だぶるばいせっぷす 新館

ホワイトカラーではないブルーカラーからの視点

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿 】お蔵入り その(1)

今回の投稿は、Podcast配信初期、まだ方向性が決まってない頃に書いたけれども、結局は没になった原稿です。
書いた時期としては、第2回配信分直後です。
今のように全文を書いて読み上げるだけというスタイルではなく、ヒント的なものを書いて話す文章を考えるというスタイルだった為、分としては読みにくいと思いますが、御了承ください。

没になっていない原稿を使ったPodcastは、こちらのリンクからどうぞ。
goo.gl
ソクラテス無知の知によって、心理を追求するためのモチベーションを取り戻したが、そんな簡単には真理は見つからない。

時代は流れて、次の舞台は、約2000年後の1600年。
登場人物はデカルト 本職は数学者
有名な言葉 『我思う故に我あり』

デカルト以前は、11世紀以降に確立したにスコラ哲学が学問の主流。
スコラ哲学は、西方教会キリスト教神学者で、当初は『本当の生き方とは何なんだろうか』といった哲学的なことを考えてた

時間の経過によって、徐々に哲学は進学を補佐するための学問になっていき、最終的には『針の上で天使は何人踊れるか』といった事を考える様な学問になる。
『針の上で天使は何人踊れるか』というのは、スコラ哲学に疑問を投げかけるために作られた皮肉という見方も 真偽の程は確かではない
キリスト教の教え以外を排除 ギリシャ時代に生まれた哲学や学問も、キリスト教の教えに合わなければ、排除されていった
中世暗黒時代
ダ・ヴィンチ・コード 科学者がキリスト教によって弾圧され、その復讐のために事件を起こすっていう始まり

文化的な進歩としては停止している状態で、

また、教会の腐敗を指摘する宗教改革(免罪符の販売
キリスト教その物を疑問視する社会に変化

日本でも同じで、死んだ時に、寄付金の金額に寄って戒名を変えたりする

神様を盲信するのではなく、科学・数学など 人間の理性の可能性を追求していく時代。
中世から近代への変化

デカルトも この様な考え方に疑問を持ち、方法的懐疑という方法で今までの流れに変化をもたらそうとする
デカルトは数学者としても優秀で、『x軸・y軸からなる二次元の座標系』
これを調べてみたが、グラフと数式が出てきて、言葉では物凄く説明しにくいので、ものすごく簡単に説明すると 縦軸Y 横軸にx 日本の基準線が交わるところを0にして、YとXの平行線を同じ感覚で引いていってマス目を作る。
ポイントをPとし、P(xの値.Yの値)という書き方にして、P(3.2)と書くと、X軸に3マス進んでY方向に2マス上がった所という表現ができる。
ちょっと違うとは思いますが、Minecraftの地図のようなもの マイクラの場合は高さも有るので3次元ですが
他には、画像編集ソフトで座標を指定してトリミングする場合の、ポイントの位置の書き方とか
ポイントを線で結ぶと、グラフにもなる

デカルトは数学者だったので、基準となる公理を考えようと思った
公理とは、数学の前提となるもの
第1公準 : 点と点を直線で結ぶ事ができる
第2公準 : 線分は両側に延長して直線にできる
第3公準 : 1点を中心にして任意の半径の円を描く事ができる
第4公準 : 全ての直角は等しい(角度である)
これを元に計算するという理論?をユークリッド幾何学

この前提が変われば、その前提内で作られた数式は意味をなさなくなる
私達が住んでいる宇宙は、重力によって空間が歪んでいる為、この前提は通用しない。
ユークリッド幾何学

前提が変われば考え方も変わってくる。1+1=2は、その前提の元で成り立つが、前提が変われば成り立たない。
窓に当たった雨水は水滴になるが、水滴同士が重なり合うと、1つになる。この現象を個数という見方だけで観ると、1+1=1になる。
同じように、1個のパン生地を2個に分けると、個数だけを観ると2個になるので、1割る2は2になる。
量自体は2倍になったり半減したりしているが、個数に焦点を合わせるとこうなる。

その為、前提をしっかりとすることは大切。

公理というルールをしっかり決めてしまえば、そのルールによって物事が前に進んでいく
平行線が交わらず、全ての直角が同じ角度の90度なら、四角形の内角を足し合わせたものは360℃になる。
三角形は四角形を斜めに半分に切ったものなので、内角の合計は半分の180度になる。
この様な感じで、ルールを決めてさえしまえば、後は、そのルール上で確かのものを積み上げていくだけで進歩していきます。
この考えを演繹法(えんえきほう)と呼びます。有名なものだと三段論法

デカルトは、この出発点となる公理を探すために、徹底的に様々なものを疑っていきます。

例えば、目に見えている景色や、触った感覚など。
目に見えていて触れるからといって、存在しているとは限らない。
人の感覚は、電気信号に変換されて、最終的には脳へと送られることで感じる 極端な話、脳だけが別のところにあり、そこで何らかの装置で電気信号を送られていても、同じように感じる。
映画で例えるとマトリクス マトリクスの主人公は、現代の世界で生きていると思いこんでいたが、実際には人間電池として閉じ込められていて、首のプラグから電気信号を送られていた。


今の科学でも、世界5分前仮説も覆せない 世界5分前仮説の説明
簡単にいえば、ドラゴンクエストドラクエのゲームの世界には、歴史や人生が詰まっているが、そのゲームの制作にかかった時間が3年であれば、その歴史や人生も含めて3年前に作られている。
これは現実世界にも当てはまり、5分前に全てが作られたとしても反論が出いない

こんな感じで、デカルトはあらゆるものを疑って、疑わしいものを一つ一つ潰していった。
この方法を、方法的懐疑と呼ぶ。
疑い続けた結果、最終的に、疑っている自分だけは疑うことができなかった。疑っている自分が嘘だだとしても、やはりそれを疑う自分がいることになる。
デカルトは、最後に残った『我思う故に我あり』を公理とし、ここから全てを出発させようとした。

この様な、演繹法を使って物事を理性的に考えていこうという考えは、大陸合理主義とよばれて、ヨーロッパで支持されることになります。

しかしデカルトは、ここから超展開をし始める
本を引用すると
『私の存在は確実なのだから、私が明晰に理解したり認識するものも確実に存在する』
っていい出す そして
『なせ私の認識が正しいか。それは、神様が私を作ったからである。神様が作ったのだから、私の認識がきちんとできているに違いない』
と、かなりあやふやで抽象的なことを言い出す

演繹法の考え方や、最初の一歩は素晴らしいのに、次の段階から急に抽象的なものを持ち出してきたので、デカルトは一気に批判にさらされることになります。
このデカルト批判の中から生まれた 哲学体型の一つにイギリス経験論というのがあり、その最終兵器と呼ばれるのが ヒュームという人物