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【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿 】第19回 仏教回まとめ

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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前回までの4回の放送で、仏教の開祖となったブッダの考え方を、簡単に解説していきました。
今回は折角なので、仏教について簡単に勉強していこうと思います。

本題に入る前に、前回までのおさらいを簡単にしていきましょう。
ブッダが悟ったとされる真理は、基本前提として、梵我一如の考え方が有ります。
梵我一如は、この世の全てを構成するもの、つまりは宇宙の根本原理と、個人の根本原理が同じものだという考え方ですね。
この世の全てを構成する物と個人が同一のものであるのなら、全てのものを解き明かすよりも、個人の内面を再認識する事が、真理を得るための近道ということになります。

その結果として、ウパニシャッド哲学では、個人の根本原理であるアートマンとは、『非ず、非ず』としかいえないものだという事が分かります。
『非ず、非ず』とは、あらゆる対象と比較したとしても、『そうじゃない、そうじゃない』としか言えないものということです。
自分というものは、ただ現象を観測するだけのものでしか無く、観測するものを観測することは出来ないからです。

では、観測も出来ず、全てのものと比較して『違う』という、アートマンとはどんなものなのかというと、ブッダの解釈では、そんなものは無い。
つまり、アートマンとは無い存在である『無』という事で、アートマンが無いということは、それと同一の存在である『この世の全て』である宇宙も、本質的には無いということになります。
では、実際に感じている自分や、目の前に映る世界というのは何なのかというと、それは、本来ないはずのものに名前を付ける事で、有ると思いこんでいるだけの存在ということです。

例えば、植物の特定の状態だけを取り出して、タネと名付けたり、双葉と名付ける。 成長した植物の一部分だけを取り出して、茎と名付けたり果実と名付ける。
しかし、それらの名前は植物の一連の流れの一部分、それぞれの部位の一部分だけを取り出して名前を付けているだけで、実際にその状態のものが存在するわけではないということです。
これと同じように、人の心も縁起・因果といった、一連の中に存在しているわけですが、その中から特定の感情だけを取り出して、苦痛と名付けてしまうと、その感情を意識してしまう事で苦痛を感じてしまいます。

しかし、実際には縁起、つまり、事が起こる前には何らかの縁があって事が起こり、事が起こったことが縁になって、また事が起こる。
物理現象と同じく、人の心もこの法則に則って移ろいゆくものでしか無く、嫌な感情・不快な感情を感じるという事が起こる際には、その縁となるキッカケが存在するわけですけれども、そのキッカケを遡っていくと
何らかの事に執着していることが縁になっている。 なら、原因となる執着を無くす事で、心なんてものも意識なんてものも無いことが理解できますし、この理解によってこの苦痛の世界から開放される事になります。
また、自分の心や意識なんてものが存在しないのであれば、この宇宙の仕組も存在しないことになり、それまでの世界の前提となっていた輪廻転生といった物もなくなり、再びこの世に生を受けることもなくなる。
つまり、輪廻転生の輪から解脱することが出来るので、カルマに縛られることもないという考え方でした。

要約すると、自分と宇宙とは同じ原理で存在し、その根本部分を探っていくと両方とも無いと言うことがわかったという事です。
両方とも存在しないのであれば、そもそも何かにとらわれるということもないですし、執着することもなくなるということです。

この宇宙も自分も無いというのが理解し難い場合は、夢の世界を想像すると分かりやすいかもしれません。
夢というのは、将来の夢とかそういったものではなく、夜、寝る時に見る夢のことですね。

夢の世界というのは、その世界の中に入り込んでいる状態の時には、そこが夢の中であることに気が付きません。
現実世界と比べて、例えどんなに不思議な事が起こったとしても、夢を見ている自分自身はそれを現実として受け入れますし、その世界を前提として行動します。
自分が高校時代にタイムスリップしていても不思議とは思いませんし、話したこともない人や会ったこともない人とも、友達という設定であれば友達のように接します。
夢を観ている瞬間というのは、それが現実ですし、その世界も確かに存在していますし、その世界を構築するための前提となる法則も、確かに存在はしているのですが、夢から覚めて目覚めた瞬間に、そんな世界は無かった事を理解します。

では、今、私達が過ごしている世界は、本当に現実の世界なのでしょうか。
もし、この現実と思い込んでいる世界が夢なのであれば、何かのタイミングで目覚めた時に、この世界は存在しないという事を知ることになりますよね。
ブッダというのは、日本語に訳すと『目覚めた者』という意味があります。 
この話がバカバカしいと思われる方も多いかもしれませんが、この世界が夢の世界である可能性は、科学的に完全に否定できるものでは無かったりします。 こういう可能性を考えていく事も、哲学の範疇だったりするんですけれどもね。

この考え方を追求すると、ブッダのように悟りたいと思うことによって、悟りに対する執着が生まれますし、その執着によって修行を行うという行動を起こすことで、より執着は強くなります。
修行を行って悟りを得られなければ、自己嫌悪に陥ることにもなります。この様な感じで、ブッダの後を追いかけるように行動を起こす事で、苦しみを感じてしまうことに有ります。
つまり、ブッダの考えを正しく理解すれば、宗教というものは そもそも生まれないということになります。

この為か、ブッダは自分から宗教を起こそうともしませんでしたし、死後の世界や、魔術的な儀式も否定していましたし、寺院などを建設することにも否定的だったようです。
まぁこれは、なんとなく分かる気がしますよね。
そもそも、ブッダが登場する前までは、バラモン教が国を支配していましたし、そのバラモン教が大きな組織を作り、それを維持する為に、カースト制という身分制度を作り
その身分制度を維持するために、カルマやら輪廻転生という理屈を持ち出してきたわけです。

組織は当然のようにピラミッド型になっていて、一部の支配者層が裕福な暮らしをする一方で、大部分の貧民層が苦しんでいるという状態があった。
その世界観に対するカウンターという形で、『そんなもんは無い!』として梵我一如や万物流転などの考え方をミックスした形で、世界に対する新たな解釈を打ち出したわけで…
これを元にして宗教組織を作ってしまうと、自分達が支配階層に取って代わるだけで、構造としては同じものが残り続けてしまいますよね。
にも関わらず仏教という宗教が生まれてしまったのは、ブッダを取り囲む弟子たちが、それを組織化していった事が元になっているようです。

そんな、ブッダを開祖とした仏教という宗教なのですが、その後、大きく分けて2つに分裂することになります。
一つは、大乗仏教。そしてもう一つは、小乗仏教とか上座部仏教と呼ばれるものです。

この2つを簡単に説明すると、大乗仏教は民衆を救うことを目的とした宗教で、上座部仏教は、自身が悟りを開く為に行う宗教です。
この説明だけを聴いてしまうと、なんとなく、大乗仏教の方が民衆に優しい感じがしますし、信じたくなる気がします。
その一方で、上座部仏教の方は、どちらかと言うと自分がブッダと並ぼうと頑張っているだけのような気がしないでもないですよね。

ですが、これまでの放送を聞いていただいた方には分かると思うのですが、ブッダの意見をより忠実に聴いているのは、上座部仏教の方だったりします。
何故かというと、そもそものブッダの主張は、この世界や自分というものが無いという事を、自分自身の体験によって知る事を最重要視していて、その境地にたどり着く事を最終目標としていたからです。
なので、頑張って修行をして、徳を高めて、民衆を救おうと頑張ったり、民衆に信仰心を求めて、寄付金を得るなんて事は、ブッダの主張とは180度方向転換していると言っても良いことなんですよ。

というのも、何かを信じるというのは、信仰の対象に執着することですし、信じることによって救われようとする行為は、信仰対象が存在すると信じていなければ成り立ちませんよね。
しかし、先程から何度も言っている通り、そんなものは無いんですよ。 何故なら、そもそも、信仰対象が存在している世界というものが、そもそも無い存在なんですから。
では何故、こんな事を言い出す必要があったのかというと、ブッダの主張は、大部分の人に理解されることがない程に、難しいものだったからでしょう。

誤解しないで欲しいのは、別にお坊さんをDisってるというわけでは無いということです。
人間というのは、基本的には一人で行きていくことが出来ない動物なので、社会を形成します。そして社会はピラミッド構造の組織へと変化していきます。
仏教というものが始まった時代というのは、この三角形の構造の大部分を占める大衆は、ちゃんとした教育を受けていませんし、論理的に話したとしても、到底、話は通じません。
本のような形で、図形などを入れながら書いたとしても、そもそも字が読めませんし、知識階層と比べて知識のレベルが違いすぎるので、会話も成り立たない状態だったでしょう。

この様な人たちに、梵我一如や無我といったものを説明したとしても、到底、理解することも受け入れることも出来ません。
ですが、本当に苦しんでいる人達は、このピラミッド構造の下層に属する大衆で、この人達こそが、苦しみから開放されたいと願っているわけです。
この様な人たちに対して、『苦しみなんていうのは錯覚で、そんな物は無いんだよ。』と説明したところで、理解されることはありません。
『腹が減っているという感覚が錯覚で、本来はなかったとしても、現に今、お腹が空いているんだよ! なんとかしてくれ!』って反論されて終わりですよね。

では、この様な人たちを救おうと思った場合は、どうすれば良いのかというと、神秘的なものにすがるしか無いですよね。
例えば、お経を唱えなさい。この文字には、聖なる力が宿っているので、このお経を唱えたり、書き写したりする事で救われますよ。というしかないんですよ。
じゃぁこれは、苦し紛れに出したでっち上げなのかというと、実はそうでもないんです。

というのも、全てのものは存在しない、錯覚だというのがブッダの主張なのですが、それを簡単に実現させることが出来るのが、読経や写経だったりするんです。
人間というのは基本的に、やるべき事が有って忙しい時というのは、何も考えずに没頭して行う一方で、暇な時や考える余裕がある時は、いろんな事を考えてしまいます。
例えば、絵を描くとかゲームするといった、趣味に没頭しているときというのは、時間が経つのも忘れますし、お腹が減っているという感覚も忘れたりして、ご飯を食べないなんてこともあったりします。

これを応用すると、お経を読むとか写経をするといった感じで、ある程度の時間、没頭できるものというのを提案して、それに打ち込めるような環境を作り出すということは、少なくとも、それに夢中になっている間は、苦しみから開放されていることになります。
皆さんの生活を思い起こしてもらえば、心当たりの有る方もいらっしゃるとは思いますが、暇な時間が有るから、余計な事、些細な事が目についてしまうんです。
『忙しく体を動かしているときでも、腹の立つことは有るよ。』と反論される方もいらっしゃると思いますが、それは、体が忙しいだけで、実際にはルーティーンワークになっていて、頭は暇で考えることがない状態というだけです。
なら、頭のなかでお経をヘビーローテーションさせるなどして、考えるので忙しくしてしまえば良いわけです。そうする事で、頭の中はお経でイッパイにはなりますが、そこに雑念が入り込む余地は無くなるので、雑念で満たされるよりはマシという考え方ですね。

大乗仏教が生まれたその他の理由としては、実際にブッダという存在によって、救われた人が大勢いたということでしょう。
ブッダは、何かしらの悩みを持つ人達の相談に積極的にのっていたようですし、それによって実際に悩みや苦しみから開放された人間も多くいたようなので、その人達の間では、救世主と崇められていたんでしょう。
そんなブッダが寿命を迎えて亡くなると、信者によってドンドン神格化されていき、『ブッダは、より多くの人を救いたいと思っているはず!』と思うようになり、より多くの人を引き入れられるような仕組みを作っていったんでしょう。

ちなみに、日本に伝わっている仏教は大乗仏教で、そこから色んなアレンジがされて、様々な宗派に分かれていたりします。
そして、多くの人に実践してもらえるように、敷居もドンドン下がっていくことになります。お経は、短いとされている般若心経でも200文字以上ありますが、それも変わっていき、短いものだと『南無阿弥陀仏』という6文字まで短縮されます。
修行を行わなくても、貧しいものに施しをする事で徳を積めるようになります。 この施しは、日本の場合は貧しいものというのが、お坊さんに置き換わって、お布施を渡すと良いという免罪符的な感じになっていくんですけどね。
その最たるものが戒名システムで、死んだ親族があの世で高い地位なれるようにと、高いお布施を渡す。つまり、あの世の地位を金で買うような方向に変わっていっているので、ブッダの主張とは、かなりかけ離れたものになっていっているようにも思えますね。

そんな日本の仏教なんですが、面白い考え方が有るので、最後に紹介して、この回を終わろうと思います。
それは、前に簡単に紹介した、悪人正機(あくにんしょうき)という考え方ですね。

南無阿弥陀仏というのは、ブッダ、つまり悟りを開いた人というのは、ゴータマシッダールタ以外にもこの世には何人もいて、『南無阿弥陀仏』と唱えることで、その一人の阿弥陀様が救ってくれるという、
他人の力によって願いを成就する他力本願という考え方です。
この教えに、「“悪人”こそが阿弥陀仏の本願(他力本願)による救済の主正の機根である」という言葉が有ります。
機根(きこん)とは、仏の教えを聞いて修行しえる能力のこと。また仏の教えを理解する度量・器のことで、これを有するのは悪人だという教えです。

簡単に言うと、『善人じゃなくて、悪人こそが救済するに値する』と言っているわけで、善人よりも悪人の方が良いと言っているわけですが、何故、悪人のほうが良いのかというと、悪人の捉え方が違うからなんです。
私たちは、倫理観などに基づいて、他人を観察することによって、善人や悪人と言ったレッテルを貼っていきます。
しかし、悪人正機でいう善悪の基準は、他人が倫理や道徳に基づいて決めるのではなく、自分が決めるんです。

この放送でも、結構前に、アリストテレスの国家観について話した際に、人間は良いと思っている事しか出来ないといった話をしましたね。
ここでいう良いという基準は主観的なもので、例えば快楽殺人者は、殺人を我慢する事によって受けるストレスよりも、他人を殺すことによって得られる快楽のほうが自分にとって善いと考えるから殺人を犯すわけです。
他の例でいうと、スポーツ観戦などに行った際に、自分の出したゴミは持ち帰る、もしくはゴミ箱に捨てるほうが善いと思っている人は捨てるし、そんなことをしたら、ゴミ清掃員の仕事がなくなり、下手をしたら失業者を産むと考える人は、
放置したほうが善いと思って放置する。
多くの人は、数ある選択肢の中から、善いと思ったものを選んで実行しているので、善い行いばかりをしている事になります。そして、善い行いをしている人は当然、善人という事になってしまいます。

その一方で、自身を悪人と思う人間というのは、どのような人間なのでしょうか。
自身を悪人と思うということは、過去に善いと思って起こした行動が間違っていたということを自ら認め、反省した人間ということになります。

こうした観点から観ると、善人というのは、自分の欲望のまま、思いつくままに行動し、その行動に何の疑問も持たない人間ということになり、逆に悪人は、自分の過去の行動を吟味し、間違いがあった場合は受け入れている人間ということになります。
両者を比べた場合、どちらが救済される勝ちがあるかといえば、悪人ですよね。
これは、善悪を主観で観るか客観で観るかによって起こる逆転現象で、哲学的な考え方ですよね。
ただ、普通に読むだけでは確実に解釈が間違われて、誤解されるだけなので、庶民に普及する際には『南無阿弥陀仏』と唱えておけば良いとだけ、教えているそうですけどね。

という事で、長く続けてきた東洋哲学シリーズですが、ここで一旦終了して、次回からは、近代・現代のカウンターカルチャーについて、考えていこうと思います。