺旋族の進化を阻害することで、宇宙を延命しようとする。

螺旋王やアンチスパイラルの行動は、人類の全滅を避ける為に行った大人な判断と保護だったわけですが、それは、主人公である子どもたちによって打ち壊されます。
親から子へ、子から孫へと、代を重ねる毎に螺旋のように前に進む螺旋族は、大人世代の古い価値観をぶち破り、新たな価値観によって解決法を考えるという決断を下す。
悲しいことに、具体的な解決方法は提示されず、それを全宇宙で考えるという結末でしたが、エヴァの様に答えが出ないままにずっと続くよりは、未来に続く道を模索しながら進んでいくというラストは、これはこれで良かったのかもしれない。

変わってゆくリーダー

この物語は4部構成なのですが、それぞれで人類を率いるリーダーが変わります。
一番最初の、人類が何を目指せばよいのかがわからない状態のときには、理想を語って人々に希望を与える『カミナ』という兄貴分がリーダーとなり、明確な目的が出来た2部では、着実に行動を起こして結果を残していく『シモン』がリーダーに。

そして、一難去って平和が訪れて、現状の維持を最優先にしなければならない3部では、冷酷な判断も含めた決断ができる『ロシウ』がリーダーに。
その後、さらなる脅威を打倒するという目標が明確になった際には、再び、行動して実現させる『シモン』がリーダーとなる。
この中でも、一番、不遇なのはロシウのようにも思えました。
ロシウは、人類ができるだけ多く生き残る決断を下し続けるキャラクターとして登場し、6割の人間を助けるために4割の人間を見殺しにするという様な決断を次々に下していきます。
事情がわかっている人間にとっては、苦しい立場にいる人物だということが分かりますが、そうでない人間にとっては冷血漢として扱われます。
しかも、決断を行わなければならないリーダーは、その決断が間違っていたときには、その責任を自らとらなければならない・・・
一見、コミカルに映るこの作品で、この様なキャラを物語の半ばでメインに持って来る辺りが、かなり考えさせられます。

『ぼくのかんがえたさいきょうロボット』

いろいろと書いてきましたが、この作品の一番の魅力は、突き抜けたインフレです。
少年漫画やアニメのバトルモノでは、強敵を倒すと更なる強敵が出てきて…といった感じで、パワーインフレを起こしがちですが、この作品ではそのインフレを意図的に起こした結果、『ぼくのかんがえたさいきょうロボット』である、天元突破グレンラガンへと変化します。
そのデカさは銀河の3倍といわれ、打ち出す弾は『相手が躱す確率』をゼロにして、既に当たった弾を打ち出す確率変動弾。 それを、タイムレンジを広げて、現在・過去・未来に向かって同時に打つことができるという無茶な機体。

ちなみにですが、総集編的な位置づけの映画版では、それをも超える『超天元突破グレンラガン』というものも出てきます。
天元突破グレンラガンが、最強の武器であるギガドリルを展開した際の全長は、1兆五千億光年。現在確認されている宇宙の大きさが150億光年らしいので、その100倍の大きさ。
あまりに巨大すぎて、普通に動くだけで光速を超えてしまうため、物理法則を書き換えながら移動しているという凄まじさ。 おそらく、ロボットアニメ史上最強最大なので、一見の価値ありだと思います。

感想

根底にある部分のテーマそのものは、かなり深い作品にも関わらず、説教臭くならずに、子供でもノリと勢いで楽しんで見られるような作品になっていて、かなり楽しめました。
作品の流れに勢いをつけるためなのか、登場キャラクターが事ある毎にリズム良く啖呵を切るシーンは、観ていてかなり気持ちが良い。
また、30話に満たない話数で、宗教や革命、内乱といった、人類の歴史の重要な要素をすべて入れた上で、文明がない状態から未来の科学技術までを、自然な形で入れている点も、凄いと思いました。

かなり沢山の要素を入れているにも関わらず、ゴチャゴチャしすぎずに混乱しないような作りになっている。それでいて、観る度に新たな発見があるのも凄い。
一番最初に観た際には、無くポイントは3つぐらいだったのに、何度も見直すことで、泣けるポイントがどんどん増えていき、今では主題歌の『空色デイズ』を聞くだけで泣けてしまうほどにまでなってしまいました…

ロボットもので、深いテーマを扱いつつも、ギャグ要素を入れたスポ根ものといえば、『トップをねらえ!』というものがありますが、その流れを汲む作品何でしょうね。


ここまで、ネタバレ前回で書いておいてなんですが、アマゾンプライムで無料で観ることができる作品なので、まだ観ていない方は、これを機会に見てみてはいかがでしょうか。。
もう観たことが有る方は、見返してみてはどうでしょうか。

【映画 ネタバレ感想】『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ 天地大乱』 今だからこそ知りたい中国の歴史

この間、映画系のネットラジオにゲスト出演する事になりました。
wataradi.seesaa.net

今回は、その際に取り扱った1992年に公開された映画、『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ 天地大乱』のネタバレ感想を書いていきます。

当時の時代背景

この映画ですが、清朝末期が舞台になっていて、その当時の時代背景を知っているかどうかによって、面白さが随分と変わってしまうので、まずは、時代背景の説明を簡単にしていこうと思います。
先程も書きましたが、清朝末期で、ラストエンペラーとして有名な最後の皇帝が即位する数年前の話となります。


今当時の中国は、アヘン戦争を始めとして、何も悪いことをしていないにも関わらず、欧米や日本から、一方的に攻め込まれて領土や資源を奪われるという状態に置かれてしました。
例えばアヘン戦争では、イギリスが中国が輸出するお茶の金額が凄い事になり、その赤字を補填するために、中国に向けてアヘンを密輸するという方法で、帳尻を合わし、中国政府がそれに対して没収などのアクションを起こすと、逆ギレして攻め込んで、香港を奪い取るとかですね。

これを筆頭に、フランスや日本も攻め込んでいって、中国は最終的に8カ国からいい様に弄ばれることになります。
欧米が持ち込んだ、工場の自動化技術や鉄道によって、中国の失業者は増えて暮らしは悪くなる一方。 しかし、政府が補填してくれるわけでもない。
こういった状況に長く置かれると、中国国民は外国に対して悪い印象を持つことになり、また、救いの手を差し伸べてくれる宗教団体を頼るようになります。

支持を集めた宗教団体は、民衆からの支持を、より確固たるものにする為に、外国の施設に攻め込むなどのテロ行為をするようになります。
この映画は、そんな時代が舞台になっています。

ウォン・フェイフォン

主演のリー・リンチェイが演じる主人公のウォン・フェイフォンは、中国に実在した有名な人物です。
武術の達人で、あまりの蹴り技の鋭さから、付いたアダ名が『無影脚』。 本業は医者で、活かすことも殺すことも出来る完璧超人だったりします。

ちなみにですが、酔拳2でジャッキー・チェンが演じているのも、このウォン・フェイフォンです。
シリーズ6作品。 外伝として8作品。 中国ではTVシリーズも存在していたようで、今でいう、アメコミ映画のような立ち位置として扱われていたのかもしれませんね。
中国の方にとっては、ウォン・フェイフォンという方は、それ程までに影響力があるということなんでしょうかね。

白蓮教

この映画の冒頭部分は、白蓮教の儀式から始まります。
火の上を歩くとか、剣で切りつけても銃撃でも傷つかかない、最強の戦士が、白蓮教を信仰することで生み出されるというパフォーマンスが行われ、信者たちは、それを夢中になって見届けます。
ここに参加している信者の多くが、欧米や日本の中国進出によって職を奪われた貧困層という事を考えると、このパフォーマンスに騙されるのも、頷けるような気がします。

白蓮教は、支持を確固たるものにする為に、貧困層を苦しめている海外を象徴するような商品などを焼いて、信者たちを高揚させます。
映像を通して観ていると、誰にでも見破れるようなインチキ儀式ですが、貧困層の彼らにとっては、白蓮教ぐらいしか手を差し伸べてくれる組織がないという、悲しい環境が、伝わってくるようでした。

中華に雪崩込んでくる欧米文化

シーンが変わり、ウォン・フェイフォンが登場。医学学会で公演する為に、初めての電車に乗って遠征です。
電車の中には、ブルジョア階級と思われる外国人が多数で、ウォン・フェイフォンと弟子のフーは、完全にアウェイの状態。
初めての経験で、分からないことだらけだけれども、師匠が弟子の前で恥ずかしい振る舞いは出来ないという事で、ウォン・フェイフォンは余裕のあるフリをするわけですが、この辺りの演出がかなり可愛い。

はじめての欧米式のコース料理で、食べ方がわからないけれども、格好をつけなきゃ駄目だと一生懸命頑張るけれども、色々粗相をしてしまう師匠。
その行動が、間違ってるのかどうかも分からず、師匠の真似をする弟子のフー。それを、温かい目で見守る、ヨーロッパ帰りの叔母さんイー。
ほのぼのとした雰囲気の映像ですが、当時の中国人が、どの程度、欧米文化の事を知っていたのかというのが分かるシーンで、興味深いですね。

白蓮教との初接触

最寄り駅に着き、宿に向かう途中で、ウォン一行は電信所の破壊活動に向かう白蓮教に接触します。
白蓮教徒の目的は、外国由来のものや外国人そのものの排除なので、中国人のウォン達には関係がないのですが…
能天気な帰国子女の叔母さんが、洋服を着た状態で、白蓮教徒たちを写真で撮ろうとフラッシュを焚きます。

当時のフラッシュは、マグネシウムを燃やしていたんでしょう。その猛烈な光で叔母さんに気がついた白蓮教徒は、矛先を叔母さんの方に向け、それをウォン達が守ろうとして、戦闘が始まります。
周りの観客達は、外国組織と戦う白蓮教徒を好意的に観ているのですが、助けに入った人物が英雄のウォン・フェイフォンだと知り、ウォン達を応援。
英雄のウォンが無双して勝つわけですが、最後っ屁のように放った眠り薬が叔母さんに命中し、叔母さんが一時的に寝たきりになります。

孫文との出会い

本来、通訳してくれるはずの叔母さんが眠り薬で眠ってしまったので、仕方なく、フーと2人で学会に行くウォン。西洋医学の学会なので全て英語で進行し、全く意味がわかな無い2人がかなり可愛い。
自分の名前を呼ばれても気が付かず、3回程呼ばれて初めて気が付き、壇上に上がって経絡秘孔の図的なものを出して説明するが、誰も中国語がわからずにザワザワしだす会場。 そこへ、地震もい者として出席していた孫文が、通訳を申しです。
この孫文は、興中会という革命組織を作り、後に、民主革命を起こして中華民国の初の臨時大統領になる男だったりする。 そして、その革命でウォンの弟子たちが活躍したことで、師匠のウォンが更に有名になったという話もあるらしい。 ある意味、歴史的な出会いともいえますね。

孫文の助けによって、公演は大成功し、東洋医学が欧米に認められたのだけれど、その直後に、白蓮教に襲撃されて医師の多くは死んでしまう。
先程の仕返しかと思い、叔母のイーさんを心配して、急いで宿に戻ると、叔母さんは無事で着替えの最中。 この辺りの、シリアスとコメディーのバランスが、丁度良い感じで好きです。

提督

シーンが変わり、本作品のラスボスである提督にカメラが向けられます。
あちこちでテロ活動を行う白蓮教の対処に迫られている提督ですが、その最中に、革命の動きがある事が、香港からの通信によって分かります。首謀者は孫文で、支援者はトンという人物。
早速、上司である総督に知らせに行くが、総督は、あちこちで起こる問題の対処で人手が足りないとして、放置を決め込む。『いざとなったら、イギリスが助けてくれるよ。』とかいう、頭がお花畑の状態。
埒が明かないので、提督が自体を鎮圧させようと、自らの支持で部下を動かす。この辺りでは、提督に少し同情。 上司が無能だと、部下は大変だなという印象でした。

その後、学会から帰ったウォン一行が、白蓮教に外国語学校が襲われていることを耳にし、生徒の子供達を保護しに行く。
無事に助け出し、安全な場所で子供達の保護を頼もうとウォンが単独で、提督の元を訪れるが… 提督は丁度、武術の特訓中。ウォン・フェイフォンという高名な武術家の名前を聴いて、いきなり襲いかかる。
ドニー・イェン vs リー・リンチェイ の一戦目。 エグい体術を持つ者同士で、かなり凄いアクションを魅せてくれます。 特に、ドニー・イェンの布を棒のように変化させる技は、これだけのためにお金払っても良いんじゃないかと思えるほど凄い。

クライマックス

人手不足を理由に子供の保護を拒否されたウォンは、子供達を隠していた場所に戻るが、子どもたちが居ない。 必死に探すと弟子のフーが現れて、『子供を領事館に保護してもらっている』と伝えて、一緒に領事館へ。
だが、フーとウォンは領事館の入口で門前払いされる。 英語がしゃべれない2人が為す術ない状態で門番と揉めていると、そこに、孫文の支援者のトンが現れて、通訳してくれて領事館の中へ。
そこへ、タイミングよく攻めてくる白蓮教。 火矢を放ってくるのに対し、バリケードで対抗して時間を稼いでいると、提督が現れて、白蓮教を追っ払ってくれて、『自体把握の為に中に入れろ!』という。
目的は、革命を企てている孫文一味の確保。 孫文は、白蓮教の襲撃の混乱で一足先に領事館を出ていたが、トンは居残っていた為に、提督に発見される。

英国領事館にトンがいた事で、提督はイギリスと興中会のつながりを疑い、法も無視してなりふり構わずに孫文たちを捕まえようとする。
そして、クライマックス。 リー・リンチェイ扮するウォン・フェイフォンと、ドニー・イェン扮する提督との2戦目。今度は、本当の殺し合い。
先程の戦いでは封印していた、『布』を凶器に変える技を駆使して、ウォン・フェイフォンを追い詰める提督、だが、最後の最後で、ウォンの渾身の反撃に倒れる。

観終えた感想

この映画は、なんの予備知識もない状態で観たとしても、コミカルな部分と本気のアクションが楽しめる良い作品だとは思うのですが…
本当の意味で楽しもうと思うと、当時の中国の歴史を、大まかな流れだけでも知っていた方が、良いと思う作品でした。
何も知らない状態で見ると、何故、テロを起こす白蓮教に信者が集まるのかというのも理解できないですし、提督の動きも理解できない。

しかし、アヘン戦争から始まった中国の状態を知っていると、提督は提督で、ホンキで中国のことを考えた上で動いていたんだなという事がわかり、色々と考えさせられるんですよね。
この作品を見ても分かりますが、欧米人は全て、ブルジョア階級の金持ちで、高価な衣装を身につける一方で、登場する有国人は皆、みすぼらしい格好しか出来ない。
これは単純に、欧米人が中国人から搾取したことによって、貧富の差が広がった結果なんですよね。

では、政府が対策を打てるのかといえば、そんな事も出来ない。 映画の中では、下関条約によって、日本に台湾が取られたことに対するデモ行進などが行われていましたが、当時の政府は、難癖つけられて一方的に攻め込んできた相手に対して、領土を割譲することしか出来なかった。
難癖をつけられれば付けられる程、領土はどんどん縮小していき、植民地となった土地の同士は、貧困層へと追いやられていく…
この様な現状では、提督が市民に向かって『外交は私達に任せて欲しい!』と訴えたところで、『外交とは、領土を割譲することか?』と言われて終わり。
提督は、自分たちの国を守るためには、法を無視するしか無かったのかもしれません。

広大な領土と資源を持っているために、他国から難癖をつけられては領土をかすめ取られていく中国。
領土が減っていく一方で、町にはどんどんと外国人が流入し、自分たちの居場所が更に奪われていくわけですが、その変わりにといってはなんですが、西洋由来の最新技術が流入してきて、劇的に生活が変わってゆく。
最新技術のおかげで、暮らしが便利になる一方で、その最新技術によって、職人の技術が機械に置き換わり、失業者が増えてゆく…
一概に、何が良くて悪いのかということは言えませんが、良くも悪くも劇的に環境が変わってゆく中国。

結構、暗くて重いテーマなんですが、先程からも書いている通り、コメディー要素を加えて、かなり見やすい状態にして作られています。
当時の風景や雰囲気が再現されていますので、歴史的な資料としても見れるんじゃないかなと思わせてくれる作品なので、興味があれば、是非、観てみては如何でしょうか。

【ネタバレ感想・考察】『トロイ伝説(Netflixオリジナル)』 クズ同士の争いで善人が死んでいく物語?

ここ最近、古代ギリシャについて個人的に調べることが多く、当時の雰囲気を知りたいと思い、Netflixで検索した所、Netflix制作の『トロイ伝説』というドラマが有ったので、観てみました。
今回は、その『トロイ伝説』のネタバレ感想を書いていきます
まだ観てない方で、除法を入れずに観てみたい方は、先に見てから読むことをお勧めします

簡単なあらすじ

トロイ伝説は、トロイとギリシャのポリスの一つであるスパルタとの戦争。トロイア戦争を描いた作品です。
パソコンを使う人などは、コンピューターウイルスでトロイの木馬というのを聴いたことがあると思いますが、その名前の語源になったのが、このトロイア戦争だったりします。
ただ、舞台となったトロイ自体が、架空都市なんて言われていたりしますし、それに伴うトロイア戦争自体も、実際にあった話なのか架空の戦争なのか分からないそうです。

ただ、観た感想から言わせてもらうと、この戦争そのものに神々が絡んでいたり、ギリシャ神話の英雄が出てきたりと、仮に本当だとしても、かなり盛られた話だとは思いましたね。

簡単なあらすじですが、トロイという王国に男の子・アレクサンドロスが生まれるのですが、未来を見通せる力を持つ姉や神官によって、アレクサンドロスが国を滅亡させてしまうことが分かり、生まれてすぐに処刑を言い渡されて捨てられます。
しかし、指示を受けた羊飼いは、赤子を殺すことは出来ないと、王の命令に背いて、男の子にパリスという新たな名を付けて、自分の子として育てます。
パリスはすくすくと育ち、親の目を盗んでは羊飼いの仕事をサボり、女を抱くような青年へと成長していきます。

そんなある日の事、パリスは1頭のヤギを追って森に入った所、ゼウスに頼み事をされます。
頼み事とは、『一番美しいもの』へ宛てた黄金の林檎を、ゼウスの妻ヘラと軍神アテナと、美の女神アフロディーテの誰に託すのか、その選択をパリスに任せる(パリスの審判)というもの。
ヘラは、自分を選んでくれたら支配者にしてやると言い、アテナは、最強の男にしてやると主張。 そしてアフロディーテは、一番いい女をやるといってくる。
権力か、最強の力か、魅力的な異性か… 結構な難問だと思うのですが、パリスは即答で『アフロディーテに!』と答え、選ばれなかった2人の女神は悲しみと怒りが合わさったような表情で雄叫びをあげる。

それから少し経ち、偶然にもトロイの皇子たちと出会ったパリスは、王族たちに勝負をふっかけ、トロイで行われる祭り内で勝負をする事になる。
勝負では負けたのだが、王がパリスの体についているアザを見つけ、自分が捨てた子だと確信し、一度は捨てたけれども、もう一度、家族として受け入れると主張して、パリスはアレクサンドロスとして生きる事になる。

生まれは王族でも、元々が羊飼いとして育っているので、王族として何をして良いのかも分からず、毎日遊び歩いているアレクサンドロスに対して、父である王は、スパルタの王に挨拶に行けと外交の仕事を与える。
付けてもらった貴族の手助けもあり、外交は順調に進んでいたが、アレクサンドロスがスパルタの王女ヘレンに一目惚れし、ここで、アフロディーテとの約束が果たされて、両者は両思いになる。
アレクサンドロスは、スパルタ王が用事で城を開けている間にヘレンを寝とり、ヘレンもすっかりその気になり、アレクサンドロスの荷物に紛れてトロイへと行き、スパルタ王は大激怒。

アキレスやオデッセウスといった英雄の元や、自分自身の兄・アガメムノンの元を訪れて戦力とし、軍隊を組織してトロイへ向かう。
一方、トロイでは、王妃を拐った事を問題にするも、アレクサンドロスを一度捨てた事を負い目に感じてか、強く出ることが出来ず、2人の中を認める事にしてしまう。

スパルタ軍の方は、いきなり攻めるよりも、まずは話し合いという事で、和睦の条件をトロイに対して突きつける。 条件は、王女の返還の他に、金銭や交易ルートなど。
だが、それをのむとトロイが崩壊してしまう程の条件に、トロイの王は激怒。 最初から、トロイ滅亡が目的か!と言わんばかりの勢いで、スパルタとの戦争を決意する…

ネタバレ感想

この話ですが、ひとことで言うと、クズ共が起こした戦争で、良い人たちがどんどん亡くなっていく作品です。
この作品には、基本的に『良い人』というのが出てこない。強いていうなら、スパルタ側のアキレスと、アキレスと対戦したアレクサンドロスの兄が信念を貫いた人という意味では、好感が持てるぐらい…
後は、皆が自分勝手に振る舞った結果、全くの無関係であるトロイの一般市民達を道連れにして死んでいくという話だったりします。

では、各登場人物がどんな人間なのかを私の視点で観ていくと、まず、攻め込まれる側のトロイの王ですが、神託が有ったという理由だけで、生まれたての我が子を殺そうとします。
しかも、自分の手では無く、他人に命令して… 百歩譲って、その子が王国にとって本当に災いが有るのであれば、殺せと命じた羊飼いに『事実を隠して育ててくれ』と頼めば良いのですが、殺せと支持をします。
結果として、羊飼いは赤子を殺せなかったのですが、殺しを支持した王は、何を血迷ったか、殺せと命じた子が成長した姿を目にして、もう一度、自分の子として受け入れます。
じゃぁ、最初の神託を信じたのは、何だったのかって感じですよね。 一国の王なのに、その場の感情で動き過ぎです。

次に、スパルタの王女。 アレクサンドロスが一目惚れして、自分の立場もわきまえずに感情に走ったのは、良しとしましょう。
何故なら、アレクサンドロスは王の子として生まれてはいますが、人生の大半を羊飼いとして過ごしているので、外交とか高度なことは理解できていなくても仕方のないことだからです。
しかし、王女は別です。 ヘレンは、話から察するに、貴族の家の子として生まれて、王に嫁ぐ為の教育を受けた上で嫁に来ています。
自分の立場もわきまえているはずですし、自分が他国の王子に寝取られたとスパルタ王が気がつけば、大事になる事は分かりきっているはずなのに、感情に流されて、自分の判断でトロイに密入国します。

そして更に問題なのが、その密入国をトロイの王族たちが認める点です。
完全に自分たちが悪いのだから、まずは王女を返して、事情を説明すべき所なのに、相手が来るまで何もアクションを起こさない。 王族以前に、まず人としてどうなのかといった感じですよね。
まぁ、当時は船移動ですし、こちらから連絡を取るよりも、相手が先に来てしまったというのは、分からないではないですが、向こうの突きつけた条件が法外過ぎるから戦争だ!ってのは、どうなんだって感じですよね。
そもそも、密入国をしてきたのは王女の方で、拐ったわけではないわけだから、話し合えば和睦出来た可能性も有るのに戦争に突入し、しかも、その戦争で前線に送られるのは市民という… 自分が蒔いた種なんだから、自分が一騎打ちで勝負しろよという感じですよね。

次に、王妃を拐われた被害者側のスパルタですが、コイツラもこいつらで、クズが多い。
まず、スパルタ王の兄・アガメムノンですが、トロイに向けて船を出そうとするも、天候が安定せずに出航できない状態になる。
少し待てば良いものを、一刻も早くトロイを恫喝しに行きたいと思ったのか、部下に解決策を探らせると、部下が『アガメムノンの子を海神の生贄に捧げる』という解決策を持ってくる。
その話を聴いて少しは動揺するが、一刻も早く出向したいアガメムノンは、家族に『アキレスと娘の婚礼を挙げる』と嘘をついて娘と妻を呼び押せて、祭壇で娘の首を切って殺します。

海が永遠に荒れてる事なんて無いのだから、少し待てば良いものを、早く出向したい一心で殺すって、意味不明です。
そのアガメムノンは、その後のトロイとの戦争で、部下が見つけて自分の奴隷にすることにした女性の捕虜を観て、『娘に似ているから』という理由で、その戦利品を取り上げる。
ちなみに、その自分の子に似た娘は、神官の子で神に仕える身、その娘を女として抱く。海を鎮めるために自分の子供を殺して神に捧げた人間が、神に仕える身の女を抱くって、何を考えてるんでしょうね。  それ以前に、アガメムノン。自分の娘をどんな目で見てたんでしょうね。

その後、また天候が荒れるなどが有ったので、神官の子を親のもとに返すように部下から言われ、渋々返すが、抱く女がいなくなったので、アキレスの女奴隷を奪い取る。
アキレスからしてみれば、自分にとってはどうでも良い戦争に担ぎ出されて、その上、戦利品まで王に奪われたので、忠誠心が激下がり。
『もう、私は戦わない。』『そもそも、この戦いに意味は有るのか。意味のない戦いに身を捧げることなんて出来ない』としてキャンプに引きこもるが、アガメムノンは、そのアキレスを戦場に引きずり出すために、アキレスの部下を殺して、『敵が卑怯な真似をして、お前の部下を殺したぞ!』と吹聴して、アキレスを騙して戦場に戻らせる…

では、全ての元凶のヘレンはどうなのかというと、こいつはこいつで、頭がお花畑。 トロイの城内にスパルタのスパイが入り込んでいるのに、報告もせずに見て見ぬふり。
スパルタ軍が多勢で城を包囲し、籠城戦にした上で、スパイの手引きで密かに城内に侵入したアキレスが、ヘレンに『このままだと餓死するから、早めにスパルタに帰国して、戦争を終わらせたほうが良い。』と忠告すると…
『今、地下トンネルを掘って同盟国との通路を作ってて、もうすぐ完成するから、食料も沢山入ってくるから大丈夫。』と、機密中の機密をあっさりアキレスに告げ、そのせいでアキレスの手によって同盟国が焼けうちにされるという…
ちなみに、その際に持ち帰った捕虜が、神官の娘であったりアキレス所有の女奴隷だったりするわけですが、彼女らは、ヘレンのせいで国を滅ぼされて酷い目に有ったといっても良いでしょう。

と、この中で唯一、感情移入できる常識人は、アキレスしかいないわけですが、そのアキレスも、トロイ勢力によって部下を皆殺しにされ、最終決戦で主人公にアキレス腱を射抜かれて死ぬことになるので、本当に救われない。

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最後は、スパルタ勢が何故かスパルタに帰り、海が荒れないように、持っている食料を全て木馬の中に詰め込んで、海神への捧げ物としておいていったものを、トロイ側が略奪し、その食料で宴をあげるも、実はその中にスパルタ王や側近を含めた数人が隠れており、宴で浮かれているトロイ勢を横目に正面の門を開けて、一斉攻撃。
この時、スパルタ王は女子供を含めて全て殺し、ヘレンに対して、『全部お前のせいだ!』と言い放つ。 私はスパルタ王そのものは嫌いですが、この発言には思わず『正にその通り!』と同意しまったり。

後、忘れてはいけないのが、オデッセウスというギリシャ神話で英雄扱いされている人物。
この人物も、アキレスと同じく、王族同士の喧嘩で戦争に行きたくないと思っている人物なのですが…

アキレスとは全く違った性格で、本当に英雄なのかどうかも疑わしい人物。
この人物は、武闘派というよりも知略家で、主に戦略を考えるポジションの人なのですが、オデッセウス本人は平和主義で、できるだけ犠牲は少ないほうが良いと思っているタイプなのですが、基本的には王の言いなり。
アキレスが、王の自分勝手な行動に呆れて、自分の兵を一切出さないという形で抵抗したのに対し、オデッセウスは反論も特にせず、言われたことを嫌々ながら完璧に遂行していくタイプです。

この仕事っぷりは徹底していて、トロイ陥落後、トロイの王族の生まれたばかりの赤ん坊が生き残るのですが、オデッセウスはそれを目撃した上で、見逃します。
ここまでは良いのですが、その後、アガメムノンが赤子の泣き声を聴いてしまい、結局、見つかる。
そして見つかった直後に、アガメムノンオデッセウスに対して、『城壁の上から突き落として殺せ』と命じるのですが… アキレスなら、この命令に背いていたかもしれませんが、イエスマンオデッセウスは嫌な顔をするぐらいが関の山で、母親の目の前で、言われた通りに子供を殺します。

アガメムノンの事ですし、ここで断れば、家にいる自分の家族がどんなめに合わされるかもわからないでしょうから、仕方がないといえば仕方がないのでしょうけれども…
クズキャラが大集合のこの作品において、個人的に一番印象が悪かったのが、オデッセウスでしたね。

少し考察

この物語が、実際の史実を元にしているのか、完全な創作なのかは分かりませんが、仮に創作だとして、この物語では何を伝えたかったのでしょうか。
主人公は最初に、神々によって『権力』『武力』『愛』のどれかを得る権利を提示され、『愛』を求めたわけですが、その『愛』によって、破滅に追い込まれます。
では、主人公が『権力』や『武力』など、他のモノを選んでいたとしたら、主人公は幸福になれたのかというと、トロイの滅亡は免れた可能性は有るでしょうけれども、幸福に離れなかったでしょう。

それは何故かというと、『権力』や『武力』を選んだ人間が物語内に登場し、その人物が幸福になっていないからです。
『権力』の象徴としてのはスパルタ王。 そして、最強の『武力』としてのアキレスですが、アキレスは、王が振るう権力にはびくともせず、自分の意志を貫き通す事が可能でしたが、愛の化身である、主人公のアレクサンドロスに倒されます。
そのアレクサンドロスを倒す事でスパルタ王は戦争を制しますが、自身の家庭は崩壊し、決して幸福な状態とは言えない状態になっているからです。

では、その3つではなく、『知恵』があったらどうなのか。上手く立ち回ることが出来たのかというと、そうでもなく、『知恵』の化身として登場したオデッセウスは、アガメムノンに顎で使われて自身の手を血に染めます。
自身の意思を貫き通すには、『武力』か『勇気』といったものが伴わないと、知恵のある行動を貫き通すことは出来ないのでしょうし、また、それだけでも、上手くは行かないのでしょう。

結局の所どれを選んだとしても、不幸になる。 では、上手くいく為には、つまり、『幸福』になる為には何が必要だったのでしょうか。
古代ギリシャでは、『徳』というものが研究対象になり、『徳』の本質が研究対象になっていて、討論が行われていました。
『徳』の正体について、『正義』であったり『美』『勇気』様々な物が関連しているのではないかということになりましたが、それらだけではなく、『節制』や『分別』といったものも、欠かせないのではないかという事になりました。

つまり、『権力』『武力』『愛』のどれか、または全てを手に入れても、そこに『節制』であったり『分別』がなければ、結局の所、手にした欲望によって身を滅ぼすということなのでしょう。
こうして読み解くと、上手く出来た話だなとは思うのですが… 『分別』や『節制』がない人間が滅ぶのは良いとして、それ以外の、ただ生活しているだけの善良な市民までもが皆殺しにされるというのが、結構、キツイものがありましたね。

Netflixに会費さえ払っていれば、無料で観ることができる作品なので、興味があれば、見てみてはいかがでしょうか。

バンクシーの裁断絵画問題を受けて 『美』について考えてみた

先日のことですが、バンクシーといアーティストが書いた絵がオークションに出品され、競り落とされた直後に、額縁に仕掛けられていたシュレッダーによって、絵画が台無しになったというニュースがありました。
初めて、この話を聴いた時は、アートが持つカンターカルチャー的な側面を表現したのかななんて思ったのですが…
その後のテレビが、美術関連の仕事をしている人に取材して、今回の件についてのコメントを求めていて、その返答に対して『モヤッ』としたので、今回は、何故『モヤッ』としたのかについて、書いていこうと思います。

今回の件では、誰も損をしていない?

私が観ていたニュース番組に出ていた美術評論家によると
『今回の件では、誰も損をしていない。
むしろ、絵がシュレッダーで破壊されたことによって、1点ものになった事で、むしろ価値が上昇した。
関わった全員がハッピーになる演出で、流石、バンクシーって感じですね。』と仰ってました。

・・・
この発言、何か、引っかからないでしょうか。

私は、この発言を聴いて、大いに引っかかり、疑問を持ってしまいました。
この美術評論家にとって、絵画やアートとは何なのでしょうか?
お金を増やしてくれるアイテムなのでしょうか?

アートというものが、単純にお金を増やす為の錬金術の素材なのであれば、確かに、今回の件で損失を出した人間はいないでしょう。
その絵画に、美しさとか思い入れなど、一切の感情を抱くこと無く、単純に、『数年後にお金を数倍にしてくれる道具』であるのなら、この解説は的を得た解説なのでしょう。
しかし、アートとは、そのようなものなのでしょうか?

今回の出来事によって、少なくとも1枚の絵がこの世から無くなったわけですが、その『絵』が無くなった事で喪失感を抱く人間は、いないのでしょうか。

アートとは何なのか

古代ギリシャでは、『美』というものが重要視されましたし、その様な環境に生まれたソクラテスは、漠然とした抽象的な概念を、より具体的に考える習慣を広めました。
漠然とした抽象的な概念である、『美』とは何なのか。 何を持って、『美』と呼ぶのか。 誰の目から見ても確実に『美』と呼べる、絶対的な『美』という価値観は有るのか。
それが有るとして、では、『絶対的な美』とは、どのようなものなのか…
このような事が追求されていた為か、町中には石像や銅像が溢れ、今で言う芸術品と呼ばれるものは、今よりももっと身近にある存在でした。
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(私が現在プレイ中の、アサクリ オデッセイのスクショ)

しかし、現在はどうでしょうか。
古代よりも遥かに技術が進み、豊かになったことで余裕のある私達の身近には、どれ程の美術品・芸術品が有るのでしょうか。
むしろ、時代が進めば進むほど、身近にあるものは工業製品になってゆき、コストダウンの為に余計な装飾は省かれ、身の回りを見渡せば、そこに有るモノはシンプルで無機質な四角いモノや丸いモノだけになっていきました。

美術や芸術品は、美術館にお金を払って、ガラスケース越し観に行くものになり、より遠い存在となって行きました。
それと同時に、『美術品』という性質も、徐々に変わっていきました。
今の世界での『美術』とは、古代人が考えた、『誰にとっても美しいと感じることが出来る絶対的な美』ではなく、より、難解なものへと変化していっています。

今の時代の『美』

昔の『美』というのが、誰にでも直感的に感じることが出来る美しさを追求していたのに対し、そこから2500年たった今では、美術の基準そのものが変わってきたように思えます。
今の時代の『美』というのは、誰にでも直感的に感じることが出来る共通認識としての存在ではなく、勉強して知識を身に着けないと理解出来ないモノへと変わっていきました。

では、勉強をして知識を身に着ける事で、誰にでも『絶対的な美』が理解できるように、『美』が解明されたのかというと、そうでもありません。
『美』は勉強が必要な一方で、その価値基準は一部の人間が独占していて、ブラックボックス化しています。
どこからどう観ても落書きにしか見えないものや、ガラクタにしか見えないものも、美術界の重鎮が『いい仕事してますね』というだけで、天文学的な値段がついたりするのが、今の美術界です。
これを読んで、『いくらなんでも、落書きやガラクタには、美術的価値はないでしょ。』と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、これは、大げさな表現ではありません。

例えば、美術のカテゴリーの一つで、マルセル・デュシャンが言い出した『レディーメイド』と呼ばれる物が有ります。
レディーメイドを簡単に説明すると、工場で機械的に作られているトイレの便器などを、アーティストが『これは芸術品!』と主張して、アーティストとしての自分のサインを便器に書いて、芸術品として出品したことから始まった流れです。
この便器も、一流の職人が作った一点物とかではなく、工場で大量生産されている、ごくごく普通の便器です。
『レディーメイド』という言葉そのものが、『オーダーメイド』の対義語で、意味合いとしては既成品という意味が有るので、本当に、ただの便器です。
その便器に、アーティストがサインをしただけで、その便器は美術品となり、美術館に飾られて、関連グッツが売り出されるモノとなるのです。

誤解のないようにしておくと、アーティストのサイン自体に価値が有るから、便器の値段が上昇したのではなく、アーティストがサインをした事によって、便器が美術品になったという事です。
この理屈が通るのであれば、対象となるものは何でも良いわけです。 その辺りの河川に流れ着いた流木でも、そこに転がっている石でも、誰かが鼻をかんで丸めたティッシュでも良いのです。
誰かが『これには価値があるよ!』といって、みんながそれを信じれば、対象は何であっても良く、大切なのは、人々を説得する為の権威で有ったり、説得力でしか無いわけです。

美術 = お金

先程の説明で、美術品や芸術品に大切なのは、そこに秘めている美しさではなく、権威付けと説得力だと書きましたが、これと全く同じ構造のものが、私達の身の回りにも存在します。
それが、お金です。 私達は、お金の為に自由時間を削って働き、お金の為に争い、お金の為に一喜一憂する生活を送っています。

しかし、冷静に考えて、お金ってなんでしょうか。 その材料を注意深く観てみると、効果の材料は金属ですし、紙幣の材料は紙とインクでしかありません。
では何故みんなは、この金属や絵が刷られた紙の為に、時には命を失うような危険なことまでするのかというと、これらの金属や紙には、中央銀行と呼ばれる機関が『これらのものには、価値があるんですよ!』と信用を付け加えたからです。
みんなは、権威ある中央銀行を信用して、『お金』というのは価値の有るものだと思いこんでいて、実際にお金で経済が上手く回るというサイクルが出来上がっている。
ですが、このサイクルは皆が『価値が有るもの』と思い込んでいることで成り立つ不安定なもので、背景となっている権威やシステムが崩壊すれば、ただの金属と紙切れになってしまいます。

これは、今の美術品も同じでしょう。 日々、大量に生み出される美術品の中から、美術界の大御所の目に留まりやすく、且つ、プレゼンしやすいものに権威付けが行われて、価値が上昇する。
こういう構造では、アーティストは、自分が考える『美』を追求した品ではなく、大御所の目に留まるような商品を作らなければならない。 これは、アーティストにも生活が有るから、当然ですよね。
結果として、アーティストは評論家の人達の目に留まりやすく、それを使用することで上手い具合の大喜利が出来るような素材を作らされる…

評論家は権威を得る事で、どんなものにでも価値を付加することが出来るようになるので、その権威を得る為に必死に勉強をし、権威を持っている評論家に気に入られる為に、上のものを必死で持ち上げる。この構造により、権威はより強固になり、絶対的なものとなる。
しかし、その大本の権威が揺らいだらどうなるのでしょうか。 現代に生み出された美術品は、それでも普遍的な価値を維持し続けることが出来るのでしょうか。

本当の価値とは何なのだろう

結局の所、現在に置ける価値とは、権威を持つ人間が『これは価値がありますよ!』といったものが価値があるモノなのでしょう。
その根拠は、特に無くてもよいのでしょう。
最初の話しに戻りますが、この絵は、シュレッダーで切り刻まれる前に、一億数千万円の値段が付いていました。 しかし、シュレッダーによって、その絵の価値そのものは無くなったはずでした。

しかし、価値の無くなったはずのその絵は、オークションにかけられた事によって、何故か『完成した』事になり、更に多額の評価額が付くことになりました。
では、最初の値段は何だったのでしょうか。 彼らは、未完成品を絶賛していたのでしょうか。
それとも、最初の絵を評価していたけれども、その絵が作者の仕掛けによって台無しにされてしまった。その状態を放置すれば、今後、オークションで芸術品という名の『資産を何倍かにしてくれる素材』を購入する人が減る可能性が有る。
つまり、オークションの客が減る可能性が有るので、『オークション会場で商品をシュレッダーによって細切れにした』という状態そのものに値段を付けて、購入者の資産の目減りを抑えたのでしょうか。

どちらにしても、詭弁にしか聞こえませんし、そこに普遍的な『美』は無いような気がするのですよね。

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】 第39回 神話の時代 (2) 後編

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
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前回はこちら
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厳しい環境が 神話を身近にする

その他にも、大昔というのは現代に比べて、大自然というものが脅威でした。
大自然のちょっとした変化によって人は簡単に死にますし、生きていく事そのものが大変な状態でした。
この様に追い詰められた環境では、人は簡単に幻覚や幻聴を体験してしまいますから、苦しい環境下で、神や悪魔といった人間以外のものを目撃するといった事もあったんでしょう。
幻覚などの症状は、満たされている状態では起こりにくく、追い詰められた極限状態で見やすいため、何らかの危機的状況と幻覚として見える何らかのモノに相関関係を見出して、宗教を作るというケースも有ったんでしょう。

この様な感じで、元々は、大自然というカオスの中から、パターン認識によって法則性を見出す事で、人類は生存率をあげようと頑張ってきたわけですが、その過程で、様々なものが生まれて発展していくことになります。
当時は、今のようにネットで繋がっているわけではない為、それぞれの地域に住む部族は環境的に隔離された状態に有ったわけで、その閉鎖された社会の中で、独自に作られた科学的思考や神話、宗教が発展していったんでしょうね。

パターン認識によって生まれたものが組み合わさり文化が生まれる

文化の成長スピードも人の考え方も、今のような早いスピードではなかったでしょうから、長い年月をかけて作られることになる為、様々な法則が複合的に合わさることで、各部族の文化が生まれていったんでしょう。
例えば、最初は星を観察してパターンを解析するという科学的な手法によって、1年の気候変動のリズムを解析する事で、農作物を育てる為に必要な作業の指示を行えるようになるという所から、文化が始まったとします。
ただ、星の配置を見て法則を見出すというのは、万人が行える事ではありませんし、知識というのは、それそのものが武器になったり部族を統治する道具にもなったりするので、一般人に広く伝えられる事はなかったでしょう。

知識を持たない一般人からすれば、占星術師は未来を予知できる能力者に思えてしまいますから、無知な人々は、天候以外のその他の予言も占星術師に求めるといったことも有ったでしょう。
追い詰められた占星術師が、ある日、幻覚をみて、その幻覚を元に予言を行うと、科学から発生したその文化は、シャーマニズムへと変化していくでしょう。
そして、その予言が見事に的中すれば、その占星術師は神と交信できる人物として部族の中での地位を確立できます。

仮に、その予言がハズレた場合は、神が怒っているとか適当な言い訳を並べれば、当時の人は納得したかもしれませんし、納得しなかったとしても、対案を出せば、時間稼ぎはできます。
どの様な対案を出すのかというと、例えば、生贄とかです。

現代でもそうですが、古代から、何らかのモノを得るためには犠牲を払わなければならないという考え方が受け入れられやすいです。
現代で言うなら、自己責任論がそれに当たりますよね。
成功者は、自分が若い頃、他人が遊んでいる間に自分は苦しみぬいたんだから、成功して当然だと言いますし、逆に、今現在苦しんでいる人を指さして、『努力してこなかったんだから仕方がない』と言い放ちますよね。

苦労と成功というパターン認識

努力したから報われる。 苦痛を受け入れたんだから、それ相応の見返りが有って当然と考える思考の根本的な部分は、古代の生贄の風習と同じです。
苦痛を受け入れたんだから報われるのであれば、言い換えれば、受け入れがたい苦痛を先に体験することで、後の安定を得られるという事になります。
食料が得られなくて死にそうな時に、残りの僅かな食料を、神への供物として食べずに燃やしてしまう事は苦痛です。しかし、その苦痛を実感することで、後にそれ以上のリターンが得られるという考え方もできます。

小動物や農作物を燃やしても効果がなかった場合は、最後の手段になります。
大自然の中で生き抜きたいと思っている人間にとって、最大の苦痛とは、死ぬ事ですよね。 数日の間、食いつなぐ事が出来る食料を燃やしたのも、そうする事で生き残る可能性が増えると考えての行動です。
そんな人間が死を受け入れるという事は、最大の苦痛となります。

なら、誰かを生贄にすることで、最大の苦痛を押し付けてしまえば、事態が好転して、生贄以外の人間が生き残れるとも考えられますよね。
仮に、この決断を実行して、思惑通り、事態が好転なんてしてしまったら、パターン認識によって『効果がある』と思われてしまうわけですから、文化の一つとして組み込まれて行くことになります。
この様な感じで、カオスの中から手探りの状態で法則を見つけ出そうとする行為は、様々な思想や習慣を生み出していく事になり、多くの神話が作られていくことになります。

文化は より 複雑化していく

一度作られた物語は、時間が経つに連れて、そして、文化を作ってきた人間の代替わりが起こったり解釈する人が増えていく事で、儀式や教義といったものはより複雑に変化して壮大になっていきます。
これは、なんでもそうですよね。
現代でいうと、最初はショートストーリーで始まった物語が、爆発的に人気が出て、ファンそれぞれが考察や深読みした結果を発表していくといった感じで盛り上がる。そして、その作品のファンだった人が監督になり…
ファンが肥大化させたイメージを踏まえて、映画化するとかですね。
こういった事が世代をまたいで繰り返されていくことによって、物語はより壮大になり、儀式はより複雑化して、一つの文化が生まれていきます。

つまり、神話の時代というのは、科学や神話・宗教といった区別は特に無く、パターン認識によって見出された法則が、世代を超えて伝えられていったという点では、むしろ同じ様なものとして捉えられていたんだと思います。
ただ、物語が発展するのと同じ様に、科学的な視点も時代を超えて発展していきます。
元々、パターン認識という同じところから出発した文化は、長い年月をかけて成長していき、全く別のものへと進化していく事になります。

派生する思想と文化

これは、生物の進化と似たような感じになるんでしょうかね。
生物も元々は、単細胞生物として最低限の機能しか持たずに生まれたものが、長い年月をかけて環境に適応した結果、複雑な機能を持つようになって、無数の種族に枝分かれしていきましたよね。
一本の大木のシルエットのように、元々は同じものだったものが枝分かれしていくことで、それぞれの枝の末端部分のものは、独自のアイデンティティを確立するようになります。

それと同じ様に、元々、パターン認識によって法則を見つけ出すという行為も、長い年月を書けることで、それぞれの考え方は全く別々のものへと進化していって、次第に、思想そのものがアイデンティティを確立していって、個性を強めていくことになります。
次回以降では、全く違った考え方になっていった思想のその後を、追っていこうと思います。

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】 第39回 神話の時代 (2) 前編

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前回の振り返り

前回は、神話がどのようにして生まれたのかを、一つの観点から観ていきました。
簡単に振り返ると、人は自然界で起こる現象を情報として受け取って情報を蓄積させていくわけですが、その情報の中から、特定のパターンや法則を無意識的に探してしまいます。
このパターン認識によって、人は、それぞれの自然現象を関連付けていきます。

カオスからパターンを見つける

前回の説明では、星の位置と気候の変化などが関連付けられて、その2つの出来事に法則性を見出されて、暦が出来たとか、そういった事を話していきました。
夜空の星の配置にはパターンがあって、同じ様な周期で動いている事が分かって、それと気候の変化がリンクしていることがわかれば、その関係を更に追求していくというのが、人の性です。
星の位置によって、他の物事が理解できるようになることがわかると、星の位置を正確に覚えることが重要になってくるので、それを覚える方法として、神話が生み出されてのではないかという話でしたね。

星を数個ずつのグループに分けて星座にしてキャラクターを当て嵌めて、そのキャラクターを元にストーリーを作り出せば、そのストーリーを覚えるだけで、星の位置を正確に覚えることが可能になります。
こうして生み出された神話は、単純な語呂合わせに終わらず、壮大なストーリーとなって、発展して盛り上がっていきます。
エンターテイメントとして盛り上がってくると、新キャラがドンドンと生み出されることになって、様々な自然現象や人間が持つ感情や葛藤を擬人化したような神々も生み出されていくようになます。

こうして、物語の厚みが増していって人気が高まってくると、神話の世界のものを現実世界に具現化させるようになっていって、神々の姿は、より具体性を増していくようになっていきます。
神々を祀る神殿なども作られていって、聖地巡礼などによって経済も活発化していきます。

間違いが起こりやすいパターン認識

この様な感じで、様々なもの同士を関連付けて、その中に法則性を見出すというパターン認識は、人が文明を築き上げる為には無くてはならない、便利な物なのですが、万能なのかというと、そうでも無かったりします。
パターン認識は、カオス的なモノの中から法則を見つけ出す訳ですが、本当に相関関係のあるものや因果関係のあるものだけを見分けられるわけではありません。
相関関係が有って法則性が見つけられそうだけれども、、どのように関係があるのかがわからないようなものも多数あるでしょう。
また、それぞれの事柄に全くの無関係と思われるようなものも結びつけますし、その法則同士を更に結びつけて壮大な妄想を作り上げる場合もあります。

例えば、突然の腹痛に襲われた際に、直接、お腹を調べたり、場合によってはお腹を裂いて、直接痛い部分に対処するという形で法則性を見つけ出そうとすると、西洋医学の様に発展していきます。
ですが、同じ様に腹痛に襲われた時に、たまたま、地面にある出っ張りを踏んでしまって、足の裏に刺激を受けた事で症状が和らいだりした場合、足の裏の特定部分とお腹という離れた場所に法則性を見出してしまうことになります。
足つぼや鍼灸などは、全くの無関係なのか、実際に関連性があるのかは分かりませんが、最初のアプローチの違いによって、同じ医学でも違った方向に進んでいくことは、この例をみてもよくわかりますよね。

全く無関係のものの中に関係性を見出す

これらの例は、まだ何らかの相関関係があるのかもしれませんが、人は、全くの無関係なものも無理やり結びつける事によって、その中に法則性を見出そうともします。
例えば私は昔、株式投資にハマっていた時期があって、株式関連の情報を日々、漁っていた時期がありました。
株式投資を全くやった事が無い方は、株式投資は、普通の人間には理解が出来ないような物凄い計算を元に株価の価値を見出して、その価格を元に売買していると思い込んでおられる方も多いかもしれません。

しかし実際には、そんな事もなかったりします。
というのも、株価というのは株価が上昇する事そのものが材料になって上がったり、または、下落した事実によって更に下落したりと、予測そのものが出来ません。
企業の業績も、企業単体の努力の他に市場環境なども関係してくる為、先読みすることが難しいですから、適正株価というものをピンポイントで予測することも不可能です。

結果として、アノマリーと呼ばれる超常的な現象を、売買タイミングの見極めの参考にしようとする人達が出てきます。
その中でも有名で、結構よく聞く話が、『満月の日は相場が荒れる』といったものや、もっと壮大な話でいうと、天体の大きな動きと株価をリンクさるなんてものもあります。
天体の数十年に渡る動きの周期と、株価の上下の周期が大きな目で観ると一致しているらしく、そこから、サイクル論なんてものが生まれています。
このサイクル論のセミナーは、ラジオ日経などで大々的に宣伝がされていて、かなりの人気を集めています。

オカルトに支配されている資本主義

ある意味、凄いですよね。株式市場といえば、資本主義経済の中心地の様な場所ですが、その売買に利用されているのが、占星術なわけですから。

この占星術のサイクル論の他にも、アメリカで開催されているアメリカンフットボールのNo.1を決めるスーパーボールの結果によって、株価の動きを予測するというアノマリーも存在します。
スーパーボールは、日本にあまり馴染みが無いと思いますので、日本の例を出すと、金曜ロードショージブリ映画が放送されると相場が荒れるというジブリの法則というものも存在します。

もっと具体的で、一見すると信憑性がありそうなものでいえば、テクニカル分析というものも存在します。
例えば、サイコロジカルラインというテクニカル指標がありますが、この指標は、直近12日間で、株価が上がったのか下がったのかどちらが多いのかをカウントして、グラフ化した指標です。

仮に、上がるか下がるかが2分の一の場合、直近12日間で10日の間、株価が上昇をし続けているとした場合、50%の確率で上がるか下がるのかが決まるのに、10日連続で上昇していると、次は下がりそうな気がしますよね。
この様に、結果に偏りがあり場合は、それをグラフ化して、注意を促すというのが、サイコロジカルラインです。
この説明を聴いて、なんとなく納得された方もいらっしゃるかもしれませんが、冷静になって考えると、このサイコロジカルラインは確率というものの捉え方がおかしいですよね。

というのも、上がるか下がるかが、それぞれ50%の確率で実現するとた場合、10日連続で上昇が続いたとしても、11日目に下落する確率は50%で変わりません。
ルーレットで赤が連続したからといって、黒が出る確率が上昇しないのと同じで、その日1日に上昇するかしないかは、前日までの株価の動きがどんな状態であれ、50%なんです。
だから、このサイコロジカルラインという指標は、そもそも意味がない指標なのですが、結構昔から使われていたりしますし、この考え方は応用されて、RSIという指標に発展していたりします。

パターン認識によって生み出される儀式

話が少し逸れてしまいましたが、人はパターン認識によって、カオスの中から様々な法則を勝手に見出すものなので、このパターン認識によって生まれた文化というのは、合理的なものばかりではないんです。

例えば、ある人が、なにか重要な決断をしなければならない時に、あまりのストレスで精神的に不安定になってしまったとします。
そして、何を思ったか、崖から海の中にダイブしたとします。 その後、気分転換ができて気持ちが切り替えられた結果、決断した物事もうまくいったとすると、その人の中では、崖から飛び降りて生還することが、成功体験とつながってしまいます。
その結果、なにか重要な出来事を決める際には、崖から飛び降りて生還するという儀式が生まれてしまったりします。

ここまで極端な話でなくとも、もっと細かいことで見れば、この様な事は頻繁にありますよね。
例えば、勝負事が職業であるスポーツ選手などは、朝食のメニューを固定していたり、靴を履く場合、右からなのか左からなのかを決めていたりといった事をしていたりしますよね。
野球選手であれば、バッターボックスに入った際に特定の仕草を行うなど、『まじない』的な行動をとったりもしますよね。

これらの行動も、傍からみていてもその重要性は分かりませんが、本人にとっては成功する為に必要な、重要な法則なんでしょう。
この様な行為を行っている人がカリスマ性を持っていて、その不思議な習慣をみて真似をしようとする人達が多数出てきた場合、それが大昔の古代であれば、カルト集団に発展していたかもしれません。
そして、それらの行動を創った教祖的な創始者が亡くなってしまった場合、その人物が創った習慣の意味を知る人間がいなくなるわけですから、後付で、御大層な説明がつけられていくことになります。
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私がアサシンクリード・オデッセイをプレイする前に行った3つのこと

少し前(2018年10月5日)に、アサシンクリードAssassin's Creed)の最新作。オデッセイが発売になりました。


という事で今回は、このゲームをプレイする前に私がしたことについて、書いていこうと思います。
アサシンクリードシリーズをプレイされていない方にとっては、『ゲームをプレイする前にやる事なんてあるの?』と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、このゲームを本当の意味で楽しむためには、予習が必要になるんです。

シリーズの簡単な説明

このシリーズを全くプレイしたことがない方向けに簡単に説明をしますと、現代の歴史の影に、フリーメイソンや暗殺教団が関わっていたという感じの都市伝説が、事実であったという話です。
テンプル騎士団フリーメイソンといった団体が、現在に溶け込むためにアブスターゴという企業になり、様々なエンターテイメント事業を行いつつ、そこで上がった収益で、アニムスという装置を作り出す。
アニムスは、人間のDNAの中にある(という設定の)記憶遺伝子を読み解く事により、先祖の記憶を実体験できるVR装置。これを利用して、人類が生まれる前に世界を支配していた知的生命体が残した様々な遺産を見つけだそうとしています。

その遺産は、現代ではオーパーツとして認知されているのですが、実はそれは古代文明の装置を動かす鍵で、それを手に入れることで、古代人が残した先進的な技術を自分のものにすることが出来る。
そのアブスターゴ社の野望を阻止しようとするのが、アサシン教団。 プレイヤーは、アサシンを操作して、歴史の影でどのようなコトがあたのかを自分の目で確かめ、先人が残した遺産をアブスターゴより先に見つけ出すというゲームです。

この簡単な説明でも分かる通り、『歴史の影では、こんな事が起こっていたんですよ!』という部分を楽しむ物語なので、その大本である『歴史』を知らない事には、楽しさが半減どころの騒ぎではなかったりするんです。
『歴史モノなんだから、ゲームをして入れば、その辺りの説明はしてくれるんでしょ?』と思われる方も多いかと思いますが、そんな説明は一切ありません。
歴史を知っていることが前提で、その歴史に詳しいプレイヤーが、『歴史の舞台に立って、自由にキャラクターを操作できますよ!』というのが売りになっている為、細かい説明などは抜きで、知っている前提で進んでいきます。
この様なゲームの作りになっている為、必要になってくるのが、物語の舞台となっている前後の歴史と人物を把握しておく事だったりするんです。

私が勉強したこと

では、何から勉強すればよいのでしょうか。
今回のテーマになっているのが古代ギリシャなので、その前後の事を理解しておくだけで、ゲームに対する理解度がかなり上昇すると思います。
とはいっても、『古代ギリシャ』という情報だけでは、かなり範囲が広い。 という事で、ゲームの舞台になっている時代を調べてみると『紀元前430年ペロポネソス戦争中の古代ギリシア』らしいので、このあたりを中心に勉強すると良いっぽいです。

まず、このゲームを知る上で理解しておくことがひつ表なのが、当時のギリシャという国についてでしょう。
今では、ギリシャといえば一つの国ですが、古代ギリシャ時代は、1つのまとまった国というものではなかったようです。
ギリシャという大きな枠組みの中に、『アテナイ』や『スパルタ』といった国があり、それぞれの国が独立した国のように自治をしていました。 当時は、国ではなく『ポリス』とも呼ばれたそうですが。

その為、アテナイもスパルタも同じギリシャですが、統治している人もシステムも違います。
スパルタは王が治める王政だったのに対し、アテナイは共和制だったりと、国を統治するシステムそのものも違ったりします。
しかし、ギリシャという土地を共同で収めているという意識は有るようで、外敵であるペルシャからの侵攻された時は、兵を送り合ったりして共同戦線を貼ったりもしています。

スパルタ兵は何故 強いのか

このあたりのことがよく分かる映画が、『300』という映画でしょう。
注意:これ以降、複数のコンテンツを紹介しますが、ネタバレを含んだ形で紹介します


この映画は、ペルシア戦争テルモピュライの戦いを映像化した作品です。簡単な説明としては、ペルシア帝国から使者がやってきて、スパルタに服従することを迫ります。
これを跳ね除け、使者を殺したスパルタ王・レオニダスは、ペルシア帝国との戦争を決意するのですが、この当時のペルシアでは、王の一存だけでは決めることが出来ないので、神殿に赴いて、神の使いに支持を仰ぎます。
しかし、この時期は丁度、祭りの開催時期という事で、兵の出兵は認められないのですが、このままではペルシア帝国に攻め込まれて滅ぼされると思ったレオニダスは、スパルタの精鋭300人を連れて、ペルシア帝国を迎え撃つという話。

ただ、向こうの軍勢が100万人に対して、300人では瞬殺されてしまう…
そこでレオニダスが考えたのは、海と崖に挟まれた狭い場所に陣取る作戦。これにより、相手がどれ程の大群であろうとも、少ない人数で対抗できるという戦略を取る。
結果がどうなるのかは、映画を見てみてください。

この作品では、何故、スパルタ兵が強いのかというのを説明してくれています。 これは、映画のストーリーと言うよりも歴史的な事実なので、結果から書くと、スパルタの兵士は全員、職業軍人だったからです。
スパルタでは、子供が生まれてすぐに、体に欠陥がないかを調べられ、問題が有ると、崖の上から落とされて殺されます。 五体満足で問題がない人間だけが育てられ、その人間が職業軍人となり、戦争がない時期であっても、常に訓練をしています。
その一方で、他の国の兵士は、常時は農民や大工、家具職人などの仕事をしている人間が、戦争の時だけ、兵士として徴兵されて軍隊を作ります。
この状態だけを観ても、どちらの方が強いのかがよく分かりますよね。

次に観てほしいのが、その続編?である、『300: Rise of an Empire



この作品は、純粋な続編というよりは、『300』がスパルタを中心に描かれた話だったのに対し、この作品では、何故、ペルシア帝国が攻めてきたのか。そして、『300』の後にどうなったのかを、アテナイの視点から描かれています。

ちなみにですが、このゲームは、このテルモピュライの戦いからスタートします。
そして、ここで活躍するレオニダス王が、主人公の祖父に当たる人物だったりします。チュートリアルの時点で、前提知識が要求されるというわけです。 

スパルタに対するアテナイ

その次に知っておいて欲しいのは、アテナイの状態ですね。
舞台となっている時代で、アテナイで有名な人物といえば、ソクラテスです。
という事で、ソクラテス関連の本を読んでおくのが良いと思います。

先ほど紹介した『300』でも、アテナイ人は議論好きや男色が多いなんて話が出てきますが、そういった雰囲気が感じられるのが、ソクラテスの弟子であるプラトンが書いた、様々な本です。
プラトンが書いた多くの作品は主人公がソクラテスで、彼なら、こんな議論をするんじゃないかという想像と、自分自身の哲学理論を組み合わせた本を多数書いています。
結構多くの作品が書かれているのですが、その中でも私が読んでおくべきだと思うのは、『ソクラテスの弁明』です。


内容を簡単に説明すると、ソクラテスは、当時、主流だった相対主義的な考えに疑問を持ち、絶対主義という価値観を持ち出して、様々な賢人という人々に討論を申し込んで、嫌われて、その結果として裁判にかけられて死刑になった人物なのですが、この本では、その裁判での出来事が細かく描かれています。
この作品では、単なる哲学議論だけでなく、当時のアテナイの議員や裁判官などの公職が、選挙や試験ではなく、くじ引きで決められていた事などが分かります。
また、ソクラテスが訴えられた罪状の一つに、国の定めた神々を信じずに…といった一文がある為、オリンポスの神々の存在の否定や冒涜、そのものが罪になっていたことなどが分かります。

アサシンクリードシリーズでは、当時では異端とされていたカウンターカルチャーを唱える人物が登場し、アサシンは、その人物に味方するというケースが多いです。
アサクリ シンジケートでいうのであれば、共産主義の生みの親である、マルクスなどがそうですね。
この当時のソクラテスも、当時としては異端とされている様な考え方をし、それに多くの若者が影響を受けたのですが、その考え方についていけない人達に恨みを買われ、裁判で訴えられます。
しかしソクラテスは、その後、哲学の祖と呼ばれ、その思想は約2500年後の現在でも、研究対象となっていたりします。 この辺りも、知っておくのと知らないのとでは大違いですので、機械があれば是非、読んでみてください。

絶対主義や相対主義の部分に関しては、哲学的な話になる為、ここで書く事は止めておきますが、これを書いている私自身が、Podcastというサービスを使って『哲学』というテーマでコンテンツを作っているので、興味が有る方は、そちらをお聞きください。

ブラウザで聞きたい方は、こちら。
doublebiceps.seesaa.net

手軽に前提知識が欲しい方へ

最後に、もっと気軽に予習したい方のために、古代ギリシャ研究科の藤村シシンさんとUBIとのコラボ動画を紹介します。
この動画は、実際にアサシンクリードをプレイしながらの解説になる為、ゲームに関係している情報が簡単に得られ、観ることで、ゲームが何倍にも楽しく感じられるようになると思います。






【ネタバレ感想・考察】『哭声 ~コクソン』 疑う事そのものは悪い事ではないんだろう…

少し前のことですが、全国的には分かりませんが、私の近辺で『コクソン』という映画が話題になりました。
少し気になっていた所、Amazonプライムで配信されていたので観てみました。 という事で今回は、コクソンのネタバレ感想&考察を書いていきます。

簡単なあらすじ

冒頭部分。 キリスト教の聖書の引用から始まり、その後、舞台は韓国の農村に移ります。

主人公は、山奥の村の警察官。その主人公が住む小さな村で、家族をめった刺しにして放火するという悲惨な事件が起こります。それも、1件ではなく、間をおいて複数件。
家族が家族を殺して自分の家を放火するという事件は、小さな田舎町であっという間に広がり、様々な噂が囁かれだします。
しかし、噂は噂。 警察は科学的な調査をし、事件の原因は幻覚キノコによって引き起こされたという結論が出ました。

当初は、この検証結果を信じていた主人公の警察官ですが、その主人公に向かって同僚が『本当に、幻覚キノコが原因だと思ってるんですか?』といった疑惑を投げかけます。
それと同時に、最近、近所に引っ越してきた日本人が怪しいという噂をします。
最初はその話を鼻で笑っていた主人公ですが、事件の一部始終を観ていたという白い服を来た女の話を聞いていくうちに、次第にその噂を信じるようになってゆく。

その内、警察とは別に独自で調査する主人公ですが、それと時期を同じくして、主人公の娘が具合を悪くし、皮膚病にかかってしまう。
最初は、ただの病気だと思っていた主人公だが、事件を調査してくうちに、被害家族には共通して、皮膚病患者がいることが分かってくる。

自分の娘が危険な目にあっているという事で、真相を確かめようと、悪い噂になっている日本人に会いに行くと、そこで、何らかの呪術に使う祭壇と、娘の靴を発見する。
犯行を自身で目にしたわけでも、手口の解明や証拠が出てきたわけではないのに、その瞬間に、日本人を犯人だと確信する主人公。
その後、娘の様態が良くならない事など、良くないことが立て続けに起こった為、家族が祈祷師を呼び、お祓いしてもらう。

それでも改善しないため、今度は祈祷師に頼んで日本人を呪い殺してもらうことにするが、その儀式の最中に娘の様態が更に悪化した為、儀式を中止させて、今度は自身の手で日本人を葬ろうとする。
仲間を集め、日本人を襲撃に行く主人公たち。 なんとか日本人を追い詰めるも、あと一歩のところで逃してしまうが、襲撃の帰り道によそ見をしている最中に人を轢き殺してしまい、轢いた人間を確認しに行くと、追っていた日本人だったことが分かる。
周りに誰もいないことを確認し、死体を崖の下に落として証拠を隠して帰路につくと、祈祷師から電話がかかってきて、日本人は自分と同じ祈祷師で、悪魔を退治しようとしていた。本当の悪魔は、白い女の姿をしていると告げられる。

家に帰ろうとする途中で、悪魔と言われた白い服を着た女と出会い、問い詰めると、白い服を着た女の方は、日本人が悪魔で、祈祷師はそいつの仲間だと訴える。
どちらを信じて良いのか分からなくなる主人公だが、女の事を信じきれなかった男は、女を無視して家に帰り、悲惨な最後を迎える…

考察

何が何だか分からない作品なのですが、それでも観れてしまうというのは、所々にメッセージは散りばめられているからでしょう。
という事で、この散りばめられたメッセージを独自に読み解いていこうと思います。

先程、わけのわからない作品と書きましたが、この映画を観ると、何かの物語に非常に似ている事が解ります。
それは、キリスト教の聖書。『ヨブ記』です。

ヨブ記の話を簡単に説明すると、ヨブという、富にも子供にも恵まれた人物がいて、この人物は、非常に強い神に対する信仰心を持っていました。
神はヨブの信仰心に満足し、サタンを呼び寄せて自慢しますが、サタンはその信仰心に疑念を持ちます。 サタンは、『ヨブが神に対して信仰心を抱いているのは、恵まれているから。 また、信仰心を抱くことで、何らかの見返りを期待しているからだ』と主張します。
その主張を聴いた神は、『ヨブは、例え満たされていなくとも、信仰心を途切れさせることはないし、何の見返りも求めていない。 何なら、試してみると良い。』と、神は、ヨブから命以外の全てを奪うことを許可します。

サタンはヨブの全財産を奪い子供を殺しますが、神の言う通り、ヨブは信仰心を絶やしません。
サタンは、『ヨブから奪い取るという行為をしても、信仰心を絶やすことはない。』と悟り、ヨブの体に呪いをかけて、酷い皮膚病にします。
神の指示によってサタンから全てを奪われ、自身もボロボロになりながらも、ヨブは信仰心を絶やすこと無く神を信仰し続け、その姿をみたサタンは神の主張に納得します。

サタンの屈服に神は大いに満足し、ヨブにサタンが奪い取った以上の財産を与え、失った子どもたちと同じ数の新たな子供を授けたという話です。

この映画には、疑惑の日本人に接触した人間は、酷い皮膚病に感染して苦しむことになりますし、祈祷師は呪いを解くという名目で、多額の金を奪い取ります。
白い服を着た女は、それらの事を全て知った上で、その行為に介入しようとは思いません。
最後の最後で、主人公が『私がなにか悪いことをしたのか!』といった言葉に対して、『疑って、罪を犯した。』と答え、家に帰ろうとする主人公に対して、『私を信じて、ここに留まれ』と試すだけです。

結果、主人公は白い服を着た女を信じ切ることが出来ずに、最悪の最後を迎えてしまうのですが、これは、信仰心を保てなかったヨブの成れの果てを描いているのでしょう。

これを読まれた方は、『キリスト教の神様って、酷いな』という感想を持たれる方も多いかもしれませんが、この『ヨブ記』のエピソードで聖書が何を伝えたいのかというと、人間は、極限状態で本性が現れる。その本性が『善』でなければならない。という事でしょう。
この映画の主人公は、日本人がすべての元凶という『噂』を聴いただけで、確認したわけでも証拠が有るわけでもないのに、その日本人を殺すという罪を犯します。
主人公は、何もかもが満たされている時は、スキあらば仕事をサボろうとするだけの、その辺りにいる普通の人ですが、極限状態に陥った時に、主人公自身が持つクズ性が露わになったわけです。

『主人公は、キリスト教徒じゃないでしょ。』と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、元々、キリスト教の神という概念は、古代ギリシャ時代の哲学者、ソクラテスが訴えた絶対主義が派生して生まれたものです。
絶対主義とは、絶対的な『善』や『勇気』『美』『徳』といったものが有るという考えを元に、それらを研究するという考え方ですが、一神教の神という概念は、この『絶対的な概念』をイメージ化したものです。
神を信じないという人も、善や悪なんて存在も等しく無いなんて人は、少ないでしょう。 絶対的な善とは何なのか、勇気とは? それらの究極の形を統合したイメージが、『神』問いても良いのかもしれません。

絶対主義や相対主義なんて言葉に馴染みがない人でも、神といった存在をイメージする時、無意識的に絶対的な『善』や『美』というものをイメージしてしまいます。 それを、物語に落とし込んで、物語を通して様々な警告を行っているのが、聖書でしょう。

聖書に出てくる物語のように、絶対的な善を貫ける人間ばかりであれば、例えば、国同士が宣戦布告をして戦争になった場合、戦争は成り立ちません。
しかし、世の中の人間というのは、戦争を言い訳にして人殺し、身内を殺された事を言い訳にして仕返しする事が、『普通』とされています。

そういった『普通の人間』が世の中に溢れかえっている現状では、何かのキッカケが有るだけで、この世は簡単に地獄に変わってしまいます。
そういった事に対する戒め的な意味を込めたエピソードが、ヨブ記で、その影響を受けていると思われる『コクソン』も、そういったメッセージが込められているのかもしれませんね。

感想

この映画ですが、ジャンル的には、ミステリーとホラーを合体させたような話といえば良いのでしょうか…
舞台となっている村や主人公たちに対して害をなしている人物が、誰かというのが最後の最後まで全く分かりません。
最終的には、怪しい人物は『白い服を着た女』『日本人』『祈祷師』の3人に絞られるのですが、誰場嘘を付いているのかが、全く分かりません。

また、この話自体が、現実の話なのか夢の話なのか、何処から現実で何処から夢なのかが分からない様な作りになっています。
最初の部分で、主人公が同僚から初めて『怪しい日本人がいる』という話を聞いたときも、その話口調が怪談を話す様な感じになっており、その直後に、窓の外に裸の女がずぶ濡れで立っていて驚くというシーンが入った後に、主人公が悪夢から冷めた感じで自宅で目覚めるというシーンが挟まる。
この、『悪夢から目覚める演出』というのが2回ぐらい挟まり、どの部分が夢で、どの部分が現実なのかが全くわからない作りになっていて、かなり不思議な体験をさせられました。
もしかしたら、全編、夢の話なのかもしれないとも思ってしまったり。

そして、終盤。 疑惑の3人が出揃い、主人公に対し、それぞれ独自の主張をしだすのですが…
これが、誰が本当のことをいっているのか… というか、本当の事を話している人間が存在するのかも、誰が悪者なのかというのが全く分からない。

わからないもの尽くめなのに、何故か魅入ってしまう、不思議な作品でした。

現代には哲学が足りない

少し前に、ケインズの『雇用、利子および貨幣の一般理論』の漫画版を読んだのですが、そこには、『経済学者は哲学者でなければならない』といった事が書かれていました。
この意見に激しく同意したので、今回は、今の世の中に足りない『哲学』について考えていこうと思います。

ちなみに、ケインズの本の要約と感想はこちら。
kimniy8.hatenablog.com
kimniy8.hatenablog.com

今の世の中に哲学は必要ないのだろうか

私自身は、哲学というものは現代に限らず、どの時代であっても重要な物だと考えています。
そんな思いもあって、哲学を1から勉強し直し、その過程をネットラジオという形で配信していたりもするのですが…
goo.gl

世の中には、そう考えていないような方がかなり多いようです。
まとめサイトなどを読んでも『哲学なんて、何の役に立つの?』といったスレが定期的に建ちますし、飲み屋などで哲学的な問い掛けをしてみても、次の瞬間に『で、答えは?』と言われて、議論すら成立しない状態。
中には、『そんな訳のわからないことを考えるよりも、もっと、生産的なことを考えろよ!』と説教する人まで出てくるします。

多くの人が必要ないと思いこんでいる『哲学』ですが、では本当に、必要ないものなのでしょうか。

哲学とは何なのか

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哲学と聞くと、馴染みのない方にとっては、小難しい学問のように思えますが、実際に勉強してみると、実はそんな事はありません。
具体的に、どういった事を考える学問なのかというと、一言で簡単に説明するのであれば、『ゴールを決める学問』といえるのかもしれません。

ラソンの様な競技でもプラモデル制作などの趣味でも、何にでも当てはまることですが、ゴールが明確に定まっていなければ、進むべき方向もペースもわかりません。
その状態で走り出したとしても、当然、目的地に到達する事も出来ません。
それと同じで、人生における目標が決まっていなければ、自分が進むべき方向もわかりませんし、向かうべき方向がわからないということは、今、何をすべきかという事もわかりません。

ここで定める目標は、単純に、『将来は医者になりたい』とか『弁護士になりたい!』『一生、遊んで暮らせる金がほしい!』といった浅はかなものではありません。
もっと、根源的なもので、答えがあるのかどうかも分からないものです。 それを、自分自身の経験や知識を総動員して考えてゆくのが、哲学といっても良いかもしれません。

自分の夢は本当の夢なのか

抽象的な事ばかり書いていても理解し難いと思うので、例を挙げて少し具体的に書いてみます。
例えば、夢はなんですか?と聞かれて、『ポルシェに乗ることが夢だ!』と語る青年がいたとします。
彼の夢は、本当にポルシェに乗ることなのでしょうか。

例えば、彼の目の前に大富豪が現れて、その青年にポルシェをプレゼントしたとします。 その青年は、自分の夢がかなったので、この世で思い残すことはなく、死を迎えることが出来るのでしょうか。
おそらく青年は、ポルシェを手に入れたら、次の願望を口にしだすでしょう。 では、そもそも何故、ポルシェに乗りたいのでしょうか。
ポルシェに乗りたいだけであれば、高級車専門のレンタカーを借りれば済む話ですが、青年は、それでは納得しないでしょう。 『ポルシェに乗りたい』というのは表面的な願望で、本当の願望は、ポルシェを購入して維持できるだけの経済力なのかもしれませんし、その経済力に群がってくる人々かもしれません。

ほんの少し願望を吟味しただけで、青年の本当の夢は、ポルシェに乗ること自体では無い事が解りましたね。では、青年の本当の夢は、ポルシェを維持できる経済力、そして、それに群がる人々という事に仮定しましょう。
青年の願望はポルシェから、『お金持ちになって、異性など多くの人からチヤホヤされたい』という事に置き換えられたわけですが、この願望も深く掘り下げてみましょう。

経済力とはイコールお金ですが、そのお金は、不正な手段で手に入れても良いものなのでしょうか。お金を手に入れる事だけが最終目的なのであれば、その手段は何でも良いことになります。
グレーな仕事や違法な手段を使ってお金を手に入れ、大金持ちになったとして、それが青年の願望なのでしょうか。それとも、お金は、正攻法で手に入れるべきものなのでしょうか。
不正な手段でお金を手に入れるのを良しとする場合、そうしてまでしてお金を手に入れても、寄ってくる人間が目当てにしているのは、青年自身ではなく、青年が持つお金そのもので、青年の背後に有るお金に対してチヤホヤする事でしょう。
何らかの原因で、青年が全財産を失うなんて事になれば、カネ目当てで集まってきた人は、蜘蛛の子を散らすように消えるでしょう。青年が夢にまで観た『手に入れたかったモノ』は、そんな人間関係なのでしょうか。
それとも、青年がどの様な状態であれ、付き合ってくれる人間関係なのでしょうか。

青年が『不正は駄目だ!正攻法で!』と答えたとして、では何故、不正は駄目なのでしょうか。 捕まって刑務所に入れられるからでしょうか? 仮にそうだとして、絶対に捕まらない方法が有るとすれば、青年は不正を許すのでしょうか。
捕まる、捕まらないが問題ではなく、不正そのものが駄目だとする場合、最終目的には『正攻法で成し遂げられなければならない』という条件がつくわけですが、何故、その条件を付けなければならないのでしょうか。

青年が『正攻法で手にしなければ、他人からの尊敬を手に入れることは出来ない。 私が欲しい人間関係は、私が無一文になったとしても、私の元を去らない様なものだ。』と答えたとしましょう。
では、その人間関係を構築するのに、多額の金は必要なのでしょうか?人から尊敬される手段は、正攻法で多額の金を稼ぐことだけなのでしょうか?
そもそも、何故、人から尊敬されたいのでしょうか? 人から尊敬されることで、『幸福』が得られるからでしょうか?

そもそも『幸福』とは、何なのでしょうか?

この様に、世界に対して興味を持ち始めた子供のように、『何故? 何故?』という疑問を問い続ける事で、自分が本当に求めているものを発見することが可能です。

今の世の中に『徳』はあるのか

この様な考え方は、古代ギリシャソクラテスが生み出したと言われています。
人は、自分の体の外側の世界に興味を持ちがちですが、そんな中でソクラテスは、自分自身の内面に焦点を当て、徳とは何なのかについて、生涯をかけて考え抜きました。
結果としては、万人に伝えられるような形で言語化された答えは出ず、その後を継いで考えている哲学者も答えには辿り着いていないので、『徳』といったものがどのようなものなのかは判りませんが…

多くの人が分かるように表現するのであれば、『正義』『節制』『善』『勇気』といった、それぞれ別の価値観が持つ、共通する概念の事です。
先程あげた4つの言葉は、それぞれは別々のものを指し占める言葉ですが、共通する概念を含んでいそうですよね。 そういったものが、『徳』と呼ばれるものに近いものだと思われます。

この、『徳』がなぜ必要なのかというと、どんなに優秀なシステムを作ったとしても、そのシステムを利用する人間に『徳』がなければ、そのシステムは上手く機能しないからです。

企業は、利益率を最高レベルに上げる為に、派遣社員を雇って必要な時期だけ雇います。 派遣業者は、そういう企業に人材を派遣してピンはねする事で、多額の利益を上げます。
大企業から発注を受ける中小零細企業は、脅しに近い値下げ要求によって利益を挙げられず、ブラック企業になっていく。 何故、こんな事になるのかというと、投資家が、目先の利益を求めて四半期決算ごとに、つまり、3ヶ月毎に高い収益を求めるからです。
これらのサイクルに関わっている人達に、はたして『徳』は有るのでしょうか?

企業の究極的な目標とは何でしょう? 直近3ヶ月間の高い利益なのでしょうか。 それとも、持続的に利益を稼ぎ出すことなのでしょうか?

経済というのは『循環』です。
大企業が生産供給した商品は、誰が買うのかといえば、さんざん搾取してきた労働者たちです。
しかし、その労働者に満足な対価が支払われていなければ、当然、労働者は消費活動を行うことが出来ません。 消費が行われないということは、当然、企業が生産した物やサービスも売れません。
物が売れない中で、企業が利益を得ようと思えば、仕入れや人件費を削減する以外ありません。 ですが、それらの金を削減してしまうと、消費は更に落ち込んで、企業の売上は更に落ちます。

企業が本来の目的である持続可能な売上増を求めるのであれば、生産に関わる人達には、それ相応の対価を支払わなければなりません。 
市場に潤沢な資金を投入し続けなければ、経済活動は縮小していき、結局は、自分の首を絞める事に繋がります。

『情けは人の為ならず』なんて諺がありますが、自分の利益を追求するのであれば、自分に関わる人達みんなの利益を考える事が、一番の近道です。
労働者や下請けから、恫喝まがいで搾取しても、その企業のファンは増えずに、恨まれるだけです。皆から恨まれている企業が、未来永劫、存在し続けることが出来るのでしょうか。

この様なサイクルは、主に資本主義の国で起こりがちですが、そもそも国が資本主義を採用しているのは、何故なのでしょうか?
資本主義を採用することが、国民の『幸福』に直結すると思ったからではないのでしょうか? では、その資本主義の国に住む私達は、幸福なのでしょうか?

国家運営にしても企業経営にしても、その根幹の部分から『徳』が失われれば、最終的には破綻します。そして現在、そうなりつつ有ります。
こんな時代だからこそ、もう一度、哲学を勉強すべきなのではないでしょうか。

ケインズの経済理論が現在で通用しないのは哲学が欠けているから

この記事は、前回からの続きとなっています。
まだ読まれていない方は、まずはそちらから読まれることをおすすめ致します。
kimniy8.hatenablog.com

前回は、ケインズが古典経済学を否定し、新たな経済学に着手するというところまで書きましたので、今回は、その新たに作られた経済学を、より具体的に観ていこうと思います。

『需要』と『供給』 不景気の原因はどちらなのか

前回にも少し書きましたが、古典経済学とケインズが生み出した経済学の決定的な違いは、古典経済学が原因を供給サイドに求めたのに対し、ケインズは需要サイドに求めた事でした。
ケインズ以前は、モノの生産設備を持っている供給側が、価値の有る商品を生み出せば生み出すほど、価値が創造されていることにあんるので、経済が上昇すると考えられていました。

ものが作りすぎて余った場合は、値下げをすれば良く、生産能力をひたすらに上げていけば、企業は儲かり、商品の値段も下がっていく。
商品の値段が下がれば、労働者の実質賃金が上昇するので、その上昇分を給料カットで調整すれば、企業は同じ人件費の出費で、より多くの人間が雇えるようになるので、失業率も低くなる。
景気は自身でバランスを取るので、上手くいくという考えでした。

しかし、そのまま放任主義を貫いても、大恐慌で悪化した景気は一向にバランスをとることもなく、失業者は25%まで上昇し、景気の悪化に拍車をかけている。
この状態に対してケインズは、今まあでの経済学の考え方が間違っているのではないかと、新たな経済学を生み出すことになりました。

不景気の鍵は金利

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ケインズは、今までの自由放任主義を否定し、経済に対して政府が介入すべきだと訴えました。
市場に自由な振る舞いをさせるのではなく、政府が経済に積極的に働きかけることによって、景気を誘導しようというが、今までの経済理論と大きく違う部分です。

では、何処に働きかけるのかというと、金利です。
確かに、高金利状態が維持されていれば、お金は積極的に貯蓄しようと思います。仮に、年に7.2%の金利が貰えれば、預け高値は福利計算で10年で倍になるわけで、この事が理解できている人間であれば、お金を使おうとは思いません。
また、預け入れ金利が高いということは、借りた際の金利はそれ以上に高いことになります。 仮に、お金を借りて新規事業や設備投資をしようと思った場合、その高利の貸付金利以上のリターンが得られなければ、借金の返済が出来ません。

つまり、金利が高すぎた場合は、消費者はお金を使わないし、企業は投資を行わない。
逆に金利を引き下げて低金利の状態にすれば、消費者は預金をするメリットが無くなりますし、企業にとっては、借金をするためのハードルが下がるため、設備投資の需要が伸びる。
消費者の行動は、貯蓄から消費に流れやすくなりますし、企業の設備投資は伸びやすくなる。 2つの要因によって需要が伸びやすい地合が生まれるわけです。

金利の下げ方

金利を引き下げることで、経済を刺激することが出来る事がわかったところで、では、どうすれば、金利を引き下げることが可能なのでしょうか。
結果から書くと、市場に出回っている債権を購入し続けて、債券価格を上昇させてしまえばよいのです。
例えば、10万円で販売されていて、10年後に15万円になって返ってくる債権が有ったとすると、この債権を購入した際の利率は5%です。

利率とは年計算なので、10万円の投資で5万円の利息が貰えるのであれば、1年あたりの利息は5000円になるので、10万円の5%という事になりますよね。
余談になりますが、金利は年計算というのを覚えておくと、銀行などが行うキャンペーン金利詐欺に引っかかることが無くなるので、便利です。

キャンペーン金利詐欺とは、『今、オーストラリアドルを購入すると、金利が30%付きますよ!(3ヶ月限定で)』という広告で預金を集める方法です。
3ヶ月限定で金利30%と聞くと、人によっては、3ヶ月で元金が倍ぐらいになるのでは?と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、先程も書きましたが、金利は年計算です。
つまり、30%を12で割っ2.5%の金利を3ヶ月貰えるだけです。 外貨預金の場合は、為替手数料なども取られる為、それを差し引くと、大した金額にはならなかったりします。

話を戻しましょう。 10万円で販売していて、10年後に15万円になる債権が有った場合の金利は、先程も書いた通り、5%となります。
この利率を下げようと思うと、債券価格そのものが上昇すると、利息は下がることになります。
例えば、10万円で販売されていた債権が、12万円に値上がりしたとしましょう。 12万円に値上がりしたとしても、10年後に返ってくるお金は15万円なので、投資額に対する利益は3万円となります。
12万円を投資して1年で3000円しか貰えないわけですから、利率は2.5%まで下落することになります。

逆に、債券価格が下落して9万円になったとしましょう。 9万円の投資で15万円が帰ってくるわけですから、1年あたりの受取利息は6000円になりますから、利率は6.6%程度まで上がることになります。

政府による市場介入

債権も市場で売られている以上、価格は需要と供給で成り立っています。 つまり、債権を買いたい人間と売りたい人間を天秤にかけた場合、買いたい人間の方が多ければ、債券価格は上昇することになります。
では、誰が買うのか。 ここで、ケインズの政府による市場介入の話が出てきます。
政府が、お金を刷って債権を購入することによって、債券価格を高騰させて利率を下げ、更に、市場に現金を供給するという事です。

現金というのも、市場で取引される『価値を持つモノ』である為、政府によって市場に大量供給されてしまうと、価値が下がります。
現金の価値が下がるという事は、今までと同じ量のお金を出したとしても、同じだけの量の品物が買えなくなることを意味します。 簡単にいえば、物価が上昇します。
物価を上げることが出来れば、企業の業績は上昇しますし、企業の業績が安定的に上昇するのであれば、労働者の給料も上昇しやすくなります

労働者の給料が上昇すれば、その上昇分の何割かは消費に当てられる為、更に需要が伸びることとなる。
需要が伸びれば、企業には生産能力を更に上昇させる動機が生まれ、設備投資が更に上昇し、需要が伸びて、社会全体の景気は更に上向きになる。

企業が儲かる → 労働者の給料が上がる → 需要が伸びる …

政府による市場介入によって、このサイクルに持ち込むことが出来れば、大恐慌を抜けて、好景気に持ち込むことが出来て、失業問題も解決する。

経済学の存在意義

この様に、ケインズの経済理論は、どの様にして需要を生み出すのかという部分に注力して生み出されました。
古典経済学の様な自由放任主義ではなく、政府が積極的に市場に介入することで、経済の舵取りをするという発想を生み出したのは、経済学の存在理由を明確にしたとも言えますよね。
というのも、昔ながらの自由放任主義で、『経済は勝手にバランスが取れるから、人間は何もしなくても良いよ』という意見は、経済学者の存在意義がありません。

だって、放って置くだけで何もせずに、ただ観てるだけの存在なんて、この世に必要がありませんよね。
仮に、あなたが病気になって病院に行った際に、医者から『人間の体は、勝手にバランスが取れるように出来てるから、何もせずに放っていおくといよ。 とりあえず、私が観察しておいてあげます』って言われたらどうでしょう?
あなたはきっと、『医者って、この世に必要な職業なの?』と思うはずです。 何もしなくても、時間が勝手に解決してくれて、それが一番良い方法なのであれば、専門家なんて必要ありません。

では、実際の経済はどうだったのかというと、自由放任主義で何もしなかった結果、大恐慌に突入してしまったわけです。
そんな状態に疑問をいだいたのがケインズで、『自然に身を委ねるのではなく、経済学を利用して、不景気を抜け出すために積極的に行動を起こしていくべきだ』と訴えたんです。

ケインズの経済学と現状

経済の仕組みを考え、積極的に行動を起こすことを訴え、行動の起こし方を発明したケインズですが、では、その経済学は現在でも通用するのでしょうか。
結果としては、現状の世界経済を観てみれば分かりますが、上手く機能しているとは言えません。

では何故、上手く機能していないのでしょうか
答えは簡単で、ケインズの経済学の基礎となっている哲学部分が無視されているからです。
ケインズの経済学では、多国間の貿易については深く語られることはありませんでしが、それは何故かというと、国境を超えた貿易というのは、最終的には奴隷貿易や戦争に発展してしまうからです。
貿易というのは、1つの国が黒字を出せば、相手国は赤字を出すことになります。 世界全体の赤字と黒字は全て足し合わせるとゼロになるゼロサムなので、最終的には、弱い国に負担を押し付ける結果となってしまいます。
ケインズは、その事を予測していた為に、無駄な争いを避けるため、貿易に関しては積極的には言及しなかったようです。

これは、別に貿易に限ったことではありません。
人々が、自分の利益のみを追求すると、どんな素晴らしい理論を組み立てたとしても、結局は上手くいきません。
ケインズが否定したアダム・スミスの自由放任主義も、その根底には、利益を独占するのではなく、得た利益は社会に還元することが前提となっていたわけですが、それが無視された為に、上手く機能しなくなりました。

有名な経済学者が口を揃えて主張するのは、利益の独占ではなく、社会に対しての還元が行わなければならない。
その為には、一人ひとりが経済の構造をしり、徳を高めて、社会全体の利益を考えなければならないわけですが、競争社会の資本主義社会の元では、そんな精神は鼻で笑われ、皆が他人よりも一歩先を進む事しか考えません。
結果として、企業が挙げた利益は労働者に還元されること無く、資本家や企業が貯め込む形で肥大していき、二極化が進んでいます。

ケインズが、自身が編み出した理論で本当に伝えたかったことは、その根底にある哲学だったわけですが、その部分が無視され、小手先の技術だけを参考にされた為、上手く機能しなかったのでしょう。
最近では、『哲学なんて、何の役に立つの』なんて意見も頻繁に聞くようになりましたが、そんな状態では、どんな理論を持ってしても、結局は行き詰まる様な気がしてしまいます。

『神の見えざる手』に対するカウンター ケインズとは

私は昔、株式投資をやっていた頃に、独学ではありますが、それなりに経済について勉強した時期がありました。
当時は、主に株式に寄せた勉強をしていた為、それぞれの経済学者が書いた本を読むといった事はしていなかったのですが…
先日、まんがで読破シリーズのセールが行われていて、Kindle版が1冊10円で販売されていたので、改めて読んでみたので、その内容紹介と考察を書いていきます。

ケインズとは

本名:ジョン・メイナード・ケインズ
少しでも経済を勉強したり経済系の番組などを見ていれば、一度は、目にしたり聴いたりしたことはある名前だと思います。
この方の主張を積極的に取り入れている人などを、『ケインズ主義』なんていったりもしますよね。

では、この方は、どんな主張をした事で有名になったのか。 その事を、1から10まで分かりやすく説明されているのが、先ほど紹介した本だったりします。
有名なものでは、株式投機を美人投票に例えたりして、分かりやすく説明したり…
『不況の時には、公共事業をすれば良い。事業のネタがないのであれば、穴を掘ってアナを埋めれば良い』といったものがありますよね。

様々な発言で有名になっているのですが、この方を表舞台に引っ張り出したキッカケというのは、古典経済学の否定と、新たな経済学の創設です。

古典経済学とは

古典経済学とは、その範囲も居広いのでしょうが、先程溶解した本で説明されているのは、主に、アダム・スミス国富論で主張した理論です。
おそらく最も有名な話として世に広まっているのは、『見えざる手』によって経済はバランスを保っているので、その経済に手を加える必要は無いという主張です。
自由放任主義ともいえる主張で、これが本当であれば、なんの為に経済学者が存在しているのかが理解出来ない様な理論ですが、ケインズが登場するまでは、この主張が王道でした。

では、『見えざる手』とは何なのかというのを簡単に説明してみましょう。
経済というのは、基本的には需要と供給で成り立っていて、『需要』と『供給』が合致したところで、『価格』が決まります。
商品の『価格』が安すぎれば、買いが殺到して、商品の供給が間に合わなくなる為、価格が上昇する。 価格が上昇すると、消費者の『買いたい気持ち』が減少していき、需要が減る。
価格の上昇と需要の減少が『丁度良い所』まで下がったところが、商品の適正価格という事。

つまり、商品価格というのは価格がついている時点でバランスが取れているという事になります。
この、バランスというのは全てにおいていえることで、誰かが『こんな商品が欲しい!』と思えば、そこに商機が生まれるわけだから、自ずとその商品を作る企業が生まれる。
逆に、世の中に必要ないと思われているモノやサービスは、取引が成立しない為、市場から無くなる。

経済は自然とバランスを取ろうとするものなのだから、仮に、不景気といったイレギュラーな事が有るとすれば、それは、国が余計な規制をしているせいだから、国は規制緩和を積極的にすべき。
といった感じの理論です。
民間が出来ることは民間に任せて、国は、文化を守るとか、青少年の教育。 直ぐに利益に直結しないような、科学技術の研究といった事に専念すべきだとしました。
これをそのまま実行したのが、日本でいうと小泉政権ですよね。 規制緩和をしまくって、派遣労働者を単純労働にも使える様にしましたが…

その結果、今現在はどうなったでしょうか?

世界恐慌

アダム・スミスが提唱した自由放任主義が、そのまま上手く機能していたのであれば、ケインズは新たな説など作る必要はありませんでした。
しかし実際には、ケインズが生きた時代に世界恐慌に突入してしまいます。 町は失業者で溢れ、失業率は25%まで上昇。 経済は、全くバランスを取ろうと頑張ってくれません。

そこでケインズの妻リディアは、ケインズに、こんな感じで質問します。『何故、町に失業者が溢れているの? 景気は良くなるの?』
ケインズは、そのリディアの問いに対し、『経済学上は、失業者なんか1人も居ないよ。』と答えます。
町に失業者が溢れているはずなのに、経済学上は1人も失業者が居ないとはどういうことなのでしょうか。
当時の失業者の定義では、『働きたくないと思っている人』と『別の職場に移るから、今仕事をやめている人』の2種類しか無いとされていて、そのどちらも『自己責任による失業』である為、失業で困っている人間などは居ないというのが、経済学での常識だったようです。
しかし、実際の町には、『働きたいけれども、職がない』という人達が溢れている…

学問としての経済学と、実際の経済とがあまりに乖離し過ぎていた為、今までの理論を一旦捨てて、新たに理論を構築し直さなければなりませんでした。

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古典経済学とケインズの主張の違い

古典経済学で重要視されていたのは、供給サイドの話でした。 
当時の考え方としては、モノを生産すればする程に、価値有るものが創造されるわけだから、企業はただ、生産性の上昇のみを追い求めていれば良いという考え方でした。

ただ、生産性を向上させて物を大量に生産すると、実際には大量の売れ残りが出てきます。 その売れ残りを捨てると、生み出した価値が無意味なものになる為、企業は値下げによって対応します。
価値の有るものを値下げするわけですから、その値下げに応じて需要が生まれ、企業は商品を売り切ることが出来、わずかならが、利益が出る。その利益を、さらなる生産性の上昇のために再投資し、売れ残れば値下げして…
という事を繰り返していきます。 すると、市場の全体い的な物価が下がっていくので、労働者の実質賃金は上昇することになります。 つまり、モノ全体が安くなっているので、相対的に観て、給料が高くなっているという事。
不況になると、実質賃金が上昇する事になるので、労働者の賃金をその分カットすれば、企業の採算は悪化しない。

それに対してケインズの主張は、需要サイドを中心に考えるという主張です。
企業がどれだけ生産性を上げてモノを生産したとしても、値下げを行ったとしても、人は要らない物まで買おうとは思いません。
家庭に必要な冷蔵庫の数は、1個。広い家だとしても、2個もあれば十分で、いくら値下げされたとしても、それ以上、買おうとは思いません。

また、不況によって実質賃金が上昇し、その上昇分をカットした場合、労働者の実質の手取りは同じだけれども、名目上の賃金は減少していることになり、労働者の不安を煽ることになる。
労働者はそのまま消費者となる為、消費者が経済状態に不安を持つと、財布の紐は固くなり、結果として、消費はより抑制されてしまい、ものが売れなくなる。
後は、デフレスパイラルの循環によって、景気はどんどん悪くなり、失業者が街にあふれてしまうという事です。

アダム・スミスの理論によれば、放っておけば経済はバランスを取るはずなのに、実際の経済では、そうはなっていない。
その机上の理論と実体経済とのミスマッチを埋める形で新たに生み出したのが、ケインズの経済理論だったようです。

結構長くなってきましたので、具体的な話については、また次回にすることにします。
kimniy8.hatenablog.com

資本主義と、お金と愛情

先日、マルクスが書いた『共産党宣言』を読みました。
kimniy8.hatenablog.com
その際、最後に書かれていた部分で、かなり共感できる部分が会ったので、今回は、その部分だけに焦点を当てて考えていこうと思います。

最初に注意として書いた置きますが、『共産』という言葉にアレルギーがあり、こういう言葉を聞くとすぐに、『ソビエトで失敗してるのにw』とかいう方は、社会主義共産主義を勘違いしていますので、一度、共産党宣言を読むことをお勧めします。
社会主義は、資本家の代わりに国が搾取するという構造で、『共産党宣言』の中でも否定されている考え方ですので、お間違えないようにお願い致します。


どの部分に共感をしたのか

『個人が個人を搾取することがなくなれば…
それに応じて、国民による搾取も無くなってゆき

国民内部の階級対立がなくなれば…
諸国民同士の敵対関係もまた 無くなってゆく

そして家族にも、金銭的な打算的キズナでなく、愛が取り戻される』

この文章の全般に共感したのですが、特に共感できた部分が、最後の一文です。
どういう事かを一言で言うと、資本主義の世の中では、愛情というものが欣然的な打算的キズナに劣化してしまい、本当の意味での愛情を育む事ができないという事です。

金銭的な打算的キズナ

資本主義というのは、言い換えれば、お金を稼ぐ為の競争社会のことです。では、その競争は平等に行われるのかというと、そうではありません。
資本を持つものと持たないもので、最初からスタートラインが違うのは勿論ですが、スタート後に引かれている道も違います。

金持ちの子供は、持って生まれた資本によって道が整備されているだけでなく、父親やその上の代から受け継いできた人脈といった人間関係という強い追い風が吹いている状態です。
一方で貧乏人は、資本がない為に、最初は絶対に搾取対象の労働者にならなければなりませんし、人脈なども当然ありません。
それどころか、家が貧乏だと学校にも通えなかったりする為、低学歴といった烙印も押され、マイナスからのスタートとなります。

マルクスが生きた時代は、現状の私達よりも搾取がキツイ時代だった為、夫だけでなく、妻も、そして子供も働かなくては暮らしていけない程の搾取っぷりで、そこまでの搾取をしている分、資本家たちは裕福な暮らしをしていました。
この様な状況では、貧乏人にとっての家族は、最低限の生活を維持する為に必要な、金を稼ぐコマと成り果ててしまいます。
夫は肉体労働で体を酷使し、妻は、働くだけでなく、資本家が求めれば体も売る。 子供も、学校などには行かせてもらえずに、下働きをさせられる…

生きていくだけで精一杯の状態では、金銭的にも精神的にも余裕はなくなり、家族に愛情を注ぐ事もできなくなる。

では、金を持つ資本家はどうなのでしょうか。
資本家にとっての子供は、自分の財産を次の世代につなげる為の手段となる為、幼い頃から、その資産を継ぐのに相応しい人間へと教育させられます。
『子供が本当になりたいもの』『やりたいこと』なんてのは二の次三の次で、第々受け継いだ資産を、最低でも維持、出来るなら増やして、次の世代に託す事のみを望まれて育てられます。

人間関係も限定され、財産を増やす為に必要な人材を紹介されて、付き合うことになる。
結婚も同様で、資産をより増やすために必要な人脈作りの一環として行われ、全てが道具で、家族を繋げるものは、金銭的な打算的キズナだけとなる。

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資本主義と愛情

つまり、資本主義社会に置いては、労働者も資本家も、真実の愛というものが何か、わからなくなってしまうという事です。
資本家にとっては、自分の財産を全て譲り渡すことが、最大の愛情なのだと思いこんでいるのかもしれませんが、それは本当に、真実の愛なのでしょうか。

貧困にあえぐ労働者階級は、最低限の生活を行うための金銭を稼ぐだけで、日々の生活は終わっていきます。
その様な疲れ果てた家庭では、相手を思いやるといった精神的な余裕もなくなり、些細な事で揉めてしまうという事も、頻繁に起こるでしょう。

では、『子供だけには、こんな思いはさせたくない』と、勉強や習い事を強制させる行為は良い行動なのかというと、そうでもない。
確かに、全ての金銭を子供の注ぎ込む事で、子供が労働者階級から抜け出る可能性はあるかもしれませんが、それは結局の所、資本家が我が子に対して行っている事と同じで、金銭的な打算的キズナでしかありません。

『お金を稼がなければならない』
『稼いだお金は維持しなければならない』
これらの事が強制される資本主義の世の中では、人々の行動は『お金を稼ぐ』という一点において強制される為、そこに発生するのは純粋な愛情では無く、金銭を得る手段という皮を被ったものとなる。

現代における金銭と愛情

先程書いた事は、マルクスが生きていたような搾取がキツイ状態だから成り立っていた事で、現状では大丈夫と思ってはいないでしょうか。
少し考えてみれば分かりますが、この状態は、搾取の度合いによって起こっているわけではなく、全ての価値がお金に換算される資本主義だから起こっている事なので、当然のように、現在でも起こっています。

例えば、最近では『婚活』という言葉が定着していましたが、婚活パーティーやアプリ、なんでも良いのですが、何故、『年収』を書く欄が有るのでしょうか。
システムによっては、年収で足切りを決めていて、年収◯◯以上じゃないと参加できない。もしくは、それ以下を非表示にする機能なんかが付いていたりしますが、何故、そんな機能が付いているのでしょうか。
これは簡単に言えば、人間性を金に換算できると思い込んでいる人が多いから、そういう機能を便利だと思うし、付いていても不思議とは思わないんでしょう。

低学歴と高学歴、どちらがモテるのかといえば、高学歴が持てますが、何故、高学歴がモテるのでしょうか?
高学歴の方が、高い年収を稼ぐ可能性が高いから、モテるんですよね。 仮に、東大卒の借金数千万円のホームレスがいたとして、その人はモテるのでしょうか?
医者・弁護士といった人がモテるのは、何故でしょうか? 困っている人を助けるような職についているから、人間的に優れていると思う人が多いから、モテるのでしょうか? それとも、年収が高いからでしょうか?

子供が生まれた際に、良い保育園や学校に入れたいと思うのは、何故でしょうか? そうすることで愛情が注げるからでしょうか? それとも、そうする事で高い年収が得られるからでしょうか?

人間関係と金

これは、家族といった間柄だけの話ではありません。
例えば私は、独りで呑みに行く事があり、10年以上に渡り、月に数回は呑みに行くという生活をしています。
月に数回なので、それ程、回数が多いというわけではありませんが、10年以上も続けていると、馴染みの店も出来ますし、そこで人間関係なども生まれたりもします。

ですが、例えば、店を経営している人と、本当の意味での人間関係が築けているのかというと、それはわかりません。
というのも、私は、特定の店に行って『お金を払って注文する』という行為を行っているわけです。 私の行動は、店側にとっては利益に直結する問題なので、そこで純粋な人間関係が築けていると思うのは、純粋過ぎるでしょう。

向こう側からすれば、私の機嫌を損ねると、売上が減る可能性があるわけですから、気分を害する用な事は極力言わないように気をつけるでしょう。
しかし、そんな関係が、本来の意味での人間関係なのでしょうか? 本来の人間関係であれば、私が傷つくような事で有っても、言わなければならない事も有るでしょう。
ですが、それが『営業』であるならば、そんな事は言わないでしょう。
こういう事は、一度、疑い出すとキリが無くなります。例えば、店側の人が、私と本当に人間関係を築きたいと思っていたとして、店が休みの日に、私を遊びに誘ったりしたとします。
ですが、そういった『営業』も有ります。 私はいった事がありませんが、キャバクラなどは、同伴やアフター、休日を使った『営業』を積極的に行っているわけで、ショットバーでそれがないとも言い切れない。

結局の所、疑おうと思えばいくらでも疑えるわけで、その真相は、相手が店をやめて、利害関係が無くなったとしても人間関係が切れていないという事実を持ってしかわかりません。

こういう意味合いでいうと、社会人になってからの交友関係というのは、『利害関係がない』事が重要になっていたりします。
『利害県警がなく、その人物と一緒にいても、金銭的なメリットがない。 けれども、一緒にいたいと思うから、その人の事を大切に思っているのだろう。』という事です。
ただこれも、資本主義的な人間関係に対するカウンターとしての考え方に過ぎないわけで、本来の意味で縛られない考え方をしようと思うのであれば、資本主義からの呪縛から開放されない限りは無理なんでしょう。

絆・愛情・信頼関係。
私は、幸福というものがどういうものかというのが、まだ、わかりませんが、幸福という状態になる為には、先程、挙げた3つは、欠かせないものだと思っています。
しかし、それすらも金銭に置き換えて考えてしまうというのは、『幸福』というものから、どんどんと遠ざかっているような気がしてならないんですよね。