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ホワイトカラーではないブルーカラーからの視点

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿 】第20回 ヒッピー革命(1)

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この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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前回までの放送では、東洋哲学の考え方について観ていきました。
簡単に振り返ると、第8回では、西洋哲学と東洋哲学の考え方の違いについて。第9回~12回では、梵我一如の考え方などを紹介したインドのウパニシャッド哲学でしたね。
そして第15回~18回では、仏教の開祖となったゴータマ・シッダールタという人物について。で、前回は、東洋哲学の考え方から派生した仏教について考えていったんですけれども

今回からの放送では、舞台を近代アメリカに移して、ヒッピーカルチャーについて勉強していこうと思います。
東洋哲学の流れから、いきなりヒッピーカルチャーに話が飛んで、びっくりされる方も中にはいらっしゃるかもしれませんが、実は、ヒッピーカルチャーには東洋哲学的な考え方が関係していたりするんです。
また、ヒッピーカルチャーは現代の私達の生活にも大きな影響を与えているにも関わらず、この辺りのことを余り知らない方も意外と多いと思います。
ですが、知る事で、哲学と日常生活に関連性を見いだせることも有ると思うので『一緒に勉強していただければな。』と思っています。

ヒッピーカルチャーとかヒッピームーブメントと聞くと、ヒッピーという名称しか知らないと言った方も結構多いかもしれませんね。
言葉の意味としては、ならず者とかだらしない者といった感じのイメージをお持ちの方も多いかもしれません。
永井豪さんが書いた漫画にデビルマンというのがあるのですが、この作品では、主人公たちが序盤に悪魔を召喚するのですが悪魔を召喚しようとするのですが、その為の儀式として、サバトが開かれます。
ここで描かれているサバトは、ちゃんとした儀式というよりも、単に酒やドラッグを使用して暴れまわるというものだったのですが、その際に呼ばれた人達が、ヒッピー達だったりしますし、
そこに登場した人達は、特に主張などもなく、ただ単に羽目をはずしていただけなので、そう思われる方も少なくないと思います。

ですが、ただ単純に、だらしがなくて遊びたいだけの人たちの行動に、革命だの、カウンターカルチャーといった名称が付くのでしょうか。
ただ、自堕落な生活を贈りたいだけの人達なんて、いつの時代にも、そこら中に存在しますよね。この日本にだって、存在します。では、彼らは、革命家なのでしょうか。
そんな事はないですよね。では、ヒッピー達は、何故、革命家と呼ばれることになったのでしょうか。

このことを考えるために、先ず、革命について考えてみましょう。
革命とは簡単に言うと、今までの常識をくつがえすことですよね。カードゲームの大富豪というゲームがありますが、このゲームでも、同じカードを4枚集めることによって、革命を起こせます。
これによって、今までは数字の『2』のカードが一番強かったのが、一番弱くなり、『3』の最弱のカードが強いカードに変わります。
これを遊びではなく、現実の世界で考えてみると、王によって支配いされ、貴族が自治権を持っていた状態から、市民によって革命が起こり、国のシステムを大きく変えることを意味します。
この様に、革命とは、今までの流れを変革させようとする行為で、ヒッピー達の行動は、正にそれに当てはまる様なものだったんです。

では、ヒッピーたちは、何を変革させたかったんでしょうか。
それは、今まで自分達を取り囲んで支配していた価値観、その物について、意義を唱えたんです。

具体的にどんな物なのかというと、WAPS。ワスプと呼ばれるもので、これはホワイト・アングロサクソンプロテスタントの略で、簡単に説明すれば、キリスト教を前提とした白人至上主義的な価値観のことです。
これに異論を唱えたのが、当時の若者達だったわけで、その手段も、暴動などの武力というよりは、新たな文化を浸透させるという手段で行ったんです。
今まで支配していた価値観に対し、対抗出来る文化をぶつける。 カウンターカルチャーと呼ばれるもので、意識改革を行っていったんです。

この意識改革なのですが、どの点が、従来の改革とは違うのでしょうか。
ヒッピー革命が起こったのはアメリカなんですが、例えばアメリカに住む黒人が、待遇改善などを求めて起こす反発。デモなどの抗議を起こしたとか、新たな文化を作ったというのであれば、分かりやすいですよね。
今まで迫害されてきた人達が、その待遇に耐えかねて、違った考えを持ち出すというのは、理解しやすいですし、今まで幾度もありました。
しかし、ヒッピーの中心にいたのは黒人たちではなく、白人の若者が多かったんです。白人であるなら、白人至上主義で有ることに、然程、不満もないはずですよね。
それでも起こったというのが、この運動の興味深いところで、従来とは違うものですね。

では、このムーブメントは、何をキッカケにして起こったんでしょうか。このヒッピー革命・ヒッピームーブメント、様々な呼ばれ方がされている運動ですが、具体的に何かをキッカケにして起こったものではありません。
全体を包んでいた空気によって、自然発生的に起こったもので、大きな枠組みとしての主張などはありますが、一つの主張によって皆が動いたというものでもなく、参加した人々は、それぞれの考えを持っていたでしょうし、中には、主張の無い人もいました。
その為、何か1つの出来事をキッカケにして引き起こされたと断定するのは難しいものなんです。
ですが、既にあった空気感や、常識に対する違和感を増幅させて、活動として大きく成長させた出来事は、ベトナム戦争です。

そして、大きくなる前の火種が何処にあったのかというと、これは、いろいろな説があるとは思うんですが、私が思うに、進化論と帝国主義による植民地争奪戦でしょうね。

ではまず、進化論から観ていきましょう。
私は日本に住んでいるわけですが、私と同じように日本に住んでいる人間は、学校で進化論を習ったとしても、特に衝撃は受けませんでした。
確かに、猿から人間に進化するといった説は、驚くべきことなのかもしれませんが、知識として知って驚いたからと言って、自分達の存在を疑うような衝撃を受けるなんてことは、ありませんでした。
これを聞いている皆さんも、そうだと思います。

しかし、この進化論は、キリスト教にとっては、物凄く大きな出来事だったんです。それこそ、革命レベルの出来事と言っても良いのかもしれません。
というのも、キリスト教の世界観では、神は、自分の姿に似せて、土から白人男性のアダムをつくり、そのアダムの言うことを聞くようにと、アダムの肋骨からイヴを作ります。
新世紀エヴァンゲリオンに出てくるキリスト教の設定では、神は、アダムと同じように土からリリスという女性を作ったけれども、アダムの言うことを聞かないので楽園を追放し、アダムの肉体からイヴを作ったなんて言われていますよね。
ちなみにリリスの方はサタンと手を組んで、蛇の使いを楽園に送って、知恵に実をイヴに食べるようにそそのかしたなんて話もありますけれどもね。

余談になりましたが、キリスト教において白人男性は特別なもので、女性はそれに従うものというのは常識だったんです。
また、牛や豚といった家畜は、人間が食べるように神様が作ったもの。この様な感じで、神を模して作られた人間を基準として、世界が作られたというのが、キリスト教の世界観です。

一応、念の為に言っておくと、聖書に、白人が優れているということが書かれていたり、アダムが白人だと明記しているわけではありません。
聖書で主張されていることは基本的には、争いを避けて、皆が道徳的に平和な道を歩んでいく方向に導くようなことが書かれています。
しかし、前回の仏教を取り扱った回でも話しましたが、宗教というのは基本的に、信者が都合の良いように解釈を変えていくものです。
そして、組織が大きくなればなる程、上層部には権力が集中するようになって、その地位を得たものは、既得権益を守るために更に解釈を変えていきます。

解釈を徐々に変えていくことによって、開祖が唱えた大本の主張からはかけ離れたものになってしまいますし、酷い場合には、180度違った解釈になることも有ります。
例えば、イエス・キリストは、信じる者は救われると主張しました。 キリスト教ユダヤ教から派生した宗教で、ユダヤ教の教義では、救われるのはユダヤ人だけでした。
このユダヤ人しか救われないという主張に対し、一種のカウンターを行ったのが『信じていれば、人種は問わず、どんな人間でも救われる』という主張です。

人間の上に、神という高次元の存在を置いて、絶えず監視されているという状態にしておけば、人は隠れて悪事を働きにくくなりますし、犯罪を犯す人間が減る事で、世の中は暮らしやすくなります。
しかし、この解釈も、『信じていないものは救わなくても良い』と曲解すれば、異教徒は殺しても良いことになります。

他にも、モーゼが神から授かったとした十戒には、偶像崇拝を禁止すると書かれていました。
しかし、その考えを踏襲しているはずのカトリックは、十字架や貼り付けにされたキリスト像、その母のマリア像を象徴とし、その偶像に向かって祈りを捧げます。
これは、明らかに偶像崇拝を禁止する項目に抵触しているわけですが、これも、解釈の仕方によって肯定されることになります。

キリスト教に限らず、また、宗教に限らず、企業・国といったものも含めて、組織というのは長い年月が経てば経つ程、腐敗していくものですし、権力者の都合の良いように、解釈を変更することによって考えや行動を変えていきます。

こんな感じで、キリスト教が全盛期の中世では、教会は富と権力を得て、それらの力によって画家を囲い、宗教画を書かせました。
識字率が低い中世では、豪勢な教会や絵画によって、キリスト教の世界観を伝えようとしたのでしょう。
そこで描かれるアダムは白人ですし、ルネッサンス以降、ギリシャ時代の知識が入ってきても、神々は白人として描かれます。
神の使いとして頻繁に登場する天使は、白い翼を持った白人として描かれますし、逆に悪魔はドス黒い表現がされます。
そしていつしか、これは文化になっていき、白と黒は、言葉の上でも意味を含むようになっていきます。ホワイトを含む言葉は良い印象。ブラックが付く言葉は悪い印象と言ったぐあいにですね。

この様な考えが文化として根付いて日常化していくと、黒人を奴隷という商品として使用することにも抵抗がなくなっていきます。
これも誤解の無いように言っておきますが、キリスト教徒の全員がそうだと言っているわけではありません。
黒人奴隷を肯定するような事が聖書に書かれているわけではないので、この行為に対して疑問を持っていた人も、大勢いたんだと思います。
ただ、大部分の人は主張を持たず、周りに流される人達なので、権力を持つものが先導してこの様なイメージを定着させていく事によって、そうだと思い込む人達が増えたのも事実でしょう。

ですが、この考え方が、進化論の登場によって、根本的に変わってしまいます。
人間というのは、神が自分の姿を模して特別に作ったものでもなんでもなく、単に、猿が進化して生まれただけの動物ということが分かります。
女性は、男性の言うことを聞くように、男性の肋骨から作られたわけでもありませんでした。
男も女も、黒人も白人も黄色人種も皆、猿から変化しただけの存在で、人間は特別なものでもなんでもなく、他の動物達と同じものだったということになってしまいました。

こうなって来ると、話が変わってきます。
今まで自分達が、地球上の覇者のように自由気ままにやってきたのは、人間が神の姿に似せて作られた特別な存在で、その周りの環境である世界は、人間が利用する為に作られたものだったからです。
しかし、人間は特別な存在ではなく、山にいる猿と出身が同じ動物に過ぎないとなると、全ての前提が狂ってきてしまいます。
今まで常識とされてきたものが、常識ではなく思い込みだったわけで、人々は生きる指針を見失ってしまいます。

次に大きな影響を与えたのが、帝国主義や、それに伴う植民地争奪戦です。
人は社会を形成する動物で、社会を形成するためには経済活動が必要で、経済活動を活発に行うためには、貿易が必要です。
そんなわけでヨーロッパ列強は、世界各地に侵略戦争を仕掛け、勝った国を植民地として自国の領土としていきました。

その過程でイギリスが手に入れたのが、インドです。イギリスは、イギリス領インド帝国を作り、植民地の一つとしました。
この出来事をキッカケとして、イギリスはインドに眠る東洋哲学の存在を知ることになります。
東洋哲学の思想は、イギリスによって英文化され、ヨーロッパに伝わることになります。

この、イギリス領インド帝国の建国が1858年なのですが、この少し後に、英文化されたインド哲学が出回ることになります。
そして、先程話した進化論は、チャールズ・ダーウィンにより1859年11月に『種の起源』として発表されます。

時代的に考えて、進化論によってキリスト教が前提となる世界観が崩れ、人々がすがる物が無くなった時に、丁度良いタイミングで登場したのが、英訳された東洋哲学の考え方も出来ますよね。
この2つの思想によって、様々な文化が生まれます。

この放送を連続して聞いておられる方はご存知だと思いますが、東洋哲学では、宇宙の根本原理と個人の根本原理は同じものとし、世界全てのものである宇宙を知るためには、自分自身を知らなければならないという梵我一如という考え方が有ります。
キリスト教圏の今までの常識では、世界は神が創ったものですし、人間は、その神が創った特別なものだったわけですが、この考えの前提が狂ってしまったわけですから、世界というものを改めて定義し直さなければなりません。
東洋哲学では、その世界というものは自分の中に存在すると主張しているわけですから、世界を知る為には自分を知る必要が有ります。

ですが東洋哲学では、自分が認識している自分というのは、自分ではないとされています。このあたりの詳しいことは、第9回~18回辺りを聴いてもらいたいのですが、
東洋哲学で言うところの自分。つまりは、アートマンは、自分とはなんだろうと考えた際に、思いつく全てのものを出したとしても、『それは違う』と否定されるもののことです。
逆にいえば、今、目に見えている姿かたちをしている自分や、自分と呼ばれるものに付属している、人種・職業・年収・性別といったものでもなく、魂といった概念的なものでもない存在。
それが、『本当の自分』という事です。 では、『本当の自分』とは何なのか、その存在は、どこに行けば出会えるのでしょうか。

インドでは、本当の自分。 つまり、アートマンの存在を体験として理解した人物で有名な方がいますよね。 それは、ゴータマ・シッダールタ。いわゆるブッダです。
『本当の自分』といったものが、どこにあるのかは分かりませんが、少なくとも、発見した人がインドには存在する。 なら、本当の自分探しの旅の目的地は何処になるのかというと…もうわかりますよね。 インドです。

今まで信じていた世界観が崩壊し、それを埋めるような形でタイミングよく登場した東洋哲学思想。
その影響を強く受けて、本当の自分を探すためにインドに旅立つという文化が生まれることになります。この行為は、従来までの常識をぶち壊す、逸脱する。新たな価値観を作るという行為にも繋がるわけです。
まぁ ただ、偶に日本でも欧米の若者の影響を受けて、インドに自分探しの度に出かけちゃう人なんかもいますが、キリスト教圏の国でもない、神道と仏教がメインの日本に生まれた日本人がインドに出かけたとしても、その影響はかなり少ないと思います。

そして更にいうなら、このコンテンツの第15回~18回でも言いましたが、ブッダの主張の本質は『無我』です。
つまり、アートマンとは無く、本当の自分なんてものは存在しない、また、それと同一である世界なんてものも存在しないという主張なので、どこの国の人間であろうと、どこかに旅に出たからと言って、本当の自分なんてものは発見できません。
何故なら、先程もも言いましたが、本当の自分なんてものは存在しないわけですから。

この様な感じで、進化論は、いままで前提とされていた世界観を壊し、東洋的な思想を受け入れられる環境を作ったわけですが、この進化論は、別の方向への思考も促す事になります。
それについての話は、また、次回にさせていただきます。