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【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿 】第32回 【ヒッピー】ティモシー・リアリー(8) ~ビーイン後に新たに生まれた価値観

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この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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前回の放送では、サンフランシスコ・オラクルという雑誌が企画・開催し、1967年に行われたヒューマン・ビーインというイベント。
そして同じくオラクルが、サイケデリック文化に造詣の深い人物たちを集めて、ビーイン後に企画した、会議について話していきました。

簡単に説明をすると、ビーインという企画その物が、それぞれ考え方の違うヒッピーコミューンの考え方の統一を狙ったイベントでした。
このイベント後に改めて、ヒッピー文化に深い理解を示している知識人を集め、現状を把握しようとしたのが、その後の『ドロップアウトであるべきか 新左翼であるべきか』という会合でした。

ヒッピー文化の主張の大本は、中央集権から分散型社会へ、そして、平和主義、非暴力、フリーセックスといったものが基本的な考え方となり、発展していったのですが…
その後、この運動は様々な考え方をする団体を取り込んでいき、大きな社会現象へと発展していくことになります。
その中でも目立ち始めたのが、新左翼集団だった為、この様なタイトルが付けられた会合が、ビーインの主催者によって企画されたのでしょう。

ドロップアウトとは、今まで常識とされていた社会から抜け出すという様な意味合いがあります。
中央集権的であったり資本主義であったり、それを前提とした大量生産・大量消費社会や、経済拡大の為の侵略戦争など、これまで前提となっていた社会からの離脱ですね。
この離脱の手段として、今までにない価値観の提示であったり、今まで否定してきた文化の再評価、これは、帝国主義の名のもとに滅ぼされた民族の文化の見直しなどですね。
シャーマニズムであったりヨーガやアロマテラピー等の、他の文化の見直しなどと捉えて良いでしょう。
今まで前提とされていた価値観が間違っていて、それを改革する必要は有るけれども、それをテロなどの暴力ではなく、対抗する文化をぶつけることによって変えていこうという考え方で良いと思います。

その一方で新左翼は、より早い改革を望んだ一派と捉えて良いと思います。
そもそも左翼というのは右翼の逆で、その右翼というのは保守という意味合いが有るので、今までの流れを継続していく右翼に対して、時代の変化と共に考え方を変えていくべきというのが左翼と呼べれています。
こういった意味合いなので、今までのシステムに対して不満を持ち、その社会のシステムから自らドロップ・アウトしようと活動しているヒッピーその物も、考え方としては左翼です。

では、左翼と新左翼とは何が違うのかというと、その違いは、理想を実現する為のスピードと、その行動に有ります。
現在の世界の政治を見てもわかりますが、どの時代にも、左翼勢力というのは存在します。日本でも、基本的には自民党が政権を握り続けていますが、共産党といった今までの流れに反発するような政党は存在します。
アメリカでも同じで、システムを運営している側だから、全ての政治家が保守的なのかというと、そうでもなく、当時のアメリカにも左翼的な主張をしている政治家や団体は存在しました。

正攻法で改革を望むのであれば、この様な人達を皆で応援して、与党にしてしまうというのも、一つの方法です。
しかし新左翼の考え方は、これら従来の左翼は権力にしがみつき、戦わない左翼であるとして批判し、認めなかったんですね。
穿った見方をすれば、政治家として申し訳程度の比率で存在している共産党議員は、右翼政党からすると、絶対に政権は取れないけれどもガス抜きとしては利用価値があるという位置づけの人間で、捉え方によっては、権力側で役割を担っている人間とも見れます。

ガス抜きとして権力側に飼われているだけの存在なので、同士ではないという事なんでしょう。
そういう今までの左翼に対して新左翼というのは、自らは戦闘的左翼または革命的左翼であるして、スピードを重視した革命を目指す為、過激な直接行動をもじさないような考え方です。
簡単にいえば、実際に武器を持って立ち上がり、システムに対して革命を起こそうという集団です。 

この様な、理想を実現するためには暴力行為を辞さない人達と、暴力行為そのものを否定して、新たな文化や価値観を定着させることで、民衆の意識そのものを根本的に変えていく事を目指したリアリー達とは、意見が一致することも無かったんですね。
簡単にいえば、新左翼から見れば、ヒッピー達は、大層な理想だけを掲げるけれども、行動を起こさない口だけの腰抜けに見えますし、ヒッピーから見れば、暴力行為を辞さない新左翼達は、問題の本質が見えてないという事になるんでしょう。
物事を考える前提の時点で意見が別れている為、いくら議論を重ねても平行線をたどるだけで、分かり合えることはなかったんでしょう。

またビーインその物の存在を、疑問視する人達も出てきます。 その一派は、第28回でも紹介した、ディガーズです。

ディガーズの根本的な考え方というのは、そもそもが、ヒューマン・ビーインを企画したサンフランシスコ・オラクル誌と違います。
ラクルがビーインを開催した目的は、それぞれバラバラの思想を持ったヒッピーコミューンの意思を統一するためと言いましたが、それだけではなく、ヒッピームーブメントという活動が有るということを、
大規模なイベントを開くことで、世間に広める目的もあったんです。
数万人が集まる大規模なイベントを行えば、ニュースに飢えたマスコミは放って置いても取材に来ますし、新聞やTVを通して、ヒッピーという人達の存在をより多くの人達に知らしめることが可能です。

新聞やテレビなどの各種メディアを通して、ヒッピーという存在を知った人々が運動に流れ込み、流れ込んだ人々が更に身近な人達に思想を伝えていけば、その人数は指数関数的に増えていく可能性も有ります。
規模が大きくなればなるほど、各種メディアでの取扱も大きくなります。 世の中に対する影響力を大きくする事で、それを後ろ盾とした発言力も大きくなると思ったんでしょう。

それに対してディガーズの根本的な考え方というのは、マネーゲームからの脱却です。その為に、自らが行動して、食料の無料配布や物資の開放といった事を、率先して行ってきたわけですが…
そんなディガーズの考え方の対極に位置するのが、マスコミですよね。 マスコミは、商品・サービスを販売したい企業をスポンサーにする事で番組作りを行って、視聴率を稼ぐことで、広告枠をより高く販売する仕事です。
いってみれば、マスコミとは大量生産大量消費社会をより促進させる為の装置で、そんなマスコミの玩具にされてコンテンツを提供するという事は、マネーゲームに加担する事を意味するので、許せないことだったんでしょう。

また、グレイトフル・デッドのような象徴となるスターを担ぎ出して宣伝をするという行為にも、異論があったようです。
メディアの露出や、有名人の起用というのは、消費社会の象徴となっているテレビなどで使い古された手法ですが、単純にそのテレビ的な手法が気に入らないというだけではなく、問題はそれによって集まってくる人達の質ですね。
思想やそれに伴う活動というのは、本当に理解して集まってくれる人間というのは、どれだけ集まってきたとしても、邪魔にはなりません。むしろ、同じ考えの同志が増えるのは、喜ばしいことでしょう。

ただその一方で、テレビなどのメディアで知って集まってくる様な人たちというのは、どうなんでしょうか。
その様な人たちすべてがそうだと言うつもりはありませんが、そうして集まった人達の多くが、活動に参加することが格好いいからという、ファッションとしての動機で集まって来る為、元からいた人達にとっては邪魔でしかありません。
こうした、思想の根本的な部分を理解していない人を大量に集めたとしても、現場が混乱するだけですし、ファッションとして集まった人達は、ブームが去ると同時に去っていくので、意味が無いと考えたんでしょうね。

この様に、自分達で考えて行動する人達のそれぞれの主張は食い違うという状況で、ビーイン後にそれらが統一されることもありませんでした。
結果としてビーイン後は、それぞれのコミューンはそれぞれの道を進んでいくこととなるんですけれども、このあたりややこしいのが、その一方で、自分達の確固たる意志や主張を持たない人達は別で、
この人達は打ち解け合って融合し、新たな価値観を作っていくことになるんですよね。
その新たな価値観とはどういったものなのかというと、難しい言葉を使って格好良くいうと、これまで常識となって世界を引っ張って来たブルジョワ的価値観と、プロテスタント的労働倫理観からの開放ですね。

ブルジョワ的価値観とは何なのかというところから説明していくと、ブルジョワジーという言葉は生まれた時代が古く、その後、時代が移り変わる毎に意味合いも変わってきていますので、一概にはいえないんですが…
ここでいうブルジョワ的価値観とは、資産階級のことですね。 昔は、王様と一部の貴族が領地を支配するという封建制度によって収められていた国が多いのですが、市民革命によってその構造は変わり、身分制度による階級というのは無くなります。
ですが産業革命以降、土地を支配する貴族という領主に変わって、金によって土地や工場を所有し、そこで働く労働者を支配する、資本家という新たな階級が登場することになるのですが、ブルジョワ層とはこの産業資本家という資産階級の事を指します。
ブルジョワ的価値観とは、資本家がお金という資金を投下し、その投下された資金で労働者を雇う事によって、投資資金をより増殖させていくという価値観の事と考えて良いと思います。

プロテスタント的労働倫理とは、キリスト教の一部であるカルヴァン主義をベースにした考え方です。 ここでは詳しい説明はせずに、ざっくりとした説明だけをします。
まず、プロテスタントですが、宗教改革によってカトリックから分派した宗教で、分裂した後、多くの人達が新大陸であるアメリカに移り住んだので、アメリカの考えのベースとなっていると考えても良いかもしれません。
その肝心な考え方なのですが、従来の考え方と大きく違う部分は、お金の捉え方です。

そもそも、プロテスタントというのは、カトリック教会のお金に対する姿勢が気に入らないということで、革命が起こって生まれた宗派です。
それまでのキリスト教というのは、魂を救済してほしければ、教会に多額の寄付をしなさいという感じでお金を集めまくって、豪勢な教会を建てて、有名な画家の宗教画を飾るという感じで、浮世離れした空間を演出することで、信者を集めてきました。
その行動が行き過ぎて、最終的には、仮に罪を犯したとしても、教会が発行する免罪符という御札を買えば救われるというところまで落ちてしまうんですね。

その様な教会の行動に異論を唱えたのがルターという人物で、教会の無駄遣いを否定して、本来、有るべきキリスト教に戻そうとして生まれてのがプロテスタントです。
カトリック教会では貼り付けにされたキリスト像を掲げていますが、キリスト教は本来、偶像崇拝は禁止です。この教義を厳密に解釈すると、キリスト像を崇拝す事は教義に反することになりますので、像は置かないし崇拝もしません。
当然、豪華な内装や高価な宗教画なども置かないという感じで、本来の教えを忠実に行おうとして始まりましたので、お金のに対する考え方についても、一部で考え方を改めることになります。

キリスト教の従来の考え方としては、お金を貯め込む事はそれ自体が罪悪とされていたので、お金を多く得た人というのは恵まれない人に施す事で、その罪から逃れられるという考え方でした。
お金というのは、その性質上、一箇所に集まる傾向があり、多くのお金を持つ人には、更に多くのお金が集まってくるようになります。
キリスト教は、神の前では人は平等だと謳っているわけですが、貧富の差が決定的となると平等とはいえず、お金によって上下関係が生まれてしまうことになります。
それを防ぐ為にも、教義によって再分配を促そうという工夫をしていたのでしょう。

その一方でカルヴァン主義は、神は全能であるのだから、当然、未来のことも見通せると考えます。
神が未来のことも見通せるのであれば、神に愛されるべき善人は、死んだ後ではなく、自分達が生きている人生の中で祝福を与えてくれるはずだと考えます。
では、どのような祝福を与えてくれるのかというと、どんなものでも手に入れる事が出来るお金をたくさん与えてくれる。つまり荒っぽい言い方をすると、金持ちというのは善人で、神から祝福された存在であるという事ですね。

では、貧乏人は悪人で、神から見放されているのかというと、そうではなく、善行。つまり、一生懸命働いてお金を貯める事で、神に救済されることになる。
つまり信者の全てが、個人と社会全体に対して役に立つことを行うことで、その活動を行ったものには自然とお金が集まってくる。逆に、働かない怠惰なものは社会に貢献しないので、神からも見放されるという事です。
人は自分が望まないサービスは使わないし、お金も払いたくないと思うので、お金を得るという事は、それだけ多くの人から必要とされている行動を行ったという事になるので、社会に貢献している善人だという考え方なんでしょう。

新たに生まれた階層のブルジョワ層と呼ばれる資本家は、自己資金を投資することによって新規事業を立ち上げて、労働者を雇う。
雇われた労働者は、働いた時点で日当や時給がもらえる為、安定した収入を得ることが出来る一方で、資本家は事業が失敗するリスクを取るので、成功した際は、相当な利益も得ることが出来る。
その新規事業が、本当に社会が欲しているサービスを提供しているのであれば、皆がお金を出してサービスを利用してくれるので、事業は成功しますし、投資家はお金を得ることで神から救済される。

ブルジョワ的価値観とプロテスタント的労働倫理、この2つを踏まえた上で生まれる社会がどういうものかというのをイメージすると、それは現状の資本主義社会ということになりますよね。

この2つでワンセットになっている価値観に乗っかる形で、アメリカというのは成長してきたわけですが、よくよく考えてみると、この前提にはおかしなところが有りますよね。
例えば、現状の日本を想像してもらうと分かりやすいと思いますが、親会社・元請け、言い方はなんでも良いのですが、上流に有る会社が、下請け、孫請け等に事業を丸投げして、利益だけピンはねするという状況が、現在の労働環境の問題としてあります。
では、ピンはねしている中間業者は、神によって祝福されているからお金が得られるのでしょうか?搾取している側が善人で、搾取されている人間は自業自得の悪人なんでしょうか。

この価値観を受け入れられない、資本主義によって追い詰められた人達、つまり貧民層は、再分配を行わない巨大資本や富裕層が悪いんじゃないかということで、団結し始めるんですね。
簡単に言ってしまうと、社会的地位もなく、金銭的な余裕もない。でも、自分自身の主張を持っているわけでも目指している方向が有るわけでもない。
ただ、漠然と世の中に対して不満は持っているけれども、何をどうして良いのかわからない若者たちというのが、ビーインなどを通して、新左翼という存在を知り、彼らが掲げる共産主義的な思想に傾倒していったということなんでしょうね。

という事で、ビーイン関連の話をまとめると、オラクル誌はライブ活動などのイベントを通してヒッピーコミューン達の意思の疎通をはかりたかったんですが、確固たる意思を持つ人達が分かり合う事は無かったんですね。
ただ、その楽しそうなイベントと、そのイベントが掲げる新たな価値観や新時代の到来といったものに引き寄せられた、資本主義に疑問を持っていた若者たちの一部は、新左翼達と知り合うことで、価値観を融合させていくことになります。
注意としては、価値観が融合しただけで、多くの若者達が新左翼の一員となって過激な行動に走ったというわけではないということなんですけどね。

これまでの前提となっている社会からのドロップアウト、このドロップアウトも、リアリーが主張しているような高いレベルのものではなく、特に思想も持たず、社会に対して反発してみて、時にはデモに参加してみるといった人達といえば良いんでしょうかね。
悪い言い方をすれば、反社会的な思想がブームになるといいますか・・・ 真面目に働くよりも、そんな社会からドロップ・アウトして、ドラッグをやりながらフラフラして過ごす。
そんな生活を肯定するために、ヒッピーや新左翼達の主張で理論武装をして、言い訳にする。 そんな人達が各地で行われたイベントによって急増しだしたと捉えても良いのかもしれません。

この様な感じでヒッピームーブメントは、その上流にいる人達の意思疎通は行われなかったのですが、下流に位置する人達は似たような思想を共有して、団結し始めるという状態になっていったようです。
そして、この流れが、このムーブメントの終わりの始まりとなるわけですが、その話はまた、次の機会に話したいと思います。