だぶるばいせっぷす 新館

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【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿 】お蔵入り その(2) イギリス経験論 ヒューム

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今回の投稿は、Podcast配信初期、まだ方向性が決まってない頃に書いたけれども、結局は没になった原稿です。
書いた時期としては、第2回配信分直後です。
今のように全文を書いて読み上げるだけというスタイルではなく、ヒント的なものを書いて話す文章を考えるというスタイルだった為、分としては読みにくいと思いますが、御了承ください。

没になっていない原稿を使ったPodcastは、こちらのリンクからどうぞ。
goo.gl

これに異論を唱えたのが『イギリス経験論』のヒューム
ヒュームは『イギリス経験論』のリーサルウエポンと呼ばれた人物という紹介のされ方をしている。

前回の放送でもいいましたが、 デカルトの『我思う故に我あり』という最初の一歩は素晴らしかったのですが、それ以降の神秘的なものを持ち出しての超展開は批判されることになります。
そのデカルト批判の中から生まれた 哲学体型の一つがイギリス経験論
イギリス経験論とは、経験を重視する考え方で、デカルトが主張した演繹法とは違った考え方
帰納法(きのうほう)と呼ばれる考え方を使う。

編み出したのは、フランシス・ベーコン
1561年生まれのイギリスの哲学者 神学・法学 貴族 政治にも関わっていた

経験論 帰納法という考え方は
演繹法(えんえきほう)が、最初に揺るぎない前提を置いてから、一つ一つ事実を積み重ねて階段を作るような感じで、理論を積み上げて心理に近づこうとするのに対し
感覚的な経験を重要視した考え方

何故、理性によって生み出された確からしい理論を否定して、経験を重視したのかというと、人間の理性は偏見によって歪んでいるから
歪んだ理性を元に作られた理論は、当然のように歪んでいる もっと客観的な事実のみを重要視した

偏見=イドラ イドラは4つある
種族のイドラ
洞窟のイドラ
市場のイドラ
劇場のイドラ

一つ一つ説明すると

種族のイドラは、人間は人間の目を通した風景しか観ることが出来ないということ
太陽や月は、常に同じ大きさで存在しているにも関わらず、存在する市によって大きさが違って見える 
目の錯覚だが、人間である限り、これを前提とした情報しか得ることが出来ない。 人が太陽や月について考える時、錯覚を前提とした思考になってしまい、そこから派生した理論は間違う。
花も同じで、虫を利用して花粉を運ばせているような花は、虫にだけ見えるような発色をしていて、人間が観ても地味な花にしか見えなくても、虫からすれば派手に観てているということが有る。

同じ花でも、種族が違えば全く違ったものに見えるが、人間である以上、人間以外の視点を持つことが難しくなる為、人間の考えは人間による偏見が入ってしまう。
世界や真理は、人間だけのものではない

洞窟のイドラは、人間にはそれぞれの個性があり、また、性癖、習慣、教育や狭い経験などによって、ものの見方がゆがめられる
文化や教育環境が変わることで、考え方が変わるということは想像するのは難しくない
人を特定の空間に閉じ込めて、限定した情報のみを与えて思想を操作する洗脳などが分かりやすいかもしれない
私達が、カルト集団に洗脳された人達を見た際に、『目を覚ませ』と思うのと同じように、日本という限定された空間で、限定された情報だけを得ている人は、独特な考えになっている可能性
もっと広い視野を持つ人間からみれば、限定された地域から出ずに、日本語で発信されているニュースだけを観ている私達は、洗脳されている状態に見えるかもしれない

市場のイドラは、「人類相互の接触と交際」から生ずるイドラ
例えば、Aさんから、また出会ったことがないBさんとう人物が、胡散臭い人だと教えてもらった場合、その時点で先入観にとらわれて、Bさんと接する際には警戒心を抱いてしまう
でも、Bさんはそんな人ではなく、例えば、Aさんの方が、普段から常識がない様な振る舞いをしている人で、Bさんはそれを注意し、それを根に持ったAさんが、Bさんの悪口を言っているだけかもしれない
これは、Aさんによる誤った情報による偏見ですが、これを見極めるためには、先入観を振りほどいて、Bさんと一定期間 付きあって確かめるしかない

最後の劇場のイドラは、wiki引用で「哲学のさまざまな学説から、そしてまた証明のまちがった法則から人びとの心にはいってきたイドラ」
これは、権威のある人や団体の意見は、確かめもせずに信じやすいという偏見。
例えば、この『だぶるばいせっぷす』というコンテンツは、高卒の私が発信しているだけのコンテンツ 高卒と聴いただけで、大卒の人は『この内容はあってるの?』といった、
偏見・見下しといった感情を抱く人もいらっしゃると思います
このコンテンツ時代は、懐疑的な目で見てもらって、自身で調べて勉強してもらうということも念頭に置いて発信しているので、疑問に思ったことは、そのまま信じずに、自身で調べてもらえれば良いと思う

これが、東大の◯◯教授が言ってたとなると、無条件で信じる人は、多いんじゃないかと思う、教授ならまだましだが、テレビで言ってたからというのは、もっと酷い
某女優が、水素水が体に良いって言っただけで、そこら中に水素水のサーバーが置かれることになる。
テレビでも大学教授でも、間違ったこという事はあるんですが、偏見によって、迂闊に信じてしまう事が結構ある

この様に、人間の思考というのは偏見によって歪んでいる。
しかし、デカルトが採用した演繹法は、最初に前提をおいて、人間が思考することで確からしい事実を積み上げていく方法
人間の思考そのものが偏見によって歪められているのであれば、思考が積み上げられる度に歪みは大きくなっていくので、行き着く先は真理から程遠いものになっていく

この為、人間の思考に頼らない方法を見つけようとして生み出されたのが、帰納法
独断を避けて、客観的な目線で観察と実験を行って、集めてきた情報を帰納法によって整理することで正しい解析に到達することができるとする。
簡単な例で説明すると、特定の条件のもとで人がどのような行動を取るのかについて、考えるとします
演繹法の考えでは、人がその様な環境に置かれた場合は、こんな思考をするはずで、結果としてこの様な行動を取るのではないかと、段階を踏んで思考していきます。
その一方で帰納法では、とりあえず1000人ぐらいに、どんな事を考えるのかをアンケート取ってみて、可能であれば、その環境を作って実験してみれば良いんじゃない?という感じで
この考え方は、今の科学にも通ずる考え方ですよね

帰納法の考え方は これぐらいにして、本題のヒュームに入っていこうと思います。
ヒュームは、我思う故に我ありの『我』の部分に噛みつきます。
確かに、疑っている『私』という存在は確かなものなのかもしれないが、そもそも私とは何なの?
我思う故に我ありなんていい方をすると、まるで『疑っている私』という存在が、肉体から離れた霊や魂といった、精神的実態として別に存在して、客観視しているような物言いだけど、そんなものあるんですか?
そもそも私という存在なんか、痛みを感じたり、ものを聴いたり、何かに触れたりと言った様々な知覚・五感や感情が継続する事によって生じる擬似的な感覚にすぎないですよ。と言い出す。

これによって、デカルトの『我思う故に我あり』という我は、自身が感じている感覚のみという、極限状態まで限定されて、認識と言ったものは否定される事になります。
というのも、人間の認識なんて当てにならないからです。

皆さんも経験があると思うのですが、記憶違いや目の錯覚って結構有りますよね。
例えば、有る物を初めて目にして衝撃を受けた経験があったとして、その後、それを観ないままに数年が経過。
それを観ていない期間も、反芻するように何度も思い出して、『あの経験は凄かった。』と思うことで、その経験がドンドン美化されていく。

時には、その経験を少し盛った状態で、何人もの他人に話し続けることで、話している本人も、その話をどれだけ持ったのかがわからなくなってくる。盛った自分自身の話を信じることで、記憶が上書きされる
その後、その対象を再び目にした際に『こんなんやったっけ?』と思うことってないですか?
他にも、恋に落ちている人とそうでない人とで、同じ人物を観たとして、認識は違っている。アバタもえくぼ 欠点が魅力に見えることもある

認識なんてものは、確実に信用できるものではない。人間が自由に作り出したり操作したり出来るもの
この主張を展開し、ヒュームはあらゆるものに懐疑の目を向け、神や科学ですらも否定します。